西洋と東洋の狭間

何かにつけ軌道修正の遅い国で有るが一端方向転換すると、凄い勢いで走り出し今までの良き所まで修正してしまう日本文明

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ディープよ、伝説となれ。

2006-09-27 11:31:34 | 世界の競馬
スーパージョッキー武豊が26日、決戦の地フランスへ向かった。彼にとっても、過去、凱旋門賞には2度挑戦。初参戦で当時25歳の94年は、ドーヴィル大賞典を勝った本命馬だった1番人気のホワイトマズルに騎乗したが、欧州で実績のない騎手が、日本人オーナー(吉田照哉氏)の馬というだけで騎乗して、現地関係者の厳しい視線を受けながらのレースは、後方から差を詰めただけの6着に終わり、その厳しさを味わった。
武豊にとって、凱旋門賞は、是が非でも持ち帰らなければならない“忘れ物”であり、20年の騎手生活の集大成を見せる時が来たのです。
そして、何としても勝ちたいレースに、デビューから騎乗する日本最強馬にまたがって臨む、世界が注目のロンシャンの大舞台。
25日、自身のホームページにこう記した。「ボク自身の人生に悔いを残さない、そんなレースをディープインパクトとともに戦ってくるつもりです。それでは、行ってきます」強い決意を胸に秘め、武豊はフランスへ旅立つ。

私にとりましても、競馬歴35年間待ちに待った日本馬での悲願の世界ナンバー1であった。
昭和52年12月18日「有馬記念」(中山芝2500)スタートから延々と続き、4コーナーを回る2頭が西日を浴びて黄金色に輝くシーン、そして一騎討ちにピリオドを打ったのは、最後の直線でグイッと前に出たテンポイントであった。史上類を見ない壮絶な一騎討ちは、荘厳なまでの美しさで見事に完結し、明け5歳になったテンポイントの充実ぶりは、凄まじいものであった。しかし、最強馬として挑む海外遠征前に、日本のファンの為にもと日本最後のレースでの楽勝と思わせた瞬間であった。懸命の関係者の手当ての甲斐なくテンポイントは、静かにターフを去った。
次世代の最強馬シンボリルドルフの故障、等過去当時日本最強馬の挫折が続いたのであるが、上手くスタート出来たにしても、おそらく勝てなかっただろうとも考える。
1999年、エルコンドルパサーがフランスに渡った。戦績は4戦2勝、2着2回というもので、その中にはGIのサンクルー大賞勝ち、凱旋門賞2着が含まれている。この年、エルコンドルパサーは日本のレースに一度も出走しなかったにもかかわらず、年度代表馬に選出された。欧州でのGI制覇に加え、凱旋門賞で好勝負したという事実が、日本馬をどれだけ高く評価されたかの証左といえるだろう。
そして今こそは、実力的にも手の届く処にまで、来たと実感する。

ディープインパクトを見るに、脚質こそ違えれど、鹿毛で小柄でスピード、スタミナを兼ね備えたイタリアが世界に誇る(私が思う、史上最強馬・牡・鹿毛・英国産 1952-1972)ちびっこ・リボーがだぶる。世に多くの名馬を送り、彼を創り出した、天才と呼ばれたイタリアの馬産家フェデリコ・テシオ(1855~1967)のもう一頭の傑作馬、ネアルコ(14戦無敗馬)と異なり、調教では助手を振り落とし、レースでは騎手のことは一切聞かずに我が道を行く。とても意志の強い馬だが、彼の意見を尊重すれば素晴らしい結果を出してくれるのであったが、その様に気性が悪くその遺伝子を伝える事から、凱旋門賞等の多くの活躍馬を出したが、ネアルコほどの繁栄はしていないのである。日本で供用された彼の直仔マロットからは、4歳時(現年齢方では、3歳)に菊花賞、有馬記念を勝ったイシノヒカル、同じくロムルスからは中京3歳ステークス勝ちのランドジャガーがいる。
雨の降る中で行われた1956年の弟35回凱旋門賞(仏GI)。
このレースでは、1頭の鹿毛馬が、観衆の注目を一身に集めていた。大柄な馬たちに混じった子馬のように小さな、その馬の名はリボーといい、これが引退レース。
そして、この華奢な馬が前人未踏のある偉大な記録を達成しようとしてた為、この偉業見たさに、多くの人が詰め掛けたのである。
15戦全勝、勝ちは殆ど楽勝で迎えたこのレース。勝てば、タンティエーム以来、史上5頭目の凱旋門賞2連覇となり、未だ無敗での連覇達成記録はなかった。
こうして未だ無敗で迎えた2度目の凱旋門賞。これがリボーにとっての引退レース。
斥量60kg、圧倒的な一番人気にも当馬はおじけることなく、ただ当たり前に事が過ぎようとしていた。レースはやはり、リボーが愛ダービー馬タルゴにの6馬身差を付け圧勝。
この着差はシーバード(1963~1972)と並ぶ凱旋門史上最大着差でもある。
(公式記録では6馬身差となってるが、実際には8馬身~9馬身はあったとも言われている。)通算競走成績、16戦全勝、リボーはこの日、伝説となった。
だが最も驚くのは、このレースでリボーは最後まで馬なりだったという事実である。「ちびっこ」と呼ばれた鹿毛の小さなその馬は、結局生涯負けることがなかった。
その事からも、リボーより50年になる今年のディープインパクトは何か巡りあわせの様な気がするのである。そして伝説となれ。

当日の輸送は
日本では通常、早朝に輸送し、競馬場内にある馬房で装鞍(そうあん)を待つが、フランスでは直接、装鞍所に入ってパドックへ向かう。「レース当日はどれぐらい道が混雑するか想像できないが、あまり早く行っても仕方がない。2時間から1時間半前に着きたいところ」と池江泰郎師。ここまで順調に調整してきただけに、レース当日に輸送でテンションがあがるようなミスは避けなければならない。「いかにスムーズに輸送できるか、準備していきたい」。
「ロンシャンの馬場は芝が生え揃って、クッションの利いたいい状態でした。雨が降って馬場が悪くなっても、ディープなら克服してくれると信じている」とトレーナーは絶対の信頼を寄せている。ロンシャンでは、レース当日の後半、秋シーズンとして初めて馬場を全面開放。仮柵で保護されていた約15メートルの“グリーンベルト”が登場する。今年は少頭数が確実で、ディープが外目からレースを進めても、グリーンベルトの恩恵に浴することができるはずだ。


出走予定馬 馬番・ゼッケン番号、( )は枠番・ゲート番                      
1、(2)ディープインパクト(Deep Impact) 牡4 日 日 59.5 武   豊 池江 泰郎 (10、1、0、0)                

3、(6)シロッコ (Shirocco)牡5 独 仏 59.5 C.スミヨン A.ファーブル (7、1、3、1)              

2、(1)ハリケーンラン(Hurricane Run) 牡4 愛 仏 59.5 K.ファロン A.ファーブル (8、3、0、0)            

4、(5)プライド(Pride) 牝6 仏 仏 58.0 C.ルメール A.ドゥロワイユデュプレ (7、4、4、8)       

8、(3)ベストネーム(Best Name) 牡3 英 仏 56.0 O.ペリエ R.コレ (2、2、0、1)              

5、(4)レールリンク(Rail Link) 牡3 英 仏 56.0 S.パスキエ A.ファーブル (4、1、0、1)

6、(8)シックスティーズアイコン(Sixties Icon) 牡3 英 英 56.0 L.デットーリ J.ノセダ (3、0、1、2)

7、(7)アイリッシュウェルズ(Irish Wells) 牡3 仏 仏 56.0 D.ブフ F.ロー (3、1、3、1)

現地時間10月1日に仏・ロンシャン競馬場で行われる凱旋門賞(仏G1)に出走を予定していた今年の英ダービー馬サーパーシー Sir Percy(牡3、英・M.トレゴニング厩舎)が、調教中に肩の筋肉を痛めた為、同レースを回避することが分かった。
サーパーシーは、父Mark of Esteem、母Percy's Lass(その父Blakeney)という血統の英国産馬。05年5月のデビュー戦からデューハーストS(英G1)まで無傷の4連勝を達成。英2000ギニー(英G1)はジョージワシントン George Washingtonの2着に敗れたが、続く英ダービー(英G1)を大接戦の末に制し、その後は凱旋門賞に向けて調整が進められていた。通算成績6戦5勝(G1・2勝)。

日本調教馬の過去、凱旋門賞成績
開催回 年度 馬名 着順 騎手 調教師
第48回 1969年 スピードシンボリ 10着 野平 祐二 野平 省三
第51回 1972年 メジロムサシ 18着 野平 祐二 大久保末吉
第65回 1986年 シリウスシンボリ※ 14着 M.フィリッペロン 二本柳俊夫
第78回 1999年 エルコンドルパサー 2着 蛯名 正義 二ノ宮敬宇
第81回 2002年 マンハッタンカフェ 13着 蛯名 正義 小島   太
第83回 2004年 タップダンスシチー 17着 佐藤 哲三 佐々木晶三
※=フランス調教馬


凱旋門賞が開催されるロンシャン競馬場は、
特別なコースで、スタート後すぐに上り坂、そのあと下り坂で、いかに上手く下るかであり、下りにまかして走れば、直線での足が止まりかねない為、そこでの位置取りが大事です。
ヨーロッパ競馬の道悪は想像を絶する。ここ10年の凱旋門賞で最も速い決着は97年パントルセレブルの2分24秒6(良)。最も遅いのが99年モンジュー(エルコンドルパサーが1/2馬身差2着)の2分38秒5(不良)で、その差13秒9。85日本ダービー馬シリウスシンボリが86年春に同じロンシャン芝2400メートルのGIIIエドヴィル賞に出走(6頭立て5着)した時は極悪馬場でスローペースの影響もあり、2分57秒6(優勝馬ベイビーターク)と2ハロン以上長い距離と勘違いしかねない遅い決着となった。
ジャパンCを例に取ると、日本はコースがよく整備されていることもあって不良は1度もなく、昨年英国のアルカセットがマークしたレコード2分22秒1(良)に対し、最も遅いタイムでも85年シンボリルドルフの2分28秒8(重)と差は6秒7でしかない。フランスの競馬場はヨーロッパの中では整備されている方だが、簡単にいえば路盤が粘土質のため、雨が降ると非常に重くなる。
ディープインパクトは、重でも克服はしてくれるだろうが、何といっても最後の切れ味勝負の馬であり、出来れば、スピード競馬に持ち込みたい。
又、ロンシャンは直線が長い割には前が残る競馬場でもある。
秋のロンシャンでは、日本同様に仮柵を外して凱旋門開催を迎えるので、どうしてもインが強くなりがちであり、スローで団子の展開となった場合にはインを取れる先行馬に味方する。一方で重くなったら想像以上に、先行馬が有利になる。そして、前記しました様に、下り坂とフォルスストレートのコンボは、差し馬にとって仕掛けのタイミングを容易ならざるものとなり、人馬共に我慢が要求される。
ステップレースでのニエル賞では、直線Youmzain(ユームゼイン)が追いんだが、ゴール前では、脚が止まりRail Link(レイルリンク)の半馬身差の2着となり、フォア賞でも、あのキングジョージでハーツクライを抜かせなかったHurricane Run(ハリケーンラン)が、やはりゴール前では、脚色が劣り始めShirocco(シロッコ)のクビ差2着となった様に、仕掛けが、早い又は、同じでも前の馬が有利な展開になっているが、逆に仕掛けが遅くなれば、Rail Link(レイルリンク)がラスト3Fは34.6で、長くいい脚を使えることを証明した様に届かないおそれがある。
その事から、ディープインパクトが、ラスト3Fを33秒代でくるであろと思うが、仮に、ロンシャン競馬場の馬場で難しいと考えれば、おそらく34秒前後になると推定し、最大の武器でもある、他馬に比べ驚異的に長くいい脚を使える強みを発揮するタイミングとしては、小頭数の利を活かせる為、特に大事なポイントとして、直線では、馬なりで先頭に近い位置からロングスパートをかけ、なるべくならば、並ぶ事なく抜き去るのが、(ディープインパクトの何時ものパターンなのですが、有馬記念の様な展開では、この相手では勝てないおそれがある)より効果的とも思えます。
ただ、希望的観測から申せば、常識を覆す処がおおいにある馬でもある事から、案外楽勝って事も信じたいものです。
10月1日は、幸い晴れの模様であり、ハリケーンラン、シロッコ、とのレベルの差は、正直、解らないが、充分差し切れると考える。
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感激!ヨーロッパ「シックス」ティーズの時代が薫る街並を後に

2006-09-19 22:10:53 | 海外の旅行
今日の宿泊のホテルには夕刻に着き、今後の予定は、何か世界一美味しいソーセージを食した後、ナチス結党のホーフブロイハウスやビヤホール、その後は自由で各自ホテル帰る段取りである。
まずは、地下鉄にて切符を買って、次は、しかし改札が無い、無いって事は、妙な事に入り口が判らないし、ケジメが無い事からか、何か落ち着かない、変な気持ちである。
添乗員の女性に、「買わないで乗ればどうなるんですか」なんて下世話な質問に「時々検札に来るのですが、無賃乗車になる訳ですから、罰則としての追徴金が多いらしく、日本の比ではないらしいのです」との事、なるほどリスクが大きい。
そんな事より、無事この地下鉄でホテルに帰れるかが、心配ではあるのだが、世界一美味しいと言われた事でソーセージを食べる時には、何時もながら夫婦でその事で頭がいっぱいであった。
日本のソーセージを食べ慣れている為か、そんなには上手くは無かったのが率直な感想であり、それより、サラいっぱいに盛られたポテトには、何と飾り気のない、無造作な盛り付けかと思うのと同時に、小学校の給食でのポテトサラダを思い出し、美味しくないと言うか、量の多さにも正直うんざりする思いであり、食べ慣れたマクドナルドのフライドポテトを思い出す始末である。
「こんなポテトばかり食べてるわりには、大きく育つんだなドイツ人は」と妻に言ったが、その表情からも言わんとする事が理解でき、周りのコンさんや河さん達夫婦もお皿にはポテトだらけであり、案の定食べきれなかった様であった。
ソーセージのハズレの次はナチス結党の場所である、ビヤホールは、あのヒトラーに関係する所でもあったが、歴史や映画好きな私には、感慨深いものがあるが、我が妻や他の奥さん達は、そんな事には興味が全くないのであって、ソーセージとポテトの憂さ晴らしか、ビールではご満悦であり、小さな老夫婦のダンスを見ては、「可愛い」の連発、又何かといえば写真の連射であり、趣味とか思いが異なれば、こうも違うものかと、関心させられる。ヒトラーも、もし生きて、こんな人達を見たならば、あれだけの事をした自分を無視されているどころか、眼中にもない現実に、自身の小ささを始めて経験した事であったろう。平和が生んだ産物は強いし、歴史の重みも吹っ飛んだ。
中途半端な満足感で、街に繰り出す。街は、何かヨーロッパの別な味わいがあり、1960年代の映画の中に居る感じがして、百貨店や繁華街を歩く、フィルムと8ミリテープ、ビヤジョッキ等を買い、帰りは他の人達とは別れ、コンさん夫婦とまともに戻れそうなタクシーでホテルまで帰る事にした。
タクシーの助手席には、私が座らされ、運転手担当になった。
行き先「Please go to the ○○○hotel.」を言うとドイツ人ではない、何か中東風な運転手が、気さくな感じで返してきた。
別に聞かなくても良いのであるが、何となく質問「Where is your country?」・・・「I am Greece.」と聞いた。「おー、ギリシャらしいで」と後ろの席に言うと、そこからが勢いで、ホテルに着くまで喋り捲りだった。知ってるだけのギリシャの名詞を並べるも、運転手は陽気な人で、何とか意志の疎通が可能であり、気が合う。向こうはどう思ったかは知らんけど。
約1/5程度の理解度で、こうも話せるのか、愉快でもあったが、運転手の方は、時折、私の言った事に理解出来ないのか、目が遠くを見つめ、必死に考えていた処があったが、自分なりの解釈が出来たのか、満足したのか笑顔で返してくる。率直に、実に可愛い奴である。
「これは、チップもはずまないといけないな」なんて妻に日本語で言っても、会話に関係ないのであるが、やはり、運転手は、目を白黒させ、考え込んでいる。
その表情を見て、「チップだけ解ったかも知れんな」とみんなに説明、そんなやりとりでおそらく、この運転手が、初めて経験する騒がしい、陽気な日本人の車内であった。
妻には、言ったものの、小銭がなにやら多く、じゃまであった。ホテルに着くとポケットから全てを出し、笑顔で「For you.」。運転手は満面の笑みで「Thank you.」
頭の中では、小銭の量は多かったのだが、金額的には、少なかった様にも思えていたのだが、コンさんの奥さんの言葉で、ハッキリした。
「あの運転手さん、最初は物凄く喜んでいたはったのに、お金数えながら不満相な顔でこっちの方見てたよ」とその状況説明で「やっぱりな、少ないとは思っていたんやけど、小銭がじゃまで、整理したんやわ」と運転手のポカーンとした表情の意味を話す。
妻が、「可哀そうに」と言葉と違い、運転手の表情のギャップが滑稽だったのか、おもいっきり笑っていた。
あくる日は、ノインシュバインシュタイン城へ出発である。
ホーエンシュヴァンガウ城等をバスから見ながら、ルードヴィッヒ2世とノインシュバインシュタイン城等の話を聴く、しかし素晴らしい眺めであり若きルードヴィッヒ2世の身の上も理解出来るものでもある。

ルードヴィッヒ2世について(他、ルードヴィッヒ2世記事参照)
[今から150年程前の1845年8月25日、バイエルン王国の首都ミュンヘン郊外にあるニュンフェンブルグの宮殿で、バイエルン王国皇太子マキシミリアンとプロイセンの王女であった妻マリーとの間に待望の世継ぎが誕生。父マキシミリアン2世は王子にとって祖父にあたるバイエルン王ルードヴィッヒ1世の名をもらい、この王位継承者である赤ん坊にルードヴィッヒ2世と名付けた。
その後王子は弟オットーと共に少年時代の殆どをバイエルンアルプスの山麓にある父の城、ホーエンシュヴァンガウ城で過ごした。この城は父マキシミリアン王が皇太子時代に中世の城跡に建てたもので、城内は白鳥の騎士ローエーグリーンを始め、沢山の北欧やバイエルンの中世伝説を題材とした壁画で飾られている。こうした絵に囲まれて育った王子は、山の中の城で母マリーや少数の召使い達に囲まれ、外の世界に触れることなく想像力豊かなロマンティックな感性を育んでいく。
ルードヴィッヒ2世が少年の頃から抱いていた中世の憧れに火を付けたのはワーグナーとの出会いである。ルードヴィッヒ2世は15才の時にミュンヘンの宮廷劇場でワーグナーのオペラ「ローエーグリーン」を観劇する。子供の頃から慣れ親しんできた壁画の世界が、舞台の上で踊っている。彼は全身が震えるほどの感動を覚え、ワーグナーとその作品世界の虜となる。
1864年マクシミリアン2世が急逝し、ヴィステルバッハ家の王位継承者としてルードヴィッヒ2世は18才で第4代バイエルン国王となった。王としての権力を使い彼が最初にやったことは、ワーグナーを呼び寄せることであった。
若き王は国民の信望を集め、自らも理想の政治を行うことを願った。就任当初から執務にまじめに取り組み、公の場所にも頻繁に姿を見せ、190センチを超える長身に、母親ゆずりの美貌を持ち合わせていた王は国民の人気を呼んだ。
王のワーグナーへの傾倒はとどまるところを知らなかった。もともとカトリックの勢力が強く保守的な土地柄であるバイエルンは、新教徒で革新的な芸術家ワーグナーへの反感が強く、ミュンヘン市内では王の莫大な金銭贈与と保護に反感を抱き、反ワーグナー機運が高まっていく。ワーグナー反対運動の盛り上がりに王も仕方なくワーグナーに国外退去を進め、ワーグナーはミュンヘンを去っていった。しかしその後20年間、王のパトロンとしての立場は変わらず金銭的援助は続けられた。ワーグナーがヴェネツィアで客死するまで2人の親交は続き、行き交った手紙や電報は700通にものぼった。
1866年ドイツ国内では統一問題をめぐってプロイセンとオーストリアの対立が顕著となり、バイエルンを初めとするドイツ連邦諸国を巻き込んでいく。中立を主張するルードヴィッヒの意見は聞き入れられず、バイエルンは大ドイツ主義の立場で、対プロイセン戦争に参戦した。ビスマルク、モルトケを擁するプロイセンはオーストリア・ドイツ諸国同盟軍を一方的に打ち破り、わずか7週間で戦争は終わる。オーストリアはドイツからはずされドイツ連邦は解体、プロイセンはマインツから北の諸国を併合し、北ドイツ連邦を築いた。バイエルン他南部諸国は多額の賠償金の支払いとプロイセンとの軍事同盟を結ぶ事で独立を保たれたが、ビスマルクのドイツ統一の戦略が終わったわけではなかった。
1867年王の婚約が発表される。相手は従姉妹に当たるゾフィーである。この発表はバイエルンを沸かせ、記念硬貨まで作られ、婚礼用の豪華絢爛たる黄金の馬車までも準備されたが、結婚の日取りは王の希望で先へ先へと延ばされ、半年後王の側から一方的に婚約が解消される。これにはゾフィーの姉でオーストリアに嫁いだエリザベート(シシ)への思慕、あるいは王が性倒錯者で女性に関心が持てなかった事などがあげられているが真因は分かっていない。ときに王は22才であった。(ゾフィーはすぐに又いいお婿さんを見つけ嫁いでいる)
ゾフィーとの婚約解消後、政治と人間性の葛藤の中で王は人間嫌いになっていき、しばしば少年の頃を過ごしたシュヴァンガウの城に逃れるようになっていった。ある日城の窓から山上にある崩れ掛かった古い塔を眺めていた王は、「これを壊して中世風の美しい城、白鳥の騎士の住むような城を作ろう」と思いつき、この計画はたちまち王の心を虜にしていった。
1870年普仏戦争が起こる。戦後ビスマルクは南ドイツ諸国を北ドイツ連邦に加入させ、23の君主国と3つの自由都市の連邦としてドイツ帝国を結成しようと各国を説得する。バイエルンではプロイセン国王とバイエルン国王が交互に皇帝の位に就くという案を出した。バイエルンはプロイセンに次ぐ大国であり、軍事力ではプロイセンにかなわないが歴史的に見て王家の格という点でプロイセンよりはるかに上であると自負していた。しかしこの提案は受け入れられなかった。ルードヴィッヒが描いていたのはかつての神聖ローマ帝国皇帝のような象徴的な皇帝だったのに対し、ビスマルクが目標としていたのは名実ともに備わる統一帝国の君主としての強い皇帝であった。
1871年1月18日ヴェルサイユ宮殿・鏡の間においてドイツ帝国皇帝ウィルヘルム1世の戴冠式が盛大に行われた。全ドイツの王侯貴族が参列したが、バイエルン国王、ルードヴィッヒ2世の姿はなかった。ときに王は25才であった。
ドイツ帝国の成立により、ルードヴィッヒにとって国務は完全に無意味なものとなった。外交上の権限は全くなく、すべての重大事の決定はベルリンでなされた。権力の喪失とますます強まる現実逃避、そして王の築城への情熱が高まっていく。
ノインシュバインシュタイン城の工事を進めながら、ルイ14世と絶対王政への憧れから、キームという湖の男島と呼ばれる島にヴェルサイユ宮殿そっくりの城の着工にかかり、オーバーバイエルンにロココ風の宮殿リンダーホフ城を完成させた。王の3つの城(ノインシュバインシュタイン城・ヘレンキームゼー城・リンダーホフ城)の中で唯一完成された城である。王の築城への情熱には限りが無く、これらの城の建設と同時にノインシュバインシュタイン城よりも大きな中世風の城、ファルケンシュタイン、ビザンチン風の宮殿や中国風の宮殿など次から次へと計画が進められていた。
1871年王の弟オットーは精神病の悪化により、ミュンヘン近郊のフュルステンリート城に監禁された。前年の10月にはドイツ統一問題を話し合うヴェルサイユ宮殿での会合に兄に代わって出席するほど元気だったのに。このことはルードヴィッヒをますます孤独にしていく。即位したときのすらりとした長身と美貌はすっかり失われ、不規則な生活のために太り、歯が欠け落ち、人前にでることをできるだけ避け、国民の前にも殆ど姿を見せなくなってしまった。
当時の王の生活は昼と夜が逆転し、食事はいつも一人でとっていたが、時折数人分の食事が用意され、幻想の中でブルボン王朝の代表的人物達、ルイ14世、16世、ポンパドール婦人やマリーアントワネットらが招かれた。王の城の食堂は、人の出入りを嫌うために、食卓が自動昇降式(ノインシュバインシュタイン城は違うが)となっている。王はまるで目の前に王や王妃達がいるかのように語りかけ、食事を楽しんだと伝えられている。バイエルンの国民達は、滅多に姿を見せぬ王を「孤独な王」「おとぎの国の王」と呼び始めていた。
1886年、王の財政は築城の情熱により大きな負債を抱えていた。ときの首相ルツは早期に王室財政の危機に対応しなかった自分の責任を問われることを恐れ、王を退位させ、伯父のルイポルトを摂政にたてようと企てた。そのためルードヴィッヒ2世廃位の工作がなされ、王の側近達から精神異常を証明する証言を集め「王はパラノイア(偏執狂)という不治の精神病にかかっている」という診断書を作った。6月12日ノインシュバインシュタイン城にいた王のもとにミュンヘンの宮廷から役人達がやってきて、ついに王は捕らえられミュンヘン近くのベルク城に監禁されてしまった。かつて王が愛したこのベルク城は今や監獄と化し、窓には鉄格子が扉には覗き穴が付けられていた。そんな扱いを受けても王は静かに平静を保ち礼儀正しかったといわれている。
1886年6月13日は聖霊降臨祭の日曜日だった。朝から激しい雨が降っていた。午前中、王の希望で散歩が行われ、医師であるグッデンと看視人が付き添った。夕方6時過ぎ、王は再び散歩を希望した。今回は看視人はグッデンの指示で退けられ、雨の中黒いコートに帽子、黒い傘を持った二人は散歩道を歩いていった。長すぎる散歩に不審がもたれ、夜8時過ぎに捜索が始まる。本来ならこの時期、北国ドイツの空はまだ明るい時間なのだが、この日は雨が激しく、暗くなっていた。夜10時過ぎにシュタルンベルクの湖で、2人の帽子、王の上着、そして傘がみつかり、11時過ぎに二人の遺体が湖の中で見つかる。
王の遺体はミュンヘンに運ばれ解剖の結果、溺死ではなく急病死であると発表されたが、王の突然の死に暗殺説、自殺説、逃亡説、事故説などが囁かれた。二度目の散歩で王が逃亡か自殺を決意していたのは確かであろう。散歩中突然湖の中へ走り出した王を62才のグッデンがとめようとして格闘になり、誤って王はグッデンを殺してしまう。そのまま水へ入り突然の激しい運動、降りしきる雨、湖の冷たい水といった悪条件に心臓発作を起こしたのではというのが一つの説だが、二人の死は、いまだに深い謎として残っている。
王の葬儀はミュンヘンにて盛大に行われ、聖ミヒャエル教会に埋葬された。40年という短い生涯であった。]

バスを降り、ホテルミューラー近くから馬車やミニバスに乗る人もいるが、徒歩でゆっくりと眺めを楽しみながら坂道を上り、ノインシュバインシュタイン城に着く。
外観と違い内観は、少し暗い気がするも、外の景色の素晴らしさが一望できるのは、住人であった城主のセンスの良さであろう。
しかし、城内を説明する日本語の女性の声が、尚更、暗い。その為か不気味ささえ感じるのであるが、とにかく、ビデオ撮りに夢中になって進んでいたのであったが、突如ファインダーの中で遠くの方からこちらに近づいて来るものがある。ガイドのドイツ人であった。
近くに来た顔をファインダーで見ていると、この雰囲気に合った顔つきである。
んー、思いだした。昔のホラー映画に出ていた、狼男で有名なロン・チャニーJrそっくりである。
(彼は、身長189センチもあり、フランケンシュタインドラキュラ、ミイラ男、等四大モンスター全てを演じた俳優でした。写真は若いのですが、中年期の太った時期にそっくりでした))
その狼男が、この城で寝ているドラキュラでも起きてしまう程の大きな声で「Outside okay」「Inside no」と言ってるではないか。
最初は、何言うとるんや、と思っていたが、妻の「写真撮り駄目と違う、さっき書いてあった様にも思うわ」の言葉で直ぐにカメラを外すと、まじかな狼男が更に「Outside okay」「Inside no」と三連発言い放った。
お蔭で全員私に注目である。日本人に似て勤勉な仕事ぶりであったが、おそらく見えにくい所に写真の禁止の看板があったのだろうとも考え、又そんなに大きな声で言わなくても聞こえる距離であった。実に恥ずかしい。
「Understood」続けて「何度も言わんでも解った。外ならええんやな」と日本語にて返してやり、外の景色を引き続き撮りながら、「Outside okay」と狼男の顔を見れば納得していた様でもあった。
今から思えば大人げないが、盗む訳でもないのにとも思い、カメラ没収、場外撤去を覚悟で城内全てを撮ってやった。
旅行から帰った後、ビデオを編集した処、写真撮影の禁止の文字が映っていた。とほほ。
その様な自身の不注意から、ガイドの狼男にけんせいされながら、又妻の顰蹙にも耐え無事ビデオ撮りも完了し、城外に出た時は、腹が減っており、そんな腹ヘルシング状態からノインシュバインシュタイン城をバックにみんなで写真撮りを素早く済ませ、再び駐車場近くのレストランで、食事を取る事にした。
食事のメニューは忘れましたが、雰囲気の良い店であり、風景等からも先ほどの、ガメラ対狼男の件以外、お気に入りの場所にもなりました。
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旧国鉄周遊券の旅(ろく・広島編)

2006-09-14 13:00:41 | 国内の旅
とにかく、行き当たりばったりの旅は辞める事にした。そうと決まれば早く広島のホテルに予約をしなければならない。
「広島は旅館よりホテルにしようや、ちょっとええ所に予約しょうか」と決めにかかって友人に言った。そしてとどめに「トイレも洋式やど」
ニヤッとして友人が「大分節約したから、パッ行こうか」・・・出発する前に、洋式だったら長時間、納得出来るまで入れるだろうし、思いっきり頑張れる事から、ご互い色んな意味で助かる。しかし、何を下らない事で理屈をこね、納得しているんだと我にかえる。
この友人が、その後に私に言った事で、知らない所に行けば、まず、最初に確認するのは、トイレの位置と申しておりました。その事での情報収集能力は、他の追従を許さないぐらい、瞬時に機能を果たし、この旅の様な迷惑ばかりな事では無く、たとえば彼と土地勘の無い所に行動を共にした場合には、トイレは彼に聞けば必ず教えて貰った事が多々ありました。
そして、そんな事から予約は問題の主役の友人に任せる事にして、私は駅弁を買いに行き無事列車に乗り込んだのである。
広島駅に着いた時は日も暮れていたが、食事は車内で駅弁にて済ませ事から素泊まりでホテルに入ったが、たいして良いホテルでもなく、何がパッと行こうかだ。どんな基準で予約したのか訳が分からない。
トイレも和式で共用とは、むしろ、この様なホテルを見つける方が難しく、凄い事だと変な感心をしてしまう程であった。
肝心の宿泊料金を聞いたが、今までの宿泊料と差がないので何故なのか確認したところ「予約する時に、安いのがあったから」「それだけの理由でか、何がパッとや」と納得出来ない為、再度確認したが・・・「夜に着くんやったら、居てる時間が少ないし、もったいないやろ」・・・今までの旅の癖がまだ取れてないのか。次の適当な言葉が出てこないので、黙っていると、悪いと思ったのか「明日は豪華に行こうや」と続けて言ってきたので、「当たり前や、明日一日しかないんやから」まあ後は寝るだけだから一理あるとも思い、またも的を得た様な得てない様な納得をさせられる始末である。
「暇やし、パチンコでも行こか」と絶好調の男が聞いてきたが、こっちはこいつの為に今日は疲れていたのだが、久しぶりの町でもあり、行く事にしたのだが、いざ歩いていると、柄の悪い兄ちゃんが多いのである。パチンコ屋に入ると益々多い、別世界であった。今でこそ眉毛を手入れしている若者が多いが、その時の周りにいる兄ちゃんは、もっと鋭い眉毛になっており、何が気に入らないのか眉毛に合わし眼光も鋭く、しかも剃り込みの頭であり、ほとんどがそんな感じの有様で、ここの奴等はみんな同じ散髪屋に通ってるのかと思う程、見事に揃っていた。
誤解されては、いけないのですが、私の地元でも夜の繁華街では、この様な雰囲気の場所はありましたが、不慣れな土地であった為か余計に感じたものと思えます。次の日は、勿論の事、変りない観光都市でした。
しかし、その様な分析の余裕はこの時は無く、何時しか、そんな時代錯誤の環境にも慣れ、遊び台の様なパチンコに没頭していると、私から、かなり離れた端の台を打っていた友人が何やら玉が詰まったのか、台を叩いているではないか。
気は強くない友人なのだが、時おり理解に苦しむ行動をする。しかも、こんな柄の悪いパチンコ屋で何をしでかすのか。
しかし、注意をするには遠い為ほっておくと、益々激しくなっており歯止めがきかない、今度は足で蹴ってやがる。んー・・こいつは先の見えない奴だとこの旅で認識したが、その先を行く、真に天下無敵だ。
これから、どんな展開が彼に待ち受けているのだろう。なんて結果は、見えている。まあ従業員が来て怒られよるやろと思って、ほおっておく事にした。
しばらくして、友人の方を見ると、案の定従業員に怒られているではないか、頭を掻きながら真っ赤な顔をして、平謝りである。予想通りの展開に、こちらは可笑しくて、息が詰まる思いである。彼には悪いが友人の無様な姿に笑いを堪えるのがやっとであった。
帰り道、「おい、怒られとったな」と懲りたであろうと思い、にんまりして返事を期待するも・・「ほんま、恐いとこや」・・今頃何言ってるのか「剃り込みの頭の兄ちゃんばっかりやったな」「気付いて、あれかい」もう言う事無しやな、ご立派やこいつは。
「そやけど、チューリップの上の詰まった玉を落とそうと思ったら、あーするしかないやろ」・・今後の為にも教えておいてやろうと思い「その場合は、従業員の人に言えば、ガラス戸を開けて、チューリップに2個程玉入れてくれるわ」友人が不納得げに「水臭いやないか、言ってくれたら良かったのに」
確かに、言ってやれば良かったなと思った。しかし、離れた所に走って助言も何か、不自然で、カッコ悪いとも思え、自身の行動が凄く理解出来る事からも、友人には確かに水臭かった。うなずくだけにしておく。
今日は、友人と仁義無き戦いであったが、友人も汚い話だが、便器無き戦いの一日でもあった。
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大脱走 1963年度・米映画

2006-09-13 16:56:22 | 映画
1963年制作、米映画
製作:監督:ジョン・スタージェス
原作:ポール・ブルックヒル
脚本:ジェームズ・クラベル
    W・R・バーネット
撮影:ダニエル・L・ファップ
音楽:エルマー・バーンスタイン
出演:スティーブ・マックィーン:ヒルツ(独房王)
    ジェームズ・ガーナー:ヘンドリー(調達屋)
    リチャード・アッテンボロー:バートレット(ビッグX)
    ジェームズ・コバーン:セジウィック(製造屋)
    チャールズ・ブロンソン:ダニー(トンネル・キング)
    デビッド・マッカラム:アシュレイ・ピット(監視係)
    ドナルド・プレザンス:コリン(偽造屋)
    ハンネス・メッセマー:ルーガー(収容所、所長)
    ジェームズ・ドナルド:ラムゼイ(先任将校)

解説
「OK牧場の決闘」(’57年)、「ゴーストタウンの決闘」(’58年)、「ガンヒルの決闘」(’59年)の決闘三部作や、「荒野の七人」(’60年)で切れ味の良い西部劇を作りつづけてきたジョン・スタージェス監督が、第二次大戦中の出来事。ドイツの誇る、第3捕虜収容所に収容された連合軍将校たちが、大脱走を敢行した一大史実の原作を元に描いた脱走劇です。
この原作は元イギリス軍将校、当時英空軍スピットファイヤー・パイロットで、ドイツ軍捕虜となり、実際にこの大仕事に参加していたポール・ブリックヒルによる脱走記録・和名「大脱走」で、1950年に出版された著書“ザ・グレート・エスケープ"は大ベストセラーとなりました。収容所の外にある森の位置まで100メートルも地下トンネルを掘り、276人もの捕虜を脱走させるという大胆不敵な計画と実行。逃げる連合軍捕虜たちとそれを追うドイツ軍、まさに全編、当時の背景を忠実に描き出したスリル万点の力作。
戦時国際法での捕虜の扱いは定められていますが、この作品では、この収容所はフェアーな環境にも見えますが、日本軍での捕虜の扱いでも、比較的良心的な所もあり、私の父の話ではありますが、当時ビルマ、スマトラに進駐していた事から、おそらくイギリス、オランダ軍の捕虜だと考えられますが、捕虜の母国赤十字からのパラシュート降下による空輸物資は、日本軍から見れば高価な物で、当然日本軍が、基本的に全て頂く物資ではなく、その事から情けない事に捕虜の方が、日本軍より良い食べ物を食べていたと言っていました。よって父は、捕虜とハリウッドのスター達の事を片言の英語で話し、仲良くなり、チョコレートやその他の食べ物を捕虜から頂く事が出来たと申していましたが、その事が、上官にバレタ時には、当然の如く、その場で袋叩きにあわされた物もあった様です。父も召集令状組では低い階級ではなかったのですが、一度見つかり同様な目にあわされ、致し方ないのは解っていても、当時若くてやんちゃな父には、受け入れ難く思ったのか「あいつの顔は、今でも覚えている」とかなり怒っておりました。敵、味方にかかわらず、国の命令で戦争に駆り出された物同士は、少しの時間を共有する事で、互いを理解して、友情とは言えないまでも、心通じあえるものが、あった事は、慰められる様でした。又、荷物の運搬作業に従事させるも、規定の労働時間が来ると、荷物はその場で置き作業を即辞める文化には驚いたとも言っていました。そんな話からも全ての収容所が、酷かった事ではなかった様ですね。
製作者兼監督は「荒野の3軍曹」のジョン・スタージェス。撮影は「ウエスト・サイド物語」でアカデミー賞を獲得したダニエル・L・ファップ。脚色は「アスファルト・ジャングル」の著書で知られるW・R・バーネットとジェームズ・クラベルが共同で担当している。音楽は「終身犯」のエルマー・バーンスタイン。
「荒野の七人」で人気者となったスティーブ・マックィーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーンの3人を再起用し、更に「噂の二人」(’61年)のジェームズ・ガーナー、「ナポレオン・ソロ」シリーズのイリヤ・クリヤキンことデビッド・マッカラムと、豪華な顔ぶれです。
又、大脱走を指揮するバートレットにイギリスの名優で後に「遠すぎた橋」(’77年)や「ガンジー」(’82年)で監督も手がけるリチャード・アッテンボローが加わります。近年では「ジュラシック・パーク」(’93年)の博士役を演じています。
それに、多くの映画の常連、スキンヘッドのドナルド・プレゼンスと、「ロベレ将軍」のハンネス・メッセマーなど。主役級の俳優が勢ぞろいの過去例のない超大作。

実生活ではアマチュアのオートバイレーサーだったスティーブ・マックィーンがオートバイで爆走するシーンは名場面の一つになっています。
そういえば、この映画で有名な、スティーブ・マックィーンが、バイクで鉄条網を飛び越えるシーンですが、あれは、かなり長い間マックィーン本人が、運転操作していたと思われていましたが、実は、このジャンプシーンは、スタントマンが変わってやっていた事をマックィーン自信が、生前語っていました。又、バイクを奪われるドイツ兵は、こっそりマックィーンが、演じていたのだそうです。
マックィーンは後年、「パピヨン」(’73年、フランクリン・J・シャフナー監督、ダスティン・ホフマン共演)でも脱獄を繰り返す役で主演していました。
このロケについてきたジル・アイアランドは当時デビッド・マッカラム夫人でした。でも、このロケで知り合ったチャールズ・ブロンソンと恋に落ちてゴールイン。マッカラムとブロンソン。タイプが正反対の二人。ジルの趣味も面白いものが、ありますね。そのジルは、何年か前に亡くなり、それまでブロンソンとは、有名なおしどり夫婦で通しました。別れたマッカラムとも良い友人だった様です。3人の人生を変えた映画でもあるのです。

果たして大脱走は成功となるのか。逃げきる者、逮捕される者、銃殺される者と運命の分かれ道が明暗を分けますが、この男達の使命感や意志の強さ行動力そして潔い行動力からも爽快感が残ります。

テクニカラーの緑原を往く独軍の車列。バーンステインの勇壮なマーチが高鳴り、“THE GREAT ESCAPE”の真っ赤なタイトルが浮かぶ。幕開けから1分、早くも武者震いが抑えられない。今となっては、マックィーン、コバーン、ブロンソンと亡くなってしまい、映画の中でしか会えない事からも寂しい気がしますが、その若き日の我等のシネマ・ヒーローが一同に会し、捕虜収容所からの脱走劇を繰り広げる男性娯楽活劇の金字塔といえるでしょう。
又、エルマー・バーンスタインの軽快なテーマ曲も大ヒットしました。


物語あらすじ
第2次大戦末期。ドイツの北部、サガン近郊の捕虜収容所に、連合軍の戦争捕虜が移送されてくる。彼らは過去に何度も脱走を試みた要注意メンバーばかり。その処遇に手を焼く独軍は、彼らを1ヶ所に集め、特別な監視体制で脱走を防ぐ計画だった。そして、この第三捕虜収容所に連合軍空軍の捕虜が何台ものトラックで送り込まれてきた。
過去17回の脱走歴を誇る米空軍のヒルツ大尉は、来た早々、周囲を取り囲む鉄条網に監視の死角を見つけ、ボールを拾う振りを装って鉄条網に近づくが、折悪く巡回兵に見つかり、監視塔からの銃撃を足元に喰らう。「何をしている」駆けつけたルーガー所長に、「脱走しようとしていたんだ」と、ヒルツ。独房20日間の罰。
仲間のアイブスもドイツ兵をからかった罰で独房20日間。到着早々独房送りとなるのだった…。
又、トンネル掘りの名人、ダニー(チャールズ・ブロンソン)は、「森までは60メートル、いや90メートルか、長いな」と、早くも計画を頭で計算した。
そこは周りを鉄条網で張り巡らせた広大な収容所だった。所々に設置された監視塔からはドイツ兵が銃を構えて見張っている。
ルーガー所長(ハンネス・メッセマー)は、連合軍捕虜の指揮官ラムゼイ大佐(ジェームズ・ドナルド)に言い渡した。
「過去4年間、我が軍は脱走捕虜の再収容に多大な兵力と時間を費やしてきた。この収容所は脱走経験者ばかりを収容するために作った。脱走は許さん」
ラムゼイ大佐は、「ありがたい心遣いだ。だが、脱走は全将兵の義務だ。何度失敗しようとも脱走を企てる。それが我々に残された唯一の任務である」と言い返す。
「腐った卵はひとつの籠に入れて見張るのだ。ここにはスポーツ、図書館、娯楽室がある。園芸用具も貸す。そういうことにエネルギーを使うことだ」ルーガー所長は言い放った。
この捕虜達に心強い味方が来る。ゲシュタポがバートレット(リチャード・アッテンボロー)を収容所に連行してきたのである。バートレットはこれまでに多くの脱走を指揮してきた男だ。
「今度、脱走して逮捕されたら銃殺だぞ。分かってるな」ゲシュタポは捨て台詞を残して去った。しかし既にバートレットは脱走を計画していた。ラムゼイ大佐に言う。そしてその意義は、後方撹乱と示す。
「かってなかった大規模な脱走をやります。200~300名をドイツ中に散らす」無謀にも思える計画であり、驚き顔を隠せない関係者に、具体安を更に示す。
「森に一番近いのは104号棟と105号棟だ。第一トンネルは105号棟から東に向けて掘る。100メートルある。縦に9メートル掘り、横へ進める。これで音は消せる」バートレットが力説する。
さっそく、役割が分担された。洋服屋、道具屋、調達屋とそれぞれ勇気と闘志を持ち実行を承諾する。
トンネル掘りの名人、ダニーはストーブの土台を偽装し、下穴を掘る音は外部作業のくい打ちの音と合わす事で見破られない様にし、下穴を掘り始めた。
独房から出てきたヒルツとアイブスはまったく別の脱走計画を立てた。監視塔の死角を見つけ、鉄条網の地面を1メートル掘ってそこから向う側へ抜け出すというものだ。そして実行するも再び独房へ逆戻り。
トンネルは、ドイツの監視を巧みな連係により、見事にカムフラージュされ進められた。
掘りは進んでいき、掘った土の処理は服の内側に隠した袋に入れ、外でズボンの中から捨てるという繰り返しの根気のいる作業となる。
そんな中、トンネル内に空気を送るダクトとふいごを器用なセドウィック(ジェームズ・コバーン)が作り、ヘンドリー                (ジェームズ・ガーナー)はドイツ将校と巧みに仲良しになったふりをして、隙をみて盗む事から身分証明書、切符などを偽造した。
バートレットは脱走の必然情報を得る為、難題をヒルツに要請した。「一人なら脱走できる。君は脱走して森の外の地理情報を得てきてくれないか」 「つまり、脱走して又戻れと?」 「そうだ」
一旦は断ったヒルツだが、アメリカ独立記念日でお祭り騒ぎをしている時に、トンネルの一つがドイツ軍に見つかり、望みを絶たれた様に思い込み、自棄状態を起こし、突発的に鉄条網をよじ登り逃げようとしたアイブスが銃殺されるの目の当たりに見た事から、バートレットの要求を聞き入れるのであった。
トンネルはあと二つ残っている。「ハリー」と名づけられたトンネル掘りが昼夜交代で断行された。土壌が柔らかく落盤が相次ぐ。トンネルの支柱とする材料のため、壁の板、ベッドの下板、天井の板とドイツ側に気付かれない、あらゆる板が投入されていく。
トンネル掘りの名人ダニーは狭所恐怖症である事からいざ、全員が脱走となった時、パニックを起こし迷惑をかけないかと悩むのだった。
そんな夜、ヒルツが鉄条網を破って脱走した。しかし、まもなく捕まり、独房入り。しかし、ヒルツはバートレットの要求どおり森の外側の地理をつかんできたのだった。
やがて、トンネルは完成にこぎつけた。ヒルツも独房から出てきて、いよいよ決行の夜がきた。監視塔のライトを避けてトンネル「ハリー」の棟へぞくぞくと集まる捕虜たち。まず、ヒルツがトロッコでトンネルの先端まで行く。そこから僅かに残された縦穴を地表へ抜く。地表へそっと顔を出し、周りを見ると、何と、森まではまだ6メートルもあり、銃を構えた歩哨が歩いているのが見える。
直ぐさま穴の下に待機しているバートレットとマクドナルドに不具合を伝える。しかし各証明書の日付が今日である為、決行するしかない。ヒルツの合図で一人づつ地表へ抜け出し森の中へ走りこむ事となる。途中空襲等で照明が消されるも、それらも利用して、76名が脱出した時、あせった一人の物音に気付いた歩哨がやってきてトンネルが発覚してしまった。ドイツ軍はただちに脱走者に追ってを差し向ける。
列車に乗るバートレットとマクドナルド、そしてアシュレイ(デビッド・マッカラム)ヘンドリーは目の見えないプライス(ドナルド・プレゼンス)をかばいながらの逃走となる。自転車を盗み、のんびり田園を走っていくセドウィック。ボートに乗り河へ漕ぎ出すダニー達。そして、ドイツ兵のオートバイを強奪し爆走するヒルツ。
脱走者たちは目的に向かいそれぞれ散っていった。しかし、ドイツ兵とゲシュタポの追求は甘くはない。
列車から乗り換える際には、ドイツの検問。顔がわれた事に気付いたアシュレイは、バートレットとマクドナルドを助ける為、自ら犠牲となる。又助けられたバートレットとマクドナルドもバスに乗り込もうとする際、巧みな検問にひっかかり逮捕され、その他の逮捕者のもとに送られる。アッテンボローとゴードン・ジャクソンが「我々は間違っていなかった」ってしみじみ語り合うシーンは最も心に残りました。やがて、トラックにて護送の間に偽りの休憩地で公約通り銃殺される。
又、ヘンドリーとプライスは、ドイツ空軍の練習機を強奪し、スイス国境を目指し飛行に成功したかに思えたが、機が故障、国境手前で不時着するも、ドイツ軍に見つかりプライスは銃撃に倒れ、ヘンドリーに感謝の言葉を残し、息耐える。見届けたヘンドリーもその場で拘束されるのでした。
そしてヒルツも、国境線で追い 詰められ、国境越えを図り鉄条網突破を敢行するも、失敗する。
そんな中、セドウィックは、途中立ち寄った対枢軸国地下抵抗組織偽装のカフェにてレジスタンスの急襲に遭遇し、後パルチザンの助けを借り、まんまとスペインへと逃げ切るのであった。
同じく、ボートにて逃走したダニー達も、湾に無事到着し、ドイツ圏外へ出航する船に乗り込む事に成功する。
脱走したのは76名、その多くは逮捕され、あるいは銃殺された。指揮者のバートレット以下50名が機関銃の的になり、ヘンドリー以下11人が送還され、逃げきったのはたった15人であった。
収容所ではラムゼイ大佐に死亡者の名簿が手渡された。ラムゼイ大佐は苦渋に満ち、脱走出来なかった捕虜たちに死んだ者の名前を発表した。
そこに、オートバイで国境越えを図り、鉄条網を越えることができなかったヒルツが戻ってきた。そして決められた如く、自らも独房へと。そのうち、名シーンの一つでもある、ヒルツの独房からは壁にボールをぶつける音が以前と変らず力強く聞こえてくるのだった。

物語の特異性も然る事ながら、映画の方向性は的確に出すも極力戦争の残虐性を見せない演出や主演級の若き大スター達のその後の個性を上手く引き出し導かした演出も見事につきる。女優の起用一切なされていないのであるが、男同士の絆や当時の風景の美しさも一つの清涼感をもたらせ、全体的に力強く、爽やかに感じられた作品であった。
又今では、我等世代には、銀幕の中で彼らに出会える喜びから、映画の同窓会の様な感覚にもなる数少ない貴重な娯楽大作の一つになりました。
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