さて、これも、私と関係ありそうな無さそうな話ですが、
「島原城に展示されている一節切尺八」の由来です。
長崎の尺八家「松林静風」氏が詳細をHPに書かれています。
この尺八は、「松平太郎左衛門重定が持舟城で入手したもの」との
由緒がはっきりしています。そして、重定の子(孫?)の「覚右衛門
重是」が「牧」と改姓して、慶安2年(1649)から3年間、藩主の命を
受けて、虚無僧となり、京都で托鉢をした時に吹いたものと伝えられ
ています。慶安2年(1649)といえば、京都の明暗寺が創建された前後の
ことです。幕末には、長崎には「牧 新七」という虚無僧がおりました。
「牧 覚右衛門」とのつながりもありそうな・・・・。私の名は「牧(原)伸一」
なんか 似ていてうれしくなります。
さて、「持舟城で入手したもの」というので、推測してみました。
天正10年、信長、家康連合軍による武田勝頼攻めが始まり、牧野原城を
根城にして、周辺の武田方の城、高天神城、持舟城(現・静岡市)が
攻められます。この時、「持舟城」を守っていた「朝比奈駿河守氏秀」は、
元々は今川の家臣でしたので、形勢不利と察して、家康方と和睦を結び、
城を明け渡して久能山に退きます。この時、朝比奈氏秀は久能山まで
護衛してくれた「松平太郎左衛門重定」に、お礼として家宝の「一節切」を
渡した。「一節切」はそれほどの価値があったのです。
この時代の有名武将「武田信玄」「徳川家康」「織田信長」「北条幻庵」の
「一節切」というのが現存しています。先日「お宝鑑定団」で、同様のもの
が出品され、300万円の価値が付けられていました。
宇和島の伊達家、尾張徳川家、熱田神宮にも同様の「一節切」があります。
そして私もネットオークションで、ウン万円で手にいれました。
「島原城に展示されている一節切尺八」の由来です。
長崎の尺八家「松林静風」氏が詳細をHPに書かれています。
この尺八は、「松平太郎左衛門重定が持舟城で入手したもの」との
由緒がはっきりしています。そして、重定の子(孫?)の「覚右衛門
重是」が「牧」と改姓して、慶安2年(1649)から3年間、藩主の命を
受けて、虚無僧となり、京都で托鉢をした時に吹いたものと伝えられ
ています。慶安2年(1649)といえば、京都の明暗寺が創建された前後の
ことです。幕末には、長崎には「牧 新七」という虚無僧がおりました。
「牧 覚右衛門」とのつながりもありそうな・・・・。私の名は「牧(原)伸一」
なんか 似ていてうれしくなります。
さて、「持舟城で入手したもの」というので、推測してみました。
天正10年、信長、家康連合軍による武田勝頼攻めが始まり、牧野原城を
根城にして、周辺の武田方の城、高天神城、持舟城(現・静岡市)が
攻められます。この時、「持舟城」を守っていた「朝比奈駿河守氏秀」は、
元々は今川の家臣でしたので、形勢不利と察して、家康方と和睦を結び、
城を明け渡して久能山に退きます。この時、朝比奈氏秀は久能山まで
護衛してくれた「松平太郎左衛門重定」に、お礼として家宝の「一節切」を
渡した。「一節切」はそれほどの価値があったのです。
この時代の有名武将「武田信玄」「徳川家康」「織田信長」「北条幻庵」の
「一節切」というのが現存しています。先日「お宝鑑定団」で、同様のもの
が出品され、300万円の価値が付けられていました。
宇和島の伊達家、尾張徳川家、熱田神宮にも同様の「一節切」があります。
そして私もネットオークションで、ウン万円で手にいれました。