西洋と東洋の狭間

何かにつけ軌道修正の遅い国で有るが一端方向転換すると、凄い勢いで走り出し今までの良き所まで修正してしまう日本文明

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感激!ヨーロッパ「シックス」ティーズの時代が薫る街並を後に

2006-09-19 22:10:53 | 海外の旅行
今日の宿泊のホテルには夕刻に着き、今後の予定は、何か世界一美味しいソーセージを食した後、ナチス結党のホーフブロイハウスやビヤホール、その後は自由で各自ホテル帰る段取りである。
まずは、地下鉄にて切符を買って、次は、しかし改札が無い、無いって事は、妙な事に入り口が判らないし、ケジメが無い事からか、何か落ち着かない、変な気持ちである。
添乗員の女性に、「買わないで乗ればどうなるんですか」なんて下世話な質問に「時々検札に来るのですが、無賃乗車になる訳ですから、罰則としての追徴金が多いらしく、日本の比ではないらしいのです」との事、なるほどリスクが大きい。
そんな事より、無事この地下鉄でホテルに帰れるかが、心配ではあるのだが、世界一美味しいと言われた事でソーセージを食べる時には、何時もながら夫婦でその事で頭がいっぱいであった。
日本のソーセージを食べ慣れている為か、そんなには上手くは無かったのが率直な感想であり、それより、サラいっぱいに盛られたポテトには、何と飾り気のない、無造作な盛り付けかと思うのと同時に、小学校の給食でのポテトサラダを思い出し、美味しくないと言うか、量の多さにも正直うんざりする思いであり、食べ慣れたマクドナルドのフライドポテトを思い出す始末である。
「こんなポテトばかり食べてるわりには、大きく育つんだなドイツ人は」と妻に言ったが、その表情からも言わんとする事が理解でき、周りのコンさんや河さん達夫婦もお皿にはポテトだらけであり、案の定食べきれなかった様であった。
ソーセージのハズレの次はナチス結党の場所である、ビヤホールは、あのヒトラーに関係する所でもあったが、歴史や映画好きな私には、感慨深いものがあるが、我が妻や他の奥さん達は、そんな事には興味が全くないのであって、ソーセージとポテトの憂さ晴らしか、ビールではご満悦であり、小さな老夫婦のダンスを見ては、「可愛い」の連発、又何かといえば写真の連射であり、趣味とか思いが異なれば、こうも違うものかと、関心させられる。ヒトラーも、もし生きて、こんな人達を見たならば、あれだけの事をした自分を無視されているどころか、眼中にもない現実に、自身の小ささを始めて経験した事であったろう。平和が生んだ産物は強いし、歴史の重みも吹っ飛んだ。
中途半端な満足感で、街に繰り出す。街は、何かヨーロッパの別な味わいがあり、1960年代の映画の中に居る感じがして、百貨店や繁華街を歩く、フィルムと8ミリテープ、ビヤジョッキ等を買い、帰りは他の人達とは別れ、コンさん夫婦とまともに戻れそうなタクシーでホテルまで帰る事にした。
タクシーの助手席には、私が座らされ、運転手担当になった。
行き先「Please go to the ○○○hotel.」を言うとドイツ人ではない、何か中東風な運転手が、気さくな感じで返してきた。
別に聞かなくても良いのであるが、何となく質問「Where is your country?」・・・「I am Greece.」と聞いた。「おー、ギリシャらしいで」と後ろの席に言うと、そこからが勢いで、ホテルに着くまで喋り捲りだった。知ってるだけのギリシャの名詞を並べるも、運転手は陽気な人で、何とか意志の疎通が可能であり、気が合う。向こうはどう思ったかは知らんけど。
約1/5程度の理解度で、こうも話せるのか、愉快でもあったが、運転手の方は、時折、私の言った事に理解出来ないのか、目が遠くを見つめ、必死に考えていた処があったが、自分なりの解釈が出来たのか、満足したのか笑顔で返してくる。率直に、実に可愛い奴である。
「これは、チップもはずまないといけないな」なんて妻に日本語で言っても、会話に関係ないのであるが、やはり、運転手は、目を白黒させ、考え込んでいる。
その表情を見て、「チップだけ解ったかも知れんな」とみんなに説明、そんなやりとりでおそらく、この運転手が、初めて経験する騒がしい、陽気な日本人の車内であった。
妻には、言ったものの、小銭がなにやら多く、じゃまであった。ホテルに着くとポケットから全てを出し、笑顔で「For you.」。運転手は満面の笑みで「Thank you.」
頭の中では、小銭の量は多かったのだが、金額的には、少なかった様にも思えていたのだが、コンさんの奥さんの言葉で、ハッキリした。
「あの運転手さん、最初は物凄く喜んでいたはったのに、お金数えながら不満相な顔でこっちの方見てたよ」とその状況説明で「やっぱりな、少ないとは思っていたんやけど、小銭がじゃまで、整理したんやわ」と運転手のポカーンとした表情の意味を話す。
妻が、「可哀そうに」と言葉と違い、運転手の表情のギャップが滑稽だったのか、おもいっきり笑っていた。
あくる日は、ノインシュバインシュタイン城へ出発である。
ホーエンシュヴァンガウ城等をバスから見ながら、ルードヴィッヒ2世とノインシュバインシュタイン城等の話を聴く、しかし素晴らしい眺めであり若きルードヴィッヒ2世の身の上も理解出来るものでもある。

ルードヴィッヒ2世について(他、ルードヴィッヒ2世記事参照)
[今から150年程前の1845年8月25日、バイエルン王国の首都ミュンヘン郊外にあるニュンフェンブルグの宮殿で、バイエルン王国皇太子マキシミリアンとプロイセンの王女であった妻マリーとの間に待望の世継ぎが誕生。父マキシミリアン2世は王子にとって祖父にあたるバイエルン王ルードヴィッヒ1世の名をもらい、この王位継承者である赤ん坊にルードヴィッヒ2世と名付けた。
その後王子は弟オットーと共に少年時代の殆どをバイエルンアルプスの山麓にある父の城、ホーエンシュヴァンガウ城で過ごした。この城は父マキシミリアン王が皇太子時代に中世の城跡に建てたもので、城内は白鳥の騎士ローエーグリーンを始め、沢山の北欧やバイエルンの中世伝説を題材とした壁画で飾られている。こうした絵に囲まれて育った王子は、山の中の城で母マリーや少数の召使い達に囲まれ、外の世界に触れることなく想像力豊かなロマンティックな感性を育んでいく。
ルードヴィッヒ2世が少年の頃から抱いていた中世の憧れに火を付けたのはワーグナーとの出会いである。ルードヴィッヒ2世は15才の時にミュンヘンの宮廷劇場でワーグナーのオペラ「ローエーグリーン」を観劇する。子供の頃から慣れ親しんできた壁画の世界が、舞台の上で踊っている。彼は全身が震えるほどの感動を覚え、ワーグナーとその作品世界の虜となる。
1864年マクシミリアン2世が急逝し、ヴィステルバッハ家の王位継承者としてルードヴィッヒ2世は18才で第4代バイエルン国王となった。王としての権力を使い彼が最初にやったことは、ワーグナーを呼び寄せることであった。
若き王は国民の信望を集め、自らも理想の政治を行うことを願った。就任当初から執務にまじめに取り組み、公の場所にも頻繁に姿を見せ、190センチを超える長身に、母親ゆずりの美貌を持ち合わせていた王は国民の人気を呼んだ。
王のワーグナーへの傾倒はとどまるところを知らなかった。もともとカトリックの勢力が強く保守的な土地柄であるバイエルンは、新教徒で革新的な芸術家ワーグナーへの反感が強く、ミュンヘン市内では王の莫大な金銭贈与と保護に反感を抱き、反ワーグナー機運が高まっていく。ワーグナー反対運動の盛り上がりに王も仕方なくワーグナーに国外退去を進め、ワーグナーはミュンヘンを去っていった。しかしその後20年間、王のパトロンとしての立場は変わらず金銭的援助は続けられた。ワーグナーがヴェネツィアで客死するまで2人の親交は続き、行き交った手紙や電報は700通にものぼった。
1866年ドイツ国内では統一問題をめぐってプロイセンとオーストリアの対立が顕著となり、バイエルンを初めとするドイツ連邦諸国を巻き込んでいく。中立を主張するルードヴィッヒの意見は聞き入れられず、バイエルンは大ドイツ主義の立場で、対プロイセン戦争に参戦した。ビスマルク、モルトケを擁するプロイセンはオーストリア・ドイツ諸国同盟軍を一方的に打ち破り、わずか7週間で戦争は終わる。オーストリアはドイツからはずされドイツ連邦は解体、プロイセンはマインツから北の諸国を併合し、北ドイツ連邦を築いた。バイエルン他南部諸国は多額の賠償金の支払いとプロイセンとの軍事同盟を結ぶ事で独立を保たれたが、ビスマルクのドイツ統一の戦略が終わったわけではなかった。
1867年王の婚約が発表される。相手は従姉妹に当たるゾフィーである。この発表はバイエルンを沸かせ、記念硬貨まで作られ、婚礼用の豪華絢爛たる黄金の馬車までも準備されたが、結婚の日取りは王の希望で先へ先へと延ばされ、半年後王の側から一方的に婚約が解消される。これにはゾフィーの姉でオーストリアに嫁いだエリザベート(シシ)への思慕、あるいは王が性倒錯者で女性に関心が持てなかった事などがあげられているが真因は分かっていない。ときに王は22才であった。(ゾフィーはすぐに又いいお婿さんを見つけ嫁いでいる)
ゾフィーとの婚約解消後、政治と人間性の葛藤の中で王は人間嫌いになっていき、しばしば少年の頃を過ごしたシュヴァンガウの城に逃れるようになっていった。ある日城の窓から山上にある崩れ掛かった古い塔を眺めていた王は、「これを壊して中世風の美しい城、白鳥の騎士の住むような城を作ろう」と思いつき、この計画はたちまち王の心を虜にしていった。
1870年普仏戦争が起こる。戦後ビスマルクは南ドイツ諸国を北ドイツ連邦に加入させ、23の君主国と3つの自由都市の連邦としてドイツ帝国を結成しようと各国を説得する。バイエルンではプロイセン国王とバイエルン国王が交互に皇帝の位に就くという案を出した。バイエルンはプロイセンに次ぐ大国であり、軍事力ではプロイセンにかなわないが歴史的に見て王家の格という点でプロイセンよりはるかに上であると自負していた。しかしこの提案は受け入れられなかった。ルードヴィッヒが描いていたのはかつての神聖ローマ帝国皇帝のような象徴的な皇帝だったのに対し、ビスマルクが目標としていたのは名実ともに備わる統一帝国の君主としての強い皇帝であった。
1871年1月18日ヴェルサイユ宮殿・鏡の間においてドイツ帝国皇帝ウィルヘルム1世の戴冠式が盛大に行われた。全ドイツの王侯貴族が参列したが、バイエルン国王、ルードヴィッヒ2世の姿はなかった。ときに王は25才であった。
ドイツ帝国の成立により、ルードヴィッヒにとって国務は完全に無意味なものとなった。外交上の権限は全くなく、すべての重大事の決定はベルリンでなされた。権力の喪失とますます強まる現実逃避、そして王の築城への情熱が高まっていく。
ノインシュバインシュタイン城の工事を進めながら、ルイ14世と絶対王政への憧れから、キームという湖の男島と呼ばれる島にヴェルサイユ宮殿そっくりの城の着工にかかり、オーバーバイエルンにロココ風の宮殿リンダーホフ城を完成させた。王の3つの城(ノインシュバインシュタイン城・ヘレンキームゼー城・リンダーホフ城)の中で唯一完成された城である。王の築城への情熱には限りが無く、これらの城の建設と同時にノインシュバインシュタイン城よりも大きな中世風の城、ファルケンシュタイン、ビザンチン風の宮殿や中国風の宮殿など次から次へと計画が進められていた。
1871年王の弟オットーは精神病の悪化により、ミュンヘン近郊のフュルステンリート城に監禁された。前年の10月にはドイツ統一問題を話し合うヴェルサイユ宮殿での会合に兄に代わって出席するほど元気だったのに。このことはルードヴィッヒをますます孤独にしていく。即位したときのすらりとした長身と美貌はすっかり失われ、不規則な生活のために太り、歯が欠け落ち、人前にでることをできるだけ避け、国民の前にも殆ど姿を見せなくなってしまった。
当時の王の生活は昼と夜が逆転し、食事はいつも一人でとっていたが、時折数人分の食事が用意され、幻想の中でブルボン王朝の代表的人物達、ルイ14世、16世、ポンパドール婦人やマリーアントワネットらが招かれた。王の城の食堂は、人の出入りを嫌うために、食卓が自動昇降式(ノインシュバインシュタイン城は違うが)となっている。王はまるで目の前に王や王妃達がいるかのように語りかけ、食事を楽しんだと伝えられている。バイエルンの国民達は、滅多に姿を見せぬ王を「孤独な王」「おとぎの国の王」と呼び始めていた。
1886年、王の財政は築城の情熱により大きな負債を抱えていた。ときの首相ルツは早期に王室財政の危機に対応しなかった自分の責任を問われることを恐れ、王を退位させ、伯父のルイポルトを摂政にたてようと企てた。そのためルードヴィッヒ2世廃位の工作がなされ、王の側近達から精神異常を証明する証言を集め「王はパラノイア(偏執狂)という不治の精神病にかかっている」という診断書を作った。6月12日ノインシュバインシュタイン城にいた王のもとにミュンヘンの宮廷から役人達がやってきて、ついに王は捕らえられミュンヘン近くのベルク城に監禁されてしまった。かつて王が愛したこのベルク城は今や監獄と化し、窓には鉄格子が扉には覗き穴が付けられていた。そんな扱いを受けても王は静かに平静を保ち礼儀正しかったといわれている。
1886年6月13日は聖霊降臨祭の日曜日だった。朝から激しい雨が降っていた。午前中、王の希望で散歩が行われ、医師であるグッデンと看視人が付き添った。夕方6時過ぎ、王は再び散歩を希望した。今回は看視人はグッデンの指示で退けられ、雨の中黒いコートに帽子、黒い傘を持った二人は散歩道を歩いていった。長すぎる散歩に不審がもたれ、夜8時過ぎに捜索が始まる。本来ならこの時期、北国ドイツの空はまだ明るい時間なのだが、この日は雨が激しく、暗くなっていた。夜10時過ぎにシュタルンベルクの湖で、2人の帽子、王の上着、そして傘がみつかり、11時過ぎに二人の遺体が湖の中で見つかる。
王の遺体はミュンヘンに運ばれ解剖の結果、溺死ではなく急病死であると発表されたが、王の突然の死に暗殺説、自殺説、逃亡説、事故説などが囁かれた。二度目の散歩で王が逃亡か自殺を決意していたのは確かであろう。散歩中突然湖の中へ走り出した王を62才のグッデンがとめようとして格闘になり、誤って王はグッデンを殺してしまう。そのまま水へ入り突然の激しい運動、降りしきる雨、湖の冷たい水といった悪条件に心臓発作を起こしたのではというのが一つの説だが、二人の死は、いまだに深い謎として残っている。
王の葬儀はミュンヘンにて盛大に行われ、聖ミヒャエル教会に埋葬された。40年という短い生涯であった。]

バスを降り、ホテルミューラー近くから馬車やミニバスに乗る人もいるが、徒歩でゆっくりと眺めを楽しみながら坂道を上り、ノインシュバインシュタイン城に着く。
外観と違い内観は、少し暗い気がするも、外の景色の素晴らしさが一望できるのは、住人であった城主のセンスの良さであろう。
しかし、城内を説明する日本語の女性の声が、尚更、暗い。その為か不気味ささえ感じるのであるが、とにかく、ビデオ撮りに夢中になって進んでいたのであったが、突如ファインダーの中で遠くの方からこちらに近づいて来るものがある。ガイドのドイツ人であった。
近くに来た顔をファインダーで見ていると、この雰囲気に合った顔つきである。
んー、思いだした。昔のホラー映画に出ていた、狼男で有名なロン・チャニーJrそっくりである。
(彼は、身長189センチもあり、フランケンシュタインドラキュラ、ミイラ男、等四大モンスター全てを演じた俳優でした。写真は若いのですが、中年期の太った時期にそっくりでした))
その狼男が、この城で寝ているドラキュラでも起きてしまう程の大きな声で「Outside okay」「Inside no」と言ってるではないか。
最初は、何言うとるんや、と思っていたが、妻の「写真撮り駄目と違う、さっき書いてあった様にも思うわ」の言葉で直ぐにカメラを外すと、まじかな狼男が更に「Outside okay」「Inside no」と三連発言い放った。
お蔭で全員私に注目である。日本人に似て勤勉な仕事ぶりであったが、おそらく見えにくい所に写真の禁止の看板があったのだろうとも考え、又そんなに大きな声で言わなくても聞こえる距離であった。実に恥ずかしい。
「Understood」続けて「何度も言わんでも解った。外ならええんやな」と日本語にて返してやり、外の景色を引き続き撮りながら、「Outside okay」と狼男の顔を見れば納得していた様でもあった。
今から思えば大人げないが、盗む訳でもないのにとも思い、カメラ没収、場外撤去を覚悟で城内全てを撮ってやった。
旅行から帰った後、ビデオを編集した処、写真撮影の禁止の文字が映っていた。とほほ。
その様な自身の不注意から、ガイドの狼男にけんせいされながら、又妻の顰蹙にも耐え無事ビデオ撮りも完了し、城外に出た時は、腹が減っており、そんな腹ヘルシング状態からノインシュバインシュタイン城をバックにみんなで写真撮りを素早く済ませ、再び駐車場近くのレストランで、食事を取る事にした。
食事のメニューは忘れましたが、雰囲気の良い店であり、風景等からも先ほどの、ガメラ対狼男の件以外、お気に入りの場所にもなりました。
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感激!ヨーロッパ ミュンヘン都会のアフター「ファイヴ」ヘ  

2006-07-13 19:44:40 | 海外の旅行
次はディンケルスビュールでバスは停車、ここで各自、自由行動となる集合時間は2時間後となる。
そんな事より、今日のお昼の食事は、ミュンヘンにて中華料理になる事を添乗員の人から聞いた事の方が、嬉しかった。おそらく、そろそろ和食が恋しくなってきた為で、一様は東洋料理なので日本に近くなってきただけでもありがたかった。
ローテンブルクでは、嫌と言うほど街並を見たせいか、多少は大きな街ではあるが、感激が薄らいでいる。何を見学すれば良いのかも分からず、とりあえず地図があるからブラブラと行く事にした。
同じ大阪の若い新婚さん(関西の河内在住で、仮名は、「田辺さん」としておきます)は、何時も腕を組み、我々よりやや離れ、他の追従を許さない、完璧に二人の世界である。
ヨーロッパに着いて共に行動を取っている、もう一組の新婚さんの、(コンピューター関係の仕事をされています、仮名を「松井さん」としておきます)奥さんが、「何時も、ピッタリ寄り添って仲がええなあ」と言われたので、妻と奥さんの方を見る。
「あんたらも、新婚と違うの」と妻が確認する。「えっ、」・・・すると、笑いながら「家とこは、そんな雰囲気と違うもん」続いて、ご主人が言わなくてもいいのに「ほんと、そんな気もないし、全然似合わんし」思わず私が、「今やないと、後は益々ないで」とやはり言わないでもいいのに一言。
一言多かったが我々の本音の言葉に奥さん達も沈黙し・・・うっすら感じ取った我々は、先を急ぐ事にした。
他のツアーの人達も、自由時間ともなれば、やはり地理的、歴史的知識が薄い為か、どうしたものか、戸惑っているふうでもあった。
バッタリ、道で会おうものなら、奥さん達は、まるで旧知の再会の様な喜びである。
「さっき別れたばっかりやないか」と妻に問いただすも「ええやんか、広い街で会うから奇遇と思わん?」そんな事、思うか!。
懲りずに、会う人会う人と、浅い情報交換に没頭している始末である。
そんな、情報交換の甲斐もなく、パンフレット通りのコースを、先程の件の影響か、または側の新婚さんに触発されたのか、腕を組まされたと申しますか、連行されている様に、赤い屋根の木造の家並や、可愛らしい専門店で手工芸品、製陶品、陶磁器、木彫製品等を見ましたが、そんな所では買い物も無く、ひたすらビデオ撮りと写真撮りをした為か、持参のパンフレットより豊富で偏った写真資料になる結果になりました。
集合時間がきたと言うか、やっとバスに乗れると言った気持ちで、心は、はや昼飯の事で、頭がいっぱいである。
バスでは、自己紹介の続きを聞きながら、ミュンヘンの町へ向かうが、途中車に酔った奥さんの為に、ご主人が抱きかかえる様にバスを降りて介抱されていたのですが、しばらく誰も気がつかなかったぐらい、僅か2~3分で見事な奥さんの立ち直りであった。
「かなり、しんどそう、みたいだったけれど」と妻が「手を真っ直ぐ上げて、大丈夫ですって言ってから、テキパキして元気に乗らはったけどな」と私が説明する。「やっぱり、ご主人自衛隊の人やから」・・・どういう関係や、と思えば、バス後部から「はーい、もう大丈夫です ありがとうございました」と、おそらく照れ隠しの為か、ご夫婦揃って直立姿勢の最敬礼にて、前の乗客に向かって返事をくれました。・・そういう関係か。
ミュンヘンは、久しぶりに見る都会であり、我々の知っている、BMWの会社等や、何故かイタリアのフェラーリの会社そして、参加はしていないが、懐かしいミュンヘンオリンピック関係の競技場が点在していた。
美味しかったのか、美味しくなかったのか、ご飯粒に飢えていた為か、中華料理を味わう事なく昼食を済ませ、早速、明日訪れるノインシュバインシュタイン城にも関係する王族のルィードヴィッヒ1世の夏の離宮で、今は博物館であるニンフェンブルグ城の見学に行く。
不慣れな事もあるのですが、本の様な大きさの美術品なら、見易く感じますが、とにかくサイズのデカイのが多く、美術品に左程興味がない為か、途中からは、疲れも手伝い飽きがきて苦痛に感じる始末であった。
気晴らしと暇から「中華を食べて、消化もままならない状態で、直ぐに訳の解らん絵画やろ、これが本間の中消画やな」と一発みんなに言うも・・・「ほったらかしか!」
同じく飽きたのか、ギャグが効いたのか、はたまた旅行にも慣れたのか、我が相棒は元気で、写真を撮るたびに、しつこく端の方に顔を入れてくるのであり、「おい、端に顔を入れるな」・・「芸術品を撮るなら入れてよ」・・うー、風景写真が台無しだ。
どんな状況下でも思い出の記念である事から、端に小さく妻の顔を撮る事にした。
「ま、ええわ。写真を見る人の指の位置が、これで決まったな」  「・・・・・・」。
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感激!ヨーロッパ(ちょっと写真)

2006-06-18 10:46:18 | 海外の旅行
この間、衣替えのかたずけの時に写真が出てきました。
今まで自等の当時の写真を載せる事が出来なかった為、次回旅行記分を少し紹介させて頂きました。
※申し訳がないのですが、写真をまた写しました為に、鮮明なものではありませんが、ご辛抱ください。又、下記の最初の写真は風景のみの写真がなく旅行仲間が小さく撮れた風景写真でも、ご迷惑ですので、致し方なく相成りました。(誰も思わないので自分の感想では、映画的に申せば、上手く街に溶け込んだ見事な作品)

ここは、ディンケルスビュール、城壁と水濠に囲まれ、第二次世界大戦の戦火から逃れた事から、赤い屋根をかぶったカラフルな木組みの家並と石畳が中世の姿のまま迎えてくれた街です。
ミュンヘンにあるニンフェンブルグ城、博物館の庭園。バイエルン国王のルィードヴィッヒ1世は白鳥が好みの様です。
ヴィッテルスバッハ・バイエルン国王のバロック様式・夏の離宮です。ルィードヴィッヒ1世が愛した、黒髪で色白の36人の美人肖像画のギャラリーがあります。(絵画としては良かったんでしょうが、私好みの人は少なかった様に記憶しております)
これは、館内の天井に描かれたフレスコ画です。館内はベンチ等があり、美術に興味のない方は、苦痛意外何もので無い所なのですが、休憩は出来ますよ。
確かここは、ナチス結党のビヤホールで、樽型の天井が特徴だった様に思いますが、ナチス結党のビヤホールかは、少し自信が無いので、他では言わない様に願います。ただ、この時、写真に写っておられる、おそらくご夫婦だと思いますが、この一組の老夫婦のカップルがダンスをしておられたのが、可愛らしくて私の奥さんが、何時もの事なのですが、意味無く何枚も撮っていました。
次の日、毎日移動でフラフラになりながらも、有名な白鳥城・ノインシュバインシュタイン城が、見えたところのワン・ショットです。(この名をスラスラ言える様に、ここで日本人は言える人、そうでない人、ハッキリ分かれます)写真の様に、この時は私もボケており、前回の旅行記にも記載しました様に、失敗をしでかしました。
馬車等が通る道を上がり城下まで着きました。お祖父さんにあたる、ルィードヴィッヒ1世の名を継承したルィードヴィッヒ2世が建てた綺麗なお城でしたが、場内の日本語の案内の姉さんの声!暗すぎるで、本間。
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感激!ヨーロッパ ローテンブルグ妻には「フォー」ル負け

2006-05-16 12:22:12 | 海外の旅行
ローテンブルグでの妻は、クリスマス市の様な所(女の人が喜ぶ物が多く売ってましたね)で台所(食堂)の小物とか、クリスマスの日の飾りつける小物の様なのを買っていました。
一方私は、町の英雄の仕掛け時計を見る為に、何処からともなく集まって来る観光客でごった返すマルクト広場(もっとも我々も性懲りも無く2~3回見物の為に来ました)から近い、洒落た看板を掲げた感じの良い店でマイセンローズの皿を購入しました。
最初の会話がまずかった。「お前んとこの実家に、こういった物、みやげで送ったら喜ぶで」・・・「そうかな」・・・「着払いでな」
和ませるつもりが逆に不機嫌になった妻が「何すんの、そんなの買って」妻が購入した飾りつけ小物の買った訳を逆に聞きたいぐらいだが、話が長くなる為、ここはマイセンの食器を買った事に限って、適当に答える。「これに、たとえば漬物を入れてお茶漬けを食べるとか」すると一緒に行動をしている大阪のご夫婦の旦那が「なるほど、和洋せっちゅうでええかも」妙な協調をしてくれたお蔭で、冗談で言った事が買った立派な理由になる。?「フーン」二人の奥さんの拘りたくない様な返事が返ってくる。
一言で買い物に一つにも苦労するもんだ。と思いながら外に出ると、添乗員の女性にバッタリ合い、「あ、マイセン買われたんですか、いいお買い物ですね」ま、お世辞でも買ったそれなりの理由でも分かってくれる人がいる事は、喜ばしい事である。すかさず妻が「こういう処に来ないと日本では、買う気が起こらないものでしょう」と笑顔で、答える。「えー」と私が調子のいい妻の反応に、振り向くとワルガキの様な笑顔で私をけん制しつつ「何か買われたんですか」と切り返す「えー、ここでしか売っていなくて以前からほしい物があって、それを買って来たのです」と答える添乗員の女性から、買ったバックを見せてもらっている。
他の追従を許さない妻のあきれた海外シフトの情報収集である。
しばらくの間、私に限っては特に聞きたくもない立ち話しの後、添乗員の女性と別れ再び四人になる。なるほど、海外に仕事で良く行く人は、ここぞとばかりに舞い上がって買い物をする多くの観光客(特に女性)とは違い、冷静に日本に無い、自分に合った、しかも良い物を購入するんだなと、あえて的を得た買い物術に関心させられると同時にめったに行かない我々との差を感じさせられた。

旅行には、いつもビデオを持って撮りまくっているのですが、ブルク庭園では、掃除をしているおそらく現地の人が手をふるのを撮影しながら、しばらく歩いた所であったと思いますが、絵本の中にある様な家があり、その家を撮りながら玄関の扉へ近ずき「この扉をノックしたら中から可愛いお婆さんが出てくる様な家やな」と他の三人に言いながら扉の前に立つと、扉が開いた。いきなりファインダーの向こうに予想通りのお婆さんが、驚いた顔で「オー」の後、何か解らない言葉で言っている。
撮っているこちらが驚いているのだから、扉を開けたお婆さんはもっと驚いているのはあたり前なので、事態の修復にあわてて知ってる限りの英語で「I’m sorry.」続けて、訳を説明しなければ、「えーと」「えー・・・It is a lovely house.」と言いながら家とビデオを指さしながら頭を下げる。必死の訴えが通じたのか滑稽に見えたのか、胸を押さえながら笑ってくれた。
「ヤーパン」と笑顔で質問に、ホッとした気持ちからか「誰が、[野蛮]やねん」と言葉が解らない事をいい事につっこむも空しく滑る。
どうも、カメラを通して覗くと、常識がなくなるのか後のノインシュバインシュタイン城でも失敗をしでかすのではあるが、まずはお婆さんの心臓の強さにここは感謝であった。


ホテルに帰り、夕食を済ませると例のヨーロッパ様式の浴槽が待っている。最初この浴槽を見た時点で予想した通りの展開でなんとか入り終えるのですが、いつも思うのは映画の場面でこの様な泡だった浴槽から出る場合、そのまま体に付いた泡を洗い流す事なくすぐにバスタオルでくるんで浴槽から出るのですが、映画の進行的には綺麗なのですが、日本人の私には理解に苦しむ場面です。まずは、無意味に広い部屋の浴槽で一人文句を言いつつ、床に水が飛び散らない様に何とか工夫しながら入ったものと考えます。
ホッとする間もなく旅行の前半、毎日移動が続く為の旅行カバンとの格闘をし、それらの普段日常生活には無い事等からくる疲れにまかせ、爆睡する。


明くる日ミュンヘンまでのバス移動であり、朝から快晴でビデオ撮りにも最高のコースである。
しばらく乗っていると、添乗員の女性が、「次の町まで時間が少しあるので折角みなさんご一緒に旅行されて、これからまだまだ旅行は続きますので、一人一人自己紹介しましょう。」
と言ったとたんに「ではトップバッターは・・・・さんからお願いします。」いきなり私だ、本当に一曲歌ってやろうかと思ったが、運転手に事故でも起こされると洒落にもならないので、一つ面白い話をと、新婚さんが多い事から結婚式での信じられない話から、ご祝儀袋に書く文字を「御祝」を「御呪」と書き間違えた後輩に最初に発見した私が「お前は祈祷師か」から始まった大騒ぎの件等の話で適当に笑いを取ったのは良かったのですが、後に続く人達も笑いをまじえる話の使命感から、中々終わらず途中の見学を挟み長時間になる始末であった。
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感激!ヨーロッパ ローテンブルグ昔にタイム「スリー」ップ  

2006-04-29 04:19:35 | 海外の旅行
次の日、昨日迄の雨が嘘の様に空は快晴だ!これからの訪問地への期待も膨らんで素晴らしい朝を向かえる。
ハッキリと目に入るハイデルベルグの街並が、ヨーロッパと言う実感をあえて味わわせてくれている。

このツアーは2グループA班とB班に分かれており、私はA班で最長老、(なんてね。単に年を食っているだけだ)約15組のカップル内、大阪(関西)は3組私を入れて6名とにかく少ない割に賑やかしい(私を筆頭に)ちなみに、B班は年配の人が多い。

朝食もウキウキ済ませ、さあバスで行ったろかア
その意気込みは良かったが、昨日までの強行軍の為すぐに寝る。周囲のざわめきで二度目の朝をむかえる。街道沿いの古城巡りであり、頭に直接輸血をしないと目が覚めない思いであったが、見るもの聞くものが、趣があり歴史を感じ、何より新鮮味が在る事から好奇心と言う血液が注入されたか様に絶好調である。
次の古城までのバスからの景色は、牧草地に大きな造園かの如く木々が点在し小さな町はそれら風景に溶け込む様に可愛いアクセントとなっている。
日本ではまず、見られない保養だ。(大体この街道沿いの景色は全てが土地の形状に合わせて目を楽しませてくれる)
三回目の古城を見学する時には、妻はバスを降りない、つまり見学をしないと言う。他の親しくなった人に誘われても行く気がない様だ。「何で行かない」聞くと「古城が何か気持ち悪い」と言う。「お前が一人バスに居る方が気持ち悪いやろ」冗談交じりに怒られる覚悟で言ったが、以外と素直に見学をした。これもヨーロッパのおかげ、かな。

前記した様な道中を終え、バスはローテンブルグヘ着き、女性が喜ぶ様な、ペンションに案内される。
荷物を置き、部屋の探索と言っても小さい部屋であり可愛い調度品等を見ながら、バスルームで考えさされる物をみたのです。
絨毯上にバスタブがありそのやや上にシャワーの口、しかも固定なのだ。自分の日本人的な風呂の利用方法をこのバスタブで実行した場合の無様な様子が頭に浮かび悩んで入れば、親しい大阪の一組の訪問があり、部屋を見に来たのである。奥さんが「いやー、こっちの方がええわ」妻が「うそ、本当?」彼らのバスルームはシャワーではなく蛇口だけとの事、「私ら良かったね」と妻は言ってきた。何と言うレベルの低い慰めか。ま、しかし最悪なバスルームもある事で、低いなりの納得。

食事までの空いた時間、街の探索とショッピング、彼女達はほぼ買い物目的?しかし石畳の道を挟む様に作り物の様な家々が、それぞれの個性を披露している。又この小さな街に郊外があるかの様に田舎風な一角もあり、そこに建つ民家も先に紹介した家々とは異なり丸みのある又暖か味を感じさせる。
路地を抜ければ広場が現れ、人々に優しく時を告げる時計台が広場を見つめている。
折々買い物をするが、男はあまり買う物がない。ふと気がつくと妻はあまり大きな買い物をしていない(ははーん、読めたフランスで爆発するな




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感激!ヨーロッパ ドイ「ツー」夜のハイデルベルグ

2006-04-26 04:46:24 | 海外の旅行


フランクフルトからバスでハイデルベルグに到着したのは、日が暮れていた。少し小雨だ。


先に古城、ハイデルベルグ城中に入れば日暮れノ為か、やや暗く昔の臨場感がそのままあじわえる。すると目の前に世界最大のワインの大樽(22万1700l入る)が見えてくる城の中ではなく、まるで酒蔵と言った方がいい。


城壁からの展望は、まるで14世紀のヨーロッパである(ここには足跡らしきへこんだ形があるのだが、昔上から飛び降りて付いた物らしいが定かでない)又、増改築によるルネッサンス、バロック、ゴシック様式ノ建物が残っており歴史的な興味をそそられる。妻の傘のトラブルでなんだかんだあった以外、順調なはじまりだ。


約1時間程の古城見学の後、街に出たのですが現在の記憶では、みやげの買い物と私の一番見たかった学生牢である。小さい時に親父が見ていたT・V番組(兼高かおる世界の旅)で案内されていた頃から何故か興味があった。投獄された学生は名誉な事で2~3日はパンと水でその後は、差し入れが許されるらしい。内部の落書きがあり、有名人のメッセージもあるのだが、残念な事に読めない。しかしコノ時の妻は、みやげ物を見る時は元気なのだが、歴史的な物は全く脱水状態の様だおそらく帰っても記憶にはあるまい。


ホテルに帰り食事を終え、部屋に入り風呂が終わり、寝たいのだが、明日がさっそく移動日なので、トランクと格闘しなければならず、買い物が増えると、これから先どうなる事やら(今日はこれぐらいにしといてやらー)と思っていると部屋の中に光が走る、妻が自分で自分の写真を撮っている。(今でもアルバムにあるが、俺は後頭部しか写っていなかった)。


 

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感激!ヨーロッパ 原っぱとちゃうワン

2006-04-22 05:01:29 | 海外の旅行
未だ、東西冷戦の終焉の頃、少したいそうな前書きになったが世界的には、大した事では無いが個人的には、小さい頃からの憧れのヨーロッパだ。

航路は、アラスカ周り行きはいいが、帰り結構キツイ、おまけに日本に着いても大阪迄帰らないといけない。
まあ、帰りの愚痴は、それまでにして行きは最高の気分。朝の四時か五時にまず最初の国オランダ・ダ。まるで歓迎してくれるかの様に雨、さして見たくもない木靴工場の見学、就職する訳でもないのに工場見学、しかし外に出れば写真と絵画でしか見た事のない風車。まるで日本の水車と灯台を足して二で割った様な訳の分からない感動、話は逸れるがここの女性はデカイこのゲルマンサイズは本編最後に思い知らされる事も知らずにご機嫌な気分で、次は男にはドキッとするダイヤモンド加工のこれまた見学、ちなみに妻の存在もこの時ばかりは、何故か一緒だ。とあえて思った次第で早々に出て、一路スキポール空港からフランクフルト空港、持っているタバコの数にクレームをつけられながらも添乗員さんを交えて懇談。向こうの勘違い、簡単な事だ!なんてね話せない辛さを いい思い出に無理やりにして、そんな場合じゃない次はトイレなのだが小の便器がやたらと高い、おつりが返ってこない高さまでバレーの気持ちでジャッキアップをしなくては、こんな事だったら後ろの大専用の扉にアジア人用と書いておけよ。しばらくして両隣にはサイズに合ったゲルマン人、思わず高さの違いに納得しました。ね(汚い話で申し訳ないです)この次はきれいな思い出話をかきます。
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