小説『雪花』全章

心身ともに、健康を目指す私流生活!!
食事や食材、ダイエット、美容などの豆知識がたくさんあります。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

小説『雪花』第七章-7節

2017-08-31 10:58:19 | Weblog
     七

 食事を終えた後、凡雪は、祖父が用意をしてくれた牡丹の花を紙で包んだ。
 包みを持つと、凡雪は祖父と家を出た。
 山間地を下り方向に、五分くらい歩き続けると、すーっと、馨った涼風が鼻元を擽った。
 祖父が慣れた足で、左側の道に曲がって「こちらへ」と気さくに導いてくれた。凡雪は、そっと左道に曲がった。
 涼やかな風に吹かれる中で、湖畔沿いの道が現れた。沿道には、延々と、豊かな樹々に甘い香りを放つ薄紅や真紅の薔薇が整然と咲いていた。
 凡雪は遠くまで展望していくと、茫々とうねる緑の山が光の中で天と繫がって見えた。融和的な風景が目を楽しませてくれた。
 なおも湖畔沿いを進むと、家族連れの、お茶を飲みながら歩いている光景が、あちこちに見えた。湖水の香りのする涼風が、すーすーと誘うように吹き込んできた。
 凡雪は、祖父の傍らにつき従って、一歩、一歩、愛おしむように歩いた。
 気付くと、一本の橄(カン)榄(ラン)の樹が見えた。樹の枝に楕円の形とした橄榄が青々と実っている。
 時折、風が密集した葉を鳴らし、実を揺らして、凡雪の頭上を抜いていった。
「今は、ベスト・シーズンだ……。花は、生死と再生を繰り返しながら、毎年、咲いていく。でも、毎年、同じものは、二つとないね」
 祖父の声が風の中で和んで、良い響きだった。
 凡雪と祖父が更に歩くと、緑陰に石の階段が現れた。
「真っ直ぐに行けば、香山墓地だ」と祖父は指差して、穏やかな声で促した。
 階段を上がって、すぐ両脇に滴るような緑が並んで見えた。山の麓からの、清冽な水の流れる音が聴こえた。
 凡雪と祖父は、真っ直ぐに階段を上がった。平らの地面に石作りの墓地の光景が現れた。
 祖父は手を差し伸べて、「万里は、此処に眠っているのだ」と説明した。涼しい憩いの場所に、《高山 万里(まり)》という名前の石牌が、すっくと立っていた。万里の墓前に腰を落とした凡雪は、そっと献花した。掌を合わせて「万里さん、初めまして」と呼び掛けた。
 蒼天からの風が優しく緑を鳴らした。幽な芳香が凡雪の鼻元に漂ってきた。
 芳(かんば)しさに触れた凡雪は、何故か、万里が同胞のように懐かしく感じた。
 凡雪は、ゆっくりと立ち上がって、祖父に問い掛けた。
「万里さんは、中国の、何処に生まれたんですか?」
 祖父は、さり気なく、視線を遠くへ向けて「撫(ぶ)順(じゅん)だよ」と凡雪に教えた。
 撫順は中国北部に位置し、大陸性気候で、冬には零下二十度も超える極寒の場所だった。
「寒い所ですね。蘇州とは、随分、離れていますね」と、凡雪は不思議に思った。
 すると祖父は、凡雪に向って、懐かしく思い出しつつある表情で、語り始めた。
「昔、私は特務機関の仕事で、撫順に来た。夜は、撫順大学に通って、必死に、中国語を勉強したよ。二年後に胃潰瘍になって、撫順病院に入院した。当時はね、万里(まり)が、この病院の看護婦だった」
 祖父は眉を上げ、朗らかに笑った。笑い声が自然の中に溶けていき、一体となった。
 太陽が鮮烈な光を放っている。緑色の風景が一変し、仄かに金色に煌いていた。
 凡雪はふと、空の上を眺めた。天が自分を見下ろしているような心地になった。
 脳裏に、祖父の若い頃の、果敢に異国を歩いている姿を浮かべて、想像した。
「その後、お祖父(じい)様は、万里さんと結婚して、ずっと中国に住んでいらっしゃるのですね」
 祖父は、頭でゆっくりと頷き、満足げな表情で、明快に答えた。
「私は、自分の好きな道を選んだね」
 祖父の声色が、凡雪の耳元に響き渡って、心底に残った。祖父の人生に惹(ひ)き付けられた凡雪は、再び問い掛けた。
「仁さんのお父様は、撫順で生まれたんですか?」
 祖父は、ふっと笑みが込上がり、言葉を継けた。
「そうだけど、撫順の冬が寒いのだよ。仁の父親の信(しん)が、幼い頃から、体質が弱くてね。冬になると、手に凍瘡(しもやけ)ができて、重い凍傷にすら、なりかねない。万里は『信の手が、ダメになるわ』と心配した。それで、信(しん)を、日本の兄夫婦に預けた」
 凡雪は、一心に耳を澄ませ、祖父を見つめた。筆で描いたかのような眉の下に、整然とした瞳には、安穏な光が宿って見えた。山の麓から、しゅうしゅうと流れる水の音が清らかに聴こえて、凡雪は身の内に、静けさが充ちるのを感じた。 
 祖父は、ゆっくりと腰を落として、万里の石牌を静かに見た。緑滴る美しい木に囲まれている万里の石牌は、すくっと立っており、天の道に通じているように見えた。
 暫くして、祖父は、ついと立ち上がって、目を輝かせた。
「不思議なものだね、仁は、冬に撫順に来ても凍瘡(しもやけ)にすら、ならなかった」
 祖父の凜とした目には、この天地に生の喜びが密に躍動して見えた。
 凡雪は、奇妙に気持ちが昂揚し、声を立てずに笑った。
 祖父は、幸せそうな表情を浮かべて「万里が近くにいるから、此処を、離れたくないのだ」と静かに呟いた。
 一瞬、沈黙が横たわった。爽やかな繁吹が凡雪の頬に吹き付けられた。異なる世界の壁を超えてゆく力が得られたような感慨を覚えた。
 つづく

この記事をはてなブックマークに追加

小説『雪花』第七章-6節

2017-08-28 11:51:20 | Weblog


祖父は嬉しそうな表情で、凡雪に話し掛けた。
 凡雪は、祖父に向って「そうですか」と返事して、改めて葉を眺めた。
 あるがままの萎れた葉が、生かされているに見えた。萎れた葉の風情に、心を集約していくように感じた。
 その時、祖父の目線も飾り花に注がれ、言葉を綴った。
「花は結局、萎れて、なくなっていく。でもね、これもまた、人によって生かされている気がする。花は、心の肖像でもあるね」
 凡雪は、祖父の雅な風貌を見て、好奇心が湧いてき。それで、つい聴いてみた。
「お祖父様、漢字の、心(シン)、日本語で、どう読みますか?」
 すると祖父は、頬を緩めて、口を開いた。
「平仮名で〝こころ〟と読むのだよ。生命は、〝いのち〟と言うね。生命全体、実存としての命(いのち)なんだね」
 祖父の言葉が、凡雪の耳元で響き渡って、心の芯まで沁み込んでいった。続いて心の底から、泉のようなものが、ふつふつと湧き上がってきた。
 凡雪は小さな声で「花は、心の自然でもあるよね」と呟いた。すると、今までにない、安心した幸せを覚えた。
「花と言えば、雪の妹の名前が、花でしょう。一緒に来れば良かったよ!」
 祖父は、手で顎鬚を撫でながら、真っ直ぐに凡雪を眺めた。
 その時、杜が背後から前に顔を出して、柳眉を上げた。
「雪さん、住所を教えて! 私が、妹の花さんに迎えに行くよ」
 一瞬、凡雪は胸を躍らせて、「ええー」と声を漏らした。
 すると祖父は、顔を和らげて、明快な声を出した。
「いいではないか! 杜は利発な子だから、任せていいよ」
 そこで凡雪は、祖父から手渡された紙に住所を書いて、杜に手渡した。杜は微かに頬を緩めると、ポケットを、ぽんと叩いた。
「交通費は、後でいいよ」
 杜は、満面の笑みを凡雪に見せて、踵を返した。祖父は杜の後ろ姿を見送って、慈しみの表情で頷いた。
 凡雪は視線を庭の外へ移した。みっしりと茂った細長い葉の間に、陽射しが弾け、乱舞していた。目の前の現の景物を眺めた凡雪は、自分が自然の美しさと貫いているような遊気分を味わった。
「花が来れば、今夜、泊まればいい。万里(マリ)の部屋が空いてる。姉妹(きょうだい)には、ちょうどいい」
 祖父は、安らぎのある目線を凡雪に向けて、温和に勧めた。
 凡雪は「はい」と、躊躇なく受け入れた。凡雪は、自然な自分と出会ったように感じて、不思議なほど清々しい気分になった。
「万里は、亡くなった妻だ。三年が経って、ようやく、死んでいった人は、生きていく人を励ましていると思えるようになった」
 祖父の言葉が、凡雪の耳奥にへばり付いて、離れなかった。祖父と何かに出会っていくように、期待する気持ちが、胸の奥底から静かに込み上がってきた。
「万里が亡くなった時は、ダウンしたな。ある日、庭で雲雀の必死な鳴き声を聞いた時に、万里の声に聴こえたんだよ。『よく生きましょう』ってね」
 凡雪は、祖父の輝かしい目に、祖父の生きる、ありのままの姿が見えた気がした。遥かな時を隔てて、異なる二つの世界が限りなく近づいていくのを体感できた。
 祖父と一緒の時間の流れに惹かれていた凡雪は、過ぎ行く時間の濃密さを繊細に感じた。
 祖父は手際よく、再び凡雪のコップにお湯を注いだ。
「お茶を、自由に楽しむといいね」
 凡雪は「有り難うございます」とお礼を返し、お茶を口に含んだ。深い滋味を感じながら、凡雪は、お茶をゆっくりと飲み干した。
 碧(ピ)螺(ロー)春(ツン)の爽快な香が風のように、喉元に流れて心に吹き込んでいった。流れていく時間に、遊(たのしい)雰囲気が陶然と回ってきた。
 顔を緩めた凡雪は、目線を飾り花に移して「萎れた葉でも、美しい絵に見えますね」と呟いた。片手でコップを持った祖父は、お茶を、一口ゆっくり喫してから、言葉を紡いだ。
「萎れた葉でも、活(い)けることによって、美しいものになる。花を見るよりも、命(いのち)の姿を眺めているようだな」
 耳を傾けた凡雪には、一瞬の間に、飾り花が壮絶に終わろうとする美しい姿に見えた。
 穏やかな風が樹の梢を鳴らして吹き過ぎた。空の遠くから雲雀の囀(さえず)りが爽やかに聴こえ、祖父は、ゆったりと微笑み、凡雪に向って語った。
「時々、鳥の声を聴くとね、万里(まり)の喜ぶの顔が、浮んでくるね。万里が、いつも傍にいるような気がする」
 祖父の柔らかい笑顔に、強靭な生命力が秘めて見えた。
 凡雪は心地よく、空を眺めた。正午の空の白い筋(すじ)雲が目に沁みていた。
 鼻元にうっすらと、料理の香ばしい匂いが漂ってきた。凡雪は目を門口に移した。
 すると、楚がいそいそと、何かを運んできた。
 祖父は喜色を浮かべて「お昼は、ハムの菜飯だな」と囁いた。
 楚は寄って来て、碗を卓台に置きながら、凡雪に声を掛けた。
「万里さんは、香山の墓地に眠ってるのよ」
 その時、凡雪は無性に、万里の墓を見に行きたくなり、期待の目線を祖父に移した。
 すると祖父は「まず、食事をしましょう! そうだね、雪は、仁の女朋友(二ュポンユゥ)(恋人)だものね。後で、万里に挨拶に行きましょう」と温かく答えてくれた。
 凡雪は一礼して「不(ブ)客気了(クゥチル)(頂きます)」と囁き、炊き立ての菜飯を一口、食べてみた。
 すると、炙(あぶ)った豚肉の香ばしさと柔らかい食感が、滋養となって身体に染み渡っていくかのような味覚を堪能できた。
つづく

この記事をはてなブックマークに追加

小説『雪花』第七章-5節

2017-08-24 14:45:48 | Weblog
   五

 庭から駆け寄ってくる軽い足音が聴こえてきた。
 目を門口に移した凡雪は、視界に一人の中年の女性の姿を認めた。ぽっちゃりとした体格で、黒い目が生き生きと動いていた。凡雪には、この女性が杜に重なって見えた。
 女性は、すぐ中に入り、祖父に近寄って「我(ワオ)来(ライ)了(ル)(ただいま)」と挨拶した。
 祖父は、穏やかな表情で「杜(と)の母親の、楚(そ)だ。三年前から、母娘に世話になっているんだ」と凡雪に紹介した。母娘は香山の百姓で、太湖岸線に沿い、ちょうど「魚米之郷」と呼ばれる、辺りに住んでいるそうだ。
 楚は潤んだ瞳で、しげしげと凡雪を眺めながら、緩んだ声を出した。
「まあ、端正(たんせい)な顔たちで、都会の娘だね」
 いつの間にか、杜(と)が楚(そ)の傍らに立っていた。杜はにこりと笑って、手で持っている紙袋から、何かを出した。
「雪さん、これ、新鮮な橄(カン)榄(ラン)の実ですよ!」
 杜から手渡されたのは、小さな橄榄だった。青々とした楕円形で、両端が微(かす)かに尖っている。橄榄は、胃を開き、喉の粘膜を潤す効果があるので、漢方薬としては、よく使われている。民間でも、乾燥した橄榄に甘草の粉末を混ぜ合い、お菓子として店で売っている。
「生の橄榄は、どんな味するかな」
 凡雪は受け取って、橄榄の尖る部分を少し齧ってみた。
 ほんの少し苦味と渋味が感じられたが、橄榄を噛んでいくうちに、旨味が出てきた。最後は、爽やかな香りが、鼻の奥から頭へと抜けて行く、不思議な旨さを味わった。
 凡雪は眉を広げて「これ、美味だね」と呟いた。
 杜は双眸を大きく開いて、話を紡いだ。
「昔、ある男の人が、拾った橄(カン)榄(ラン)を齧ってみた。すぐに不味と思って、橄榄を、瓦屋根へ投げ捨てた。ところが、男の人は、続いて口の中に広がった爽やかさと甘味に気づいて、すぐ屋根を登って、橄榄を探し出したって」
 凡雪は、趣な伝説を聴いて、杜に訊ねた。
「杜さんは、何で知ったの?」
 すると祖父が、密かに笑みを浮かべて、口元を動かした。
「杜は、広(ラ)播(ジオ)から聴いたよ。ついこの間、仁が来た時に、トランジスタ・ラジオを持ってきたんだ。カセット・テープも聴けるタイプのラジオね。私が押して聴いてる間に、杜も聴いてた」
 杜は豪快に笑った。窓から艶かしい光が差し込んでいた。客間には、何処からともなく甘い馨りが漂ってきていた。凡雪は客間の四方をゆっくりと見回した。
 窓の右側の掛け軸には隷書の墨蹟で、「茶是遊」と認(したた)められ、下には低い本棚が置かれていた。棚の上には、銀化したガラス壺に牡丹の花と葉が活けられている。古材の敷板に合わせて置かれていた。
 葉が少し縮れていた。なのに、独特な清雅な雰囲気を出し、一幅の絵のように見えた。
「萎れた葉は、汚いものに見えてるでしょう。露打ちすれば、生き返るんだよ」
つづく


この記事をはてなブックマークに追加

小説『雪花』第七章-4節

2017-08-22 11:50:20 | Weblog
       四

  祖父は魔法瓶を持ち上げ、お湯を大きな茶器に注いだ。温度を少し冷ますためのようだ。
「此処は、ガスや水道が、通っていないのだ。生活の用水も畑の水も、山の麓から、三十分も掛けて運ぶのだよ。杜が毎朝、運んでくれてるんだ」
 祖父は、ゆっくりと茶筒から、指で、小さな巻貝状の碧螺春(ビーローツウン)を取り出した。絶妙な角度で、一定量を掬(すく)っている。祖父の手先は、矍鑠とした、揺るぎのない動きだった。お茶を丁寧に、ガラスコップに入れた。
「碧螺春は、他の茶とは比べられない。大事に新芽を摘み、葉毛を損なわないよう、丁寧に仕上げているんだ」
 祖父は微笑んで茶器を持ち、コップに三分の一のお湯を入れた。茶葉がゆっくりと落ちて、少しずつ膨らんでいた。
 茶葉が動かなくなると、祖父は更に、お湯を注ぎ足(た)した。
 碧螺春の仄かな馥郁とした香が、ゆるゆると流れ、客間に雅な風情を漂わせた。
 窓からの光が、柔らかく白く清浄に注いでいた。遠い向こうの梢に乗った雲雀の、お喋りをするような鳴き声が、窓から聴こえてきた。
 凡雪の脳裏には、清の康熙(カンシ)皇帝が好日に碧螺春を味わっている笑顔の光景が浮んできた。
「皇帝は、何を考えながら碧螺春を味わっていたのだろう」
 凡雪は想像を巡らせると、桃源郷にいるような、奇妙な心地よさを味わった。
「正式な作法とは、言えないのだが、お茶を味わってください」
 背筋がすっきりと伸びた祖父は、優しい表情で、凡雪にお茶を勧めた。凡雪は、微かに頭を下げ、丁重に礼をした。
 ガラスコップを持ち上げた凡雪は、一口そーっと含んた。
 胸が空くような、絶妙な香りと甘味が、さあっと口中に広がっていくのを感じた。
 そっと喉元に流すと、お茶を潤わせた山の麓の水の爽やかさと甘さを味わった。
 深い味が、緩やかに身体の芯まで潤って清めて沁み込んでいった。
 凡雪はお茶を飲みながら、窓外を眺めた。明媚な光が神々しく煌(きらめ)いていた。
 閑雅で落ち着いた客間に座っていた凡雪は、不思議なほど身体心身ともに寛いで、優雅な気分に満ちていた。
「田舎の自然は、どうだい? 一木一草が皆、生き生きと生命力に満ちているでしょう」
 祖父はお茶を吟味しながら、楽しそうに居間の外の庭を眺めて凡雪に伝えた。
 戦いだ風が、りゅーりゅーと窓から流れて、凡雪の心を全て解させた。
 凡雪は、更に寛いだ気がして、祖父に話し掛けてみた。
「お祖父様は、中国の碧螺春が大好きと、仁さんから、聴きましたよ」
 すると祖父は「そうですね、碧螺春を一口飲むと、心が静かになる、二口を飲むと、優しい気持ちに返るんだよ。三口を飲めば、生きることが、幸せだと思えるのだよ」と話を返してくれた。
 祖父の朗らかな笑い声が、凡雪の耳に心地よく響いていた。不思議な人に出会ったように、胸の中に新鮮な気持ちが、一気に込み上がってくるのを凡雪は感じた。 
 突然、外からの雲雀たちの愛を交わすような鳴き声が、風に乗って聴こえた。
 祖父は、顔をそうっと窓外へ向け、微笑を広げた。
「大きな鳥ではない、懸命に羽搏く姿は、何とも勇壮だよ」
 祖父の笑顔が、雅趣に富んで見えた。凡雪は、身体が浮きそうな軽さを感じた。

つづく

この記事をはてなブックマークに追加

小説『雪花』第七章-3節

2017-08-20 12:34:42 | Weblog
      
     三

  山に頂き立った。凡雪の視界に平屋の民家が連なって現れて映った。新たな境地に立った心地となった凡雪は、急に胸がドキドキしてきた。いつしか緊張感が湧き起こっていた。
 杜は、洟を軽く啜って「ほら、着いたよ!」と指で、前の真中の平屋を指した。
 杜は凡雪の腕を、ぽんと叩いて、さっと前へ行って中に入った。
「客人(クウルン)来(ライ)了(ル)!」と杜の高い声が流れて聴こえた。
 凡雪は立ったまま真中の平屋を眺めた。門の右側の角に『晩遊館』という小さな文字の看板が掛けてあった。凡雪は不思議に感じて「〝遊(ゆう)〟って、遊ぶ?」と呟いた。辺りから水果(フルーツ)の甘い香が、風に乗って、すうすうと漂ってきた。
 凡雪は芳香を嗅ぎながら、四方をゆっくりと見回した。民家の辺りにある樹々が視界に映った。樹々には、膨らんだ枇杷(ピバ)が一杯に実っている。陽光に包まれた枇杷は、金色で朧に輝いてめいていた。
 甘い馨った風が、するすると吹き込んできて、抜けていった。凡雪は、汗ばんでいた額が、自然に乾いたように思った。
 凡雪は、心地よく呼吸を整えて歩き出し、静かに門を潜って中に入った。
 緑の美しい庭が広がり、樹木に牡丹が大きな花弁を広げていた。豪華で美しく、たっぷりとした存在感と、活気が溢れて見えた。
 澄んだ静かな明るさに包まれた凡雪は、新鮮な心地で庭を観回した。
 横の土に木蓮の花が咲いていた。閉じた状態で上向きに咲き、まるで白い小鳥たちが木に止まっている姿に見えた。
 一陣の郁香が上から漂ってきて、凡雪の鼻にすーっと入って、胸の隅々まで沁み込んできた。天からの贈物のような快さだった。
「歓迎! まあ、遠くからよく来たね」
 庭に面した居間から、中国式の単衣を身に纏った、一人の初老の男性が出てきた。仁の祖父に違いない。
 すたすたと歩み寄って来た祖父は、大きな手を伸ばして、ふわっと、包むように凡雪と握手した。頬が柔和で、表情に喜びを湛えていた。
「昨夜、仁から連絡を貰ったんだ。雪ですね!」
 淡い灰色の髪を靡かせ、顎鬚(あごひげ)を生やした顔に、たおやかな慈悲と達観が滲み出ていた。
 まるで唐の時代の水墨画に出てくるような、風韻がよく、品格がある人物に見えた。
 凡雪は、祖父とは初対面なのに、遥かの昔から何処かの大地で、既に出会っているような親近感を覚えた。
 凡雪は満ち足りた気分になり、頬を綻ばせて「初めまして」と挨拶した。
 祖父は、嬉しそうに「請(チン)進(ジン)!(どうぞ)」と凡雪を中へ進めた。
 凡雪は丁重に、一度、頭を下げてから「お邪魔します」と返事した。
 一歩前へ進んで、そっと広い客間に入ると、真中には大きな卓(テー)台(ブル)があった。卓台には茶道具や、色々な形の茶杯、お菓子が置いてあった。両側には、籐の椅子が揃っていた。
 少し歪んだ壁に窓があり、透明な光が射し込んで、客間を眩く和ませた。
「腰を掛けて、軽松(リラックス)してね」
 祖父の、訛のない中国語が、凡雪の心の奥まで温かく入り込んで蕩(とろ)けていた。
 隣の間から、水(や)壺(かん)のちんちんと湯音が聴こえてきた。開けた窓から、シュンシュンと風の音が流れていた。
 椅子に悠然と座った祖父は、微笑んで眉を微かに動かした。
「さて、お茶を淹れましょう」
 その時、杜が隣の部屋から、魔法瓶を持って近寄ってきた。凡雪は、そっと背骨を伸ばし、心機を凜と引き締めた。 
つづく

この記事をはてなブックマークに追加

小説『雪花』第七章-2節

2017-08-14 13:59:18 | Weblog
      二

 「雪さんですか?」
 突然、一人の若い女性が目の前に現れ、緩やかな声で話し掛けてきた。
 女性は頭に、草編みの笠のような帽子を被っていた。
 一瞬、果てのない空から一陣の風が吹き渡ってきたようだった。
 心が揺さぶられて、淡い痺れを覚えた凡雪は、頭で頷いて、女性を見つめた。女性は、首をちょっと傾げた。
「私は、杜(と)です。仁の、お祖父様をお世話しています」と自己紹介した。
 凡雪の脳裏に夢の中の兎(と)が浮かんできた。凡雪は、杜(と)を兎(と)と重ねたことで、眼前の女性が幻のように見えた。
「都会から来た人だから、雪さんって、すぐ判るわよ!」
 杜は清楚な声で謎解きをしながら、目を細めて潤ませた。
 凡雪は嬉しくなって「杜さん、案内してくれるのね」と訊いた。
「そうですよ! 仁の、お祖父様に頼まれたの。家は、遠くないわよ」
 杜は両手で、笠のような帽子を整えてから、踵を返した。
 凡雪は、杜のぽっちゃりとした後ろ姿を見て、ふと確かめたくなり、呟いた。
「仁のお祖父様は、一人で住んでるの?」
 杜は、つと足を止めて、振り返って顔を曇らせた。
「今は、一人ですね。三年前、奥さんの万里(マリ)さんが、白血病で、亡くなられたんですよ」 
 風が、びゅんと、渦を巻いて飛んできた。
 濃い煙のような匂いを嗅いだ凡雪は、むわっと、纏わり付くような不快感を覚えた。
 凡雪は「そうですか」と小声で紡ぎながら、杜の後ろに従いて歩いた。山間地は、土がしっかりと均されていた。
 凡雪は歩きながら、遮るのない四方を見廻した。太湖の対岸には、葦が生い茂っている。雲の下には、連なる深い緑の山腹が太陽の光を受けて輝いていた。見事な風景画のようで、叶うならば手を伸ばして触りたい、身体を委ねたいような優しい遠景だった。
 雲雀がお喋りをするように鳴きながら、空高く、自由自在に飛び回っている姿が見えた。生命力に溢れる雲雀たちが、天に命を謳歌している様子だった。
 凡雪は一歩さっと前へ進んで、杜の傍らに並んで歩いた。杜がしげしげと凡雪を見て、黒い目を動かして笑った。
 凡雪と杜は顔を見合わせた。杜の顔だちは、きりりとして目に凜とした光が漲っていた。凡雪は一目で好感を持ち、「万里さんは、もしかして、中国の方ですか?」と教えを求めた。
 すると「そうですよ! 万里の名前はね、〝万里の長城〟から取った名前だって、お祖父様から、聴いたわ」
 杜の目が再び生き生きと動いて、口元で微笑んで流麗に答えた。
 凡雪は杜の愛くるしさを感じて親近感が湧き、再び訊いてみた。
「杜さんは、何時から、仁の、お祖父様のお世話をし始めたの?」
 杜は、ふっと静かな表情になった。
「万里さんが、亡くなられた後ですね」
 一瞬の間に、全ての音が、すーっと消えた。寂寞な気が流れて漂ってくるようで、凡雪は杜の傍らで、黙って歩いて前へ進んだ。
 雲雀のお喋りをするような鳴き声が、再び聴こえてきて、凡雪は、天空を仰いだ。すると、上に舞い飛び回ってきた沢山の雲雀は、歓びが躍動しているように見えた。
 凡雪は無性に、大空を飛んでみたい、という強い思いに取り憑かれた。それと同時に、胸の中の愉悦に満ちた気分にも気づいた。
つづく

この記事をはてなブックマークに追加

小説『雪花』第七章-1節

2017-08-12 13:01:17 | Weblog
 第七章 幻想から現実へ
       一
 翌日の土曜日の朝、凡雪は早く目が覚めた。
 深い静けさの中で、寝静まっている凡花の鼻息が、すぐ傍に聴こえた。ほんの微かな音が、凡雪の身に沁み渡って、凡花の甘い匂いを感じた。
 凡雪は、目を軽く擦って、窓から外を眺めた。灯(とも)っていた街の灯火が、はっと静かに消えてゆき、空の底に秘めた青色の光が妙に明るく妖(あや)しく美しく見えた。
 凡雪は胸の奥に漣が浮かび上がってくるような小躍りを感じ、ベッドから身を起こした。
 休日の朝食を作る凡雪は、まず茉(ジャ)莉(ス)花(ミン)茶(チャ)を香ばしく熱く淹れた。肉饅をふっくらと蒸している間に菠薐草(ほうれんそう)と卵を炒めた。最後は、切り揃えた苹(りん)果(ご)と橙(オレン)子(ジ)を皿に載せた。
 直後に起きてきた凡花が最初に箸を付けるのは、卵だった。凡雪は、まずお茶を、ゆっくりと飲んでいた。
「姉(ジェ)は、今日、仁さんのお祖父さんに、会いに行くのね。楽しみだね」
 凡花は肉饅を一口食べて、にこりと笑った。凡雪は黙って笑みで答えた。
 神聖な世界に行くような感じがした。凡雪の脳裏に、幻想的な風景が広がっていた。
 居間は、お茶の香りとフルーツの匂いに満ちていた。目に見えない涼風が飄々と優しく凡雪の身を包み、良い心地だった。
 八時少し過ぎに凡雪は家を出て、街を歩いた。青く澄んだ空には、太陽が真東から昇っていた。雀は一羽、また一羽と、横に飛んでいった。
 凡雪は足早に歩いて、十分で陽(ヤン)明街(ミンジエ)にある専用旅遊バス停に着いた。微かな風を頬に受けながら少し待つと、香山(シアンサン)行きのバスが、すっと到着した。
 凡雪はバスに乗った。中には、わずか数人が静かに座っているだけだった。
 香山は、蘇州からは二十三キロ離れた、太湖の景観を楽しめる江南特有の小高い山地だ。
 バスはすぐ走り始め、陽明街を出て西(シー)環(フアン)路(ロウ)に入った。
 竹園(ツオイウン)路(ロウ)に入ったバスは更に走り続け、五十分後に、終点の香山に到着した。
 凡雪は、陽射しで温もったバスから降りた。視界には、太湖の容(すがた)が映った。湖面は、太陽の光の中で溶け込むように、白銀色に満ちて見えた。
 太湖には観光船が浮かび、湖を囲む山々の稜線がくっきりと投影されていた。 
 一瞬の間に、自然の空気に凡雪は全身が包まれた。凡雪は、深い水の中から浮かび上がってくるような心地で、ぼうっと、太湖を見つめた。

つづく

この記事をはてなブックマークに追加

小説『雪花』第六章-5節

2017-08-10 12:11:09 | Weblog
         五

  一陣の風が上から流れて真中に溶けていった。遠くから異国の土の匂いが漂っているような気がして、凡雪は、身体の底から熱い力がじわじわと湧き上がってくるのを感じた。
 天の雲でも渡るような心地で、凡雪は一歩ずつ、駆け寄った。凡雪は、緊張感を味わいながら電話機を取り、番号を回した。
 すると「雪さんでしょう!」と、仁の弾けた肉声が聴こえた。
 愛おしい感情が胸の底から湧き上がった。心臓が激しく鼓動を打った。
 凡雪の言葉が、胸から喉へ、喉から口へ小さく細く「……はい」と出てきた。
「雪さんに会いたいよ」と仁の小さな呼気の音が聴こえてきた。
 仁の声が甘くて優しいのに、凡雪は、ちくりと切なさを感じた。凡雪は、何かを耐えているように、じーっと押し黙っていた。
「雪さん、元気がないね、どうした?」と、仁の囁いた声が凡雪の心を潤わせた。
 凡雪の目から涙が流れて、唇に留まった。凡雪は、そっと嘗めた。何故か、蜜の味を感じた。凡雪の脳裏を、十日前に夢の中で初老の家に辿り着いた時の、甘い蜜の香が掠めた。
 凡雪は「仁さんの、お祖(じ)父(い)様は中国に住んでいますか?」と訊いてみた。
 仁は、ぽつっと笑って、すぐには返事しなかった。
「雪さん、当ててみて」
 その時、凡雪の脳裏に、初老の幻影が朧げに浮かんできた。
「そうね、蘇州の、何処で住んでいるでしょう」と答えた。
 すると「当たり! そうですよ」と、仁の喜んだ声が凡雪の鼓膜を擽った。
 凡雪は静かに呼吸しながら、ゆっくりと胸を張って「仁のお祖父様に、会ってもいいですか?」とお願いを出した。
「ああ~嬉しいな! 祖父は、きっと、喜ぶよ」
 仁の微かな昂ぶった声が、凡雪の耳元に伝わってきた。
 電話で仁から祖父の住所を聴いた凡雪は、口元を綻ばした。 
 直後に、郵便局から一歩さっと走り出た凡雪は、ふと頭上から初老の模糊とした幻声が舞い降りてきたような気がした。
『恋することは、自分を愛することと、人を愛することなんだ』
 声が、夜の空の中に溶け込んで、少しずつ消えていた。
 凡雪は街を歩きながら、頭を上げた。
 天空には浩々と光を放つ月が昇っている。凡雪は、湿り気のある空気を吸いながら、天辺(てっぺん)の向こうの、麗しい湖面や連綿と続く茶畑を、こまごまと想像した。
 凡雪は、遠くを眺めて「仁の祖父はどんな人だろう」と呟いてみた。
 緑陰から来た涼やかな風が、凡雪の肌を接触して撫でた。薄暗い空は、すぽっと薄紅の線を引いたように、美しく見えた。
 凡雪は眉を上げ、賛嘆した。凡雪は無性に、仁の祖父に会いたい心情が、胸の中から込み上がってくるのを感じた。
つづく

この記事をはてなブックマークに追加

小説『雪花』第六章-4 節

2017-08-08 14:36:52 | Weblog
 
       四
 その後、凡雪は家に戻った。途端にあらゆる疲れが神経に渡って溶けていくような怠さを感じた。凡雪は寝室に入り、ベッドで横たわった。
 瞼を閉じると、愛された喜びを、胸の辺りに仄かに感じた。目の裏に、川面の清流の光や、紅く色づいた葉を透かして躍る木漏れ太陽が浮かんできた。
 想念が頭を駆け巡った凡雪は、眠りに入った。谷底に落ちるように、すっと深い眠りに入った。
 目が覚めた時に、部屋が薄い暗くなっていた。凡雪は身を起した。
「よく寝てたわね」と、近寄ってきた凡花に声を掛けられ、凡雪は、身体が奇妙に軽くなっているのに気づいた。
 その後、夕食を終えた処で、突然、窓の外からバイクの音が聴こえてきた。次は、玄関からノックの響き声も聴こえた。
 凡雪は玄関に行き、ドアを開けた。届けられたのは、日本からの、仁の電報だった。
 凡雪は、すぐ電報の紙を取り、灯りの下に駆けつけた。凡雪は息を潜めて目を開いた。
「仕事のために蘇州に戻るのは、来週末となります。我(ワオ)想(シアン)雪(シゥエ)!(雪に会いたい)」
 紙の末尾に書かれている、仁の自宅の電話番号が凡雪の目に映った。
 一瞬、仁の、爽やかな声が耳元を掠めたような気がした。
 凡雪は、胸を掻き乱されるほど、仁に会いたい気持ちが込み上がってきた。凡雪はすぐに家を出て、街を構わず走った。夜の清涼な風が、凡雪の頬を撫でて擦っていた。なのに、凡雪の額には、無数の汗粒が滲み出てきた。
 走る中に生きる全てが存在しているかのように、凡雪は直向に走っていた。
 凡雪は、心臓の鼓動がドンドンと、リズムを刻む音が強くなっていくのを感じた。まるで、走っていく先に立っている仁にすぐでも会えるような、爽快で不思議な気分だった。
 十五分後、陽(ヤン)明街(ミンジエ)の角にある郵便局に着いた。凡雪は額の滴を拭き取り、中に入った。
 ぼんやりとした灯りの中に、右側の「国際電話処」の看板が冴えて見えた。
つづく

この記事をはてなブックマークに追加

小説『雪花』第六章-3節

2017-08-06 12:25:14 | Weblog
 
    三
静けさの中で、何処からか、雀の可憐な鳴き声が聴こえてきた。蝋燭の燃える匂いが風に乗って凡雪の鼻を掠め、胸の奥に触れていた。
 かっと身体が熱くなり、凡雪は目を閉じた。蝋燭の匂いが懐かしく感じられた。少し遠い所で、泰然とした格好の陳が筆を執り、束ねた紙を開いて、華麗な世界を描いていた。
「本物よりもっと、本物らしい絵を描きたい」
 陳の言葉も脳裏を掠めたように感じた。
 蝋燭が再び、パチパチと音がした。雀が、別の梢(こずえ)を跳ね渡って行く音が聴こえた。
 その時、凡雪は、静かな気分の高揚感を覚えていた。ゆっくりと目を開いた凡雪は、視線を陳の写真に戻した。遠く離れた陳の笑みに、凡雪の胸が鬱ぐ。
 紗のような煙が、優しく凡雪の身を包み、馴染んできた。凡雪は、ゆっくりと目を受賞作品に移して、遠い憧れとして眺めた。微細に筆を入れた風景の中には、悠然たる山水が風雲を呼び起こすほどの雄々しさが、漲っていた。
 一瞬、絵に震撼された。凡雪は胸がすかっとして、心の底から生きる充実感を味わった。
 凡雪は生唾を呑み、唇を動かした。
「どうやって、ここまで生き生きとした線が、引けるの?」
 すると、陳の気迫を込めた声が遠く何処から漂ってきて聴こえてきた。「情熱だよ!」と。
 その時、広間に、筆致に残った墨の匂いが漂っているような錯覚を覚えた。凡雪は、陳の画室に足を運んだ。中には、懐かしい陳の匂いが、幽かに感じられた。
 陳の絵に注ぐ情熱が雨のように降り注いでいた。広々としたテーブルに、筆と紙が綺麗に整理されており、横に、一冊のノートが開いたままで置いてあった。
 凡雪は、ゆっくりと、慎重に手を伸ばして、ノートを取った。視界に「雪を愛してる」という文字が映った。鉛筆で弱々しく書かれた。
 一瞬、感情が身を震(ふる)わせた。反射的に瞼を閉じた。記憶の奥底に、押し込めていた懐かしい思い出が、再びに蘇(よみがえ)ってきた。陳の微笑み、温もり、口調、仕草……。
 涙が、凡雪の頬を伝わって滾々と流れて落ちた。静寂の中で、凡雪は呆然とした。
 暫くして、広間から母親の促促とした咳の声が聴こえてきた。細い悲鳴を上げたような声だった。涙で滲む目元を拭った凡雪は、ゆっくりと、何度も、大きく深呼吸した。
 なのに、深呼吸する度に、悲しみに胸をえぐられ、涙声が室中で響いて、いっそう、やる瀬なくなった。
「雪、愛してる」の陳の抑揚のない幻声が頭頂から耳元で響いた。画室に春の陽炎が立ち昇ったような温かさが感じられた。
 シーンと静けさの中で、凡雪は奇妙に永遠に不滅の愛を感じたように思い、至福感を味わった。凡雪は、渾身の力を振り絞って、そっと「……ありがとう」の言葉を送った。
 暫くして凡雪は、丁寧に、ノートを元の場所に戻した。凡雪は、胸の辺りを押さえて、長々と息を吸ってから、画室を出た。
 両親と別れの挨拶した凡雪は、陳の家から静かに離れた。水路を望む岸にあるベンチに腰を掛けた。川面は淡い緑色で、静かに遅く流れていた。風に乗って舞い降りた葉は、川面に小さな影を落としながら沈んでいった。
 眺めるともなく眺めていると、小舟がすいすいと近づいてきて、次第に隔てて去っていった。まるで陳を乗せて対岸へ逝(い)ったように見えた。
 日が昇るに連れ、細波の水面に清廉(せいれん)な光が広がっていた。時折、風が強く吹き、太陽の光が波間に躍(おど)っていた。川の中程で魚が、ぴしゃりと跳ねた。幾重にも輪ができ、段々と優雅に広がって、消えた。
 辺りには、ちょうど雲雀が飛んで来た。可憐に地面擦れ擦れを掠めて戯れていた。足元の草から、清々とした香が漂っていた。
 凡雪の心の中で悲しみの波がゆっくりと静まっていくのを感じた。
 頓て、風が静まり、紺碧の水面が穏やかに広がっていた。 
 凡雪は、変幻自在の川面を見ていくうちに、身体に新たな気力が出てくるのを感じた。 
 目の前に広がった光景に、凡雪は暫し見入り続けた。
 時間が閑かに流れている。風が柔かに凡雪の髪を撫でた。
 いつの間にか、天空には太陽が高く昇った。川面に光が眩しく煌(きら)びやかに見えた。
 凡雪は、眉一つ動かさずに見ていた。自然の気が生暖かく、身体の中を巡ってくるのを感じた凡雪は溜息をつくように、流れ自然の気を、息に却って吐き出した。
 凡雪は静かに、ベンチから立ち上がって離れた。
 つづく

この記事をはてなブックマークに追加