失われたモノやコトを探っているブログとしては、「昭和」というのは避けて通れないキーワードです。それにしても「昭和」と一くくりにされてもネェ‥‥。何といっても63年ちょっとありますし、2回の世界大戦をくぐり、科学的発展の目覚しい時期でしたから‥‥。世代によっての「昭和観」というのは大きく異なるでしょう。
今回は、私の私的な略歴で昭和を辿ってみます。
私は昭和40年ちょうどに生まれました。「東京オリンピック開催」「東海道新幹線開通」の翌年です。戦後復興も一段落し、東京が新しく生まれ変わろうとしている時期です。
私の育った千住・柳原の町並みは、荒川の土手から見渡すと、眼下に2階建ての家の瓦屋根が並ぶものでした。下町特有の曲がりくねった細い路地が何本も通り、まさに生活が「密集」している感がありました。共同水道を使っている家もありましたし、アパートには共同炊事場、共同トイレのところもありました。「呼び出し電話」を表す「(呼)」が小学校の緊急連絡網に載せられている場合も多かったです。(我が家も私が小学校2年生の頃まではそうでした。)「世帯」としては独立していても、「ご町内が助け合って生活している」という感じでした。そこにはお互いを気遣う「遠慮」や「奉仕」の気持ちが自然に存在していたと思います。
幼稚園の年長の頃に、私は柳原1丁目から2丁目へ引っ越しました。徒歩で5分くらいのところでしたが、それまでの生活圏とは異なっている印象がありました。子どもの私でさえ、それまでは近所のヤマザキパンのお店に毎日のように朝食を買いに行っていたのが、2軒先の酒屋さんのお馴染みになり、そこのお店のお兄さんやお姉さんと親しくなりました。
友人関係では、相変わらず幼稚園の同じクラスのTくんやSくん、Hちゃん(女子)とは遊んでいましたが、幼稚園入園以前からの幼馴染のMくんやFくんとは遊ばなくなっていきました‥‥。そして新しく、同学年のKくんやUくんがご近所になって、よく遊ぶようになりました。Uくんは家が真向かいで、ほんとにしょっちゅう行き来していました。このブログを始めた3年前、当時住んでいた町を歩いてみたことがあったのですが、彼らの家が変わらずそこにあって嬉しかったのを覚えています。
この頃は一年中半ズボンでした。その頃の写真を見ると、冬は白いタイツを履いています(苦笑)。
小学校に入学し、IくんやSくんという新しいクラスメイトも近所だということを知って、遊び相手もどんどん変わりました。ケンカの強いガキ大将を中心としたパワーバランスの中で、時々野球に加わるような付き合いと、家の中でミニカーやゲームで遊んだり、外で「何でも屋さん」「悪漢探偵」「缶けり」などで遊んでいる仲間を両立していました。
「自転車」という移動手段を手に入れ、行動半径が広くなったのもこの頃です。幸いにして、柳原の町はクルマは通称「疎開道路」の交通量は多いものの路地にはほとんど入って来ないので、世間での「交通戦争」とは無縁でした。また『仮面ライダー』や『ワイルド7』の影響で、自転車でムチャな乗り方もしていました。
「歌謡曲」と出会ったのもこの頃です。父のおさがりのカセットテープレコーダーで、TVに向かってマイクを突き出し、好きなアニメやドラマの主題歌、歌謡曲を録音していました。
昭和が50年になって、私は小学校高学年。その頃は家の中で遊ぶことが多くなりました。「人生ゲーム」はもちろん、「億万長者ゲーム」「オセロ」などのボードゲームやカードゲームが充実してきたことや、仲間内でタミヤの1/35ミリタリー・ミニチュアのプラモが流行したことも大きいです。「USYモデルクラブ」と名乗り(「S」は私。結成の提唱者のイニシャルと「USA」に引っ掛けていました(^^ゞ)、4~5人くらいがだれかの家に集まり、くだらないお喋りをしながらプラモをつくっていました。母がパートに行くようになって、昼間はだれもいない我が家が場を提供することが多かったです。接着剤や溶剤で頭がクラクラしたことが何度もあり、その頃の成長期の影響が現在のおバカに繋がっているのかも‥‥。
ビートルズを聴くようになったのもこの頃。Uくんとは競ってアルバムを買いました。だから、Uくんが持っていた『HELP!』『THE BEATLES(通称WHITE ALBUM)』『ABBEY ROAD』『LET IT BE』は、自分で買うのは後回しになってしまいました。(『A HARD DAY'S NIGHT』『YELLOW SUBMARINE』はまた別の友だちが買いました。)
そろそろ習い事を始める友だちも多くなり、私もソロバンや習字を習わされました。大勢で集まって遊ぶのが、だんだん難しくなってきました。
自分の着るものにこだわりだしたのもこの頃です。私はとにかくデニムが好きで、アディダスのウィンドブレーカーが流行していた時もGジャンを着ていました。もう夏でも半ズボンを履くことはありませんでした。
中学校に入学してからは、他の小学校から来た友だちが爆発的に増えました。そこでは異文化交流(笑)も行われ、新しい遊びや知らない駄菓子屋の情報がもたらされました。
私はギターやドラムスに目覚め、だれかの家に集まってギターを弾くことが多かったです。まぁ、基本的に部活があって、ウィークデイに遊べる日はありませんでしたが。
3年生になって部活を引退する頃になると、Mくんのお婆ちゃんの家にたむろすることが多くなりました。この家は私が幼稚園の年中組まで住んでいた家の隣! 懐かしかったです。この家ではくだらないお喋りや麻雀をしていました。タバコを吸ったりも‥‥(^^ゞ
高校に入学してすぐに、私は千住4丁目に引っ越しました。柳原から見たら「駅向こう」の商業地域で、大きなビルがたくさん建っています。今も両親はそこに住んでいます。
帰宅するのが7時を過ぎるようになったので、地元の友だちと遊ぶことが無くなりました。小学生からの友だちとも疎遠に‥‥。反対に、高校の友だちらとバンド活動ばかりしていました。
家では音楽を聴いているか、マンガ誌を叩いてドラムスの練習をしているか、ギターを弾いているか。TVもあまり見なくなりました。バイトでお金を貯めて買ったコンポをフル活用していました。しかし、まだこの頃は我が家にはビデオデッキはありませんでした‥‥。
高校の制服は紺のパンツなら何でも良かったので、当時の流行に乗っかってファーラーのホップサックを履いていました。私はサーフィンはやりませんが‥‥。
昭和59年に大学に入学し、私は2年間厚木に住みました。バイトと遊びに明け暮れていました‥‥。そして昭和が終わります。世間はバブルの絶頂でしたネェ‥‥。
今回は、私の私的な略歴で昭和を辿ってみます。
私は昭和40年ちょうどに生まれました。「東京オリンピック開催」「東海道新幹線開通」の翌年です。戦後復興も一段落し、東京が新しく生まれ変わろうとしている時期です。
私の育った千住・柳原の町並みは、荒川の土手から見渡すと、眼下に2階建ての家の瓦屋根が並ぶものでした。下町特有の曲がりくねった細い路地が何本も通り、まさに生活が「密集」している感がありました。共同水道を使っている家もありましたし、アパートには共同炊事場、共同トイレのところもありました。「呼び出し電話」を表す「(呼)」が小学校の緊急連絡網に載せられている場合も多かったです。(我が家も私が小学校2年生の頃まではそうでした。)「世帯」としては独立していても、「ご町内が助け合って生活している」という感じでした。そこにはお互いを気遣う「遠慮」や「奉仕」の気持ちが自然に存在していたと思います。
幼稚園の年長の頃に、私は柳原1丁目から2丁目へ引っ越しました。徒歩で5分くらいのところでしたが、それまでの生活圏とは異なっている印象がありました。子どもの私でさえ、それまでは近所のヤマザキパンのお店に毎日のように朝食を買いに行っていたのが、2軒先の酒屋さんのお馴染みになり、そこのお店のお兄さんやお姉さんと親しくなりました。
友人関係では、相変わらず幼稚園の同じクラスのTくんやSくん、Hちゃん(女子)とは遊んでいましたが、幼稚園入園以前からの幼馴染のMくんやFくんとは遊ばなくなっていきました‥‥。そして新しく、同学年のKくんやUくんがご近所になって、よく遊ぶようになりました。Uくんは家が真向かいで、ほんとにしょっちゅう行き来していました。このブログを始めた3年前、当時住んでいた町を歩いてみたことがあったのですが、彼らの家が変わらずそこにあって嬉しかったのを覚えています。
この頃は一年中半ズボンでした。その頃の写真を見ると、冬は白いタイツを履いています(苦笑)。
小学校に入学し、IくんやSくんという新しいクラスメイトも近所だということを知って、遊び相手もどんどん変わりました。ケンカの強いガキ大将を中心としたパワーバランスの中で、時々野球に加わるような付き合いと、家の中でミニカーやゲームで遊んだり、外で「何でも屋さん」「悪漢探偵」「缶けり」などで遊んでいる仲間を両立していました。
「自転車」という移動手段を手に入れ、行動半径が広くなったのもこの頃です。幸いにして、柳原の町はクルマは通称「疎開道路」の交通量は多いものの路地にはほとんど入って来ないので、世間での「交通戦争」とは無縁でした。また『仮面ライダー』や『ワイルド7』の影響で、自転車でムチャな乗り方もしていました。
「歌謡曲」と出会ったのもこの頃です。父のおさがりのカセットテープレコーダーで、TVに向かってマイクを突き出し、好きなアニメやドラマの主題歌、歌謡曲を録音していました。
昭和が50年になって、私は小学校高学年。その頃は家の中で遊ぶことが多くなりました。「人生ゲーム」はもちろん、「億万長者ゲーム」「オセロ」などのボードゲームやカードゲームが充実してきたことや、仲間内でタミヤの1/35ミリタリー・ミニチュアのプラモが流行したことも大きいです。「USYモデルクラブ」と名乗り(「S」は私。結成の提唱者のイニシャルと「USA」に引っ掛けていました(^^ゞ)、4~5人くらいがだれかの家に集まり、くだらないお喋りをしながらプラモをつくっていました。母がパートに行くようになって、昼間はだれもいない我が家が場を提供することが多かったです。接着剤や溶剤で頭がクラクラしたことが何度もあり、その頃の成長期の影響が現在のおバカに繋がっているのかも‥‥。
ビートルズを聴くようになったのもこの頃。Uくんとは競ってアルバムを買いました。だから、Uくんが持っていた『HELP!』『THE BEATLES(通称WHITE ALBUM)』『ABBEY ROAD』『LET IT BE』は、自分で買うのは後回しになってしまいました。(『A HARD DAY'S NIGHT』『YELLOW SUBMARINE』はまた別の友だちが買いました。)
そろそろ習い事を始める友だちも多くなり、私もソロバンや習字を習わされました。大勢で集まって遊ぶのが、だんだん難しくなってきました。
自分の着るものにこだわりだしたのもこの頃です。私はとにかくデニムが好きで、アディダスのウィンドブレーカーが流行していた時もGジャンを着ていました。もう夏でも半ズボンを履くことはありませんでした。
中学校に入学してからは、他の小学校から来た友だちが爆発的に増えました。そこでは異文化交流(笑)も行われ、新しい遊びや知らない駄菓子屋の情報がもたらされました。
私はギターやドラムスに目覚め、だれかの家に集まってギターを弾くことが多かったです。まぁ、基本的に部活があって、ウィークデイに遊べる日はありませんでしたが。
3年生になって部活を引退する頃になると、Mくんのお婆ちゃんの家にたむろすることが多くなりました。この家は私が幼稚園の年中組まで住んでいた家の隣! 懐かしかったです。この家ではくだらないお喋りや麻雀をしていました。タバコを吸ったりも‥‥(^^ゞ
高校に入学してすぐに、私は千住4丁目に引っ越しました。柳原から見たら「駅向こう」の商業地域で、大きなビルがたくさん建っています。今も両親はそこに住んでいます。
帰宅するのが7時を過ぎるようになったので、地元の友だちと遊ぶことが無くなりました。小学生からの友だちとも疎遠に‥‥。反対に、高校の友だちらとバンド活動ばかりしていました。
家では音楽を聴いているか、マンガ誌を叩いてドラムスの練習をしているか、ギターを弾いているか。TVもあまり見なくなりました。バイトでお金を貯めて買ったコンポをフル活用していました。しかし、まだこの頃は我が家にはビデオデッキはありませんでした‥‥。
高校の制服は紺のパンツなら何でも良かったので、当時の流行に乗っかってファーラーのホップサックを履いていました。私はサーフィンはやりませんが‥‥。
昭和59年に大学に入学し、私は2年間厚木に住みました。バイトと遊びに明け暮れていました‥‥。そして昭和が終わります。世間はバブルの絶頂でしたネェ‥‥。
昭和の日に昭和を思う…っていいですねぇ。
自由人大佐さんの記事を見て、私も気持ちを昭和に向かわせてみました。
まぁ向かったのは中学生ぐらいの頃まででしたけど…。
『生活圏が近所』って頃までが私の好きな昭和だったみたいです。
そうそう…本題ですが、
『地底より再び』を拝見させていただきました。
しっかりあの頃の「ウルトラマン」(私は再放送世代ですが…)でした。
科特隊のセリフが「いかにも」って感じで、画がなくともそのシーンが目に浮かびました。
あの時代を愛する自由人大佐さんだからこそ出来た企画なんだなぁ~と思います。
今回コメントを送るにあたって、はじめてコチラのブログの存在を知りました。
面白そうな記事がまだまだありますので、またお邪魔させていただきたいと思っています。
私も『ウルトラマン』は再放送世代です。でも、何度となく再放送されていたので、自分の幼稚園くらいの記憶と密接に重なっています。
科特隊員のセリフは、よくありがちな二次創作のようで気恥ずかしい面もあるのですが、「自分が見たい『ウルトラマン』」の雰囲気を出すために必要でした。さり気なくイデの意見に賛成するフジ隊員のセリフを入れたのですが、ほとんど目立っていません‥‥(苦笑)。