西洋と東洋の狭間

何かにつけ軌道修正の遅い国で有るが一端方向転換すると、凄い勢いで走り出し今までの良き所まで修正してしまう日本文明

ディープインパクトよ「凱旋門賞」へ

2006-06-29 04:35:53 | 世界の競馬
ディープインパクトよ「Prix de I‘Arc do Triomphe」を取れ!私が知りえた、1971年の菊花賞、ニホンピロムーテーが勝った競馬から、今日のハーツクライそしてディープインパクトまでの日本競馬会所属の競走馬を考えますと、過去関西三強の一角、「四白流星の貴公子」タイテェム、気性難ではあるが切れ味の鋭いイシノヒカル、最初の競馬ブームの立役者・地方からの「怪物」ハイセイコー、そのライバルのステイヤー・タケホープ、日本競馬界最初のシード馬、ガキ大将のキタノカチドキ、根性の逃げ馬カブラヤオー、最強世代と言われた、「天馬」トウショウボーイ、そして関西の勇、杉本アナウンサーの実況で有名な「見てくれこの脚」の「悲運の名馬」テンポイント、遅咲きのステイヤー・グリーングラス、次の世代では、脅威の三冠馬ニジンスキーの持ち込み馬「超特急」マルゼンスキー、ここまでの日本を代表する競走馬では、世界一流の視野から見れば、格差はあるが日本国内的には発展期と考える。
(凱旋門賞に挑戦した日本馬の成績、スピードシンボリ10着・メジロムサシ18着)

次に、4歳時では絶対的強さを誇り、シンザン以来待望の三冠馬(父内国産馬では唯一)トピオの底力を継いだミスターシービー、次代に同じく無敗の三冠馬「皇帝」シンボリルドルフ・・・ディープインパクトの出現までは、日本競馬史上最強と考えられた。
「白い稲妻」タマモクロス、日本のバブル期に、二回目の競馬ブームを起こした、平成の三強から前記タマモクロスの好敵手でもあり、地方笠松の勇「灰色の怪物」オグリキャップ、長距離の鬼であるスーパークリーク、繊細な大井の勇イナリワン、そしてアイネスフウジン、春の天皇賞連覇、三代続けての天皇賞制覇等、当時最強のステイヤー・メジロマックィーン、メジロライアン、次世代の二代目皇帝、そして「奇跡の復活」を果たしたトウカイテイオー、戸山流調教の快速の逃げ馬・ミホノブルボン、「淀の刺客・レコードブレイカー」ライスシャワー等の活躍があり、ここまでがトレーニング施設や規模の大きな馬産施設等の充実もあり、日本国内的安定期とする。
(凱旋門賞に挑戦した日本馬の成績、シリウスシンボリ14着)

1990年の初頭から、超良血種牡馬の購入から日本国内産馬の能力が数段上がった様に思われる。何故なら、それぞれの馬のレベルが上がった中で均衡する事からも、なかなか抜きん出た馬の出現が困難になると同時に各レースの走破タイムが、格段に早くなっており、何より世界的大レースの日本馬の活躍が物語っている。
ウィニングチケット、ビワハヤヒデ、や三冠馬「シャドーロールの怪物」ナリタブライアン、並びにグラスワンダー、ジャパンカップで凱旋門賞馬のモンジューを寄せ付けず勝利したスペシャルウィーク、凱旋門賞に出走し日本馬最高位の半馬身差の2着にきたエルコンドルパサー、次の世代での七冠馬テイエムオペラオー、それにアグネスタキオン、ジャングルポケット、史上最高のレイティングに輝いたシーバードの血を受け継ぐ良血馬タニノギムレット、次にネオユニヴァース、ゼンノロブロイ、世界レベルの血統の導入による世界的発展期と考えます。
(凱旋門賞に挑戦した日本馬の成績、エルコンドルパサー2着・マンハッタンカフェ13着・タップダンスシチー17着)※但し、その他世界的G1レースに優勝、入賞を多く出す。

そして変則二冠馬で驚異のダービーレコードを樹立したキングカメハメハ、その時の2着馬でジャパンカップではアルカセットの日本レコードにタイム差なしの2着又、唯一ディープインパクトに脚質変更から本格化し黒星をつけ、勢いその次の世界G1レース、ドバイシーマクラシックでは、上がり33秒の破格の時計を出し、4馬身差で圧勝し、次走キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスに勝利を狙うハーツクライの出現に至っており、勿論、ディープインパクトの能力も私が今まで見てきた多くの馬の常識をはるかに越えており、3角から最後尾に近い位置から、ほとんど馬なりの状態で上がり4角を回り直線に向くまでには先頭に近い位置まで進出し、直線を向いてからは、信じられない上がりのタイムで証明される様に他馬を圧倒するスピードで先頭に踊り出て、突き放す競馬は、とてつもない長く、切れる脚を計った様に使い、又その様に競馬をよく知っている事は、賢く且つ、身体能力、心肺能力が共に優れている事を毎度の如く実証しており、プラスこの馬独自の安定した走法も味方となっている事からも、今年の結果次第ではあるが、長年の夢でもある世界最高峰の伝統のレースである、凱旋門賞に勝利し、正に名の如く世界に「衝撃」をもたらし、世界に肩を並べる記念すべき年となる可能性が多いにあると考える。

よって、日本の至宝から世界の至宝となり、世界から種牡馬の墓場とまで言われた日本の競走馬生産(日本の馬の生産を護る事から、外国産馬の出走の規制又、日本馬の能力からのリスクを考え、海外挑戦が極端に少ない事等から、素晴らしい種牡馬を有していても、その子や種牡馬の世界的評価が困難になり、色んな意味からも海外からのオファーがなくなり、サラブレッドの血統が日本国外に流出する事がなくなる理由より)が世界の生産国へ恩返しをする意味からも、ディープインパクトを海外で供用させる事で、より広くの世界でこの素晴らしい血統を残したい思いがするのであるが。

前哨戦となる宝塚記念から
阪神競馬場は、午前中から雨が降り続き、馬場状態はやや重。過去10年で良馬場が4回しかない凱旋門賞に向けて、格好のリハーサルとなった。
6月25日=京都・G1・芝2200メートル・3歳上・出走13頭
ゲートは珍しく横並びでスタート。あとは後方で待機し、前半はゆっくりで、いつも通り3コーナーから動いた。勝つことを義務づけられた一戦で、日本の至宝が輝いた。3コーナーすぎの坂を下り終え、武豊騎手は残り700メートルで満たされたパワーを解き放つ。手綱を緩められたディープインパクトは、闘争心を一気に爆発させた。「走りたいというそぶりをしたので、ゴーサインを出した。「もういいよ」という感じで。直線は気持ちが良かったですね。また飛んでくれました」。武は10度目の至福の時間を過ごした。逃げたバランスオブゲームを直線半ばでとらえると、あとは引き離すだけ。後方の蹄(てい)音が遠ざかり、聞こえなくなったところが栄光のゴールだった。馬場の大外を駆け抜け、力でねじ伏せようとするインパクトを、8万人の歓呼の風が祝福した。
ディープインパクト(牡4、栗東・池江泰郎)が前走に引き続き次元の違う、圧勝劇を披露した。2着に4馬身をつけ、通算戦績も11戦10勝2着1回となり、国際GI宝塚記念を勝って最速で獲得賞金10億円ホースとなったディープインパクトが、10月1日の凱旋門賞(仏G1、芝2400メートル、ロンシャン競馬場)に向けて大きく弾みをつけ、この秋、世界を震撼させる。2着にはナリタセンチュリー、3着にはバランスオブゲームが入った。それにしても宝塚記念当日は、これまで以上に落ち着き払っていた。「先生(池江郎調教師)がそういう調教をしてきた成果が出てますね。たくさんのサンデーサイレンス産駒を担当しましたが、なかでも精神面は強い。環境が変わってもタフだと思ってます」と信頼は揺るぎない。ディープインパクトの評判はフランスにも届き、現地からも宝塚記念に取材に来ており、レース終了後には、米、仏のメディアも余裕で試走を終えたなどと伝えている。
渡仏日程や受け入れ厩舎なども詰めの段階に入っており、いよいよ本格的に動き出す。

ここで、凱旋門賞に出走予定の世界の強豪を見る。
ディープインパクトにとって最大のライバルと目される昨年の凱旋門賞馬ハリケーンラン(牡4、仏)「今年はタタソールズGC(G1)1着、サンクルー大賞典2着、通算9戦7勝2着2回」、のK・ファロン騎手(41)は、対決を楽しみにしている。01~02年には、短期免許を取得して日本で騎乗した経験もある。インパクトの宝塚記念圧勝を受けて「(インパクトが)凱旋門賞に来ることは春から聞いていた。待っている」と闘志を燃やしている。
IFHA(国際競馬統括機関連盟)が決めるワールドリーディングホースの世界1位は現在、北米最高峰の芝のレース・ブリーダーズCターフの昨年の覇者でレーティング125のシロッコ(牡5、仏)「今年はジョッキークラブS(G2)1着、コロネーションC(G1)1着通算5戦3勝3着1回4着1回」、主戦のC・スミヨン騎手(25)は、凱旋門賞でのディープインパクトとの対戦を心待ちにしている。「日本馬が年々強くなっているが、その中でも飛び抜けた存在。迎え撃つよりも挑戦する気持ち。(宝塚記念を)負けてから来てほしくなかったので、勝って良かった」。今季は英重賞2連勝のシロッコは、凱旋門賞の前にキングジョージ6世&クイーンエリザベスDSでハーツクライと対戦する。
この2頭は凱旋門賞最多6勝のA・ファーブル調教師の管理馬だけに特に怖い。だが、それ以上に同じ日本のハーツクライの方が強力かもしれない。先にも書きました様に、初の海外レースとなったGIドバイシーマクラシックを圧勝。心身とも一段と成長し、充実期を迎えている印象だ。又シーズンは始まったばかりで3歳の勢力図は不明だが、ディープにとっては1歳若い世代のトップクラスも要注意だ。
短期免許を13年連続で取得し親日家として知られるO・ペリエ騎手(33)は、まるで自分のことのようにディープインパクトの宝塚記念の快勝を喜んだ。「素晴らしいことだ。ヨーロッパのホースマンにどれだけ強いかよく聞かれるが、日欧で乗ってきて、これほどの馬は見たことがないと伝えている。凱旋門賞で、それが証明できるのでは。日本に世話になってきたし、できることがあれば協力したい。無事にゲートインしてほしい」。96~98年の凱旋門賞3連覇を達成し、日本馬の実力を最も知る男はインパクトの世界制覇を確信している。
(以上、関係者のコメントは日刊スポーツ紙を参照)
8月9日現在、先の7月29日でのキングジョージⅥ&クィーンエリザベスDS出走した、ハリケーンランは一着、ドバイワールドC優勝馬、エレクトロキューショニストは二着となっています。

ロンシャン競馬場
フランス共和国、イル・ド・フランス地域(Île-de-France)、パリ市(Paris)。パリ西のブーローニュの森 にあります。4~7月の春開催と、9~10月の秋開催があり、欧州最高峰のレースである凱旋門賞が行われる10月 の第1日曜日には世界中から競馬ファンが集まります。  
右回りの芝コース。大回りは1周2750m、中回りは1周2500m、小回りは1周2150m。新コース は1400m、直線コースは1000m。幅55m。直線は第1ゴール板まで533m、第2ゴール板まで650m。競走距離は1000m~4000mで、46箇所の発走地点があります。  
凱旋門賞の行われる2400mのコースは、第1コーナーと第2コーナーの外にあるポケットからスタートします。スタート後400mは、ほぼ平坦。400m~700mまでは2.4%の上り勾配。1000m地点(第3コーナー)までさらに上り(頂上の高低差は約10m)、第3コーナーから1300mまでは3%の下り勾配。その後、1520m地点まではさらに下り、そこからゴール板まではほぼ平坦となります。

凱旋門賞の年齢別勝利数は3歳52勝、4歳以上32勝と3歳馬が断然強い。負担重量の差が大きいのが理由のひとつだ。現在は3歳牡56キロ、4歳以上59.5キロ(牝馬各1.5キロ減)と、同時期の日本が2キロ差なのに対し、3.5キロもある。

また、インパクトが目指す凱旋門賞(仏G1、芝2400メートル、10月1日=ロンシャン競馬場)日本での放映は、NHKで生中継される予定となった。放送時間などは決まっていない。

ある意味、日本のサッカーW杯での優勝、以上の歴史的瞬間を見る事になるかもしれない事からも、競馬に興味のない方でも見られる事を是非お勧め致します。

W杯・ドイツ大会、本戦(日本VSブラジル戦)1-4

2006-06-23 09:40:12 | スポーツ
W杯・ドイツ大会、予選リーグ最終戦、対ブラジル戦は後のない追い詰められた日本の精神状態、又勝たなくてはならない戦術からも予想された通りの結果となりました。この事は初戦が絶対勝利と関係者が言っていた事からも、予選突破の筋書きのくるいがすでにオーストラリア戦の敗退から生じ、日本代表チームに重く圧し掛かったものが要因の一つと考える。
この試合が、決して今の日本の実力とは、考えられないのであり、これが前回のフランスやイタリアにも言える様にワールドカップの恐さではないだろうか。
あえて、今日の試合の勝手な反省をするならば、連日の暑い中での試合の影響が少なからずあったのか、大事な試合の割りには、動き、スピード、精度が落ちていた様に思われた。
そんな状況下で、前半戦こそ危ない場面はあったが、先制点もあり、同点にはされたが、互角に近い戦いを進めていたと思われたのだが、ポゼッションサッカーでは身体能力や個人技に優るブラジルに、日本が同じ戦術では到底勝ち点を取るまでは、無理な事と思われ、後半戦は日本がしなければならないサッカーを逆にブラジルにさせてしまった感がした。
日本のディフェンス面では、中盤で奪われ、ラインを引きすぎるところからプレスをかけるも、個人技からドリブルで抜けられたり、マークが徹底されていない為、裏を取られ、簡単にしかも精度の良いクロスやスルーパスからシュートされる。
引き気味からの攻撃ではカウンターも効果的だが、サイドへの上がりは出来ない上、FWへのポストプレイもつながらない。しかし、サイドからのパスやドリブルでの上がりはあったのだが、今回スピードがあり、且つ厚いブラジルのDFは崩されなかった。

以上の様な、個人的な感想ではありましたが、ただ焦りからか、日本の良さでもあるコンパクトで早いパス回しからの攻撃やラインの裏をつく早い攻撃が見られなかったのが残念ではあったが、まずはジーコ監督、代表選手達、スタッフにはご苦労様でした。

サウンド・オブ・ミュージック 「ザルツブルグを舞台の不朽のミュージカル映画」

2006-06-21 20:14:01 | 映画
トラップ一家の足跡
トラップ一家は実在の人物で、1880年にゲオルク・フォン・トラップはオーストリアに生まれる。1905年にはマリア・オーガスタ・クチェラがオーストリア、ウィーンに生まれる。生まれて直ぐに母を亡くしたマリアは父の手で親戚に預けられるが、その父も9歳の時に失う。やがて預けられていた親戚との関係が悪くなり彼女は家を出て全寮制の学校に入る。元々音楽好きだった彼女は、青年達のグループに入りオーストリア民謡を習い、音楽を聴く目的の為にカトリック教会のミサに預かっていたのだが、キリスト教にひかれる様になり、信仰を極めたい事からザルツブルグにある女子ベネディクト協会のノンベルク修道院に志願者として入ったのだが、修道院の暮らしに馴染めず体調を崩してしまう。1926年、その事から院長の進めで修道院を離れ、娘の家庭教師を探していたトラップ家に住み込みで働くことになった。母をなくした七人(二男五女)の子供達がいたのだが、音楽好きの子供達とは心を通わせる様になり、ハイキング、サイクリングやバレーボール、ダンス等子供達との楽しめる様な事やその様に過ごす時間も多くなる。やがて父親のゲオルクとも心通わせる様になり、1927年11月27日ノンベルク修道院で結婚式を挙げる。その後、ゲオルクとマリアとの間にも一男二女が生まれトラップ一家は12人の大家族になる。

マリアは1930年初頭にファミリー合唱団を設立しますが、1933年のオーストリアを襲った金融恐慌によりトラップ一家は破産をする。その頃子供達に歌を指導していたのはフランツ・ヴァスナー神父であり、1935年のザルツブルグ音楽祭にひょんな事から参加する事になり、ヴァスナー神父が指揮で兄弟、姉妹、母親で歌った処、優勝してしまいます。その後この一家の合唱団は人気ものとなり、ヨーロッパを回り「トラップ室内聖歌隊」と言う名でコンサートをおこなえる様になり、やがて彼らは1938年にナチス・ドイツがオーストリアを併合するとトラップ一家とヴァスナー神父はオーストリアを離れる決意をし、汽車を乗り継ぎ、スイス、フランス、イギリスと渡り、サウサンプトンの港からアメリカへ向かった。そして、アメリカでのビザが切れると再びヨーロッパに戻りコンサート活動をし1939年十月、二度目のアメリカ・ニューヨークにやって来た。

1940年には、大手プロダクションが一家のプロデュースをする事になり、その頃「トラップ室内聖歌隊」から「トラップ・ファミリー合唱団」と名前も改め、曲目も「聖歌」を減らし「フォークソング」を中心に改め、アメリカを回る様になると再び評判を呼ぶ様になる。1942年にはヴァーモント州ストーに移り、農場を買い又、スキー客相手のロッジの経営を始める。1943 トラップファミリーの男子2人が米軍入隊。(終戦後に2人が戻るまで、女声合唱団として活動)1947年 戦後、「トラップファミリー・オーストリア救援隊」を立ち上げるも同年、夫ゲオルクが亡くなる。1948年、トラップ一家、米市民権を取得。1949年にマリアは「トラップ・ファミリー合唱団物語」(サウンド・オブ・ミュージック)を出版し、1955年にも「トラップ一家の物語」等次々と出し、56年にトラップファミリー合唱団は最後のツアー旅行に出る。又、同年には、ドイツの映画会社がマリアの著作と映画化との関連権利を9000ドルで買い取り、この時収入を必要としていたマリアは全てを売り払ってしまった為に、以後の莫大な収入の恩恵には一家は、あずかる事が出来なかったのである。よって、西ドイツで、一家の活躍を描いた、「菩提樹」が製作される。映画は好評を博して1958年にはオーストリア出国後の一家の活躍を描いた「続・菩提樹」が作られる。

それらを知るアメリカのプロダクションがその権利を買い、演出家のヴィンセント・ドナヒューと女優のメリー・マーティンは「菩提樹」のミュージカル化を企画して、「太平洋」、「王様と私」のヒット・メーカー、リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタィン二世に作詞と作曲を依頼する。ロジャースとハマースタインのコンビによる9本目のミュージカルは、1959年の11月にメリー・マーティン主演で開幕し1963年の6月までに1443回もの公演を記録したロングラン・ヒットとなる。又、ハマースタインが60年に亡くなり、この作品が二人の最後の作品となる。しかし、あまりにも現実とかけ離れた物語と父親ゲオルクの人物像に一家は衝撃をうけるが、作品は新たな方向へと展開が進められていった。過去に「オクラホマ!」(55)、「回転木馬」(55)、「王様と私」(56)、「南太平洋」(58)の4本のロジャースとハマースタインのミュージカルを映画化してきた20世紀フォックス社が映画化に興味を示して、60年に映画化権を獲得。「王様と私」の脚本を手掛けたアーネスト・レーマンに映画用の脚本執筆を依頼する。この時もマリアは脚本家に夫ゲオルクの書き方を改める様に頼んだのだが、聞き入れてもらえなかった。

映画が公開されると観客から絶大な支持を得て、その年最大のヒットを記録しただけでなく、アメリカの興行収入記録を塗り替える記録的な大ヒットとなる。1966年、第38回アカデミー賞では10部門で候補に上り、作品賞、監督賞、音響賞、編集賞、編曲賞の5部門を獲得する。又、日本でもアメリカ同様大ヒットする。(日本での初公開時には、ワイズ監督の指示で修道院長たちが歌う「すべての山に登れ」がカットされていた)同年、映画史上最高の興行成績をも記録する事となる。
一方マリアは、数人の子供達とロッジにて客をもてなしながら、各地で講演活動をして、1972年「絶妙な道のり」を出版、1980年ロッジが全焼するも、1983年には新しいロッジを再建する。多くの人々に幸せ感をもたらした映画の原作者は、映画以上の波乱と激動の人生を闘病生活の末1987年3月28日に静かに幕を閉じたのでした。


映画解説
映画化に際しては3曲が削られ、「自信をもって」と「何か良いこと」の2曲が新たに付け加えられるが(下記※印曲)、映画の製作が始まったときハマースタィンは既に亡くなっていたので、ロジャースが作曲とともに作詞も手掛ける。監督には最初ウィリアム・ワイラーが予定されていたが、戦争を舞台背景にしたシリアスなドラマを考えるワイラーと家族愛をテーマにする予定であった製作者側との意向が合わず「ウェスト・サイド物語」(61)でオスカーにまた本作品でも二度のオスカーに輝いたロバート・ワイズが起用される。「エデンの東」のテッド・マーコットが美しいザルツブルグの街並と壮大なアルプスの背景を映し出し、舞台でマリアを演じたメリー・マーティンは当時50歳で、クローズアップが多用される映画でマリアを演じるには無理があるため、新たに若い俳優が起用されることになる。ドリス・デイ、オードリー・へプバーン、デボラ・カーらが候補に上がるが、ワイズ監督がマリア役として真剣に考慮したのは、ジュリーだけでした。すでにブロードウェイの「マイ・フェア・レディ」で実力派女優としての地位を築いており、その歌声は高く評価されていました。後に最優秀主演女優としてオスカーを受賞する「メリー・ポピンズ」(64)も、撮影が終了していましたが、この作品の撮影時は前記「メリー・ポピンズ」の公開前で、撮影当時、映画界ではまだ無名だった28歳のジュリー・アンドリュースが大抜擢される。ちょうど映画版「マイ・フェア・レディ」(64) で舞台の当り役だったイライザ役をオードリー・ヘプバーンに奪われていた時だったので、このニュースを聞いて元気を取り戻しますが、役創りにおいて、かねてからマリアの役を「お気楽修道女」と称し、役柄が「甘すぎる」ことを懸念していましたが、ブロードウェイ版を手直しして「甘さ」をカットするというワイズ監督の言葉で、出演を決意します。撮影中のジュリーは、天候不順によりロケが思うように進まなかったときも、不平を口にすることなく、歌を歌って周りを和ませていました。撮影にも、黙々と取り組んでいたようです。また、子役たちとも早くから打ち解け、実際の温かい人柄が役にもにじみ出る結果となりました。彼女は自分の持ち味を最大に生かして健康で貞淑なマリア像を作りあげ、彼女のとってもかってないキャリアの幕開けであり、あるインタビューの中で「こんなにも多くの人に幸福をもたらした映画に出演した事は名誉である」と語っています。トラップ大佐役には「女優志願」「王になろうとした男」のクリストファー・プラマー当時37歳が起用されるが、舞台俳優として活動していたプラマーは、実はトラップ大佐は厳格である以外にとりたてて特徴がなく、おもしろくない役だと思って嫌がっていた。しかし、ワイズ監督は、この役柄には元々クールで厳格な雰囲気があり、しかもハンサムなプラマーしかいないと考え、何度も説得を繰り返します。プラマーがこの役を引き受けたのは、いずれミュージカルの舞台に立ちたいと考え、そのためのステップとして適切だと思ったからでした。ところが、最終的に彼の歌はビル・リーによって吹き替えが決定し、それを知ったプラマーは激怒して撮影途中で降りると言い出し、周囲を慌てさせます。トラップ大佐役に他に候補にあがったのは、ショーン・コネリー、リチャード・バートン、ユル・ブリナーなどです。トラップ大佐の7人の子供たちは、作品からは信じられない事ではあるが、以上の様に全員オーディションで選ばれほとんどが演技初体験の素人だったのです。
また、「マイ・フェア・レディ」でオードリー・ヘプバーンの、「王様と私」でデボラ・カーの歌声を吹き替えたマーニ・ニクソンがシスター・ソフィア役で唯一の映画出演を果たしている。


主要曲
1. サウンド・オブ・ミュージック  The Sound of Music ザルツカンマーグート(シャーフベルグ山)の空撮、冒頭マリアが、自然のゆたかさを歌う。
2. マリア  Maria 結婚式の場面、マリアとトラップ大佐の結婚式のシーンを撮った教会は、ザルツカンマーグートのモント湖畔にあるバロック様式の彫刻で見事なシュティフト・プファール教会で撮られたものです。
3. 自信を持って  I Have Confidence を歌いながらマリアが石畳を降りるシーンの撮影中、物語の主人公マリア・フォン・トラップ夫人本人が撮影を見学にやってきた。そこで、急遽、彼女がエキストラとして、一瞬だけ画面を横切るシーンが追加された。(※映画の為に追加された曲)
4. もうすぐ17才  Sixteen Going on Seventeen リーズルとロルフ、二度目はリーズルとマリア 恋を語り合うシーン。
5. 私のお気に入り  My Favorite Things 雷を怖がる子供達をマリアが励ますシーン
6. ド・レ・ミの歌  Do-Re-Mi「ドレミの歌」は高原のピクニックシーンから始まりますが、このシーンはドイツ領の隣町、バイエルン州の東南端、ベルヒテスガーデン(背景には美しい湖ケーニヒゼー)で撮影されました。同地では、エンディングの山越えのシーンもこの近郊でおこなわれ、視覚効果の為なのか、実際とは逆にドイツに向かって家族は歩いていたのである。実際、一家は、サルツブルクから汽車でいったんチロルへ行き、そこからイタリアを経てスイスへ逃れたのであった。又、皮肉にもナチス総統、ヒトラーの別荘がこの景勝地にあり、愛人エヴァ・ブラウンと人として戻れた場所でも有り、どの様な人間でも心安らぐ所である事は映画を見られた人ならば、お分かり頂ける事でしょう。
7. ひとりぼっちの山羊飼い  The Lonely Goatherd 子供達が人形劇をするシーンでの歌。
8. エーデルワイス  Edelweiss オーストリアを称える歌からオーストリアの国家、民謡のように思われている又、日本の教科書にも採用される。
9. さようなら、ごきげんよう  So Long, Farewell パーティで子供達が大人へ寝就の挨拶をするシーン。
10. すべての山に登れ  Climb Ev'ry Mountain トラップ大佐を忘れ、トラップ家の為に離れ、帰って来たマリアを修道院長が励ますシーン。
11. 何かよいこと  Something Good (※映画の為に追加された曲)マリアとトラップ大佐が互いに愛を告白したシーンに歌いだす。
※「黄色い塀の道」を踊り歌いながらトラップ大佐の家の門で呟くシーンでの家はフローンブルク宮殿、ただ門の前のみのシーンにつかわれた。
※ドレミの階段があるのはミラベル庭園。
※「サウンド・オブ・ミュージック」の詩へ
セリフを入れます………
Maria:Let's see if I can make it easy.
「もっと簡単にできないかしら」
Maria:Now children, do-re-mi-fa-so and so on are only the tools we use to build a song.
「ねえ、みんな、ドレミは歌を歌うためのただの道具なの」
Once you have these notes in your heads, you can sing a million different tunes by mixing them up. Like this.
「このドレミの音符を覚えていれば、音符を組み合わせて、いろんな歌がいっぱい歌えるのよ、こんなふうにね」
・・・・・・・・
Maria:Good!「上手よ」
Brigitta:But it doesn't mean anything.
「でも、何だか味気ないわ」
Maria:So we put in words. One word for every note. Like this.
「じゃあ、言葉にしてみましょうよ。一つの音符に一つづつ言葉をつけるの。こんなふうにね」

Doe, a deer, a female deer    Doe(雌の動物)は鹿、つまり、雌鹿さん
Ray, a drop of golden sun    Ray(光線)は、太陽が降り注ぐ「光」のRay
Me, a name I call myself    Me(私)は,私が「自分」を呼ぶときに使うMe
Far, a long, long way to run   Far(遠い)は,「遠く」へ走り出す時のFar
Sew, a needle pulling thread   Sew(縫う)は、針で糸を「縫い付ける」のSew
La, a note to follow sew    Laは、Sewの次にくる音
Tea, a drink with jam and bread    Tea(お茶)は、ジャムを塗ったパンと一緒に頂く「紅茶」
That will bring us back to Do    そしてDoの音に戻る
Do Re Mi Fa So La Ti Do  Do Ti La So Fa Mi Re
Do Mi Mi Mi So So Re Fa Fa La Ti Ti
So-do-la-fa-mi-do-re
So-do-la-ti-do-re-do!

When you know the notes to sing     ドレミを覚えれば
You can sing most anything    なんでも歌えるようになるよ


ストーリー 「トラップ・ファミリー合唱団物語」前編に基ずくミュージカル(注記:おおまか、ではありますが全編に渡り記載)
1965年度 アメリカ ミュージカル映画
·監督・製作        ......   ロバート・ワイズ
·製   作        ......  ソウル・チャップリン
·作曲、追加作詞      ......  リチャード・ロージャース
·作   詞        ......  オスカー・ハマースタインII
·音楽監督・編曲・指揮   ......  アーウィン・コスタル
·脚   色        ......  アーネスト・リーマン
·撮   影        ......  テッド・マッコード, A.S.C.
·プロダクション・デザイン ......  ボリス・レヴィン
·振り付け         ......  マーク・ブロー
                     ディー・ディー・ウッド
·衣装デザイン       ......  ドロシー・ジェンキンス
·編   集        ......  ウィリアム・レイノルズ, A.C.E.
·ジュリー・アンドリュース   ......  マリア
·クリストファー・プラマー   ......  フォン・トラップ大佐
·ペギー・ウッド        ......  修道院長
·シャーミアン・カー      ......  リーズル
·ニコラス・ハモンド      ......  フリードリッヒ
·ヘザー・メンジース      ......  ルイーザ
·アンジェラ・カートライト   ......  ブリギッタ
·デビー・ターナー       ......  マルタ
·キム・カラス         ......  グレーテル
·ダニエル・トゥルヒット    ......  ロルフ
·エレノア・パーカー      ......  男爵夫人
·リチャード・ヘイドン     ......  マックス・デトワイラー
·アンナ・リー         ......  尼僧マルガレッタ
·ポーシャ・ネルソン      ......  尼僧ベルテ
·マーニ・ニクソン       ......  尼僧ソフィア
·エヴァドゥン・ベイカー    ......  尼僧ベルニス
·ベン・ライト         ......  ゼラー
·ジル・スチュアート      ......  フランツ

 オーストリア・ザルツブルグ第二次世界大戦前夜。明朗快活な彼女にとって、修道院の厳しい規則は窮屈でしたが、それも神との約束を守る為と思えば楽しいものでもあり、いつも修道院を抜け出しては近くの山で歌っていた。そんな彼女に修道院長はもっと世間を勉強させようと、数年前に妻を亡くし男手一つで7人の子供達を育てているゲオルク=フォン=トラップ(オーストリア海軍退役大佐)の家庭教師として派遣される事を聞かされます。

子供達の学習の世話をしてくれる家庭教師が居つかない事から厳格な父親ではあるが、子供達は快活そのもので、早速、マリアのポケットの蛙を入れ歓迎する。なんとかトラップ・ファミリーと仲良くしようと努力するマリアではあるが、育った環境も違う彼女にとっては始めての経験であった。
ある日、大佐に電報が届き、翌日から大佐はウィーンに出かける事になる。又、長女のリーズルは電報を届ける兵士のロルフと恋仲なのであり、その日もロルフに会いに出かけたのだが、締め出されて家に入れないところマリアの部屋から家に戻れたのでした。雷鳴が響き、雷を恐れる子供達はマリアの部屋に集まり、そんな子供達にマリアは歌を歌ってやり、子供達の心も開けてきたのだが、就寝時間を守らなかった事でトラップ大佐にたしなめられる。

長く歌の無い家である事に気づき、街や山に連れて行き歌を教え、歌う事から明るさを導き、子供たちに信頼されるマリア。そんなある日、川遊びを子供達としているところへ、婚約者のエルザ男爵未亡人と友人マックス・デトワイラーを連れて戻ってきた大佐は、マリアが子供達に作って着せた服を見て、その子供たちの変りように驚き激怒し、マリアを責めたが、子供達が夫人を歌で迎え、子供たちの美しいコーラスを聞いた時、心ならずも忘れていた音楽を愛した昔を思い出し、妻の死以来凍っていた心を溶かせ、マリアに非を詫び「あなたはこの家に歌を甦らせてくれた」と感謝するのだった。
マリアと子供達は、未亡人とマックスを歓迎する会を開く。その歌の素晴らしさにマックスは合唱団として推薦するが、大佐は一蹴する。

大佐邸のパーティーで大佐と踊るマリア、目が合えば心が揺らぎそれ以上は踊れないでいるマリア、マックスはマリアを食事に出席する事を大佐に提案し大佐も自らの複雑な気持ちからも了承する。
支度の為に下がったマリアに未亡人は「大佐の気持ちがマリアにあるのではないか」と伝える。大佐の愛の重みからも、又トラップ家の為にも、自分がこれ以上この家に留まってはいけないと思い、置手紙を残し、修道院に逃げ帰るのでした。

突然のマリアとの別れ、慕う気持ちと寂しさから修道院にマリアを訪ねるが、会えないで帰るの子供達であった。そんなマリアに修道院長は、勇気を持ってトラップ大佐の真意を確かめるように言った。「全ての山に登り、夢をつかむのです」そんな言葉に励まされ、再び大佐の邸宅に戻る事に。そして不在を叱られている子供達にマリアの歌声が聞こえる。
戻ったマリアに待っていたのは、大佐の婚約であり、子供達の前では悲しさを出せないマリアであった。未亡人と話し合う中で、大佐自身も夫人との考えの違いや、それよりも増してマリアへの本当の愛に気づき、未亡人に婚約の解消を告げるでした。

二人は子供達や修道院の修道女達にも祝福され結婚式を挙げる。又ザルツブルグの音楽祭の出場も決まるのでした。

新婚旅行に出かける間に、ナチスがザルツブルグにも進駐して来る事を知り、二人は急いで帰るのだが、反ナチスの大佐には出頭命令が来る。トラップ大佐にはそんな気は全くなく、亡命を決意し行動に移そうとした時、執事フランツの密告から、ナチスの官史が来たのである。しかし、もとからその日は音楽祭に出場をする日であった為、それを外出の口実に使い、コンクールに出る「エーデルワイス」は会場全体の大合唱になり、優勝するのだが、その表彰式の隙をついて逃げ出し、家族は修道院に身を隠すがナチスは修道院にも捜査に来たのである。その中に、あのロルフが居たのであった。ロルフに大佐と長女が声をかけるが、以前のロルフではなく、通報される事になる。裏口から車で逃げる家族、それを知ったナチスは追いかけ、車に乗るがエンジンがかからない。

修道女達が、部品を外していたのであった。自分達の幸せを護る為にも、自由を求めてスイスからの山の国境越えを目指し行くのであった。


第二次世界大戦下のオーストリアを舞台にしたミュージカルではあるが、姿を現さないで戦争の脅威を柔らかく演出し、実際のトラップ一家から出演者に至るまで、何らかの形で映画作りに関わった人たちすべての人の愛や豊かな気持ち、信念、家族の絆が、言葉ではなくて心の深いところで感じられ、美しく素晴らしい映像とそれにも負けないジュリー・アンドリュースの透き通る様に響く歌声とサウンドにより浸透させ、どの様な時代においても負けない勇気と心の結びつきを尽きる事なく、乗せ運んでくれる、今尚、活き続ける不朽の名作と思います。

W杯・ドイツ大会、本戦(日本VSクロアチア戦)0-0

2006-06-19 04:16:24 | スポーツ
W杯ドイツ大会予選リーグ、第二戦、決勝トーナメント進出に望みを賭ける為、対クロアチア戦に挑む試合が、ニュルンベルグ・フランケン競技場でおこなわれた。

前半戦、暑さからの体力の消耗を考えたのか、相手ディフェンスの裏へ抜ける様なパス、と同時にサイドからの上がる場面は見られなかったが、そんな中、敵陣深い好位置(ペナルティーエリア右角付近)からのF・Kを奪い中村直接ゴール狙うも味方、高原に当たる。又同じく、中央25mからのF・Kもアレックスに当たりゴールならず。
攻撃の流れからは、中田英のセンタリング、小笠原や意外とクロアチアDFのマークが少なく比較的フリーで受けれた加地のクロスもクロアチア・DFにクリアーされる。
又、今回積極的な中盤からの上がりで、中田英の枠を捕らえた強烈なミドルシュートやその他同じく小笠原、アレックスのミドルシュートも見られたが、相手ゴールキーパーの好セーブやキャッチにて得点にならず。
日本のディフェンスでは、自陣ペナルティエリア内でプルソにかわされた宮本の反則行為によるP・Kをスーパーセーブした川口のその他の好セーブの活躍は非常に闘志を奮い立たせるものであったが、相手F・Wのミスにも助けられたのは事実であり、日本のプレスディフェンスが甘かった事がその要因とも言える。

後半戦、福西と稲本のメンバー交代。
アレックスのドリブルから小笠原へパス、そして小笠原のクロスもカットされる。
ドリブルで駆け上がった加地と高原のワンツーで抜け出し、フリーの柳沢へのセンタリング、本試合最大の決定的チャンスも柳沢ミスシュートに終わる。
中田英ミドルシュートはキーパーの好セーブ、ゴール25mからのF・K中村直接狙うもゴール上に外れる。
柳沢と玉田のメンバー交代。
玉田のドリブルから中村とのワンツー、アレックスのクロス、小笠原のペナルティエリア左角からのF・K、稲本のミドルシュートもゴールには結びつかず。
中田英のペナルティエリア内へのボールも小笠原トラップミス、中村の左サイド裏玉田への柔らかいループパスから中央の高原に出すが、これもクロアチアDFにカットされる。
又、相手ディフェンスの裏へのアーリークロスもキーパーとの間を衝く精度にやや欠けるが、フォワード陣の動きの悪さも手伝い、キーパーと一対一の勝負までにも至らず。
高原と大黒のメンバー交代。
アレックスのペナルティエリア内ドリブルからのシュートもクロアチアDFにクリアーされる。
試合終了の笛、スコアーレス・ドローに終わる。

交代した稲本はディフェンス、相手ボールのカットやインターセプト、シュートと彼らしいサッカーをやや見せ、又動き、精度は落ちるも中田英、中村、アレックスの積極的な動き、そして川口の、相手FW・MFのシュートミスに助けられるも緊張のいとは途切れる事は無く、好セーブもあり、勝ちに行く姿勢を見せていたが、ディフェンス陣は前半戦と同じくプレスも甘く、後半はスピードが無く相手カウンター攻撃にも突破される場面が多く見られた。

又、前・後半戦を通じてのフォワード陣は、クロアチアのディフェンスの護りの堅さもあるが、得点には至らず、クロアチアフォワード陣の様なボールを受ける動き、突破するドリブルからのシュートまで至る流れもほとんど見られず、当然ボールに絡む数も少なく、あえて厳しい見方をすれば、決定力不足は否めない様に思われる。
しかし、日本の日中最中に続く試合から選手の疲労も残り、特に前試合、素晴らしい動きを見せた中田英の最後の数分間は運動量の多さの影響なのか、さすがに疲れており、次の試合への影響が心配される。

第三戦対ブラジルには、文字通り背水の陣で挑まなくてはならない、厳しい状況は変わらないが、確かに強いブラジルではあるが、以前の様にあまり各国との差は無い事も事実であり、展開次第では金星もありうると信じる。

感激!ヨーロッパ(ちょっと写真)

2006-06-18 10:46:18 | 海外の旅行
この間、衣替えのかたずけの時に写真が出てきました。
今まで自等の当時の写真を載せる事が出来なかった為、次回旅行記分を少し紹介させて頂きました。
※申し訳がないのですが、写真をまた写しました為に、鮮明なものではありませんが、ご辛抱ください。又、下記の最初の写真は風景のみの写真がなく旅行仲間が小さく撮れた風景写真でも、ご迷惑ですので、致し方なく相成りました。(誰も思わないので自分の感想では、映画的に申せば、上手く街に溶け込んだ見事な作品)

ここは、ディンケルスビュール、城壁と水濠に囲まれ、第二次世界大戦の戦火から逃れた事から、赤い屋根をかぶったカラフルな木組みの家並と石畳が中世の姿のまま迎えてくれた街です。
ミュンヘンにあるニンフェンブルグ城、博物館の庭園。バイエルン国王のルィードヴィッヒ1世は白鳥が好みの様です。
ヴィッテルスバッハ・バイエルン国王のバロック様式・夏の離宮です。ルィードヴィッヒ1世が愛した、黒髪で色白の36人の美人肖像画のギャラリーがあります。(絵画としては良かったんでしょうが、私好みの人は少なかった様に記憶しております)
これは、館内の天井に描かれたフレスコ画です。館内はベンチ等があり、美術に興味のない方は、苦痛意外何もので無い所なのですが、休憩は出来ますよ。
確かここは、ナチス結党のビヤホールで、樽型の天井が特徴だった様に思いますが、ナチス結党のビヤホールかは、少し自信が無いので、他では言わない様に願います。ただ、この時、写真に写っておられる、おそらくご夫婦だと思いますが、この一組の老夫婦のカップルがダンスをしておられたのが、可愛らしくて私の奥さんが、何時もの事なのですが、意味無く何枚も撮っていました。
次の日、毎日移動でフラフラになりながらも、有名な白鳥城・ノインシュバインシュタイン城が、見えたところのワン・ショットです。(この名をスラスラ言える様に、ここで日本人は言える人、そうでない人、ハッキリ分かれます)写真の様に、この時は私もボケており、前回の旅行記にも記載しました様に、失敗をしでかしました。
馬車等が通る道を上がり城下まで着きました。お祖父さんにあたる、ルィードヴィッヒ1世の名を継承したルィードヴィッヒ2世が建てた綺麗なお城でしたが、場内の日本語の案内の姉さんの声!暗すぎるで、本間。

望郷 フランス映画 若きジャン・ギャバンの代表作

2006-06-14 09:08:02 | 映画
1937年フランス映画
監督・脚本   ジュリアン・デヴィヴィエ
原作      ロジェ・アシェルべ
撮影      ジュールス・クルージェ、マルク・フォサール
音楽      ヴァンサン・スコット
出演      ジャン・ギャバン、ミレーユ・バラン、リーヌ・ノロ、


ここでは、映画のあらすじを略記載し、後半に関係事項及び感想を述べています。

パリ、マルセーユと銀行強盗等の犯罪を繰り返したペペ・ル・モコ。
今は、身を隠した街カスバのボスとなっている。カスバでは警察の力が及ばない所であり、逮捕する事は勿論、見つけ出す事すらが不可能で、うかつにも進入するものならば、何処から拳銃の弾が飛んでくるのか分からない街でもあった。

そんなアルジェの警察にフランス警察は不甲斐無さを感じていたのであるが、現地の刑事スリマンはカスバの事情、ペペのカスバでの影響力を知っている。又彼自身はペペとはよく会っており、お互いに相手を認めながらも人生の方向の違いはいかんともしがたいものがあった。

居合わしたスリマンのアドバイスも効果なく強行逮捕にフランス警察はカスバに踏み込むのである。 
事態を知るカスバの住民の連係によりペペは知る処となるが、警察の犬の様なレジエの密告でペペの隠れ家にも警察がせまる、そんな警察にペペの威嚇発砲が鳴り響く。そんな所にフランスからの旅行者が出くわし、スリマンは酒場へと非難させるが、そこに警察から逃げてきたペペが入ってきたのである。
スリマンとペペの言葉の駆け引きが展開するも、居合わせたフランスの旅行者の中の女にペペは一目ぼれをする。そんなペペの姿をスリマンは見逃さなかった。

あくる日、ペペは昨日の夜のパリの香りが、忘れかけていた懐かしさからなのか、今の状態にうんざりしたものを憶えるのであった。
そんなペペとは別にカスバはいつもの様子に戻っていたのだが、罠は動きだすのである。
レジエは、ぺぺの可愛がっていた弟分のピエロを利用し、又スリマンはペペの心を奪ったフランス女を利用し、それぞれペペを捕まえる計画を企てるのであった。
その夜、レジエはピエロに偽りの国の母からの手紙を渡し、街を下りさせ逮捕する。それを聞き、ピエロを助けにやはり街を下りて来るであろうペペを捕まえるべき一連の計画を実行をした。やがてピエロの恋人アイシャが、ピエロの居ない事からペペに助けを求めに来たのであったが、すでにレジエを疑っていたペペはレジエを監禁し、情婦のイネスにピエロを捜しに行かせるのだが、そこにもスリマンの罠が進められていた。
イネスは捜す途中でスリマンと出くわし、ペペのフランス女への思いをそれとなく告げ、そのフランス女が会いたがっている事と待っている場所をイネスに言付ける。
そしてぺぺはスリマンの思惑通りに酒場にてパリの薫る女と会うのである。自然な流れで二人はダンスへと、そして話し合う、女の名はギャビーそして二人の出身はゴブラン、それだけ話せば二人には充分であり、明日の再開を約束し女は帰った。
やがて、銃で撃たれ瀕しのピエロが帰ってきた。拳銃を持ちレジエの前に立つピエロにレジエは脅えるもピエロは力尽き、そんなピエロの思いを仲間が助ける。レジエの悲鳴と銃声が響く。

翌日、来ない女を待つペペにスリマンが囁く、「ピエロも居ない、女も来ない」心に刺さる言葉であった。ぺぺは怒り「街を下りてやる」と言い残し行動に出るのだが、それを見たイネスは必死に後を追い悲しい嘘を言う「彼女は私の家に居る」と、しかし当然家には居ない、ペペはイネスに訳をせまるがやがてイネスの気持ちを理解し、落ち着きを取り戻すのである。
冷静になったペペはイネスの家を出たのだが、そこに女、ギャビーが現れ再びパリの薫りを求める様にホテルへ。
ぺぺが言う「パリの香りがする」・・・「全てをパリに変える女だ」・・・「メトロだ」そこには望郷以外、何ものも存在しなかった。
そんなペペの様子をスリマンはイネスに告げ嫉妬を呼び起こさせる。
何時もの様に明日の約束を「5時に」。

明くる日、スリマンは先手を打つ、街のホテルを訪ねギャビーの男である老紳士に「夫人は毎日カスバに行かれている、あそこは良くないので辞める事をお勧めします」と告げ、計画の最終仕上げをするのであった。
しかし、スリマンの誤算、ギャビーの心を止める事までは出来なかった。老紳士の説得もギャビーには聞こえずギャビーは別れを告げ、ペペの許へと部屋を出るのであった。どうしても行かせてはいけないスリマンはギャビーに近づき「ペペは警察により銃殺された」と偽りを語る事で再びギャビーをペペの許へ行かせない様にしたのでした。
そんな事とも知らず時間に来ないギャビーを待ち続けるのであったが、ペペと同じ様にカスバに見切りをつけ街を出ると言う仲間のカルロスにギャビーへの手紙を託し返事を待つ事にしたのだが、明くる日になってもカルロスは返事を持って来ないのであった。

そんな所に、女が待っているとレジエの仲間らしき男が伝えてきたのであるが、疑いを持ったペペは男を締め上げ計画を知ると同時にギャビーがすでに船に乗り10時に発つ事も知り、スリマンが待ち伏せる所とは別に、上手く船に乗り込むのであるが、嫉妬させておいたイネスのスリマンへの通報でギャビーに会える寸前で逮捕されるのでした。

手錠を掛けられ警察の門に入るペペは扉の格子から船上のギャビーを発見し、「ギャビー」と叫ぶも汽笛の音で耳をふさぐギャビーには届かない、望郷の念と未来を育むギャビーへの思いに、込み上げる涙で全てが消える様にナイフで自らを刺し自分自身をも消し去るペペが、そこに崩れ去っていた。
「許して」イネスの声がぺぺを包む。

この映画でジャン・ギャバンと共演したギャビーのミレイユ・バランは、ジャン・パトゥーのマヌカンの出身で戦前人気のあった女優であり、社交界でも花であった人なのですが、パリ解放直前にドイツ将校と恋に落ち、ドイツ将校は銃殺され、彼女も南仏で逮捕され、3ヶ月間の投獄の後釈放されたのであるが、その行為は釈放後も許される事なく、映画に1本出演するも無視され、最後は失業した俳優達の為に与えられた惨めな住居に身を落ち着け、無一文で亡くなったそうです。この映画の二人は現実では逆の運命を歩んだ事は皮肉な事にも思えます。

ジャン・ギャバンは戦時中は危険な事からアメリカに身を置いていたが、戦後フランスに帰郷し「鉄格子の彼方」「ヘッドライト」等、以後の作品の評価は勿論なのですが、彼自身の役者として、作中の演技、又雰囲気も彼自身の個性が上手く出されており、その活躍は誰もが承知の事と思います。

この作品でのジャン・ギャバンの若々しい姿もギャバンの貴重な別の味わいが良く出ており、又その他出演者の演技も素晴らしく、ラストにギャバンを正面から下がり撮影した映像は緊迫感と状況が上手く同時進行し記憶に残るシーンでしたし、全体に渡るセットとロケからの臨場感やパリの映像は映しだす事なく、見る人の心にも主人公と同じ様にパリの街並が過ぎる構成は見事に尽きる。脇を固めた役者の個性も見応えのある作品にしたものと考えます。
当作品の監督ジュリアン・デュヴィヴィエは日本でもかなりのファンが多くフランス四大巨匠の一人と評され、その他「パリの空の下セーヌは流れる」等の作品を手がけている。

W杯・ドイツ大会、本戦(日本VSオーストラリア戦)1-3

2006-06-13 01:44:58 | スポーツ
詳しくは書くまでもなく、非常に残念な結果でした。

暑い中の消耗戦で厳しかったが、ただ全試合時間を通じて、第一に言えるのは、中田英の攻守の運動量は、他を圧倒していたと思えるものであった。
色々注文を付けるだけの責任と自信があった事は、負けた試合ではあったが、日本のあらゆる面での司令塔と決定づけるものであった。

内容的には日本の前半は運動量はあったのだが、後半は止まっている選手が見えた様に運動量は落ちていた。又中田英のディフェンスラインの裏へのパスやクロスはあったがゴールには結びつかず、駒野もパスを受けよく動いていたが、センターリングやクロスの精度がこれも今ひとつ良くなく、アレックスや高原、柳沢もドリブル突破をするも肝心のゴール際では何故か以前の日本代表の悪い面であった、思い切りのなさからなのか余計なパスが多かった感じがした。やや早いパスまわしも少しは見えたがミスが目立ちスピードは暑さの為か、オーストラリアを慌てさせるほどにはいたらず、ディフェンス面でも川口のファインセーブやキャッチはあったが、プレスディフェンスは甘かった様に見え、むしろ高い位置でのプレスが効果的には機能はしていなかった。

後半オーストラリア左サイドからのスローインを川口が何故ディフェンスがいて、しかもパンチングしか出来ない(キャッチが必然の条件)位置まで出たのかが疑問に残る、又福西の後半走り込んでのシュートが絶対ゴールを外した事、やはりこれが今回の試合を物語る日本の実力なのか。

いずれにせよ、かなり厳しい日本の状況になった事は事実であり、ここは素直にオーストラリア精神面の強さと実力を認めよう。
又、頑張った選手達の為にも、負け惜しむ事ではなく、あきらめず今後の奮起を期待しようではないか。

男と女 「映画・フランスが香る時代と車そして音楽」

2006-06-05 17:18:38 | 映画
1966年度フランス映画
監督、製作、撮影  クロード・ルルーシュ
脚本        クロード・ルルーシュ、ピエール・ユイッテルヘーヴェン
音楽        フランシス・レイ
作詞        ピエール・バルー
歌          ピエール・バルー、ニコール・クロアジール
出演        アヌーク・エメ
           ジャン・ルイ・トランティニアン
           ピエール・バルー
           ヴァレリー・ラグランジュ
           シモーヌ・パリ

監督のクロード・ルルーシュはこの作品以前は記録映画やプロモーション作品の制作を手がけており、当時のこの映画での男と女の心の揺れ動く姿をカラーとモノクロを巧みに織り交ぜ描写している新しい作風はその経験からの独自性によるものと考えられます。又今のMTV感覚の様に、冒頭での桟橋の空撮に重なるフランシス・レイの音楽そしてストーリーが美しい映像と音楽に上手く溶け込み進んで行く手法は新鮮さが感じられる。

作中レースにも実際のル・マンの実況が使用され懐かしいル・マン型スタートの場面や、主人公がレース仕様の車で試験走行するプロトタイプのフォード・マーク2が現実に優勝する場面やモンテカルロラリーではジャン・ルイ・トランティニアンが実際に運転をし監督自身も助手席に座りカメラを回し撮影し、忠実に基づきフォードフランスのワークスが主人公の乗るムスタング1台で参加し総合11位、クラス優勝する前提で描かれており、マキネンのワークス・ミニクーパー、フェラーリ、ポルシェ911、ルノー・ゴルディーニ、ランチア・フラヴィア、シトロエンDS21,コルチナ・ロータス、がドリフト走行するシーン等でのドキュメンタリータッチの臨場感は車好きの監督の本物志向の表れが際だ出せたものと思われる。
実際レーサー役のジャン・ルイ・トランティニアンも80年ル・マン24時間レースでポルシェ935で出場しており、彼自身の伯父でモーリス・トランティニアンはプロのレーサーでF1グラン・プリ通算出走82戦の中では1955年58年のモナコ、グラン・プリに優勝し54年のル・マンでも優勝しており、ホンダF1のデビュー戦64年ドイツ、グラン・プリでは旧BRMを駆けて5位入賞を果たし、翌年には引退をしている。このモーリスも当映画撮影の前年に監督のクロード・ルルーシュ伝説の映像「ランデヴー」に協力しており、全編約9分間の作品で、まだ暗い早朝のフランスの市街地の公道を無許可にてルルーシュの愛車フェラーリ275GTBのフロントノーズにカメラをセットし、ノン・ストップで信号無視を重ね、ほぼアクセル全開の取り直し不可での疾走をV12のサウンドと共にカメラに収めたもので、このドライバーがモーリスであり、必見の作品である。撮影時期からも当作品に影響がある様にも推察される。

未亡人の主人公のアヌーク・エメの美しさと目の魅力も印象的であり、街を歩く姿にもフランスを感じさせ、この作品のセンスの良さを醸し出させていた。
音楽でも、フランシス・レイ以外にも当時世界的人気のボサ・ノヴァがピエール・バルーの存在感と共に効果的に演出されており、見る側をあらゆる面にて楽しませてくれる作品となっている。

物語はアンヌ(アヌーク・エメ)は30歳近くになり、パリで一人暮らし、一人娘はドービルの寄宿学校にあずけていた。ある日曜日に娘に面会に行き、楽しく過ごす間に時間の経つのを忘れ、帰る時間が遅くなりパリ行きの汽車に乗り遅れる。そこに声をかけて来たのがやはり一人息子をドービルの寄宿学校に預けていたジャン・ルイ(ジャン・ルイ・トランティニアン)であった。
映画スプリクターのアンヌはレーサーのジャンが運転する車の中で、夫が映画のスタント撮影中に事故死した事等を話続けるのであるが、ジャンはその表情から彼女の夫が死んでいる事が信じられなかった。アンヌの自宅に着き別れ際に次の日曜日に会う約束をジャンは申し出る。
ジャン自身もル・マン、レースに出走中、事故により生死の間をさまよう事態の最中、夫のその現実に耐えられなくなった妻が自殺してしまう過去を持っていた。
近ずくレースの世界選手権に忙しいジャンではあったが、アンヌの事を忘れる事が出来なかった。次の日曜日にもドービルに車で出かけ、そして電話をかける。肌寒い日曜日の午後に互いの家族四人で、明るく笑いに包まれて食事をし、二人はお互いの愛が芽生えている事に気づくのであった。
やがて、過酷なモンテカルロラリーに出走を無事終え、レース後のパーティに出席していたジャンの許へ、ジャンへの愛に迷い決心のついたアンヌから「愛してます」の言葉が入った電報を受け取り、止めてあるレースカーにそのまま乗り長く遠いパリへ、しかしアンヌは留守。管理人に聞くも断られるが、「警察だ」と嘘を言う事で、まんまとアンヌの行き先を聞く。そしてドービルへ。車中アンヌへの思いに自問自答しながらも、やや薄暗い浜辺のアンヌ親子に思いのパッシングが心の光の様に輝く、二人は互いの愛をかみ締める様に抱き合い、その二人をカメラが包む様に回り映し出す。
その夜ホテルで食事をし、ウェイターに最後のオーダーをする、部屋のリザーブである。
そして二人は激しく愛し合うのであるが、アンヌはふと夫との楽しい日々の回想をし、思い切れていない自分に、ジャンとの別れを思い、告げる。やがて二人は淡々と帰り支度をし、汽車で帰ると言うアンヌと最寄の駅で別れるのであった。
ジャンは車にてパリに帰るのだが、再びアンヌに合う為に彼女が到着するパリの駅に向かい、汽車から降りたアンヌを見つけ走り寄る又、アンヌもジャンを見つけ驚きと素直な喜びから二人は今をしっかり抱きしめる。

ファッション性のある大人の男女の求め合う姿を淡々とした流れと音楽そして映像を綺麗に仕上げた作品で今尚新鮮さが残る思いのある作品でした。


W杯・ドイツ大会(最終親善試合日本VSマルタ戦)

2006-06-05 04:56:36 | スポーツ
日本時間PM10:04に最終親善試合日本VSマルタ戦のキックオフ。
先日のドイツ戦の疲れが残っているので在るのかもしれないが、あえて厳しく感想を申しますと、あまり上がってこないマルタに対し落ち着いて攻めを組み立てられた試合ではあるが、マルタが退いている為にドイツ戦の様な裏のスペースに綺麗に決める展開は少なくなるのもある意味想像出来るのだが、全体的にも運動量も落ち、雑な精度のないパス、シュートが目だち、以前からの課題が見えた内容であった。
又、実戦から離れている為か、先発メンバーからの交代で出て来た選手がほとんど機能していない面があり、この試合に限っては先発メンバーとの格差を感じられた。
前半2分に、相手のクリアーボールを拾ったアレックスの低いクロスを玉田が左足でゴール左のボレーシュートを早くも決めるが、以後同じくアレックス等のクロスに大黒も反応するがキーパーのキャッチ及びクリアーや左ポストに当たるシュート等でチャンスを決める事が出来ない。
又、アレックス、玉田、駒野のミドルシュートや中村の2次攻撃を含んだFCも相手キーパーのキャッチ等で決まらず。逆に相手のカウンター攻撃等で危ない場面があったが、駒野、大黒のクリアー、同じく相手のシュート、FKはキーパー川口のクリアー等でなんとか前半を無得点に抑える。

後半戦は坪井、小野の交代により前半の3-5-2から4-4-2のフォーメーションに変わる。中村のCKがニアポストの宮本へ。フリックオンから中央へ送り福西がヘディングするもバーを越える。同じく福西のミドルシュート、中村のCKから二アの福西がヘディングシュートも相手キーパー・ハベルのクリアーで追加点ならず。又、クロスに玉田、大黒のシュートも決まらず。
13分、15分にはアレックス・玉田と中田浩・小笠原が交代、直後中田英のスルーパスを大黒が相手ディフェンスライン裏に走り込むもキーパーにキャッチされる。次に小笠原からの裏へのスルーパスにも反応するもキーパーにブロックされる。マルタもカウンターやドリブルで日本陣内に攻撃を仕掛けるも結果は出せず。
23分に大黒と巻を交代、ジーコ監督も動かない試合の打開を図るも中盤からのパスがなかなか通らず、FK,CKも今一精度が上がらず日本のゴールも遠く、又マルタのシュート、FKも川口がキャッチする等、日本・マルタのゴールキーパーの活躍が目立った試合であり、サイドチェンジからのサイドアタックの攻撃もバックパスからのその様な攻撃を仕掛けるにしても、スペースを作る動きの少なさからドイツ戦に比べ物足りなさがあり、又味方のボールを受ける動きの悪さから早いパスまわしが上手く出来なかった事から速攻への展開でも相手守備陣をあわてさせる程にもならなかった。
勝った試合ではあったが、本戦の息のつけない試合を考えると、ランキング125位のマルタ戦で油断があったのかもしれないが、初戦のやはり全力で挑んでくるであろうオーストラリア戦に向け修正して、良いスタートを切って貰いたいものと考えます。