現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

明智光秀の首塚

2020-10-12 09:28:49 | 虚無僧日記

 京都市東山区の三条通から、清流の流れる白川通を下り、脇道に入った所に明智光秀をまつる首塚がある。実は2回も移転していた。

 山崎の戦い(1582年)で敗れた光秀の首は、重臣斉藤利三や家族と共に「粟田口」にさらされ、その近くに葬られ首塚が建てられた。現在の地下鉄蹴上駅の北側付近と推測される。

江戸時代には「少しでも触れた者にはたたりがある」とおそれられ、周囲には木が茂ったまま放置されていたという。

1771年、白川通三条付近に住んでいた能楽師の明田利(理)右衛門が、光秀の子孫と噂され、首塚の周囲の住民によって、首塚は明田利右衛門宅近くに移動された。利右衛門の子孫は明治に入って改名し、明智姓を名乗るようになった。

明治になって、首塚は信仰の対象になった。1835年、250年忌の法要が営まれ、大正の頃には、「首から上に病がある人は拝むと効果がある」という伝説も作られた。

 

明智光秀 山崎合戦後を追う 其の六 梅宮町 明智光秀首塚 明智光秀の首と胴体を追う

光秀は小栗栖の明智藪で襲われ自刃し、首は介錯をした溝尾庄兵衛尉によって隠されたといわれています。又、胴体は明智光秀胴塚に埋められたと伝えられ...

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