蓋平館別荘での生活が始まったが、それもほどなく解消されることになる。詩歌を創作する日々の中で、しばしば雑誌などに掲載されることもあったが、中には全く原稿料が支払われないこともあり、生活の見通しは一向につかなかった。
そんな中啄木は、朝日新聞編集長佐藤北江が自分と同じ盛岡中学出身ということを知り、全く面識がないにもかかわらず求職の手紙を書く。
すると、意外にも面会承諾の返事が届いた。そこで啄木は自らの作品が掲載された雑誌などを持参してPR。佐藤も、かつて啄木が自らと同様に地元の新聞社で働いていたことを知って、話が弾んだ。
数週間後、啄木の許に採用の知らせが届いた。ただ、希望した記者ではなしに「校正係」。それでも金銭的な問題の解決には大きな朗報だった。
「暗き十か月の後の 今夜のビールはうまかった」。
これを機に啄木は盛岡に残してきた家族を呼び寄せることを決め、上京後2度目の引っ越しを行う。新しい住まいは本郷弓町2丁目の「喜之床」という理髪店2階だった。
その場所を訪ねた。現在の春日通りと、一葉探訪の時に歩いた本妙寺坂との交差点付近に、今も理髪店を営む「バーバーアライ」のあるところだ。
ここの標識によると、「喜之床」は1908年の新築以来関東大震災や東京大空襲にも耐えたが、春日通りの拡張に伴って改築されたという。
その旧宅は今、犬山市の明治村に移築されている。
標識には、この地で創作した歌「かにかくに 渋民村は恋しかり おもいでの山 おもいでの川」が載せられていた。
ここでの啄木は、新聞社に勤めながら創作の日々を送っていた。
当時の朝日新聞社は銀座6丁目にあった。啄木は電車の回数券を買い、車内ではドイツ語の勉強をしながら通ったという。この時期、朝日新聞社には夏目漱石も在籍していた。
今は同社は築地に移転したが、跡地横に啄木の記念碑が立っていた。啄木の肖像と共に、勤務時代の社内の模様を描写した歌が刻まれている。
「京橋の 滝山町の新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな」
新聞社は、朝刊の締め切りが夜になるので、昼よりも夜の方が活気づく。そんな社内の雰囲気を表現した歌だ。
碑の裏側にキツツキが留まっていた。キツツキとは啄木鳥と書く。
彼がキツツキをペンネームにした理由は、キツツキがカンカン木をたたく音を社会への警鐘と捉え、自らも社会への警鐘を鳴らす存在でありたいとの気持ちを込めて名付けたのだという。