現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「相撲は国技」は詐称

2020-01-25 19:46:32 | 社会問題

先日クイズで「剣道、柔道、野球、相撲のうち国技は?」というのがあった。                            正解答は「すべて国技ではない」。理由は、「国技に関する法律が無い」から。

女性が土俵に上がったことで「国技論争」が起きたが、                                   
そもそも相撲は『国技』ではありません。
かつての文部省に見解を尋ねたところ、文部省としても
「相撲を国技と定めた事実はない」との回答でした。


「土俵は丸いのに “角界”とはこれいかに?」
「角界とは、中国の武術の力比べを意味する『角力』
からきているそうで、名称からして「日本の国技」では
ないことになります。



貞奴を救ったのは虚無僧

2020-01-25 19:42:02 | 虚無僧日記

犬山城のある愛知県犬山市から木曽川を渡れば、そこは
岐阜県の各務原(かがみはら)市の鵜沼(うぬま)。
JR鵜沼駅から国道21号線を北へ歩くこと1時間。
昭和8年に、マダム貞奴が私費を投じて立てた「貞照寺」
あります。結構大きな寺で、貞奴は昭和21年に亡くなり、
ここに葬られています。桃介より立派な墓です。

貞奴は「不動明王」を信仰していたそうで、今は、犬山の
成田山の管理下にあります。

その本堂の外側に、貞奴の生涯が見事な木彫りで描かれて
います。その3枚目。

「貞奴が19歳の時、箱根の山中で悪漢に襲われた時、
不動明王の威徳で、忽然一人の「普化僧」が現れ
暴漢を追い払った」という解説なのですが・・・・・。

この彫り師は、「普化僧」が「普化禅師を始祖と仰ぐ虚無僧」
のこととは知らなかったようです。普通の托鉢僧になって
います。ザンネン。昭和8年頃でも「虚無僧=普化僧」と
いうことは一般には知られていなかったのですね。

今ではもっと誰も知らない。誰も「おかしい」と気づいて
くれない。寺務所の留守居の人にその旨話したのですが
「それがどうした?」てな顔で、全く無視されてしまい
ました。そこで尺八をホロホロと吹いて供養してきました。

日本最初の女優として名を馳せた「貞奴」でしたが、
昭和13年にパトロンでありビジネスパートナーだった
福沢桃介に去られて以後、淋しい晩年だったようです。
そんな貞奴を偲ばせるような淋しいお寺です。みなさん、
ぜひお参りに行ってください。


南京虐殺は 中国国民党の仕業だった

2020-01-24 23:20:28 | 太平洋戦争

2012年の中国での新聞記事のようですが、誰もとりあげないようなので、


<「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉>

1月27日に歴史評論がネット(http://www.kdne.net)で流れた。

開国少将というペンネームの作者は、外祖父が自分の日で見た

南京大虐殺という文章を発表している。外祖父から聞いた話として。

彼は四川省の貧農の出身で、1928年に国民党に捕らえられて

兵士にさせられ、1937年の南京陥落前夜に少尉に昇格、

日本軍の猛烈な攻撃に「首都を守れ・国父を守れ」という

スローガンで防衛するよう命じられた。しかし日本軍の

進攻を食い止めることなど出来ず、南京城から撤退する

こととなった。

部隊は列車を何両か手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。

その時、一般の民衆が老人や子供の手を引きながら列車に

乗り込んできた。大勢が列車の屋根にも乗っていた。

日本軍はすぐ近くまで迫っている。このままでは、国民党の

兵士たちは逃げることが出来ない。

誰かが「日本軍が来たぞ」と叫び、国民党指揮官は列車に

乗り込んだ民衆に列車から降りろと怒鳴った。

誰も従わないので、指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。

兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに

顔を見合わせていた。

指揮官は兵士たちに、「もうすぐ日本軍が来るのだから、

民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだ」と言って、

一斉射撃を命じた。

あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まった。

約1千人の南京市民が、国民党の兵士たちの銃弾を浴びて

死んで行った。

国民党の部隊が逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、

それは日本軍の残虐行為として喧伝された。

外祖父の話では、他の部隊も同様のことをしてきたという。

全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として

転嫁されたのである。外祖父は国民党が貧乏人を虫けらのように

扱うことに抵抗があったという。外祖父は、逃亡する道を選んだ。

そして裏切り者といわれることを恐れて、経歴を隠して逃げ

回った。その過去の真実を、外祖父は死ぬ前になって初めて

語ったのである。「南京大虐殺は自分自身が犯した罪である」と。


さもありなん。十分考えられる。私の父も「敗走していく中国兵と

一緒になって行軍していた。もはや彼らは戦意喪失しているので、

撃ち殺すようなことはしなかった」と語っていた。


「賢い中国人、愚かな日本人」? 自滅記事

2020-01-24 23:12:52 | 地球人類の問題
中国のインターネット上に、「日本人の“愚かさ”と中国人の“賢さ”」と
題する文章が掲載された。 

日本の地下鉄の駅の改札には、頑丈な柵のような設備や、乗客を監視する職員はいない。
そのため、日本では無賃乗車が容易である。大手を振って正面突破をすれば、
何事もなく地下鉄に乗り込むことができる。 

だから、無賃乗車をする客は後を絶たない。日本人はバカだな。もっと頑丈な装置を
設置すれば、無賃乗車をする人なんていなくなるだろうに。それに、改札で誰も監視
していないなんて。
中国人は確かに賢い。他人よりも得をしたり、規則の穴を見つけるのに長けている。
 
 
という内容。はて、日本では無賃乗車なんかする人はいない。
日本人は「性善説」。信用を重んじる。それを“愚か者”と言う中国人は、ますます
世界の笑いもの、嫌われ者になるか。
 
最近、日本を旅行した中国人の“驚きの感想”が たくさんアップされている。
どれも、信用、礼節を重んじる親切な歓迎ぶりを絶賛している。
 
それをいいことに、中国から詐欺団や窃盗団が多数来ているとか。騙されやすい日本人。
騙されても “気にしない、気にしない、平気平気” の心は、見上げたものでござる。
世界に誇れる日本人。

磐之媛の嫉妬が語るもの

2020-01-24 23:01:43 | 虚無僧日記

北見志保子の「平城山」の歌詞に端を発して、古代史の疑問が次々に。

北見志保子は平城山にある「磐之媛」の稜の前でこの歌を詠んだ。

「平城山」は 京都と奈良の境の小高い山。「磐之媛」は「仁徳天皇」の后。

仁徳天皇の后の稜がなぜ京都と奈良の境の平城山にあるのかが第一の疑問。

仁徳天皇といえば、その御稜は堺にある。世界最大の前方後円墳として知られる。

仁徳天皇の都は「難波」。現在の大阪。「平城山」からは ほど遠い。

 

『日本書紀』の記述では、

磐之媛皇后は 豊楽の酒宴のために、紀伊国へ柏(かしわ)の葉を採りに

船で出かけた。その間に仁徳天皇は八田皇女を妃として宮中に召し入れた。

皇后は難波まで帰って来て、この事を知り、怒って、柏の葉を海に投げ捨て、

難波から淀川を遡り、木津川へ入り、筒城岡の南(現京田辺市)に宮を造って

住まわれた。

天皇は皇后の所へ迎えの使いを送るが、それも追い返してしまう。そこで、

天皇自ら迎えに行くが、それでも皇后は会おうともしなかった。

 
さて、「日本書紀・古事記」の記述は、相互に若干異なるところがある。
また、何かを故意に隠蔽しようとして作文されているというので、記述
通りには読めない。
 
磐之媛が、難波から遠く離れた南山城に移り住んだということの裏には、
政治的社会的な何かが含まれているのではないかと云うことである。
 
そこは、渡来人か多く移住した土地であり、「磐之媛」は、その渡来人の
援助を受けて、宮を建て移り住んだ。(筒城は現京田辺市多田羅、
同志社大学のある辺り。タタラは製鉄の民の住んだ所)。
 
 
そして第二の疑問は、仁徳帝には何人かの側室がいた。磐之媛は、
「八田皇女」にのみ 特別な拒絶感を示したという話に嘘がかくされている。
 
磐之媛は、葛城襲津彦の娘で、皇女ではない。臣下から后となった最初の女性である。
磐之媛が生んだ子は、履中天皇反正天皇允恭天皇と三人が天皇になっている。
 
対して八田皇女は、応神天皇の娘で、仁徳天皇とは異母妹になる。母が違えば
兄妹でも結婚は許された。日本書紀では八田皇女が仁徳帝の后になることは
約束されていたという。八田皇女の母は、宇治の木幡に居を構えていた和珥の
日触使主の娘だった。
 
だから、八田皇女の背景には和珥(ワニ)氏という強大な勢力があった。ワニ氏は
渡来人であり、紀州から南山城に地盤を築いていた。磐之媛が移り住んだ地は
実は、そのワニ氏の勢力内。磐之媛は、“嫉妬相手”の?八田皇女のバックに
あるワニ氏の援助を受けていた。
 
この矛盾はどう解釈したらよいのだろう。磐之媛が柏の葉を採りにいったという
紀伊はもともと、ワニ氏の出身地。ワニ氏は紀州から、山城(京都)に移り、
双方に地盤を築いていた。磐之媛が「紀伊に柏の葉を採りに行った」というのは、
仁徳帝の命によって、まず紀伊の渡来人の協力を得に行ったということを、
暗に語っているのではないか。
 
そして磐之媛は、紀伊から山城に行き、ここでも渡来人の援助を得た。
 
 磐之媛が亡くなった時、磐之媛は出身地の葛城ではなく、ワニ氏の勢力下の
平城山に葬られた。そして媛の亡き後、八田皇女は仁徳帝の後后となった。
 
仁徳帝は磐之媛と八田皇女の二人のおかげで、ワニ氏を強力な味方につけた。
そのワニ氏とは  「太陽神を崇拝するイスラム系の渡来人である」と、最近
言われている。
 
さてそれなのに「磐之媛」が「八田皇女」に嫉妬したというのは、記紀の作者の
勝手な思い込みなのか、あるいは、もっと何か深いものを隠蔽しようとしたのか。
それが謎なのである。

「千住明、真理子」兄妹も「劣等感のかたまり」だった。

2020-01-24 22:50:36 | テレビ・映画・芸能人

2004年TBSテレビで放映された「中居正広」主演のドラマ
『砂の器』。あのテーマ音楽にはしびれた。それで はじめて
作曲家「千住明」を知った。中森明菜の大ヒットカバー・アルバム
『歌姫』シリーズをすべて手掛け、累計100万枚の売り上げを
記録させているとのこと。

兄は日本画家の「千住博」(京都造形芸術大学学長)。妹は
ヴァイオリニストの「千住真理子」。

そして、この三兄弟妹が中学から慶応とは知らなかった。
兄たちは男子校の普通部、「千住真理子」は男女共学の
「中等部」。先輩には、ピアニストの「中村紘子」がいる。

さて、以前、作曲家の「千住 明」とヴァイオリニストの
「千住真理子」が NHKラジオ番組で対談していた。

二人とも「慶応の中学に入って、周りはすごい人ばかりで
劣等感のかたまりだった。劣等感があったから頑張れた。
劣等感は必要。劣等感は人を強くする」と語っていた。

かく云う私も「小学校始まって以来の“神童”」と言われ、
慶応の中等部に入ったものの、上には上がいて、もう
みじめ、みじめ。劣等感のかたまりでした。
それで「尺八」に のめりこんだのでした。
尺八ならライバルがいない。自分の土俵で相撲がとれる。



「城山」と「城山三郎」

2020-01-19 18:51:13 | 地球人類の問題

「城山」といえば鹿児島の西郷さんが立て篭もった
「城山」が有名ですが、名古屋市千種区にもあります。
標高43mの小山ですが、「織田信長」の父「信秀」が築城した
「末森(盛)城」の跡です。「信秀」亡き後、信長の弟「信行」が
城主となりますが、「信行」は「信長」によって謀殺され、
以後廃城となります。


作家の「城山三郎」氏は、本名「杉浦英一」でしたが、
ここ「城山」に住み、作家活動にはいった時、ペンネームを
「城山三郎」と決めたとか、名古屋に来て知りました。

先日、覚王山から本山辺りを虚無僧で廻った時、寄って
みました。山頂には「城山八幡宮」があり、なかなか
風格のある社でした。

途中には「武道館」があり、朝起会の会場ともなっています。
 
「城山三郎」は、戦局急を告げる昭和20年4月、
自ら志願して海軍に入隊。「伏龍」部隊に配属になり、
訓練中に終戦を迎えたのでした。

城山三郎の小説『硫黄島に死す』「基地はるかなり」
「軍艦旗はためく丘に」「着陸復航せよ」などの題名からは、
勇ましい軍国主義者かと思っていましたが、「伏龍」の
愚かしい体験から「護憲左翼」だったのこと。

「日本が戦争で得たのは憲法だけだ」とは「城山三郎」の
言葉でした。
 
 
 


竹内文書に書かれた「五色人」

2020-01-18 20:59:33 | 虚無僧日記

「五色人」の画像検索結果

 「竹内文書」には、世界は五色で構成され、五色の人がいる。

黄人(きひと)は、日本人を含むアジア人。

赤人(あかひと)は、ネイティブアメリカンやユダヤ人等に少し見られる。

青人(あおひと)は、肌が青白い。現代には存在しない?

        一説にはオーストラリア人とも。

        「赤鬼、青鬼」として伝わる。

黒人(くろひと)は、インドの原住民族やアフリカ人等。

白人(しろひと)は、白い肌やプラチナ、ブロンドの髪をしたヨーロッパ人。

  

熊本県上益城郡山都町にあ幣立神社(へいたてじんじゃ)には

五色人のお面がある。

神社の伝承によれば、太古の時代、この地において地球上の全人類、

赤色人種、青色人種、白色人種、黒色人種、黄色人種の祖神(大祖先)が集まり、

御霊の和合をはかるための儀式を行ったという。

 

本州最北の津軽と九州、両端に、同じような伝承があることは

どう考えればいいのか。

奇しくも、オリンピックのシンボルマークは、青、黄、黒、緑、赤の五色で

それぞれ五大陸を表しているとか。

「五色人」の画像検索結果

 


戦後最大の真贋論争 『東日流三郡誌』

2020-01-17 09:21:03 | 地球人類の問題

「東日流」と書いて「つがる」と読ませる。青森県の「津軽」のこと。
『東日流外三郡誌』とは、1970年代に、青森県五所川原市の「和田喜八郎」が、
「自宅を改築中に天井裏から落ちてきた」として公開した古文書。

数百冊にのぼる膨大な文書で、「古代の津軽地方には高度な文明が
栄えていた」という内容。

「遮光器土偶」の姿をした「荒覇吐(アラハバキ)」という一族も
登場する。

古代「邪馬台国」についても詳細な記述があり、人々を驚かせた。

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「太古に於いては日本海は湖で、南北の海洋はみな陸で支那、韓土に
続いていた。よって北方から渡って来たものが多い。流鬼国の流鬼族、
日高国の毛奴呂族、東日流の阿曽部族、出羽陸奥国の津保化族、坂東国の
宇津味族、越国の那賀美化族、信州の津耶那族、山城の津止味化族、
因州の伊都毛族、大和の那津味化族、淡津の賀止利族、南海道の狼族、
備州の荒味化族と宇津奴族、筑紫国の猿田族と熊襲族、琉球国の高砂族
があった。これら諸族の人数は二百五十万人で、二百万人は北方渡来民と
云われる。ここから安住の国造りを成したのが耶馬台国の那津味毛族である。
この一族に三人姉妹の霊媒師があらわれ、その名を日神子(ヒミコ)、
地神子(チミコ)、水神子(ミミコ)という。彼女等は大衆に神の
崇拝を説くカミクラヤ(神殿)を築き、耶馬台五畿七道の民はことごとく
寄せ集まった。耶馬台国とは日の本国の称号で、流鬼国、日高国、
日高見国、坂東国、越国、出雲国、信濃国、耶馬台国、南海道国、
筑紫国、高砂国、東日流国のことを云う。
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と、偽書にしては驚くべき想像力と創作力。さらに中世については

「十三湊(とさみなと)」は、源義家に滅ぼされた「安倍貞任」の
遺児を祖とする「安東氏」が支配する「安東国」の首都で、満洲や
中国・朝鮮・欧州・アラビア・東南アジアとの貿易で栄えていた。
中国人・インド人・アラビア人・欧州人などが多数の異人館を営んで
いて、カトリックの教会もあった。北朝鮮と接する中国(旧満州)の
「安東」(現、丹東市)は、安東氏が中国に築いた国という。

しかし、1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)または1341年
(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)の大津波によって、十三湊は
壊滅的な被害を受け、安東氏政権は崩壊したという。


「十三湊」は、津軽半島の日本海側ほぼ中央にあり、岩木川の河口に
形成された「十三湖(じゅうさんこ)」の西岸に位置する。平成3年
以降発掘調査が行われ、13世紀初頭から15世紀後半に栄えていた
広大な遺跡群が確認された。しかし、津波の痕跡は発見されていない。

発掘調査によって、中世までかなり栄えていたことが確認された
にもかかわらず、『東日流外三郡誌』は、今日では「偽書」とされる。

「偽書」とする理由は、「原本」が無く、すべて和田氏の筆跡。
用語に現代語がある。紙が明治のものもある。紙を古く見せるために
使用したとみられる「尿」を貯蔵していたなどなど。

次から次と「古文書」が出てくるが、和田氏の邸宅は 昭和の建築で、
屋根裏から落ちてくるはずがない。これだけ膨大な史料を隠す
スペースも無かったことが、NHKの取材で明らかにされている。


さて、真贋論争が決着したはずだったが、1999年に和田氏が
亡くなった後、2006年、和田氏の遺品の中から、寛政時代に
書かれたという「原本」が発見され、さらに新たに『東日流
“内”三郡誌』までが出たきた。しかし、これも和田氏の祖父の
筆跡に似ているという。

どうしてこうも後から後から出てくるのか、まったく、せっせ
せっせと書き続けた和田氏の祖父とは 何者なのか。なにせ、
ダーウィンの進化論やビックバンまで登場するので、相当の
知識と想像力、創作力が要求される。その能力は小説家より
すごい。

しかしその中には、考えさせられる伝説もあるのである。
 


南朝の末裔「熊沢天皇」と「竹内文書」

2020-01-17 09:15:48 | 地球人類の問題

私が生まれ育った家(目黒区祐天寺)の近くに「熊沢天皇」の
家があった。「熊沢天皇(=熊沢寛道)」のことは、もう
知る人も少なくなったが、戦後、「吾こそは南朝の正統なる
皇位継承者である」と名乗り出て、昭和天皇に退位を迫った
人物である。

1889年(明治22)生まれ。1966年(昭和41)77歳で
亡くなった。名古屋の北、一宮の「熊沢大然」の養子となり、
「三種の神器」を継承した。それで、名古屋では、熊沢天皇の
話題がたまに出る。東京の家は、どうやらお妾さんの家だったらしい。

「熊沢」氏の主張によれば、「熊沢家は、南朝の後亀山天皇の子孫で、
尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだ。南朝9代目の天皇
「熊野宮信雅王」に始まる家系で、熊野宮の「熊」と 奥州の地名
沢邑の「沢」をとって「熊沢」姓を名乗った。


その「熊沢」氏は、『竹内文書』を所持していたという。
その「竹内文書」ほか宝物 4,000点は、どういう経路か、福島県
双葉郡葛尾村の「光福寺(後に観福寺)」という南朝方の寺に
保管されていたが、明治中期に「斎藤慈教」という虚無僧によって
盗み出された。その後、1920年(大正9年)に、「竹内巨麿」が
古物商から買い取ったものと主張している。

一方「竹内巨麿」は、「武内宿禰」の子孫と称し、「竹内文書」は
神代の昔から、4代ごとに書き写してきたものと主張し、1910年
(明治43)、「竹内文書」と神宝類を「経典」として、茨城県の
磯原に「皇祖皇太神宮」を建立し、「天津教」を開いた。
「熊沢天皇」が所持していて盗まれたものという主張に 反論した
形跡が見られないのが不思議。


「竹内巨麿」が「竹内文書」や神宝類を一般に公開するように
なったのは1928年(昭和3)だから、「1920年(大正9年)に
古物商から買い取ったというのも、可能性はありそう。
それにしても、南朝と虚無僧の奇妙なつながりをここにも感じる。


「竹内文書」の内容は、世界的、壮大なスケールで、原始
神の宇宙創成から神々の地球降臨、人類の誕生、二度にわたる
超古代文明の興亡、日本皇統の始まりを伝える。

これには多くの学者が「偽書」とし、「明治になって創作された
もの」という鑑定結果が出されている。

『古事記』『日本書紀』や中世の正当な歴史書とはまったく
かけ離れた荒唐無稽な内容で、今日、信ずる者はいないが、
それにしても、これを書いた人の想像力、超能力には驚かされる。