広島・長崎への原爆投下は、戦争を終結させたいと願う天皇とその側近にとって、本土決戦を主張する「徹底抗戦派」を封じ込めるためのシナリオだった。
しかし、その被害の大きさ、悲惨さは想定外で、終戦1ヶ月も過ぎると、被害報道は禁止された。
しかも、「今後70年は草木が1本も生えないだろう」との噂を否定し、アメリカからの調査団が、早々と「放射能の汚染は無くなった」と発表し、生き残った人も次々と原爆症で死んでいく事実が伏せられたのである。
マッカーサーは「アメリカは原爆被害者の救援をする必要はなし」と日本政府に通告し、日本政府は、スイス、ジュネーブの国際赤十字からの救援を断ったという。
アメリカは、原爆の被害を他国に知られたくなかった。「原爆がいかに人道場許せない結果を招いたか」などと、世界にアッピールされることは、アメリカにとっては、対ソ外交上も不利であったからだ。
もう一つは、原爆の効果を測るデータは、アメリカだけの極秘にしたかった。生き残った人たちの証言は、「病院に行けといわれて、てっきり治療してもらえるのかと思ったら、全身裸にされて、じろじろ見られ、被爆した時の場所、爆心地からの距離などを細々聞かれただけだった。その後も定期的に病院に行かされたが、その都度、病状の経過を測定するだけで、治療はなにもしてもらえなかった」という。
こうして、治療も受けられず、毎日何人もの人が死んでいった。もっとも、原爆の治療法など、当時のアメリカも判らなかった。広島・長崎の被爆者は、原爆症のモルモットにされたのだ。
その代償として、天皇の地位は保全され、国体は護持され、日本はアメリカの統治によって、ある意味では信じられないほどの“恩恵”に浴することになった。
破壊しつくされた広島
爆心地から4㌔離れて残った旧陸軍病院宇品分院。ここで181冊の報告書になる最初の調査が行われました。
収容された被爆者は、2ヶ月間でのべ6,000人を超えました。
大本営の指揮の下、宇品での調査を指揮したのは陸軍省医務局です。
原爆投下から2日後の8月8日、広島に調査団を派遣し敵国アメリカが使った新型爆弾の調査にのりだしていました。
調査の結果は1冊の報告書にまとめられました。
タイトルは「原子爆弾に依る広島戦災医学的調査報告」
・ 被爆した人がどのように亡くなっていくのか放射線が体をむしばんでいく様子が詳細なデーターとともに記載されています。
・ どのように進行していくのか
証言者 沖田博(89才)さん
広島の部隊にいて爆心地から1㌔の兵舎で被爆。突然異変が現れ宇品に運ばれてきまし た。治療を受けられず毎日検査ばかり続いた。
報告書には沖田さんの記録も。危険な様子が克明に記録されている。
回復の過程も調査の対象にされた。2ヶ月間調査「モルモットだった」と言います。