六
店員がお酒の摘みを持ってきた。萝(ロー)卜(ボ)頭(トオ)と枝豆の炒めものだった。
大根の漬物の萝卜頭は、黄味を帯びた半透明の琥珀色で、小さく丸い形にしてある。
生産地は、蘇州から三十キロほど離れた六(ロウ)直(チー)の故鎮だ。六直の豊かな河流に囲また土で栽培収穫された萝卜頭は、肉よりも貴重な食べ物と言われた。
仁は、興味の眼差しに笑みを浮かべて、伝えた。
「これは、六(ロウ)直(チー)の萝(ロー)卜(ボ)頭(トオ)だね。祖父の家で、食べたことがある」
仁の言葉を聴いた凡雪は、ふと脳裏に、楚と杜の姿が懐かしく過(よ)ぎった。そこで、夢を見るような想像をし始めた……。
六(ロウ)直(チー)に行って萝(ロー)卜(ボ)頭(トオ)を買ってきた楚は、祖父の厨房に入った。小椅子に座った杜は、竈(かまど)に薪を入れた。パチパチと小さく爆ぜる音が流れると、楚は大鍋に油を加えて、枝豆を入れた。シャーシャーと炒める音が流れた。
香ばしい匂いが漂って来るタイミングで、杜は水桶から少量の水を掬(すく)って、鍋に入れた。楚は指先で塩を掴み、鍋に散らし、黒酢も垂らした。枝豆が水分を吸いながら鮮やかな緑色になると、楚はさっと萝卜頭を鍋に入れ、枝豆と軽く絡めた……。
白い皿に載せられた萝卜頭と枝豆が艶めかしく絡み合っている。お酒を一口じっくりと含んだ仁は、箸でしっとりした萝卜頭を口に運んだ。
「うん、コリコリして、少し酸味があって。この味は、祖父が大好きだな!」
仄かに酔った仁の頬は、透き通りそうな赤となっていた。瞳には、生き生きと微(かす)かに濡れた光が流れて見え、凡雪には、仁が世界で最も愛らしい人に思えた。
一瞬の間に、温かい気持ちが水脈のように溢れてくるのを感じた凡雪は手を伸ばして、仁の手と、そっと重ねた。
「仁さん、来週の土曜日、六(ロウ)直(チー)に行きましょう」
すると仁は、はっと眉を上げ、目には嬉しい表情が浮き上がった。
「好(ハオ)開(カイ)心(シン)!(とても嬉しい)」
仁の瞳に青みを帯びた光が揺れて見える。初夏の薄日を思わせるほど美しい風儀だった。
凡雪は、窓ガラスの外を見遣った。雲が薄い膜のような、幻白さに見えた。
雲に面白い精霊でも隠れているように感じた凡雪は、ふと、心に温かい火が点いたような不思議な心地よさを味わった。いつの間にか、仁は凡雪の手を握っていた。
突然「雪海蟹(シウエハイシャ)肉(ロウ)です」と、店員の声が聴こえた。料理が運ばれてきても、仁は凡雪の手を離そうとしなかった。仁はホホと、小さく笑って、緩んだ声を出した。
「好(ハオ)逗(どオ)―だな!(面白い)今度は、〝雪の海〟って、ええ~、蟹じゃないか!」
大きな皿に、淡水の蟹の肉が水晶のように煌めいていた。
上に僅かに載せられた糸切りの葱は、蟹の卵黄油が掛けられていて、白銀が黄金色に染められたように素敵に見えた。凡雪は手を、そっと戻して、小碗を持ち上げた。
「此処の店は、一年中、蟹を食べられますよ。淡水蟹は、身体が冷えると言われますけど、《元紅酒》が強いお酒なので、身体に熱が籠り易い。仁さんに、ぴったりの料理ですね」
仁は、ゆっくりと小碗を受け取って、ふふと、微笑んだ。
「僕は、お酒は強くないよ。でも、飲みたいな!」
仁の真っ直ぐ燃えるような眼差しに、奇跡的と思えるほど堅実さと強さを感じた。
凡雪は脳裏に、古風優美な仁を想像してみた。
独特な明(ミン)黄色の袴を穿き、下駄を履いた仁は、高坂を駆け登っていった。
コロン、コロンと揃えた木の足音がリズム良く聴こえた。ようやく頂上に立った仁は、景色に溶け込んで、凛々しく絵姿のように見えた。
不意に凡雪の前に、仁から小碗が置かれた。芳香を漂わせた蟹の匂いが、凡雪の心の奥まで、温かく優しく蕩けていく。
凡雪は目を仁に向けた。目の前の仁の眼差しは、しなやかに輝いて見えた。空をほんの焦がした赤香色の太陽を思わせた。
仁は、酒壺を持ち上げた。仄々と頬を緩めて、凡雪の酒杯にゆっくりと注いだ。
仁のしなやかな動きで、凡雪は心の炎が、少しずつ大きくなっていくのを感じた。同時に、今まで萎縮していた様々な気持ちの全てが解き放たれたような軽やかさも感じた。
凡雪は仁の酒杯にお酒を加えた。仁は、酒杯に手を伸ばして、囁くような声を出した。
「雪さん、乾杯をしよう」
ゆったりとした仁の声が、凡雪には美しく雅に聴こえてきた。
酒杯を掲げた凡雪と仁は、乾杯のとき杯を合わせ、同時に、お酒を一気に飲み干した。
つづく