小説『雪花』全章

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小説『雪花』第七章-7節

2017-08-31 10:58:19 | Weblog
     七

 食事を終えた後、凡雪は、祖父が用意をしてくれた牡丹の花を紙で包んだ。
 包みを持つと、凡雪は祖父と家を出た。
 山間地を下り方向に、五分くらい歩き続けると、すーっと、馨った涼風が鼻元を擽った。
 祖父が慣れた足で、左側の道に曲がって「こちらへ」と気さくに導いてくれた。凡雪は、そっと左道に曲がった。
 涼やかな風に吹かれる中で、湖畔沿いの道が現れた。沿道には、延々と、豊かな樹々に甘い香りを放つ薄紅や真紅の薔薇が整然と咲いていた。
 凡雪は遠くまで展望していくと、茫々とうねる緑の山が光の中で天と繫がって見えた。融和的な風景が目を楽しませてくれた。
 なおも湖畔沿いを進むと、家族連れの、お茶を飲みながら歩いている光景が、あちこちに見えた。湖水の香りのする涼風が、すーすーと誘うように吹き込んできた。
 凡雪は、祖父の傍らにつき従って、一歩、一歩、愛おしむように歩いた。
 気付くと、一本の橄(カン)榄(ラン)の樹が見えた。樹の枝に楕円の形とした橄榄が青々と実っている。
 時折、風が密集した葉を鳴らし、実を揺らして、凡雪の頭上を抜いていった。
「今は、ベスト・シーズンだ……。花は、生死と再生を繰り返しながら、毎年、咲いていく。でも、毎年、同じものは、二つとないね」
 祖父の声が風の中で和んで、良い響きだった。
 凡雪と祖父が更に歩くと、緑陰に石の階段が現れた。
「真っ直ぐに行けば、香山墓地だ」と祖父は指差して、穏やかな声で促した。
 階段を上がって、すぐ両脇に滴るような緑が並んで見えた。山の麓からの、清冽な水の流れる音が聴こえた。
 凡雪と祖父は、真っ直ぐに階段を上がった。平らの地面に石作りの墓地の光景が現れた。
 祖父は手を差し伸べて、「万里は、此処に眠っているのだ」と説明した。涼しい憩いの場所に、《高山 万里(まり)》という名前の石牌が、すっくと立っていた。万里の墓前に腰を落とした凡雪は、そっと献花した。掌を合わせて「万里さん、初めまして」と呼び掛けた。
 蒼天からの風が優しく緑を鳴らした。幽な芳香が凡雪の鼻元に漂ってきた。
 芳(かんば)しさに触れた凡雪は、何故か、万里が同胞のように懐かしく感じた。
 凡雪は、ゆっくりと立ち上がって、祖父に問い掛けた。
「万里さんは、中国の、何処に生まれたんですか?」
 祖父は、さり気なく、視線を遠くへ向けて「撫(ぶ)順(じゅん)だよ」と凡雪に教えた。
 撫順は中国北部に位置し、大陸性気候で、冬には零下二十度も超える極寒の場所だった。
「寒い所ですね。蘇州とは、随分、離れていますね」と、凡雪は不思議に思った。
 すると祖父は、凡雪に向って、懐かしく思い出しつつある表情で、語り始めた。
「昔、私は特務機関の仕事で、撫順に来た。夜は、撫順大学に通って、必死に、中国語を勉強したよ。二年後に胃潰瘍になって、撫順病院に入院した。当時はね、万里(まり)が、この病院の看護婦だった」
 祖父は眉を上げ、朗らかに笑った。笑い声が自然の中に溶けていき、一体となった。
 太陽が鮮烈な光を放っている。緑色の風景が一変し、仄かに金色に煌いていた。
 凡雪はふと、空の上を眺めた。天が自分を見下ろしているような心地になった。
 脳裏に、祖父の若い頃の、果敢に異国を歩いている姿を浮かべて、想像した。
「その後、お祖父(じい)様は、万里さんと結婚して、ずっと中国に住んでいらっしゃるのですね」
 祖父は、頭でゆっくりと頷き、満足げな表情で、明快に答えた。
「私は、自分の好きな道を選んだね」
 祖父の声色が、凡雪の耳元に響き渡って、心底に残った。祖父の人生に惹(ひ)き付けられた凡雪は、再び問い掛けた。
「仁さんのお父様は、撫順で生まれたんですか?」
 祖父は、ふっと笑みが込上がり、言葉を継けた。
「そうだけど、撫順の冬が寒いのだよ。仁の父親の信(しん)が、幼い頃から、体質が弱くてね。冬になると、手に凍瘡(しもやけ)ができて、重い凍傷にすら、なりかねない。万里は『信の手が、ダメになるわ』と心配した。それで、信(しん)を、日本の兄夫婦に預けた」
 凡雪は、一心に耳を澄ませ、祖父を見つめた。筆で描いたかのような眉の下に、整然とした瞳には、安穏な光が宿って見えた。山の麓から、しゅうしゅうと流れる水の音が清らかに聴こえて、凡雪は身の内に、静けさが充ちるのを感じた。 
 祖父は、ゆっくりと腰を落として、万里の石牌を静かに見た。緑滴る美しい木に囲まれている万里の石牌は、すくっと立っており、天の道に通じているように見えた。
 暫くして、祖父は、ついと立ち上がって、目を輝かせた。
「不思議なものだね、仁は、冬に撫順に来ても凍瘡(しもやけ)にすら、ならなかった」
 祖父の凜とした目には、この天地に生の喜びが密に躍動して見えた。
 凡雪は、奇妙に気持ちが昂揚し、声を立てずに笑った。
 祖父は、幸せそうな表情を浮かべて「万里が近くにいるから、此処を、離れたくないのだ」と静かに呟いた。
 一瞬、沈黙が横たわった。爽やかな繁吹が凡雪の頬に吹き付けられた。異なる世界の壁を超えてゆく力が得られたような感慨を覚えた。
 つづく

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