源義朝の正室で頼朝の母、熱田神宮の宮司「藤原季範」の娘が
「由良御前」だそうだ。紀伊和歌山の「由良」と関係があったのだろうか。
紀州由良には「実朝の菩提を弔うために建てられた」という興国寺がある。
日本に普化宗を伝えたのは興国寺の開山「法燈国師心地覚心」と、
虚無僧と興国寺を結びつけた『虚鐸伝記国字解』は、巻頭に
「阿野家に伝えられた」と書かれている。
「阿野家」の祖は、なんと「源義経」の兄「阿野全成」なのだ。
「常盤御前」が生んだ長子「今若」は、醍醐寺に預けられ、
「阿野全成」となる。頼朝の挙兵に、寺を抜け出して駆けつける。
「義経」の名声に隠れて、全く知られていないが、
「阿野全成」の妻は、北条政子の妹保子(阿波局)。
その「阿波局保子」は、頼朝の二男「実朝」の乳母となる。
「阿野」の子孫が、後醍醐天皇の后「阿野廉子」。
NHK大河ドラマ『太平記』でもでてきた。
「阿野廉子」の子が南朝の二代目「後村上天皇」である。
後村上天皇によって「南朝・興国」という年号が定められ、
紀州の「西方寺」が「興国寺」と名を変える。
実朝と北条政子の菩提を弔うために建てられた「西方寺」が
南朝の「後村上天皇」の信任を得るとは、いささか奇妙。
「由良、阿野、実朝、後村上天皇、森女、一休」というキーワードが、
「興国寺」そして「虚無僧」とつながる。この細い1本の線から、
由良の興国寺が、なぜ虚無僧の本山とされたのか。
その謎をぜひ解き明かしてみたい。