ぼこ爺のまだら雑記

じじいがブログをはじめました

若き手塚治虫やぼこ爺もひもじい体験をしたんだなあ

2012-11-03 19:39:55 | 日記

 昨日の夕刊に、今は亡き漫画家の手塚治虫の敗戦直後の食料難や闇市のさまざまな状景を10台後半から描いていた、未発表の作品が見つかったと報じていた。すでにその頃から社会風刺の漫画を描いていた貴重な資料が発見されたという。あの「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「火の鳥」などの代表作を世に出した手塚治虫が、このとき彼は私とほぼ同年と知った。

 私は昭和2年生まれ、手塚は一つ年下の3年生まれで、一番喰い盛りの青少年時代に、闇市や食料買出しの風景、そしてヒモジイ思いで生き抜いたことを漫画にしたようだ。そのように殆ど同様な体験をしてきたボコ爺は、いまから60有余年前のあの時代をまざまざと思い起こしたのである。

      

ーー新聞の切り抜きーー

 敗戦の翌年に私は工業学校を卒業したが、就職できないまま石鹸や食料油(魚油)など、闇屋の手伝いをしていた。そんな折、叔父が大阪で進駐軍相手の「スーベニアショップ」を始めるので手伝って欲しいという。渡りに船で早速店員として(といっても私だけ)働き始めた。兵隊は殆ど下級兵で英字は満足読めない、時計の時刻が判らないくせに文句を言って、商品を引っ掻き回す低脳ソルジャーが客だ。

 叔父は会話がある程度できるが、私は2年生の1学期までしか英語は習ってないから(戦時中は英語禁止)ウエルカムとサンキュウと挨拶ていどで、あとは身振り手振りの商売である。ときには会話が通じなかったり、誤解されて、大男のボンクラ兵にアッパーカットを食ったこともあった。それでも儲かって商売はまあまあであった。だが私は商売だけならまだしも、朝早く徒歩で闇市まで3,4キロ往復。野菜や調味料などの買出し(それも安い店で)が日課である。また帰途中で行列してタバコを買ってくるのも仕事のひとつであった。

 しかも給料は、ほんの小遣い程度で当時で30円~40円ほどの記憶である。そのころの映画料金10円ほどだから2回も観たらジュースも満足に飲めないし、闇パンも口に出来ない。それでも叔父は貯金をせよという。当時の若者の娯楽は映画か軽演劇かビンゴぐらいしかない。私の休日パターンは、2.3本立ての映画を道頓堀界隈で観た後、南(難波)の闇市を徘徊するのが最大の楽しみである。

 今でも忘れられないが、40円を懐にして、2本立て映画を見たあと、初めてのパチンコで少し遊び、そしてお決まりの南の闇市へ向かった。折りしも小雪まじりの寒風が、薄手のジャンバーの首筋から吹き込んでくる。そのとき薄汚い大鍋を覗くと、豚の細切れと野菜類を味噌汁が湯気を上げて煮立てていた。店主の呼び声で思わず店内に足を踏み入れようとして、懐の中味を数えた。(あれ!!22円しかない)だが、その(味噌仕立て豚入り八宝菜)は、丼1杯が7円だった。そのとき、あとを考えると「あぁ無念!!」寒さに震えながら断念せざるを得なかった。

 それでも商売はまあまあの儲けはあったようだが、殆どが叔父の懐に入っていたようだ。すると半年ほど経って、突然叔父が某証券会社から部長役で高給で雇われることになり、直接の商売は私にやれという。それから2ヶ月間、拙い英語(判り難い米州語だ)での商売。そして名古屋、瀬戸、岐阜へ陶器や衣料などの買い付けも、見よう見真似でこなした。その上、人を雇って隣室を喫茶店にしたいと言い出した。肝心な叔父は証券会社と双股の家業だ。

 朝昼の食事は、大根人参などの根菜に、溶けそうなスイトンとごちゃ混ぜの、だしのない汁。夜食は米兵が呉れた、ビーンズ(豆)を混ぜたお粥や麦飯なら最高だった。これらの炊事は子供の頃、母親の背中を見た真似事である。へっぽこ兵隊との商売、商品の買い付け、食料品買いの闇市通い、風呂は3日毎だ。あまつさえ喫茶店をやる。しかも肝心な薄給に僅か15円アップにするという。結局はお手伝いさんも雇わず、私がすべての重荷を背負ったことになったのだ。

 そして若い青年も遂にガマンの限界を超えてしまった。その日、叔父が証券会社に出勤した直後に店を閉めて布団と身の回りの荷物をふとん袋の詰めた。そして置手紙をして、チッキ扱い(乗客が一定の大きさの荷物であれば、僅かな料金を乗車賃に加算するもの)で関西線の天王寺駅から後顧の憂いもなく名古屋の実家に向かった。その後私は当然だが、父母兄弟の我が家の一家も叔父とは没交渉の間柄になってしまった。

 このあと、父の縁故で自動車関係の会社に入社。定年になるまで40年間勤めることができた。今思えば、この若さの行動の是非は判じ難いが、ひるがえって戦後に同年輩の手塚治虫のもろもろの苦労したことは、私ごときの比ではないが、たまたま昨日の夕刊を読んで、つい私亊の一端を記す気持ちになったのである。

    ーー思い出した南の難波闇市の風景をーー 

   

 

 

 

 

 

 

  


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1 コメント

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資料の玉手箱は10代から~ (sumi ,s)
2012-11-15 15:50:37
これだけの記憶と記事には敬礼です。又環境と~展おだかけになったと最新情報もインプットされ敬服です。
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