小説『雪花』全章

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小説『雪花』第五章-13節

2017-07-31 11:44:24 | Weblog

    十三

  兎の後ろに従いて歩いた凡雪は、辺りを見回した。雲霞の中で、青々とした樹木や可憐な亭、風雅な楼閣などの風景が、凡雪の目に吸い寄せられて、何度も瞬きした。
 兎に導かれて進んで行くと、広い洞庭(トンティン)湖(フー)が見えた。洞庭湖の両側に、少し垂れた葦の群生が、斑模様の光の中で、柔らかく漂って見えた。屏風絵のような美しい景色だった。
 間もなく、一軒の建物の前に着いた。中から碧(ピ)螺(ロー)春(ツゥン)の香と蜜のような甘い香が、仄かに漂ってきた。凡雪は、清浄な気を感じた。 
 暫く待っていると、門扉が内側から、静かに開いた。兎がすーっと、中に入った。
 凡雪も気持ちを引き締めて、建物の中に入った。中では安寧で、神に慈(いつく)しまれたような
心地よさを感じた。
 凡雪は、目を左右に回した。金色(こんじき)の壁に、朧(おぼろ)な藍に霞んだ山水の画が描かれていた。
 画幅には、さっくりと、濃い墨と薄い墨で掃くように描いてあった。でも、墨の擦(かす)れた線に雄渾の気魄があり、強い筆力を凡雪は感じた。
 凡人の描ける境地ではないと思う一方で、凡雪は、心から、新しい境地を切り拓けるような自負が芽生えてきた。
 空間には静謐(せいひつ)な気韻が充満しており、灯りが、息が詰まるほど輝いて見えた。
 別の世界に入った凡雪は、新境地を逍遥している心地になった。その時、甘く薫った風が吹き込んできた。灯明の炎が一斉に揺れ、一人の初老の人物が、眼前に現れた。
 仁の祖父で、白髪交じりの古風な顔立ちをしていた。矍鑠(かくしゃく)とした方に見えた。
「儂は、仁の祖父なんだ」と穏やかな口調で、中国語で自己紹介をした。
 その時、先ほどの兎が、お湯と茶器のセットを持ってきた。
 兎は、慣れた手付きで、お茶を淹れ始めた。小さな手なのに、伸びた爪は、鋭利な形をしており、桃色に艶めいている。
「仁に、恋をしている?」と祖父が、囁くような声で、凡雪に訊いた。凡雪は、すぐ返事をしようとした。なのに、喉まで出掛かった言葉を、すぐ飲み込んでいた。
 すると「恋することは、自分を愛することと、人を愛することなんだ」という聞き取れるか、聞き取れないくらいの小声が、凡雪の耳元で流れた。
 凡雪は頬を綻(ほころ)ばせて深く頷いた。祖父の目が、些(いささ)か潤んで見えた。
 兎は、凡雪にぐっと顔を寄せてきた。ふふっと笑いながら、のほほんとした仕草で、耳を搔いた。温かい春の風が舞い込み、山の幽玄な水音が聴こえた。白い衣冠を着た仁が、静々と、歩いて近寄って来た。
 夢の世界にたっぷりと浸っていた凡雪は、胸の中に新しい恋の喜びが静かに込み上がってくるのを感じながら、目が覚めた。
 凡雪は清々しい気持ちで、晴れた朝を迎えた。
 窓からの光は、柔らかく穏やかで、しっとりと潤いがあるように見えた。
 凡雪はベッドから身を起こし、ゆっくりと床に立ち上がった。新しい自分に触れたように、新鮮な気持ちが胸の底からじんわりと、湧き上がってくるのを、凡雪は実感した。

つづく

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小説『雪花』第五章-12節

2017-07-29 10:34:29 | Weblog

    十二

凡雪は外に出て、人民路を自転車で走った。
 走りながら空を見上げると、冴えた漆黒に満天の星が、燃えるように輝いて見えた。
「あ~、綺麗!」と言葉を出した凡雪は、迷いが完全に吹っ切れた自分自身を自覚した。
 しっとりした風は心を撫でるように優しく吹いていた。自転車をゆっくりと進めていく凡雪の耳の奥に、遠い海の向こうから届けられた微かな低周波のような音が伝わってきた。
 凡雪は頬を緩め、息を軽く吸った。心の底から、麗しい気持ちが湧き上がってくるのを、しみじみ味わった。
 二十分後に家に着いた凡雪は、階段を上がって、ドアを開けた。
「お帰りなさい!」と、凡花の清麗な声が響き、凡花が飛び込むように駆けてきた。
 凡花は真っ直ぐな視線で凡雪を見つめた。凡花の瞳に新鮮な光が輝いて見えた。
 凡雪は、微笑みを浮かべて、「花、如何したの?」と訊ねた。すると、凡花の目が緩やかに弧を描いて、言葉を紡いだ。
「さっき、家に帰った時に、郵便受けを見たら、仁の手紙が入ってたわ!」
 凡雪は息を潜めて、すぐ手で封筒を受け取った。
 封筒の真中に、凡雪様と名前が書かれており、下に仁の名前も見えた。なのに、切手は、貼られていなかった。仁が出発前に、わざわざ家の前に来たようだ。
 灯の下で、凡雪は丁寧に、そーっと封筒から便箋を出した。一枚の便箋に、仁の太い、大きな中国語の肉筆が書かれているのが眼中に映った。
「雪さんに、伝えたい言葉があります。我(ワオ)喜(シイ)歓(フアン)雪(シゥエ)!(雪が好き)」
 凡雪は、仁の純真な気持ちに打たれた。目に含んだ涙の雫が、頬に滑り下がっていくのを、はっきりと感じた凡雪は、ゆっくりと、目を凡花に向けた。いつの間にか、凡花も傍らで、仁からの手紙を読んていた。凡花の涙腺も緩んで、目が潤んでいた。
 外の風が柳を愛撫しているように叩く幽(かす)かな音が、心地よく聴こえてきた。
 凡雪は枕の横に仁の手紙を置いて、凡花に寄り添って就寝した。ゆったりと流れる時間が、凡雪を円やかに、違った角度で魅力的な女性へと磨き上げていくように感じた。
 凡雪は、自分の心の根の部分が、広々と豊かになっていく気がした。
 仁の言葉が心の奥に沁みた凡雪は、眠りに落ちた。すると、新境地に行って自在に遊んでいる夢に入った。凡雪は華麗な凰のように、風に揺れる生い茂る樹木の真中で、当ても無く軽快に舞い上がっていた。
 涼しい風や、自然の緑の芳香、虫の鳴き声がスーッと、凡雪を通り過ぎていった。
 ふと、霞んだ湖水の光景が凡雪の目に映った。凡雪は俯瞰しながら、ゆっくりと、降り立った。薄明かりの湖面に無数の光の粒が明々と瞬いて、まるで輝く水晶のようだった。
 凡雪は、儚く灯る光を静かに眺めた。凡雪には、美しい光景が天の川のように見えた。
 仙境に吸い込まれたような気分を味わった凡雪は、腹の底から喜びが湧いてきて、感嘆の声を放った。
 突然、背後から「雪さん!」という、緩い声が聴こえ、凡雪は素早く顔を振り向けた。
 一羽の兎(ト)だった。頭に、緑の葉を笠のように被(かぶ)っていた。赤い目で射抜くように、凡雪を見つめながら、口を開いた。
「私の名前は月(イゥエ)兎(ト)。月から、降りて来たの。今、仁のお祖父様の、お世話をしているのよ」
 凡雪は「ええー、兎は、喋れる?」と不思議に思いつつ、ぼんやりと兎(ト)を見ていた。
 兎は白い毛で、艶(つ)やかで、ふかふかしていた。尻尾まで毛に覆われている。
 暫くして兎は、ほたほたと、凡雪に近づいて来た。兎が屈み込み、凡雪の足に触った。
「何をするの?」と凡雪は警戒の声を出した。すると兎は、不思議そうな表情で、丁寧に首を傾(かし)けた。
「仁のお祖父様に、頼まれたの。これから、雪さんの道案内をするのよ」
 子供のような声で喋った兎は、困ったように溜息を吐いて見せた。
 凡雪は、じーっと兎の顔を見つめた。段々と、自分の足の触れた部分に兎の小さな前肢の温もりを感じた。
「心配しないで、家は、遠くないから」
 兎は前肢で、凡雪の足をぽんぽんと、叩いた。それから兎は、二本の後肢で立ち上がって、前へ歩き出した。
 兎はいそいそと歩いた。毛に覆われた尻尾が、バランスを取れるように揺れていた。
 凡雪は、兎の後ろ姿を眺めて、ふと確かめたくなり、呟いた。
「えっ、仁のお祖父様が、中国に住んでるの?」
 兎が「そうよ! 仁のお祖父様は、ずっと、中国に住んでいるの」と、はっきりとした清楚な声で、凡雪に教えた。
 兎は突然、振り返った。頬の毛並みがふっくりと盛り上がり、赤い目を細めて、凡雪に笑みを見せた。その時、凡雪は警戒心を解いて、ほっと安堵した。
  つづく

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小説『雪花』第五章-11節

2017-07-26 06:25:52 | Weblog
          十一
凡雪は、つっと手を伸ばして、新聞を取った。
 ゆっくりと新聞を開いた凡雪は、まず紙の真中の風景の画に目を留めた。春夏秋冬の順に、淡々とした筆致で、四季を描いていた。四季の河も情感豊かに描き分けており、作画への強い情念が伝わってくるような印象を受けた。
 凡雪は息を潜めながら、視線を紙の左側の画に移した。
 画の情景を見た瞬間、凡雪は、心の内に強い衝動を受け、胸が衝かれた。画には凡雪の姿が描かれていた。柔らかい長い髪、少し傾げた細い首、微笑んでいる顔の表情を、丁寧な運筆で、精致に捉えていた。
 端正な構図を背景に、『沧浪亭』の園内にある看山楼と、窓枠が描いてあった。『沧浪亭』は凡雪と陳の初デートの場所だった。不意に訪れた過去の情景に、凡雪の眼球の裏側に、あらゆる記憶が怒涛と化して、勢いよく流れ始めた。ひょろっと背が高い陳の姿も蘇った。
 途端に、神経が弛緩した凡雪は、先刻よりもひどい眩暈を覚えた。机の前に立ち尽くし、握り締めた新聞を机に置き、それから改めて、ゆっくりと開き直した。 
 凡雪は、視線を画の下のタイトルに移した。『思い出』と題されていた。
 俯いた凡雪は、眼球が乾くほど、じーっと瞬きせずに見つめた。室内は、ひんやりとした空気と緊張が、静寂の中に漲(みなぎ)っていた。凡雪は、四肢が硬直したように強張り、動けなくなった。
 凡雪は、どうにか息を繰り返して、目を一度、強く深く閉じた。瞼の裏に、氷山が二つに裂(さ)けて、双方の断面に陳と、仁が立っているように見えた。
 凡雪は、心も、魂も、激しく揺さぶられた。凡雪は、咄嗟に椅子に座り込んだ。一瞬、呪縛の中にいるような苦痛を味わった。
「母(ママ)ー、助けて!」と凡雪は、小さく悲鳴を上げていた。
 すると、研(と)ぎ澄んだ静寂の中で、母の声が愛しく聴こえてくる気がした。
「新しい恋は、素晴しいものだわ!」
 母の声は囁き掛けてくるようで、清らかで、遠い海の穏やかな潮騒にも似て聴こえた。 
 凡雪は、ゆっくり立ち上がり、顔を上げた。真っ先に仁が微笑んで立っている姿が見えてきた。仁の瞳には、輝く透き通るような光が見えた。凡雪は力一杯、息を吐き出した。
 心の地平に、仁が勇敢に立っているように感じられた。
 凡雪は、ふっと脳裏に、仁が颯爽とマラソン選手のように走っている幻影を見た。完走するまで全力で走り続ける仁の姿を、凡雪は想像した。
 凡雪は、一瞬、胸の中で、奇妙に高揚感を味わった。
 柔かい月光が窓に万遍なく射し込んできた。室内に、閑雅な気韻に満ちた光が見えた。
 静けさの中で凡雪は、胸に新しい希望が細やかに込み上がってくる心強さを、はっきりと感じた。立ったまま凡雪は、両手で新聞を畳んで、机の横に置いた。

つづく

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小説『雪花』第五章-10節

2017-07-23 06:03:25 | Weblog

          十 
 
 凡雪は家を出て、曇天の下で自転車を走らせて出勤した。
 大きな襞を見せる雲に、僅かの光が流れていた。茶色の雀たちは、不機嫌な鳴き声を出しながら、軽快に空に上がっていった。
 突然、一羽の雀が、どんと、落下し、激しい悲鳴を上げた。鮮やかな色が流れた。
 鳥の墜落の光景を見た凡雪は、咄嗟に目を閉じた。目の奥に、すぐ累々と、落下した鳥が見えた。同時に陳の瘦せこけた無表情な顔も見え、凡雪は不吉な予感に取り憑(つ)かれた。
「陳は、病魔にでも、襲われているのだろうか」
 凡雪は深い息を吐いた。すると、背筋をぞっと、悪寒(おかん)が走った。耳の奥で、血液が駆け巡る潮騒のような音を感じた。
 次は、痺れるような虚しさが身体に蔓延していく、妙な感覚を味わった。
 蒼白い空から、ポツポツと、雨が降り始めた。風で揺れる樹の葉から落ちてくる雨粒が、みるみるうちに凡雪の身体を濡らした。冷たい雨だが、凡雪は、さして気にならなかった。
 仕事場に着き、図書室に入った凡雪は、窓際にある自分の机の前に立ち、濡れた髪を拭こうとした。直後、劉が躍るように、駆けてきた。
「凡さんー、これを見てよ!」と、劉の高声が突風(とっぷう)のように、凡雪の耳元に吹き込んできた。劉から手渡されたのは、《蘇城朝日》という新聞だった。
 凡雪は静かに新聞を受け取って見た。新聞の一面に陳の授賞作が掲載されていた。
 凡雪は、眉を上げ、ふと視線を窓外へ見遣った。霧雨の中で、空の淡い光が、幾筋も降り注いでいた。
 光の綾織を見ていた凡雪は、外から、涼やかな雨滴の音や、鳥の囀り鳴き声、軽やかな流水の瀬音まで、はっきりと、清らかに心地よく聴こえてきた。
 その時、凡雪は、脳裏に閃いた昨夜の悪夢が消え、四肢も軽くなっていた。
 凡雪は、そっと安堵の息をして、「さて、まず仕事」と呟いて、新聞を机の上に置いた。
 無我夢中で仕事をした凡雪は、一日が、あっという間に過ぎた気がした。
 帰り支度して、そろそろ帰ろうと思った凡雪は、今朝の雨に濡れたせいか、突然、頭痛に見舞われた。同時に寒気が身体の血管に沿い、じりじり全身へ広がっていくのを感じた。
 凡雪は、ふと机の新聞を見遣やった。すると、背中に冷えた糊(のり)のような汗が、滲み出てくる不快に取り憑かれた。
 凡雪は、ぼんやりと視線を窓の外に移した。空は、とろりとした闇雲が漂い始めていた。
 微(かす)かに、かさかさと、葉擦れの音が聴こえてきた。それで、却って、静けさが辺りに満ちて感じられた。
 その時、凡雪の胸に、奇妙に頼りない感覚が湧き起った。思考も迷子になりそうだった。
 少し眩暈を覚えた凡雪は、机の前に座った。目を閉じると、耳の奥で、再び潮騒のような音が聴こえた。別の世界に紛れ込んでしまうような違和感で、凡雪は「帰るわ」と呟いて、立ち上がった。その時、劉が凡雪の前に立っているのに気がついた。
 劉は、瞬きしながら「凡さん、新聞を見た? 作品、凄いよ!」と、屈託のない笑顔で訊ねた。まるで興味深い世界に帰ってきたような、嬉しそうな表情だった。
 一瞬、劉の憂(うれ)いを含んだ表情が美しく見えた。凡雪は、うっすらと笑みを浮かべ、頭をゆっくり大きく横に振った。劉は不審な目で凡雪を見てから、新聞に視線を留めた。
「見たほうがいいよ! 一応、仲間なんだからね」と劉は、あっさりと伝え、大きく跳んで後退った。劉の明晰な声が室内の中で、遠ざかりしつつ、ずっといつまでも響いていた。
つづく

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小説『雪花』第五章-9節

2017-07-20 12:03:18 | Weblog
     九

 いつの間にか、雨が再び降り始めていた。雨滴が地面を叩く音が、木霊(こだま)して聴こえた。
 ベッドの中に入った凡雪は、静かに雨音に耳を傾けてを聴いた。
 段々、闇の中の何処からか、高く空ろに水滴の音が聴こえてきた。まるで漆黒の洞窟の中にでもいるような恐さを感じた。不意に鼓動が強くなり、凡雪は不安な気分を味わった。
 暫くして、隣に寝ている凡花の穏和しい寝息が耳元を擽った。凡雪は、思わず縋りたい気持ちになり、そっと凡花に寄り添った。
 浅く、すぐにでも覚めそうな眠りに就いた凡雪は、奇妙な夢に入った。凡雪は無辺の砂漠の中を歩いていた。足音を立てずに前方へ進んでいくと、彼方に洞窟が見えてきた。
 中から澄んだ音色で滴が地を叩く音も聴こえてきた。凡雪は小走りに駆け、中に入った。
 洞窟の中には、水が滴るような音が続いていた。天もなく地もない暗い先に、薄い明りが点っていた。
 明りを背に、一つの異形のような影が見えた。陳の姿だった。
 陳は無表情で目を見開いて、凡雪を注視した。目からは涙が絶えなく静かに流れていた。
 口を大きく開けた陳は、何かを伝えてようと、言葉を発しているように見えた。ところが声は、一切、聴こえてこなかった。
 突然、別の方角から、闇の洞窟の中に木霊する声が聴こえてきて、凡雪の目の前を真っ暗にした。そこまでで凡雪は、はっと目が覚めた。身体の中で、血液が逆流する気がした。
 慌てて何度も瞬きした凡雪は、深く息を吸いながら、身をベッドから起こして「夢……」と呟いた。すると脳裏を、すぐに陳の無表情な姿が掠めた。その時、動かした足に、粘り付くような不快な重さを感じた。
「あれは、夢なんだ」と凡雪は、自分に強く何度も言い聞かせた。だが、妙な不安感は、胸に拭いきれずに残っていた。
 寝不足で疲れを感じた凡雪は、着替えしてから、母の位牌と遺影の前に行った。
 母の写真の濡れゆくような瞳をしみじみと眺めた凡雪は、そっと両手を合わせ、仁との出逢いの由来を母に報告した。
 凡雪は俯いたままで、手で長い髪をそっと、束ねた。すると「そう。新しい恋なの。チャンスはね、海の波と同じよ。波がやって来た時に乗らないと、すぐ退いて行くわよ」と、母のゆったりとした声が、神妙に耳元で流れているかのように感じた。
 凡雪は頭を上げた。母の目に、射るような真っ直ぐな光が見えた気がした。
 春の眩しい光を見詰めたように、凡雪は身体の中から力が蘇ってくるのを感じた。
 凡雪は、そっと安堵の息を吐いて、髪をゆっくりと解いた。髪が、ふわふわと二回、頬を擽った。母の優しさに触れたような感触だった。

 つづく

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小説『雪花』第五章-8節

2017-07-17 12:03:12 | Weblog
        八

  凡雪と仁は自転車で、竹輝路をゆっくりと走り始めた。街の辺りの商店は、ほとんどシャッターが下りており、歩いている人の多くはカップルの若者だった。
 少し進むと、向こう側に露店が見えた。揺ら揺らした服を着た女や男たちが、甘い団子や肉饅などを売っている。地元の人に観光客が混じって並んでいた。
 突然、右側に白梅の樹が見えた。花は満開に咲いていた。
 白梅の優雅な香が漂って来ると、仁は「いい香!」と笑顔を凡雪に向けた。
 凡雪には、仁の笑顔が心を洗うほど爽やかに見えた。凡雪は、美しい精神の泉を見つけたように、束の間の満足感を味わった。
 間もなく、人民路に入った。空気が急に変わって、冷えを感じた。
 凡雪は拡がる空を見上げた。紺青色の雲に月の表面が青白く凍りつくような光が見えた。小さな星たちも鈍く光り、まるで世界が黒々とした闇に呑み込まれようとしているようだ。
 風が凡雪の頬を強く叩いた。再び視線を前に向けた凡雪は、ふと記憶のある、一人の視線に出会った。陳の姿だった。
 同じように自転車に乗った陳は、微(かす)かな笑みで凡雪を見ていた。陳の頬は、かなり痩けており、瞳には、あの頃と同じ輝きは宿っていなかった。
 凡雪は視線を逸らした。脳裏に、すぐ寡黙に自転車を走り続ける陳の寂しそうな表情を想像した。陳は黙って、凡雪の傍らを走り抜けていった。
 一瞬、明るかった未来に不意に黒雲が掛ったような不快感を覚えた。
 凡雪は視線を地面に向けた。すると、地面が割れていて、突き当たりに陳が立っているように見えた。その時、凡雪は、身体から力が抜けて落ち行く虚脱感を覚えた。
「雪さん、寒くないですか?」と仁の囁くような声が聴こえてきた。
 仁の声が柔らかくて、春の温もりのように凡雪は感じた。
 凡雪は、一旦は抜け出た力が、一瞬にして強く戻ってきたのを自覚した。
 仁の優しさが、凡雪に愛の本質を気づかせてくれたような気がした。
 凡雪は「寒くないわ」と、きっぱりとした声で返答した。
 凡雪の住む公寓の前に着いた。淡い月光の下で、仁の輝いた真っ直ぐな視線が、凡雪の瞳を貫くように感じられた。
 目の前の仁は、瞳も鼻も口元も、それぞれが独立した存在感を放って、見事なバランスを保っている風に見えた。仁をじっと見詰める凡雪は、今、自分が新しい世界と向き合っている事実になった気がした。
 その時、音の神が自然界の音を完全に消し去り、互いの心臓の鼓動の音だけが伝わってくるようだった。
「明日、日本に行ってくるよ」と仁は静かな声で、凡雪に話し掛けた。
 言葉が途切れた途端、突然、空の風が奔っていくような、激しい音が聴こえてきた。
 まるで海と大陸を、二つ引き裂いていくような強い響きだった。一瞬、凡雪は呂律も回らず、足元も覚束くなかった。
 咄嗟に空を見上げた凡雪は、目を瞠った。暗い空に、銀砂を撒き散らしたような星屑が、思いがけない近さに輝いていた。
 同時に、柳の繁った葉が、風でふぅ、ふぅ、ふぅと笑っているような声も聴こえてきた。
 我に返って、ゆっくりと表情を整えた凡雪は、再び仁に向かって「今日は、ご馳走さまでした」とお礼を伝えた。仁は口許を緩め、頭を横に軽く振った。
 仁の瞳には、揺るぎない強固な光が燃えているように見えた。その時、凡雪は、仁から未来に向かうエネルギーを貰ったように心強く感じ、胸に熱が広がっていく感動に震えた。
 胸の鼓動を抑えようと、凡雪は息を何度も飲み込んだ。
「気を付けていってらっしゃい。帰ってくるのを、待ってます」と凡雪は、仁に期待の気持ちを伝えた。すると、仁は感激した表情で「ゆきがすき!」と日本語で告白した。
 日本語の意味が分からない凡雪も、真似して「……すき」と言葉を返してみた。口許を綻(ほころ)ばせた仁は、弾けるような笑顔を見せてくれた。
「戻って来たら、すぐ雪さんに連絡するね。僕を、待っててください!」と仁の声が穏やかに響いた。凡雪は頷くと、仁は片手で凡雪の頭を優しく一回、そっとゆっくり撫でた。
 神(かみ)の優しさに触れたような感触だった。
 心の底から愛しくて、抱き締めたいと思った凡雪は、仁を見詰めて「じゃ、バイバイ」と囁いた。仁も「バイバイ」と、芯のある低い声で返した。
 自転車を停めた凡雪は、階段を上がろうとした。後ろから仁の小さな声が聴こえてきた。
「花さんに、今日、有り難うって、伝えてください!」
 凡雪は立ち止まって、背後を振り返った。仁の黒目の光が空に浮かぶ星のように、無垢に輝いていた。
 風が、宵の香を何処からともなく運んできた。風の中から、海も、大陸も、上には必ず星がある、というメッセージが聴こえてくる感じがした。
「仁さん、お休みなさい!」と、仁の名前が、凡雪の口腔から零れ出た。
 ゆっくりと階段を上がってドアを開けた凡雪は、「ただいま」と部屋の中に入った。
 すぐ机の前で勉強をしている凡花が見えた。凡花は伸び上がるようにゆっくりと顔を凡雪に向け、心配げな表情で「お帰りなさい」と小声で返した。
 その時、線香が焚かれた匂いが、近くに漂って来た。微かな香が凡花の匂いと同じだと思った凡雪は、春霞の温かさに包まれたような心地を自覚した。
 凡花の傍に近寄った凡雪は、声を静めて「仁さんはね、花さんに、有り難うと伝えてって!」と小さく告げた。
 凡花は、眼球の奥から明るい光を放った。
「本当に? よかったね!」と凜と、胸を張るようにして、立ち上がった。
 凡花は一変して、明るく冴えた表情を見せてくれた。まるで、春の陽炎の中から現れた上代の姫君のような、麗しい姿だった。
 その時、凡雪は、静かな気分の高揚を覚えた。
 つづく

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小説『雪花』第五章-7節

2017-07-15 14:31:10 | Weblog
 
   七

仁の瞳の中で、海の模様が波うっており、生きている神秘がそこにあるように感じられた凡雪は「お祖父様は、どんな方ですか?」と仁に訊ねてみた。
「祖父を知りたい? 今度にしますよ。また、雪さんに会えるから!」と仁は嬉しそうに凡雪を見つめた。
 凡雪も一口だけ食べて「薄味に見えるけど、味がしっかりと付いていますね。日本の料理は、どんな調味料で使っていますか?」と仁に興味深く訊いた。
「昆布とか鰹節のような出汁(だし)かな?」と仁は料理を吟味しながら、凡雪に答えた。
 その後、刺身や天ぷら、焼き物などが一品ずつ運ばれてきた。
 会話が途切れ、少し静かになった時、尺八の広がっていくような音色が聴こえてきた。
 尺八が持つ竹の音は、色々な音が混じった、幾層も重なり合った音に聴こえてくる。
 凡雪は、食事をしながら聴き耳を立てた。温かさと優しさに繋がっている音が、出汁(だし)のような、色々の味が含まれているようなイメージが感じられた。
 凡雪は、宇宙船にでも乗って空間の直中にいるような快い心地だった。
 ゆっくりと目を仁に向けると、仁は箸を置いて、凡雪を見詰めた。水が合う泉のように、愛おしい気持ちが互いに通じたようだった。
 速くなっていく鼓動を抑えようと、凡雪は目線を逸らした。
「雪さんの趣味は、聴いてもいいですか?」と仁は穏やかな声で、凡雪に訊ねた。
 凡雪は表情を緩めて「そうねぇ、読書とか、映画鑑賞くらいです」と返事した。
「映画ですか、今『紅高梁』が大ヒット中ですね。さっき、文化宮のガラス壁に貼られた宣伝ポスターを見たよ。感動的ですね! 手練れの画家に描かれたのでしょう」
 仁の声が耳の底に鳴り響いた。一瞬、凡雪の記憶の糸が、頭の芯からぴーんと引っ張り出され、陳の姿が脳裏を過った。
 でも、過去の記憶は色褪せてセピア色になった古い写真のようだった。陳の記憶が遠ざかりつつある事実に気づいた凡雪は、仁に向けて、引き締めた表情で肯った。その時、仁の凛々しい目元、逞しい鼻先が、凡雪の心を引っ張ったような強い力を、胸に感じた。
 凡雪は、少し冷めた汁物を一口、じっくり飲んだ。色々な味が含まれた出汁の旨味(うまみ)が、円やかに感じられ、「美味しいね」と小声で言葉を送った。
 仁は嬉しそうに笑みを返した。仁の笑みには、凡雪の瞳に焼き付くほど強い意志が見えた。某かの未来が前途に開けているように、暖かく感じられた。
 うっすらと漂ってきた海の匂いを嗅いだ凡雪は、二人だけの宇宙船に乗って遮断される壁もなく、静かに前へ進んでいるような感慨を味わっていた。
 食事を終えて外に出ると、一陣の風が凡雪の頬を浚った。
 その時、凡雪は、やっと宇宙船から出て、現実の世界に戻ったように感じた。浮き立っていた気持ちが、風で爽やかな気持ちに変わった事実に気づいた。
つづく

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小説『雪花』第五章-6節

2017-07-12 14:31:56 | Weblog
   六

  中は一目瞭然の純和風で、シックな内装が高級感を醸(かも)し出している。外資関係の人たちや官僚などが利用する、日本の料理店のようだ。
 すぐに一人のぽっちゃりとした、店の男の人が寄って来て、日本語で挨拶をした。
 仁は歩み寄って、日本語で店の人に話し掛けた。
 店には、微かに漂う風の中で、潮の匂いがした。遠い彼方から吹いてくる海と塩の匂いだった。凡雪は眉を上げ、店内を見回した。テーブルは長形で、側に提灯が飾ってあった。外資関係の日本人や、外国人の家族たちが見えた。
 程なく凡雪と仁は、店の人から案内され、店の窓際にある二人掛けの席に座った。
 ぼんやりと淡い光の中で、正面に座った仁は、静かに凡雪を眺めた。
 ゆっくりと視線を逸らした凡雪は、話を探した。
「ね、中国語は、何処(どこ)で習ったんですか?」
 即座に仁は真剣な表情になり、不満げに答えた。
「名前は、〝ね〟ではないよ。仁です」
 一瞬、和(なご)むような空気になり、凡雪はふふっと、笑い声が零れた。
 その時、店の人がお茶を持ってきた。
 仁はお茶を一口啜って、「雪さんは、日本の緑茶、飲まれますか?」と訊いた。
 凡雪もお茶を一口含んだ。喉元に流していくと、何故か、口に微精(あじの)味(もと)の味を感じて、
「不思議な味ですね」と仁に感想を伝えた。
 眉根を開いた仁は、お茶を一口啜って、「なるほど」と首肯(しゅこう)して、視線を凡雪に向けた。
「日本の緑茶は、発酵してないから、生(なま)の味が、微精(あじの)味(もと)の様に感じられたかもしれないね」
 その時、僅かの風でお茶の香が漂ってきて、凡雪の鼻を擽(くすぐ)った。
 もう一度お茶を含んで試してみた凡雪は、今度は、お茶に溜まった朝露でも啜ったような甘味を感じて、「何のお茶ですか?」と仁に訊ねた。
「玉露です。直射に日光を当てないから、甘味が強く感じられるんですね」と仁は爽やかな笑顔で答えた。
 剥ぎ出して笑う歯の白さばかりが目に留まった凡雪は、仁を眺めた。
 目つきは堅実そうで、大人びた雰囲気に溢れていた。それとは対照的に、子供のような無邪気な笑みも見えた。
 突然、仁は「雪さん、何を考えているんですか?」と、困ったような表情に変わった。
 まるで異国に唐突に放り出された子供のような可愛らしさを見せた。
 凡雪は微笑み交じりの声で「当ててみて」と話し掛けた。
 すると、仁は思い出し笑いのような表情で「さっきの、質問だな。僕は、《北京外国学院》に留学したんだ。でも、中国語を最初に習ったのは祖父から」と楽しそうに答えた。
 仁の瞳には柔らかい光が見えた。瞳の奥に希望という文字が隠れているように感じた。
 その時、店の人が料理を運んできた。小さな器に空豆と海老が盛り付けてあった。前菜(さきずけ)のようだ。
 箸を持ち上げた凡雪は、突然、仁の祖父の事情が気になり、「もしかして、お祖父(じい)様は、中国の方?」と呟いた。すると、仁はぷっと笑い、俯き加減に一口食べながら「違うよ、日本人です」と小声で返事した。
「それは、そうよね。だけど」
 再び呟いた凡雪は、仁を見詰めた。仁は笑って凡雪を覗き込むように見ていた。
 

つづく

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小説『雪花』第五章-5節

2017-07-10 11:13:33 | Weblog

          五  
  
  人民路の自転車専用道で、仁の走る自転車の後ろを、凡雪も、自転車で走った。
 まるで、国境線もない、未知な未来へ連れて行かれるような快い浮遊感が、凡雪の心を押し包んだ。しっとりした風は頬を撫でるように吹き、凡雪の浮き立った気持ちを応援しているように思えた。
 凡雪は、仁の後ろ姿を見て、小さな声で「仁ー」と呼んでみた。すると、心の平地に、仁が泰然と立っているように思った。
 耳元で、人の笑い声が聴こえた。とっても愛嬌のある甘い声だった。
 その時、凡雪は、脳裏に、凡花のふざけるように笑う姿を浮かべた。上を向いた凡雪は、凡花を想像してみた。公衆電話を取った凡花は、仁の電話番号を直向に回す。
 凡花は、電話に出た仁に震え声で「凡花と申します。茶楼で名刺を受け取った人は、姉です」
 空は、あっという間に暗くなり、気の早い星が、あちこちで瞬き始めた。
 十分ほど走って、仁は速度を緩めながら、右側の竹(ツオ)輝(フェイ)路(ロゥ)に入った。気が付くと、凡雪は仁と肩と肩を並べ、揃って走っていた。
 二百メートルほど進むと瀟洒な佇まいの飯店が見えてきた。新しい《竹輝飯店》だった。
 仁は飯店の前に足を止めた。微かに弾んだ声で「此処だよ」と告げた。
 凡雪は店を見て「えっ、そんな高級な場所で」と心の中で呟いた。
 仁は、僅かに声を低めて「ちょっと此処で、待ってて」と断って、すぐ近くにある車輪場に自転車を停めに行った。
 戻ってきた仁は、再び凡雪の自転車も持っていって停めてくれた。
 直後に二人は、飯店に入った。幾つかの洋式の餐(レス)厅(トラン)が見えた。窓玻(ガ)璃(ラス)の中に、灯が褸められた水晶のように静かに輝いていた。まるで異国の中を行くような雰囲気が周りから漂い、何か異境に足を踏み入れたような新鮮さを感じた。
 その時、仁が微笑んで、「この先に、日本の料理の店があるよ」と伝えた。
 凡雪は視線を前に向けた。前方に日本風のネオンが道の左右で点灯している。
 前に進むと、《和食》という漢字の店が現れた。
 仁は、そっと足を止めてドアを開け、少し避けながら「どうぞ」と凡雪に勧めた。
 凡雪が中に入ると、尺八の滑らかな日本の民謡の音色が聴こえてきた。

 つづく

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小説『雪花』第五章-4節

2017-07-08 11:06:48 | Weblog
      四
 退勤の時間になり、凡雪は自分の机に戻った。劉が静かに寄って来て小さな声を掛けた。
「今日、食堂で聞いた話なんだけど、陳が、賞を取ったらしいよ」
 劉の瞳の奥に、記憶の光が流れてくる光景のが見えた――ような錯覚を覚えた。
 一瞬、凡雪は過去へ強引に連れ戻されそうに感じて、急いで話題を変えた。
「日本と中国って、時差は一時間だよね」
 すると、劉が鼻で笑った。
「時差? 凡さんー、最近ちょっと、日本のドラマを見過ぎじゃないの?」と、凡雪の肩を、ぽんと叩いて、踵を返した。
 床面で微かに足音を立てた劉の姿を見送った凡雪は息をゆっくり吸って、腕時計を見遣った。何故か、室内は針が秒を刻む音が聴こえるほど静かだった。
 凡雪は、もう一度、大きく深呼吸してから、抽斗にしまっていた案内の葉書を出した。静かに葉書を見て、凡雪は懐かしくなり、「おめでとう!」と祝福した。
 いつの間にか雨が止み、夕暮れの空の光が桃色になり、ぼんやりと地面を染めていた。
 湿り気のある空間の中で、凡雪は自転車を押して、ゆっくりと前へ進んた。
 雨に濡れた木の葉の匂いや、土の匂いが、段々と肺の中に沁み込んでくる心地よさを感じた凡雪は、足を速めた。まるで思い切って新たな人生を生み出そうとしているかのように、他人の目には映るかもしれない。
 凡雪は宮に出て、顔を前に向けた。すると、一つの光景が飛び込むように視界に入ってきた。ガラス壁の前に立っていた人は、仁だった。右側に一台の自転車が止まっていた。
 恥ずかしくなって、凡雪は顔を下に俯け、立ち止った。
 膝が少し後ろに揺れる感じがして、凡雪は手で自転車を強く握って押した。
 すると、「雪さん! お久しぶり」という爽やかな声が、すーっと、耳の底に入ってきた。
 凡雪は、そっと息を漏らして、顔を上げた。視界に、仁の清々しい笑顔が一杯に映っていた。透明な瞳に、世界中の光を吸い込んで輝きを放っているように見えた。
 一瞬の間に、様々な気持ちが一気に解き放たれたように感じた凡雪は、口元を緩めた。
 仁は、さっと近づいてきて、自信に満ちた力強い視線で凡雪を見た。その時、街を歩く若者たちが一斉に仁を振り返った。それでも仁は真っ直ぐな視線を凡雪だけに降り注いだ。
「今日、雪さんに会えて、良かった!」
 仁は心から嬉しそうに語り掛け、笑顔が安堵な表情に変わった。
 凡雪は笑みを仁に返し、精一杯の力で「お久しぶりです」と挨拶した。
 すると、仁の目に、一筋の淡い光が流れてくる様子が見えた。
「僕は明日、仕事のために、一度、日本に行くことになったんですよ。二週間だけど」
 予定を伝えた仁は、静かに凡雪を見つめた。知的な額の下にある澄んだ瞳に、優しい光が見えた。
 凡雪は少し躊躇って、視線を路面に逸らした。人民路中を往来するバスや、トゥクトゥクと音のする三輪車が埋め尽くし、騒然としていた。
 中年の人に混じって歩く若い人々の輝きのある目と、笑った顔が凡雪の目に留まると、何故か、人民路が人間味ある街だと、初めて知ったように親しみを感じられた。
 街の喧騒や亜細亜(あじあ)的な強い生命力を貰ったように感じた凡雪は、同時に、心臓が躍動的に打っている高揚感を実感した。
 凡雪は、再び視線を仁に向け、そっと訊き返した。
「今晩、一緒に、食事しませんか」
 即座に仁は、目を輝かせて「日本の料理でも、良いですか?」と訊いた。
 凡雪は笑みを返し、小さく頷いた。
つづく

 

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