午前中、県立図書館に行って、西南戦争関係の書を調べてみた。
「ある村の古老の聞き書き」に「警察隊の人たちは大金を持っていた。
お茶汲みをしただけで、女子供にも2円3円と小遣いをくれた。
戦死した人の懐には200円もあった」という記述を見つけた。
現在の米の価格で比較換算すると150万円くらい。当時の平均
月収は1円だったという記録もあり、大変な額だ。
私の頭の中で「会津戦争の死に損ないと“生き恥”を晒すよりは、
“戊辰の復讐!”の大義をかざして、死に場所を求めて行った」と
言われているが、そうではなく、戊辰戦後の生活窮乏から、
“生きるために”、高額の報酬を求めて、参加したのではないか。
警察隊への応募は“生きるため”だったのではないか」と、
考えが180゜変わった。
そこで、予定変更して臼杵まで車を走らせた。大分から臼杵まで
約30km。カーナビは狭い山道へと誘導していく。
ひと山越えて、臼杵の町にはいる。城もあり、武家屋敷も観光用に
残る風情のある町だった。
市役所観光課で、西南戦争に詳しい職員から説明を受けた。
薩摩軍は日向(宮崎)からも、この豊後臼杵に上ってきた。
当時、臼杵城は取り壊されていたので、警察隊と旧臼杵藩士族は
市内の大橋寺(だいきょうじ)を本陣(宿所)にしていた。そこへ
6月1日、薩摩軍が来襲し、警察隊と臼杵藩士族隊が散々に敗れた。
竹田の薩摩軍も臼杵まで来、山中で官軍と戦って勝利している。
西南戦争というと、熊本城の攻防と田原坂の激戦だが、反対側の
宮崎、大分でも激戦があったのだ。
なぜ臼杵なのか? 臼杵は港町だった。官軍の軍艦も来ていた。
山室五郎は、東京から船で小倉を経由し、臼杵まで輸送されて
きたようだ。薩摩軍は、その軍艦を奪おうとしたのか。
この頃まで薩摩軍が形勢有利だったのだ。
さまざまな思いを巡らしながら、臼杵の町を尺八吹いて廻った。
お盆休みで、店はすべて閉まっており、人影が全くない。どこへ
行ってしまったのだろう。お布施はゼロ。
再び、激戦のあったという山道を抜けて大分の護国神社にもどる。
「ある村の古老の聞き書き」に「警察隊の人たちは大金を持っていた。
お茶汲みをしただけで、女子供にも2円3円と小遣いをくれた。
戦死した人の懐には200円もあった」という記述を見つけた。
現在の米の価格で比較換算すると150万円くらい。当時の平均
月収は1円だったという記録もあり、大変な額だ。
私の頭の中で「会津戦争の死に損ないと“生き恥”を晒すよりは、
“戊辰の復讐!”の大義をかざして、死に場所を求めて行った」と
言われているが、そうではなく、戊辰戦後の生活窮乏から、
“生きるために”、高額の報酬を求めて、参加したのではないか。
警察隊への応募は“生きるため”だったのではないか」と、
考えが180゜変わった。
そこで、予定変更して臼杵まで車を走らせた。大分から臼杵まで
約30km。カーナビは狭い山道へと誘導していく。
ひと山越えて、臼杵の町にはいる。城もあり、武家屋敷も観光用に
残る風情のある町だった。
市役所観光課で、西南戦争に詳しい職員から説明を受けた。
薩摩軍は日向(宮崎)からも、この豊後臼杵に上ってきた。
当時、臼杵城は取り壊されていたので、警察隊と旧臼杵藩士族は
市内の大橋寺(だいきょうじ)を本陣(宿所)にしていた。そこへ
6月1日、薩摩軍が来襲し、警察隊と臼杵藩士族隊が散々に敗れた。
竹田の薩摩軍も臼杵まで来、山中で官軍と戦って勝利している。
西南戦争というと、熊本城の攻防と田原坂の激戦だが、反対側の
宮崎、大分でも激戦があったのだ。
なぜ臼杵なのか? 臼杵は港町だった。官軍の軍艦も来ていた。
山室五郎は、東京から船で小倉を経由し、臼杵まで輸送されて
きたようだ。薩摩軍は、その軍艦を奪おうとしたのか。
この頃まで薩摩軍が形勢有利だったのだ。
さまざまな思いを巡らしながら、臼杵の町を尺八吹いて廻った。
お盆休みで、店はすべて閉まっており、人影が全くない。どこへ
行ってしまったのだろう。お布施はゼロ。
再び、激戦のあったという山道を抜けて大分の護国神社にもどる。