現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

会津藩家老「西郷頼母」って?

2021-06-26 21:56:14 | 会津藩のこと

1/2 新春ワイド時代劇『白虎隊』では、家老の「西郷頼母」が
主役に据えられるそうです。


「西郷頼母」は、藩主「松平容保」が京都守護職を拝命した時には、
「火中の栗を拾うようなもの」と諌め、鳥羽伏見の後も、ひたすら
恭順を説き、いよいよ西軍が福島に迫るとなると、白河口の総大将
でしたが、あっさりと敗れて退却。そして、籠城戦のさ中、長男
「吉十郎」を連れて、会津から出奔して 行くへ不明となる。
どちらかというと、パッとしない存在ですが、それが、今回主人公と
なるのですから、どのように取り上げられるのか、難しいところです。


この長男「吉十郎」は若死にしてしまうため、「志田四郎」を
養子にします。この養子が「姿三四郎」のモデルとなった
「西郷四郎」です。

西郷頼母は、その後、養子の「四郎」とも疎遠になり、最後は、
会津の長屋で独り淋しく74歳の生涯を閉じました。なぜ、
講道館で頭角を現してきた志田四郎を養子にして、その後
疎遠になったのかが謎でした。

どうやら「西郷頼母」は、今日の「合気道」の元祖らしいのです。

西郷頼母は、会津藩に伝わる合気術の伝承者で、それを四郎に
継承しようとして養子にしたが、四郎が柔術の道に進んだことで、
疎遠になった」という説が浮上してきました。
このことを、いつかマスコミで取り上げて欲しいですね。


もひとつ、噂話。「西郷頼母」と 薩摩の「西郷隆盛」は、
先祖が同じで、お互い「血脈」も「気脈」も通じていたと
いうのです。

明治10年、福島県の都々古分神社の神主をしていましたが、
西南戦争で蜂起した「西郷隆盛」を支援したという理由で
解任されます。

会津藩の家老「西郷頼母」。会津征討総大将が「西郷隆盛」。
「たかもり」と「たのも」。「隆盛」は 実は父親の名前で、
本名は「吉之助」。「頼母」の子の名は「吉十郎」。そして
双方とも、遠祖は「菊地」氏。戊辰戦争で、ひたすら「反戦」を
唱えたのも「西郷隆盛」と「気脈」が通じていたからではと、
疑われた、なんて話はまだありましぇん。私の推理です。



郡長正割腹の真相

2021-06-26 19:44:26 | 虚無僧日記

郡 長正(こおり ながまさ)を知っていますか?

郡 長正は会津藩家老 萱野 長修の次男として生まれるが、明治2年父が会津戦争の責任を負って自害すると、お家断絶。郡姓に改姓した。

明治3年豊前豊津藩(旧小倉藩)の藩校 育徳館に留学する。
ところが、翌明治4年5月、郡 長正は育徳館の寮で自害して果てた。遺書はなく、戦前の書物では「母親に寮の食事の不満を述べた手紙を同輩に見られたことを恥じての自害」とされてきた。
 
数年前ですが、小倉から行橋、そして豊津(現 みやこ町)へと虚無僧で旅してきました。目的地は、みやこ町にある郡長正の墓参り。そして旧豊津中学(現育徳館)内にあるという郡長正の碑を訪ねたのですが、在校生に訪ねても誰も知らないというのでがっかり。失望して帰ってきました。
 
「郡長正」の話は、私も幼い頃から母に聞かされており「食べ物の不足はいってはならない」と教えられてきました。
昭和16年に亜細亜書房から出された狭間祐行著「維新秘史 会津戦争」も読んで感銘を受けました。
 
 
しかし、子供心に「長正が食べ物の不足を母に愚痴るはずはない、そんな事で腹を斬るわけがない」と疑問に思っていました。
 
ところが平成15年宇都宮泰長氏によって「会津少年郡長正自刃の真相」という本がだされ、納得です。
 
その場に居合わせた豊津藩・育徳館の人たちの子孫たちが語り伝えていた真相です。「母親への手紙」というのは作家の創作。当時明治4年郵便制度はまだ未発達で、母親との手紙の往還などあり得ないということです。
 
育徳館に留学した仲間に「神保修理の子神保岩之助(長正とは従兄)がおり、長正が鳥羽伏見の敗因を作った神保修理を責めたたりして留学生同士の喧嘩が始まった。その仲裁にあたった豊津藩の生徒に対して、長正は「小倉(後に豊津)藩は長州に攻められた時、城を捨てていち早く逃げたではないか」とやじった。これに対して、豊津藩の中川三郎が「いや逃げたのではない。町人たちが戦火に巻き込まれるのを避けるため、ここ豊津まで移動して、長州を相手によく戦い、持ちこたえた」と説明した。そして「会津藩も山間部で戦えば、冬までの持久戦になって被害も少なかったであろう」と。長正の父萱野長修はまさに、越後口の山間部で戦っていた。長正は「それみろ、父は正しかった」といってまた仲間内の争いがはじまった。また、中川三郎は「豊津藩は会津戦争後、猪苗代から数百名の会津藩士を東京までの護送の任にあたった。その苦労は筆舌に尽くし難い。豊津藩としては会津に同情して厚遇したが、脱走する者が後を絶たず、当藩は責任を問われた。諸君らは戦争の勝ち負けを今更論じても始まらない。学業にいそしみ、会津藩を再興すべきだ」と諭した。その言葉に長正は深く反省し「豊津藩に暴言を吐いたことを詫び、殿様にあやまらなくてはいけない」と神妙になった。それを心配して、長正を一時家老宅に預けたが、寮に帰したところで、また仲間同士言い争いとなり、その晩、長正は腹を切ったというもの。
 
「食事がまずい」と母に送った手紙を読まれて「会津の死に損ない」とやじられ腹を切ったというのは、後世の作家の作り話。私はこうした作為に憤りを感じます。
今、復元された日新館内にこのような展示があるそうな。真相が分かった今、このような展示はやめるか、真相を書くべき。それを頑固に変えようとしないのが会津人の気質か。
だから私は、復元された会津武家屋敷も日新館も飯盛山も行きません。崇高なる武士道が、嘘でかためたお涙頂戴の観光売り物にされることに、私は辟易します。
 

6/26 「ハーメルンの笛吹き男」の伝説

2021-06-26 15:48:28 | 虚無僧日記

今日6月26日は、ドイツのハーメルンの町に笛吹き男が現れて、町中の子供達を連れ去った日。

ドイツ、ハーメルンの町の伝承

1284年6月26日、カラフルな色の派手な衣装をまとった男が笛を吹きながらやってきた。すると、その笛の音に引き寄せられて家々から子供たちがぞろぞろ出てきて、彼の後に着いて行った。そして130人の少年少女たちが町の外に出ていき、二度と戻ってこなかった。

この話は、1300年頃にハーメルンのマルクト教会にのステンドグラスに描かれたのが最初。

以降、グリム童話等で脚色され、日本にも伝わった。日本では、次のように語られている。

ハーメルンの町で鼠が大繁殖し、人々を悩ませていた。ある日、派手な服を着た男がやって来て、「鼠を退治してあげよう」と。それで、町の人々は彼に報酬を約束して、鼠退治を頼んだ。すると、男が笛を吹くと、町中の鼠が集まってきて彼の後に続いた。男は笛を吹きながら川の中に入っていくと、鼠も続いて川にはいり皆溺死してしまった。ところが、鼠を駆除したのに、町の人々は約束を反故にして報酬を払わず、男を町から追い出した。

そして6月26日の朝、大人たちが教会に集まっている間に、男が町にやってきて、笛を吹くと、町中の子供たちが笛の音を聞いて彼の後に続き町の外に出ていった。男は郊外の山の中腹にある洞窟の中に子供たちと入っていき、出てこなかった。驚いた町の人々は、彼に謝り、報酬を払って子供たちを取り返した。

と、いわゆる❝勧善懲悪❞の話になっている。嘘をついてはいけないという教訓話だ。

実は私は子供の頃、この話を絵本で読んで異常な興味を覚えた。そしてある日、家の前に虚無僧が現れた時、私は虚無僧の後に続いて隣町まで着いて行った経験がある。そして大人になって虚無僧をしながら、いつもハーメルンの笛吹き男と自分をダブらせる。私の尺八で何人の子供たちを引き寄せられるだろうかと。

私の尺八にはそれだけの力がある。無ければならないと。

 

 


6/25 龍馬を斬った男・今井信郎の命日

2021-06-25 11:26:43 | 虚無僧日記

今井 信郎(いまい のぶお) 天保12(1841)年~大正7(1918)年6月25日

27歳の時、剣の腕前を買われて見回組入隊を命ぜられ、慶応3年10月に上洛。その1か月後の11月15日近江屋を急襲し、坂本龍馬暗殺に加わった。その後、函館戦争まで加わり、捕らえられ、投獄される。

明治3年(1870年)取り調べを受けた際、今井は「龍馬暗殺には見張り役で、直接手は下していない」と証言。禁固刑の判決を受け、明治5年(1872年)1月に赦免された。その赦免には西郷隆盛の力があったとのこと。

明治10年の西南の役では、警察隊を率いて鹿児島に向かい、政府に寝返って西郷に加勢する計画だったとのこと。西下途中戦争が終結したことで断念し、静岡に戻った。

このことから、「坂本龍馬暗殺を指示した黒幕は西郷隆盛ではなかったか」との説も出る。

明治11年(1878年)、旧幕臣による大井川南方の牧之原一帯の開墾に従事。榛原郡の農事会会長に就任した。明治28年(1895年)、榛原郡農会と改称されたが、明治34年(1901年)までの20年間、会長職を勤めた。明治34年(1901年)、学務委員就任、入植地の初倉尋常小学校の教育に関わった。明治22年(1889年)より3回、村会議員に当選、明治39年(1906年)から3年間、初倉村長を勤めた。

そして最晩年になって、「坂本龍馬を斬ったのは自分である」と明らかにした。その他、今井信郎の妻「イワ」の証言、見回り組隊長佐々木只三郎の兄「手代木直右衛門」が臨終に際して語った証言で、今井信郎が龍馬を斬ったことは疑いない。

今井信郎の当初の証言は「龍馬暗殺の実行犯は佐々木只三郎をリーダーとする京都見廻組の7名。襲撃したのは三名で、佐々木只三郎、今井信郎ら四名は見張りを行っていた」と。その三名は鳥羽伏見で戦死しており、責任が他に及ばないようにする保身の内容だった。

明治42年(1909年)12月17日、大阪新報記者和田天華の質問に対し、今井が語った内容。

1 暗殺ではない。公務であった。幕府(京都守護職)の命令に依り、職務を以って捕縛に向かい、格闘したるなり。

2 新選組は関係していない。自分は「京都見回組」の与力であった。

3 坂本龍馬は、伏見寺田屋で同心3名を銃撃し、逸走したる罪の為なり。

4 場所は、京都蛸薬師角、近江屋という醤油屋の二階なり 


6/25 宮城道雄の命日「浜木綿忌」

2021-06-25 09:30:21 | 筝尺八演奏家

今日は何の日。今日6月25日は宮城道雄の命日浜木綿(はまゆう)」。

「浜木綿」は宮城道雄の遺作となった曲名。それを記念しての命名。

宮城道雄は、紀州の実業家・小竹林二氏と親交があり、たびたび白浜を訪れていた。そして白浜に因んだ「浜木綿」という詩を作り、自ら曲をつけた。

温泉の匂ひほのぼのと
もとおりきたる鉛山の
これの小径いくめぐり
今平草原にわれはたたずむ
かぐわしき黒潮のいぶき
妙なる浜木綿の花のかおり
うずいして一握の砂を掌に掬べば
思いはかの千畳敷三段壁
はては水や空なる微茫の彼方につらなる
ああ常春のうるわしき楽土よ
時に虚空にあって聡に鳶の笛澄む
朝もよし木の国の白良浜やこれ

宮城道雄 自ら作詩、作曲した曲はこの「浜木綿」が唯一。

昭和31年(1956)6月4日、「宮城道雄先生詩碑」が完成し、その除幕式が行われ、「祝賀記念演奏会」が白良浜ホールで行われた。

この像については、大変不評であった。

宮城道雄氏は、ふだんのしぐさは建常人と同じで、盲人と思わせなかったという。

昭和31年6月4日、この像の除幕式に、宮城道雄と姪の喜代子、数江も列席した。幕を引いて現れたのは、等身大の宮城道雄?の像。眉をゆがめ、壁を探すように手を差し伸べている。いかにも盲人とわかる像に、喜代子、数江は不快感を顕わにした。

「宮城先生は、歩かれる時も普通の人と同じです。こんなぶざまな格好はしません!」と、作り変えを要求したそうな。

それでか、宮城道雄 没後40年たって、平成5年9月、詩碑のそばに宮城道雄の胸像が建てられた。

白浜での公演の20日後、宮城道雄は再び東海道線に乗って関西に向かった。
そして、6月25日、刈谷駅手前で、列車から転落して亡くなった。
いかに盲人とはいえ、列車のデッキのドアとトイレのドアとを間違えるはずはない。というのが事故説を否定する理由のひとつ。
さすれば、自殺か他殺か!

 


6/25 宮城道雄の命日「浜木綿忌」 転落死の謎

2021-06-24 20:02:07 | 筝尺八演奏家

今日は何の日。今日6月25日は宮城道雄の命日浜木綿(はまゆう)

1956年(昭和31年)6月25日未明、宮城道雄は、東海道線夜行寝台急行「銀河」に乗って大阪に向かっていた。そして午前3時頃、愛知県刈谷市の刈谷駅手前で、

列車から転落。

 東刈谷駅の手前、三河線のガードのところに横たわっていた

午前3時半頃現場を通りかかった貨物列車の乗務員から「線路際に人のようなものを見た」という通報を受けて現場に向かった刈谷駅の職員に発見され、豊田病院(現・刈谷豊田総病院)へ搬送されたが、午前7時15分に病院で死亡が確認された。救助時点ではまだ意識があり、自らの名前を漢字の説明まで入れて辛うじて名乗ったと伝えられる

私は、その少し前、母に連れられて、歌舞伎座での宮城道雄の演奏を観ていた。今でもはっきりと覚えている。私は宮城道雄の演奏を直接見たことがある最後の世代かも)

それだけに、新聞・ラジオで宮城道雄の死が報道された時、世間が大騒ぎになったことをよく記憶している。

その後の宮城会の大分裂騒動も知っている。ところが今それをネットで検索しても全く出てこない。宮城道雄の死は「盲人にしては方向感覚が鈍く、誤って転落した」と片付けられている。これには宮城会からの相当の圧力がある故であろうか。

「宮城道雄、死の真実」を明かせば、邦楽界から抹殺される。でも関係者は皆故人となったので、ここで書かずにいられない。

宮城道雄には実子が無く、妻の姪「牧瀬数江、喜代子、芳子」の三人を養女にしていた。

道雄は末娘芳子を特にかわいがっていた。そして一番弟子の小野衛(まもる)と芳子を娶せ、婿養子にとり宮城衛となった。宮城衛は点字楽譜を出版したり、尺八もよくし、宮城道雄の後継者として認められていた。ところが、芳子が早世し、その後、衛が尺八家の兼安洞童の娘と再婚するとなって一大騒動が起きた。芳子の姉の喜代子と数江が猛反発し、衛を追放し、自分たちが宮城会宗家となった。「衛が宮城会の金を使い込んだ」とか警察に訴え、衛は刑務所に入れられ、「衛の罪状を挙げて、衛は宮城会と一切関係がない」との新聞広告までデカデカと出した。そして宮城(小野)衛と親しかった会員も全員追放。それは私の師 堀井小二朗はじめ、尺八家・邦楽家にも及んだ。(というわけで、私は今でも宮城会とはお付き合いしていただけません)

数江、喜代子の宗家横奪に反目した松尾恵子とその夫であり宮城会の副会長だった松尾清二氏はじめ、宮城道雄直門の幹部も宮城会から離れ独立した。

さてそこで、宮城道雄の死の真相、といってもあくまで推測にすぎないが、

宮城道雄は婿養子の(まもる)と数江、喜代子の争いに心を痛め、ノイローゼになっていた。当時はラジオ放送もまだ生放送。亡くなる直前のラジオ放送ではめずらしくミスをした。心そこに在らずの状態だったという。

喜代子、数江は、道雄の収入で高価な宝石や着物を買い身につけていたが、宮城道雄には古い紋付を着せていたという。ある時(喜代子だったか?)、箏の稽古の時、宮城道雄が「指輪をはずしなさい」と注意したという。盲目でも喜代子が大きな宝石のついた指輪をしていることがわかったのだ。

 

そこで、自殺説

宮城道雄は盲人とはいえ、トイレと列車のドアを間違えるはずがない。ドアを開ければ当然猛烈な風が当たる。「道雄は酒好きで、寝る前に酒を飲んでおり、酔いを醒ますために、ドアを開けて涼んでいたのでは? そして揺れた拍子に振り落とされた」ともいわれるが、現場は直線で揺れることはない。

救出された時、「ここはどこですか、私は列車から落ちたのですか? どこかへつれていってください。名古屋は近いですね」などと話していることから、自殺の意思は確認できない。大阪公演をボイコットするはずもない。とすると、デッキで涼んでいて、誰かに突き落とされた。他殺説。

列車には付き添いとして姪の喜代子が乗っていたが、朝7時、乗務員に呼び出されるまで「道雄が居なくなったことを知らなかった」という。いつもは「道雄が夜中にトイレに行くときは必ず付き添っていた」というのにである。一番疑われる立場だが、それについて言及したものは一切ない。

もっとも、この前後、三件だったか、この近辺で列車転落事故が起きているという。盗み目的か、突き落とす犯人がいたのかも。

悲しき記録

http://web.archive.org/web/19990824195159/http%3A//www.sinfonia.or.jp/~manfan/kanasiki.html

 

 


美空ひばり 壮絶な最後

2021-06-24 19:35:30 | テレビ・映画・芸能人

昭和の大歌手「美空ひばり」

1989年6月24日午前0時28分、特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発により死去。52歳だった。

 

だがそこに至るには数々の病気との戦いや、荒れた私生活があったという。

ひばり44歳の1981年、実母・喜美枝は転移性脳腫瘍で、68歳で他界。

ひばりの2人の実弟、かとう哲也(1983年)と香山武彦(1986年)も42歳の若さで後を追う。

今の世としては、皆短命だ。

肉親の死で精神的にも落ち込んだひばりは、1987年4月に極度の体調不良で緊急入院。重度の慢性肝炎、特発性大腿骨頭壊死症と診断され3ヶ月半芸能生活を休止する。

47歳、1985年5月、ひばりの「誕生日記念ゴルフコンペ」のプレー中に原因不明の腰痛を訴える。

49歳、公演先の福岡市で極度の体調不良に陥り緊急入院。重度の慢性肝炎(肝硬変)と両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され、入院療養。明治座の公演中止となる。

退院後も肝機能は回復せず、大腿骨頭壊死の治癒も捗々しくなく、病状は一進一退。

50歳の1988(昭和63)年4月、東京ドームでの復帰公演。痩せ衰えた体をかろうじて支え、脚の激痛に耐えながらも全39曲を熱唱。体調は悪化していたものの、ドーム公演後の10か月間、13カ所の全国公演、テレビ番組収録などに精力的に挑む。

 51歳、1988年12月25日、26日は帝国ホテルで生涯最後のクリスマスディナーショー。

年が明け、1989年1月7日に昭和天皇が崩御し、元号が「昭和」から「平成」へ移り変わった日、ひばりは「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに」と短歌を詠む。明日の自分は、今日の自分に勝ちます」――。

3日後の1月11日、『川の流れのように』のシングルをリリース。だが、特発性間質性肺炎はかなり進行し、ひばりを苦しめる。

2月6日の福岡サンパレス公演で、持病の肝硬変の悪化によるチアノーゼ状態になるが、コンサートを強行。1100人の観衆を前に全20曲を熱唱。

翌2月7日、北九州市小倉にある九州厚生年金会館での公演が、生涯最後のステージになる。

 会場の楽屋では、酸素吸入器と医師が控える。肝硬変が急変すれば、食道静脈瘤が破裂し、吐血寸前の病態に追い込まれる。以後、横浜アリーナのこけら落とし公演に執念を燃やすが、自宅療養を余儀なくされる。

 だが、3月21日にラジオのニッポン放送の『美空ひばり感動この一曲』と題する10時間ロングランの特集番組に自宅から生出演。番組終盤に生涯最後のコメントを残す。

「ひばりに引退は有りません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ」

 


6/24 美空ひばりの命日 林檎忌 麦の日

2021-06-23 13:46:17 | 虚無僧日記

6月24日は「麦の日」???

麦畑にはヒバリが巣をつくりピーチクパーチク。ヒバリといえば「美空ひばり」。

つまり「美空ひばり」から「麦の日」だそうだ。

そして「林檎忌」とも。「リンゴの木」ではなく、美空ひばりのヒット曲「リンゴ追分」から「林檎忌」だそうです。

美空ひばりは、

1937年(昭和12年)5月29日、神奈川横浜市磯子区に生まれる。本名は加藤和枝(かとう かずえ)。

1946年(昭和21年)の9歳から劇場に出演、1948年(昭和23年)に歌手デビュー、「天才少女歌手」として評判となる。翌1949年(昭和24年)、映画『踊る竜宮城』に出演し、その主題歌『河童ブギウギ』でレコードデビューを果たす。

『悲しき口笛』(1949年)、『東京キッド』(1950年)など主演映画とその主題歌が次々にヒット。1952年(昭和27年)映画『リンゴ園の少女』の主題歌『リンゴ追分』では当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる。

1954年(昭和29年)、『ひばりのマドロスさん』で第5回NHK紅白歌合戦に初出場。江利チエミ、雪村いづみとともに「三人娘」として人気を博す。その後、熱狂的なファンの少女に塩酸をかけられるなど、不運の時期を経て、「歌謡界の女王」と称される存在となる。

52歳で死去。女性として初めてとなる国民栄誉賞を受賞。

全作品は1000曲以上に及び、その他の代表曲に『哀愁波止場』(1960年)、『柔』(1964年)、『悲しい酒』(1966年)、『川の流れのように』(1989年)などがある。

 

 

 


6/23 沖縄戦終結の日

2021-06-23 04:03:37 | 虚無僧日記

今日6月23日は 昭和20年(1945) 沖縄守備軍司令官牛島満が自決し(前日22日との説もあり)、沖縄戦が終結した。

以前、知人から「今なお、屍とともに生きる沖縄戦、嘉数高地から糸数アブラチガマへ日比野勝広」という本をいただいた。(発行:夢企画大地 名古屋市東区 052-712-0706 )



内容は、沖縄戦で負傷し、ガマ(洞窟)の中に置き去りにされ、沖縄戦が終わってからも3か月も暗闇の中にとじこめられながら奇跡的に助かった日比野勝広さんの回顧録だが、4人の娘さんたちがそれぞれに戦後の父の生き様を書き綴っている。
娘たちの視点で書かれているということが、話題になって、TVでもとりあげられた。わずか140ページ。ぐいぐい引き込まれてイッキに読んだ。

日比野さんは沖縄線で負傷し、ガマ(洞窟)の中に置き去りにされた。

暗闇の中で半年、日比野さんが救出されたのは9月。死体と汚物と蛆。言語に絶する壮絶な地獄から奇跡的に生き残った日比野さんは、戦後全国各地の戦友の遺族を訪ね、友の最期の様子を伝えようとするが、遺族からは
「なぜあなただけ助かったのか」と責めたてられる。
「逃げたのではない、置き去りにされたのだ」という心の葛藤に苦しめられる。

そして2009年亡くなるまで110回以上も沖縄を訪れ、各地の戦跡を回って戦没者の慰霊を続けてきた。

 

戦後60余年を経てもまだ夜の闇をこわがり、寝る時も電灯をつけたまま。それでも夜中に「お~い、お~い」と叫び声をあげ、夢にうなされる父親の姿を見て育ってきた娘4人。それぞれの父への思いが また感動を呼ぶ。

昭和39年東京オリンピック、「もう戦後は終わった」と叫び、国旗日の丸」を掲げようという愛国運動が起きる。町内回覧で国旗の斡旋があったが、日比野家だけは買わなかった。
「うちは貧乏で買えないのだ」と思い続けていた四女。後になって母から「日の丸を振って送り出した人が みな帰ってこなかった。だから日の丸を見ると悲しくなる」と聞かされる。母には、父との結婚前に婚約者がいたのだ。その人を日の丸の旗を振って送り出した。そして帰らぬ人となったのだった。

糸数アブラチガマ

全長270mのこのガマ(自然洞窟)は日本軍の地下陣地となり、戦況が悪化すると南風原陸軍病院の分室として使用された。およそ600名の負傷兵が運び込まれ、軍医、看護婦とともにひめゆり学徒が看護にあたった。その後、5月25日に撤退命令が出されると、破傷風や脳症に苦しむ重症患者が置き去りにされ、空気穴から入ってくるひと筋の光に生きる希望をつなげ、45人の住民と7人の負傷兵が奇跡的に生き抜いた。日比野さんはその一人。


6/22 奥羽列藩同盟成立

2021-06-21 22:30:13 | 虚無僧日記

今日は何の日。6月22日は旧暦の5月3日。慶応4年(1868)の今日、奥羽列藩同盟が成立。5月6日には長岡・新発田等越後の藩も加わる。それで後世の史書では「奥羽越列藩同盟」と書くが、そのような同盟が交わされたことはなかった。

正月の鳥羽伏見の敗走。徳川慶喜の恭順謹慎、江戸の無血開城によって、薩長新政府としては、振り上げた刀をおろす先を会津・荘内二藩に向けた。新政府の武威を示さねば明治の新政府は務まらなかった。

会津藩としては徳川慶喜同様ひたすら恭順の意を示したが、新政府は無視。あくまで武力攻撃の姿勢を曲げなかった。

閏4月11日、奥羽14藩は仙台藩領の白石城において列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」を奥羽鎮撫総督に提出した。しかしこれが却下される。

世良修蔵の暗殺

奥羽鎮撫総督府の下参謀世良修蔵は、開戦の口実を作る為、仙台藩家老を愚弄し「奥羽皆敵」との感情をむき出しにした。それに激昂した仙台・福島の藩士が世良修蔵を惨殺した。

これによって新政府軍の会津・荘内攻撃は決定的となり、会津・荘内救援のために、奥羽23藩による盟約書が調印された。翌4日には、越後長岡藩が、6日には新発田藩等の北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による奥羽越列藩同盟が成立した。

奥羽越列藩同盟の旗、五芒星の謎。この旗がいつ誰によって作られたのかは、全く不明。戦闘で掲げられることは無かったかと思われる。