1960年度 フランス・イタリア映画 太陽がいっぱい(PLEIN SOLEIL)
監督:脚本:ルネ・クレマン Rene Clement
製作:ロベール・アキム Robert Hakim
レイモン・アキム Raymond Hakim
原作:パトリシア・ハイスミス Patricia Highsmith
音楽:ニーノ・ロータ Nino Rota
撮影:アンリ・ドカエ Henri Decae
編集:フランソワーズ・ジャヴェット Francoise
美術:ポール・ベルトラン Paul Bertrand
衣装:ベラ・クレメント Berra Clement
アラン・ドロン Alain Delon 、トム・リプレー(Tom Ripley)
マリー・ラフォレ Marie Laforet、マルジュ・デュバル(Marge)
モーリス・ロネ Maurice Ronet 、フィリップ・グリンリーフ(Philippe)
エルヴィール・ポペスコ Elvire Popesco 、ポポヴァ夫人(Mem Popova)
エレノ・クリザ Erno Crisa 、リコルディ刑事(Inspecteur Riccordi
ストーリー(ほぼ、全容を記載)
1950年代後半、ローマ。出身の卑しいアメリカ青年トム(アラン・ドロン)は放浪息子フィリップ(モーリス・ロネ)をサンフランシスコに連れ戻してほしいと彼の父親に5千ドルの報酬金の約束で依頼される。
フィリップは、ナポリに近いモンジベロという漁村に留まり、裕福で働く必要もない彼は、遊び仲間フレディ達と放蕩生活、トムには、父親の所に帰ると言いながらも、その気はなく、豪華なヨットを買い込み、パリ娘の恋人のマルジェ(マリー・ラフォレ)と享楽の日々を送っている。しかも、フィリップはトムを蔑み、名ばかりの友人で、事あるごと、下男の様にぞんざいに扱う。そのうちトムは魅力的なマルジェに惹かれ、金への欲望と、エスカレートするフィリップの嫌がらせに対する復讐心から全てを奪うべく、殺意を抱く。
そんな中、トムはフィリップ、彼の恋人マルジュとの3人で、タオルミナにヨットで向かうが、途中でフィリップの悪ふざけからトムは、ひとりボートで漂流してしまう。そんなフィリップの行ないやトムの策略からマルジュと口論になり、彼女はヨットから下船し、一人去るのでした。ついに、ヨットで沖に出て二人きりになる状況を作り出し、トランプに興ずる内、用意していたナイフをフィリップの胸へ、太陽がサンサンと輝く中で殺害計画を実行した。死体はロープで何重にも縛り錨を付け、この計画の重要な条件でもあり、また未来へ進む為の障害でもあるフィリップを海へ捨てる。
陸へ上り、フィリップの人生を手中に収めたリプリーは計画通り実行に移すのである。序章でもあるフィリップに成りすます事から、サインを練習し、パスポートを偽造し、マルジュに、あたかも生きているように、声を似せて電話をしたり手紙を送る。そんな時フィリップの友人フレディが訪ねて来た。フィリップの不在に疑念を持たれ、ひょんな事から偽装に気づくフレディをも撲殺し、機転を利かしながら死体を車で運び、夜の海岸に棄てるのだが、たとえ死体が上がっても殺した容疑は、筋書きに生きるフィリップであり、計画の一環としては、むしろ好材料になるのである。やがて警察がフィリップの所在について聞き込みにくるが、トムはフィリップが容疑者であるかのごとく、ほのめかし、所在はは知らないと、とぼける。そして、警察はフィリップを容疑者として追い始めるのだが。
目的の一つでもあるフィリップの預金の大半を引き出す為、銀行に行き、サインも見破られる事もなく、上手く行くかに思えたのだが、そこでもフィリップ宛の電話の呼び出しから、フィリップを知る人達に彼の存在の有無が、疑われる状況になるのだが、素早くかわし切り、大金を手にし計画の最終章へ。
今でもフィリップが生きて逃げているかの様に見せかける為にも、フィリップのタイプライターで、サンフランシスコの父親宛に「友人を殺してしまい自殺する・・・マルジュに全ての財産を・・・」と手紙を出す。
トムの計画は完璧なように見えたが、不審に思う刑事は、マルジェにも聞き込みに来る。
そして、トムもフィリップの自殺から失意の日々を送るマルジェを訪ね、仕上げの芝居を演じる。優しく慰めた後言った「お別れに来た。アメリカへ帰る事にした。」と告げて去ろうとする。が、「行かないで」とマルジェに引き止められる。
思惑通りにフィリップの恋人だったマルジェさえも手に入れ、念願の豪遊生活を送る。
海に行く二人、マルジェはフィリップのヨットの売却から引き上げを立会うのだが、ヨットと共に引き上げられたのは、スクリューに絡んだフィリップの・・・。そして、悲鳴が。
完全犯罪は成立し、全てがうまくいくはずだったのだが…。
砂浜では、全てに満足し、未来に安心し、くつろぐトムに給仕が、伺う「ご気分はどうですか
・・・「最高の気分だ・・・太陽がいっぱいだ」「酒をくれ」
穏やかに時が過ぎる様に見えるのであるが、やがて刑事が、給仕に何かを告げる。そして何事も無い様に「リプレーさん、リプレーさん・・お電話です」の声に最高の太陽を独り占めしているトムは・・・。
若き日のアラン・ドロン独自の妖しげな魅力と端整な顔立ちから、犯罪者を忘れさせる様な存在感やストーリー及びサスペンス感とコントラストな鮮烈な太陽と青い海、白いヨット等の背景の眩い美しさ、そして流れてくる哀愁を帯びたニーノ・ロータのメロディが主人公の孤独に儚く突き進む運命を哀しくも優しく印象付け、クレマン独特のドキュメンタリータッチのテンポが物語の要所やナポリの海や町、市場の雰囲気にも演出され、自然な流れを醸し出しており、作品のほぼ全体を占めるアラン・ドロンやマリー・ラフォレ、モーリス・ロネの個性が巧みに表現され、研ぎ澄まされた主人公が解放されたラストでの無情なまでの透明なシーンが作品の永遠な憧れの様なものを鮮やかに心に留めさせる映画でした。
監督したルネ・クレマンは、レジスタンス映画で名を馳せ、あの名作52「禁じられた遊び」では、あまりにも有名ですが、私は49「鉄格子の彼方」にも男女の関係と絡んでいく犯罪そしてサスペンスは、背景やスタイルこそ違いますが、本作品と何か共通するものが感じられました。そして56「居酒屋」では、19世紀のパリの生活感をスクリーンによみがえらせ、「小説の完璧な映画化」と最高に評価された映画でもあります。
アラン・ドロンがフランス映画界最大のスターになるきっかけを作ったと言ってもよい「太陽がいっぱい」は、「キャスティングがうまい監督」「役者の魅力を引き出せる監督」という評価が定まり、1950年末~1960年代、ヌーヴェルヴァーグの動きの中、対抗し、作られた第一級のサスペンス映画で、この作品以後は商業映画が中心で、とくにスリラーを得意とした作品が目立ちますが、作品の過って無い技巧に見応えがあり、クレマンの映画生涯の前・後期の両方のスタイルを兼ね備えたクレマン作品の神髄ともいえる出来栄えであったはずである。
記憶に新しいのは、69「雨の訪問者」などの監督をしていまたが、70年代中頃以後は、新作も撮らなくなり、その後はあまり恵まれず、評価はふるわないまま、96年誕生日の前日に永眠。日本のニュースでは、「禁じられた遊び」を作ったフランスで最も偉大な映画監督ルネ・クレマン(82)永眠と報道された。
以後、この「太陽がいっぱい」は、最近マット・ディモン、グウィネス・パルトロウ共演のアメリカでリメイクされました。
主演したアラン・ドロンは、1935年11月8日、フランス・パリで生まれる。幼少の頃に父を亡くし17歳で海軍に入隊し、3年余りで除隊。除隊後各地を放浪した末に56年パリに戻る。知人の紹介でカンヌへ行き、映画祭で米国の大物プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニック認められるが、契約内容に不満があったため、フランス映画界からイヴ・アレグレ監督の「女が事件にからむ時」で映画デビューを果たす。この映画の他にも58年「お嬢さん、お手やわらかに!」、58年に「恋ひとすじに」の共演者ロミー・シュナイダー(Romy Schneider)と婚約するが、これを機会に二人は実生活でも交際を始めますが、結婚をロミーの親に反対されます。(本作品の冒頭の場面にもモーリス・ロネの遊び仲間の一人として出ております)しかし彼はこの大スターと困難な恋をしつつ、更にジュリエット・グレコ、ジャンヌ・モローなどとも浮き名を流しました(1964年婚約解消)。60年「若者のすべて」で日本でも人気が上昇。60年「太陽がいっぱい」で爆発的人気を得て大スターへと成長する。63年「地下室のメロディ」に出演、64年にハリウッドに渡るものの作品に恵まれずまもなく帰国。ロミー・シュナイダーとの婚約を破棄して最初の結婚は1964年8月13日のナタリー・バルテルミー(後のナタリー・ドロン)カサブランカ生まれ(Francine Canovas 通称Nathalie) でした。彼女は容貌がアランそっくりで、彼の妹兼秘書として1963年頃から彼のそばによく付き従っており、映画で共演したこともあります。二人の間には結婚した64年に子供、長男アンソニーが一人生まれおり、現在俳優になっています。しかし1967年には離婚訴訟を起こし、1969年正式に離婚しました(1968説も)。67年「冒険者たち」、67年「サムライ」、68年「さらば友よ」、「あの胸にもう一度」に出演。69年ナタリーとの離婚が完成すると彼は早々にミレーユ・ダルク(Mireille Darc)と同棲。その頃、彼のボディガードのマルコヴィッチ殺人容疑が掛かり大スキャンダルとなる。やがて殺人容疑は晴れ、製作者としても活動を開始。翌1970年にミレイユと結婚します。70年「仁義」には出演、71年には某紳士服メーカーのCMでニュートラの人気とブランドの先駆けとなる。ミレーユとの結婚生活は10年以上続いたようですが、離婚の時期がよく分かりません。1980年にミレイユが大病をした時に健気に看病をしていたという。おそらく、その時点までは夫婦であった様ですが。
1984年「真夜中のミラージュ」ではセザール賞主演男優賞を受賞。
1987年にオランダの歌手ロザリー(Rosalie Van Breme)と結婚しており、90年にアノシュカ、94年のアラン・ドロンJrが生まれており、共に俳優になっています。
1998年、旧友、ジャン=ポール・ベルモンドとの共演で話題を呼んだ「ハーフ・ア・チャンス」を最後に引退宣言をした。
しかし2000年に復帰しTVドラマ「刑事物語」等を中心に活躍を続けている。
その若さと端整な顔立ちで、長い間、日本では女優のオードリー・ヘップバーンと並んで男優のスター・ランキングNo.1を維持し続けました。
彼は一時はアメリカのビバリー・ヒルズの豪邸に住んでいましたが、1985年からスイスのジュネーブに移住しており、現在スイスの市民権も取得しています。
モーリス・ロネは1927年4月13日、フランス、ニースで生まれる。
本名はMaurice Robinet。両親共に俳優で、幼い頃から演技に興味を示し、ジャン=ルイ・バローを師事した後にコンセルヴァトワールへ入学。多くの舞台を経験する。戦後サンジェルマンのカフェに入り浸る内にジャック・ベッケル監督と知り合い、49年に彼の作品で映画デビューする。ルイ・マル監督25歳の処女作でヌーヴェルヴァーグ初期の代表作でもあり、映画で使用された主人公所有の最新型オープンカーだとか、日めくり時計や小型カメラなどのハイテクな小道具が羨望の的となりました57年「死刑台のエレベーター」のジャンヌ・モローの愛人役での好演や、'59年「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンに殺される青年役などでその二枚目振りと確かな演技力を発揮して注目を集める。その後の67年オムニバス形式「世にも奇妙な物語」の第一話・黒馬の哭く館(フランス版)ではナレーションを担当していました。
マリア・バムコと離婚後ジョセフィン・チャップリンと再婚して一児もあったが83年3月14日、ガンによって惜しくもこの世を去った。
マリー・ラフォレ1941年10月5日、フランス、スラック・シュル・メールで生まれ、アルメニア移民の家庭に生まれ、本名を(Mai¨tena Doumenac)といいます。16歳で姉の替わりにカンヌの新人コンクール(Naissance d'une Etoile)スター誕生で優勝した時にルイ・マル監督に見出され、映画界に入る。デビュー作は、ルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」でアラン・ドロンと共演。同年、南仏のサントロペを舞台に美しい娘を巡り三人の男たちの恋模様を描いたジャズ映画で、一応当時の波に乗って”ヌーヴェル・ヴァーグ”とは銘打っている「赤と青のブルース」(Saint-Tropez Blue)では、映画のワンシーンに、同名の「赤と青のブルース」(Saint-Tropez Blue)や「タンブルウィード」(Tumbleweed)を歌っており、印象的な作品である。「金色の眼の女」(La fille sux yeux d‘or)を監督したジャン・ガブリエル・アルビコッコと結婚後、一児をもうけて離婚。60年代には立て続けに映画出演していますが、1978年にスイスに移り住んでアルメニア繋がりのお仲間であるシャルル・アズナブールやアラン・ドロンとも交流を持ち、1981年までギャラリーを営んでいました。 スイスで子育てを終えて2000年にスクリーンにカムバックしています。又、シャンソン歌手として、数々のヒット曲があり、フレンチポップスでも「マンチェスターとリバプール」等をフランス本国でヒットを出しており、また作家として短編集も出版するなど多才の持ち主。
ニーノ・ロータは1911年12月3日、北イタリア、ミラノ生まれ、作曲家でピアニストだった祖父と母親の影響で早くから才能が開花し、8歳より作曲を始め、若干11歳でオラトリオ「ジョバンニ・バディスタの幼少期」を発表。13歳でオペラ作曲をし、ミラノ音楽院、サンタ・チェチーリア音楽院でカセッラに師事した。その後祖父の友人で歴史的名指揮者アルトゥーロ・トスカニーニの勧めでアメリカに渡り、カーティス音楽院に学んだ。帰国後ミラノ大学に入学し、文学と哲学を並行して専攻後、大学卒業後音楽教育に力を注ぎ、音楽教師となり、その傍らクラシック音楽の作曲家として活動を開始する。
作曲家としては交響曲、室内楽曲、声楽曲や他の素晴らしい映画音楽家と同様、ニーノ・ロータは既存の様々なジャンルの音楽スタイルや楽器を取り入れ、全く新しい複合的なサウンドを作り出す術を知っており、オペラも残す一方、1942年以降、映画音楽の作曲も始め、本作品「太陽がいっぱい」や「ロミオとジュリエット」など数々のヒット曲を生んでいます。
そして、監督と作曲家の名コンビとして有名なのは、ブレーク・エドワーズ、とヘンリー・マンシーニ、デ・シーカとチコニーニ、ヒッチコックとバーナード・ハーマン、クロード・ルルーシュとフランシス・レイなどがあげられますが、やはりトップクラスはフェリーニ=ロータの2人でしょう。イタリアが誇る名監督としてもっとも有名なのは映画「ゴッドファーザー」と「ゴッドファーザーPartII」の音楽がありますが、1951年当時新進映画音楽として注目を集めたフェデリコ・フェリーニ(1920年イタリアのリミニ生まれ)に出会い、1952年「白い酋長」以来生涯フェリーニの全作品を担当した故ニーノ・ロータは、その後フェリーニの映画の「道」「カビリアの夜」や「甘い生活」「8 1/2」「フェリーニのアマルコルド」をはじめとする、数々の名作の音楽の殆どを手がけることになった。仕事を越えた無二の親友でもあり、その事は、長年に渡るフェデリコ・フェリーニ監督との共同作業にも表れています。フェリーニ自身も彼の事を「創造性が本当に身近に感じられて一種の陶酔状態が伝染し、まるで私が音楽を作っているかのような気持ちにさえなった。彼は私の映画の雰囲気や登場人物や色彩の中に完璧に入り込み、それらは彼の音楽の中に侵されていった。私にとってはニーノは屈指の現代作曲家の一人であった。」
又、本業はクラシックの作曲家と言っていましたが、ロータは特有の軽いスウィングのジャズに軽快な弦楽器のアレンジメントを取り入れるのが得意で、彼の作るサウンドは映画から切り離した音の断片として聴いても、存在感たっぷりに色んな薫りを運んできてくれておりましたが、1979年4月10日ローマで、心臓発作にて死去。生涯独身であった。死後、クラシックの音楽も注目を集める様になっています。
さて、本作品は「映画ファンが選ぶ思い出の映画音楽ベスト」のようなリストには必ず入っている有名なスコアで、誰もが知っている名曲ですが意外にも完全な形のサントラ盤がリリースされるのは、このフランスのUniversalレーベルによるCD(最近になって完全なマスターが奇跡的に発見されたため)が始めてであり、その紹介を「素晴らしき映画音楽の作曲家たち」から記載させていただきました。
「Plein soleil (Generique)」は、プラスの効いたダイナミックなイントロから軽快な主題へと展開するメインタイトル。「Via Veneto」は陽気で軽快なジャズ。「Falsification」は、メインの主題の一部を織り込んだサスペンス調のジャズ。「Tarantelle meurtriere」は、陽気な“殺人者のタランテラ”。「Le yacht」はサスペンス曲。「Mongibello」で、メランコリックな有名な主題がはじめて明確に登場する。この誰もが知っている主題は「Contrefacon」「Arrivee a Taormine」「La plage」等でも登場する。「Meurtre de Philippe」は、フィリップを殺害するシーンの重厚なサスペンス音楽で、後半はメインの主題に展開。「Haute-mer」はメインの主題のバリエーションによるジャズ。「Le baiser」「L'absence」はジェントルなタッチの曲。「La gemissante」はメランコリックなタッチ。「Face au miroir」はサスペンス調。最後にボーナス・トラックとして、1973年にカルロ・サヴィーナ指揮で録音された組曲「Plein soleil (suite)」が収録されている。
監督:脚本:ルネ・クレマン Rene Clement
製作:ロベール・アキム Robert Hakim
レイモン・アキム Raymond Hakim
原作:パトリシア・ハイスミス Patricia Highsmith
音楽:ニーノ・ロータ Nino Rota
撮影:アンリ・ドカエ Henri Decae
編集:フランソワーズ・ジャヴェット Francoise
美術:ポール・ベルトラン Paul Bertrand
衣装:ベラ・クレメント Berra Clement
アラン・ドロン Alain Delon 、トム・リプレー(Tom Ripley)
マリー・ラフォレ Marie Laforet、マルジュ・デュバル(Marge)
モーリス・ロネ Maurice Ronet 、フィリップ・グリンリーフ(Philippe)
エルヴィール・ポペスコ Elvire Popesco 、ポポヴァ夫人(Mem Popova)
エレノ・クリザ Erno Crisa 、リコルディ刑事(Inspecteur Riccordi
ストーリー(ほぼ、全容を記載)
1950年代後半、ローマ。出身の卑しいアメリカ青年トム(アラン・ドロン)は放浪息子フィリップ(モーリス・ロネ)をサンフランシスコに連れ戻してほしいと彼の父親に5千ドルの報酬金の約束で依頼される。
フィリップは、ナポリに近いモンジベロという漁村に留まり、裕福で働く必要もない彼は、遊び仲間フレディ達と放蕩生活、トムには、父親の所に帰ると言いながらも、その気はなく、豪華なヨットを買い込み、パリ娘の恋人のマルジェ(マリー・ラフォレ)と享楽の日々を送っている。しかも、フィリップはトムを蔑み、名ばかりの友人で、事あるごと、下男の様にぞんざいに扱う。そのうちトムは魅力的なマルジェに惹かれ、金への欲望と、エスカレートするフィリップの嫌がらせに対する復讐心から全てを奪うべく、殺意を抱く。
そんな中、トムはフィリップ、彼の恋人マルジュとの3人で、タオルミナにヨットで向かうが、途中でフィリップの悪ふざけからトムは、ひとりボートで漂流してしまう。そんなフィリップの行ないやトムの策略からマルジュと口論になり、彼女はヨットから下船し、一人去るのでした。ついに、ヨットで沖に出て二人きりになる状況を作り出し、トランプに興ずる内、用意していたナイフをフィリップの胸へ、太陽がサンサンと輝く中で殺害計画を実行した。死体はロープで何重にも縛り錨を付け、この計画の重要な条件でもあり、また未来へ進む為の障害でもあるフィリップを海へ捨てる。
陸へ上り、フィリップの人生を手中に収めたリプリーは計画通り実行に移すのである。序章でもあるフィリップに成りすます事から、サインを練習し、パスポートを偽造し、マルジュに、あたかも生きているように、声を似せて電話をしたり手紙を送る。そんな時フィリップの友人フレディが訪ねて来た。フィリップの不在に疑念を持たれ、ひょんな事から偽装に気づくフレディをも撲殺し、機転を利かしながら死体を車で運び、夜の海岸に棄てるのだが、たとえ死体が上がっても殺した容疑は、筋書きに生きるフィリップであり、計画の一環としては、むしろ好材料になるのである。やがて警察がフィリップの所在について聞き込みにくるが、トムはフィリップが容疑者であるかのごとく、ほのめかし、所在はは知らないと、とぼける。そして、警察はフィリップを容疑者として追い始めるのだが。
目的の一つでもあるフィリップの預金の大半を引き出す為、銀行に行き、サインも見破られる事もなく、上手く行くかに思えたのだが、そこでもフィリップ宛の電話の呼び出しから、フィリップを知る人達に彼の存在の有無が、疑われる状況になるのだが、素早くかわし切り、大金を手にし計画の最終章へ。
今でもフィリップが生きて逃げているかの様に見せかける為にも、フィリップのタイプライターで、サンフランシスコの父親宛に「友人を殺してしまい自殺する・・・マルジュに全ての財産を・・・」と手紙を出す。
トムの計画は完璧なように見えたが、不審に思う刑事は、マルジェにも聞き込みに来る。
そして、トムもフィリップの自殺から失意の日々を送るマルジェを訪ね、仕上げの芝居を演じる。優しく慰めた後言った「お別れに来た。アメリカへ帰る事にした。」と告げて去ろうとする。が、「行かないで」とマルジェに引き止められる。
思惑通りにフィリップの恋人だったマルジェさえも手に入れ、念願の豪遊生活を送る。
海に行く二人、マルジェはフィリップのヨットの売却から引き上げを立会うのだが、ヨットと共に引き上げられたのは、スクリューに絡んだフィリップの・・・。そして、悲鳴が。
完全犯罪は成立し、全てがうまくいくはずだったのだが…。
砂浜では、全てに満足し、未来に安心し、くつろぐトムに給仕が、伺う「ご気分はどうですか
・・・「最高の気分だ・・・太陽がいっぱいだ」「酒をくれ」
穏やかに時が過ぎる様に見えるのであるが、やがて刑事が、給仕に何かを告げる。そして何事も無い様に「リプレーさん、リプレーさん・・お電話です」の声に最高の太陽を独り占めしているトムは・・・。
若き日のアラン・ドロン独自の妖しげな魅力と端整な顔立ちから、犯罪者を忘れさせる様な存在感やストーリー及びサスペンス感とコントラストな鮮烈な太陽と青い海、白いヨット等の背景の眩い美しさ、そして流れてくる哀愁を帯びたニーノ・ロータのメロディが主人公の孤独に儚く突き進む運命を哀しくも優しく印象付け、クレマン独特のドキュメンタリータッチのテンポが物語の要所やナポリの海や町、市場の雰囲気にも演出され、自然な流れを醸し出しており、作品のほぼ全体を占めるアラン・ドロンやマリー・ラフォレ、モーリス・ロネの個性が巧みに表現され、研ぎ澄まされた主人公が解放されたラストでの無情なまでの透明なシーンが作品の永遠な憧れの様なものを鮮やかに心に留めさせる映画でした。
監督したルネ・クレマンは、レジスタンス映画で名を馳せ、あの名作52「禁じられた遊び」では、あまりにも有名ですが、私は49「鉄格子の彼方」にも男女の関係と絡んでいく犯罪そしてサスペンスは、背景やスタイルこそ違いますが、本作品と何か共通するものが感じられました。そして56「居酒屋」では、19世紀のパリの生活感をスクリーンによみがえらせ、「小説の完璧な映画化」と最高に評価された映画でもあります。
アラン・ドロンがフランス映画界最大のスターになるきっかけを作ったと言ってもよい「太陽がいっぱい」は、「キャスティングがうまい監督」「役者の魅力を引き出せる監督」という評価が定まり、1950年末~1960年代、ヌーヴェルヴァーグの動きの中、対抗し、作られた第一級のサスペンス映画で、この作品以後は商業映画が中心で、とくにスリラーを得意とした作品が目立ちますが、作品の過って無い技巧に見応えがあり、クレマンの映画生涯の前・後期の両方のスタイルを兼ね備えたクレマン作品の神髄ともいえる出来栄えであったはずである。
記憶に新しいのは、69「雨の訪問者」などの監督をしていまたが、70年代中頃以後は、新作も撮らなくなり、その後はあまり恵まれず、評価はふるわないまま、96年誕生日の前日に永眠。日本のニュースでは、「禁じられた遊び」を作ったフランスで最も偉大な映画監督ルネ・クレマン(82)永眠と報道された。
以後、この「太陽がいっぱい」は、最近マット・ディモン、グウィネス・パルトロウ共演のアメリカでリメイクされました。
主演したアラン・ドロンは、1935年11月8日、フランス・パリで生まれる。幼少の頃に父を亡くし17歳で海軍に入隊し、3年余りで除隊。除隊後各地を放浪した末に56年パリに戻る。知人の紹介でカンヌへ行き、映画祭で米国の大物プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニック認められるが、契約内容に不満があったため、フランス映画界からイヴ・アレグレ監督の「女が事件にからむ時」で映画デビューを果たす。この映画の他にも58年「お嬢さん、お手やわらかに!」、58年に「恋ひとすじに」の共演者ロミー・シュナイダー(Romy Schneider)と婚約するが、これを機会に二人は実生活でも交際を始めますが、結婚をロミーの親に反対されます。(本作品の冒頭の場面にもモーリス・ロネの遊び仲間の一人として出ております)しかし彼はこの大スターと困難な恋をしつつ、更にジュリエット・グレコ、ジャンヌ・モローなどとも浮き名を流しました(1964年婚約解消)。60年「若者のすべて」で日本でも人気が上昇。60年「太陽がいっぱい」で爆発的人気を得て大スターへと成長する。63年「地下室のメロディ」に出演、64年にハリウッドに渡るものの作品に恵まれずまもなく帰国。ロミー・シュナイダーとの婚約を破棄して最初の結婚は1964年8月13日のナタリー・バルテルミー(後のナタリー・ドロン)カサブランカ生まれ(Francine Canovas 通称Nathalie) でした。彼女は容貌がアランそっくりで、彼の妹兼秘書として1963年頃から彼のそばによく付き従っており、映画で共演したこともあります。二人の間には結婚した64年に子供、長男アンソニーが一人生まれおり、現在俳優になっています。しかし1967年には離婚訴訟を起こし、1969年正式に離婚しました(1968説も)。67年「冒険者たち」、67年「サムライ」、68年「さらば友よ」、「あの胸にもう一度」に出演。69年ナタリーとの離婚が完成すると彼は早々にミレーユ・ダルク(Mireille Darc)と同棲。その頃、彼のボディガードのマルコヴィッチ殺人容疑が掛かり大スキャンダルとなる。やがて殺人容疑は晴れ、製作者としても活動を開始。翌1970年にミレイユと結婚します。70年「仁義」には出演、71年には某紳士服メーカーのCMでニュートラの人気とブランドの先駆けとなる。ミレーユとの結婚生活は10年以上続いたようですが、離婚の時期がよく分かりません。1980年にミレイユが大病をした時に健気に看病をしていたという。おそらく、その時点までは夫婦であった様ですが。
1984年「真夜中のミラージュ」ではセザール賞主演男優賞を受賞。
1987年にオランダの歌手ロザリー(Rosalie Van Breme)と結婚しており、90年にアノシュカ、94年のアラン・ドロンJrが生まれており、共に俳優になっています。
1998年、旧友、ジャン=ポール・ベルモンドとの共演で話題を呼んだ「ハーフ・ア・チャンス」を最後に引退宣言をした。
しかし2000年に復帰しTVドラマ「刑事物語」等を中心に活躍を続けている。
その若さと端整な顔立ちで、長い間、日本では女優のオードリー・ヘップバーンと並んで男優のスター・ランキングNo.1を維持し続けました。
彼は一時はアメリカのビバリー・ヒルズの豪邸に住んでいましたが、1985年からスイスのジュネーブに移住しており、現在スイスの市民権も取得しています。
モーリス・ロネは1927年4月13日、フランス、ニースで生まれる。
本名はMaurice Robinet。両親共に俳優で、幼い頃から演技に興味を示し、ジャン=ルイ・バローを師事した後にコンセルヴァトワールへ入学。多くの舞台を経験する。戦後サンジェルマンのカフェに入り浸る内にジャック・ベッケル監督と知り合い、49年に彼の作品で映画デビューする。ルイ・マル監督25歳の処女作でヌーヴェルヴァーグ初期の代表作でもあり、映画で使用された主人公所有の最新型オープンカーだとか、日めくり時計や小型カメラなどのハイテクな小道具が羨望の的となりました57年「死刑台のエレベーター」のジャンヌ・モローの愛人役での好演や、'59年「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンに殺される青年役などでその二枚目振りと確かな演技力を発揮して注目を集める。その後の67年オムニバス形式「世にも奇妙な物語」の第一話・黒馬の哭く館(フランス版)ではナレーションを担当していました。
マリア・バムコと離婚後ジョセフィン・チャップリンと再婚して一児もあったが83年3月14日、ガンによって惜しくもこの世を去った。
マリー・ラフォレ1941年10月5日、フランス、スラック・シュル・メールで生まれ、アルメニア移民の家庭に生まれ、本名を(Mai¨tena Doumenac)といいます。16歳で姉の替わりにカンヌの新人コンクール(Naissance d'une Etoile)スター誕生で優勝した時にルイ・マル監督に見出され、映画界に入る。デビュー作は、ルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」でアラン・ドロンと共演。同年、南仏のサントロペを舞台に美しい娘を巡り三人の男たちの恋模様を描いたジャズ映画で、一応当時の波に乗って”ヌーヴェル・ヴァーグ”とは銘打っている「赤と青のブルース」(Saint-Tropez Blue)では、映画のワンシーンに、同名の「赤と青のブルース」(Saint-Tropez Blue)や「タンブルウィード」(Tumbleweed)を歌っており、印象的な作品である。「金色の眼の女」(La fille sux yeux d‘or)を監督したジャン・ガブリエル・アルビコッコと結婚後、一児をもうけて離婚。60年代には立て続けに映画出演していますが、1978年にスイスに移り住んでアルメニア繋がりのお仲間であるシャルル・アズナブールやアラン・ドロンとも交流を持ち、1981年までギャラリーを営んでいました。 スイスで子育てを終えて2000年にスクリーンにカムバックしています。又、シャンソン歌手として、数々のヒット曲があり、フレンチポップスでも「マンチェスターとリバプール」等をフランス本国でヒットを出しており、また作家として短編集も出版するなど多才の持ち主。
ニーノ・ロータは1911年12月3日、北イタリア、ミラノ生まれ、作曲家でピアニストだった祖父と母親の影響で早くから才能が開花し、8歳より作曲を始め、若干11歳でオラトリオ「ジョバンニ・バディスタの幼少期」を発表。13歳でオペラ作曲をし、ミラノ音楽院、サンタ・チェチーリア音楽院でカセッラに師事した。その後祖父の友人で歴史的名指揮者アルトゥーロ・トスカニーニの勧めでアメリカに渡り、カーティス音楽院に学んだ。帰国後ミラノ大学に入学し、文学と哲学を並行して専攻後、大学卒業後音楽教育に力を注ぎ、音楽教師となり、その傍らクラシック音楽の作曲家として活動を開始する。
作曲家としては交響曲、室内楽曲、声楽曲や他の素晴らしい映画音楽家と同様、ニーノ・ロータは既存の様々なジャンルの音楽スタイルや楽器を取り入れ、全く新しい複合的なサウンドを作り出す術を知っており、オペラも残す一方、1942年以降、映画音楽の作曲も始め、本作品「太陽がいっぱい」や「ロミオとジュリエット」など数々のヒット曲を生んでいます。
そして、監督と作曲家の名コンビとして有名なのは、ブレーク・エドワーズ、とヘンリー・マンシーニ、デ・シーカとチコニーニ、ヒッチコックとバーナード・ハーマン、クロード・ルルーシュとフランシス・レイなどがあげられますが、やはりトップクラスはフェリーニ=ロータの2人でしょう。イタリアが誇る名監督としてもっとも有名なのは映画「ゴッドファーザー」と「ゴッドファーザーPartII」の音楽がありますが、1951年当時新進映画音楽として注目を集めたフェデリコ・フェリーニ(1920年イタリアのリミニ生まれ)に出会い、1952年「白い酋長」以来生涯フェリーニの全作品を担当した故ニーノ・ロータは、その後フェリーニの映画の「道」「カビリアの夜」や「甘い生活」「8 1/2」「フェリーニのアマルコルド」をはじめとする、数々の名作の音楽の殆どを手がけることになった。仕事を越えた無二の親友でもあり、その事は、長年に渡るフェデリコ・フェリーニ監督との共同作業にも表れています。フェリーニ自身も彼の事を「創造性が本当に身近に感じられて一種の陶酔状態が伝染し、まるで私が音楽を作っているかのような気持ちにさえなった。彼は私の映画の雰囲気や登場人物や色彩の中に完璧に入り込み、それらは彼の音楽の中に侵されていった。私にとってはニーノは屈指の現代作曲家の一人であった。」
又、本業はクラシックの作曲家と言っていましたが、ロータは特有の軽いスウィングのジャズに軽快な弦楽器のアレンジメントを取り入れるのが得意で、彼の作るサウンドは映画から切り離した音の断片として聴いても、存在感たっぷりに色んな薫りを運んできてくれておりましたが、1979年4月10日ローマで、心臓発作にて死去。生涯独身であった。死後、クラシックの音楽も注目を集める様になっています。
さて、本作品は「映画ファンが選ぶ思い出の映画音楽ベスト」のようなリストには必ず入っている有名なスコアで、誰もが知っている名曲ですが意外にも完全な形のサントラ盤がリリースされるのは、このフランスのUniversalレーベルによるCD(最近になって完全なマスターが奇跡的に発見されたため)が始めてであり、その紹介を「素晴らしき映画音楽の作曲家たち」から記載させていただきました。
「Plein soleil (Generique)」は、プラスの効いたダイナミックなイントロから軽快な主題へと展開するメインタイトル。「Via Veneto」は陽気で軽快なジャズ。「Falsification」は、メインの主題の一部を織り込んだサスペンス調のジャズ。「Tarantelle meurtriere」は、陽気な“殺人者のタランテラ”。「Le yacht」はサスペンス曲。「Mongibello」で、メランコリックな有名な主題がはじめて明確に登場する。この誰もが知っている主題は「Contrefacon」「Arrivee a Taormine」「La plage」等でも登場する。「Meurtre de Philippe」は、フィリップを殺害するシーンの重厚なサスペンス音楽で、後半はメインの主題に展開。「Haute-mer」はメインの主題のバリエーションによるジャズ。「Le baiser」「L'absence」はジェントルなタッチの曲。「La gemissante」はメランコリックなタッチ。「Face au miroir」はサスペンス調。最後にボーナス・トラックとして、1973年にカルロ・サヴィーナ指揮で録音された組曲「Plein soleil (suite)」が収録されている。