木村 和美 Architect

建築家木村和美の日常活動とプロジェクトについてのブログ

●景況感の低下と建設多忙

2011-06-28 22:41:22 | Weblog

 

真夏のような暑さの今日、出たり入ったりの動きだけでも汗をかきクールビズどころの話ではなかった。

暑い上に湿気があるので、衣服が体にまとわりついて極めて不快である。

冷房温度28度で本当に普通の執務が出来るのか心配になるが、私はここ数年間北側の部屋に陣取り冷房無しでパッシブクーリングを実践してきたので多少は対応できる。

 

昨日夕刻から知人に会い、最近の状況について意見交換したが、一般的な経済状況は決してよくは無い。震災後3ヶ月が経過したが、成長率は3~5%は低下するようだ。驚く事に中国でも日本のこの影響で0.5%マイナスとの事を聞いた。

夕刻の居酒屋は、以前は満杯であったが昨日は空席が目立ち人が少ない。

自粛ムードに輪をかけて外食に対する様々な批判が多く厳しい状況だ。最近は居酒屋も一工夫必要で、今まで空白の昼間の宴会を予約制で取るところもあると聞いた。

高齢化社会となり日中でも自由な活動が出来る人が増えているからという。

 

先日宅急便が5時半以降集荷をしなくなったことを初めて知った。

計画停電で、夕刻からベルトコンベアが動かないという。被災地ではまったく産業活動がストップしているのだから当然といえば当然の事だと思う。

それに反して建設業は忙しくなってきた。

被災地の復興作業はまだ着手できないのに、東京を始め関東一円のこの地震の被害修復工事や状況を打開するための建設投資、設備投資が自ずから発生している。

その上材料不足の職人不足と来ているので、多忙感は倍加して、おかしな事だが高揚感が溢れている状況だ。

この建設事情は、いわゆる景気を好循環にさせるものとは相違するが、本格的な復興事業が緒に付く助走になればよいがと思う。政治がうまくかみ合って動いてくれる事を祈りたい。

 

それにしても昨今の政治状況はどうだろう。

ここまで来ると語るに落ちるというか、話すのもイヤになるほどの体たらくで民主党政権の崩壊を思わせる。

”ディグニティ”などという言葉を忘れさせるような茶番劇。

以前はまだ委員会等でディベートする緊張感があったものだが、今はもう議論等というものはなく、国民に語り掛ける言葉も無くなって後はエゴむき出しの政争のみ。

恥というものを知らなくなった政治家が多くなった。左翼政権というのはこんなものかと思う。

 

テレビは今日も必死で生活する被災地の人たちの自助努力やボランティアの活動を伝えている。

2年程度前に宮城沖で地震の起こる確率は90%以上と報告されている。その時東海地震の確率は85%といわれていた。

色んな意味の対策と準備がどうしても必要になると思われる。

 


●性悪説とは何だろう

2011-06-20 21:48:33 | Weblog

 

 

今日はあの地震が起こった東北の中心都市仙台に行き建物の調査をした。

東京発のやまびこに乗り、宇都宮を過ぎると車窓に展開する風景は、ほとんどが緑豊かな農村風景である。(写真左)

東海道新幹線ではこんな田園の景色が連続する様は中々見れないが、今回の仙台行きはその緑一杯の風景の印象が特に強い。

この豊かな農村が今回の放射能に犯されているというのは、確かに恐ろしい事だと思う。

 

新幹線の中からは被災地の状況も、原発の放射能の状況も見えはしない訳だから、この緑の風景のどこかで、ニュースで見る畜産業の悲惨な出来事や農作物の出荷停止が行われていることなどちょっと想像できない気分である。

新幹線の中に置かれているトラベル小冊子を見ると、作家の津本陽氏の東北に捧げるエッセイが目に付く。

そこに書かれているのは、東北の人たちの質朴だが暖かい人柄、、、。

津本氏でなくとも、私も東北に来るとそれを実感する。それはつまり性善説の世界ではないかと思う。

 

調査した仙台市内の建物は思ったより被害が少ない。あの地震は市内では震度6強から7ぐらいの強さだったという。

それだけから見ると関東大震災と同程度で、確かにコンクリートの剥離があったりクラックが発生してはいるが新耐震設計基準で建てられた高層建築にそれほどの被害は見られなかった。

一安心だが、余震が続いてまだまだ注意が必要である。

 

最近の世相を反映してか、書店の店頭にはあの君主論を書いた”マッキャベリ”(写真右)や人間不信の書といわれた”韓非子”などの書物が多く見られるようになった。

これらはいわゆる性悪説をベースにした言説といわれている。

 

厳しくなる一方の経済状況、予想もしなかった震災と原発事故の被害、どうしようもない政治家の無責任さ、等等、そして何が起こっても不思議でない社会のなかで、常に最悪の状況を想定して生きることになると、人はいやおうなく性悪説に基いた行動を取らざるを得ない事は歴史が教えるところでもある。

 

ニッコロ・マッキャベリは16世紀フィレンチェのメディッチ家が、韓非子は紀元前250年頃かの秦の始皇帝が取り入れた言説、思想であった。 

それぞれ性悪説云々というより、現実的な人間学に基いた行動規範だと言ってよいだろう。

 

マッキャベリは言っている。”運命の神は女神である。女神はイタズラ好きだ、身を任せていると翻弄される。こちらがひっぱったり突き飛ばしたりする必要がある。”と。

つまり人は慎重であるよりは、思い切って進むほうが良いのだと教えてくれる。

 

仙台からの帰りの新幹線の中、ほぼ一杯ですべて指定席の車両で勝手に席を替えても車掌さんからは一言もおとがめがなかった。

東海道とは違う雰囲気に戸惑いながら、この震災復興も民主政権の中を色々ガタガタ揺さぶってでも早く進める方策は無いものだろうかと思ったものだった。

 

 


●パブリック・ポリシー

2011-06-12 09:03:50 | Weblog

 

梅雨のはざ間なのか、蒸し暑いなと思っていると急に冷え込んだり、これも温暖化の影響の一つなのか不順な天候で、もう一つ快適な日々とは言いがたい。

先週は,今度の地震で影響のあった昔の仕事のアフターケアに忙しかった。 久し振りに以前お付き合いのあった構造の設計事務所や、施主の建物にお邪魔し当時の様々な思い出に浸ってみた。

当時は日本の景気もよい頃でやりがいのある仕事が多く、緊張してやった仕事だけに、議論したり実際の建物を見ると熱い気持ちが蘇ってきて懐かしい。

耐震設計の基本的なこととこれからの方向性を考えてみるが,原発の耐震設計も話題となる。

 

週末は、アメリカ事情に詳しいジャーナリスト日高義樹氏の最近の著作”世界の変化をしらない日本人”を読む。福島の原発事故に対するアメリカの見方を述べているところが興味深い。

日本では今回の福島原発事故は、東京電力が悪者にされ、全責任を持っているように言われているがアメリカでは企業は飽くまで利益志向で利潤追求のため経費を切り詰めようとするのが当然であると言う見方。

しかしレギュレーター即ち監督官庁はもっと大きな見地から安全性を考えて建築許可を出すべきで、今回の話は日本の監督官庁がその任務を怠ったため事故が起きたとしているようだ。

従ってこれは技術的な問題ではなく、危機管理体制の問題だと結論付けていてアメリカではその原因を余り深刻には考えていないとの事であった。

 

”パブリックポリシー”というのは政策を作る際の倫理規定や行動様式、規制範囲などについて研究する学問領域であるが、政治や政府の仕事を目指すなら必須の学問とされている。

アメリカではたくさんの大学にこの分野の大学院が設置され特にハーバードのケネディ行政院(写真右)は有名である。私も十数年前、慶応大学の都市経済専門の高橋潤二郎教授がこことジョイントセミナーを行ったときに参加しようと調査したことがある。

ロンドンのスクールオブエコノミックスや、パリの政治大学院も著名だが、日本では1963年に国際基督教大学に公共政策大学院が初めて設置されるるまではこの分野の研究は進んでなかったという事になる。

 

今回の原発事故は日本の監督官庁が何が公の利益になるかというパブリックポリシーをもたないまま許可したために事故が起きたという具合にアメリカは判断しているという事である。

 

こうしてみると日本の報道されている現状とアメリカの判断は随分違い、そこをメディアはなかなか伝えないし国民もわからない。原発事故は当たり前の事だが日本政府が全責任を取るべき事である。

日高氏はもともと保守サイドの人だから、この本では民主党政権はボロクソであるが、現在のダッチロールを見ているとあながち的外れではないようにも思えてくる。

もっと重要な事は、大地震への対応や馬鹿馬鹿しい政争に時間を費やしている間にも世界は刻々と変化し日本が国益を失っていく状況に気がつかないことである。

 

原発の後処理や震災の対応を見ていても公の責任と民の境界が曖昧となり、よくわからない状況となっている。

”パブリック・ポリシー”

原則としての公の役割を明確にし、各官公庁の行うべきことをはっきりと国民に伝えていくことが政府や政治家の仕事だが、民主党政権ではどうやら無理のようである。

 

 


●人相、骨相、声相

2011-06-04 21:15:15 | Weblog

 

 

先日の菅内閣不信任をめぐる一連の出来事を見ていて、これは本当に一国を預かる政治家のとる行動なのか余りの低レベルのやり取りで何とも言い様のない気持ちになった。

交わした書面の解釈で、やめるやめないなどという事は一般社会でよくある揉め事と同じ類で、あの人たちは、国民の目がすべてみているという事をまったく意識しない典型的な永田町族になってしまったと思う。

あの人たちとは、現在の民主党菅政権の人たちのことである。一晩眠ってやっと自分達のやっていること、言っている事に気がついたのか今日は少しまともな事を話していたようだった。

 

こんな中で、改めて菅政権の主だった人たちの人相を眺め直してみた。”40になれば自分の顔に責任を持て”と言ったのは、リンカーンだったか、今の政権でこれは良い顔だという人は中々見つからない。

菅総理は、与党になってからまったく顔が変わってしまった。

仙石前官房長官も病気をする前はふっくらとして良い顔だったが、官房長官になってからいわゆる悪相で、誠に失礼だがとても見れたものではない。

枝野氏も然りの感がある。岡田幹事長は本当に変な顔になってしまった。

何故だろうと思う。人間、権力を持つと変わるのだろうか?

 

骨相、観相、顔相などをまとめて人相というが、19世紀に学問として流行したのがオーストリアのフランツ・ガルによる骨相学で、頭蓋骨の形でその人の性格等の精神的気質がわかると主張したものだった。

これを拡大解釈して顔の形や表情で様々なものを読み取るのは現在でも占いや多くの人が日常的にやってiいる事である。

又同じように声相学というのは、声によってその人の人となりを判断する学問だが、これも常識的に一般社会で判断の基準に使われている。

建築家の黒川紀章さんは私が知っている頃この骨相学に興味を持ち、都市の骨相診断などと言ってそれぞれの都市の内容を、道路パターンや施設の配置パターンから読み取り、処方箋を書くやり方を全国の都市のマクロ分析に応用したりしていた。

私は当時声相学に興味があり、骨相と声相あるいは人相など黒川さんと議論した事もあるが、氏は声について一家言を持っていた。

学生時代に弁論部に所属していたので取り分け声については関心があったと言う。彼に建築を言葉で語らせるとこれが一品で、当時彼の話を聞くと皆なるほどと納得したが、それも声の質のおかげだと言っていた。

 

前川國男氏と坂倉準三氏はともに日本の近代建築の代表的な建築家だが、坂倉さんは声が素晴らしかったそうだ。

大きな声ではっきりと主張し、前川さんの方が先輩だが二人が論争すると坂倉さんが優位になるのは声のせいだと黒川さんが教えてくれたことがある。

 

学問的には色々あるが、結局バランスの問題で、見て気持ちのよい顔に、聞いて気持ちのよい声になるよう努力することが良識ある一般人の努力目標だろうと思う。

そうしてみると現在の民主党の人たちより自民党や他の野党の人たちの方が余程バランスのとれた顔や声をしているようにも思える。

 

残念だが経済界や官界も同じようなもので、今度の福島原発に登場したそれぞれの人達の顔や声を反芻してみるとよく理解できる気がしてくる。

骨相学の人種的分類の世界では、日本人を含むモンゴロイドは”倫理的に劣り、模倣的で独自性がない”とされているようだ。

 

他人のことをあれこれ批判しても詮無い事で、私は今日からでもカガミを見て少しでもバランスの取れた明るい顔をするよう、声をお腹から出してはっきり物を言うように努力したいと思い直した次第である。

 

 

 


●自然の脅威とリスクマネージメント

2011-05-30 14:52:02 | Weblog

 

 

昨日沖縄に台風が接近し、石垣島や那覇市の強風に翻弄される映像が報道されていた。

幸い本州への直撃は避けられたようだが、昨日は大雨が降り、震災被災地では十分な復旧が出来て居ない時に又季節はずれの台風で困ったものである。

そして今日の関東地方も雨はやんだが風ばかりが異常に強い状況である。

 

5月の台風というのは、記録が残っている1950年代からでも7例しかないという。

それだけ珍しい自然現象で最近では2003年5月以来だそうだ。このところ東北地方の余震もかなりの数が発生しており、こんな時は余程の注意が肝要である。

何故日本だけがこんなに大変なのかと思っていたら、アメリカでも先日来オクラホマ州でトルネードが発生し(写真左)家屋が破壊され、犠牲者が多く出てオバマ大統領が現地へ向かった事も報道された。

アメリカのトルネードは、南部から東部地域にかけて度々発生して被害をもたらしているが、カリブ海の熱帯性低気圧が原因だともいう。写真右は2007年フロリダ州の海上で発生した竜巻である。

 

これらの自然の脅威で災害が発生した場合、日本ではまず国が被害を査定しそれに従って復旧費用を予算化するらしい。 ところが東北の各地では2ヶ月が経過した今もまだ国の担当者が調査に入っていないと聞いた。

ある漁協では、国の対応の遅さに痺れを切らし、漁協の会員自らがツイッターで義捐金を募集して1億円を集め、設備投資を行い、牡蠣の養殖を再開した痛快な出来事が報じられもした。

 

様々な損害や障害に対応するためのリスクマネージメントという言葉を初めて聞いたのはもう随分前になる。

物を作ることに価値をおき、前ばかり見ていた当時の私には、何故かそれは後ろ向きで非生産的な業務に見えた記憶もある。

六本木の国際文化会館で定期的に行われていた勉強会に参加していたが、建築上おこるトラブルや損害を事前に予測して、そのヘッジを考えておくなど、うまくやればそんな事は起こらないとまで思っていた時もあった良い時代だった。

その内ジャパン・バッシングが始り、金融のビッグバンがおこり、グローバルな競争に不動産、建設業界もさらされるようになると、我々の仕事でも妙に世知辛さが感じられ、トラブルばかりが起こるようになったのもついこの間のことではある。

 

昨日、久し振りに現実を離れ長期計画なるものを考えてみた。長期と言っても3年から5年ぐらいのスパンでやりたいことや状況をシミュレーションしてみた。 

阪神淡路の震災の時は3年であらかた復興の目処が付いたよう聞いているが今回の場合はそんな簡単ではないだろう。

しかし少しでもモチベーションを上げるべく時には長期の事に思いをめぐらすことも必要だろうと思う。

 

ただどんなにリスクをヘッジしても、自然界の脅威は言うに及ばず人間の社会でも、事が起こる時は起こるものである。

結局、メンタル面を上手にコントロールして事態に対処する方法を身につける他はないと思う。

 

 


●フクシマ・シンドロームと復興会議

2011-05-24 15:44:19 | Weblog

 

 

今日の東京電力の発表で、2号機、3号機とも既にメルトダウンを起こしていたことが報道されたが、特に異常ある事態ではないという事だった。

常識的にメルトダウンと言うと大変なことで、チェルノブイリではその後爆発が起こり、大気中に放射能が撒き散らされのは良く知られた事だが、その割には今頃平然と発表する事も信じられない。

又それを許容している原子力保安院、経産省そして事故発生後海水注入云々を誰が指示したかなど責任転嫁に身をやつす政府にもいささか幻滅を禁じえない思いである。

 

私の仕事の地震関係の調査が一段落した事もあり、その後の東北地方の震災後の状況や対応等をひとしきり新聞やニュースなどで読んでみたが、ガレキの撤去や義捐金の分配等はなかなか進んでいないようである。

そして最大の問題の原発事故の収束工程表もいい加減な希望的観測であることが段々明らかになってきた。

 

しかし素人目だが、菅政権はなぜ、早くこの震災の復興担当大臣を決めてしかるべき処置をとらないのだろうか不思議で仕方がない。

震災復興会議なるものを造ったり、今日は原発事故検証会議などを造ったようだが、あたかもこれらの会議が責任を持って事を行うように報じられるのも不思議な事である。

事が起こった時には、短期にすぐやるべきことと、長期的に行うことを区別して的確な指示をし、その間のプログラムを示しながら、様々な手当てをしていくことがトップリーダーに課せられた仕事だと思う。

短期的なことは行政のプロ=官僚、政治家に任せればよいと思うし、長期的なことは復興会議の有識者等でスケジュールを区切ってやればよいと思うが、報道によると現在は復興会議で税金の話をしたり、基本的な哲学が出てきたりおかしな事ばかりが伝わってくる。

 

復興会議のメンバーに建築家の安藤忠雄氏が入っており、震災地に”鎮魂の森”を作ろうと提案している。

あるテレビ番組で、そんな事は後でやりますから、早く今困っている人の生活と雇用を何とかしてくださいと批判されていた。

復興会議には日本を代表する各界の著名人が入っているが、復興会議の位置づけが曖昧だから議論の焦点が絞れずこんな意見が出てくるのは当然だろうと思う。

 

原子力発電の歴史を見ると、これも日本が弱い外圧の一つかとも思う。

フクシマの原発はGE製で、アメリカ側に買わされ非常用電源の位置に疑問があっても日本の技術者は何もいえなかったとか、、、。

高度成長期の道路や新幹線の次は原発が唯一の地方振興策で、時の自民党政権とタッグを組み原発交付金と一緒に全国へ展開したことなど。

現在でも日立とGE,東芝とウエスチングハウス、三菱とアレバ(フランス)は深い関係にあるそうだ。

 

私も1980年代初頭、浜岡原発のまち御前崎の電源三法交付金によるまちづくりに参加しことがあるが、当時は何もなく貧しかった町をこれで豊かにしようと色々議論したものだった。

1978年にスリーマイル島の事故が起り、ジェーンフォンダ主演の映画チャイナシンドロームが公開されて反原発の機運が出てきた頃だが、その当時は浜岡で原発に反対する意見は少数意見だった。

と言うか生活の向上の方が優先されたということだろう。

 

様々な経緯に包まれた伏魔殿のような原子力発電を取り巻く状況、その上に未曾有の東日本大震災である。

とにかくもう少し早く、物事が進むような政治体制になって欲しいものである。

でないと又違う外圧が知らないうちにわが国をメルトダウンに追い込むような気がしている。 

 

 


●地方行脚と先行き感

2011-05-21 19:09:32 | Weblog

 

 

先週は久し振りに京都に行った。

四条烏丸交差点の近くのビルの調査で行ったのだが、計画停電のない関西のまちの雰囲気はいささか華やいで見えたのは気のせいだろうか?

四条通りの裏の錦小路市場近くで、同行した知人の所望で京風九条ねぎラーメンを昼食に食べてみたが例の赤を強調したインテリアの店舗も活気に満ちたものだった。

食後に近くの通りを散歩してみたが、それぞれの店舗前の京都らしい宣伝広告の巧みさがやけに目に付いたのも仕方のないことだと思う。

 

先々週は、千葉、成田、水戸と今度の地震の被害調査で回ってみたが建物はともかく外構工事、地盤の沈下に伴う被害の大きさを実感する。

中には不同沈下で家屋が傾斜しているところさえある。道路の側溝や縁石も沈下の影響で損壊し、修復のための公共予算の確保も結構な金額となるのではないだろうか

とにかくまだ余震が続いており、その影響で外壁のタイルなどにもその都度ひび割れが発生し、修理のタイミングも難しい事を聞いた。

5月に入ったというのに、これらの地方行脚はすべて雨に降られ、京都など時折土砂降りで残念ながら気持ちの良い出張とはならなかった次第である。

 

ソフトバンクの孫社長が、メガ・ソーラーの計画を提唱しているという。

全国10箇所に用地確保し自治体と協力して太陽光発電を進める意向らしいが、その詳細は良くわからない。

5月のこの時期でも晴天の日が少ない状況の中で、果たして現実に何時、出来るのだろうか?

孫さんと創業期から親しい関係にあるシャープが東南アジアで、国家的で大規模な太陽光発電を受注している事を聞いた。

シャープはフルターンキーで受注しており、開発から維持管理までのノウハウを相当蓄積しているという。(写真右)

毎日報道される福島の原発のネガティヴな報道と政治の対応の稚拙遅滞さを見るたびに、可能性はともかく希望の持てるアドバルーンが必要なときだろうと思う。

 

先週は山梨は甲府にこれ又久し振りにお邪魔してきたが、甲府駅前の目抜き通りでもシャッターが降りている店舗が多くなった。

聞くとビルの上階はもっと空いているのだという。

堅実さで有名な甲府商人の膝元にも震災の影響はかなりあるようだ。旧知の人たちと今後の展開可能性に付いての議論。

 

今日土曜日横浜の駅前は、いつもに倍する人出で混雑していたが混雑イコール消費盛況とは言いがたい。

パナソニックが国内で約14000人のリストラ策を発表した。世界全体では4万人に上がるという。

これから他の企業も追随することだろう

 

”ビジネス アズ ユージュアル” 

まだしばらく先行き不透明な状況が続くだろうが、我々は今までと同じように毎日の仕事を少しづつでも積み重ねていく他ないだろうと思う。

 

 


●経済古典に学ぶ

2011-05-05 19:12:53 | Weblog

 

ゴールデンウイークも後半に差し掛かり、今日はこどもの日でまだ土日が続くのだが、なんとなく連休の最終日のようなものである。

結局この連休はほとんど家に閉じこもり仕事をする羽目になってしまった。仕事をしてる最中でも常に頭にあったのは、やはり東北の事だった。又一から再出発をしなければならないが、中々軌道に乗らないニュースばかりが聞こえてくる。

色々議論はあるのだが、先立つものはお金である。復興計画を議論するより先に東電の賠償金の話しの舞台裏がリークされ顰蹙を買ってはいるが、それも人間の弱さを表しているものだろう。

 

この連休、仕事漬けとは言いながらそれでも少しの時間を見つけて、お金の問題を扱う経済学について考えてみた。 

そして一冊の本 竹中平蔵著”経済古典は役に立つ”を書店の店頭で買い求め通読してみた。

学者を好き嫌いで判断してはいけないが、竹中慶応大学教授はその言動や柔ちゃんに似た顔立ちから私は余り好きなタイプではなかったが、その表題につられ読んでみると、極めてポイントをついた解説に感心して読み進んでしまった。

 

アダム・スミスの見えざる手から始る経済の古典の系譜を氏は楽観主義の系列と悲観主義の系列に分けてわかりやすく解説している。

楽観派として、アダム・スミスとケインズ、シュンペーターを上げ、悲観派として、マルサス、リカード、マルクスを取り上げて、時代の流れと共に自由放任、市場主義から政府や企業が関与する経済発展の歴史を振り返る。

その中でもケインズの影響が最も大きく現代は、ケインズ批判としてのハイエク、フリードマン、ブキャナンというノーベル賞受賞経済学者の議論に問題が集約される事を指摘している。

それは”資本主義と自由”の問題につきるのだが、現在の低成長、デフレ、財政赤字はその中ですべて議論されている。 そして現在の民主党菅政権のやっていることは、先達の教えに反する事だらけという結論が導かれることになる。

 

20数年前、坂本二郎一橋大学教授の話を聞き”寺小屋講座・蘇れ人間経済学”を読んだ時の新鮮な感動が未だに忘れられない。

今では坂本教授の事を知っている人や話す人等誰もいなくなってしまったが、当時の地域開発、都市開発について氏の発言や行動は大きな反響を呼んだと思う。

この寺小屋講座も、アダムスミスから始まり、マルサス、フリードリッヒ・リスト、マルクス、マーシャル、シュンペーター、ケインズ、ボールディングを取り上げ、それぞれの人間性や生い立ちから学説、政策提言のなかに、日本の未来を見ようというものだった。

 

マルクスが喝破したように、経済は人間の意識の下部構造として常にその行動を制約している。

しかしその法則を我が物として主体的に運用できた時は又計り知れない幸せを人間に与えてくれるのも事実だろう。

これらの経済の古典は、人間がその弱さを克服し勇気をもって生きていくことが大切な事を改めて教えてくれるように思う。

 

 


●入我我入

2011-04-23 21:28:17 | Weblog

 

 

東日本大震災のような悲惨な出来事があると、人は改めてや生や死あるいは命について深く考えるものだと思う。

私も昨年暮れから引き続いた一連の仕事、そして震災が発生してからのそれに倍する忙しさがひとまず収束したこの一週間、頭の片隅に常に宿っていたこれらのことについて考えてみた。

 

文芸春秋5月特別号に池上彰氏が、宗教について信仰界の識者と対談した記事が掲載されている。

その中で私にとっては長野県松本市の神宮寺住職をされている高橋卓志氏の意見が非常に印象に残るものだった。

氏は家業と化した現代のお寺の再活性化を色々試みているユニークな方だが、そのための基本的なことは、お坊さん自らが苦の中に入り込んでいくことだと言う。

そんな体験をする中でお坊さんの発心が生まれ、意識改革が行われていくことを自らのニューギニアでの戦没者の遺骨収集作業や、チェルノブイリでの医療活動へ参加した事を引き合いに出し、極めて興味深い対談となっている。

 

”入我我入”とは真言宗の修法で謳われている言葉で、仏と行者が一体となる観想だが、仏と一体になる事ばかり考えていてはダメで、衆生と現実の世界で一体とならないと意味がないことだとされている。

そして先の高橋氏の意見は、それをストレートに表現し本来の仏法の真髄を語っていると思う。

又、生老病死の中での”苦”こそ仏教の最大のテーマではないだろうか。

 

オーストラリアのジュリア・ギラード首相(写真)が被災地の南三陸町を、外国首相として初めて訪問したことが報じられた。

女性らしく被災地の市民をやさしく慰労するさまは、わが国の首相とはまったく違う政治家の姿を見せ付けられた思いではある。経歴を見ると菅さんと同様学生組合運動からスタートした左派活動家である。

彼女は、資源国の首相として様々な資源の提供は勿論だが、われわれが出来る事は教育の支援だとし、すぐさま被災地の学生や研究者を政府支援留学生として受け入れる事を表明した。

その聡明な受け答えと卓越した弁舌そして行動力は、かのマーガレット・サッチャーを想起させるに十分な政治家だと思う。

英国ウエールズ生まれのこの女性はひょっとして今後の国際政治で大きな役割を果たすのではないかとさえ思わせる行動振りであった。

 

我々も今後の限られた時間を有効に使い過ごすためには、テーマを絞りそこに自らを没入して生きていくことこそ、生死を考え命を大切にすることではないかと思う。

 

 


●ビューロクラシーあるいはシビル・サーバント考

2011-04-20 21:13:24 | Weblog

 

 先日久し振りに、東京都庁に打ち合わせで行って来た。建築設計の問い合わせで区役所に行く機会は度々あるが、都庁へ行くのは大規模建築物となるのでそれほど多くあるわけではない。

行く度に思うのだが、都庁の外観は石張りで、それは立派なものであるが、インテリアの執務室は、極めて旧態依然とした事務室ではある。

机のレイアウトや収納システム、来訪者の応接システムなどある部分はそれぞれの区役所の方がはるかに整っているように思うのは私だけだろうか?

 

それと、多くの大きな仕事を処理するにしては、その担当専門官は驚くほど少なく又個人的レベルで処理されているようで、本当に十分な行政指導が出来ているのか心配ではある。

又最近電話で都庁に連絡する事も多いが、スムーズに担当官に繋がった事は少なく大概は席を離れて打ち合わせということが多い。それも担当の専門官が少ないことが理由かもしれないと思う。

こんなことを言うのは、今回の震災の出来事の中で、地元の自治体の活動振りに比較して、お金を出す国や県の動きがどうにも遅く、そして見えないことが多すぎるからである。

 

結局のところ国や県の方たちは、申し訳ないがシビル・サーバントの意識はそれ程ないのだろうと思う。

日常的に現場いわゆる市民生活と接する機会が少ないのでやむをえないかもしれないが、いわゆるビューロクラシーに内在する危険性が、今ほど顕著に現れているときはないように思う。

 

私が建築を志してすぐ、県庁舎や市役所の建築設計は最も設計したい建物の一つだった。当時は、建築的に広場を造ったり、公共空間として一般市民の利用できるスペースを作ることが、即ち公共建築物のテーマであり、そうする事によって民主的で豊かな市民生活が出来るのではないかという目標があった。

今思えばそれは成長期にありがちな幻想だったかもしれない?

先日も神奈川県葉山町のまちづくりの件で、町役場にお邪魔したが、身近な課題に取り組む自治体の担当者の方々は、私の想像以上に積極的かつ協力的だった。

このギャップ、一つは行政単位の問題がやはりあるのだろう。

 

当選した石原都知事は、今まで通りプラス防災計画と叫んでいたが、肝心の足元の行政改革はどうなるのだろうと思う。 

願わくば区役所に大幅権限委譲してもっと身近な都庁行政になって欲しいと思う。

それが無理な注文なら、少なくとも都庁に足を運ぶ事を楽しく感じるお役所になってほしいものだと思う。