西洋と東洋の狭間

何かにつけ軌道修正の遅い国で有るが一端方向転換すると、凄い勢いで走り出し今までの良き所まで修正してしまう日本文明

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「氷壁」と前穂東壁のザイル事件

2006-08-25 02:28:47 | 社会

[石岡繁雄プロフィール] 石岡繁雄は、大正7年1月25日 アメリカ・カリフォルニア州サクラメント市で生まれる。3歳で父の郷里の愛知県海部郡佐織町に戻り、愛知県立旧制津島中学校、第八高等学校をへて、名古屋帝国大学工学部電気学科卒。名古屋帝大(現名古屋大)の山岳部で活躍し、終戦時海軍大尉、戦後、三重県立旧制神戸中学(鈴鹿市、現在神戸高校)で物理教師として着任した。そこで山岳部を作り、また同校卒業生を主とした有志で岩稜会を作った。

昭和22年7月(1947)、旧制神戸(かんべ)中学校(現在の神戸高校)の山岳部メンバーによって、屏風岩の登攀がなされました。以下参考文献「屏風岩登攀記」。 屏風岩は、北アルプス穂高(ほだか)岳にある高さ 600メートル、幅 1,500メートルの、ほぼ垂直に近い1枚岩のことです。当時、誰もが、この岩壁の登攀を夢見ていましたが、技術的にとうてい不可能だとされ、巨大な岩壁は人を寄せ付けませんでした。ところが、この登攀の可能性を一枚の写真から見つけ出したのが、当時、神戸中学の教員であり山岳部部長であった石岡繁雄でした。彼は八高、現在の名古屋大学ですが、その山岳部仲間から雪の積もった屏風岩の写真を見せられて、一見、垂直の何の凹凸もない一枚岩には、実は低い木がはえていて、そこに雪が積もるということに気がついたのです。彼は、自ら書いた登攀記の中で、マッターホルンの岸壁がウインパーらによって登られるきっかけとなったのも、まさにこの発見と同じであったと言っています。

 [エドワード・ウィンパー、マッターホルン初登頂] {イギリス人エドワード・ウィンパー(25歳)は、7人のパーティを組み、1865年(慶応元年)7月13日ツェルマットを出発、尾根に一泊後、翌14日ヘルンリ稜から登坂し、昼過ぎにマッターホルンの初登頂に成功した。不運にも下山途中の転落事故で4人の命が失われたが、ウィンパーと2名のガイドは無事に生還した。同行者3名:チャールス・ハドソン牧師(死亡)、フランシス・ダグラス卿(死亡)、ダグラス・ロバート・ハドウ(死亡)ガイド3名:タウグヴァルダー父子(ツェルマット)(生還)、ミッシェル・クロ(シャモニー)(死亡)

下山途中の事故は、登山経験の浅いイギリス人が足を滑らせて4人が滑落したもので、とっさに踏ん張った残り3人との間のザイルが切れ、4人はそのまま氷河に消え去った。ザイルで結ばれた遭難者4人とザイルで結ばれた生還者3人(ウィンパーとガイドのタウグヴァルダー父子)をつないでいたザイルは、旧式の細いザイルで、強度不足から切断したことが判明し、地元のベテラン・ガイドのタウグヴァルダーが何故細いザイルを使ったかが問題となり、フィスプ裁判所で審理されたが、無罪となった。しかし、非難の声は収まらず、タウグヴァルダーは、逃げるようにしてアメリカに渡ったという。ツェルマットの墓地には、初登頂で犠牲になった3人の墓がある。山岳博物館には、偉業を成し遂げて生還した3人の写真の下に、4人の命をつなぎ止めることができなかった「切れたザイル」が展示されており、「ダグラスとタウグヴァルダー間で裂けたザイル」と日本語の説明がある。この事故は、「登頂以上に無事に下山する対策を立てることが大事である」という教訓を生んだが、その後も植村直巳さんのような悲劇が続いているのは残念なことである。}

 彼は、はじめ八高の仲間とルートを探して4度もアタックを試みたのですが、オーバーハングをどうしても越えることができず失敗に終わりました。彼は、この巨大なオーバーハングを越えるには投縄しかないと考えました。そこで彼は、中央カンテ初登攀時に、そのような神技ができる若い身軽な者を、神戸中学山岳部の中から2名選びました。彼らは、鈴鹿の藤内壁で岩登りの練習に汗を流していたのです。そして石岡の3人のメンバーによるアタックは、7月24日、いよいよ始まりました。足先がやっとかかる岩を足場に1メートル上の木に飛びついたり、投縄を何度も試みたり転落しそうになったりしながら、延々2日間にわたる岩壁との戦いが繰り広げられた後、悪戦苦闘の末、ついに松田と本田が登り切り、屏風岩は彼らの手に落ちたのです。 こうして、当時、日本の山岳界最大の関心事であった前穂高岳北尾根屏風岩正面壁の中央カンテ インゼルルートの初登攀に松田武雄、本田善郎、彼ら山岳部員たちによって登攀し戦後初達成された、屏風岩に拓かれたルートである。

その後も三重県鈴鹿市に本拠をおく岩稜会をひきいて数々の岩壁を踏破、名著といわれる写真集『穂高の岩場』上下巻を完成させた登山家で応用物理学者の石岡繁雄は、前記した「屏風岩登攀記」では、次の様にも記しています。 「山は、その美しさと厳しさが織りなす綾錦を形成し、無数の美徳と教訓を提供してくれているはずであり、・・・・・・それが私の山への期待でもありました。しかしながら私の歩いた道には、そういうものよりはむしろ、暗くて悲しい人間の葛藤や、ナイロンザイル事件のように、社会との闘いといった全く異質のものが、大きな位置をしめております」いったい何ゆえに、彼の山体験はかくも人間社会の葛藤の影を負うことになったのか。それは「高度成長のためには犠牲もやむなし」という風潮にたいし、真実をつきつけ続けた者の宿命でもあったのだろうか。

屏風岩に「バッカスバンド」と言われる所があるが、これは石岡氏のあだ名から来ている。[バッカス]とは「酒の神」だが、彼は酒が強かったのではなく、山で「バカ」ばかりするから付けられたという。

昭和25年、神戸高校から名古屋大学学生部を経て、国立豊田高専教授。その後、国立鈴鹿高専に移り、教務主事となる。また緊急時高所からの自動降下装置(ハイセーバー)を開発し、日本消防検査協会から特定降下具No.3、No.8の認可をえた。この試験を受けるためには高さ15メートル以上の実験塔が必要なので、自宅の敷地内に、16.5メートルの実験塔を作った。これは登山の安全装置の開発に役立った。

昭和30年1月前穂高で実弟を失い“ナイロンザイル事件”を発生させる。同年正月2日、彼の実弟・若山五朗さん(当時19歳)が、岩稜会の三人のパ-ティで厳冬期のアルプス前穂高岳東壁を登攀中に数十センチ滑落、麻ザイルより数倍強いとされて登山界に急速に普及しつつあったナイロンザイルの、予想だにせぬ切断により墜死したのである。

転落死した原因を独自に究明し、ザイルの安全性を強調するメーカー側を追求するとともに、ザイルに関する研究を行い、「昭和44年当時我々は、9ミリザイルのダブルか11ミリのシングルを使用していたし、昭和46年には10ミリのシングルで登攀をやっていた。静加重2トンのうたい文句を信用していた。2トンでは人間の身体がそんなに持たないから、ザイルが切れる前に死んでいるので9ミリで良い。10ミリで充分との感覚があった。」以後、ザイル安全基準制定などに半生をかけました。

又、機械に興味を持ち特許21件(内5件は外国特許)を有す。その中に登山用緩衝装置がある。昭和48年8月にはシャモニーにあるフランス国立スキー登山学校で講演を行う。名古屋大学山岳会会長、三重県山岳連盟会長、日本山岳会東海支部名誉会員、通産省登山用ロープ調査委員を務めた。現在、岩稜会会長。住所  三重県鈴鹿市神戸2丁目6-25

 

[氷壁の舞台] 『氷壁』の舞台となった前穂高(3090m)の東壁は戦前から登られていたが、その当時は北壁~AフェイスとCBAフェイスしかルートがなかった。 北壁~Aフェイスは、『改訂日本の岩場(白山書房)』に、昭和12年山崎次夫と内山秋人が松高カミンルートを最初に登った。とある。また『日本の岩場(山と渓谷社)』には昭和7年伊藤新一、伊藤収二とある。CBAフェイスは、昭和6年國塩研二郎、内山秋人氏ら5名が最初に登った。北壁は無雪期は昭和7年に、積雪期は昭和15年の3月春田和郎、久留健治が初登攀している。昭和32年になり古川純一と久保田進が開いた右岩稜古川ルートをS36年3月森田昇三、三井利安が、Dフェイスは昭和34年法政大学の田山勝と山本俊男によりルートが開かれS36年2月安久一成、鈴木鉄雄が登っている。 上高地の梓川から見上げる東壁は、前穂高の頂からアルプスのようなムードを漂わせている。上高地の明神から梓川の上流沿いに歩くと美しく仰ぎ見られる。だが、その懐に入り込むと、その雰囲気は一変して鉈でそぎ落とした様な荒々しい岩壁であり、容易に人を寄せ付けない美しさと険しさ見せる。人は、美しく険しいものに憧れ、引き寄せられる。美しさに憧れ命を落とした幾多の岳人がある。

[氷  壁](抜粋) 三時北壁を登りきって、漸くして第二テラス(岩棚)に出る。三時半Aフェースに取りつく。この頃より陽がかげり、風が出て、吹雪模様にとなる。登攀困難。五時半、全く暗くなり、Aフェース上部でビバークする。「朝になったらやむよ」六時半に明るくなった。相変らず吹雪いていた。七時半に雪は小やみになり、「やるか」小坂はいった。小坂は徐々に登り始めていた。が、やがて、「よし、--来い」小坂の合図で、魚津はピッケルを岩の間から抜くと、小坂の立っている岩角へ向けて登り始めた。小坂は魚津より5m程斜め横の壁に取りついて、ザイルを頭上に突き出している岩に掛ける作業に従事していた。不思議にその小坂乙彦の姿は魚津には一枚の絵のようにくっきりと澄んで見えた。小坂を取り巻いているわずかの空間だけが、きれいに洗いぬぐわれ、あたかも硝子越しにでも見るように、岩も、雪も小坂も体も、微かな冷たい光沢を持って見えた。事件はこの時起こったのだ。魚津は、突然小坂の体が急にずるずると岩の斜面を下降するのを見た。次の瞬間、魚津の耳は、小坂の口から出た短い烈しい叫び声を聞いた。魚津はそんな小坂に眼を当てたまま、ピッケルにしがみついた。その時小坂の体は、何ものかの大きな力に作用されたように岩壁の垂直の面から離れた。そして落下する一個の物体となって、雪煙りの海の中へ落ちて行った。ザイルの全部が手許に来て、すり切れたように切断されているその切口を眼にした---。切れないと信じられていたナイロンザイルが切れたのは何故か。小坂が切ったのか、それとも----。小坂は、人妻との叶わぬ恋に堕ちていた。その清算のためか。遭難か自殺かと騒がれるなか、魚津は真相を求めるため東奔西走すると、小坂の不倫の相手である美貌の人妻八代美那子との出会いから思慕を胸にしつつ、切れたザイルの真相を求めると、美那子の夫八代教之助の会社のザイルであることを知る。小坂の遭難を通じて魚津は小坂の妹かおると会う。かおるは小さい時から魚津の話を聞いている内に「自分の結婚は魚津」と、一途に思い込み始めていた。小坂の遺体が発見されると、身体に付いていたザイルは回収され、遺体は荼毘に付された。魚津は人妻の思いを断ち切るため単独行動で北穂高岳の滝谷D沢に向かう。

 

 [ザイル事件] 岩稜会(三重県鈴鹿市)は、厳冬期の前穂高東壁を登攀するため石原国利(中央大4年、リーダー)、沢田栄介(三重大4年)、若山五郎(三重大学1年19歳)の3人は、昭和30年1月元旦の早朝奥又白池のキャンプを出発した。その日のうちに東壁をほぼ登り前穂の頂上直下30m付近で日没となり仮眠した。2日、石原が先頭で登攀を開始したが、岩の上に出ることが出来ず若山が交代し登り始めると若山の身体が50センチ程滑り、そして壁から離れ滑るように堕ちていく。確保する石原国利のザイルには衝撃は伝わらず若山の姿は奥又白の谷に消えた。残された二人は翌日救助されたが凍傷に冒されていた。石原は、「ザイルは岩角のところで切れた」絶対切れないといわれたザイルが切れた。切れないザイルが切れたということで、生き残った石原達は、「アイゼンで踏んで傷をつけた」「ザイルが古かった」「結び目が解けた」と中傷された。

[若山さんとチームを組んでいた石原国利さんの証言が重要な役割で書かれています]何故ザイルは切れたのか。証言者である石原は、「ザイルは岩角のところでぷつりと切れた。五朗ちゃんは、たったの50センチほどすべっただけなのに。あんな弱いザイルはない。」と繰り返すのみ。(中略)石岡は、強度を誇るというナイロンザイルが実は岩角に致命的に弱いという確信をほぼつかみます。しかし、「ナイロンザイルは弱いはずがないから、ザイルが傷ついていたか、古かったのだろう」「切れたのではなく、結び目がほどけたのだろう」という世間の風潮は強く、あげくザイル業者と結託した専門家が「誰も第三者の見ていないことを幸いとして、実際にはザイルをアイゼンで傷つけていたのをかくして、罪をザイルに転嫁したのだろう」とまで公言。アタックメンバーの石原はまるで罪人のような扱いを受けます。そんな中、山という現場の情報を熟知し、石原の人柄を知る石岡は、迷うことなく石原証言を信じます。このときから、弟の無念を背負い、ナイロンザイル神話幻想を砕く、石岡の孤立無援の長い闘いは始まったのです。

 

[石岡繁雄の半生を賭けた戦い] 昭和初期から30年代にいたる日本の登山界は、国内の岩壁を征服し終え、技術革新の成果をいち早くとりいれて海外の山に目を向けており、足元の問題に取り組もうとする人々は稀有であった。そのような趨勢のただ中で、ナイロンザイルの神話に、石岡繁雄は自己の専門領域をとおして闘いを挑んだのだった。石岡繁雄(当時鈴鹿市神戸中教師、鈴鹿高等専門学校教授)は驚いた。「麻ザイルより強度があるナイロンザイルが簡単に切れる---」石岡繁雄は自分が買って弟(若山五郎)に与えた40mの8ミリザイル(東洋レーヨンのナイロン糸で東京製綱が製品化した)であり、悔やむことしきりであった。

石岡繁雄は名古屋大学で実験してみると簡単に切れたが、日本の登山界では肉親が関わった実験として無視した。ナイロンザイルが切れて転落する事故はその後も続いた。ナイロンザイルの欠点を知らせなければと、石岡繁雄は実験を続け、「岩角にこすれると簡単に切れる」ことを証明した。また、母校である名古屋大学の協力を得て、試みた実験。事故の残りのザイルを、稜角66.5度の岩角にかけ、重さをかける。70キロから90キロの重さを静かにかけただけで、ザイルはなんなく切れた。しかしこれはあくまでも私的な実験でしかありませんでした。

そして3ヶ月後、問題のメーカー側は愛知県蒲の東京製綱の工場で公開実験を実施し切れないことを実証した。その実験は、4月29日、登山用具の権威で日本山岳会関西支部長の篠田軍治・大阪大工学部応用物理学教授指導のもと、郡山市にあるザイルメ-カ-で公開実験が実施されることになった。ところが、多くの登山関係者やマスコミの注目を集めた大がかりな実験では、ナイロンザイルは圧倒的な強さを示したのだ。穂高の遺体捜索現場でその報に接した石岡は「実験はインチキだ、手品だ」と叫んでいたという。石岡には、メーカーの仕組んだからくりがよめたのです。

しかし、この蒲郡実験の威力は絶大で、登山界・企業・マスコミが一斉に「ナイロンザイル神話」に拍車をかけ、石岡ひきいる岩稜会は遭難原因を疑われるという窮地に追い込まれます。蒲郡実験の結果は登山界で権威のある『山日記』にも掲載されて、ナイロンザイルに命を託した多くのクライマ-が、その後も墜落死事故を繰り返す要因となった。

真実はどこにあったのか。それは、さらに4ヶ月後に発見された弟・五朗の遺体が物語っていました。五朗に結びつけられていたザイルの切れ口とザイルをかけた岩角には、ザイルが簡単に岩角で切れたことを示す証拠が残されていました。なおも同じ条件を再現して実験した結果、ナイロンザイルはいともあっさりと切れたのです。では、蒲郡実験では何故ザイルは切れなかったのか。からくりは、膨大な装置のほんの小さな中枢部分たるエッジに、1ミリほどの丸みがつけられてあったことでした。そのいんぺい事実が明るみに出て、「ナイロンザイル事件」は弟の遭難から4年8ヶ月後に決着がつきます。これが井上靖の小説『氷壁』のモデルとなり、映画化もされた「ナイロンザイル事件」の核心である。

7月31日若山の遺体はザイルを正しく結んだまま雪の中から発見された。石岡はザイル切断の岩角を石膏に取りそれに似た岩角(90度)を探してきた。メーカーが実施した実験が作為された物との情報が石岡に伝えられた。作為とは、岩角は1ミリ程丸みをつけたことである。東京製綱に出入りしていいる関係者からの密告である。日本山岳会発行の昭和31年版の『山日記』にメーカー側の教授が「ナイロンザイルは90度の岩角でマニラ麻の4倍以上強い」。「岩角でも13mの落下まで切れない」と発表した。山岳雑誌等から「メーカは問題のザイルを科学的実験で保証した」「ナイロンザイルは非のうちどころがない」と報じた。

その後の石岡は、『山日記』の記事は危険である。として訂正を申し込んだが、ナシのつぶてである。実験した大学教授に公開質問状を出したが黙殺されたため、石岡は再度強度実験を繰り返した。石岡のねばり強い活動を続け、ザイルの強度を「厳寒期、酷暑にも切れない基準」をもとめたが、業界は激しく抵抗したが、通産省もザイルの安全基準を設けた。(昭和50年3月)若山五郎の死から20年経過していた。彼が半生をかけた成果は国の機関をうごかし、昭和50年6月、登山用ロ-プの強制力をもった安全基準の世界初公布、再度『山日記』の訂正を迫り続けた結果、やっと昭和52年版に小さな記事を載せて誤りを認めた。55年の転落死防止装置の完成へとつながり、そこから災害時のビル脱出装置、障害者介助機具の開発などに結実していったのである。一方で彼は、メ-カ-や日本山岳会にたいして、ナイロンザイルの安全限界を明示させるべくいくたびも公開質問状をつきつけ、他方で欠陥そのものを分析し、私財をなげうって高所安全研究所を設立(昭和58年)、アルピニストの命を守るにはどうすべきかを探究し続けた。                        「前穂東壁のザイル事件」の前に昭和29年12月29日東雲山渓会員が前穂の近くの明神5峰でザイルが切れ重傷を負う。あとでも、剣岳などでも第3・第4のザイル切断事故があり死者が相次いだ。昭和45年6月14日に奥多摩と巻機山では2.5トンも耐えられるザイルが切れている。これまで使われていたザイルは、麻のザイルで重くて太く水を吸い込み、冬期は凍結する、捩(よじ)れがある場合は簡単に切れる。カビが生える等のため取り扱いが非常に難しかった。ところが、ナイロンザイルを製作した会社は強度があり切れないと宣伝した。使ってみると、麻のザイルのもつ欠点は完全に克服されていた。登山界では非常に有望視され普及していった。切れたザイルは、長野県大町市にある「山岳博物館」に保存・展示してある。大町駅から歩く距離では有るが、高台のためタクシーを利用されたい。博物館からは、北アルプスの名峰白馬岳・五龍岳・鹿島槍~常念岳・蝶が岳が一望できる。ザイル事件のメーカー側教授は、平成元年12月2日に日本山岳会の名誉会員なった。「生命にかかわる問題をゆがめて発表した学者は名誉会員に値しない」との抗議がおこったがどうなったのか。

バッカスというあだ名で山仲間から呼ばれている石岡の、どこかしら土くさい朗らかさからは、日本全体が浮き足だって生きてきた時代に、虚仮の一念のようにひとつの問題と格闘してきた者だけがもつ、高山のダケカンバのような風貌が感じとられる。それは、天命でもある様に彼に与えられた大きな難問に挑み、その生涯において、苦難と屈辱の中、彼にしか味わう事が出来なかった仲間との絆や、心ある人達の応援、等と真実に向かう自身の奮い立つ気持ちへの感動は達成感にも匹敵し、個人の問題を越え、多くの登山家の命を救う使命として、その事が自身の生きがいにもなっていたのでしょう。人は生まれ、何時かは、死にます。何時も若いと思った瞬間には、気付かない間に老いた自身がそこに、居ます。何の為に生まれたのか、疑問を持つ前に思うべき事は、石岡氏の様に天命とも言える大きな問題から挑む人もいるであろうが、多くの人は、幸いその様な問題を抱える事は、少ない。ならば、自身へ小さくとも天命を自ら選び、自己とあるいは、小さな事でも病んだ社会に挑んで行く事が、彼から学び、残された人間の使命とも思える。

石岡繁雄氏の、ご冥福をお祈り申し上げます。

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ベルフェゴールは誰だ!1965年外国テレビ・ドラマ(1)

2006-08-23 18:46:26 | テレビ・ドラマ
ベルフェゴールは誰だ・ Belphegor ou le Phantom du Louvre
1965年製作の(TV映画)フランス国営放送作品。
監督:クロード・バルマ。
ジュリエット・グレゴ、フランソワ・シューメット、ルネ・ダリー、主演。
シルヴィー、ポール・クローシェ、クリスティン・パール、イヴ・レニエ、ルネ・アローヌ、イヴ・ビュロー他。
原作:アルテュール・ベルネッド、映画『ヴィドック』の原作者であり、1927年の大衆向け新聞小説。
脚本:ジャック・アルマン、クロード・バルマ
撮影:ジャック・ルマール
作曲:アントワーヌ・デュアメルが1965年版に作曲した音楽は、いかにもTVシリーズ的な軽妙さがあるが、「Generique debut」はキャッチーなイントロから始まりミステリアスな主題へと展開されるメインタイトル。「Theme de Menardier」は、ニーノ・ロータのタッチに少し似た様な主題。「Le Louvre, la nuit / Generique de fin」は洒落たジャズ・ベースで、やはりミステリアスな旋律。            

都市伝説の一つで、ルーヴル美術館に潜んでいるとされる伝説の怪人ベルフェゴールを描いたTVミニシリーズ(本国フランス72分×4話)。このベルフェゴールは過去に1926年にはサイレント映画化されて大ヒットした様に題材になっており、2001年にはジャン=ポール・サロメが監督し、主役を大女優が演じるといった構成で企画・演出されたそうなんですが、その主役は何とソフィー・マルソー。ミシェル・セロー、フレデリック・ディーファンタル、ジュリー・クリスティ他が出演した「ルーヴルの怪人」が製作されている。本作品の主演は、当時話題の人気シャンソン歌手ジュリエット・グレコ。物語は、それぞれ若干の違いはあるのですが、舞台はルーブル美術館に出没するマントと仮面で被われた正体不明のベルフェゴールの正体を追求する青年アンドレと謎の女性をめぐって不可思議な事件が展開する30分×13本犯罪ミステリードラマです。
フランスでは、ファントマやオペラ座の怪人に並ぶ国民的怪談で、当時、2000万人以上のフランス人をテレビの前に釘付けにしたといわれていますが、日本では1965年にテレビ朝日から火曜の夜9時から30分放映されましたが、フランスほど話題にはならなかったようです。

子供の自分は、今のフランスを見れる嬉しさと、ドラマの謎めいた部分への好奇心が、膨らんでいったのを覚えています。劇中登場するパトカーの「パープー・パープー」の何か頼りないサイレンも当時の私には新鮮で不思議な感覚にも感じられました。
800年の歴史を持つルーヴル美術館に潜んでいるとされる伝説の怪人ベルフェゴールが、夜毎幽霊が出没するというストーリーで、不気味な雰囲気に惹かれ進行していきます。
広大で迷路のようになっている美術館内を幽霊仮面男ベルフェゴールが歩きまわる姿は、黒く得体の知れないものが幽霊の様にフワフワと浮遊する描写が映し出され、その様な手法が取り入れられたのは、このドラマが最初であった様にも思います。この作品の最も謎であり、真相を明かす為にも必見であったベルフェゴールの正体は、「実はギャングが自分達の犯罪から目をそらせるために、催眠術で夢遊病状態にされた仮面を被った女性」だったと思います。
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第88回全国高校野球選手権大会、最終戦、再試合

2006-08-22 16:59:15 | スポーツ
第88回全国高校野球選手権大会、最終戦、再試合となる。
前日、15回1対1の引き分け、再試合となり、37年前、我々より少し先輩の年代である、青森、三沢高校、大田投手対愛媛、松山商、井上投手との球史に残る熱戦を当時、和歌山の白浜で1週間、海へ遊びに行ったのですが、泳ぐのを忘れるぐらいラジオで聞き入っていた事を、思い出しました。
お蔭で、再試合は、海に出向かず、部屋でテレビを見てしまいました。

8月20日、早稲田実(西東京)1-1駒大苫小牧(南北海道)
さて、3連投の斎藤佑樹選手(3年)は再三のピンチをしのぎ、8回の1失点だけで178球、7安打、4四球2死球、16奪三振完投。最終15回にこの日最速の147キロをマークする熱投で、夏3連覇を目指す駒大苫小牧・田中将大選手(3年)と球史に残る投手戦を繰り広げた彼は今春センバツに続く2度目の引き分け再試合。準決勝以降、王監督から届いたメッセージは「気力のみ」。勝負の世界を知り尽くした偉大なOBの言葉を、王監督が背負ったエースナンバーを継承した斎藤がピッチングで示してみせた。8回駒大苫小牧に1点先制されるも、その裏、桧垣の二塁打を足場に1死三塁の好機をつかみ、4番後藤の犠飛で同点とした。延長11回、斎藤は1死満塁のピンチで、駒大苫小牧が仕掛けたスクイズを見抜いた。とっさにスライダーをバウンドさせてバントを外し、三塁走者をアウトにした。「(捕手の)白川がよく捕ってくれました」そして15回表、4番本間篤選手に真っ向勝負を挑んだ。初球ストレートが、この日最速の147キロを計測され超満員5万人で埋まった甲子園が、地鳴りのような歓声に包まれた。前の打席まで得意のスライダーで打ち取っていた相手主砲に、最後は5球連続でストレートを投じていった。147キロ、143キロ、147キロ、146キロ、146キロ、カウント2-3、最後は133キロフォークで空振り三振に仕留めた。「打ち返したかったが駄目だった」と本間選手、まさに熱くなるのを覚えた瞬間でもあった。
18日の準々決勝(対日大山形)で9回144球、準決勝(対鹿児島工)で9回113球、この日15回178球を投げ、3日間で合計435球を1人で投げ抜き、奪った三振は1大会歴代2位の通算65になった。かなりの疲労はあるだろうが、彼の体のどこにこんな力が残っていたのだろうか。又見た目と異なる強靭な精神とクレバーさは底知れぬものさえ感じられた。
昨秋の明治神宮大会準決勝での初対決で、149キロ直球でスイスイと三振を奪う怪物に「すごい投手」と圧倒されたが、今回は「男と男の勝負ですから」と、珍しく熱い言葉を口にした様に、壮絶な投げ合いになった駒大苫小牧の「怪物」エース田中への闘争心が、斎藤の気持ちをさらに強くした事になったのであろう。

駒大苫小牧・田中も相手エース斎藤と、1歩も引かない投手戦を繰り広げた。「マウンドに上がったら絶対に先に下りたくない」その気構えを胸に3回途中から救援登板し、こちらも8回の1失点のみ、12回2/3を7安打、3四球、10奪三振の力投で、15回まで165球を投げ抜いた。試合が動いたのは8回。駒大苫小牧は伏兵の2番三木が、バックスクリーンへ大会58号を打ち込み、1点を勝ち越し、3回途中から登板した田中のスライダーは「想像以上だった」(小柳三塁手)。同点にこそ、追いついたものの追い越すことはできなかった。田中から7本のヒットを打ったものの、10三振を奪われ、その後1-1の延長9回から12回は3者凡退。13回裏には駒大苫小牧あわやサヨナラ負けの場面を迎えた。2死二塁で暴投し、走者を三塁に進めた。2人を四球で敬遠し、満塁策をとった。「敬遠でボール球を続けて投げるときも気持ちを切らさないようにした」。最後は得意のスライダーを丁寧に配し、二ゴロにくぐり抜けた。
15回裏2死一塁。田中が早実の4番後藤に勝負を挑んだ。1ボールから126キロスライダーで遊飛に仕留めた。こちらも地鳴りの様にわき起こる拍手と大歓声の中、右手で帽子を取り、ゆっくりとマウンドを下りた。「15回までいくんじゃないかな、と思ってました。とりあえずひと区切りつけ、ほっとしてます」。激闘を終え、和泉実監督(44)は「田中君の直球は球速以上に速く、力強かった。作戦を考え直します」といった。勝てなかったが負けなかった。彼の底力を思わせる140キロ台の重い直球と高速スライダーで厳しいコースをつき、早実打線に的を絞らせなかった。
センバツ出場辞退の悔しさを胸に秘め、決勝までたどり着いた今回は風格さえ感じられ、 延長13回表2死二塁では三ゴロに倒れたが「公式戦で初めてです」という、一塁へのヘッドスライディングでチームメートを鼓舞した様に、粘り強く、ひと回り彼を大きくさせたものでもあった。

試合時間は3時間37分だった。
延長では先にも述べました様に、69年松山商(愛媛)-三沢(青森)以来37年ぶり2度目の決勝引き分け再試合。早実は今春センバツ2回戦の関西(岡山)戦でも延長15回引き分け再試合を経験。甲子園で年間2度の引き分け再試合も史上初。
その時は再試合で投げ勝ったものの、続く準々決勝の横浜戦で力尽きた2度目の引き分け再試合。斉藤選手は連投を克服する今大会でもあり、「仲間も守ってくれる。明日も楽しみます」と冷静に話した。そして駒大苫小牧にとって3年前の降雨ノーゲーム以来2度目の再試合となる。三谷選手は「あの試合は負けた。今度は全力で勝ちたい」と話す。再び73年ぶりの3連覇へ挑む一戦。


8月21日、早稲田実(西東京)4-3駒大苫小牧(南北海道)
37年前の69年(昭44)決勝戦は、剛の大田、軟の井上両投手の稀に見る投手戦となり、この松山商-三沢は今でも語り継がれる大激戦であり、この試合をリアルタイムで見れた事は高校野球ファンとして最高の喜びでもあった。
三沢の剛腕太田投手は序盤から制球に苦しみ、再三走者を出したが、262球を投げ抜き、バックの懸命の守りもあり得点を許さない。
松山商・井上投手はカーブを有効に使って打たせて取る投球、延長15、16回と続けて満塁の走者を背負いサヨナラ負けの大ピンチ。ここを、スクイズを外すなど冷静な判断力で何とか切り抜け、232球を投げ抜いた。
試合時間、4時間16分。0-0のスコアでは判断できない、一進一退が続く、まさに、手に汗握る壮絶な展開であった。
太田は翌日の再試合も1人で4日連続45イニングを投げ抜いたが、1回に本塁打で2点失うなど4失点。松山商は、井上を1回と1/3から中村にスイッチ、それが奏功して、三沢の反撃も及ばず、松山商が4-2で4度目の優勝。ほとんど真っ黒になったユニホームが激闘を物語っていた。
大田選手は、その甘いマスクから甲子園の初代アイドルとなり、以後プロとなり、ドラフト1位指名から近鉄、最後は阪神に至り引退、最近までは、解説業をされておりました。
一方井上選手は、明大進学後、自分に接してくれた記者の温かさに、感動し憧れ、現在も高校野球等の記者活動をされております。

古豪・早実が創部102年目でついに夏の頂点に立った。駒大苫小牧との決勝再試合を4-3で制し、1915年(大4)の第1回大会出場から27度目の挑戦で、悲願の夏初制覇を達成した。第1回大会(15年)から参加し、王貞治氏・プロ野球ソフトバンク監督らが輩出した早稲田実。第11回(25年)と、荒木大輔氏(西武コーチ)を擁した第62回(80年)の2度、準優勝に終わった。その壁を越えた。「大先輩たちが成し遂げられなかったことをできてうれしい」。斎藤選手が喜ぶ。
早実のエース、斎藤佑樹選手(3年)前日20日の決勝で延長15回、178球を投げた後は、ハリ治療と高酸素濃度カプセルに1時間入って疲労回復に努めた。その効果によるものなのか、延長15回引き分けの疲れも見せず、試合前は「不思議なくらい肩が軽い」と言ってのけた。この日も序盤から右投手の生命線である右打者への外角直球をていねいにコースに集め、スライダー、フォークを軸に内外角の低めを丁寧に突く自分の投球を貫いた。早稲田実は1回、2死一、三塁から船橋の適時打で先制し、2回にも川西の適時二塁打で1点を追加。6回、7回には、四死球で得た好機を生かして加点した。守りも5回まで3安打7奪三振と前日の9回から12イニング連続のゼロ行進。ピンチにも動揺が表に出ない理由を斎藤は「仲間を信じる心が余裕を生んだ」と明かす。6回に本塁打を許し1点差に追い上げられると、すかさず野手から「1点ぐらい取り返してやる」と声が飛んだ。その裏、言葉通りに味方が捕手白川の適時打で1点を加えた。だが、駒大苫小牧の選手は、誰もあきらめていなかった。9回は2ランを喫した。
「田中将大が頑張ってくれている。なんとか塁に出ないと」。中沢竜也君は、こんな思いを込めて打席に入った。スライダーをフルスイング。打球はバックスクリーン横に飛び込み、1点差に詰め寄られたが気力を振り絞った。9回2死、打席には2日間、ともに激闘を演出してきた田中。4球目はこの試合最速の147キロを計測した。ファウルで粘られた7球目。「最後は一番自信のある真っすぐで」とこん身の144キロ速球で空振り三振に斬り、大会のフィナーレを飾った。 
記念すべきこの日は、118球、6安打、無四球、13奪三振の力投で3失点完投し、斎藤はこの2日間、一人で296球を投げ抜き、18日の準々決勝からスライダーとのコンビネーションで6試合連続完投しかも4日連続完投で、今大会7試合、69イニングをほぼ1人で投げ切る鉄腕ぶりを発揮した合計948球の熱投で見事投げ抜いた。又、奪三振は4試合連続の2ケタで合計78個として、歴代単独2位に浮上し、春夏通算104奪三振(歴代2位)も記録した。新たな歴史をつくり、数々の記録だけでなく、記憶にも残った男に成長した斎藤佑樹。  

駒大苫小牧は大会史上、73年ぶり2校目となる3連覇がかかった試合だった。3大会連続で決勝に進んだのは、7~9回大会の和歌山中(現桐蔭)、3連覇した中京商、65~67回の桑田真澄(巨人)と清原和博(オリックス)両選手を擁したPL学園(大阪)、そして駒大苫小牧だけ。しかし決勝戦の敗戦により甲子園大会連勝は「14」、駒大苫小牧の公式戦連勝も48(1分け含む)でストップした。
初回途中から登板した駒大苫小牧のエース田中将大選手(3年)は7回1/3、84球を投げ、4安打、2四球1死球、4奪三振も2、6回は130キロ台後半の直球を、7回は120キロ台後半のスライダーを運ばれ、3失点を喫し、この日の最速は自己記録に7キロ及ばない143キロであったが力投した。疲労との闘いでもあり、夜の通常の40分のマッサージに、この日朝、さらに20分追加。張りのある右肩から後背筋にテーピングを施し、初回途中でマウンドに立った。「最後の力を振り絞ったが、力が残っていなかった」という。駒大苫小牧は6回、三谷のソロ本塁打で1点を返した。9回表には中沢の2点本塁打で1点差に詰め寄ったが、2死走者なし、打席の田中は早実のエース斎藤に「男と男」「力と力」の勝負を挑んだ。ファウルで2球粘った7球目。144キロの直球に、銀色のバットが空を切った。北の怪物、力尽くも全身全霊のフルスイングだった。
聖地に響くサイレンが最後の夏の終わりを告げた。「自分のスイングができました。見逃しじゃなく、空振り三振で悔いはありません」。マウンド上でNO・1ポーズを掲げる早実ナインに背を向け、ゆっくりとダッグアウトに向かい、静かにバットを置いた
186センチ、83キロの強固な体の両肩にテーピングを施し、今大会6試合計52回2/3を投げ、54三振を奪った。又、南北海道大会から計13試合通算101回2/3。1407球を投げ、126三振を奪って。最後まで涙は見せなかった。「相手の方が一枚上でした」と最後の夏でNO・1投手の座を斎藤に譲り、アクシデント等から怪物らしさを取り戻せないまま、田中の夏が終わった。
「たくさんの人たちの応援が力になりました。感謝の気持ちでいっぱいです」。
春夏の甲子園通算で計12試合8勝0敗の成績を残し、斉藤選手同様記録にも、記憶にも残る、エースであり、今秋ドラフトで1位入札競合必至の逸材は、次なる挑戦はプロの舞台だ。

田中君が、泣き崩れる本間篤史主将の左肩をいたわるように抱き、声をかけた。  
「よくやった」
香田誉士史監督は「最後の最後まで一体となったプレーが見られ、本当に良かった」と、選手の健闘をたたえた。
ピンチにも表情を変えなかった右腕が優勝にひたすら泣いた。「疲れはあった。でも人生最大の幸せな一日です」。昨夏、西東京大会準決勝で感情の起伏を突かれて打ち込まれコールド負け。以来、どんなことがあってもポーカーフェースを決めてきた。
80年夏の決勝で涙をのんだ早実OBの西武荒木大輔投手コーチ(42)は「相手が相手だから簡単に勝たせてくれるとは思わなかったけど、最後も早実らしい粘り強い戦いだった。決勝戦という大舞台で力を存分に発揮してくれた。僕らが目標にしていた夏の全国制覇を成し遂げてくれてうれしい。彼らの頑張りを早実OBとしてすごく誇りに思うし、優勝が決まった瞬間は、早実の卒業生で本当によかった」と心から祝福のコメント。
スタンドに人気が消えたころ、両校ベンチ前で胴上げが始まった。「同世代で一番いい投手」(斎藤)、「最後まで力を残すところにすごさがあった」(田中)。相手エースをたたえた2人の姿も、それぞれの輪にあった。 
再試合になった為でもあるかもしれませんが、決勝戦、再試合共に、何時もの高校野球以上に時代を超越した37年前と同じ夏の太陽を私は感じる事が出来ましたのは、今大会出場校、特に決勝戦の両校には、高校野球の原点でもある姿を久々に見られた事が、清々しさにも似た気持ちに表れていた様にも思える。

今大会、特筆されるのが本塁打の量産。通算60本。数々の本塁打記録を更新した。
投手との力関係もあるが、筋力トレーニングや打ち込みでスイングスピードの速さ、道具の進歩、技術の向上等で終盤、一発で流れを変える試合が多く、展開の面白さはあるが、四死球376、失策数125、ともにここ5年で最多を記録し、投手の制球不足に加え、内野手の悪送球が目立ち特にタイムリーエラーは避けたいものであるが、決勝まで勝ち残った斉藤、田中両投手は打高投低の、中スライダー・ストレートを絶妙にコントロールされ、素晴らしいピッチングであった。
又、来春から低反発球が採用されるそうあるが、より引き締まった試合となり、集中力と守備力が必要とされるが、良い意味での変化に期待したい。
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日本の終戦を考えて (その2)

2006-08-14 17:12:46 | 社会
ハルノートからの太平洋戦争への開戦
中国蒋介石の思惑
軍事的な問題で一時は妥協的案の提案に傾きかけたハル国務長官だが、日中戦争の当事者である国民政府の蒋介石政権は「日米妥協」は米国の中国支援の妨げとなるとして公然と反対していた。さらに蒋介石は思い切った手を打つ。一面識もなかったチャーチルに電報を送ったのである。「アメリカが日本と妥協案を結んだら、中国の人々は失望し戦いは崩壊する。それ以後のどのような助けも空しく、中国はあなた方の語る国際信義という言葉を信じなくなるだろう」と。当時既にアメリカは非公式ではあるが国民政府に対して軍事支援を行っていた。)。なお蒋介石夫人の宋美齢も自身の英語力を生かしてロビイストとしてルーズベルトにさまざまな手段で働きかけていた。

英国チャーチルの思惑
また当時は既にヨーロッパにてドイツとイギリスとの戦いが始まっており、ヨーロッパ戦線にて対独戦に苦戦していた英国チャーチル首相は、戦局打開の策としてアメリカの参戦を切望していた。英国が行った働きかけは判然としていないが、チャーチルの回想録では日米開戦の知らせを受け取ったときのチャーチルの欣喜雀躍ぶりが描かれている。

ソ連の思惑
独ソ戦を戦っていたソ連のスターリンにとっての悪夢は、ドイツと三国同盟を結んでいる日本が背後からソ連を攻撃することであった。当時、2面作戦をとる国力に欠いたソ連は、日本からの攻撃があるとドイツとの戦線も持ちこたえられずに国家存続の危機に陥ると考えられていた。ソ連は、日本に北方ではなく南洋に目を向けさせるようにあらゆる手を打つ。日本にはリヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実を中心とする諜報組織網を築く他、米国にも親ソ・共産主義者を中心に諜報組織網を築き、その一端はホワイトハウスの中枢にも及んだ。その最重要人物がハルノート作成に強く関わったハリー・ホワイトである。日本を米国と戦わせることにより、日本がソ連に侵攻する脅威を取り除くことが一つの目的であった。

「ハル・ノート」(概要)
1.英中日蘭蘇泰米間の不可侵条約締結
2.仏印の領土保全
3.日本の中国印度支那からの撤兵 - 中国(原文China)が満州を含むかには議論があり、アメリカ側は満州を除いた中国大陸、日本側は満州を含んだ中国大陸と考えていたようである。
4.日米の中華民国の承認(汪兆銘政権の否認)
5.日米の海外租界と関連権益の放棄
6.通商条約再締結のための交渉開始
7.米による日本在外資産凍結解除
8.円ドル為替レート安定に関する協定締結
9.第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄
10.本協定内容の両国による推進

以上の事から、日中戦争や日本が真珠湾攻撃に至る史実から、色々な事情も考えられるが、それは、別としてそれまでの欧米列強の国、スラブ系民族とオーストリア、ハンガリーとの争いを発端にイギリス・フランスといった早くから植民地を獲得していた国々に対して、ドイツを初めとする同盟国が再分割を求めた事から第一次世界大戦となるに至り、中東地域でのトルコからイギリス戦況を有利にする為のユダヤ、アラブ人への「二枚舌外交」や、その後のイスラエルの対アラブの戦略的重要性から、アメリカやイギリスの不平等な支援から、今日の情勢になっているものと思われ、確かにイスラムの一部強行派のテロは許し難きものではあるが、まず原点に戻りパレスチナ問題の責任を両国が考えるべき筋ではないかと考える。

東南アジアにおいても、そもそもあってはいけない欧米の植民地化から、インドに限った事でも、自国利益の為、時のインド王国を滅ぼし、都合のよい統治を行いインド民族運動が高揚を押さえ、更に第一次世界大戦で、自治の約束を信じてイギリスに戦争協力したにもかかわらず裏切った事等、本音から申せば立派な侵略行為である。

極東アジアでもイギリスは、東インド会社を通して中国との貿易を行っていたが、中国に対しては莫大な貿易赤字を抱えていた事から、インドを利用し、「三角貿易」から「公然の密貿易」という形で大量のアヘンを中国に持ち込みました。この様な非道理的な方式はまんまと成功し、今度は中国から銀が流出し始め、 その量たるや、国家財政の4分の3にあたる金額だった事等からイギリスの貿易収支は一転して黒字となる。その為に清朝政府はアヘン禁止令を出した事は、当たり前なのだが、それを許さないイギリスとのアヘン戦争に至り、1842年に南京条約が締結され、極めて屈辱的な条件を強いられ、肝心のアヘンについては条約では一切触れられることなく、依然としてアヘンの流入は続き、同様の不平等条約は、フランスや米国とも締結を強いられ、このような状況のもと、民衆の不満は高まり、反乱が相次だ一方、さらなる貿易の拡大を求めるイギリスは、1856年、フランスとともに再び中国に出兵します(アロー戦争)。清朝はまたもや武力に屈服し、1860年北京条約でさらに屈辱的な条件を飲むことになり、列強のある意味の植民地化に分割される。
日清戦争後の中国は「眠れる獅子」の崩壊からも、ドイツに膠州湾を租借され、ロシアには旅順と大連を租借され、万里の長城以北と新疆を支配下に治められていた。フランスには広州湾を租借され、広東、広西、雲南を勢力圏とされていた。イギリスには香港、九龍半島、威海衛などを租借されていた。だが中国の歴史教育では、この時代の「侵略」の非難の矢は、もっぱら日本に向けられるのである。「当時、中国東北部には各国の帝国主義勢力が進出しょうとしていたが、イギリスやアメリカは日本を応援して、ロシアに対抗させることを決めた。戦争の主戦場は東北部となったが、腐敗した清政府は「局外中立」を宣言し、中国人民はまた重大な災難にあうことになった」。こうした記述は、ロシアが中国東北部の満州に大部隊をすでに進め、事実上、占領していた史実には触れていない。
第二次世界大戦での戦勝国同士での非難は考え難い事でもあり、大戦前に欧米列強国に莫大な被害を被った中国自体もイギリス、アメリカの支援の基での今日に至る事からか、あるいはその時代は満州民族の国家であり、現在と切り離した考えなのか、大戦前の史実は葬り去れているのが現状の様にも考えられる。

又、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)8月9未明、ソ連は日本に対して一方的に条約違反となる日ソ中立条約を破棄し、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、8月16日には日本領南樺太、8月18日に千島列島へも侵攻して占領しており、これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスの密約であるヤルタ協定に基づくものであり、以後の条約違反でもある、非人道的シベリア抑留もアメリカとの密約があったともされている。

アメリカの無差別爆撃から、大阪大空襲・一般市民一万人以上の死者、東京大空襲・一般市民八万人以上の死者、人類史上最大の虐殺とされる広島原爆投下・一般市民十五万人以上の死者被爆によるその後の死者を含めますと三十万人以上の死者と推定される、長崎原爆投下・一般市民七万人以上の死者被爆によるその後の死者を含めますと十五万人以上の死者と推定される。
私は若い時に、広島の原爆記念館に行き、そこで見た事に、物凄い怒りと悲しみが込み上げてきたのを忘れません。
アメリカは、戦争を終わらす事では意味があったとする人が全てではありませんが、多いと聞きます。しかし百歩譲ったとして、二回も投下する意味があったのでしょうか。
ウランとプルトニウムの二種類の原爆の威力を確かめたい考えがあったともいわれています。又投下後に、医師団が被爆者を診たのは、人体の影響を調べた事は事実であり、人道的観点からの医師団の派遣ではなかったのです。
被爆者の無言に近い戦後の叫びは、同胞として理解し風化させてはならないものであると同時に、むしろ戦勝国の国民に直視して貰いたいものと考える。

戦前の日本を正当化する考えはもうとう無いのですが、勝てば官軍の様な今の世界も決して褒めたものでは無く、国連の大戦勝利国からの意味の解らない常任理事国の制度がある限り、又、軍事力の増強をし続ける事からも、それぞれの国が自国の真の戦争総括をしているとは考えられないのです。
自由と平等を掲げるアメリカは素晴らしい国と考えます、事実その精神の国民もおられる事は、事実なのですが、最近のアメリカはどうでしょうか。又、その他の戦勝国にも、大戦前の他国にしてきた事や、された事をよく考える事が必要です。勿論、先にも述べました様にテロの容認は断固出来ません。
私も、戦後に生まれ、どちらかと申せば、親米派かもしれませんし、若い時には憧れた国でもありました。
そのアメリカの核の傘の下で、我々の日本は平和を築き過ごしてきました。しかし、これからの日本を考えるには、ある意味の自立と大国にも意見出来る事が、必要にも思え、同時に自国は自国民で護る事が、当たり前なのだが気づくべきとも思えます。

最後に私事ではありますが、名も無き一兵士親父の事を記載させて頂きます。私の父も体がすこぶる丈夫な人でありましたので、徴兵から、最初の召集令状組の兵士の一人で最終軍歴階級は曹長でした。
その父からは、一番戦地に赴き即、戦死する人は、やはり、血気盛んな青年将校だったそうです。地獄を見てきたのでしょうか、無信論者でしたね。
又、父が戦地に赴く時の気持ちは、以外に覚めた言葉でしたが、ただ、生きては帰れない覚悟は、私とは、異なるものでした。終戦後スマトラ・ビルマ戦線から武装解除から捕虜となり、帰国した時は、家は無く、先の妻や、娘二人は死んでいたそうです。

長崎・広島の原爆の犠牲者、各地の空襲でなくなった方々、南方その他で玉砕した人々・させられてしまった人々、特攻などという無茶な戦い方をさせられて亡くなった人達、各地の戦闘で亡くなった人達、無意味な戦時下での行為で命を落とした人達、この戦争で亡くなられた全ての人達のご冥福をお祈りします。
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日本の終戦を考えて (その1)

2006-08-14 16:39:01 | 社会
8月15日は、おそらく近代史による世界大戦の終焉でもあり、平和への始まりでもあったと考えます。
日本国内では、やっと個人の自由な考えで生きる事が出来、同時に戦争の事について考える余裕等あるはずもなく生きる事で必死の状況であったと思います。
又、戦争について考える余裕が出来た頃には、すでに伝えるべき世代とその様な話に耳を傾ける、あるいは傾けなくてはならない次の世代(つまり我々の前後の世代)、そしてマスコミ関係も少なかった事と記憶しております。
私が、以前戦場に行かれた兵隊さんからの話から
最前線では、敵の弾道が地上30センチである事から、少しでも動けば被弾する事から小石があれば、そこに頭を埋める様な自身があり、隣で話した戦友も次の瞬間には被弾し即死であった。
沼地で敵と出くわし、前進も後退も出来ないこう着状態が2~3日続き、後方からの食料は、ドロだらけで、勿論その場で何事も用を足すのである。
日本からの千人針の布は、捨てないと弾が当たった場合、弾が布に縫いつけた糸を内臓に巻き込み、助かる命も助からない事。
上官が、突撃による剣を抜くと同時に敵陣近い次の壕まで誰よりも早く走り出ないと死亡する率が高くなる、その意味はいきなり出てくる兵士を敵も目標が定められない事から後に出てくる兵士に照準を定め打つ為による。
突撃の際は頭を護るヘルメットを腹に巻く事で、腹に銃弾を受けた場合苦しんで死ななければならない、ゆえに頭に銃弾を受けた場合は、より楽に死ねる事による。
多くの戦死の中、唯一上官の一人が、腹に弾丸を受け内臓が出ているにも拘らず、その地から、皇居の方に自分を向かせ「天皇陛下万歳」と叫び絶命された以外は、誰もが身内の人の名を呼び死なれたそうです。
陸軍の兵隊が南方に輸送船で輸送される際は、船底に詰められ船酔いに悩まされながら、当時領海内である台湾までの航海で、7隻の輸送船の中4隻が敵に撃沈され、おそらく南方に着くまでには全滅だろうと覚悟を戦友と決めたのだが、幸い無事に南方に着いたのだが、死の覚悟はしていたと。
中国戦線では、機関銃隊で前進したが、自分達が居る場所は完全に掌握した事出ない為、補給路が断たれ何人かで撤退したのだが、地雷帯の所を知らないで一列にて行軍し、自分が無事通過した。
ある民家に襲撃したとたん敵の爆破にあい、自分以外全員死亡したのだが、直ぐ後に、中国兵の話声がした為、死んだ戦友の血のりを自身に着け、確認に入ってきた中国兵から死んだものとごまかしたのだが、わずか1~2分の事であったが、長く感じ生きた心地が無かった。
一に体が丈夫で、根性がないと、演習に帰って来れば厳しさに耐えられない者は兵舎で首を括り自殺していた。
上官に拳骨で思い切り叩かれる場合、やはり倒れたりすると何回も同じ様に、叩かれる。
何気ない言葉に感じる様ですが、戦闘での重い事実ではないでしょうか。
まだまだ有りますが、赤紙一枚で戦場に向かわれた多くの兵士に、現場の知らない国内にいる一部の参謀により、効果の無い突撃を命じられ命をなくされた事実もあり、又、ビルマ戦線インパール作戦では、現地師団長のみすみす兵士を死なせる事から大本営へ猛反対した事実。
以上の様な事からも、国民の立場からは真の戦犯は、この様な一部上層部の軍人ではなかったでしょうか。


(以下、その他資料を参考)
第二次世界大戦まで、今日の紛争の火種と戦争責任の平等性を考える意味で欧米の植民地支配から
1914年、第1次世界大戦が勃発した。この戦争は、19世紀末以来、植民地獲得抗争に明け暮れていたヨーロッパ帝国主義列強による世界分割をめぐる争いだった。イギリス・フランスといった早くから植民地を獲得していた国々に対して、ドイツを初めとする同盟国が再分割を求めたのである。
ドイツはアラビアに勢力を持つトルコと同盟を結んでいた。イギリスは、トルコに対して反乱を起こそうとしていたアラビア遊牧民のベドウィン族を援助する方針を固めていたとあるが、メッカ太守ファイサルは、ベドウィン族の族長であるが、定住したアラブ人とは交流があったわけではなく、当時オスマン帝国の首長の呼称はカリフであり、イスラム教徒にとっては、世俗上は君主としなければならない地位にあった。すなわち、ファイサルの擁立自体、トルコとの苦戦から生まれた苦肉のアイデアである。
1915年、イギリスの高等弁務官マクマホンは、メッカの知事フセインに対してアラブの独立を承認し、支援することを約束していた。そしてアラブ民族独立のために戦うことを誓い、情勢に詳しいトマス・エドワード・ロレンスがイギリスより派遣され、共に近代的なトルコ軍に戦い勝利に貢献します。ロレンスは第1次大戦勃発とともに、イギリス陸軍情報部員となり、その後の活躍もその職掌の範囲ではありますが、アラブ軍を指揮したのはメッカ太守の長男ファイサルであり、ロレンスではないのです。
しかし1916年に英仏間で締結されていたサイクス ・ピコ協定では、戦後、アラブとトルコの地を、イギリスとフランスで分割しようとするものだった。

第1次世界大戦中のイギリスの中東に対する「二枚舌外交」を次に示す。
1.アラブ人への約束:フセイン・マクマホン書簡(1915.7~1916.1にかけて、メッカの守
護職フセインとイギリスの高官マクマホンの間でやりとりされた手紙)
英国のオスマン トルコとの戦いへの協力の見返りに、東アラブ地方(イラク、シリア、ヨルダン、レバノン、パレスチナ)およびアラビア半島にアラブ王国建設を支持する事を約束 。
2.ユダヤ人への約束:バルフォア宣言(1917.11.2 バルフォア外相からユダヤ人の富ロ
スチャイルドへの手紙を通じイギリスのシオニスト組織へ伝えられた。)
第一次大戦におけるイギリス内外のユダヤ人の協力を得るために「英国政府がパレスチナでのユダヤ人の民族郷土を建設を支持し、努力する」事を確約した書簡を出した。

結局、「アラブ民族の自由と独立」という願いは叶えられることはなかったのです。
英国は、パレスチナという同じ札をアラブ、イスラエル双方に出したのである。第一次世界大戦終了後パレスチナはイギリスの委任統治領となったが、英国は第一次世界大戦中にした二枚舌外交の代償を払わなければならなくなる。マクマホン書簡など、アラブ独立の約束とみられる空手形もあり議会でも追求され政府答弁も苦し紛れとなった。根本原因は第1次大戦前のイギリス自由党のトルコ蔑視にあり、トルコが中央同盟に組したのもその為である。イギリスは伝統的友好国を切り捨てる時不必要な行動を伴うことがあり、これはその好例である。
第二次世界大戦終了までユダヤ人移民がパレスチナへ大量流入し、それに対するアラブ人の大反乱が起こった。第二次世界大戦終了後、英国は手におえなくなったパレスチナ問題の解決を国連に委ねた。これを受けて1947年11月、国連総会はパレスチナをアラブ、ユダヤの2ヶ国に分割し、エルサレムおよび周辺地域を国際管理下におくというパレスチナ分割案をアラブ諸国の猛烈な反対にもかかわらず、採択した。アラブ諸国はそれを不服としてアラブとイスラエルの長きに渡る中東戦争へと突入することになる。イスラエルは対アラブの戦略的重要性から、欧米、特に多数の強力なユダヤ人勢力を抱える米国の支援により、1948年5月1日独立後、次第にパレスチナ地域に不動の位置を定め、パレスチナ地域全域を手中に治めるに至る。このような国際社会の成り行きに振り回されたパレスチナ地域に元々住んでいた住民たちは悲劇にさらされたのであった。そのような中がパレスチナ人の地位向上のために立ち上がり、結成されるようになったのがPLOである。


東南アジアでは、イギリス東インド会社主導の植民地化が進み、19世紀前半にイギリスの対インド貿易が自由化されたことで、イギリスから機械製綿織物がインドへ流入、インドの伝統的な綿織物産業は破壊された。さらに、近代的な地税制度を導入したことも、インド民衆を困窮させた。こうした要因から1857年、第一次インド独立戦争(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、インド大反乱)が起こった。徹底的な鎮圧を図ったイギリスは、翌年にムガル帝国を完全に滅ぼし、インドを直接統治下においた。20年後の1877年には、イギリス女王がインド皇帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。
イギリスはインド統治に際して分割統治の手法をとった。インド人知識人層を懐柔するため、1885年には諮問機関としてインド国民会議を設けた。しかし、民族資本家の形成に伴い反英強硬派が台頭したこと、日露戦争における日本の勝利、ベンガル分割令への憤りなどから反英機運が一層強まった。こうした中、イギリスは独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させた。
第一次世界大戦で、自治の約束を信じてイギリスに戦争協力したにもかかわらず裏切られたことや、民族自決の理念が高まったことに影響され、インドではさらに民族運動が高揚した。マハトマ・ガンジーの登場は、いままで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く大衆運動にまで深化させた。ガンディーが主導した非暴力独立運動は、イギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。第二次世界大戦では国民会議派から決裂した急進派のチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、日本軍とのインパール作戦等、独立をめざす動きも存在した。


極東アジアでは、イギリスは、東インド会社を通して中国との貿易を行っていましたが、清朝の鎖国政策にはかねがね不満を持っていました。中国から茶、絹、陶磁器といった特産品を輸入するために(しかも公行を通すので値段が高い)、その対価として大量の銀を支払う必要があったからです。つまり、中国に対しては莫大な貿易赤字を抱えていたのです。イギリスは状況を打破するためにインドを利用します。インドに対して機械織りの高価な綿製品を輸出し、その代金を中国で茶を買うことにあてようとしたのです。収支バランス上、インドから中国にも何かを売りつける必要がありますが、それがアヘンでした。さすがにアヘンを公然と輸出するわけにもいかず、「公然の密貿易」という形で大量のアヘンを中国に持ち込みました。これがいわゆる「三角貿易」です。その量たるや、国家財政の4分の3にあたる金額だったといいます。一方で、1833年には東インド会社の対中国貿易権が廃止されたため、アヘンの密輸入はますます増大し、おかげでイギリスの貿易収支は一転して黒字となります。
清朝政府はアヘン禁止令を出しますが、いっこうに効果はなく、中国ではアヘンの吸引が重大な社会問題化していきます。事態を憂慮した道光帝(位1820-61)は、林則徐を欽差大臣(皇帝の勅命を受けた全権特使)として広州に派遣し、アヘンの没収・廃棄、中国人密貿易商人の処罰、イギリス商館区の封鎖など対イギリス強硬策をとります。
イギリスの監察官のチャールス・エリオットはイギリス商船達を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を出せば貿易を許す」と返した。
これに対し、イギリスは軍隊を派遣することを決定、ここにアヘン戦争が始まります。その結果、1842年に南京条約が締結され、5港の開港、香港の割譲、公行の廃止、多額の賠償金の支払い等、極めて屈辱的な条件を強いられることになったのです。また、同様の不平等条約は、フランスや米国とも締結を強いられ、中国は列強の意のままに操られることになっていきます。
さらなる貿易の拡大を求めるイギリスは、1856年、フランスとともに再び中国に出兵します(アロー戦争)。清朝はまたもや武力に屈服し、1860年北京条約でさらに屈辱的な条件を飲むことになるのです。
阿片戦争における清朝の敗戦は、清の商人によって、いち早く幕末の日本にも伝えられ、大きな衝撃をもって迎えられた。我が国が250年以上にも及ぶ平和な時代を過ごす中、世界はいくどもの戦争を繰り返し、軍事力において格段の差がついていることを認識させられたのであり、アメリカのペリーによる恫喝に屈伏せざるを得なくなり、日本は開国という決断を選択するに至るのである。そして1858年、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港が決定され、自由貿易が認められたのだが、日本側には関税自主権がなく(貿易章程)、治外法権を認めるという不平等条約つまり、日米修好通商条約に始まり、この後約一ヵ月間に、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の不平等条約を結んだ。この条約が改正されるのは、明治も終わりになってからになる。
明治維新のさなか、明治天皇は「五箇条の御誓文」を発布され、年号を慶応から明治と改め、新生日本の進むべき目標を示された。憲法(大日本帝国憲法)の制定と併せて、「条約改正」は明治政府の重要課題であった。
明治27年(1894年)陸奥宗光外相は、領事裁判権の撤廃と関税率の引き上げ、相互対等の最恵国待遇を内容とする「日英通商航海条約」の調印に成功。残された関税自主権の回復も、明治44年(1911年)小村寿太郎外相のもと「日米通商航海条約」によって達成される事となる。
一方明治以後の極東アジアの状況では、明治8年(1875年)日本軍艦が朝鮮側の江華島砲台から砲撃され、日本が報復に砲台を破壊した「江華島事件」の後、明治9年「日朝修好条規」を締結。この条規に基き、日本は、朝鮮を自立した国家として認めて開国を促した。
明治17年(1884年)には親日指導者で朝鮮内政改革をめざす金玉均、朴泳孝らがクーデター「甲申事変」をおこす。この時、日本軍は王宮を占領したが、清国軍の出動によって鎮圧。甲申事変は、日本政府の意図するものではなかった。
帝政ロシアはすでにシベリアをその手におさめ、南下政策より、沿海州、満州をその制圧下におこうとしていた、その余勢を駆ってすでに朝鮮にまで影響を及ぼそうという勢いを示していた。日本は「朝鮮の自主性を認め、これを完全独立国家にせよ」と主張していた。朝鮮半島が他の大国の属国になると、玄界灘を隔てるだけで日本は他の帝国主義勢力と隣接せざるを得なくなる。このため、1885年(明治18年)日本は全権大使、伊藤博文を天清に送り、天津条約を締結した。
「天津条約」によって、両国は朝鮮から撤兵する。
日清戦争はその様な状況下にて始まる。明治27年(1894年)東学党の乱、「甲午農民戦争」が勃発。すでに親清派に態度を変えていた閔氏一派が、清軍の派兵を要請し、清国がこれを機会に朝鮮を一挙に支配下にいれようとしたため、日本もあわてて出兵する。当時、「日英通商航海条約」が締結され、英国が日本に好意的だったこともあり、第二次伊藤内閣は清国との戦争「日清戦争」に踏み切り、豊島沖海戦が発端に開戦。9月中旬平壌の陸戦、日本連合艦隊の黄海海戦により日本は朝鮮半島を制圧し、中国東北地方に侵入、11月には遼東半島を占領し、1895年2月に日本連合艦隊は威海衛を攻略、清の北洋艦隊を壊滅させ日本は、あの巨大な清国に勝利する。翌明治28年4月には、日清間で「下関条約」が締結され、日本は遼東半島・台湾の割譲、また、賠償金を得て大陸進出への一歩を踏み出すことになった。だが、極東進出を狙っていたロシアは、ドイツ、フランスを誘って、日本に遼東半島返還の要求をせまった(「三国干渉」)のである。この三国干渉は、日本に「臥薪嘗胆」の思いを抱かせ、後の日露戦争への気概となっていく。
日露戦争はこうした日本の死活的利益が、ロシアの極東政策と衝突して起きた。当時ロシアは不凍港を有しておらず、地中海への出口を求めてまず南下政策をとった。だが1832年のエジプト事件、53年のクリミア戦争、77年の露土戦争でこれに失敗し、その結果極東に目を向けてウラジオストックを得るのである。さらに日清戦争後にはドイツ・フランスとともに「三国干渉」を行い、日本に遼東半島の清への返還を要求してこれを呑ませ、返す刀で対日賠償金2億両を貸し付けていた清と秘密条約を締結してその抵当に東清鉄道の敷設権を獲得、加えて遼東半島を25年間租借し、大連とハルピンを結ぶ東清鉄道南満州支線の敷設権を獲得する。その後ロシアは北清事変中に鉄道保護の名目で満州を制圧、さらには朝鮮半島へと食指を伸ばし、韓国の完全中立化を要求するのである。
このようなロシアの攻勢に対し、日本はある外交策を検討し、ロシアとぎりぎりの交渉をしている。いわゆる「満韓交換」である。伊藤博文が中心になり、朝鮮半島は日本の勢力圏、満州はロシアの勢力圏という形で妥結を狙ったのだ。しかしロシアはこれを拒否、日本は日英同盟を締結する道を選択する。この同盟を背景に日本はロシアに対し満州からの撤兵交渉を続ける。そしてそれが実らず、ロシアが清との間で満州とモンゴルをロシアの保護領にする交渉を開始したという情報を得たとき、両国の国交は断絶され明治37年(1904年)2月戦争が開始されるのである。
そもそもアメリカとの対立の歴史は日露戦争後まで遡る。それまで他の欧米列強と比べて新興国であったため太平洋への勢力の拡大を急いでいたアメリカは、やはり太平洋に進出しようという南下政策をとるロシアを警戒し、それに対する多少なりと障害になればよいという意味で、日本を好意的に見ていた。しかし、日本が予想以上に有利な戦いをしたことにより、中国の権益獲得を目指すライバルとして意識するようになった。日本人の移民に対する差別が行われるなど排日の動きもアメリカ国内で急激に強まっていった。また、国内で抱えていた人種問題の観点からも、日本が欧米列強と対抗して勢力を伸ばしていくことを、差別されていた有色人種が好意的に受け取った点もアメリカの白人社会では好ましく思われなかった。
それ以降、第一次世界大戦時一時的に和解する動きはあったものの、後は一貫して日本の対外進出を牽制する行動をとった。
大正3年(1914年)ヨーロッパで第一次世界大戦が起こると日本はこの期を利用して中国への勢力を伸ばしていった。また、戦争が長引くにつれ、兵器その他の軍需品の注文が連合国から殺到し、ヨーロッパの商品がアジアに供給されなくなり、日本は独占的な地位を得たため、未曾有の好景気になった。しかしこれにより都市部への急激な人口流入と貧富の差の拡大がもたらされ社会体制に不満を持つ者も急増していった。
大正8年(1919年)大戦の処理を行なうパリ講和会議において日本は、ドイツが中国に持っていた権益を確保し、国際連盟においては常任理事国となり当時の一等国に数えられるようになった。しかし、パリ講和会議で日本が提案した念願の人種差別撤廃法案は、賛成多数にもかかわらず、アメリカの反対で実現しなかった。これにより、日本は差別されてきた有色人種の利益の代表としての立場が国際的に明確になった。そういったなかで、中国では、清朝崩壊後(辛亥革命)混迷を続けていたが中華民国を軸にまとまりつつあり、本来漢民族の土地ではない満洲に割拠する軍閥がこれに呼応し徐々に日本の権益を脅かすようになっていった。これに危機感を持った関東軍は、昭和6年9月に軍事行動を起こし(満洲事変)、満洲国を建国し権益をより強固なものにした。
それ以降中国においては、日本に対抗しようという動きが強まり、一方日本国内でも軍部が政治を支配するようになり、中国との戦争も辞さずという意見が強まっていった。まさにマッチ一本投げ入れれば爆発しそうな緊張感が続く中、支那事変は昭和12年(1937年)7月、廬溝橋において軍事衝突が起こった。日本は短期間で決着させる目論見であったが、中国の抵抗も激しく、結果として全面戦争へと発展していった。
この中国との戦争が拡大していくことと平行して、太平洋をはさむ反対側のアメリカとの対立も顕在化し、多方面で色濃く影響を及ぼしていった。

9月6日、御前会議が開かれて「帝国国策遂行要領」が決議された。これは、「大日本帝国が対米戦争を辞さない決意で、10月下旬までに開戦準備を行なう」、「それと平行して、米英との外交手段を尽くす」、「外交手段が10月上旬までにめどが立たなければ、対米開戦を決定する」というものであった。
10月16日、戦争遂行に自信のない近衛首相が退陣し、東條内閣が出現した。
陛下は先の御前会議の決定を白紙に戻し、戦争準備と外交を並行せしめず、外交を優先させよと仰せになり、再度平和の道を探求するようにお命じになった。これが有名な「白紙還元の御諚」である。それまで東條首相は、先に決定した帝国国策遂行要領により、陛下も交渉不調の場合は戦争突入も已むなしと御理解遊ばされていると思っておった。謹厳実直な東條首相は、白紙還元の御諚を承り、顔面蒼白になって退出し、「たいへんだ陛下は戦争に反対であらせられる」と早速閣議を開き、前の決定を白紙に戻して真剣に戦争回避の方策を検討し直した。
当時、日本は、アメリカ(America=A)・イギリス(Britain=B)・支那(China=C)・オランダ(Dutch=D)による、いわゆる「ABCD包囲網」と呼ばれる対日経済封鎖網によって、石油・ゴム・タングステンと言った資源のほとんど全てを供給停止(禁輸)されていました。つまり、日本には外から、工業生産は元より日々の生活に必要な資源が何一つ入ってこない状況に立たされていたのです。
そんな状況下にありながらも、日本は日米戦争を回避すべく、ぎりぎりの条件を提示して日米交渉の妥結を願ったのです。その条件「甲案」とは、
[甲案](概要)
1.日支(日本と支那)間に和平が成立した暁(あかつき)には、支那に展開している日本軍を2年以内に全面撤兵させる。
2.支那事変(日華事変・日中戦争)が解決した暁には、「仏印」(フランス領インドシナ=現・ヴェトナム)に駐留している日本軍も撤兵させる。
3.通商無差別待遇(自由貿易)が全世界に適用されるなら、太平洋全地域と支那に対してもこれを認める。
4.日独伊三国同盟への干渉は認めない。
と言った内容であり、更に、「甲案」での交渉決裂に備えて、日米戦争勃発を未然に防ぐ為の暫定協定案として「乙案」も用意したのです。
[乙案](概要)
1.蘭印(オランダ領東インド=現・インドネシア)での物資獲得が保障され、アメリカが在米日本資産の凍結を解除し、石油の対日供給を約束した暁には、南部仏印から撤退する。
2.更に、支那事変が解決した暁には、仏印全土から撤退する。

要は、日本に対する経済封鎖が解除され、石油等の資源が供給されるのであれば、資源確保の為に南方(仏印や蘭印)へ進出する必要性が無くなる。それと引き替えに、日本も、支那・仏印からの全面撤退に応じる、と言っているのです。
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速報、F1グランプリ、オール・ホンダ39年ぶりの優勝!

2006-08-07 05:35:25 | F1グランプリ
ホンダレーシングF1チーム(ジェイソン・バトン)待望の優勝
2006年より、ホンダがチームを買収し、BARからホンダへ名称変更以下の体制で挑む
代表 ニック・フライ
COO イアン・ロス
技術主任 ジョフリー・ウィリス
上級技術主任(チーフ・ディレクター) 中本修平 (2006.6.20 就任)
ドライバー ジェイソン・バトン(英)
ドライバー ルーベンス・バリチェロ(ブラジル フェラーリから移籍)
テストドライバー アンソニー・デヴッドソン
招待参加 ジェームズ・ロシター
マシン RA106

F1・2006、ハンガリーGP(ハンガロリンク)全長:4.381km  決勝:70ラップは、14番グリッドからのスタート、ジェイソン・バトンが徐々にポジションをアップ。53周目にトップに立つと、2位に30秒以上の差をつけ、そのまま1時間52分20秒941で逃げ切った。オール・ホンダのワークス、ホンダレーシングF1チームが今期13レース目の優勝・第三期参戦初優勝・ドライバー=ジェイソン・バトン(英国)は2000年オーストラリアGPのデビューから117戦目での初優勝、コンストラクターとしては実に1967年第9戦のイタリアGP(モンツァ)でジョン・サーティース(英国)以来39年ぶり(第1期64~68年の2勝・単独参)3勝目、エンジン供給メーカーとしても、1992年第16戦オーストラリアGP以来14年ぶり(第2期83~92年の69勝)エンジン供給を含めて通算72勝目、悲願の優勝である。
コースは道幅が狭い上に、大小合わせて20ほどの曲がりくねったコーナーが配置され、直線はホームストレートだけといっていいほどのオーバーテイクポイントの少ない低速サーキットにて行われた。

初日、アロンソは午後のセッションで、レッドブルのテストドライバーのロバート・ドーンボスにブロックされたとして、怒りをあらわにしていた。その後、ドーンボスの前に出ると、あからさまにブレーキテストを敢行。結果、スチュワードに説明を求められていた。声明によると、ワールドチャンピオンの奇妙な行動は、“不要なものであり、容認できない事から、大変危険な行為だった”との事。更に、アロンソはイエローフラッグが振られている時にもオーバーテイクをしていたという。結果、ドーンボスへの行為に対し、1秒、イエローフラッグ中のオーバーテイクに対し、1秒、合計2秒が予選の各セッションでマークした最速タイムに加算される事になった。

2日目予選でのホンダレーシングF1チームは午前11時からのフリー走行では、開始後23分にバトンのマシンが後部から炎を噴き上げて、コース上にストップしてしまう。約15分間のレッドフラッグ中断後、セッションが再開され、バリチェロは4番手のタイムだった。
午後2時からの予選は、気温23℃、路面温度33℃というコンディションで始まった。ジェイソン・バトンのトラブルでレッドフラッグが出た直後、かなりスピードを落として徐行していた(レッドフラッグが出た場合は、アクシデントや路面状況の悪化などにより、セッション続行が危険と判断された場合に振られます。フリー走行や予選、レースは一時中断され、ドライバーたちは安全確保のために全車、追い越し禁止、追い抜き禁止、最徐行でピットへ戻らなければならない。)フェルナンド・アロンソを、ミハエル・シューマッハが抜いてしまった訳で、レッドフラッグが出たときのオーバーテイクは( )内のルールより、禁止されていますから、シューマッハの行為はレギュレーション違反と見なされ、予選の各ピリオドのタイムに2秒加算されるペナルティを受ける事になった。これはアロンソに科されたペナルティと同じ様なものなのだが、今日のシューマッハは予選のQ2(Qualify2)で1分18秒875という速いタイムを出すなど、いいパフォーマンスを見せていただけに残念な事である。このアクシデントはレーススチュワードによって調査され、シューマッハも事情説明のため呼び出しを受けた結果、シューマッハにはアロンソと同じく、予選の各セッションでマークした最速タイムに、2秒が加えられるというペナルティを科せられることになった。
しかし、ハンガロリンク・パドックの最新の見解によると、ミハエル・シューマッハ(フェラーリ)が“レッドフラッグ”時にオーバーテイクし、ペナルティを科せられた件にはフェルナンド・アロンソ(ルノー)が関係しているとの事。土曜日午前のフリー走行3回目、ホンダ・レーシング・F1のジェンソン・バトンがエンジントラブルに見舞われ、コース脇でストップ。その影響でレッドフラッグが振られたのだが、その間に1台のマシンが他のマシンをオーバーテイクした。そのマシンをドライブしていたのが、7度の世界チャンピオンに輝いたシューマッハだったのだが、初日の行為に対し、すでに予選各セッションでマークしたタイムに2秒が加算されるという、ペナルティが決定していたアロンソが、意図的にマシンのペースを遅くし、シューマッハのオーバーテイクを誘ったと見られている。そのシューマッハには、予選開始直前、アロンソと同じペナルティが科せられることが決定していた。
第1セッションは、M・シューマッハ(フェラーリ)、F・アロンソ(ルノー)が、フラッグ違反から、それぞれ2秒加算のペナルティを受けたため、バトン3番手、バリチェロ6番手で通過。続く第2セッションでは、上位陣が次々と1分19秒台に突入する。バリチェロ、バトンも1回目のアタックで1分19秒台後半のタイムを出し、第1セッション同様に、M・シューマッハ、F・アロンソのペナルティにより、3、4番手で最終セッションへと進んだ。
2人の速さはこのセッションでも変わらず、1度目のピットイン直後のアタックでバリチェロが2番手、バトンが5番手のタイムを出す。そしてセッション終了間際、ルーベンス・バリチェロは、こん身のアタックで1分20秒085をマークし、サンマリノGP以来、3番グリッドを獲得。ジェイソン・バトンもそこからわずか1000分の7秒落ちのタイムで、4番手だった。しかし予選前にエンジン交換を行ったため、明日のレースは14番グリッドからのスタートとなる。
パナソニック・トヨタ・レーシングのR・シューマッハが5番手、J・トゥルーリは11番手タイムで第2セッションへ進んだ。
僅差(きんさ)の争いとなった第2セッションでは、J・トゥルーリが8番手、R・シューマッハが9番手で最終第3セッションへ進出を決めた。
最終第3セッションでは、パナソニック・トヨタ・レーシングの2台は終盤に1回のみのタイムアタックを行い、R・シューマッハが7番手、J・トゥルーリが9番手のタイムをマーク。他車のグリッド降格のため、暫定ながら、明日の決勝は、それぞれ6番手、8番手グリッドからのスタートとなった。
スーパー・アグリF1チームは、佐藤琢磨がミッドランドの1台をしのぐ、20番手タイムを記録。山本左近は22番手だった。

決勝レースは想定外の雨の中で序盤から荒れ模様。(この様な状況下でも得意としたアイルトン・セナや日本の中島悟の以前のレースぶりが思い出される)
スーパー・アグリの新鋭山本左近は 1周もできずにアウト。11番グリッドのスタートだったフェラーリのM・シューマッハは 16周目にフィジケラのマシン後輪と接触してノウズを失うミスがあったがピットで交換して走行を続けた。
マクラーレンのライコネンはポールスタートから快調に上位を走行したが、 26周目にトロ・ロッソのリウッティに後方から追突してマシンを大破させ、リタイアした。 セーフティーカーが導入されて全車の距離が縮まり、トップを快走するアロンソのマージンは消え、周回遅れになったM・シューマッハのビハインドは帳消しになった。しかし、シューマッハは再スタート後に珍しくスピンして順位を落とす。 ルノーのアロンソは首位に躍り出て好調に走り続けたが、残り 19周で乾いてきた路面に合わせてドライタイヤに履き替えてコースに出るもマシンは挙動を失い、まともに走れずコースアウト、マシン後部をタイヤ・バリアーに激突リタイアした。
首位に立ったホンダのバトンは残り 16周でドライタイヤに履き替えたが、5秒代のピットストップ後、問題なく走り続けて悠々首位を守った。バリチェロは 4位だった。
シューマッハは2度のピットストップのみで唯一、ウェットタイヤにて走り続け、直線では早く、2位となるマクラーレンのP・デラロサの追撃を凌ぎ、ポイント獲得を目指したが、残り 3周で遂にパスされ、直後ショートカットしたが、3位となったBMWのN・ハイドフェルドにも抜かれ直後、マシントラブルが発生してガレージへ戻った事で、チェッカーを受けることはできなかったが、9位で完走扱いになるも、ポイントは取れなかった。
ハンガリーGPで、F1デビューを果たしたBMWザウバーのロバート・クビカにとっては、とてもタフなレースだったが、非常にスリッピーなコンディションで、何度かスピンを喫したにもかかわらず、チームに7位入賞をもたらしたのだが、残念ながら、レース後の重量計測で、マシンが規定より2kg軽いことが判明した為、スチュワードは、クビカの7位という結果を無効にし、8位だったフェリペ・マッサ(フェラーリ)が7位に、リタイアしたミハエル・シューマッハ(フェラーリ)が8位に繰り上がり、1ポイントを獲得した。タイトル争いが佳境に入ったこの時期に、この1ポイントはシューマッハにとって非常に価値のあるポイントと言えるだろう。今シーズンも残りはわずか5戦だが、クビカのレース結果無効処分により、フェルナンド・アロンソ(ルノー)のリードは10ポイント、フェラーリに対するルノーのアドバンテージは、7ポイントに縮まっている。
トヨタはトゥルーリが残り 5周でエンジン故障により、マシンを止め、13位。R・シューマッハは 6位に入賞した。スーパー・アグリの佐藤は 14位。

ここまでのコンストラクターズ・ポイントは
1位/ルノー・149、2位/フェラーリ・140、3位/マクラーレン・85、4位/ホンダ・52、5位/BMW・28、6位/トヨタ・26
総合ポイントでは
1位/F・アロンソ・100、2位/M・シューマッハ・89、3位/F・マッサ・51、4位/K・ライコネン・49、5位/G・フィジケラ・49、6位/J・バトン・31、となった。

表彰式ではモーターファンには感動の「君が代」が流れ、優勝杯がホンダとバトンに授与された。

福井威夫 本田技研工業株式会社 代表取締役社長のコメント
「今日の勝利は、何事にも変えがたい喜びです。今シーズンは緒戦から優勝を目標にやってきましたが、ようやく十三戦目のハンガリーGPで、正々堂々と戦った結果勝利をつかめて、大変嬉しく思います。ドライバー、チームのメンバーも本当に良くがんばってくれました。今日はこの勝利を皆で喜び、そして明日からは、F1の世界で勝利を重ねて行くために、再びチャレンジして参ります。これまで応援してくださった皆様、ありがとうございました。引き続きご声援をよろしくお願い致します」

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亀田興毅 WBA世界ライトフライ級タイトルマッチとその他の世界戦

2006-08-03 04:52:04 | スポーツ
昨日の亀田選手のタイトル奪取はまずは、良かった事ではありました。内容は、正直良くてドローの様にも思えましたが、以前のヘビー級の採点方法であったのが、幸いしたのではないでしょうか。しかし、あの若さで、1ラウンドにダウンを取られ、精神的にも厳しい状況ではあったにも拘らず、最終ラウンドまで踏ん張った事は、立派であり、今後の彼の大きな財産にして貰いたいと思います。
ライトフライ級では、選手層も薄く、フライ、バンタムになれば強豪が多く、油断は出来ない戦いが待っている事は間違いはないでしょう。特に中南米のボクサーは、バネとスピード、リズム感があり、パンチャータイプの選手はウィービングやダッキング等も上手く、バランスが良い為、何処からでもパンチを打ち続けて来るであろう事から今回の様な、足を使わない接近戦での亀田選手の戦い方で、ボディへのパンチは効果的ではありましたが、反面単調な正面での攻撃や防御になれば危険な事になりかねないと考えます。
過去絶対不利と思われた日本選手の世界タイトルマッチで見事勝利した試合では、黄金バンタムのエデル・ジョフレVSファイティング原田、歴代フェザー級最強チャンピオンといわれたビセンテ・サルディバルVS柴田国明が記憶に残っていますが、亀田選手にもスタミナ面の強化も含め、最強の選手を倒してこの様な先輩を越えて今後のこのクラスでの防衛を重ねて頂きたいと願っております。

以下の記事は、亀田弟の試合後に。以前あるブログにコメントしましたものです
私も試合を見ましたが、最近の世界及び日本の状況は分かりませんが、以前の世界レベルの観戦記憶から思いますに、弟の方は荒削りで、それよりも対戦相手のお粗末さが問題で、無駄な動き、スピードの無さ、ワンパターンなスタイルからのオフェンス・ディフェンス面の技術の無さが試合の盛り上がりを消してしまいます。又、今後の弟の試合でのディフェンス面での教訓にもならないマッチメークの問題が、先の事を考えると影響が大きい様に考えます。
兄は戦績面では素晴らしくまずはソコソコにはあると思いますが、ハッキリ未だ未知数ですね。それは、やはり今までの対戦相手が骨のある選手が私の見る限りでは、いないのではないでしょうか、やはり真の世界トップレべルでは、当然、自分のパンチ力・技術に基づいた勝ちパターンと相手の弱点を見据えた嫌な戦い方をしてくるはずですので、その様な恐怖を感じる相手で自分の流れに持ち込める事が出来るのか、またスタミナを維持出来るのかが課題となるでしょう。
それから、ホームタウンデシジョンでは、日本国内の世界戦での判定はなんとか勝利が多い感はしますが、明らかにおかしいと思えた試合は、フェザー級で柴田国明対エルネスト・マルセルのドロー試合でマルセルのリーチを活かしたバランスのいい何処からでも放つスピードのある強烈なパンチに、攻撃どころかディフェンスもままならなかった試合は試合後の両者の状態が物語っていましたし、何より柴田選手本人が知っていたと思いますよ。この、マルセル選手は母親の反対でボクシングを引退、タイトルを返上した変った経歴の選手でした。又、海外では原田とジョニー・ファーメションの試合が誤審と今でも思っています。長々とコメント申し訳ありませんでした。
 

次に、シュガー・レイ・レナードの時代から人気が追いやられ、そしてマイク・タイソンで少しは盛り上がったヘビー級の試合ではありましたが、やはりしばらくは、鳴りを潜めていましたが、最近面白くなってきた様にも感じられ、あえて記載いたしました。
ヘビー級には大きな選手であるウラジミール・クリチコ、現IBF/IBO統一世界ヘビー級チャンピオン、戦績49戦46勝41KO 3敗。ビクター・クリチコ、前WBC世界ヘビー級チャンピオン、戦績37戦35勝33KO 2敗(身長202cm、リーチ200cm)兄弟の活躍等、新しい風が吹いており、何故なら過去、ヘビー級では大男の世界チャンピオンは大成が出来ず、代表的なチャンプとしましては、アメリカ白人のジェス・ウィラードは2m近い大男であり、黒人初の世界ヘビー級王者ジャック・ジョンソンを26ラウンドKOで倒し、タイトルを奪ったことで、一躍全米のヒーローとなるが、当時白人がどうしても勝てない上にオーストラリア出身の白人女性と結婚をする事で多くの白人社会を敵にしてしまった、ジャック・ジョンソン(同姓同名の元サーファーでミュージシャンの方ではありません)に勝たせる為の八百長試合の疑いがかかったタイトルマッチではあった。(この事の真相はジャック・ジョンソンの伝記映画「ボクサー」にも描かれ製作されており、当時の社会問題を描き必見の作品でもあります)やがて2度目の防衛戦で、デンプシーのパンチにめった打ちにされた末、3ラウンドに倒される。この試合は「トレドの惨劇」と名付けられ、近代ボクシング史上最も凄惨な試合とされる。戦績36戦24勝21KO 7敗1分4無判定。
ジャック・デンプシーは「マナッサの巨人殺し」「拳聖」などの異名を持ったアメリカ白人のボクシング世界ヘビー級王者。本名はウィリアム・ハリソン・デンプシー(William Harrison Dempsey)。
185cm、85kgとヘビー級では大きいとは言えない体ながら並みいる大男たちを破壊的な強打で次々とマットに沈めていき、ジーン・タニーとのロング・カウント事件やジョルジュ・カルパンチェとの史上初のミリオンダラーゲートを成功させた様に、数々の話題を提供し、人気は大統領を凌ぎ、後に女優と結婚する。戦績83戦 62勝 50KO 6敗 9引分け 6無効試合。
二人目の大男、プリモ・カルネラはイタリア生まれのプロボクサー。ニックネームは動くアルプス、身長198cm・体重118kgの体格であったが、10cm近くも背の低いマックス・ベアに一方的に殴られ続けた結果11R TKO負けをしました様に、ウィラードと共に何か弱い面を出す傾向がある様でした。
その後は防衛25度の世界記録を持ち、ジョンソンやアリとは異なり、白人社会に自ら溶け込み、当時ナチス・ドイツとの仮想の戦いとされたドイツの前世界ヘビー級チャンピオンのマックス・シュメリングとの戦いをし、アメリカの国民的英雄にもなったジョー・ルイス、本名はジョセフ・ルイス・バローで、ニックネームは「褐色の爆撃機(The Brown Bomber)」身長187cm、体重89kg、戦績70戦 67勝 53KO 3敗。
映画ロッキーのモデルとなる、「ブロックトンの破壊者」の異名を持ち、ロッキー・マルシアノ180cm・83kg、本名はロッコ・フランシス・マルケジャーノという名前からも分かるとおりイタリア系アメリカ人である。(実在のロッキーは映画より強力なボクサー)破壊的パンチ力・タフネスを兼ね備え、6度の防衛後、「もう戦う相手はいない」という名ゼリフを残しヘビー級史上唯一無敗(49戦49勝43KO無敗)で引退し、1969年8月31日、飛行機事故にて他界。
近代では、カシアス・クレイ後のモハメド・アリ の様にヘビー級に、かってないスタイルのフットワーク・スピード・スタミナ、ジョージ・フォアマンの様なパワー・パンチ力、マイク・タイソンのスピード・パンチ力、等85~100kgの体重で、他の選手より優れたものを兼ね備えたチャンピオンが歴史とスタイルを創ってきたのですが、最近では、旧共産国の東欧諸国やロシア、ウクライナ出身(クリチコ兄弟)の大きな選手がアメリカ黒人優先のヘビー級を崩し、活躍しており、現在最強となる、ニコライ・ワルーエフ, 戦績45戦44勝 32KO 1NC 無敗 は、ロシア連邦のサンクトペテルブルク出身の現WBA世界ヘビー級チャンピオンとなっている。全階級を通じボクシング史上最長身(213cm)、最重量(147kg)リーチ( 216cm)の巨人王者で、過去の常識を覆した代表的な選手でもある試合を是非観戦したいものです。


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