小説『雪花』全章

心身ともに、健康を目指す私流生活!!
食事や食材、ダイエット、美容などの豆知識がたくさんあります。

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小説『雪花』第二章-8

2017-05-30 06:32:40 | Weblog
 
      八

 十月の涼しい頃、凡雪と凡花姉妹は、また母の面会に『璃积女子刑務所』を訪ねた。
 母の頬は前回よりも削げ落ち、白くなった髪も更に白くなっていた。別れた後、凡雪は声を立てずに涙を流し、ぽたぽたと雫が落ちた。
 凡花も両手で顔を覆い、低く呻いた。時々子供のように声を上げて泣いた。途切れ途切れに喋るので、さっぱり聴き取れなかった。
 正門の外に出た凡雪は身体を振り返って、灰色の刑務所を見回した。すると、門の内側に立っていた警備兵の澱んだ目に合った。
 澱んだ空気に襲われたように感じて、凡雪は、息が詰まりそうだった。
「辛抱強く、待つしかない」と凡雪は、自分に言い聞かせて、唇を強く噛んだ。
 凡花を撫でたり慰めると、凡花がびっくと震え、涙に濡れ目で凡雪を見つめた。顔全体を、真っ赤に腫らしていた。
 その時、どうにも切ない気持ちが胸に酷く上がって来た凡雪は、急いで足を進めた。
 凸凹の道に入った凡雪は再び、母の逞しさに触れたように感じて、重い気持ちが仄かに解れた。そのまま、ゆっくり先に進むと、路地の角に一本の小さな黄色の花が咲いている光景が凡雪の目に入った。斜めに伸びた菊の花だった。
 凡雪は「菊花(ジウェホァ)……」と声に出して、立ち止った。菊花は、誰の注意も惹かないままに、風の中で微動し、さわさわと微かな花音が、間断なく続いていた。
 腰を下ろした凡雪はそっと指先で、菊花に触れた。指先の菊花は、少し湿っていたが、緻密に茂っていた。
「菊花ね。漂(ピアオ)亮(リアン)ね(綺麗)」と凡花も腰を下ろして、好奇心を覗かせて訊いた。
 不思議なほどの強さが感じられた凡雪は、髪を後ろに整えながら「秋の菊は善(よ)き色あり」と小さな声で賛嘆した。
 牡丹は、花の富貴なる者なり、菊は花の隠逸なる者なり。
「花には、それぞれの風格があるわね。母さんは、やはり菊花が好きだわ。だって、陶淵明の人柄そのものなんだもの」
 母の柔らかい声音が、菊の花音を通じて耳元まで届けてくれたように感じられた。そこで凡雪は、一句を詠んだ。
 秋の菊は佳き色あり、露に濡れたる其の英を摂る。
        
 翌年の五月、母の面会に訪れた凡雪と凡花姉妹は、母の好きな小説『紅楼夢(こうろうむ)』と『陶淵明唐詩』を持って行った。母は絶えず微笑んで、二人の暮らしぶりをよく訊いてくれた。
 面会時間が過ぎて別れる時には、母は、必ず「お父さん、大事にしてね」と二人に頼んで見送った。
 今度の帰り道には、天空に、鳶(とび)が両翼を大きく広げ、ピー、ピー、ピーと、鳴き声が谺した。凡雪は、少し怖くなって、両手を合わせて胸を押えた。だが同時に、春風が運んできた新茶の微かな香が漂って、春に優しく包まれているような感じもした。
 そのまま姉妹は、ひたすら前に足を進めた。
 時々、春風がふっと、凡雪の汗ばんだ顔を、ひんやりと撫でるように通り抜けた。

 つづく

小説『雪花』第二章-7節

2017-05-28 15:48:28 | Weblog

       七

母の瞳は、遠い星の瞬きのように見えた。険しい山頂に辿り着いたけれど、後悔はしていない。母の瞳は、悲壮な人生を物語っていた。
 凡雪は堪らず母を見据えた。強張っていた身体が、次々と解き放たれるのを自覚した。
「面会時間は一時間」と、横にいた看守の弾んだ一声がした。言葉がふうっと切れると、声が沈むように落ちた。
 看守は机の前に戻って、座った。何気なく新聞を開き、読んでいるように見えた。だが、隠された目が間違いなく三人を監視(かんし)していた。面会室には不気味な静けさが籠った。
「ここに来るの、大変でしょう。でも、二人に会えて、嬉しいわ」
 母の紛れもない声が、僅かな間に、凍えるような静けさを破った。五ヶ月ぶりに母の声を聴いた凡雪の目から泣き止んだ涙が再び溢れて、涙は、はらはらと揺れて流れた。
 母は凡雪の頬の涙を撫でるように手で拭きながら、「ごめんね」と静かな声で詫びた。
 凡雪は母の温かい手に触れ、心が抉られるほど愛おしく感じた。
 涙がつい、堰を切ったように激しく溢れた。凡雪は洟を啜りながら、凡花から渡された手(スオ)絹(ジウェ)(ハンカチ)を取り、涙を拭きながら「お母さん、謝らないで」と言葉を返した。
 声が、空中にぶら下がったようになった。足元から這(は)い上がって来た冷気が、胸を騒がせたのを感じて、凡雪は口を噤んだ。 
 その時、凡花が顔を綻ばせて、明るく口を開いた。
「今日、お母さんの好物を持ってきたよ」
 小動物のように可愛らしい声で、母が目を輝かせ、嬉しそうに「そうなの」と囁いた。
 凡雪は、テーブル上の布袋を開けて、十個の塩(シエ)鴨(ヤー)蛋(タエン)(鴨卵の塩漬け)と、瓶詰めした豚肉味噌煮を出した。凡花が母の腕にぽんぽんと触れて、透明な声で伝えた。
「お母さん、この塩鴨蛋、姉(ジエ)が、塩水で漬けたのよ」
 母は、久しぶりに開放感に浸ったような目線で、塩鴨蛋を見つめた。また、「そうなの」と穏やかな言葉を返して、ごくりと生唾を飲み込んだ。
 気が付くと、横の凡花が、指で凡雪の髪を、繰り返し梳いていた。
 その時、看守が近寄って来て、歪(ゆが)めた顔で、テーブルに置いてあった品々を確認した。だが、何も言わずに、黙って机の前に戻っていった。
 母は微笑んで、「ご馳走だね! ありがとう」と言葉が零れた。
 相変わらず外からは、不穏な風音が聞えて来る。だが、窓からは淡い明りが射し込み、優しく、親子三人を包んで降り注いでいた。
 母は、二人の近況を尋ね始めた。
 凡雪は、母の綺麗に切り揃えた卵型の爪を眺めて、琵琶(ピーバ)を弾く天女の爪を連想した。叙情的な曲が聞えってくるように感じた凡雪は、感慨を覚えて小さく頷いた。
 突然、横に看守の声がした。凡雪は瞬時に、首を看守に振り向けた。
 片手で白色のアルミコップを持っていた看守は、眉間に皺を寄せて、凡雪に訊いた。
「あんたが長女か。これ、二人に」
 看守は白湯の入ったコップを凡雪の手に渡してくれた。
 黒と白の、はきっりとした看守の目に強い視線を感じた凡雪は、「はい」と返事した。
 看守は、すぐに立ち去った。看守の背後に巻き起こった風が、凡雪の額の表面を流れた。
 乾いた空気に、一瞬だけ混ざった霧雨が降り掛かって来たように思えた。凡雪は白湯を一口そっと啜り、看守の顔を見て、首を縦に一回ゆっくり振って、心遣いに礼を返した。
 母もその時、看守を見ていた。程なく、落ち着いた表情で、二人に話し掛けた。
「林(リン)看守は、いい人よ。母さんは血圧が高いので、外の労働を免除されてるの。受刑者たちは毎日、茶畑の仕事をしている。お茶の手入れや、茶摘……結構、大変な仕事なの。皆は若いけど、重労働ってね、腰が……」
 凡雪は「母は、その代わりに、色々なスローガンを書いたりしているのね」と心の中で呟きながら、目を壁に貼ってあった紙に向けた。
 毛筆字は、母の馴れた手付きで、滑るように紙に浸(し)み込んでいた。だが、よくよく見ると、乾いた薄い紙に字が萎(しぼ)んでいて、細い傷になっていた。
 まるで受刑者たちの、それぞれ傷だらけな人生が刻まれているように感じて、凡雪は空を仰いで、鼻息を出した。弱々しい冷たい息だった。
 母は視線を落として、「雪……陳と、上手くいってる?」と凡雪に尋ねた。 
 凡雪は、天井を見つめたまま「私たち、別れたわ」と、ぼつりと口を開いた。
「雪、ごめんね」の母の声が微かに震えた。心に罅が入ったように聞えた凡雪は、二度、瞬きをして、母の言葉を遮るように答えた。 
「お母さんのせいじゃないのよ」
 母は無言のまま頭を下げ、落涙(らくるい)した。凡雪は、母の頬を伝わって落ちる雫を追いかけた。
 滾(たぎ)るほどの自責が漲っている――一瞬、魂がすぽんと抜け落ちたような虚しさを覚えた。
 凡雪は手を伸ばして、テーブル上の母の両手を、ぐっと握り締めた。なんと母の手は、骨に近い感触だった。
 凡雪は心がざわざわして、疼いて堪らなかった。心の底から、母(ママ)に呼び掛け続けた。
 母は凡雪の髪を、優しく撫でながら「綺麗な髪ね」と潜めた声で告げた。
 声が、空中にゆっくりと溶けていた。夕日の僅かな光が、窓から天井に移って、届こうとしている。
 今の光景を記憶に留めようと努めた凡雪の脳裏には、逆に昔の記憶が、鮮やかに蘇ってきた。母の柔らかい声音(こえ)だった。
 顔真卿(イエンツンチン)の書体を書くのはね、修行と同じなんだよ。全神(チアンシン)貫(グアン)注(ッオ)(全力を集中する)に、書と向き合えば、顔真卿の力を得た線を引けるのよ。
「母は今も、筆を走らせている」
 凡雪は深く頷いた。すると、筆が紙を走る音が、何処から聴こえてきたように感じた。
 瞬く間に時間が経ち、遂に面会の別れの時が来た。出口に顔を向けた凡雪は踵を返した。
「お母さん、また会いに来るからね」
 母は泰然とした姿で、笑みで頷いた。一度、ゆっくり唇を舐めて、二人に伝えた。
「お父さん、大事にしてね!」と片手を上げて、二人を見送った。
 外に出ると、風音がひゅーと鳴り、空が漏れなく分厚い雲に覆われていた。姉妹は身を竦めて、ザァ、ザァ、ザァと、重い足音に伴われながら、下りの方向へ歩いて行った。
 起伏の多い険しい道は、母の逞しさを含んでいるように感じて、凡雪は足を速めた。
 やがて石造りの街道に入り、先へ少し進めると、宿舎が現れた。
 凡花は「今晩、ここに泊まるのね」と声を漏らした。
 時刻は日没直前で、まだ明るい。でも凡雪は、宿舎の扉を開けた。
 建物は、埃が下り仕切る閑寂の音さえもが聴こえてくるようだった。姉妹が建物の中へ進んでいくと、「いらっしゃいー」と急(せ)かす女性の声が聴こえてきた。
 途端に凡雪は、何処にも戻れないほどの激しい疲れを感じた。

 つづく

小説『雪花』第二章-6節

2017-05-27 15:17:58 | Weblog
 
   六

長形で広い部屋だった。土の壁が薄いせいか、中はひんやりと冷えていた。
 右方向にある机の前に一人の中年女性の看守が座っていた。浅黒い肌で、ぼっちゃりした体で綿入れの軍用服に包まれていた。
 机側面の上には、鉄鋼の格子を填められたガラス窓があり、弱い光が差し込んでいる。左方面の角には、小さいテーブルと椅子二つずつが置かれていた。天井に近い壁にも、同じように鉄鋼の格子を填められたガラス窓があった。
 中に入って凡雪が机に近づくと、看守は気味悪げに一瞥した。凡雪は小さくお辞儀した。
 看守は、椅子を鳴らして立ち上がり、喉元から絞り出すような声で「面会?」と尋ねた。
「はい」と凡雪が母の名前を教えると、看守は姉妹を見詰めて表情を少しだけ緩めた。
 看守は、机の魔法瓶を片手で持ち上げて、片手のガラスコップに白湯を注いだ。魔法瓶を机に戻してから、口で浮いた茶の葉をふぅふぅと吹き冷ますようにした。
 ぐいと、一口を飲んだ看守は「李亜萍の娘か」と、姉妹を上から下まで眺めた。
 看守は、片手のコップを口につけて、一口がぶりと飲み干した。
 コップをぽんっと机に置いた看守は「今、連れてくる」と、事務的な好調で伝えた。
 看守は、鍵(かぎ)を左側の鉄の門の鍵穴に差し入れて、引き摺るような重い音で、門を、がち、がちと、軋ませた。
 門を開けると、看守は、少し彷徨ってから、門の中に入った。余所者が入り込まないための用心のようだ。
 門が閉められると、コンクリートの地から心の底まで震わすような不快な音がした。
 一瞬、恐怖する気持ちが否応なしに兆し、凡雪は戦慄の息が漏れ、一歩おずおずと後へ退った。姉妹は、冷え冷えとしたコンクリートの地に立ち、森閑とした静けさに包まれた。
 凡雪は周囲を見回した。すると、左の壁一面に貼り付けた紙に書いた毛筆(マオビー)の文字に目が引き寄せられた。凡雪は一歩さっと壁に近寄り、息を呑んだ――。
「線と点の太い字。顔真卿(イエンツンチン)の書体……間違いない、お母さんの筆跡だわ」
 凡雪は呟きながら凝視した。すると、脳裏にふと、母のウェーブが掛った笑顔が現れた。
 雲煙(うんえん)が湧いてくるような母の筆勢に、母の全てを見透かしているように感じ、凡雪の視界が滲んできた。凡雪は手を上げ、丁寧に母の肉筆を撫でながら「母(ママ)は、こんな場所で」と声を漏らした。
 肩に負った布袋を、前にあったテーブルに下ろした凡雪は、再び紙を眺めた。
 紙の冒頭部分には、毛主席語録の一節が書かれていた。次は、禁じることや思想を改造するなど、スローガンがぎっしりと書いてあった。
 横にいた凡花は、一歩ゆっくり後ろへ退いて、更に確かめて、凡雪に告げた。
「間違いない、お母さんの字だわ!」
 母の毛筆(マオビー)字(ツ)は明晰で、筆跡には、ゆとりのある気軽な雰囲気も漂っている。
 まるで璃积村の中を優雅に舞う美しい蝴(ふー)蝶(ティ)(蝶(ちょう))のように感じて、凡雪は、自分の目が濡れてゆく様子を、はっきりと自覚した。
 その時、門が、かちっと、開くの音がした。凡雪は目を音の方角へ向けた。
 門から出てきたのは、五ヶ月ぶりの母だった。一瞬、母の姿が、凡雪の言葉を塞いだ。凡雪は、全身にびっしり鍵(かぎ)を掛けられたように硬直するのを自覚した。
 母の顔は、げっそりと痩けた頬から、下顎(したあご)にかけて、皺が深く刻まれていた。支給品の受刑服を着た母の身体(からだ)が、以前より一回りは確実に小さくなって、痩せていた。頭髪は、四十半ばとは思えないほど白くなっていた。
 想像を越えて老い衰えた母の姿に、凡雪は目が引き裂けるほどの驚きを覚えた。凡雪は、ただ黙って立っているしかなかった。
 母は凡雪と凡花のほうへ、ゆっくりと近づいてきて、二人をしみじみと眺めた。
 母は微(かす)かに笑みを浮かべて「雪(シゥエ)、花(ホァ)……元気?」と静かな声で訊ねた。
 暗い影を感じさせない母の瞳に、凡雪は、心で母(ママ)に呼び掛けた。傍目にも隠しようがないほど眼(イエ)泪(ルイ)(涙)が激しく、次から次と流れた。
 親子三人は、テーブルを挟んだ椅子に座っていた。

 つづく

小説『雪花』第二章-5節

2017-05-26 04:00:37 | Weblog
            五

昼食を済ませた凡雪と凡花の姉妹は、高楼に向って石造りの街道を歩いて行った。
 街道の横には、黒塗りの土壁の家があり、門の前に汚い襤褸服を着、煉瓦に腰を下して
いる老人が目に入った。目が狗(コウ)眼(イエン)(犬の目)のように、じっと、両姉妹を見詰める。
 老人は、ゴホン、ゴホン! と、唐突に咳払いした。次の老人は手でざっと鼻(ぴー)涕(ティ)(洟(はな)水を拭き取って、何気なく家の土壁に付けた。凡雪は、チラッと、壁を見た。
 鼻(ぴー)涕(ティ)と老人の生活と相まって、住環境は悪化の一途を辿っているように感じた。
 両姉妹は寒空の下を、急ぎ足で歩いた。二百メートルくらい歩き続けると、道が二本に分かれた。その時、左側の道に面した古い建物が、凡雪の視界に入ってきた。
 白壁が剥がれ落ちた右側に、鉄の看板が吊り下がっていた。『璃积民宿舎』だった。凡雪は「今晩は、璃积に泊まらなければ……」と呟いていた。
 凡雪の脳裏に、殻々となった鼠の死骸が、ふっと浮かんできた。慌てて凡花の腕に手を回した凡雪は、足を右側の急な坂道に向け、踏ん張って上がって行った。
 五分ほどで、灰色の塀で囲まれている刑務所の高楼が、目の前に現れた。
 ようやく辿り着くと、凡花が無表情で「ああ、着いた」と凡雪に声を掛けてきた。
 凡花の視線には、かつての明るさはなく、どこか冷たばかりで、まるで滴がぽつりと落ちたような暗い声だった。辺りは静まり返り、重い空気が流れた。
 正門の右塀には、『璃积女子刑務中隊』の看板が掛っている。内側には、銃を持った黄土色の軍服姿が一人、見えた。刑務警備兵のようだ。
 どっしりとした身体には、周りを威圧する存在感が漂っていた。
 凡雪は、ゆっくり大きく気空を吸った。身体を曲げずに、背筋を、すっと、伸ばした。
 地面は平だが、粒(つぶ)砂(すな)がずっしりと埋められ、前へ進むと、足下でザァ、ザァと音がする。
 凡雪は、横の凡花には聞き取れないほどの小声で「お母さんは、この中よ」と呟いた。
 その時、後ろからザァ、ザァ、ザァ、ザァ……の足音を耳にして、振り返って見た。
 すると、一列縦隊となった、十人くらいの若い女性が近づいて来た。皆が同じ青色の服を着、カゴを背負っていた。受刑者だった。
 その時、凡雪は、一人の受刑者と視線が合った。すでに違う世界で生き、違う誰かを愛おしく見つめているような瞳だった。
 列の最後尾には、一人の刑務女官が従いていた。色褪せた軍服を着て、髪を肩の辺りで揃えていた。額の下に見える厳格的な瞳は、世界中の光りを吸い込んでいくような、強い力が宿っている。
 受刑者たちは、凡雪と凡花の姉妹をじろじろと見回しながら、正門を潜って中に入った。まるで歪な形の、色褪せた一枚の青春映画のポスターを見たようで、凡雪は目を擦った。
 唐突に風が吹き荒れた。肌を刺す寒さに懸命に耐え、凡雪は声もなく、ただ立っていた。
 警戒しているような風音に、凡雪は、記憶が次々と凍り付いていったように感じた。
 だが、夕日が、身体に降り注いていると気づいた凡雪は、記憶がすぐ戻ってきた。ほんの少しの間に、覚束ない足どりを整えた。
 再び風が吹き荒れると、髪が乱れ、細かな砂が、服の上に降り落ちて来た。凡雪は髪を搔き上げながら、四周を見回した。
 門の脇の受付の窓口に気づいた凡雪は、一歩さっと前に進み、面会希望の意思を伝えた。
 窓の中の男の人は、黙って凡雪に視線を据(す)えたままで登録票を渡した。一枚の横書きの薄い紙だが、升目に印刷された文字が、濃く写されいた。凡雪はすぐ票を受け取り、名前と、面会相手の関係などを記入して、再び票を窓口の中へ差し入れた。
 男の人はチェックを済ませると、「二号室だ」と噤んでいた口を開いた。
 凡雪と凡花の姉妹は、正門に足を踏み入れた。凡雪は、右側にある鉄格子の門に目を凝らして、心に問い掛けた。
「受刑者たちは、皆、この中にいるんだろう」
 凍てつく空間の中を歩く凡雪は、遥か遠い異世界に足を踏み出したように感じた。
 土を塗り固めた壁に素焼きの瓦を載せた平屋が現れた。数軒が連なっていた。
 凡雪は『二号』に目を留め、ドアを押した。

つづく
 

小説『雪花』第二章-4節

2017-05-25 18:02:04 | Weblog
 

 
三月六日土曜日。暦の上では春だが、風が肌に曝されると痛いくらい、まだ寒い。
 朝、綿入れのジャケットを着た凡雪と凡花の姉妹は、娄(ルー)門(モン)行きのバスに乗った。休日にも拘わらず満員で、両姉妹は潜り込むように立った。
 西(シー)大(ダイ)街(ジエ)駅で多くの人が降りたので、両姉妹は、やっと座席に掛けた。西大街駅から中心街を抜けると人影が疎らになり、バスがスピードを出し始めた。
 十分後に娄門終点駅で降りた両姉妹は、見慣れない感じの街を見回した。
 前方の長距離バスの駅舎に気づいた両姉妹は、小走りで行った。『蘇州郊外駅』の看板を見上げて構内に入った途端、辺り一帯に充満した異様な臭に凡雪は咽(むせ)返って咳き込んだ。
 人の流れが錯綜し、ベンチも、長距離バスを待つ人たちで、びっしり埋っていた。三月なのに、人が活きれで蒸れていた。
 駅のスピーカーから発車時刻が流されると、荷物を背負った田舎人たちが騒(さわ)ぎながら、改札口に集まった。凡雪は三番窓口で、溧阳行きの切符を二枚買った。
 改札口に入った両姉妹は、すぐ溧阳行きのバスを見つけ、髭(ひげ)だらけの襤褸服を着ていた男乗客たちの後ろに並んだ。
 五分後、バスのドアが開かれた。男たちは争うように乗り、両姉妹も無我夢中で、乗り込んだ。どうにか通路の中ほど左窓側の席に両姉妹が腰を下ろした途端に、ドアが、かちゃーんと閉まり、バスが動き出した。
 バス社内では、ワイワイと大声が上がったり、キツイ臭いが漂っていた。車輌の通路に各々の荷物がずしりと埋まっていた。
 やがてバスがスピードを上げ始めた。ゴトン、ゴトンと、大きく揺れる度に、乗客たちは、また騒ぎ声を上げたり、罵(ののし)りの声も聞こえた。
 凡花は凡雪にべったりとくっついて、窓外を眺めた。景色が次から、次へと過ぎて行き、蘇州はあっという間に離れた。
 途中で下車する度に、男たちは、また背中に荷物を負い、先を争って降り出した。通路にあった荷物が少なくなった頃には、すでに終点の溧阳駅に近づいていた。
「おい、早く降りな」と運転手が高い声を出した。両姉妹は慌ててバスから降り、溧阳駅で次の璃积行きのバスに乗り換えた。
 バスは凸凹の未舗装路を揺れながら走った。璃(りー)积(チー)は蘇州と全く違って、田舎風景だった。
 窓外を見渡す限り地面に、雪が薄く斑らに残っていた。連なる茶畑が次から次と現れた。
 十五分後にバスが璃积駅村に停まった。バスから降り出た瞬間、寒風で身に凍みた凡雪は立ち竦んで、辺りを見回した。
 露店が並んでいる通りの飯屋が目に映った瞬間、腹がぐーと、鳴った。凡雪は腕時計をチラッと覗いた。すでに午後二時も過ぎていた。
 テーブルに近寄ると、襤褸(ぼろ)を纏った中年の女性に声を掛けられた。飯屋(フアンオ)の女主(ニュツオ)だった。
「二人、姉妹? 都会の人だな……璃积刑務の面会だろ?」
 まるで、闇にいる母への、酷薄な批判を受け取ったように思えた。身体から力を抜かれた凡雪は、できる限りの声で「ええ」と返事した。
 女主は洟を啜る音がした。空ろな目で両姉妹を凝視して、先を続けた。
「最近は面会に来る人が多いね。今の時間だと、冷飯と、白菜スープしかないよ」
 凡雪は口許をわずかに緩めて、「構わないです。ください」と返事した。
「じゃっ、二人、二元だね」
 女主は凡雪の手から金を受け取って、また喋り出した。
「ねぇ、女刑の、面会は、初めてなの?」
 一瞬、伝わってくる言葉が、凡雪の耳奥にへばりついて離れなかった。その時、凡雪の代わりに凡花が、「そうよ」と答えた。
「近いよ。ほら、ずっと先、灰色の高楼、見えるか? あれが、女子刑務だよ」
 女主の言葉は、白い息にくるまって吐き出された。両姉妹は、女主の目線の向かった方角を眺めた。小高い山に聳える建物が、凡雪の目に映った。

つづく

小説『雪花』第二章-3節

2017-05-24 17:21:44 | Weblog
 
     三
 
二月になると、さらに寒くなっていた。
 父が母と離婚して以来、親子関係が、さらに疎遠になった。凡雪は、相変わらず出勤し、家事にも精を出した。父に声を掛けられるのは、生活費を渡してくれる日だけだ。
 五日間あった春節休暇も、あっという間に終った。
 初出勤の朝、凡雪は職場に着くと、陳と、ばったり会った。陳は、すぐ鼻の頭を搔いた。
 凡雪は、視線を陳に向けったままで挨拶をした。
「春節、おめでとうございます」
 陳は数秒ほど躊躇った後、身構えて、「おめでとう」と凡雪に挨拶を返した。
 凡雪は、陳が横を掛け抜けて行く姿を見送らなかった。
 二人の記憶も、世間の冷たい風も、一切を気に留めない凡雪は、その瞬間に、心の襞が、すでに取れていた――躊躇いも、後悔も、悲しみも、迷いも、感じられなかった。
 一週間後の木曜日の夕方、家に戻ってきた凡雪は、何気なくポストを見た。一通の封書が放り込まれていた。封書を手にした凡雪は、裏を返した。
 差出人のところに《溧(リー)阳(ヤン)刑務所》の文字を見た凡雪は、胸がどっきんと烈しく高鳴った。
 急ぎ足で、階段を上り、部屋に入った。細心の注意を払いながら手紙を取り出した凡雪は、そっと広げて見た。母からの手紙だった。
「愛する雪、花……私は今、溧阳璃积村の女子刑務二隊にいます。血圧が高いのと年齢のせいもあって、重労働を免除されています。毎日、簡単な書き物をしています。三月から面会できるので、できれば一度、会いに来てほしい。とても会いたいです。母より」
 涙に噎びながら、何度も母の手紙を読み返した凡雪の心は、もやもやと疼いた。
 零れた涙に溶けていく母の筆跡を見詰めながら凡雪は、堪らず喉から迸るような声を上げた――母(ママ)!
 溧阳は蘇州と同じ江蘇省直轄であっても、蘇州とは百二十五キロくらい離れている。

 つづく
       

小説『雪花』第二章-1,2節 

2017-05-23 11:18:09 | Weblog
    
第二章 刑務所の面会 
       
    一
 
年が明け、一九八五年になった。一月十日に母が教唆犯として有罪になり、懲役四年の判決が下された。母の判決を静かに受け入れた両姉妹は、体が縛られたように緊張した。
 だが、それほど驚かなかった。今の情勢の冷たい風に慣れてきたようだ。ぐったり憔悴した両姉妹は夜早くベッドに入った。凡雪は枕に頭を沈めたまま、母の想像に耽った。
 母の僅かに茶色い瞳が、潤んできた。揺るがない強固な目光が、瞳に燃えてきた。母は穏やかに栞を挟んでいる陶淵明の唐詩のページを開き、徐に読み始めた。
 人生無根蔕(人生には根(ね)も蔕(へた)もなく)
 飘如陌生塵(飘(ひら)々(ひら)と陌(みち)生(ばた)の塵(ちり)のようなものだ)
 分散随風転 (分散して風に随(したが)って転ず)
        
     二
 
二週間後の日曜日の朝、所用がある父は、出かける前に気軽さを装って提案した。
「今日の昼頃、帰ってくるので、昼飯は、三人で食べよう」
 何故だか、父の顔には、うっすらと安堵の色が見えた。凡雪は呆気にとられながらも、眉を微(かすか)に吊り上げて、「はい」と頷いた。
 母の事件以来、親子三人で揃ってまともに食事をしてない。父は、食事に託けて何かを伝えたいだろうと、凡雪は予想をしてみた。
 でも、何も思い浮かばず、凡雪は昼の食材を買いに出掛けた。
 東から昇った太陽が厳吾(イェンウー)弄(ロン)の屋根に残った雪を照らして光っていた。だが、凡雪は風景など観察している余裕は全然なく、歩いて行きながら、父の言葉の真意を推し量っていた。
 昼の食卓で、三人が揃うことになり、テーブルに蒸魚、卵とトマト炒めを並べた。
 久しぶりに父とゆっくり食事ができるので、わざわざ地鶏を買ってきた凡雪は、自ら毛を毟り、皮を剥がして、コトコトと煮込んだ。
 でき上がった鶏を大皿に盛った凡雪は、まず父の取り碗に、スープを掬った。
 父はスープを一口、ゆっくり飲んで、両姉妹の近況を伺っていた。が、箸を持ち上げると、ただ黙々と食べ始めた。
 ガラス戸から太陽が差し込んできたテーブルで、親子三人は無言で食事を続けた。誰も会話を持ち出さず、あっという間に食事が終わった。
 父が突然、両姉妹に向って「二人に伝えたいことがある」と話し掛けた。
 一度、思わせぶりに言葉を切った父は、憮然たる表情で先を続けた。
「父さん、母さんと離婚したんだ」
 凡雪は「ええっ?」と声を漏らし、父の顔を見詰めた。ショックで喉に棘が引っ掛かったような気がした凡雪は、すぐ返事ができなかった。
 父は息を漏らして、「先週、離婚届けを出した」と話を続けた。
 咄嗟に凡雪は、頭の中で導火線に火を点けたような気がした。その時、凡雪は反射的に口に出た「酷すぎるよー!」の言葉を、父に浴びせた。
 すくっと立ち上がった凡雪は、ドアに向って歩いた。立ち止って振り返り、父を睨みつけた。凡雪は、これほど激昂する衝撃を覚えたのは、生まれて初めてだった。
 咄嗟に、パンっ! と、ドアを閉めて外へ飛び出した凡雪は、階段を降りて、厳吾弄の中心街に向って、ひたすら歩いた。
 頭の中で火を散(ち)らし、粉々に吹き飛んだ。父の言葉が思い出せなかった。
「ねぇ、ねぇ、姉(ジエ)、待ってよ!」
 追い掛けて来た凡花に腕を掴まれた凡雪は、妹の手を払い除けた。足を止めなかった。
 時折びゅんと吹く風が、残った雪(ゆき)粉を連れて、何度も頬を叩かれた。雪に打擲されると、やっと父の言葉が蘇ってきた。
 胸の芯から何かがすっぽりと失われてしまった凡雪は、初めて虚脱感を覚えた。
 凡花は手編みマフラーを凡雪の手に渡し、「風邪、引いちゃうよ」と心配げな声を放った。
 厳吾弄を出て右の徒歩道へ行くと、一台のバスがちょうど止まった。中から降りてきた姚琴が、両姉妹にばったり出会った。
「二人とも怖い顔して、どうしたの?」
「姉(ジエ)、姚さんに説明して」
 凡花の言葉に促(うなが)されて、凡雪は少し頬を緩めて、姚琴に挨拶した。
 姚琴は両姉妹の母親の件が気に懸かって、わざわざ会いに来たようだ。
 三十分後、姚琴と両姉妹は平門(ピンメン)北路(べーロ)のバス停から降りた。目の前に北寺塔(ベイスーター)が現れた。
 北寺塔は三国時代に呉(こ)の孫権(そんけん)が母の恩に報(むく)いるために建てたもので、高さは七十六メートル、八(はち)角(かど)形の九層になっている。中には階段があり、各階に回廊(かいろう)も作られ、九階まで登れば、街全体を見渡すことができる。
 凡雪は昂然と顔を上げ、塔を眺めていた。
 三日前の雪は北寺塔の層の縁にまだ残っていて、寒さでなかなか溶(と)けないようだ。
 気候の好い時季には、来る人々は塔を登るために、列もできるほど賑やかであったが、寒い冬では、塔を登る人影が少ない。
「九階まで登りましょう!」と姚琴は二人を誘った。
「ええ―、九階までも!」両姉妹は視線を一斉に姚琴に移した。
「ねぇ、あんたたち、九階まで登ったこと、ないだな。ほら、早く!」
 姚琴は二人をぐいと引っぱって塔を登ろうとした。
 両姉妹は塔に入って螺旋階段をぐるぐると登った。九階までとなると、一苦労だった。
 誘っておきながら、一番最後に上がってきた姚琴は、ハアハアと息切れしながら、どうにか「ほら、外を見てよ!」と言葉を出した。 
 両姉妹は街を一望した。太陽の光が延(えん)々(えん)と果てしなく街に浴びている。建物の突き出している所々に残っていた雪は、大家が描いた水墨画(すいぼくが)のように、ひときわ輝いていた。
 街中をとぼとぼと歩いている人々の姿がとても小さく見え、凡雪は視線を巡らせた。
 そうしていると、胸に烈しく燃え続けていた火種(たね)が、徐々に消えていった。
「風景、凄いね!」と凡雪は感嘆して、声を漏らした。
 その時、凡花が大きく口を開けて「大(ダイ)混(フンン)蛋(ダン)(ばか野郎)、飛ん出け!」と吠えた。
 声が冴えた空気にすぐ弾けて行った。
「高い塔で、大声叫ぶってのも、いいわね、気持ちがすっきりする」
 聞こえてくる誰かの声に促された凡雪は、ほんの少しだけ気持ちがすっきりした。
 そこで、わずかに間を開けて、小声でと首肯した。

 つづく

小説『雪花』第一章-8節

2017-05-22 16:31:31 | Weblog
        
          八

《振興麺店》を出てから、姚琴は、黙って洟を啜った。肩にあった紅い紅絹の肩布を取り去って、凡雪の肩に掛けた。
「雪は、まだ若いし、美人だし。良い人に出会えるわよ!」
 凡雪は、姚琴を見つめながら、頬を緩めた。
 そっと凡雪の手を握った姚琴は、静かな声で、尋ねてきた。 
「お母さんのことなんだけど。今、何処にいるのか、知ってる?」
 突然、母の消息を訊かれると、凡雪は、記憶が脳裏を烈しく震わせるのを、どうすることもできなかった。母を待ち詫(わ)びる気持ち……悔やまれる自分の過ち。
 凡雪は目元を手で強く押えながらも伝えた。
「母は今、《蘇州金(チン)阊(ツアン)勾留所》にいるの。この先、母は、どうなるかな」
 話は糸のように切れた。遠くから、母の一筋の淡い光が注ぎ寄って来るように感じる凡雪は、心を強く抉られた。
 姚琴は「うん、うん」と小さく頷いた後、凡雪の頭の天辺をぽんぽんと叩いた。
「人生ってね、いろいろ、あるのよ」
 凡雪は、黙って姚琴の瞳を覗き込む。
 姚琴の瞳に、生きている筋の模様が波うって流れてくるのが見え、凡雪は胸に、じーんとなるような感動を覚えた。
  
つづく

小説『雪花』第一章-7節

2017-05-21 17:05:35 | Weblog


 
 翌朝、窓の外の、降り頻(しき)る雨の中で、凡雪の瞼が跳(は)ねて、目が覚めた。
 雀(すずめ)の鳴き声……。チッ、チッチッ、チッ……短く、速く、太く、罵(ののし)るような鳴き声だ。
 雨は際限(きり)もなく降っている。強くはないが、空気に絡(から)まり落ちている。
 凡雪は、雨に濡れた窓へ視線を向けて、口を動いた。
「陳とは、もう、関係ないのに、夕(ゆう)べ、あんな冷(ひや)やかな態度で、本当は、憎むはずなのに、なぜか、陳が恋しくて堪(たま)らない」
 凡雪は、首を振って、嘆息(たんそく)を零した。どうにか今の気持ちを追い出そうとした凡雪は、体を起こそうとした。ところが、力が抜(ぬ)かれたようで、動けなかった。
 しばらくして、また、体を起こそうとした。だが、胃がむかむかと焼(や)け、今まで体験した覚えがないような苦痛を感じた。
 嵐の前の黒い渦巻(うずま)き雲のように、幾度(いくど)となく喉元まで込み上げてくる。
「目が覚めた。調子悪いの?」と凡花が心配そうに凡雪を覗き込んできた。
「うん、ちょっとね」
「姉(ジエ)、顔色悪いよ。今日、休んだら。雨も降っているし。文化宮には電話をしとくから」
 凡花は頑(かたく)なに窓ガラスを見つめていた。横顔が薄い光の中で、半透明な娃(ワー)娃(ワー)(人形)のように見える。
 凡雪は妹へ視線を向けたまま、静かに頼んだ。
「花(ホァ)、陳と別れた件、暫くお父さんに言わないでね」
「そうね、言わないわ」
 凡花は屈託なく、鮮やかな口調だった。凡雪は黙って頷(うなず)き、窓ガラスの外側の冷たい霖雨(りんう)を想像した。 
「今日、姉(ジエ)は、ゆっくり休んで」
 凡花は唇を尖(とが)らせて、勝手に決めた。言葉に癒された凡雪は、妹を眺める。
 丸いおでこに、前髪を短く切り揃(そろ)えている。剃った眉毛も覆い隠されて、確かに、誰も気付かないようだ。
 いつも曇ったりしない膨(ふつ)っくらとした頬が、やや赤(あか)らんでいる。たまに滑稽(こっけい)な行動を起こす妹は、なんて可愛(かわい)のだろうと凡雪は、無性に凡花が愛(いと)おしい気がした。
「行ってきまーす!」の凡花の明晰(めいせき)な声が、部屋を響き渡った。
 霖雨は依然(いぜん)として深(しん)々(しん)降り続いている。 
 悲しみを拭い去ったように落ち着いた凡雪は、そろそろ起きなきゃと、ベッドから立ち上がった。胸が再びむかむかして、吐き出そうとした。
 凡雪は横たわって、両手の平で胃部を撫でた。目を閉じると、何故か、瞼の裏に、姚琴の温かい眼差しが浮んできた。
 目頭(めがしら)に涙が流れた凡雪は、うっと呻くような低い声を漏らした。
 無性に姚琴が恋しくなった凡雪は、ゆっくりと、ベッドから上がった。
       *
 雨は、いつしか止んでいた。まだ十一月なのに、鉛色をした空気を凍てつくように冷酷に感じた凡雪は、風で、さざめく柳に、視界を塞(ふさ)がれた。
 緑と、枯れた葉の茶色が混ざり合っている。
 家を出た凡雪は、厳吾弄沿いを歩き進めた。やがて、雑貨店前に着き、店内から、がやがやとした人の、喧騒(けんそう)が辺りに響き渡った。
 凡雪は雑貨店に入り、凍えた手で入口脇の公衆電話を取ると、堅く結んでいた唇を、おもむろに緩(ゆる)めた。
「凡雪です。姚さんに会いたい! お昼、会えませんか?」
「何かあったの? いいわよ」
 姚琴の透き通るような明るい声を聞いた凡雪は、ほっと一息ついた。
 店を出ると、乾(かわ)き切った口内に唾(つば)がずっしりと広がって来た。その時、凡雪は、心が少しだけ、楽になったような気がした。
 昼十二時前、凡雪は、姚琴の会社『東方(トウファン)建設(チエンス)厂(ツアン)』の近くの《振(ツン)興(シン)麺(メン)店(テン)》に足を運んだ。
 窓際のテーブルに近寄った凡雪は、足を止めて、テーブルを眺めた。
 真中の水滴(すいてき)が、動いた。端(はし)のほうに流れて、疵(きず)のように小さくなり、見えなくなった。
 凡雪は視線を向けたまま、言葉を濁(だく)して呟いた。
「今、私の、心の壁に疵を刻まれたいる。恨(くやむ)という疵」 
 弾(はじ)けるような笑顔の若い店員が近寄ってきた。凡雪は口許(くちもと)を締め、椅子に腰を下ろした。
「いらっしゃい。ご注文は?」
 女店員は眉根(まゆね)を開いて、返事を待つ。凡雪は女店員を一瞥(いちべつ)してから、店内に視線を巡らせた。昼時だったにも拘(かか)わらず、閑散(かんさん)として、客が少ない。
「注文は、後で。もう一人が、来るので」
 女店員は「分かりました」と、すぐ身を引いて、去っていった。
 空の鉛色を集めた振興麺店の窓ガラスには、雨水の垢(あか)が不規則曲線の模様を描いている。
 凡雪の視線は、ガラスを通して、空を見据えていた。ふと、哀れな自分を想像する。
 空に垂(た)れ込んだような雲を、紙で折られた天女が風を受けて、美しく舞いている。天女が破れて、散り散り落ちた……。
「雪(シウエ)、待たせて、ごめん!」
 ふと、我に返った凡雪は、姚琴と視線を合わせていた。
「あんた、顔色、ずいぶん悪いわね」
 テーブルの前に立った姚琴は椅子を引っ張り出して、座りながら凡雪を見つめた。
 凡雪は少し緊張し、身構えた。
「お仕事なのに。呼び出して、ごめんなさいね」
「いいのよ。まだ、食べてないでしょう。ここの虾(シャ)仁(ルン)麺(メン)(剝きエビ麺)、とても美味しいのよ。一緒に食べよ」
 姚琴はすぐ店員を呼び、注文を伝えた。店員が離れると、姚琴は改めて凡雪の顔を見つめた。凡雪の口内に苦味が、じんわりと滲んできた。
 凡雪は、一度、唇を軽く噛み、静かに伝えた。
「私たち、別れたの。陳からね」
 直ぐ驚いた表情を見せた姚琴は「まさか! 早過ぎるわ」と弾けた声を出した。
 目を微(かす)かに潤わせた姚琴は、凡雪から目を逸(そ)らし、窓へ移した。
 いつか、遠い星のような澄み透った歌が、《振興麺店》に入り、流れた。
 歌手の阿(ア)蘭(ラン)が、唄った『木(モ)蘭(ラン)香(シアン)』だった。
 ♪木蘭香遮不住傷(木蘭(もくらん)の香りが、痛みを呼び起こす)
 ♪不再看天上太陽透過雲彩的光(虹(にじ)を照らす太陽は、帰らぬ過去(かこ))
 ♪不再找約定的天堂(約束の地は見つからぬまま)
 ♪借不到的三寸日光(束(たば)の間(あいだ)の幸せだった)
 ♪不再嘆你説過的人間無常(この世の無常(むじょう)を嘆く(なげく)こともなく)」
 瞬(まばた)きもせずに歌を聴(き)いている凡雪は、口腔(こうこう)内で呟いた。
「天女よ、凍(い)てつく空の直中(ただなか)まで飛んで行ってらっしゃい。心臓が停止すれば楽になるよ」
 その時、笑みを浮かべた店員が、虾仁たっぷりのっけた麺を持ってきた。
「あんな男なんて、さっさと、忘れなさい! 食べよ。食べないと、何もできないわよ」
 言葉を振るい立たせながら喋る姚琴は、素早く箸を持ち上げた。
 凡雪も少しスープを掬(すく)って口に入れ、すっと喉に流し込んだ。
 朝から何も食べてないので、すぐ胃腑(いふ)に沁みた。だが、喉(のど)元(もと)には込上がらなかった。
 凡雪は、一息を漏らして、箸を取った。

つづく

小説『雪花』第一章-6節

2017-05-20 11:00:53 | Weblog


 六
 
心身とも疲れた凡雪は、その日の退勤後、自転車を宮に置いたまま外に出て、人民路の南へ向けて黙然と歩いた。
 道行く人々はどこか急いでいるようだが、凡雪はゆるゆると歩いていた。
『沧(ツァ)浪(ラン)亭(ティン)』が目の前に現れると、凡雪は足を止め、呆然として園内を見遣った。
 道沿いの植物が、鈍い光の中で枯れて見え、哀願を訴えているかのようにも見えた。
 突然、恐ろしいほど風が吹き、天上の光が掻(か)き消さられるように雲に覆われた。
 完全な闇でも訪れるように思えた凡雪は、再び足を前に進めた。
 漆黒の宙を蹴っているように歩く凡雪は、気づくと、人民路の交差点を過ぎ、南(ナン)門(メン)路(ロウ)を抜け、桃(タオ)花街(ホァジエ)に辿り着いていた。
 桃花街は小石畳の路地で、右側には太湖から流れ込む水路(川)が入り組み、左側には白壁の家々が軒を連ねる、江南水郷の街だ。
 二百メートルほど行くと、陳の家が現れた。
「陳は、まだ帰っていないかな」
 凡雪は水路の臨む岸にあるベンチに腰掛け、水路を眺めるともなく眺めていた。すると、小舟が水面をゆらゆらと近づいてきて、次第に隔てて去っていった……。
 日は、とっぷりと暮れ、夜空にぽつりぽつりと星が瞬(またた)いていた。
 少し寒く感じた凡雪は、陳に貰ったシルクのスカーフをバッグから出して、首に軽く巻いた。この手触りで、また、歳三つ上の陳の歩んできた人生を、思い返していた。
 陳に桃花街に連れられて、ご両親に挨拶に来た。文革期には、陳の父親が右派とされ、一家三人が蘇州を離れ、安(アン)徽(フェ)の癖地の農村へ行った。農村では、同じ右派とされた画家と出会い、六年間、画を苦学した。
「来てたの?」
 いつのまにか陳が横に立っていた。冷たい一声だった。
 夢の中のような心地だった凡雪は、ハっとして、陳の顔を見上げた。
 凡雪はベンチを空けるために、「どうぞ」と、腰をそっと移動した。でも陳は黙って両手をズボンのポケットに入れ、座ろうとしなかった。
 陳の冷やかに急変した態度に凡雪は、俄(にわ)かに息を潜(ひそ)ませた。頭にすぐ〝もう終わった″の言葉を浮べた。重い沈黙の中で、月明りが静かに陳と凡雪を照らしている。
 やがて陳は腕時計に二回、眼をやった。
「もし、なにもなければ」
 陳は少しも視線を上げなかった。凡雪は小さい声で「うん」と返事した。陳は「じゃあ」だけ言って、横から去っていった。
 背後ろのドアをがちゃんと閉めた声が、凡雪の胸を抉(えぐ)った。
 あまりにも唐突(とうとつ)な別れに、凡雪は「――嘘よ」と心の中で呟き、目を強く閉じた。
 音がない。水の音も、風の音も、何もない。陳は、数秒の速さで遠くへ行った――。
 落ち葉が敷き詰められた森の袂(たもと)に立って、笑っていた。
 凡雪の心の画面に、陳の笑顔だけが、焼きついていた。
 ゆっくり立ち上がた凡雪は、ベンチから離れていった。
「この二年間は、何? 愛は脆(もろ)いもの? 陳を知ってるつもりだったけれど、違ったようね」凡雪は、桃花街の東へ歩きながら、自らに問い掛けた。
 知らず知らずに、凡雪は迷路(めいろ)に入っていると気づいた。先ほど灯りのついた街を通ったところまでは分かったが、いつしか砂利(じゃり)の暗い道に入っていたのかが、分からなかった。
 ざくざく……この砂利を踏む音に胸が切り刻まれた凡雪は、踏み留まった。一度、身を振り返ると、びゅう――――と、天地を劈くような風音が、耳を聾(ろう)した。
 心臓が激しく鼓動(こどう)を始めた凡雪は、全身の力が、すっかり抜けてしまった。膝からずたずたと崩れた途端に、声を放って咽(むせ)び泣いた。
「お母さん――、お母さん――、全部お母さんのせいよ、お母さんのせいだから……」
 跪(ひざまず)いた凡雪は、真っ暗な空を仰(あお)いで叫び続けた。
 泣きじゃくって、声も掠(かす)れた。その時、空がパッと明るくなった。
 星が満天(まんてん)にきらきらと光り、明月も眩(まぶ)しいぐらいに、凡雪にびたりと向いていた。
 空を見上げて大きく見開いた凡雪の目に、星の瞬きは、くっきりと飛び込んできた。
「あ~母(ママ)……」と小声で囁(ささや)いた凡雪は、自分の体中に力が沸(ふつ)々(ふつ)と湧いてくるのを感じた。
 喉元に残った言葉をすっと飲み込んだ凡雪は、足元に気をつけながら立ち上がった。
 星が照らす木々の葉っぱは、優しい風に吹かれて揺(ゆ)れた。なにやらふわふわと暖かいものが下に落ちてきた。
 これは、お母さんの、温もり。言葉が、凡雪の胸の奥から一気に喉元まで競(せ)り上がった。
 先、――光で照(て)らされた街を見ている凡雪は、口元を微(かす)かに綻(ほころ)んだように感じた。
 細い電信柱に取り付けられた街灯(がいとう)の下で、凡雪は家に向かって歩いていた。
 家に着いた時、窓の中に明(あか)りがついていた。
 ドアを開けると、ベッドに座っている凡花が顔を上げた。凡雪は声を上げた。
 目に雪礫(つぶて)が飛んで来たように感じ、凡雪は拝(おが)むように両手を合わせた。
「花(ホァ)、何てこと?」
 凡花は眼球(がんきゅう)を光らせて、「なんてって?」と笑いながら、さりげなく目元を拭(ぬぐ)いた。
「顔、顔よ」
 ベッドの縁に腰を下ろした凡雪は、凡花の顔をずっと見つめた。
「姉(ジエ)が、帰ってこないから、胸がむずむずしちゃって。でもね、眉毛を剃(そ)ったら気持ちが、すっきりしたよ」
 凡花が、また、にっこりと笑って喋った。確かに窓際(まどぎわ)の机に父の髭(ひげ)剃(そ)りが放ってあった。
「不思議ね……眉毛って、剃っただけで、顔が変わるんだ。花の目玉が、電球(でんきゅう)見たいに、飛び出ているよ。明日学校は、どうするの?」
「心配いらない。前髪(まえがみ)を下(おろ)せば誰も気づかないよ」
 凡花は肩を竦(すく)め、爽やかな声を放った。親身(しんみ)な眼差しで凡雪の表情を観察する。凡雪の目に安堵(あんど)の涙を滲み、視界が曇(くも)った。灯の光と凡花の顔がダブっている。
 凡花の様子が、ますます可(お)笑(か)しく見え、凡雪は、つい笑いに誘われた。
「花、よくやるわね! 気持すっきりしたって、本当に? じゃぁ、私も剃(そ)るわ」
「ダメ! それはダメ。姉は美人だから、剃っちゃダメよ」
 妹の話を聞いた途端、胸中の痛みがぐっと突き上がり、目からどっと涙が噴(ふ)き出した。
「どう、どうしたの、姉?」
 凡雪は言葉を呑み込んだ。少し身を屈(かが)めて、そっと息を漏らした。おもむろに告げた。
「今日、陳に、振られたんだ」
「えっ? 嘘!」
 突然、妹に抱き締められた凡雪は、その瞬間、失恋で、ぎすぎすしていた心が、仄かに癒されたように感じた。
 部屋の壁面に置かれた二人用のベッドで凡花は横になり、ぐっすり眠って、二重瞼をうっすら開いていた。凡雪は目を瞑(つぶ)っていたが、なかなか眠れず、何度も寝返りを打(う)った。
 外はポツリポツリと、雨が降り始めた。深(しん)々(しん)と夜が更(ふ)けていく中で、凡雪は、脳裏に陳の俯(うつむ)きの顔を蘇(よみがえ)って来た……。

つづく