現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

⑨ 8/14 臼杵へ

2009-08-20 07:04:53 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
午前中、県立図書館に行って、西南戦争関係の書を調べてみた。
「ある村の古老の聞き書き」に「警察隊の人たちは大金を持っていた。
お茶汲みをしただけで、女子供にも2円3円と小遣いをくれた。
戦死した人の懐には200円もあった」という記述を見つけた。
現在の米の価格で比較換算すると150万円くらい。当時の平均
月収は1円だったという記録もあり、大変な額だ。

私の頭の中で「会津戦争の死に損ないと“生き恥”を晒すよりは、
“戊辰の復讐!”の大義をかざして、死に場所を求めて行った」と
言われているが、そうではなく、戊辰戦後の生活窮乏から、
“生きるために”、高額の報酬を求めて、参加したのではないか。
警察隊への応募は“生きるため”だったのではないか」と、
考えが180゜変わった。


そこで、予定変更して臼杵まで車を走らせた。大分から臼杵まで
約30km。カーナビは狭い山道へと誘導していく。

ひと山越えて、臼杵の町にはいる。城もあり、武家屋敷も観光用に
残る風情のある町だった。

市役所観光課で、西南戦争に詳しい職員から説明を受けた。
薩摩軍は日向(宮崎)からも、この豊後臼杵に上ってきた。
当時、臼杵城は取り壊されていたので、警察隊と旧臼杵藩士族は
市内の大橋寺(だいきょうじ)を本陣(宿所)にしていた。そこへ
6月1日、薩摩軍が来襲し、警察隊と臼杵藩士族隊が散々に敗れた。
竹田の薩摩軍も臼杵まで来、山中で官軍と戦って勝利している。
西南戦争というと、熊本城の攻防と田原坂の激戦だが、反対側の
宮崎、大分でも激戦があったのだ。

なぜ臼杵なのか? 臼杵は港町だった。官軍の軍艦も来ていた。
山室五郎は、東京から船で小倉を経由し、臼杵まで輸送されて
きたようだ。薩摩軍は、その軍艦を奪おうとしたのか。
この頃まで薩摩軍が形勢有利だったのだ。

さまざまな思いを巡らしながら、臼杵の町を尺八吹いて廻った。
お盆休みで、店はすべて閉まっており、人影が全くない。どこへ
行ってしまったのだろう。お布施はゼロ。

再び、激戦のあったという山道を抜けて大分の護国神社にもどる。






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