ぼこ爺のまだら雑記

じじいがブログをはじめました

明日は明日の風が吹く・・・と演説したら、えりゃあ目に会うで

2012-11-01 15:55:01 | 日記

  早くも11月に入り、初日からボコ爺の所信ブログを投稿します。ドタバタの挙句、ようやく臨時国会が開会された。何とか衆議院だけは所信表明の演説がみとめられた。そしてドジョウ様の所信表明演説をあらためて新聞で読むと、いろいろな項目には「明日への責任」なる文言が、わずか30分余の演説の間に18回もあった(勘定違いかもしれんが)。

 たとえば「日本経済の再生に道筋をつけるため明日への責任を果たす」と言う。そのほか、それぞれの項目で随所に「明日への責任」なるお言葉が列をなしていた。また「あしたの安心」が4つ「あしたの生活」「明日に希望」「明日への挑戦」「明日のために戦う」などと(明日)が随所に散りばめられている。今日よりもあしたが良くなると信じようとも言う。

 こうなると(明日に始まり明日で終わる)という所信演説に受け取れた。そんな中で「明日への責任」を国民も努力して果たせとも仰る。そこで、あんまり(明日、あした)と力説されると、フト40年ほど前のアメリカ映画で(ポールニューマンとレッドフオードら)の「明日に向かって撃て」を思い出した。ストリーの記憶は浅いが、3人のガンマンが、明日にはきっといいことがあると叫びながら、ガンを連発しながら包囲網に突進するラストシーンだけは強烈な印象に残っている。

 結末は3人のガンマンが、包囲網を突破したのかあるいは死んだのかは、ベールに包んだまま映画は(ザ、エンド)になった。そして思う。明日とは何なのか?。これを「みょうにち」と言えば、今日の次の日である。そこで「あす、あした」と言えば、ドジョウ様や皆様が前向きにそれぞれの責任を果たせば、ごく「近い内」に必ずや明るい日本が再生すると解釈をしてみた。

 だが、あんまり「明日、あした」を強調されると、さんざん言われている、いつなるのか判らん「近い内」にと「明日」は同義語みたいに思ってしまう。ありえないことだが、もしもボコ爺がドジョウなら、やはりアメリカ映画の(風とともに去りぬ)のスカーレット・オハラが最後のシーンのセリフ「明日は明日の風が吹く」と言うだろう。つまり(今がどんなに辛いかもしれんが、みんなが心を一にして励めば、必ずや日本はよくなる)のだから。

 あかん、あかんで。表現は柔らかいが、みんなに責任を持たせてガンバレとハッパをかけるなんて、まるで戦時中の大政翼賛会だがね・・・と有識者にドヤされますがね。

  カレンダーは、明日も明後日も

           一ヶ月後もキチンと正直だわ

 

    

 

 

 

 


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