Seiji Ninomiya (二宮正治)

Let me tell "JAPAN NOW"

二宮正治の短編小説 若者物語 太郎の青春日記 第33回

2011-01-31 03:16:55 | 日記
 昭和四十九年四月太郎は大学三年生になった。授業の教授陣を見て太郎はうなった。
「日本でも有数の人達だ。何で東洋大学にこんなに集まっているんだ」
 太郎は不思議でしようがなかった。
「一流の教授に教わる学生、アホ学生」
 太郎は自分で歌を作ってみんなに聞かせた。
「ほんとだ、ほんとだ」
 みんな笑いながら手拍子をたたいた。
「この時期は太郎の人生の中で一番楽しい時期だったのだ」
 ゼミの仲間に太郎は言った。
「恐ろしいまでに一流の教授がそろっているが、これはあの勝海舟先生の力のおかげか」
 この問いかけに、
「それは関係ないだろう」」
 と仲間は答えた。
「なんでこんなに一流の先生が揃うんだ」
 太郎のさらなる質問に、
「東洋大学の底力だ」
 と仲間は言う。
「へえ、底力ねえ。そんなもん、今まで聞いたことも見たこともない」
 太郎の言葉に仲間は笑った。
ただ、この一流の教授陣を見て太郎は野望を持ち始めた。

二宮正治の短編小説 若者物語 太郎の青春日記 第32回

2011-01-30 02:42:49 | 日記
 昭和四十八年プロ野球が閉幕した時、太郎の生まれ故郷の球団広島カープは最下位だった。
「毎度おなじみの位置だ、別にどうという事はない」
 これが太郎の偽らざる心境だった。
昭和四十八年の暮れ、太郎は歩いて板橋から東洋大学のある文京区白山まで行った。
「もう少しで三年生か。時の経つのは早いなあ」
 こう実感した。
この日太郎は専門分野の産業連関論の講義を受講していた。担当の新田教授は東大系の学者である。
 新田先生は授業の中で、
「君達広島東洋カープというプロ野球球団を知っているか、近未来にこの球団の黄金時代が来るだろう」
 この教授の言葉に学生はどっと沸いた。無理もない、今まで殆ど最下位か五位だったからだ。
 太郎は、
「教授は何アホな事を言ってんだろう」
 と思った。
「野球を知っているのか」
 とも考えた。
学生の笑いをよそに、
「広島東洋カープは他球団に先駆けコンピューターで野球のデータ管理をしている。あと数年でその成果が出る」
 こう続けた。また学生がどっと沸いた。
「何バカな事言ってんだ。二年連続最下位じゃないか」
 みんなの顔がそう言っている。
「まあ見ていろ、あと数年だ。日本の最高の頭脳が勝たせるのだ」
 この教授の言葉に今後は学生達は失笑した。
(この二年後昭和五十年に広島東洋カープがリーグ優勝する事など誰も予測していなかった。新田教授以外には)

二宮正治の短編小説 若者物語 太郎の青春日記 第31回

2011-01-29 02:09:46 | 日記
「もし東京大学の教授が実力がなくて、アホ教授だったら学生は可哀相ですよね」
 太郎の問いかけに、東京大学のO.B.は、
「そういう事、アホ学生しか作れないと言う事」
 と涼しい顔をして答えた。
「これが日本の現実か」
 太郎はため息をついた。
「じゃあ、本当の経済の仕組みを知っているのは、東京大学とその息がかかった一部の私立だけと言う事ですか」
 この太郎の問いに、これまた東京大学のO.B.は、
「そういう事」
 と答えた。そして、
「東洋大学で学べる事を感謝しろよ」
 と付け加えた。
「ほんとですね」
 と太郎は返事を返した。
「あの落合君(原中日監督落合博満氏)がいたら喜ぶだろうになあ。(彼は一年生の時に学校をやめた)今頃何をやってるんだろう」
 太郎は一年生の時に印象に残っていた同級生の事を思い出していた。

二宮正治の短編小説 若者物語 太郎の東京日記 第30回

2011-01-28 03:18:09 | 日記
 東洋大学に入学した頃は太郎は、
「東洋大学はお坊さんの学校で哲学が売り物の学校」
 これくらいにしか思っていなかった。
だが二年生になり専門分野が増えてくると、その授業の濃さに太郎は舌を巻いたのである。
 その凄さは、
「早稲田、慶応どころか本家の東大をもしのいでいた」
 それもそのはずだ。
「日本の第一人者が教えているのだから」
 当然他大学が逆立ちしても知り得ないような情報を惜しげもなく学生に教えてくれたのだった。
 ある時太郎は教授に聞いた。
「先生なんで東京大学で教えないんですか」
 この太郎の言葉に、
「教えているよ」
 と答えが返って来た。
「何で日本で第一人者が東洋大学の教授で東京大学では単なる非常勤の先生なんだ」
 この疑問には、太郎の知り合いの東大OBが答えてくれた。
「これには東京大学の複雑な事情があるんだ。実力があるから東京大学の教授になれるとは限らない」
 太郎はこれを聞いて、
「東京大学の学生も可哀相に」
 と心の底から同情したのである。

二宮正治の短編小説 若者物語 太郎の東京日記 第29回

2011-01-27 01:34:21 | 日記
 昭和四十八年頃、東洋大学は移転問題でもめていた。
「埼玉県の鶴ヶ島のキャンパスに全面移転計画」
 が進行していたのである。
この鶴ヶ島と言う場所、板橋からでもやたらに遠く当時二時間は掛かったような記憶がある。
 太郎は一年生の時体育の授業で週一度この鶴ヶ島に通ったが、
「楽ではなかったのである」
 東洋大学はこの鶴ヶ島のキャンパスを川越キャンパスと呼んでいた。
「鶴ヶ島と知っていたら東洋大学には進学しなかった」
 学生はみな異口同音にこう言ったのだった。
学生達は口々に、
「移転反対」
 と叫んでいた。
結局学生達の主張が通り文京区白山キャンパスは存続となったが、
「もしあの時移転していたら、今日の東洋大学の栄華はなかったであろう」
 学生不人気大学の十位以内に入るようになったはずだ。
「大学は東京の屋根の下がいい」
 これは太郎の本音である。