鹿持雅澄 の生誕地に行ってきました。福井の里レストランの近くから、南に入り看板を見ながら行きましたが、
途中道がいりこんでいてやっと到着しました、行き止まりのところに車を置くところもなく200坪ぐらいの彼の敷地
には草が生えて、石の碑が立っているので、ここが生家ということがわかる状態です。
彼の万葉集古義は有名で、私も一冊持っています。以下彼の経歴です。
没年:安政5.8.19(1858.9.25)
生年:寛政3.4.27(1791.5.29)
江戸後期の国学者,歌人。土佐(高知)藩の下級武士柳村惟則の子。妻菊子は土佐勤皇派武市瑞山の叔母。本姓藤原氏,その支流飛鳥井家の流と自称。鹿持は本籍地の名。名は雅澄のほか深澄,雅好など。通称原太,藤太。号は古義軒ほか。藩儒中村世潭に漢学を,宮地仲枝に国学,和歌を学んだ。生涯を微禄貧困のなかに送ったが,藩家老福岡孝則によって藩校の講義聴講,藩庫の蔵書閲覧の便宜を与えられた。『万葉集』注釈に生命をかけ,生涯国を出ず,ほとんど独学で学問研究に励んだ。その著『万葉集古義』141冊は,本文の注釈にとどまらず,枕詞から地理にいたるあらゆる分野の研究を網羅している。近代以前の万葉研究の最高峰といっても過言ではなく,維新後,天覧の栄に浴し,宮内省から出版された。また,万葉研究の過程で体得した復古精神は瑞山に受け継がれ,土佐の勤皇思想に大きな影響を与えた。<参考文献>尾形裕康『鹿持雅澄』,鴻巣隼雄『鹿持雅澄と万葉学』