西洋と東洋の狭間

何かにつけ軌道修正の遅い国で有るが一端方向転換すると、凄い勢いで走り出し今までの良き所まで修正してしまう日本文明

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キングジョージⅥ&クィーンエリザベスDSが残した課題

2006-07-31 22:31:40 | 世界の競馬
ハーツクライのキングジョージⅥ&クィーンエリザベスDS(6頭、4枠、芝2400)への出走結果3着は、残念な結果ではありました。
又、今回のレース評価が本国で低い理由としましては、一概にはいえないのですが、最近10年間での同レース良馬場条件でのタイムでは下から2番目であり、その他の歴代のレースは全て2分30秒を切っている処から、そして着差が接近している事も今回のレースでの勝ち馬の評価が上がらず全般的にも低かったものと考えられます。
肝心のハーツクライの敗因としましては、独断で勝手な考えを申しますと、第一には、超一流馬を相手にするAwayでの国際G1レースに挑むには、キングジョージⅥ&クィーンエリザベスDSでの過去の調教地別成績からも、英国35勝、フランス9勝、アイルランド9勝、イタリア1勝、の様な有様で、ドーバー海峡を越えるフランス馬にしましても僅か9勝止まりであり、今回の一着馬のハリケーンランはその9勝の勝ち馬の一頭になりましたが、それ等ヨーロッパからも遠い極東の日本からの輸送を考慮にした上で、彼のレース間隔が4ヶ月と開き調整が上手く行かなかった事から、調教師のコメントにもありました様に、「ベスト・コンディションではなく、グッド・コンディション」に止めていた事からも,彼の調子がベストでは無かった事がより大きくAwayに影響したものと想像ができ、同じくベストではない二着馬のエレクトロキューショニストにおいては、前走のレース、プリンスオブウェールズS(2000m芝)でアスコット競馬場を経験している事からも、調整のくるいは仕方がなかったのかもしれないのですが、今少し工夫が足りなかった様に思われます。
この事は、ディープインパクトの凱旋門賞にも言える事で、このレースでの過去の調教地別成績はフランス61勝、英国11勝、イタリア6勝、アイルランド5勝、旧西ドイツ1勝とヨーロッパ調教馬が全体を占めており、ヨーロッパ調教馬以外の成績では、77年バルメリノ(ニュージーランド)、99年エルコンドルパサーの二着が最高で、このハンデイを克服する事が過去の偉大な名馬に肩を並べる事でもあり、ディープには史上初の快挙もかかっていると言えるでしょう。
第二に、競馬場が彼には不向きであったのか、アスコット競馬場の2400mのコースからの特徴でもある、2つの鋭角コーナーのカーブにかかる際にスピードを落とさず回る事から、手前を2~3度替えていた様にも見え、それは、おそらく前脚が外に向く癖の影響なのかハーツクライ一頭が、日本の競馬場では見られなかった、バランスを崩し、スムースさをかいた走りからも窺える様でした。
第三には、アスコット競馬場の2400mのスウィンリー・コース(Swinley Course)は、スタート地点からスウィンリー・ボトム(Swinley Bottom)まで下り、そこから1マイルは上りが続くタフなコースからも、今回のロングスパートが致し方なかったものなのか、その事が彼への負担を厳しくさせた要因の一つにも考えられ、彼の賢さから出た直線での失速を防ぐ意味から、手前を替えざざるおえない(疲れた脚から疲れの少ない脚に替える目的)状況が、物語っている様に思われました。
以上の事からも、今回の事で、世界的な名馬とはなれないまでも、一流馬である事は間違いのない事実ではありますが、レース後、陣営のJ・Cに雪辱とコメントがある様なのですが、ここで一つ言える事は、世界の先進競馬国関係者からの評価では、残念な事ではありますが、たとえJ・Cで、ハリケーンランを負かし、二連覇したとしても、キングジョージⅥ&クィーンエリザベスDSの一勝の価値には、おぼつか無い事実が存在する事であり、その事は、凱旋門賞でモンジューの二着にきたエルコンドルパサーの世界の評価に比べ、過去の凱旋門賞馬のトニービン、キャロルハウス、アーバンシー、エリシオ、モンジュー、をジャパンCで負かしたオグリキャップやレガシーワールド、ファビラスラフィン、スペシャルウィーク等の日本馬の高い評価が得られていない現実が、それ等の事を証明しているものであり、まず先にすべき事は、日本馬での、この様な不利な条件を打破し、勝つ事が世界に認めさせる必修条件と推察します。勿論勝つ事が出来れば、過去どの馬も成し得なかった事をした意味からも、その偉業に値する最も優れた名馬と評価をされ、競馬界ノミならず日本の馬産地におきましても、過去前例の無い良い効果と成り得るでしょう。
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太陽がいっぱい 「PLEIN SOLEIL・アラン・ドロン 究極の魅力作」

2006-07-18 12:22:01 | 映画
1960年度 フランス・イタリア映画 太陽がいっぱい(PLEIN SOLEIL)
監督:脚本:ルネ・クレマン Rene Clement
製作:ロベール・アキム Robert Hakim
    レイモン・アキム Raymond Hakim
原作:パトリシア・ハイスミス Patricia Highsmith
音楽:ニーノ・ロータ Nino Rota
撮影:アンリ・ドカエ Henri Decae
編集:フランソワーズ・ジャヴェット Francoise
美術:ポール・ベルトラン Paul Bertrand
衣装:ベラ・クレメント Berra Clement
アラン・ドロン Alain Delon 、トム・リプレー(Tom Ripley)
マリー・ラフォレ Marie Laforet、マルジュ・デュバル(Marge)
モーリス・ロネ Maurice Ronet 、フィリップ・グリンリーフ(Philippe)
エルヴィール・ポペスコ Elvire Popesco 、ポポヴァ夫人(Mem Popova)
エレノ・クリザ Erno Crisa 、リコルディ刑事(Inspecteur Riccordi


ストーリー(ほぼ、全容を記載)
1950年代後半、ローマ。出身の卑しいアメリカ青年トム(アラン・ドロン)は放浪息子フィリップ(モーリス・ロネ)をサンフランシスコに連れ戻してほしいと彼の父親に5千ドルの報酬金の約束で依頼される。
フィリップは、ナポリに近いモンジベロという漁村に留まり、裕福で働く必要もない彼は、遊び仲間フレディ達と放蕩生活、トムには、父親の所に帰ると言いながらも、その気はなく、豪華なヨットを買い込み、パリ娘の恋人のマルジェ(マリー・ラフォレ)と享楽の日々を送っている。しかも、フィリップはトムを蔑み、名ばかりの友人で、事あるごと、下男の様にぞんざいに扱う。そのうちトムは魅力的なマルジェに惹かれ、金への欲望と、エスカレートするフィリップの嫌がらせに対する復讐心から全てを奪うべく、殺意を抱く。
そんな中、トムはフィリップ、彼の恋人マルジュとの3人で、タオルミナにヨットで向かうが、途中でフィリップの悪ふざけからトムは、ひとりボートで漂流してしまう。そんなフィリップの行ないやトムの策略からマルジュと口論になり、彼女はヨットから下船し、一人去るのでした。ついに、ヨットで沖に出て二人きりになる状況を作り出し、トランプに興ずる内、用意していたナイフをフィリップの胸へ、太陽がサンサンと輝く中で殺害計画を実行した。死体はロープで何重にも縛り錨を付け、この計画の重要な条件でもあり、また未来へ進む為の障害でもあるフィリップを海へ捨てる。
陸へ上り、フィリップの人生を手中に収めたリプリーは計画通り実行に移すのである。序章でもあるフィリップに成りすます事から、サインを練習し、パスポートを偽造し、マルジュに、あたかも生きているように、声を似せて電話をしたり手紙を送る。そんな時フィリップの友人フレディが訪ねて来た。フィリップの不在に疑念を持たれ、ひょんな事から偽装に気づくフレディをも撲殺し、機転を利かしながら死体を車で運び、夜の海岸に棄てるのだが、たとえ死体が上がっても殺した容疑は、筋書きに生きるフィリップであり、計画の一環としては、むしろ好材料になるのである。やがて警察がフィリップの所在について聞き込みにくるが、トムはフィリップが容疑者であるかのごとく、ほのめかし、所在はは知らないと、とぼける。そして、警察はフィリップを容疑者として追い始めるのだが。
目的の一つでもあるフィリップの預金の大半を引き出す為、銀行に行き、サインも見破られる事もなく、上手く行くかに思えたのだが、そこでもフィリップ宛の電話の呼び出しから、フィリップを知る人達に彼の存在の有無が、疑われる状況になるのだが、素早くかわし切り、大金を手にし計画の最終章へ。
今でもフィリップが生きて逃げているかの様に見せかける為にも、フィリップのタイプライターで、サンフランシスコの父親宛に「友人を殺してしまい自殺する・・・マルジュに全ての財産を・・・」と手紙を出す。
トムの計画は完璧なように見えたが、不審に思う刑事は、マルジェにも聞き込みに来る。
そして、トムもフィリップの自殺から失意の日々を送るマルジェを訪ね、仕上げの芝居を演じる。優しく慰めた後言った「お別れに来た。アメリカへ帰る事にした。」と告げて去ろうとする。が、「行かないで」とマルジェに引き止められる。
思惑通りにフィリップの恋人だったマルジェさえも手に入れ、念願の豪遊生活を送る。
海に行く二人、マルジェはフィリップのヨットの売却から引き上げを立会うのだが、ヨットと共に引き上げられたのは、スクリューに絡んだフィリップの・・・。そして、悲鳴が。
完全犯罪は成立し、全てがうまくいくはずだったのだが…。
砂浜では、全てに満足し、未来に安心し、くつろぐトムに給仕が、伺う「ご気分はどうですか
・・・「最高の気分だ・・・太陽がいっぱいだ」「酒をくれ」
穏やかに時が過ぎる様に見えるのであるが、やがて刑事が、給仕に何かを告げる。そして何事も無い様に「リプレーさん、リプレーさん・・お電話です」の声に最高の太陽を独り占めしているトムは・・・。


若き日のアラン・ドロン独自の妖しげな魅力と端整な顔立ちから、犯罪者を忘れさせる様な存在感やストーリー及びサスペンス感とコントラストな鮮烈な太陽と青い海、白いヨット等の背景の眩い美しさ、そして流れてくる哀愁を帯びたニーノ・ロータのメロディが主人公の孤独に儚く突き進む運命を哀しくも優しく印象付け、クレマン独特のドキュメンタリータッチのテンポが物語の要所やナポリの海や町、市場の雰囲気にも演出され、自然な流れを醸し出しており、作品のほぼ全体を占めるアラン・ドロンやマリー・ラフォレ、モーリス・ロネの個性が巧みに表現され、研ぎ澄まされた主人公が解放されたラストでの無情なまでの透明なシーンが作品の永遠な憧れの様なものを鮮やかに心に留めさせる映画でした。


監督したルネ・クレマンは、レジスタンス映画で名を馳せ、あの名作52「禁じられた遊び」では、あまりにも有名ですが、私は49「鉄格子の彼方」にも男女の関係と絡んでいく犯罪そしてサスペンスは、背景やスタイルこそ違いますが、本作品と何か共通するものが感じられました。そして56「居酒屋」では、19世紀のパリの生活感をスクリーンによみがえらせ、「小説の完璧な映画化」と最高に評価された映画でもあります。
アラン・ドロンがフランス映画界最大のスターになるきっかけを作ったと言ってもよい「太陽がいっぱい」は、「キャスティングがうまい監督」「役者の魅力を引き出せる監督」という評価が定まり、1950年末~1960年代、ヌーヴェルヴァーグの動きの中、対抗し、作られた第一級のサスペンス映画で、この作品以後は商業映画が中心で、とくにスリラーを得意とした作品が目立ちますが、作品の過って無い技巧に見応えがあり、クレマンの映画生涯の前・後期の両方のスタイルを兼ね備えたクレマン作品の神髄ともいえる出来栄えであったはずである。
記憶に新しいのは、69「雨の訪問者」などの監督をしていまたが、70年代中頃以後は、新作も撮らなくなり、その後はあまり恵まれず、評価はふるわないまま、96年誕生日の前日に永眠。日本のニュースでは、「禁じられた遊び」を作ったフランスで最も偉大な映画監督ルネ・クレマン(82)永眠と報道された。
以後、この「太陽がいっぱい」は、最近マット・ディモン、グウィネス・パルトロウ共演のアメリカでリメイクされました。

主演したアラン・ドロンは、1935年11月8日、フランス・パリで生まれる。幼少の頃に父を亡くし17歳で海軍に入隊し、3年余りで除隊。除隊後各地を放浪した末に56年パリに戻る。知人の紹介でカンヌへ行き、映画祭で米国の大物プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニック認められるが、契約内容に不満があったため、フランス映画界からイヴ・アレグレ監督の「女が事件にからむ時」で映画デビューを果たす。この映画の他にも58年「お嬢さん、お手やわらかに!」、58年に「恋ひとすじに」の共演者ロミー・シュナイダー(Romy Schneider)と婚約するが、これを機会に二人は実生活でも交際を始めますが、結婚をロミーの親に反対されます。(本作品の冒頭の場面にもモーリス・ロネの遊び仲間の一人として出ております)しかし彼はこの大スターと困難な恋をしつつ、更にジュリエット・グレコ、ジャンヌ・モローなどとも浮き名を流しました(1964年婚約解消)。60年「若者のすべて」で日本でも人気が上昇。60年「太陽がいっぱい」で爆発的人気を得て大スターへと成長する。63年「地下室のメロディ」に出演、64年にハリウッドに渡るものの作品に恵まれずまもなく帰国。ロミー・シュナイダーとの婚約を破棄して最初の結婚は1964年8月13日のナタリー・バルテルミー(後のナタリー・ドロン)カサブランカ生まれ(Francine Canovas 通称Nathalie) でした。彼女は容貌がアランそっくりで、彼の妹兼秘書として1963年頃から彼のそばによく付き従っており、映画で共演したこともあります。二人の間には結婚した64年に子供、長男アンソニーが一人生まれおり、現在俳優になっています。しかし1967年には離婚訴訟を起こし、1969年正式に離婚しました(1968説も)。67年「冒険者たち」、67年「サムライ」、68年「さらば友よ」、「あの胸にもう一度」に出演。69年ナタリーとの離婚が完成すると彼は早々にミレーユ・ダルク(Mireille Darc)と同棲。その頃、彼のボディガードのマルコヴィッチ殺人容疑が掛かり大スキャンダルとなる。やがて殺人容疑は晴れ、製作者としても活動を開始。翌1970年にミレイユと結婚します。70年「仁義」には出演、71年には某紳士服メーカーのCMでニュートラの人気とブランドの先駆けとなる。ミレーユとの結婚生活は10年以上続いたようですが、離婚の時期がよく分かりません。1980年にミレイユが大病をした時に健気に看病をしていたという。おそらく、その時点までは夫婦であった様ですが。
1984年「真夜中のミラージュ」ではセザール賞主演男優賞を受賞。
1987年にオランダの歌手ロザリー(Rosalie Van Breme)と結婚しており、90年にアノシュカ、94年のアラン・ドロンJrが生まれており、共に俳優になっています。
1998年、旧友、ジャン=ポール・ベルモンドとの共演で話題を呼んだ「ハーフ・ア・チャンス」を最後に引退宣言をした。
しかし2000年に復帰しTVドラマ「刑事物語」等を中心に活躍を続けている。
その若さと端整な顔立ちで、長い間、日本では女優のオードリー・ヘップバーンと並んで男優のスター・ランキングNo.1を維持し続けました。
彼は一時はアメリカのビバリー・ヒルズの豪邸に住んでいましたが、1985年からスイスのジュネーブに移住しており、現在スイスの市民権も取得しています。

モーリス・ロネは1927年4月13日、フランス、ニースで生まれる。
本名はMaurice Robinet。両親共に俳優で、幼い頃から演技に興味を示し、ジャン=ルイ・バローを師事した後にコンセルヴァトワールへ入学。多くの舞台を経験する。戦後サンジェルマンのカフェに入り浸る内にジャック・ベッケル監督と知り合い、49年に彼の作品で映画デビューする。ルイ・マル監督25歳の処女作でヌーヴェルヴァーグ初期の代表作でもあり、映画で使用された主人公所有の最新型オープンカーだとか、日めくり時計や小型カメラなどのハイテクな小道具が羨望の的となりました57年「死刑台のエレベーター」のジャンヌ・モローの愛人役での好演や、'59年「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンに殺される青年役などでその二枚目振りと確かな演技力を発揮して注目を集める。その後の67年オムニバス形式「世にも奇妙な物語」の第一話・黒馬の哭く館(フランス版)ではナレーションを担当していました。
マリア・バムコと離婚後ジョセフィン・チャップリンと再婚して一児もあったが83年3月14日、ガンによって惜しくもこの世を去った。

マリー・ラフォレ1941年10月5日、フランス、スラック・シュル・メールで生まれ、アルメニア移民の家庭に生まれ、本名を(Mai¨tena Doumenac)といいます。16歳で姉の替わりにカンヌの新人コンクール(Naissance d'une Etoile)スター誕生で優勝した時にルイ・マル監督に見出され、映画界に入る。デビュー作は、ルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」でアラン・ドロンと共演。同年、南仏のサントロペを舞台に美しい娘を巡り三人の男たちの恋模様を描いたジャズ映画で、一応当時の波に乗って”ヌーヴェル・ヴァーグ”とは銘打っている「赤と青のブルース」(Saint-Tropez Blue)では、映画のワンシーンに、同名の「赤と青のブルース」(Saint-Tropez Blue)や「タンブルウィード」(Tumbleweed)を歌っており、印象的な作品である。「金色の眼の女」(La fille sux yeux d‘or)を監督したジャン・ガブリエル・アルビコッコと結婚後、一児をもうけて離婚。60年代には立て続けに映画出演していますが、1978年にスイスに移り住んでアルメニア繋がりのお仲間であるシャルル・アズナブールやアラン・ドロンとも交流を持ち、1981年までギャラリーを営んでいました。 スイスで子育てを終えて2000年にスクリーンにカムバックしています。又、シャンソン歌手として、数々のヒット曲があり、フレンチポップスでも「マンチェスターとリバプール」等をフランス本国でヒットを出しており、また作家として短編集も出版するなど多才の持ち主。

ニーノ・ロータは1911年12月3日、北イタリア、ミラノ生まれ、作曲家でピアニストだった祖父と母親の影響で早くから才能が開花し、8歳より作曲を始め、若干11歳でオラトリオ「ジョバンニ・バディスタの幼少期」を発表。13歳でオペラ作曲をし、ミラノ音楽院、サンタ・チェチーリア音楽院でカセッラに師事した。その後祖父の友人で歴史的名指揮者アルトゥーロ・トスカニーニの勧めでアメリカに渡り、カーティス音楽院に学んだ。帰国後ミラノ大学に入学し、文学と哲学を並行して専攻後、大学卒業後音楽教育に力を注ぎ、音楽教師となり、その傍らクラシック音楽の作曲家として活動を開始する。
作曲家としては交響曲、室内楽曲、声楽曲や他の素晴らしい映画音楽家と同様、ニーノ・ロータは既存の様々なジャンルの音楽スタイルや楽器を取り入れ、全く新しい複合的なサウンドを作り出す術を知っており、オペラも残す一方、1942年以降、映画音楽の作曲も始め、本作品「太陽がいっぱい」や「ロミオとジュリエット」など数々のヒット曲を生んでいます。
そして、監督と作曲家の名コンビとして有名なのは、ブレーク・エドワーズ、とヘンリー・マンシーニ、デ・シーカとチコニーニ、ヒッチコックとバーナード・ハーマン、クロード・ルルーシュとフランシス・レイなどがあげられますが、やはりトップクラスはフェリーニ=ロータの2人でしょう。イタリアが誇る名監督としてもっとも有名なのは映画「ゴッドファーザー」と「ゴッドファーザーPartII」の音楽がありますが、1951年当時新進映画音楽として注目を集めたフェデリコ・フェリーニ(1920年イタリアのリミニ生まれ)に出会い、1952年「白い酋長」以来生涯フェリーニの全作品を担当した故ニーノ・ロータは、その後フェリーニの映画の「道」「カビリアの夜」や「甘い生活」「8 1/2」「フェリーニのアマルコルド」をはじめとする、数々の名作の音楽の殆どを手がけることになった。仕事を越えた無二の親友でもあり、その事は、長年に渡るフェデリコ・フェリーニ監督との共同作業にも表れています。フェリーニ自身も彼の事を「創造性が本当に身近に感じられて一種の陶酔状態が伝染し、まるで私が音楽を作っているかのような気持ちにさえなった。彼は私の映画の雰囲気や登場人物や色彩の中に完璧に入り込み、それらは彼の音楽の中に侵されていった。私にとってはニーノは屈指の現代作曲家の一人であった。」
又、本業はクラシックの作曲家と言っていましたが、ロータは特有の軽いスウィングのジャズに軽快な弦楽器のアレンジメントを取り入れるのが得意で、彼の作るサウンドは映画から切り離した音の断片として聴いても、存在感たっぷりに色んな薫りを運んできてくれておりましたが、1979年4月10日ローマで、心臓発作にて死去。生涯独身であった。死後、クラシックの音楽も注目を集める様になっています。

さて、本作品は「映画ファンが選ぶ思い出の映画音楽ベスト」のようなリストには必ず入っている有名なスコアで、誰もが知っている名曲ですが意外にも完全な形のサントラ盤がリリースされるのは、このフランスのUniversalレーベルによるCD(最近になって完全なマスターが奇跡的に発見されたため)が始めてであり、その紹介を「素晴らしき映画音楽の作曲家たち」から記載させていただきました。
「Plein soleil (Generique)」は、プラスの効いたダイナミックなイントロから軽快な主題へと展開するメインタイトル。「Via Veneto」は陽気で軽快なジャズ。「Falsification」は、メインの主題の一部を織り込んだサスペンス調のジャズ。「Tarantelle meurtriere」は、陽気な“殺人者のタランテラ”。「Le yacht」はサスペンス曲。「Mongibello」で、メランコリックな有名な主題がはじめて明確に登場する。この誰もが知っている主題は「Contrefacon」「Arrivee a Taormine」「La plage」等でも登場する。「Meurtre de Philippe」は、フィリップを殺害するシーンの重厚なサスペンス音楽で、後半はメインの主題に展開。「Haute-mer」はメインの主題のバリエーションによるジャズ。「Le baiser」「L'absence」はジェントルなタッチの曲。「La gemissante」はメランコリックなタッチ。「Face au miroir」はサスペンス調。最後にボーナス・トラックとして、1973年にカルロ・サヴィーナ指揮で録音された組曲「Plein soleil (suite)」が収録されている。
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感激!ヨーロッパ ミュンヘン都会のアフター「ファイヴ」ヘ  

2006-07-13 19:44:40 | 海外の旅行
次はディンケルスビュールでバスは停車、ここで各自、自由行動となる集合時間は2時間後となる。
そんな事より、今日のお昼の食事は、ミュンヘンにて中華料理になる事を添乗員の人から聞いた事の方が、嬉しかった。おそらく、そろそろ和食が恋しくなってきた為で、一様は東洋料理なので日本に近くなってきただけでもありがたかった。
ローテンブルクでは、嫌と言うほど街並を見たせいか、多少は大きな街ではあるが、感激が薄らいでいる。何を見学すれば良いのかも分からず、とりあえず地図があるからブラブラと行く事にした。
同じ大阪の若い新婚さん(関西の河内在住で、仮名は、「田辺さん」としておきます)は、何時も腕を組み、我々よりやや離れ、他の追従を許さない、完璧に二人の世界である。
ヨーロッパに着いて共に行動を取っている、もう一組の新婚さんの、(コンピューター関係の仕事をされています、仮名を「松井さん」としておきます)奥さんが、「何時も、ピッタリ寄り添って仲がええなあ」と言われたので、妻と奥さんの方を見る。
「あんたらも、新婚と違うの」と妻が確認する。「えっ、」・・・すると、笑いながら「家とこは、そんな雰囲気と違うもん」続いて、ご主人が言わなくてもいいのに「ほんと、そんな気もないし、全然似合わんし」思わず私が、「今やないと、後は益々ないで」とやはり言わないでもいいのに一言。
一言多かったが我々の本音の言葉に奥さん達も沈黙し・・・うっすら感じ取った我々は、先を急ぐ事にした。
他のツアーの人達も、自由時間ともなれば、やはり地理的、歴史的知識が薄い為か、どうしたものか、戸惑っているふうでもあった。
バッタリ、道で会おうものなら、奥さん達は、まるで旧知の再会の様な喜びである。
「さっき別れたばっかりやないか」と妻に問いただすも「ええやんか、広い街で会うから奇遇と思わん?」そんな事、思うか!。
懲りずに、会う人会う人と、浅い情報交換に没頭している始末である。
そんな、情報交換の甲斐もなく、パンフレット通りのコースを、先程の件の影響か、または側の新婚さんに触発されたのか、腕を組まされたと申しますか、連行されている様に、赤い屋根の木造の家並や、可愛らしい専門店で手工芸品、製陶品、陶磁器、木彫製品等を見ましたが、そんな所では買い物も無く、ひたすらビデオ撮りと写真撮りをした為か、持参のパンフレットより豊富で偏った写真資料になる結果になりました。
集合時間がきたと言うか、やっとバスに乗れると言った気持ちで、心は、はや昼飯の事で、頭がいっぱいである。
バスでは、自己紹介の続きを聞きながら、ミュンヘンの町へ向かうが、途中車に酔った奥さんの為に、ご主人が抱きかかえる様にバスを降りて介抱されていたのですが、しばらく誰も気がつかなかったぐらい、僅か2~3分で見事な奥さんの立ち直りであった。
「かなり、しんどそう、みたいだったけれど」と妻が「手を真っ直ぐ上げて、大丈夫ですって言ってから、テキパキして元気に乗らはったけどな」と私が説明する。「やっぱり、ご主人自衛隊の人やから」・・・どういう関係や、と思えば、バス後部から「はーい、もう大丈夫です ありがとうございました」と、おそらく照れ隠しの為か、ご夫婦揃って直立姿勢の最敬礼にて、前の乗客に向かって返事をくれました。・・そういう関係か。
ミュンヘンは、久しぶりに見る都会であり、我々の知っている、BMWの会社等や、何故かイタリアのフェラーリの会社そして、参加はしていないが、懐かしいミュンヘンオリンピック関係の競技場が点在していた。
美味しかったのか、美味しくなかったのか、ご飯粒に飢えていた為か、中華料理を味わう事なく昼食を済ませ、早速、明日訪れるノインシュバインシュタイン城にも関係する王族のルィードヴィッヒ1世の夏の離宮で、今は博物館であるニンフェンブルグ城の見学に行く。
不慣れな事もあるのですが、本の様な大きさの美術品なら、見易く感じますが、とにかくサイズのデカイのが多く、美術品に左程興味がない為か、途中からは、疲れも手伝い飽きがきて苦痛に感じる始末であった。
気晴らしと暇から「中華を食べて、消化もままならない状態で、直ぐに訳の解らん絵画やろ、これが本間の中消画やな」と一発みんなに言うも・・・「ほったらかしか!」
同じく飽きたのか、ギャグが効いたのか、はたまた旅行にも慣れたのか、我が相棒は元気で、写真を撮るたびに、しつこく端の方に顔を入れてくるのであり、「おい、端に顔を入れるな」・・「芸術品を撮るなら入れてよ」・・うー、風景写真が台無しだ。
どんな状況下でも思い出の記念である事から、端に小さく妻の顔を撮る事にした。
「ま、ええわ。写真を見る人の指の位置が、これで決まったな」  「・・・・・・」。
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W杯・ドイツ大会、決勝戦(イタリアVSフランス戦)1-1/PK5-3

2006-07-10 13:38:11 | スポーツ

W杯2006ドイツ大会も無事終了し、試合は1-1のままイタリアがフランスをPK戦5-3で下し、94年大会の屈辱を晴らし82年大会以来となる通算4度目の優勝を飾った。
本大会はジダン、フィーゴ、ベッカム、ロナウド、中田、他、世界の代表として活躍した選手達の引退や代表として今大会を最後にする又は噂される選手で、一つの時代が終わった大会でもあった。

試合全体としての流れ、及び感想では、ジダンのドリブル突破は少なかったが、精度の良いFKや上手いパスまわしから、攻撃の起点としての存在感はさすがで、フランスの攻撃の流れを作る立役者であり又、以下の選手達のパスまわしからも攻撃への確立がなされた。アンリのドリブルからイタリアディフェンス陣をかわし、ペナルティエリア内への進入やフランスの新星リベリーの左右、中央とスペースに走り込むスピードと驚くべき運動量、ドリブル、キープ力、マルダの右のスペースやエリア内への走り込みやドリブル等、無駄の無い攻撃が目立った。しかしキーパー、ブッフォンの好セーブを軸にカンナヴァーロ、ザンブロッタ等のイタリア・ディフェンス陣伝統のカテナッチオの健在からも阻まれ追加点には至らず。
一方イタリアはピルロのFK,CKを起点にマテラッツィやトッティ、トーニに合わせるも、マテラッツィのヘディングシュートが決まった以外は、フランスのディフェンス陣に阻まれる。又、トッティを起点としての攻撃も機能せず、スルーパスやアーリークロスを受けたトーニの惜しいシュートもあったがこれも、得点には至らなかった。
結果、延長戦に入り、ジダンの退場までのフランスの攻撃のかたちは良く、アンリ、マルダのドリブルやパスからのリベリー、ジダンの惜しいシュートが見られたが、1-1のままPK戦の決着となる。
イタリアが3枚の交代枠カードを切った内容に比べ、リベリーの交代からアンリの負傷、ジダンのレッドカード等、アクシデント退場により、精神的主柱不在となった事はフランスチームへの影響としては大きく、PK戦も何か精彩なく、5-3により少し後味の悪いイタリアの優勝となったが、イタリアの流れから得点を許さない試合内容から、チームとしての勝利は攻守としてのバランスが非常に良く、素晴らしい戦いの軌跡を残したと言える。

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ミサイル発射の政治責任と波紋

2006-07-06 00:27:25 | 社会
再三の日本政府及び諸外国の警告等並び働きかけにもよらず、北朝鮮は抑止力による優位な外交を目的と推測されるミサイルの発射を断行した。
独裁国家は、ヒトラー、スターリン、アフリカのアミン、最近でもフセイン、ポルポト等の独裁者が、毎度暇が無いぐらい、歴史上に出現し又、彼等の非人道的な行いは史実としても記憶に誰もが承知の事と存じますが、彼等には話し合いの外交は皆無であり、我々の平和理論をぶつけても、おおよそ理解出来る事は無いでしょう。
以上の懲りない繰り返しであったのと同じ様に現在の日本も他人事ではない現状を理解しておくべきかと考えます。


航行中の船舶の安全に影響がある射撃訓練などをする国は、国際水路機関と国際海事機関の共同議定書に基づき、義務規定ではないが事前に日時や海域を知らせるのが国際的なしきたりだ。しかし、北朝鮮は議定書に加盟していないという。
また、国土交通省管制課によると、北朝鮮が発射したミサイルが飛行、着弾したとみられる空域には、日本と欧州を結ぶ定期便の航空路がある。午前6時ごろからは、成田空港などに向かう便が増え始める時間帯と考えられ、この様な状況下で対アメリカ外交を主たる目標とし、人命を無視した愚行ではあるが、ミサイルの種類による航続距離から着弾地点が日本海、前回発射時の様に日本国上空を越えた太平洋で、共に日本領海域外だから「よし」とする事では無く、その行為そのものが大きな問題であり、北朝鮮だけに始まらず、韓国、中国の海洋調査船の日本の排他的経済水域(EEZ)内で活動した様な、肝心な問題にもかかわらず毅然とした姿勢での声明や、制裁を有耶無耶にし続ける日本政府が反面、無策な靖国参拝の続行といった事は頑なに遂行する様な、的の得ない対応が、この様な主権国家として無視された行為を簡単にさせてしまっている事にも繋がっている。その場かぎりの外交政策の無策ぶりである。
日本政府は5日の持ち回り閣議で、特定船舶入港禁止特別措置法を適用し、北朝鮮の貨客船「万景峰92」の半年間の入港を禁止する経済制裁を初めて発動することを決定した。
(その他の制裁もありますが、その一つの例として、効き目がある、無いは別にして期間無制限の入港を禁止処置といった、これから先の、日本の揺るぎ無い意思表示ぐらいは、言えないものだろうか)

韓国への影響
北朝鮮が弾道ミサイルを発射したことは、北朝鮮への融和策「太陽政策」をとり続ける韓国政府にとって大きな打撃であり、独自のパイプと自負する南北対話が十分に機能しなかったうえ、北朝鮮情勢の悪化で国内外から対話路線の見直しを迫る声が高まるのは必至だ。

中国への影響
北朝鮮の核問題をめぐる6者協議の早期再開に向けて「苦しい努力」を続けてきた6者協議の議長国・中国は、温家宝(ウェン・チアパオ)首相が訪問先の深センで6月29日、北朝鮮に「事態を悪化させる措置をとらないよう期待する」と発言するなど、何度も自制を促してきた。
にもかかわらず、北朝鮮は発射を強行。中国のメンツは丸つぶれになった。今回のミサイル発射は「最大の支援国として最大の影響力を持つ」と米国などが期待を寄せてきた中国の北朝鮮に対する影響力が低下していることをうかがわせる。

※アメリカの対応
[ワシントン 4日 ロイター] ハドリー米大統領補佐官(国家安全保障問題担当)は4日、北朝鮮がミサイルを発射したことについて、「挑発的行為」だが米国領土への脅威ではないとの認識を示した。記者団に述べた。ハドリー補佐官は「われわれはミサイル発射を挑発的行為と考える」としたものの、「発射後40秒で落下したミサイルは米国領土への脅威ではない」と付け加えた。
所詮は対岸の火事であり、迎撃ミサイル防衛を念頭にしましても、アメリカの本音から申せば、日本が戦火に見まわれ後、世界及び国内世論をバックに報復攻撃に出ると見なすのが順当であろう。真珠湾攻撃を受けた当時の参戦の方法を思い出せば、憶測できる事ではないでしょうか。
よって、戦争をしない、しかけられない為にも国家としての確かな国土防衛策を考えて頂きたいものです。
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中田・英選手は引退なのか!

2006-07-04 19:17:28 | スポーツ
中田英選手の突然の引退は、驚きました。
※以後の記載は素人で中田英寿選手の事も知らないのですが、個人的に好き勝手な素人考えを申させて頂きました。間違った事も多々あるとは思いますがその点はご容赦願います。

努力はしたと想像しますが、日本代表のW杯での、あの結果は、いくら中田選手が「頑張りぬいた」姿を見せたとしても、全てが結果のプロですから、厳しい事と思います。
だからこそ、今後の海外移籍や現所属チームへのアピールには、少し威力がない様にも思え、現状より良い条件の移籍の可能性も少なくなる様にも考えられます。(29日の報道には、チャールトンからのオファーがあったらしいのだが)
又次のW杯を含め、その他の国際試合を戦ってゆく過程において、一つの理由として年齢や、それに伴う体力の低下も考慮しなければならないが、もう一つの理由としては、それ以上に日本代表選手の世界レベルの限界も本大会で感じたのでは、ないだろうか。
厳しい、言い方をあえてするならば、確かに日本は強くなっている事は事実ではありますが、世界レベルでの試合で「ここぞ」の時に決められない、護れない、と課題が持病の様に指摘されている点(そこは世界の強豪チームではやり遂げている事であって)で解消されていない事を推察するに、第一には絶対世界レベルでの学習能力が無いものなのか(キツイ言い方で勘違いされては困るのだが、実力が各自持ち合わせているのに対し、特に大事な世界大会での試合において、相手の実力を考えての一歩先のプレーの組み立てをしない事、或いは我武者羅に挑む心。これは、あの中田英選手がW杯予選の試合にも意思表示した様な姿にも感じられた事ではないでしょうか。又それと同時に残る選手への身をもってのスピリッツを見せた姿にも思えたのは私だけでしょうか。)、第二に、果たして技術的体力的に今が限界なのか、次の世代も未だ国際試合の経験不足である現状からも、左程多くを望めない。それはチームで戦うサッカーでは試合をコントロールする役割りを担うもの(指令塔として「トップ下」や「ボランチ」昔で言う、ディフェンシブ・ハーフ)には、辛い結果が見えてくる。
ならば、中田選手自身、選手以前に、頭の良い人間でもある訳ですので、今までのヨーロッパでの太いパイプや、言葉の障害が無い点、そして国内や国外のネームバリュー、最後は何といってもサッカーを知っている事から、ビジネスチャンスを先にまわすより今が旬なのかもしれないのではないでしょうか。
いずれにしましても、わが国スポーツ界では稀有な存在であるのは確かな事ですので、あっさりと彼の今後を期待し、応援しようではないか。
また、応援するサッカーファンの願いからも、旧日本代表の選手達、次世代の選手達の本当の意味での奮起を望みたい。
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狂ったバカンス 「イタリア映画、キュートなC・スパーク」

2006-07-04 00:04:13 | 映画
狂ったバカンス  La Voglia Matta
制作:イタリア・1962年
協賛:イエナ
監督、製作:ルチアーノ・サルチェ
撮影: エリコ・メンツェル
原作:エンリコ・ステッラ「フランチェスカという名の少女」
脚本:エンリコ・シエッラ
音楽:名匠エンニオ・モリコーネ
出演:カトリーヌ・スパーク/ウーゴ・トニャッツィ/ジャンニ・ガルコ/ファブリツィオ・カプッチ


紹介:(カトリーヌ・スパークの魅力が満載の映画です)
ルチアーノ・サルチェ(Luciano Salce)1922年9月25日・イタリア・ローマ生まれ、本作品以後に、1966年・監督・脚本「エル・グレコ」、同年・監督「イタリア式愛のテクニック」、1968年・監督・脚本「女と男と金」、1970年・監督・脚本「ゆかいな結婚」、1975年・監督「ギャグ王世界一/ファントッツィ」等がある。

エンニオ・モリコーネ(Ennio Morricone)1928年11月1日・イタリア・ローマ生まれ、演出家エットーレ・スコラに気に入られ、1960年頃から彼が担当するテレビ・ショーの音楽を書くようになります。この番組を通じて演出家ルチアーノ・サルチェとも知り合い、彼の劇場ショー (「Il Lieto Fine」 (1959) など) に音楽を提供します。そのサルチェが映画製作を始めた時、モリコーネにもオリジナルの映画音楽を書くチャンスが回ってきたのです。
当時イタリアでは映画音楽はクラシック作曲家すら注目する話題のメディアでした。一番の売れっ子はニーノ・ロータで、戦時下の1942年から映画音楽を書き始め、1946年以降はかなりの本数を担当しています。
その他にも、アレッサンドロ・チコニーニ、カルロ・ルスティケリ、マリオ・ナシンベーネ、フランチェスコ・アンジェロ・ラヴァニーノ、ピエロ・ピッチオーニ、ジョヴァンニ・フスコといった人々が大量の映画音楽を生み出していました。
モリコーネ自身が映画音楽という分野に興味を抱いたのは、ハリウッドの大御所アルフレッド・ニューマンが担当した「聖衣 (The Robe)」(1953) を観てからです。

カトリーヌ・スパーク(Catherine Spaak) 1945年4月3日・フランス・パリ生まれ、父は脚本家のシャルル・スパーク、祖父はベルギーの外務大臣。
幼いころから映画界の空気に触れ、映画業界入りを切望し、親の反対を押し切って59年にジャック・ベッケルの「穴」でワンシーンながら映画初出演。
翌年にソフィア・ローレンの助言を受け、アルベルト・ラットゥアーダ監督のイタリア映画「17歳よさようなら」で本格的にデビュー。この作品でアイドルとなり、成長に合わせた形で「太陽の下の18才」「狂ったバカンス」と次々に主演し、ティーン・スターとして幅広い人気を得た。「太陽の下の18才」で共演したファブリッツィオ・カプッチと1963年に結婚。一児をもうけたが、同年に離婚。姉のアニエスも女優。
奔放で小悪魔的なキャラクターを得意とし、「女性上位時代」では気の多い未亡人役も演じた。それらの映画で見せたファッションは今なお支持されている。
代表作は上記紹介作以外には「輪舞」「禁じられた抱擁」「ホテル」「ダンケルク」「夜は盗みのために」等。

ウーゴ・トニャッツィ(Ugo Tognazzi)は1922年3月23イタリア・クレモナ(allcinema)生まれ、(没年1990年10月27日)、代表作1981年カンヌ国際映画祭・男優賞「ある愚か者の悲劇」その他本作品以外に、1964年クラウディア・カルディナーレとの共演作「気ままな情事」、1967年「ヨーロッパ式クライマックス」、1968年「ハーレム」、1986年「ウエディングベル」「Mr.レディMr.マダム3」、1988年「グルメ・アカデミー」等。



ストーリー
妻とは別居し、独身のプレイボーイを気取る中年電気技師で経営者のアントニオ(トニャッツイ)、そして女には目がない39才の男。離婚して数年、恋人をローマに住まわせている。
夏の終わり、LA VOGLIA MATTA ローマで恋人とのデートをして野外劇場の帰り、彼はひとり新車のアルファロメオ スパイダーを操り、ピサの寄宿舎に入れてある息子に会いに行く道中、海岸添いのハイウェイで、ヴァカンスに向かう自由奔放なハイティーンたちの2台の車に止められ、ガソリンを取られたあげく、彼らのバンガローに連れ込まれる。何度もそこを逃げ様とするが、彼等はブルジョアである彼を利用する為に、妨げ引き戻すのである。
だが、一団の中心的な存在である美しい娘フランチェスカ(スパーク)16才、に何故か内心強く惹かれ、曲折の末彼らと一夜を共にする。そんな中で、彼女のドライで女の子の様な子供っぽい気紛れと、男性を意識した女性としての媚態が奇妙に同居している事から、益々目が離せないでいくのであり、息子との再会を気にしながらも、浮気心が、彼女への執着を徐々につのらせ、いつのまにか真の愛に変っていき、彼らにつきあわざるをえなくなる。
彼は一生懸命、彼女を口説こうとするのだが、彼女の方は自身の魅力を巧みに使いながら彼をからかい半分でいる。若者にからかわれても、彼女の「ごめんなさい」の一言でフランチェスカを愛しいと思う。車での同乗の場面、アルファのアクセルを踏んで「150kmはジェームス・ディーンが死んだ速度よ!」と笑うフランチェスカ。アルファのスパイダーは185km出せる。しかし今までの彼は75km以上で運転しないでいたのであるが、暴走する、彼女にアクセルを踏ませたまま。
自制と自問を繰り返しながらも若者たちの勢いと娘の魅力にずるずると巻き込まれてゆく中年アントニオが可笑しくもあり、また切なくもある。
ある夜、彼は遊び疲れてフランチェスカと共に眠るのだが、目を覚ました時には、若者たちの姿は何処にもなかった。
彼は青春の持つ、素晴らしさと残酷さをかみしめながら、一定の満足感と傷心からか、疲れた姿で車を息子の待つピサに向けていった。
息子と愛人のいる暮しは、何事もなかったように続くのだろうか。


当時の私は「アイドルを探せ」・シルヴィ・ヴァルタンの大のファンでしたが、ある日曜日の午前中に放映されていたのが、カトリーヌ・スパークの美しさが一際映える、この作品でした。まだ中学生であった私でも、作中のアントニオの気持ちと一体のなった程、美しい小悪魔的美女で、こんな美少女なら、どんな青年、いや、男だって翻弄されるでしょう。嫌みな棘のない、お洒落な映画で、当時としては型破りな彼女の全裸着替えシーンや刺激的な水着姿がふんだんに盛り込まれ、カトリーヌ・スパークの時代の先駆者としての魅力が弾け、アントニオ共々見る人も夢のひとときを過ごすことができる作品と言えるでしょう。
カトリーヌ・スパークのキュートな笑顔・シュールに描かれた若さ・抜群なスタイルは、勿論なのですが、それら以外でもファッション、ヘアスタイル(ボブヘア)、エンニオ・モリコーネのツイストも健在であり、この60年代の作品を観るのは色々な角度からも面白いものです。
ヨーロッパではカトリーヌ・ドヌーヴ・クラウディア・カルディナーレやモニカ・ヴィッティ、マリー・ラフォレ等と同時代の女優だが、70年代から、今ひとつメジャーになれなかったのは、良い作品、良い監督に恵まれなかった為なのでしょうか。
その後の作品でも印象残ったのは、1964年「ダンケルク」・1940年6月、ドーバー海峡に面した北フランスの港町ダンケルクにドイツ軍によって追い詰められた英仏連合軍36万人の兵士の脱出作戦を題材にした、ロバート・メルルの小説「ズイドコートの週末」をアンリ・ヴェルヌイユが演出した戦争映画。
主演のジャン=ポール・ベルモンド扮するマーヤ曹長のズイドコートでの週末の2日間を通した、反戦映画の傑作に出演したカトリーヌ・スパークは町に居残って自分の家を守る健気な娘ジャンヌの役なのですが、物語の本質とは関係なく、戦時下にも関わらず、コスチュームもキュートで文句なしの19歳の美女!をお披露目しました。
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W杯・ドイツ大会、ベスト4出揃う

2006-07-02 09:57:20 | スポーツ
サッカーの第18回ワールドカップ(W杯)ドイツ大会第21日は1日、準々決勝の残り2試合を行なわれた。
(※以下記載文章は各種記事を参照)

イングランドは3大会ぶり3度目の、ポルトガルは40年ぶりの4強入りを懸けた戦い。
W杯での対戦は過去2度。最初の1966年大会の準決勝もこの日のように競り合いとなったが、イングランドがB・チャールトンの連続ゴールで2点をリード。反撃をポルトガルのエウゼビオのPKによる1点に抑え、逃げ切った。イングランドはこの大会で地元優勝を遂げた。40年たった今大会も、因縁の多さで注目を集めた。2年前の欧州選手権でも準々決勝で対戦し、ポルトガルがPK戦勝ち。その試合ではルーニーが今大会前同様、右足を骨折、イングランド敗退の呼び水になった。イングランドは4年前の日韓大会でも、ポルトガルのスコラリ監督が率いたブラジルに同じ準々決勝で敗北。そのスコラリ監督はイングランドの今W杯後の次期監督候補に一時内定しかけた関係でもある。

前半、立ち上がりは、イングランドが積極的な守備からボールを奪い、試合を有利に進めるもシュートに結び付けるまでには至らず。一方のポルトガルはフィーゴからロングパスを受けたCロナウドがドリブルで切り込んでチャンスを作り、ミドルレンジからシュートを放ったものの、キーパーにセーブされる。イングランドはジェラードやランパードが積極的にボールに絡もうと奮闘していたが、クロスが味方に渡らなかった単発の攻撃に留まり、決定的な得点チャンスは生まれない。前半は中盤での激しい攻防となるも、お互いになかなかFWの選手にボールが入らず、前線でいい形を作ることができなかった。両チーム相手守備を崩し切るには至らず無得点で折り返す。

後半に入ると試合は激しい攻防となったが、主将のベッカムが右ひざを痛め、イングランドはベッカムに代えて右ウイングのレノンを投入し、3トップの布陣で勝負を懸けてきた。ところが、リズムが生まれかけたところで、試合の流れを左右した後半17分のイングランドFWルーニーの退場。カルバリョの粘っこいマークを振り切ろうとし、もつれた際に左足で相手を上から踏みつけた行為による。短気からの愚行ではなかったが、直後にマンチェスター・ユナイテッドの同僚、ロナルドを小突いたのも、アルゼンチン人のエリソンド主審が胸から取り出したカードの色が赤色なった理由になった可能性として考えられる。10人になったことでそれまで機能していた積極的な守備が鳴りを潜めたイングランドに対し、数的優位に立つポルトガルが左右のスペースを使い、攻めあがるが、それでも強固なイングランドDFを最後のところで破ることができず。又イングランドも速攻で何度か好機を迎えたが同じく得点を奪えず90分間を終了する。、延長戦でイングランドはランパードやハーグリーブズの攻撃参加で見せ場をつくり、ポルトガルもやはり左右のスペースからの速攻で、ともに何度か好機を迎えたが、結局120分を終了し、延長戦でも得点は奪えなかった。必死の攻防は見応えがあっただけに、ルーニーの退場が残念であった。

イングランドは2年前の欧州選手権準々決勝でも壁となって立ちはだかったポルトガルのGKリカルドに4人中3人が止められて万事休す。神経戦を乗り切れるスタミナは残っておらず、5人目は蹴る機会さえなく、W杯でのPK戦はこれで3連敗となりベスト8にとどまり、サッカーの母国の40年ぶり優勝の悲願は夢となる。
大会前史上最強メンバーと言われ、優勝候補の一角にも挙がったが、開幕前にルーニーが骨折、大会に入ってからもオーウェンが負傷離脱と誤算が続いた。最後もルーニー、ベッカムとチームの顔を欠く中で無念の結末となった。
一方、ポルトガルは3位となった1966年大会以来、40年ぶり2度目の4強入り、準決勝進出を果たし悲願の優勝に一歩近ずいた。


もう一試合、フランスが初優勝を果たした1998年大会決勝の再現となった好カード、優勝候補筆頭の前回優勝国ブラジル-前々回優勝国フランスが準決勝目指し戦った。

前半45分 前半総括 序盤はブラジルがボールを支配する。ロナウジーニョがボールの供給役となり、右サイドを中心とした攻撃を展開。しかし前半15分を過ぎた頃からフランスがブラジルを圧倒し始める。今大会終了後の現役引退を明言している司令塔のジダンはキープ力を活かしたボール運びを披露し、そのジダンを中心に攻撃を仕掛けるフランスが、ボールポゼッションで上回るなどリズムよくブラジルゴールに迫ったが、ブラジルも最後のところでそれを許さず、お互いにフィニッシュまでつなげることができず、前半は両チーム得点のないままハーフタイムを迎える。

 後半に入って試合は動きを見せた。後半12分、フランスは左サイドでFKを獲得。ジダンの左FKをゴール右でフリーになったアンリが右足ボレーで決めた。その後、ブラジルは守備的MFを3人に増やして、ロナウジーニョを前線に上げる布陣の変更が逆効果。終盤にアドリアーノ、シシーニョ、ロビーニョを投入し、前線の枚数を増やして攻撃が活性化したが、交代も遅く決定的チャンスをつかめないまま終わった。フランスは前半からマケレレ、ビエラの精力的な動きで中盤を支配したことや、終盤にはキーパーのバルテズが好セーブを連発してシュートを止め、ブラジルの攻めを封じ、そのリードを最後まで守り切り、準決勝進出を決めた。
特にジダンは動き、ボール際、パスの精度も最近になく素晴らしいものであった。

フランスは優勝した前々回の1998年大会以来5度目、ブラジルはW杯での連勝が11で止まり、4大会ぶりに決勝進出も果たせなかった。
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