現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

一休の母の手紙

2018-03-10 00:37:37 | 一休と虚無僧

千葉の館山寺に「一休の母の手紙」というのがあるという噂。

一休の幼名「千菊丸どのへ」となっていて、4歳の時の母の遺言だという。

ところが、千葉県館山市に館山寺など存在しない。原本も所在不明。
後世の創り話だろうが、これを創った人は、実によく一休の
禅をとらえている。

内容は、

 釈迦も達磨も自分で悟りを開いたのです。釈迦は教えを
 説いたといっても、一字も書き残してしはいないのです。
 釈迦や達磨を奴とするほどの修養を積めば、どこぞの寺の
 住職にならなくとも、俗人のままでも苦しからず。

というもの。

一休は、安国寺を飛び出し、15歳の時、西金寺の謙翁の下に
走った。謙翁は大応の法を継ぐ人であったが、そのような
肩書きを否定し、“乞食行” ひと筋の托鉢僧であった。
その師と仰ぐ謙翁が亡くなると、一休は寺を継ぐ資格も無し、
路頭に迷うことになった。絶望からか、20歳の時、瀬田川に
身を投げるのである。その時母の声を聞いて生還する。

一休が自殺を図った時の「母の手紙」とする方が納得いく。

経典は釈迦の没後500年1000年を経て、後世の僧たちによって
書かれたものだ。釈迦は一字も残していない。ならば「経典を
諳んじたところで、釈迦のように修行をしなければ 糞虫と
同じ」と母は言う。「釈迦や達磨も下僕(しもべ)となすほどの
修行を積んで、人々の苦悩を救える人になれたら、
どこぞの寺の住職なんて肩書きはいらないではないですか。
俗人のままだっていいじゃないですか」というのだ。

虚無僧はこの一休を師と仰いでいる。経典も必要ない。
寺も要らない、肩書きもない、教義もない、すべては
己のみ。虚無僧は「僧」であって「僧」でない、
俗人のままなのだ。一休の母がいう、衆生を救うことが
できたら、どこぞの寺の坊さんなんて肩書きはいらない。
それが虚無僧なのだ。


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