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ザ人物伝 ガリレオガリレイ 天文対話 ガリレオ死去350年後謝罪 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世

2020-12-12 16:19:55 | 連絡
ガリレオ・ガリレイ(伊: Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日、78歳没)は、イタリアの物理学者、天文学者[1][2]。
近代科学的な手法を樹立するのに多大な貢献をし、しばしば「近代科学の父」と呼ばれる[3]。また天文学分野での貢献を称えて「天文学の父」とも呼ばれる。
最初は医学を学ぼうとピサ大学で学んだが[1]、ユークリッドやアルキメデスの本を読むうちに数学や力学へと関心が移った[1]。そのうち学資不足となり、大学を途中で去った[1]ものの、比重や重心の研究などで頭角を現し[1]、1589年~1591年にはピサ大学の数学講師[1]、1592年~1610年にはパドヴァ大学の数学(および天文学などの)教授として勤務[1]。物理学(自然学)分野では、「振り子の等時性」に関する研究や「斜面上をころがる物体の運動」に関する理論などを出発点として 1604年頃には落体(らくたい。鉛直方向に落下する物体。英語では「falling body」)の運動法則の「(数学的)定式化」(英語で「mathematical formulation」と呼ぶプロセス)を完成させた[1]。自然現象に対して、数学的手法および思考実験を用いて迫り、(仮説を)実験によって検証するというガリレイの方法は[1]、(当時はまだ存在していなかった)「科学」の方法を新たに確立するのに大きく貢献するものであった[1]。 天文学分野では、みずから改良したガリレオ式望遠鏡を使って木星の衛星、月面の凹凸(=クレーター)、太陽の黒点などのを発見し、『星界の報告』(Sidereus Nuncius、1610年刊行)を著した[1]。1610年に「トスカナ大公付きの数学者」という(その地域では)名誉ある地位、1611年にはローマのリンチェイ・アカデミー(イタリア語版)会員となった[1]。
 主著の『天文対話(英語版)』Dialogo sopra i due massimi sistemi del mondo, tolemaico e copernicano(1632年)や『新科学対話(英語版)』Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze attenenti alla meccanica(1638年)は、いずれも(イタリア人が実際に話している)イタリア語で書かれ、しかもいきいきとした対話形式で書かれた本であり、当時の「学術書というのはラテン語で書くもの」という学術的伝統の殻を打ち破って、自身の文学的才能も見せつつ、彼自身は「nuove scienze」(「新たな知(識)」)と呼んだ、現在の自然科学へと繋がる手法を創始した書である[1]

  • 1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。
  • 1616年 第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう注意を受ける。
    • コペルニクスの『天体の回転について』がローマ教皇庁より閲覧一時停止となる。
  • 1623年 『贋金鑑識官』がローマ教皇ウルバヌス8世への献辞をつけて刊行される。
  • 1631年 娘たちのいるフィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘に居住。
  • 1632年
    • 『二大世界体系についての対話(Dialogo Sopra I Due Massimi Sistemi del Mondo)』(日本語版は『天文対話(英語版)』)をフィレンツェで刊行。
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    • ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く。
  • 1633年
    • 第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。
    • シエナのピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。
    • アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。
  • 1634年 ガリレオを看病していた長女マリア・チェレステ死去(生まれたときの名はヴィルジニア)。
  • 1637年 片目を失明。翌年、両眼を失明。以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記になる。
  • 1638年 オランダで『新科学対話』を発刊。口頭筆記には弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリが行った。
  • 晩年 振り子時計を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。
  • 1642年 アルチェトリにて没。
ローマ教皇庁の対応[編集]
1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった[54]。最終的に1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に350年後のことである[55]。
2003年9月、ローマ教皇庁教理聖省(以前の異端審問所)のアンジェロ・アマート大司教(Angelo Amato)は、ウルバヌス8世はガリレオを迫害しなかったという主張を行った。
2008年1月16日の『毎日新聞』によると、ローマ教皇ベネディクト16世が17日にイタリア国立ローマ・ラ・サピエンツァ大学での記念講演を予定していたが、1990年の枢機卿時代にオーストリア人哲学者の言葉を引用して、ガリレオを有罪にした裁判を「公正だった」と発言したことに学内で批判が高まり、講演が中止になった。その後ベネディクト16世は2008年12月21日に行われた、国連やユネスコが定めた「世界天文年2009」に関連した説教で、ガリレオらの業績を称え、地動説を改めて公式に認めている[注 8]




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