西洋と東洋の狭間

何かにつけ軌道修正の遅い国で有るが一端方向転換すると、凄い勢いで走り出し今までの良き所まで修正してしまう日本文明

W杯・ドイツ大会(日本VSドイツ親善試合の勝手な印象)

2006-05-31 11:49:03 | スポーツ
朝早くから、ドイツW杯に挑む、日本代表の調子を見る為に親善試合を観戦しました。
日本のフォーメーションは3-5-2のシステムで前半戦はドイツにボールを支配されていた感は強かったが、中盤でのプレスディフェンスも機能し、左サイドのシュバインシュタイガー・バラックのドリブルやスルーパスまたヤンセンからのクロスを右サイドの加地が鋭く対応、その為サントス、加地がバックラインに吸収される場面はやや多くなり、サイドの上がりは少なかったが強豪相手での前半は何とか堪えて後半の攻撃に備える意味でもよく凌ぎ、又CKや右サイドからのクロスやバラック、クローゼ、ポドルスキのシュートも相手のミスキックに助けられた事もあったが、中澤始め日本ディフェンス陣のクリア、ゴールキーパーの川口の見事なキャッチでこれもよく凌ぎ切ったと思える。
少ない攻撃ではあったが左ペナルティエリアからの中田英のキーパーの足の間を抜くシュートや中村、中田英へのマークが厳しい分前掛かりのドイツ最終ラインの裏を衝き柳沢、高原へパスするも相手キーパーの好セーブにあい無得点ではあったが、日本の速攻に弱いドイツ、ディフェンス陣が見えた前半戦と言える。
ただ前半戦でシュバインタイガーの加地へのスライディングタックルによって右足首を捻挫した事が気にかかる。

後半戦は加地から代わっ駒野の上がりに合わせたパスが目立ち、又シュバインシュタイガーのペナルティエリア前での坪井のブロック等があり、遂に後半11分中村のフェイントで二人をかわし、後ろから走りこんだ柳沢へパス、更にオフサイドすれすれの裏のスペース走り込んでいた高原にパス、キーパーと1対1になるも冷静にキーパーの頭上を越えるシュートが待望のゴールネットを揺らした。
観戦する立場からは、感激のシーンなのだが日本代表の得点を入れた後すぐ点を取られるパターンの不安がヨギルもドイツの猛攻を凌ぎ後半19分再度、中田英から右サイドの駒野へパス、駒野からゴール前に張っていた高原へパス、高原は反転し2人のディフェンスをかわし角度の無い所からゴール左へシュート、ボールを突き刺した。
ここまでの戦い振りは素晴らしいの一言に尽きる、まず第一は、セットプレイからの得点ではなく、攻撃の流れからの得点であった事、次にフォワードが多彩なシュートで得点を上げた事が、今までの日本代表にやや欠けていた部分に、明るい展望が見えた内容であり、精度の良い早いパスまわしも最近の数試合では最高に良い状態に見られた。
このゴールから、ドイツの焦り(イエローカード)と必死の攻撃(メンバーの交代)が見えるのであるが、やはり強豪国、日本からFKを取り、後半30分シュバインシュタイガーのFKをクローゼが宮本のショルダーチャージぎみのマークを身体能力の強さを活かしゴールする。
日本も高原から大黒に交代するも、後半34分日本のペナルティエリア右前からのシュナイダーFKをシュバインシュタイガーがヘディングで合わし同点ゴールを決めらる。
柳沢から玉田への交代直後の後半37分、中田英の縦へのスルーパスが裏に走りこむ大黒に絶妙に渡るもキーパーのブロックにあう。
後半39分にも右サイドの中村からゴール左の中田英にパス中田は胸でゴール前の大黒にパスするも、相手のややトリンピック気味な行為でゴールならず。又福西がPKをもらえる様な相手の反則があった場面もありましたが、審判の判定には、今後の本戦も敵地と言う気持ちは忘れてはならない。

攻撃面での強豪ドイツに示した力は、見事でした。しかし身体能力のあるチームにはゴール際での一対一にならない様な対応を先に展開しておく事が必要と同時にディフェンス時での遅れも致命的になる事から、油断無き攻守のスピードを活かした日本本来のサッカーを期待し、本戦の応援に望みたいと思います。

旧国鉄周遊券の旅(ご・秋芳洞)

2006-05-24 19:08:17 | 国内の旅
秋芳洞までバスに乗るだけなのだが、トイレの友人はまだ帰って来ない。
「トイレに行った奴の帰りをこんなに首を長くして待つのん、初めてやな」と先発隊の友人が誰に言うでもなく、言ったので残りの我々も「ほんまや」続けて私が「あいつ、トイレ一日の行く回数多い割には、行ったらこれまた長いんや」あまり今の置かれている我々の立場を分かっていない友人に行動を促した。
「捜しに行こう」と同時に各自、散らばる。

トイレは、見つかったが、誰か他の人が居れば名前を呼ぶのはどうかと思いながら中に入ると、幸い視野の中では誰もいない。考えればバスの出発、間近にトイレに行く奴もいないだろうし、ま、捜してる奴もいないだろうと思いながら視野では確認出来ない個室に向かって呼んでみた。「おーい・・・バス出るぞ」「早う、せいよう」ほんま情けない。こいつは、会社に就職して出張する時どうなるんやろ、客先で「トイレに行って時間が遅れました」なんて言えるんかな。アホらしさ次いでに思いながらも、返事が無い。
他を捜すが、トイレなんてそんなに在るわけでもないので、帰っている微かな望みを持って待合所まで戻るが、すでに戻っている疲れ顔の友人が居るだけである。

その二人が言ってきた。「おい等、次のバスで秋芳行って戻って来たら、今日の山陽道の大阪寄り宿泊地に間に合わんから、お前等だけで行ってこいや」「ほんまか」それしか返す言葉がなかった。
しかし、ただ出るバスを見ているだけでは、癪に障る事と運転手にもアホらしさを知ってもらう意味でもと「あかんで元々や、バスの運ちゃんに頼んでみよか」バスに乗り込もうとする私に友人が「何て言うねん」・・・「そのままの理由でええがな」と答えれば、「・・・」と何か言った様だったがステップに足を掛けたまま、止ってしまった。
「すんません、バス待ってもらえませんか」と思い切って言った。「どうかされたんですか」と運転手が愛想よく尋ねてきた。「ゆ、友人があのー、トイレに行ったまま未だ帰って来てないんで少しだけ待ってもらえませんか」運転手の顔から笑みが消えていた。「ちょっと、とはどのくらいですか」・・・んー、そんな質問までは用意していなかったが、ええーいそのまま言うたれ「いつ帰ってくるか、ちょっと今分からんのですわ」運転手の顔と言うか顔に占める目の量が多くなっている「えっ」と言った後「そらー、あかんわ、そんな事で待てません」「やっぱり」と言って、先程トイレに行った友人を捜しに行った際思った、出張時にトイレで遅れた理由としては、相手には通じない事がハッキリしたな、と思いながらバスを降りた。
しばらくして、バスが出発した。

バスが行った後も、何かみょうな疲れからバスの去った後の景色をしばらく見てから、一言「あいつの事言うんやろなあ」・・「クソったれ、って」これがぼんやりしている友人にうけた。二人が笑っている時に、帰って来やがった(くそったれ)が、しかも30分は過ぎていた。
「ごめん、ごめん、バス出てしもうたか」と言ってから例の何時か聞いた一言「あっついわー」それから友人二人のこれからの説明をした「お前の為に、こいつら山陽道の宿泊地に着かなあかんから、秋芳洞には行かんとここで電車に乗って帰るらしいわ」「秋芳洞、見に行かへんの」と(クソったれ)が聞いたから「お前の頭の中の『秋芳洞』見たからもうええんやと」笑いながらうなずく友人と共に、聞きたくもない言い訳を聞いたが、聞いている内に驚愕の事実までとは行かないまでも、生まれて初めて耳にする話であった。実は最初トイレに入り、いったん出たらしいのだが、再びもよおし、鼻紙を買ってから二度入ったとの事だった。どうりでトイレに居なかったはずなのだが、もう突っ込む気力さえ無くなってしまった。
駅に行く先発隊を見送り、こちらは、本当の秋芳洞行きの次のバスに乗る事にした。

バスから降り、行く道の左の石に秋芳洞と書いてある横を過ぎ、清流が洞内から流れ出る上の橋を渡り清流沿いに人工の道が、奥へと伸びている。秋芳洞は予想以上に高く、それに中に入れば涼しく快適である。
少し奥に向かうと、日差しが少なく照明はあるが目が慣れない為か、やや暗く感じるも、神秘的に見える。
秋吉台一帯は太古の海の珊瑚からなる石灰岩と大陸からの土砂等からなり、雨水・地下水により石灰岩が溶かされ出来たもので、色々な自然の造形が点在している。左先に向かい最初にやや広がる「百枚皿」500枚以上はあるらしいのだが、棚田の様にも階段の様にも見えるが、芸術的才能のない友人が「きれいなあ」「溶かしてあんな形に自然となるんやなあ」「湯やったら露天風呂やな」・・・やっぱり。高さ15メートルの「黄金柱」も雄大である「岩窟王」・「幽霊滝」・「岩屋観音」・「傘づくし」・「青天井」等を見学し終わった時はこれらを見られなかった友人の事はすっかり忘れてしまう始末であった。

次に、秋吉台に上がり、この日は風が心地よくカルスト台地を散歩するも夕方遅くになっている。
「次、何処まで行こうか」と友人の言葉に、残りの日が迫っているから「広島まで思い切って行こうや」続けて「大分節約したから、これからの山陽道は贅沢しようや」贅沢と言ってもしれているのだが・・残金を確認している友人に、当時2万円と少しぐらいは残っていた記憶があり「数えんでも十分やろ」すると友人は「お金は分かったんやけれど・・・鼻紙が見あたらへんのや」またか、と思い「おまえには腸がないんか!」すかさず友人は「なんぼ俺でもそこまでせんわい」と逆切れして言ってきた。あこまでした奴が言う言葉かとも思い「何で鼻紙いるんや」・・「鼻かむんや」・・・数秒固まりましたが、その後意味なく二人で笑ってました。紛らわしい奴だがナルホドそういう使い方もあったんだ。

注記
後に、彼は・・過敏症とお医者さんで診断されたそうです、その事を聞き理解しましたが、当時は理解出来なく申し訳なく思いましたが、当時の若い時代の友情のあり方を表現する為に、不適切な言葉がありますが、そのまま記載しました。


二十四の瞳 「単なる反戦映画ではない」

2006-05-21 07:50:38 | 映画
先日、お亡くなりになられました 田村高廣さんの追悼の意味で本作品を投稿致します。
生前、ご自分の代表作は、「泥の河」とおっしゃっておられた様なのですが、首記作品とよく似たメッセージの内容と思います。一見地味ではありますが、当時の世相を捉え「二十四の瞳」と同じく日本映画の名作と考えております。

1954年度松竹大船作品
製作   桑田良太郎        監督   木下 恵介
原作   壺井 栄          脚色   木下 恵介
撮影   楠田 浩之        音楽   木下 忠司    
美術   中村 公彦        
出演   高峰 秀子        田村 高廣
      小林トシ子        夏川 静江
      月岡 夢路        清川 虹子
      笠  智衆        浦辺 粂子
      浪花千栄子        天本 英世

昭和3年、瀬戸内海・小豆島岬の村の分校場に若い女教師が赴任した。8キロ離れた実家から洋服を着て、自転車に乗り通勤するのであるが、当時の地方では女性が洋服を着て通勤をする事は珍しく、どの時代でも同じなのだが、新しい文化に対し大人の目には奇異に映り、逆に子供は拘りが無く順応性が良いものである。しかし私はそれで良いと思う戦後の日本の様に、全ての日本をある意味否定してきた、或いは否定せざるおえない日本人には、解り易く言えば日本人の心、文化に何が残ったのでしょうか。「拘り」から始まる、協調こそが大事な基本を消さない変化へと導くのではないかと考えます。
お話は逸れましたが、この赴任した大石先生も、非難的な村社会に自分に合った新しいスタイルを持ち込んだ事への無意味な対立は避けている。それは教師として生徒の為に教える心のスタイルまで変えておらず、決してブレていない信念があるからでしょう。
子供達は、新しい先生が小さい事から名前の大石から、「小石先生じゃ」と言って笑う。そんな無邪気な小学1年生12人のクラスを受け持つ事になるその日点呼をとりながら、一人一人家の事情、性格も異なる可愛い生徒をシッカリ確認する。ソンキこと磯吉、キッチンこと吉次、竹一、正、ニクタこと仁太、マスノ、ミサ子、松江、小ツル、早苗、富士子、コトエ。
大石先生は子供達と歌を歌い、汽車ごっこ等で野原を駆けるそんな日々から子供達は先生にすっかりなつく様になる。先生と子供の世界を表現する唱歌として「おぼろ月夜」「ふるさと」「浜辺の歌」「七つの子」「里の秋」「せいくらべ」等が効果的に挿入され、ふと幼き時の自分とダブらされるのは私だけでしょうか。

村人との良い関係、悪い関係、色々な交流を経てたある日、上級生のいたずらから大石先生は落とし穴に足を取られ、大怪我をする。子供達は泣きながら男先生を呼びに行く。そして入院してしまうのです。
それから子供達は、変わりの男先生に授業をしてもらうのだが、面白くない。そんな学校からの帰り道、「大石先生のお見舞いに家まで行こう」から意見がまとまり、集合して行く事になる。2里の道のりは子供達には厳しく、空腹と疲れから泣き出す子もいるのだが励まし歩く、そこに偶然大石先生を乗せたバスが通り、子供達が気づき叫ぶ、大石先生も気づき松葉杖姿の大石先生が下りてきて「皆、どうしたん」とやさしく声を掛けるも安心したのか「先生の顔が見たくて、会いににきたんや」と言って先生を囲んで泣き出す、先生も驚きと嬉しさで泣いてしまうのである。そのころ各子供の家では、いなくなった子供の心配をしていた。
子供達は、大石先生の実家でもてなされ、記念写真等を撮って、船で帰してもらうのだった。その事から村人の目も変わっていったのだが、数日後大石先生が分校場に来て、やむ終えずの理由から本校に転任する事を、子供達に話すのだが子供達には悲しい現実であった。だが大石先生にも同じ事であり、「皆が上級生になって本校に来るまで待ってるわ」と言って泣く子等に送られ岬を去った。

5年の月日が経ち、世の中は不況、戦争へと向かう時代に入るのだが、子供達は明るく元気に本校にやって来る。そして再び大石先生がその子達の担任になり、その秋遊覧船の機関士、正吉と結婚したのだが、子供達には平等でない家庭の影響が押し寄せる。
産後のひだちが悪かった母親が急死した松江は高松のうどん屋に奉公にだされる。修学旅行に行った所で偶然に松江に会い、許された少しの時間色々気づかい話をした後、奉公先の店主に松江の事を頼みやがて別れのシーン、島に帰る船が出港しようとするその時、大石先生子供達は松江に届けとばかり昔みんなでよく歌った唱歌を歌う。それを聞く松江は泣き崩れるのであった。不幸で悲しい時代ではあるが、心の通えた何とも素晴らしい描写であり、こみ上げる悲しみは怒りの反面懐かしさに似たものが感じられずにはいられなかった。

大石先生は、子供達の卒業と同じく教壇を去り、世の中はますます変動期に移り8年後、肺病の為小屋に一人隔離され死んで逝くコトエを見舞う大石先生が「幸せになれる人なんて誰もいないのよ」と言う言葉しか言ってあげられない時代を製作時には強調したかったのであろうと思われるが、確かにそうではあるが、現在の孤独死の状況下でそんな言葉さえも掛けてもらえず亡くなる人が多い中、真に今が良い時代なのか問える場面でもある。
そして4年の大東亜戦争に入り、自身の子供の男の子や女の子も成長したのだが、教え子達や正吉が戦争に駆り出されて行く、やがて母、民が死に、下に娘の死、夫の戦死、帰ってきた夫の遺骨とすれ違う様に出兵し送る人々、何と不愉快な状況なのか見ていても情けないその理由は大石先生が言ってくれた。父の死に泣く下の子供、それを諌める上の男の子、悲しみを堪えていた母、妻、であった大石先生が子供、いや世間に言う「死んで悲しい時に泣くのは当たり前、思いっきり泣けばいいのよ」この時代の唯一理解しがたい無理な精神論である。国民の戦争への意識高揚の為とは言え同時代の人でさえ理解出来る人は少ないものであったであろう。
続く物語では、教え子達からも3人の戦死者が出るのであった。

やがて終戦後のある日、大石先生は島の分校場に戻って来る、そこにはかっての教え子達の子供等がいた。面影があり懐かしくも悲しくもあり涙ぐむのである。
そんな、ある日教え子達が歓迎会をしてくれる。
すっかり成長した松江、マスノの実家わ料亭だった。そこでは皆からのプレゼントである自転車が床の間に置いてあった。涙ぐむ大石先生・すっかり泣き虫先生の姿になっていた。
そこへ岡田磯吉(田村高廣)ことソンキが来た。
戦争で失明していたのであるが、飾ってあった皆の写真を取り指でたどってゆく「この写真はみえるんじゃ、ほら真ん中のこれが先生じゃろ、その前にわしと竹一と仁太が並んどる・・・」皆が心を打たれ涙ぐむ。
この先生と子供達の絆の強さには感動する。それは、共に居ても、離れていても皆で運命を一緒に乗り越えた思いの為であろう。
数日後、岬に通う以前と変わりない大石先生があった。明るいであろう未来に思うすがすがしい先生の姿である。 

しかし、今の状況を戦後のこの大石先生、磯吉達が見た場合、本当に良くなったと思えるでしょうか。
戦後の屈辱的な占領ではなかった事がむしろアメリカ歓迎の意味合いになり、その影響なのか、私の時代、幼い私達がアメリカのホームドラマ等を見てカッコ良く思い、憧れました。そして真似をし続けてきた過程でアメリカの国家としてのスピリッツは解る訳もなく、当然アメリカ人の家族の在り方への考え、思いの伝統を学ぶ事もなく、おまけに日本の心まで、古きものとして片付けてしまったのではないでしょうか。
しかし、私達の子供の頃はせめてもの救いとしまして、大人の世界、子供の世界の区切りは、つけられており、そこには、親・子との立場の違いから完全に解り合うのは不可能で、それはそれで良く、合判する意見がある事が自己のスタンスも考えも見えてくるのではないだろうか。よって当時の大人のへの壁は嫌ではあったが少しづつ大人へ歩む楽しみもあり、少しづつの情報なので処理し易く、現代の様に大人(親)が子供へのけじめを見せず、「嫌われたくない」の考えからオールパス状態では、子供自身も結局、情報が多すぎて、処理しきれないでいる又は理解出来ないでいる事から自己の立場・考えが見えず、先のビジョンも構成出来ない事が多くなっているのではないかとも、思えます。
結果、国家としても良く似た事で、見た目のみで空洞化した法・考えから、今の西洋でもなく東洋でもない日本文明。だからこそどんな国にでも自国の考え姿勢を示すものがなく、小手先の世渡りだけがうまくなり中途半端な理解で終わる事になりつつある。当然全世界の国々から理解を得る事は無理な話で、ハッキリした意見を出せる事が、他の国々から見易い国になる事にもなり、先の道筋も読めてくるのではないでしょうか。
少し話しが大きくなりましたので、元に戻しますが、極端に申せば、勘違いの戦後それに気づかず根幹の修正もしないまま長く来た。長くき過ぎた為、現代の若者は肌でせっかくの歴史ある日本の良い心を感じないままでいる気の毒な時代の申し子なのではないだろうか。
その警鐘を鳴らすと同時に日本の心をこの作品で、情感溢れる名演技をされた高峰秀子さん、田村高廣さん、それに当時の子役の人達には感謝をしたいものです。
そして、田村高廣さんのご冥福をお祈り申し上げます。



グラン・プリ 映画(FIA Formura One World  Championship)

2006-05-18 14:16:03 | 映画
現在F1も、ネルソン・ピケ、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセルが引退をし、そしてあの1994年5月1日運命のサンマリノGP イモラ・サーキット、後続を走っているミハエル・シューマッハのオンボードカメラから310Km/hの彼とウィリアムズFW16がコースを右に外れ消える。コントロールを失った瞬間から0.2秒後には気づき緊急制御を試みたのだが制御不能、タンブレロ・コーナーのコンクリートフェンスに激突!ここに天才アイルトン・セナはフアンの望みと供に全てが停止に至ったのである。
その後、新たな王者としてF1に君臨し続けた、ミハエルも最年少記録を打ち立てる若きホープ、フェルナンド・アロンソに去年にタイトルを奪われ、引退の影が忍び寄る状況となっている。
(因みに、私のリアルタイム期では、ニキ・ラウダ、エマーソン・フィッティパルディ、今は亡き(サイドウェイ・ロニー)ロニー・ピーターソン達です)
当映画にも、F1ドライバーズ・ワールドチャンピオンのフィル・ヒル、グラハム・ヒル、ジム・クラーク、その後チャンピオンとなるジャッキー・スチュアート、又この年、映画冒頭のモナコGPから1カーエントリーのブルース・マクラーレン等がクレジットされています。彼らも役柄の現役ドライバーとして協力をし、当然レースでは車載カメラは改造したF1マシーンに搭載し、フェラーリ、BRM、ロータス等、実際のレースを撮影している事から臨場感あふれる迫力のあるリアルなシーンが収録されている。
シネラマでの鑑賞が、より素晴らしい結果になれた事は私にとっては幸運でした。
又1986~1991年のコンストラクターズチャンピオンにエンジン供給として貢献したホンダが撮影時コンストラクターズとして参戦していた時期であり、映画内に出てくる(矢村)三船敏郎は本田宗一郎、チーム・ヤムラは、ホンダ・レーシング・F1チームト推察される。

1966年度 アメリカ(MGM)
監督   ジョン・フランケンハイマー
製作   エドワード・ルイス
原作   ロバート・アラン・アンサー
脚本   ロバート・アラン・アンサー ウィリアム・ハンリー
撮影   ライオネル・リンドン
音楽   モーリス・ジャール
タイトル ソウル・バス
デザイン
出演   ジェームズ・ガーナー(アメリカ人、ピート・アーロン)フェラーリを解雇され、新たな所属先「BRM」に活躍の場を移す。
     イヴ・モンタン(フランス人、ジャン=ピエール・サラティ)「フェラーリ」所属、ベテランで2度の世界チャンピオンに輝く。
     ブライアン・ベッドフォード(イギリス人、スコット・スタッドフォド)「BRM」所属、今は亡き兄を目標としている。
     アントニオ・サバト(イタリア人、ニーノ・バルリーニ)「フェラー リ」所属、元バイクのワールドチャンピオンで有望な新人。
     三船敏郎(日本人、矢村)
     エヴァ・マリー・セイント(ルイス・フレデリクソン)
     ジェシカ・ウォルター(パット・ウィルソン)
     フランソワーズ・アルディ(リーザ)
     ジュヌヴィエーブ・パージェ(モニーク)
     アドルフォ・チェリ(アントニオ・マネッタ)
     

映画は冒頭、心臓の鼓動(ドライバーと思われる)からゆっくりと立ち上がり、次の瞬間エキゾーストノーストの耳を引き裂く様なサウンドから一気にモナコGPのスタート。
(この音響からの振動を映像と共に共感する事が、物語への集中効果を上げた様にも思われた。)
「BRM」に移籍したアーロンには速さはあるが、マシーンを壊す事が多く、世界三大レースの一つであり、マシーンをパスする箇所が少ない上にコントロールが困難である(ヌーベルシケインの手前)事から、レース序盤でチームオーダーを無視したばかりか早くもクラッシュをしてしまう。その為にチームドライバーのスタッドフォードに重症を負わせてしまい「BRM」を解雇される。
(モナコGPでのマシーンが海に飛び込むシーンは序盤の見せ場でもある)
レースを無事終えても、それぞれには生きるべく厳しい現実があり、サラティは死と向き合う危険であるレーサーを辞めて、心配のない普通の生活を望む妻と仕事の板挟みに悩み、他のレーサー達も女性にかこまれる華やかな私生活や野望に燃える反面、精神・肉体の極限に挑む仕事である為に女性との問題を抱え、やはりアーロンも例外では無く、ある日妻と別れる羽目になる。
又、オファーもないアーロンは、一戦を解説者として実況の解説等をしていたそんな時、日本の自動車メーカーである矢村がコンストラクターズとして、アーロンのドライバーの腕を見込み、その誘いを受けた。
ドライバー間の誤解や、私生活の問題を引きずりながらも、ランス、ブランズハッチ、スパ・フランコルシャン、ニュルブルクリンク、と転戦の中アーロンは期待に答える成績を残して行くのである。

野心家であるイタリア人のバリーニ、確執するアーロンとイギリス人スタッドフォード、そしてフランス人のサラティが出した結論、最終レースでの引退をする為に、又それらを見守る女達それぞれの思いを胸に、決戦の場所モンツァ・イタリアGPは幕が切って落とされたのでした。
(この最終レースでのクライマックスを締めくくるモンツァサーキットの大きなバンクでの極限的な迫力、おそらく実際運転しているカットもあるのでしょうが、本番さながらの切れのあるスピード感と自然な視覚の描写からの緊張感が、バンクを転がる部品を視野にいれた時に頂点に達した) その時、部品の接触からサラティのフェラーリがコントロールを失い場外へと!
木にぶら下がっている彼は妻の約束を果たす事はなく、又アーロンは優勝を決めたのだが・・・。

この作品を見た当時の私には、印象は薄かったのですが、「男の子女の子」「もう森へなんか行かない」「さよならを教えて」のフランソワーズ・アルディが出演しており、又音楽には、「パリは燃えているか」のモーリス・ジャールで物語を支えておりました。
息もつかせないレースの描写からの実態感に付きそうなのですが、レーサーとしての立場による、恋人、家族、チームメイト、スタッフなどに対しての極限時での妥協を許さない精神と、その後の人に戻った時への微妙な心の葛藤がうまく次のレースへと進行されるレーサーの表現が本物の存在感として際立っていた作品でありました。

感激!ヨーロッパ ローテンブルグ妻には「フォー」ル負け

2006-05-16 12:22:12 | 海外の旅行
ローテンブルグでの妻は、クリスマス市の様な所(女の人が喜ぶ物が多く売ってましたね)で台所(食堂)の小物とか、クリスマスの日の飾りつける小物の様なのを買っていました。
一方私は、町の英雄の仕掛け時計を見る為に、何処からともなく集まって来る観光客でごった返すマルクト広場(もっとも我々も性懲りも無く2~3回見物の為に来ました)から近い、洒落た看板を掲げた感じの良い店でマイセンローズの皿を購入しました。
最初の会話がまずかった。「お前んとこの実家に、こういった物、みやげで送ったら喜ぶで」・・・「そうかな」・・・「着払いでな」
和ませるつもりが逆に不機嫌になった妻が「何すんの、そんなの買って」妻が購入した飾りつけ小物の買った訳を逆に聞きたいぐらいだが、話が長くなる為、ここはマイセンの食器を買った事に限って、適当に答える。「これに、たとえば漬物を入れてお茶漬けを食べるとか」すると一緒に行動をしている大阪のご夫婦の旦那が「なるほど、和洋せっちゅうでええかも」妙な協調をしてくれたお蔭で、冗談で言った事が買った立派な理由になる。?「フーン」二人の奥さんの拘りたくない様な返事が返ってくる。
一言で買い物に一つにも苦労するもんだ。と思いながら外に出ると、添乗員の女性にバッタリ合い、「あ、マイセン買われたんですか、いいお買い物ですね」ま、お世辞でも買ったそれなりの理由でも分かってくれる人がいる事は、喜ばしい事である。すかさず妻が「こういう処に来ないと日本では、買う気が起こらないものでしょう」と笑顔で、答える。「えー」と私が調子のいい妻の反応に、振り向くとワルガキの様な笑顔で私をけん制しつつ「何か買われたんですか」と切り返す「えー、ここでしか売っていなくて以前からほしい物があって、それを買って来たのです」と答える添乗員の女性から、買ったバックを見せてもらっている。
他の追従を許さない妻のあきれた海外シフトの情報収集である。
しばらくの間、私に限っては特に聞きたくもない立ち話しの後、添乗員の女性と別れ再び四人になる。なるほど、海外に仕事で良く行く人は、ここぞとばかりに舞い上がって買い物をする多くの観光客(特に女性)とは違い、冷静に日本に無い、自分に合った、しかも良い物を購入するんだなと、あえて的を得た買い物術に関心させられると同時にめったに行かない我々との差を感じさせられた。

旅行には、いつもビデオを持って撮りまくっているのですが、ブルク庭園では、掃除をしているおそらく現地の人が手をふるのを撮影しながら、しばらく歩いた所であったと思いますが、絵本の中にある様な家があり、その家を撮りながら玄関の扉へ近ずき「この扉をノックしたら中から可愛いお婆さんが出てくる様な家やな」と他の三人に言いながら扉の前に立つと、扉が開いた。いきなりファインダーの向こうに予想通りのお婆さんが、驚いた顔で「オー」の後、何か解らない言葉で言っている。
撮っているこちらが驚いているのだから、扉を開けたお婆さんはもっと驚いているのはあたり前なので、事態の修復にあわてて知ってる限りの英語で「I’m sorry.」続けて、訳を説明しなければ、「えーと」「えー・・・It is a lovely house.」と言いながら家とビデオを指さしながら頭を下げる。必死の訴えが通じたのか滑稽に見えたのか、胸を押さえながら笑ってくれた。
「ヤーパン」と笑顔で質問に、ホッとした気持ちからか「誰が、[野蛮]やねん」と言葉が解らない事をいい事につっこむも空しく滑る。
どうも、カメラを通して覗くと、常識がなくなるのか後のノインシュバインシュタイン城でも失敗をしでかすのではあるが、まずはお婆さんの心臓の強さにここは感謝であった。


ホテルに帰り、夕食を済ませると例のヨーロッパ様式の浴槽が待っている。最初この浴槽を見た時点で予想した通りの展開でなんとか入り終えるのですが、いつも思うのは映画の場面でこの様な泡だった浴槽から出る場合、そのまま体に付いた泡を洗い流す事なくすぐにバスタオルでくるんで浴槽から出るのですが、映画の進行的には綺麗なのですが、日本人の私には理解に苦しむ場面です。まずは、無意味に広い部屋の浴槽で一人文句を言いつつ、床に水が飛び散らない様に何とか工夫しながら入ったものと考えます。
ホッとする間もなく旅行の前半、毎日移動が続く為の旅行カバンとの格闘をし、それらの普段日常生活には無い事等からくる疲れにまかせ、爆睡する。


明くる日ミュンヘンまでのバス移動であり、朝から快晴でビデオ撮りにも最高のコースである。
しばらく乗っていると、添乗員の女性が、「次の町まで時間が少しあるので折角みなさんご一緒に旅行されて、これからまだまだ旅行は続きますので、一人一人自己紹介しましょう。」
と言ったとたんに「ではトップバッターは・・・・さんからお願いします。」いきなり私だ、本当に一曲歌ってやろうかと思ったが、運転手に事故でも起こされると洒落にもならないので、一つ面白い話をと、新婚さんが多い事から結婚式での信じられない話から、ご祝儀袋に書く文字を「御祝」を「御呪」と書き間違えた後輩に最初に発見した私が「お前は祈祷師か」から始まった大騒ぎの件等の話で適当に笑いを取ったのは良かったのですが、後に続く人達も笑いをまじえる話の使命感から、中々終わらず途中の見学を挟み長時間になる始末であった。

ベン・ハー 「キリストの神秘的描写とスペクタクル」

2006-05-11 16:46:16 | 映画
この作品は、リアルタイムでは無いのですが、姉が当時中学生の私を大阪の堂島にある映画館に連れて行き見た映画で、歴史のロマンと雄大な世界観に感動し好奇心をそそられ、その後の世界史から日本史に興味を持ち続けられた起因となった、貴重な思い出作でした。(以下各部他の資料参照とする)

1959年度、アメリカ M-G-Mスタジオ作品※
製作者  サム・ジンバリスト      出演   チャールトン・へストン※ 
原作   ルー・ウォレス              ヒュー・グリフィス※
監督   ウィリアム・ワイラー※         スティーヴン・ボイド 
美術監督エドワード・カルファーノ※       マーサ・スコット   
脚本   カール・タンバーグ            キャッシー・オドネル
撮影   ロバート・Lサーティース※       ジャック・ホーキンス 
音楽   ミクロス・ローザ※  
                  
1959年度・アカデミー賞、作品賞※、監督賞※、主演男優賞※、助演男優賞※、撮影賞※、映画音楽賞※、美術監督・装置賞※他2名、その他衣装デザイン賞、特殊効果賞、編集賞、録音賞
    
映画スタジオM-G-M社はテレビの台頭により、会社存続を懸け25年のヒット作『ベン・ハー』の再映画化を企画。製作者には25年版の編集を務めたサム・ジンバリストを、同じく助監督として参加していたウィリアム・ワイラーに監督を依頼。監督としては最高額の100万ドルのギャラが支払われた。脚本の執筆はワイラーのイメージに合わず困難を極め、40もの脚本が執筆され幾人かの脚本家の交代を経て結果、最終的にイギリスの脚本家クリストファー・フライが脚本に手を加えるのだが、脚本の執筆は映画の撮影と同時進行で行われる異例の方法となる。ベン・ハー役にはポール・ニューマン、マーロン・ブランド、らが候補にあがるが、最終的にワイラーはチャールトン・へストンに白羽の矢をあてる。メッサラ役にはデビュー間もないアイルランド人俳優スティーブン・ボイドが起用。ベン・ハーの母親ミリアム役には「十戒」でもヘストン扮するモーゼの母親を好演したマーサ・スコットを、最終的に5万人を超える俳優やエキストラたちがこの映画の撮影に参加した。
撮影はイタリアのローマで行われ、美術監督のエドワード・カルファーノはローマのチネチッタ撮影所に、古代ローマ時代の世界を再現。二輪戦車レースが行われる円形競技場建設のため1000人以上の技術者たちが1年以上もの時間を掛けて壮大な1周460mの競技場のセットが作られ、その後全てのセットは撮影終了後に壊してしまうのである。マケドニアとの海戦シーンに使うガレー船の建造では、専門家を雇って出来るだけ忠実に再現をし、海戦の海には池を掘り又、茶色い池の水は地中海の青い海の色に染められた。
この映画最大の見せ場となる、4頭の馬につながれた二輪戦車がしのぎを削る20分弱のレース・シーンの撮影のために、ヘストンを含めたキャストとスタッフはイタリアで4ヶ月の撮影リハーサルを行い、3ヶ月かけて撮影された。このシーンの演出は、名作「駅馬車」のスタントで抜擢された元スタント・マンのヤキマ・カヌートが担当をし、カヌートの息子ジョー・カヌートがヘストンのスタント・マンを務めた。実際競争シーンは3分間程度の戦車競争を11分かけて映写する等、スタートからゴールまでの8分46秒は、同一ショットはなく192ショットから編集された1ショット約3秒の前代未聞のスピード感と迫力を出すことに成功、又危険な撮影にも拘らず、死者や大きな怪我をした者がいなかったのだが、超大作の製作を任されたプレッシャーの影響なのかジンバリストは製作途中で心臓発作が原因で急死してしまい、スタジオはJ・J・コーエンに後を引き継がせ、当時としては破格といわれた1,500万ドル(54億円)もの制作費と6年半もの製作期間を経て映画は無事完成。映画は8,000万ドルもの利益を上げる記録的なヒットとなった。現代の映画産業にこの様な大規模の人材と製作期間はおそらく望めないでしょう。

第一話
映画のオープニング、ある澄み渡ったエルサレムの聖夜の空、ひときわ明るく輝く・・・ダビデの星があった。東方から遥々やって来た3人の賢人たちもその星を見上げていたがやがて、その星の一筋の光に示された粗末な厩で一人の男児が誕生した。イエス・キリストの誕生である。

第二話
この時期のローマは共和政から初期帝政に入り常備軍を持ち対外拡張政策から防御体制の整備と支配地の破壊よりローマ化に政策を転換した頃と思われる。
紀元26年、ナザレの村をローマ軍の一行が通り、エルサレムに向かっていた。そこに青年に成長したヨセフの息子キリストの姿もあった。
ローマの大軍を率いてエルサレムのアントニヤ城に入ったのは新任の司令官メッサラ(スティーブン・ボイド)だった。
さっそくメッサラの新任の祝いに訪問したのは、かっての幼友達でユダヤの王族ハー家の嫡男ジュダ・ベン・ハー(チャールトン・ヘストン)であった。
二人は力強く抱擁し合い、旧交を暖める。
翌日、メッサラはベン・ハーの屋敷を訪れた。ベン・ハーの母ミリアム(マーサ・スコット)、妹ティルザ(キャシー・オドネル)もメッサラを暖かく迎えるのだが、ローマ皇帝からユダヤの支配強化を命じられたメッサラは、ベン・ハーの影響力を利用し、彼に反抗者を密告するように依頼するが、断固拒否するベン・ハーにメッサラは怒りを露わに立ち去るのだった。
ハー家で、昔から仕えている奴隷、シモニデス(サム・ジャフェ)は一人娘のエスター(ハイヤ・ハラリート)が嫁入りする事で挨拶にやって来たのだが、ベン・ハーは彼らを友人として向かえ、久しぶりに再会したエスターが美しく成長しているのを見て複雑な気持ちになるのであった。

新任のグラトゥス総督がローマの部隊を引き連れエルサレムに入った一行はハー家の通りに進行して来たその時、ティルザが触れた瓦が外れて滑り、総督の馬の近くで砕け落ちた事から、馬が驚いて暴れ総督は落馬するのである。
ハー家にメッサラが兵隊を引き連れ乗り込み、事故なのは明白であったが、先日のベン・ハーの拒否への報復ともいえる、ベン・ハー一家3人を総督暗殺未遂容疑で逮捕し、ベン・ハーの無実の訴えにも耳をかさないばかりか、生きて帰るのは不可能に近いガレー船に乗せ、彼の母と妹を地下牢に閉じ込めるのであった。

第三話
ガレー船に乗せられ、ナザレの地に来た時、倒れ込んだベン・ハーに近づき水を差し伸べた人物がいた。その人物こそイエス・キリストであり、その水を天の恵みの如くむさぼった。(この場面でのキリストの姿は映し出しているのであるが、顔等を見せない演出はキリストの神秘さを見る人の心に効果的に表現させたものであった)やがて、それに気付いた護衛隊長が鞭を飛ばす。

3年後、ローマのガレー船で奴隷総勢120名の漕ぎ手の中にベン・ハーの姿がある。3年も苛酷な労役に耐えてきた彼の生きる源はメッサラに対する復讐心であった。そんな中、クイントス・アリウス提督(ジャック・ホーキンス)は不屈のベン・ハーを何かと気にかけ、マケドニアとの海戦となった時には、ベン・ハーの足枷を外させ、又海戦の最中、ベン・ハーは他の奴隷の鎖を外していき、アリウス提督を狙う敵に槍を放ち救うのであるが、敵の船もローマの船も大破し、ベン・ハーとアリウス提督だけが破片の上に浮かんでいた。
そこへ通りかかったローマの軍艦に助けられ、戦果はアリウスの船は大勝利だったのであった。

アリウス提督のローマ凱旋には、4頭立ての馬車のアリウスの横にベン・ハーが乗り、沿道を埋め尽くす大衆の中、ローマ皇帝はアリウスに勝利のバトンを手渡た。
そして、ベン・ハーは奴隷の身分から解放され、アリウスの養子として迎えられたのであった。
それから一年余、ベン・ハーは戦車競争の騎手として名声を得るようになったのだが常にベン・ハーの心には遥か祖国の母と妹の消息であった。アリウスはそんなベン・ハーの気持ちを理解し、そしてベン・ハーの祖国への帰郷を許した。

第四話
4年ぶりに祖国の地を踏むベン・ハーに近づいて来た人物がいた。このエジプト人バルタザール(フィンレイ・カリー)こそ、キリスト誕生の時、厩に訪れた3人の賢人のうちの一人であり、成人した筈のキリストを探す為、再びイスラエルの地に舞い戻って来ていたのだが、ベン・ハーをひと目見てもしやと思い話し掛けてきたのだった。
バルタザールはアラブの族長イルデリム(ヒュー・グリフィス)の客人として、テントで世話になっていた。
イルデリムは近々エルサレムで行われる戦車競争に出場させる為、馬の調教とローマで戦車競争の騎手をしていたベン・ハーを騎手として出場の依頼するのだっが、彼には母と妹を探し出すことの方が先決であるが為、族長の申し出を断り一路エルサレムに向かった。
すっかり荒れ果てた我が家。そこに、シモニデスがメッサラに捕らえられ激しい拷問を受け、半身不随になってしまいその事から、結婚を諦め屋敷に残り3人の帰りを待っていた驚くエスターに会い、母と妹の消息を訪ねるのだが、エスターも知らなかったのであった。


第五・六話
ベン・ハーはアントニヤ城のメッサラのもとへ一人乗り込み、ローマのアリウス2世として出会った。まさか、驚くメッサラにベン・ハーは言い放つ「母と妹をすぐに探し出し、無事だったら復讐は忘れてやる」と
メッサラは部下に命じ地下牢を調べると二人は辛うじて生きていたが、なんと業病に侵されていた。
業病の谷に送られる二人は、ひと目だけでも我が家を見ようとハー家に立ち寄り、そこでエスターに見つかり、業病のことは黙っていて欲しいと懇願するのだった。
エスターは二人の心中を察し、ベン・ハーには、二人は牢内で死んでしまったと嘘をつく、その為ベン・ハーは悲しみのあまり屋敷を飛び出して行く。

数日後、アラブの族長イルデリムがメッサラのもとを訪れ、戦車競争にアリウス2世であるベン・ハーが出場することを伝え、賭けを持ちかけ、もしメッサラが負けた場合、メッサラは確実に破産の憂き目にあうのだが、戦う相手がベン・ハーと知ったメッサラはこの賭けに乗るのである。
競技場は数万の観衆で沸き返り、戦車競争に出場するのは9チームでそれぞれコスチュームに身を包み、4頭立ての馬車に乗り込む。ベン・ハーとメッサラの姿もあり、メッサラの馬車の車輪には鋭い刃物が付けられていた。
ピラト総督の合図で、戦闘の幕が切って落とされ、一周460メートルのトラックを10周するのであるが、メッサラは車輪の刃物で相手の車輪を粉砕していく。次々と脱落していく戦車から大地に叩きつけられる騎手に突進する戦車。危ないところを切り抜けるベン・ハーメッサラの鞭が襲い掛かかる、同時に車輪の刃物がベン・ハーの車輪を削りだした。ベン・ハーが逆に鞭を掴み応酬していると、メッサラの車輪が壊れメッサラが振り落とされる。馬に引きずられるメッサラの上を後続の馬車が踏みつけていく。(このスペクタクルシーンは、現在のCGにはない本物の迫力があり、おそらくこれを越えるものは、今後出る事は無いと考えます。)
遂に、大歓声の中ベン・ハーは復習に燃え勝利したのであった。
重症のメッサラのところにベン・ハーが現れた。そして、メッサラは最後の力を振り絞って言うのである「まだ勝負は終わってないぞ、お前の母親と妹は生きている、業病の谷にな」 ベン・ハーに最後の意地を示しメッサラは息を引き取った。

第七話
世間から見放され、ひっそりと死を迎え様としている母と妹を探しに業病の谷へやって来たベン・ハーは谷底へ降りていくと、そこにエスターがミリアムとティルザに食料を持って来ていたのであった。エスターに何故嘘をついたのかと問いただすその時、洞窟の中からミリアムとティルザが出てきた。とっさに岩陰に身を隠し、母親がエスターに息子の様子を尋ねる声がベン・ハーの心を辛く悲しませ、声を殺して泣くのであった。

業病の谷からの帰途、丘の上に向かい人々が歩いて行くのを見たその丘にエジプト人のバルタザールがベン・ハーを見つけ近づき言うのである「やっと、あの方を見つけましたよ。間違いなく神の御子です」 バルタザールは喜びをたたえ、ベン・ハーを誘うのだが、悲しみに打ちひしがれている彼にはそんな余裕はなく彼は急ぎピラト総督の官邸へ急いだ。
分かれたエスターは丘の上でキリストを見上げ、エスターの顔も多くの人々の顔も何故か穏やか表情なのであった。

ベン・ハーは官邸でピラト総督に会い、今やベン・ハーはローマの全てが憎く、母と妹を痛め苦しませたのは、ローマの為であると、ピラト総督に怒りをぶつけた。
「この指輪を父上にお返しください」 ベン・ハーはアリウスから授かった指輪を外した。
そして、ベン・ハーは叫んだ「私はアリウス2世ではなく、ユダヤ人のジュダ・ベン・ハーです。」
帰宅したベン・ハーを迎えたエスターは、彼の復讐心に燃えた顔を見て言うのであった。
「貴方の顔は憎しみで一杯、まるでメッサラが乗り移ったように、憎しみからは何も生まれません。でも愛は憎しみより強いと私は信じますわ」その言葉を聞いたベン・ハーは目を覚まされ気づくのであった。

第八話
翌日、丘の上のキリストの慈愛に満ちた説教を聞いたエスターは、ミリアムとティルザにも聞かせたいと思い、業病の谷へ向かいそこに、エスターの後からベン・ハーもやって来た。
母ミリアムを抱き締めるベン・ハー。だがティルザには死期が近づいていた。洞窟の中からティルザを抱き上げてきたベン・ハーたちはエルサレムへ向かうが、街で気付いた人々は、業病人だと叫び石を投げる。
その頃、ピラト官邸の広場では、ユダヤ教司祭達の民衆支持離れの恐れからキリストに、ユダヤの反逆罪裁判が行われ、ローマ政府に引き渡された後、最も重い死刑の宣告がされ十字架を背負ったキリストがエルサレムの街路を歩んでいく。その姿を見たベン・ハーは気づくのであった。この人物こそガレー船に運ばれる途中、自分に水を恵んでくれた人だと。
血に染まった裸足がおぼつかなく、手を着くキリスト。ベン・ハーはとっさに近くの水場から柄杓に水を汲み、キリストに差し出しす。キリストは水を飲みながらベン・ハーと対面した。そこには以前の自己の様な憎しみの顔でない、慈悲深い顔のキリストであった。その瞬間、又も役人の鞭が飛んできた。

ゴルゴダの丘で磔にされるキリスト。掛けられたその時、風雲俄に掻き曇り、天の怒りなのか当たり一面暗くなり、キリストの肉体から流れた出た血が大地を伝わり、小川に流れ赤く染める。神にこの者達の罪の許しを願うキリスト。その血はこの世界の人の罪と許しを死により教え伝える様にも思わせる悲しくも後悔と愚かさを感じさせる場面であった。

雷鳴が轟き、突然の豪雨に洞窟に身を寄せたエスター、ミリアム、ティルザの3人は、キリストの死を、はっきりとそれは感じられた。瞬間、ミリアムとティルザの体に激しい痛みが襲いそこでエスターは見るのである。せん光に照らされたミリアムとティルザの顔に病の痕跡が消え、元の姿になっているのをこの時、苦しみの物達を救うべき奇跡がまさに、起きたのだった。
お互いの顔を見、奇跡を実態した感動と喜びに抱き合う3人であった。

キリストの死を見届けたベン・ハーが帰宅すると、出迎えたエスターが奇跡の全快をした母と妹の姿を2階に示し、それに引き付けられる様に駆け上がるベン・ハーの心からは、全ての憎しみの感情が消え失せ、母子、兄妹が強く抱き合った。

三日後、多くの人々、勿論ベン・ハーも見るのである。
イエス・キリストの復活を。

主役のチャールトン・ヘストンの存在感が大きく彼独自の歴史の息吹を感じさせる作品ではありますが、その後の彼のスペクタクル史劇には、なくてはならない俳優としての活躍からも、うかがえます。
その他代表作「十戒」「エル・シド」「華麗なる激情」「偉大な生涯の物語」「カーツーム」「猿の惑星」等、悪を演じたスティーヴン・ボイドは異色なアクターとして色々なジャンルに活躍していたが、最近では、あまり活躍の場が無い様である。
ラストのシーンにより、人であるが為の心から、やがて憎しみ、怒りそこに、迫力ある映像からの燃え滾るような復習心の増幅、空しさ、悲しみを穏やかに又神秘的に導かされ、単なるスペクタクル史劇に終わらせなかった事以上に忘れえない最高傑作だった様に思えます。




旅・番外編(白馬・学生村)

2006-05-07 16:40:43 | 国内の旅
旧国鉄周遊券の旅(よん)最後の項での「トイレ待ち」につき参考となります同室の友人の以前の行動が少し出ている旅を記載させて頂きます。


高校3年の夏休み、大学受験の為としまして信州白馬の学生村に、10日間の予定で、夜行列車(寝台車ではなく直角椅子)で大阪駅まで三人で出発いたしました。
出発時間まで構内にて時間待ちなのだが、熱さと喉の渇きで家に戻ろうかなとも考えましたが、家の家族は北海道に旅行中で留守であった為即、却下しましたが、結局、死ぬ様な思いと北海道に行けば良かったと往生際の悪さで夜を凌ぎ、(深夜につき何処の駅、列車内での飲み物の販売はなく、他の人は先に用意をしていたみたいでした。もしくは自分達だけが、売られている時に寝ていたのかもしれませんが)夜明けに駅名は忘れましたが、熱いそばを売っていた為、飛びつく様に汁だけを先に飲みましたこの時ばかりは、熱いものでも喉の渇きは癒やされるんだと三人で思わず「うまいわ」の連呼。

最寄の駅に到着しますと、ジープで宿舎の人が迎えにきて下さってました。何でジープなんだろうと思うより乗れた嬉しさが勝って、凄い道のりではあったがシンとした美しい山々や木々の新緑を楽しんで、猛勉強?の意欲も吹っ飛んで宿舎に無事到着。
部屋は布団部屋?なのかロフトの様な(そんな良いものでは決してなく)上の部分に布団がいっぱい積んであったが、まずまずの広い部屋だ。早速周りの景観の清々しさと例の好奇心で、初日と言った甘えから勉強は明日からとし、探索に出かけた。この探索は勉強から離れられる無言の共通意識からその日から結局毎朝、夕続ける事になりました。
同じ様に、宿泊客には駒沢大学のアーチェリー部の合宿の団体が来ておりましたが、食事、おやつの時間にこの人達と重なれば、廊下に下級生が両端にズラリと並んだ中を、年下の我々が通り抜け、食堂の上級生と並んで一緒に食べる訳なのですが、何か仏門にでも修行に来ている様な、重い雰囲気でしたがノウテンキのおかげで見事にクリアー、ついでに勉強のプレッシャーまでも見事にクリアー。9日目に気がつく始末だった。
その様に毎日、バトミントン、キャッチボールと宿舎の置いてあるものを拝借し、この駒沢大学の部員以上に精神、肉体的には充実した日々を送り、自然を満喫し、何をしに来たのか、先の読みが全くないと言った風であった。ここまで馬鹿になれとは言わないが、最近の子供達にはこの位の余裕を持ってほしいものですね。
おやつは、トウモロコシだけでいつも山積みの状態で、4~5年は食べなくてもいい程たらふく食べ、ただ生きる事だけに絞れば規則正しい生活であった。

あ、友人なのですが最初の頃、夕食も済ませ風呂にも入り漫画本(宿舎の借り物)を読んでいますと、その友人がパンツ一つで滝の様な汗をびっしょりかいて、ドアーを開けたんです。一時間程前に部屋から出て行った記憶はあったのですが、漫画に夢中であった為、さして気にもしなかったので、彼の帰って来た状態から又風呂好きな性格から間違いなく「おー、風呂に行ってたんか」と信じられない彼の返事が、返って来るとも知らず声をかける「あっついわー、便所や」一時間は有に立っており、もう一人の友人と、置いてある時計とパンツ一つの友人を何度も交互に見ながら断固信じられない事から再度「お前風呂やろ風呂に行ってたんやろ」と自分にも言い聞かせる様に、確認したのであるが、「ちょっと長かったかな」別に便所が逃げる訳でもないのにそんなに執念を出さなくても、ドラマひとつトイレで見れるな、なんて考えながら返す言葉もなく、今度こそ風呂に行く友人を見送った。
(ちなみに風呂から帰って来た友人の出で立ちは便所帰りと同じであった)

9日目の朝、その友人がいやに荒れており、ぶつぶつ言いながら掃除をしている音で起こされ、よくよく聞いてみると「何をしに来たんや、勉強とちがうんか」と散々自分も遊びほうけていた奴が我々に言ってるのである「お前も先頭切って遊んどったやないか」切羽詰った日に何を言ってるのか、しかし分からんでもないんだが、素朴な疑問をぶつける「しゃーけど、何で掃除やねん」すると「せめて何かきちっとした事せんとな」よう分からんが何となく言わんとする意図は、ぼんやり理解し、全員で掃除後短期集中勉強を午前中のみして、何となく彼のお蔭とも言える小さな達成感で、あくる日に学生村を後にした。



旧国鉄周遊券の旅(よん・東萩~美祢)

2006-05-05 14:50:43 | 国内の旅
次の日の朝、今日も快晴だ。
昨日問題のジーパンの乾き具合は季節が夏の為、穿けなくもない状態だ。本人は着替えにメンパンを持って来ているはずなのに、例のジーパンを穿きたい素振りで、やや生乾きを気にしているのか迷ったあげく訊いてきた。そんな小っちゃな事はどうでもいい事なので「お前の体温と、太陽で穿いてたら乾くやろ」といい加減な返答をする「せやな」大した疑いもせず決着。

宿泊の勘定を済ませ、出ようとすると後ろから「乾いてた」見ると、昨日風呂場で(洗だく注意)のおばちゃんが意外にもニコニコして立っている。ドキッとする間もなく聞かれたジーパンに何故か二人、指をさし「か、乾きました」 ポケッとしている、先にいた事情を知らない二人の友人を残し、直に出た。

駅前で四人分の貸し自転車を借り、爽快な気分で名所巡りだ。
戦国時代の大内氏、関が原以後の毛利氏、関が原不戦を教訓にしたか、否かは分かりませんが、多くの維新の志士が出た処とは思えない程、長閑な佇まいが点在している日本史の様な土地であるのですが、我々の様な男連れはほとんど無く、女の子のグループとアベックが多く完全に浮いた状態だったが、嬉しかった。
当時、異性に声を掛けるのが関の山状態にも拘らず、女の子のグループが多い、あるいは四人ソレゾレのタイプの子を見れば、何かのお導きの様に忙しく巡っていた有様で、松陰神社・松下村塾(以外と貧相な建物)・東光寺(毛利家の菩提寺)・吉田松陰誕生地(石碑より市内が一望出来眺めが良い)・玉木文乃進旧宅(松下村塾の創立者)・伊藤博文別邸(わざわざ東京から移したらしい)・木戸孝允旧住宅(維新三傑の一人桂小五郎の名でも有名)・円政寺・高杉晋作誕生地(騎兵隊の創立者維新の風雲児が育った所)等の名所旧跡を周ったのだが、その為か今、肝心の名所旧跡の記憶があまりないのである。

余計な興奮状態の頭の熱と昨日菊ヶ浜の海水欲に、この炎天下も手伝った事による体の熱を下げる為、休憩をしながら「不純な考え方の見学は止めて、真ともな方向で行こうや」奮闘努力した甲斐もなく(何処かで聞いたような)が実態なのだが、勝手な言い訳をつけたと申しますか正気に戻りつつ、地図を広げながら次からのルートを三人が座って相談していると、一人自転車の横に立っている友人が、遠くの誰かと話をしている。(相手は女性の声の様だが)「四人の中で俺だけのご指名や」と嬉しいのか得意満面の崩れた顔で我々に言う「四人の中って相手が、見えてんのは、お前だけやんけ」「シャッターの依頼やから止めとけ」と我々の大人げのない返事を聞く間もなく「ア、アハ・アハ」と彼、独特の絶好調時の笑いを残し一人正気に戻っていない友人が消えた。
この件のおかげで、先の方向がハッキリした。

昼も済ませ、立てた計画通り最初は、旧周布長屋門・堀内鍵曲・旧福原家萩屋敷門(萩藩永代家老の城詰め時の屋敷)・天樹院墓所(毛利輝元の墓所及び元隠居所)・萩城跡(春は桜秋は紅葉で美しいのですが真夏の為石垣と堀のみで、仰げば侘びしの気持ちだが天守閣は無し)

萩の感想はまるで萩城跡を見た気分と同じであったが、次の目的地に行く為、東萩駅から長門市そして美祢線に乗り秋芳洞行きのバスが出る、美祢駅に着いた。
幸いな事に秋芳洞行きバスの出発迄15分待ちである。
同室の友人が「時間あるからトイレに行く」と言い残しトイレに行ったのだが、後の事を思えば軽率な返事をした。




007シリーズ 「5人のジェームズ・ボンド」

2006-05-03 06:48:08 | 映画

007シリーズ初代ジェームズ・ボンド(S・コネリー)


娯楽シリーズについて007は直に浮かんでくる作品であり、当時はジェームズ・ボンド=ショーン・コネリー=ファッション(英国紳士)・スタイル・アクションから、憧れた絶対的ヒーローでした。
B級スパイ映画が数多くある中、何故この作品がメジャーになったのかは詳しくは、分かりませんが、前記にも示しました様に、主演俳優のスタイル・洗練された品格、背景の(英国諜報部員)伝統性、主人公のギリギリのアクション(危機一髪)、からの作品の爽快感とボンドガールの個性によるものと考えました。

第一作の「ドクター・ノオ」
監督  テレンス・ヤング
主題曲 ジョン・バリー 
個の作品はあまり印象は、無いのですが

二作の「ロシアより愛を込めて」
監督  テレンス・ヤング
主題歌 マット・モンロー
作品中列車内でのスペクターの刺客・冷酷且つ屈強なグラント(ロバート・ショー)に挑む危機迫るアクションはボンドのアクションスタイルを決定付けたとも言える、ボンドであるが為の色気を出させたものと考える。又をおおよそ、ソ連のスパイらしくないタチアナ(ダニエラ・ビアンキ)ではあるが、彼女の美しさが、物語全体に華を添え、より敵対組織を醜く浮かび上がらせる事からコントラストを鮮明にし、やや入り乱れるストーリーを解り易くさせた効果が、感じられる。次に007シリーズ内の小道具等の仕掛けも派手さが無く地味ではあるが、その事が逆に現実感をおび、後の大仕掛けの作品より臨場感があり身に迫る作品であった。

第三作「ゴールドフィンガー」
監督  ガイ・ハミルトン
主題歌 シャーリー・バッシー
前記、(シャリー・バッシー)のパンチの効いたタイトルソング及び(シャーリー・イートン)の出番は少ないのではあるが金粉全裸のインパクトが物語の良い呼び水効果があり、続く内容も以下記載の如くガッカリさせない危機感迫る出来であった。
オッド・ジョブ(ハロルド・坂田){グランド・スラム計画に賛同しなかった傘下のボスを車ごとプレス・スクラップする冷酷なシーンは印象的}との金庫内でのボンドとの死闘は前回作と同様、機転から危機を脱し、感電死させるのだが唯一倒す方法はそれしかないと思わせる危機迫る迫力があり、仕掛けにおいてもアストンマーチンDB5でのカーアクション内での装備による展開は痛快感があり、お年玉要素ではあるが、充分楽しめた内容であった。
ボンドガールの(オナー・ブラックマン)の締めた色気も嫌らしさがなく、やはり前回作ほどではないが、物語を和らげた効果があったと思える。

第四作「サンダーボール作戦」
監督  テレンス・ヤング
主題歌 トム・ジョーンズ
当作品では、ややマンネリ化した感はあるが、最初に述べた現実、臨場感はこの作品までである様に思える。
バイク、水中翼船等の仕掛けも面白く、むしろボンドガールのドミノ(クローディーヌ・オージェ)の東西ハーフっぽい綺麗な顔立ちと抜群のスタイルも撮影背景の十分なアクセントとなっていた。またハイライトの水中戦闘シーンも今までにない新鮮味があった。

第五作「007は二度死ぬ」
監督  ルイス・ギルバート
主題歌 ナンシー・シナトラ
この作品は、日本での撮影、俳優、女優(ボンドガール)での話題があり、オートジャイロ、空中戦等それなりには、おもしろかったが、湖低の基地等の仕掛けが現実離れの嫌いもあり、内容的には、峠を越えてしまった感は否めないであろう。

第六作「女王陛下の007」
監督  ピーター・ハント
主題歌 ルイ・アームストロング
二代目ボンド(ジョージ・レイゼンビー)なのですが、あえてボンドガールと言う前に唯一結婚した女性トレイシー(ダイアナ・リッグ)は好きな女優で、イギリスT・Vシリーズ「おしゃれ泥棒マル秘探偵」」で綺麗で上品な色気のある役で、スティード(パトリック・マクニー)のソフトで伝統的な紳士探偵とのユーモラスな掛け合いが印象に残っております。
又、三代目ボンドの(ロジャー・ムーア)は、やはりイギリスT・V「セイント」の初代サイモン・テンプラーを演じ、「ダンディ2華麗なる冒険」では(トニー・カーチス)と絶妙なコンビで犯罪を解決していく役柄が記憶にあり、ボンドよりこれらの方が合っていた様にも思えました。