現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

福沢諭吉の宗教観

2019-03-29 20:56:59 | 心の問題

「福沢諭吉」は、みずから「無信心」を公言して憚らなかったが、
宗教を否定したわけではなかった。

『時事新報』(1897年9月4日)の社説「宗教は茶の如し」において、
「宗教は社会の安寧維持のために必要であり、仏教と耶蘇教の相違は、
経世上の眼から見れば緑茶と紅茶の違いぐらいである」と述べ、
「その味を解せしむるを経世上の必要と認めて大に望みを属する
ものなり」としている。

意外にも、明治4年、まだキリシタン禁制の頃、イギリスから
宣教師たちを迎え、子供たちの家庭教師にしたりして、彼らの
庇護者となっていた。それも宣教師たちを通じて西洋の文化を
知る手立てであったとも思える。

仏教についても、宗教の意義は認めるが、現実の仏教界の有り様に
ついては疑いをもっていた。

浄土真宗の信徒として、法事などはきちんと行っており、
戒名は「大観院独立自尊居士」と受けてはいたが、
墓石には「福沢諭吉墓、妻阿錦の墓」と本名を刻んでいる。

墓石について次のように遺言している。

「墓石を大きくするといふことはつまらぬことである。
人間の家といふもの は、栄枯盛衰ちっとも当てにならぬもので、
子孫が貧乏したり、跡絶えになったりすれば、墓荒らしになり、
墓石はひっくり返り、見るも哀れであるが、 さうなると、
大きな墓石ほど見苦しくも哀れにもなる。母の墓石は此の通り
小さいが、何も費用を吝むのではない。以上の理由からわざと
斯うしてゐる。私の墓石も母に準ずるやうに」と。



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