[石岡繁雄プロフィール] 石岡繁雄は、大正7年1月25日 アメリカ・カリフォルニア州サクラメント市で生まれる。3歳で父の郷里の愛知県海部郡佐織町に戻り、愛知県立旧制津島中学校、第八高等学校をへて、名古屋帝国大学工学部電気学科卒。名古屋帝大(現名古屋大)の山岳部で活躍し、終戦時海軍大尉、戦後、三重県立旧制神戸中学(鈴鹿市、現在神戸高校)で物理教師として着任した。そこで山岳部を作り、また同校卒業生を主とした有志で岩稜会を作った。
昭和22年7月(1947)、旧制神戸(かんべ)中学校(現在の神戸高校)の山岳部メンバーによって、屏風岩の登攀がなされました。以下参考文献「屏風岩登攀記」。 屏風岩は、北アルプス穂高(ほだか)岳にある高さ 600メートル、幅 1,500メートルの、ほぼ垂直に近い1枚岩のことです。当時、誰もが、この岩壁の登攀を夢見ていましたが、技術的にとうてい不可能だとされ、巨大な岩壁は人を寄せ付けませんでした。ところが、この登攀の可能性を一枚の写真から見つけ出したのが、当時、神戸中学の教員であり山岳部部長であった石岡繁雄でした。彼は八高、現在の名古屋大学ですが、その山岳部仲間から雪の積もった屏風岩の写真を見せられて、一見、垂直の何の凹凸もない一枚岩には、実は低い木がはえていて、そこに雪が積もるということに気がついたのです。彼は、自ら書いた登攀記の中で、マッターホルンの岸壁がウインパーらによって登られるきっかけとなったのも、まさにこの発見と同じであったと言っています。
[エドワード・ウィンパー、マッターホルン初登頂] {イギリス人エドワード・ウィンパー(25歳)は、7人のパーティを組み、1865年(慶応元年)7月13日ツェルマットを出発、尾根に一泊後、翌14日ヘルンリ稜から登坂し、昼過ぎにマッターホルンの初登頂に成功した。不運にも下山途中の転落事故で4人の命が失われたが、ウィンパーと2名のガイドは無事に生還した。同行者3名:チャールス・ハドソン牧師(死亡)、フランシス・ダグラス卿(死亡)、ダグラス・ロバート・ハドウ(死亡)ガイド3名:タウグヴァルダー父子(ツェルマット)(生還)、ミッシェル・クロ(シャモニー)(死亡)
下山途中の事故は、登山経験の浅いイギリス人が足を滑らせて4人が滑落したもので、とっさに踏ん張った残り3人との間のザイルが切れ、4人はそのまま氷河に消え去った。ザイルで結ばれた遭難者4人とザイルで結ばれた生還者3人(ウィンパーとガイドのタウグヴァルダー父子)をつないでいたザイルは、旧式の細いザイルで、強度不足から切断したことが判明し、地元のベテラン・ガイドのタウグヴァルダーが何故細いザイルを使ったかが問題となり、フィスプ裁判所で審理されたが、無罪となった。しかし、非難の声は収まらず、タウグヴァルダーは、逃げるようにしてアメリカに渡ったという。ツェルマットの墓地には、初登頂で犠牲になった3人の墓がある。山岳博物館には、偉業を成し遂げて生還した3人の写真の下に、4人の命をつなぎ止めることができなかった「切れたザイル」が展示されており、「ダグラスとタウグヴァルダー間で裂けたザイル」と日本語の説明がある。この事故は、「登頂以上に無事に下山する対策を立てることが大事である」という教訓を生んだが、その後も植村直巳さんのような悲劇が続いているのは残念なことである。}
彼は、はじめ八高の仲間とルートを探して4度もアタックを試みたのですが、オーバーハングをどうしても越えることができず失敗に終わりました。彼は、この巨大なオーバーハングを越えるには投縄しかないと考えました。そこで彼は、中央カンテ初登攀時に、そのような神技ができる若い身軽な者を、神戸中学山岳部の中から2名選びました。彼らは、鈴鹿の藤内壁で岩登りの練習に汗を流していたのです。そして石岡の3人のメンバーによるアタックは、7月24日、いよいよ始まりました。足先がやっとかかる岩を足場に1メートル上の木に飛びついたり、投縄を何度も試みたり転落しそうになったりしながら、延々2日間にわたる岩壁との戦いが繰り広げられた後、悪戦苦闘の末、ついに松田と本田が登り切り、屏風岩は彼らの手に落ちたのです。 こうして、当時、日本の山岳界最大の関心事であった前穂高岳北尾根屏風岩正面壁の中央カンテ インゼルルートの初登攀に松田武雄、本田善郎、彼ら山岳部員たちによって登攀し戦後初達成された、屏風岩に拓かれたルートである。
その後も三重県鈴鹿市に本拠をおく岩稜会をひきいて数々の岩壁を踏破、名著といわれる写真集『穂高の岩場』上下巻を完成させた登山家で応用物理学者の石岡繁雄は、前記した「屏風岩登攀記」では、次の様にも記しています。 「山は、その美しさと厳しさが織りなす綾錦を形成し、無数の美徳と教訓を提供してくれているはずであり、・・・・・・それが私の山への期待でもありました。しかしながら私の歩いた道には、そういうものよりはむしろ、暗くて悲しい人間の葛藤や、ナイロンザイル事件のように、社会との闘いといった全く異質のものが、大きな位置をしめております」いったい何ゆえに、彼の山体験はかくも人間社会の葛藤の影を負うことになったのか。それは「高度成長のためには犠牲もやむなし」という風潮にたいし、真実をつきつけ続けた者の宿命でもあったのだろうか。
屏風岩に「バッカスバンド」と言われる所があるが、これは石岡氏のあだ名から来ている。[バッカス]とは「酒の神」だが、彼は酒が強かったのではなく、山で「バカ」ばかりするから付けられたという。
昭和25年、神戸高校から名古屋大学学生部を経て、国立豊田高専教授。その後、国立鈴鹿高専に移り、教務主事となる。また緊急時高所からの自動降下装置(ハイセーバー)を開発し、日本消防検査協会から特定降下具No.3、No.8の認可をえた。この試験を受けるためには高さ15メートル以上の実験塔が必要なので、自宅の敷地内に、16.5メートルの実験塔を作った。これは登山の安全装置の開発に役立った。
昭和30年1月前穂高で実弟を失い“ナイロンザイル事件”を発生させる。同年正月2日、彼の実弟・若山五朗さん(当時19歳)が、岩稜会の三人のパ-ティで厳冬期のアルプス前穂高岳東壁を登攀中に数十センチ滑落、麻ザイルより数倍強いとされて登山界に急速に普及しつつあったナイロンザイルの、予想だにせぬ切断により墜死したのである。
転落死した原因を独自に究明し、ザイルの安全性を強調するメーカー側を追求するとともに、ザイルに関する研究を行い、「昭和44年当時我々は、9ミリザイルのダブルか11ミリのシングルを使用していたし、昭和46年には10ミリのシングルで登攀をやっていた。静加重2トンのうたい文句を信用していた。2トンでは人間の身体がそんなに持たないから、ザイルが切れる前に死んでいるので9ミリで良い。10ミリで充分との感覚があった。」以後、ザイル安全基準制定などに半生をかけました。
又、機械に興味を持ち特許21件(内5件は外国特許)を有す。その中に登山用緩衝装置がある。昭和48年8月にはシャモニーにあるフランス国立スキー登山学校で講演を行う。名古屋大学山岳会会長、三重県山岳連盟会長、日本山岳会東海支部名誉会員、通産省登山用ロープ調査委員を務めた。現在、岩稜会会長。住所 三重県鈴鹿市神戸2丁目6-25
[氷壁の舞台] 『氷壁』の舞台となった前穂高(3090m)の東壁は戦前から登られていたが、その当時は北壁~AフェイスとCBAフェイスしかルートがなかった。 北壁~Aフェイスは、『改訂日本の岩場(白山書房)』に、昭和12年山崎次夫と内山秋人が松高カミンルートを最初に登った。とある。また『日本の岩場(山と渓谷社)』には昭和7年伊藤新一、伊藤収二とある。CBAフェイスは、昭和6年國塩研二郎、内山秋人氏ら5名が最初に登った。北壁は無雪期は昭和7年に、積雪期は昭和15年の3月春田和郎、久留健治が初登攀している。昭和32年になり古川純一と久保田進が開いた右岩稜古川ルートをS36年3月森田昇三、三井利安が、Dフェイスは昭和34年法政大学の田山勝と山本俊男によりルートが開かれS36年2月安久一成、鈴木鉄雄が登っている。 上高地の梓川から見上げる東壁は、前穂高の頂からアルプスのようなムードを漂わせている。上高地の明神から梓川の上流沿いに歩くと美しく仰ぎ見られる。だが、その懐に入り込むと、その雰囲気は一変して鉈でそぎ落とした様な荒々しい岩壁であり、容易に人を寄せ付けない美しさと険しさ見せる。人は、美しく険しいものに憧れ、引き寄せられる。美しさに憧れ命を落とした幾多の岳人がある。
[氷 壁](抜粋) 三時北壁を登りきって、漸くして第二テラス(岩棚)に出る。三時半Aフェースに取りつく。この頃より陽がかげり、風が出て、吹雪模様にとなる。登攀困難。五時半、全く暗くなり、Aフェース上部でビバークする。「朝になったらやむよ」六時半に明るくなった。相変らず吹雪いていた。七時半に雪は小やみになり、「やるか」小坂はいった。小坂は徐々に登り始めていた。が、やがて、「よし、--来い」小坂の合図で、魚津はピッケルを岩の間から抜くと、小坂の立っている岩角へ向けて登り始めた。小坂は魚津より5m程斜め横の壁に取りついて、ザイルを頭上に突き出している岩に掛ける作業に従事していた。不思議にその小坂乙彦の姿は魚津には一枚の絵のようにくっきりと澄んで見えた。小坂を取り巻いているわずかの空間だけが、きれいに洗いぬぐわれ、あたかも硝子越しにでも見るように、岩も、雪も小坂も体も、微かな冷たい光沢を持って見えた。事件はこの時起こったのだ。魚津は、突然小坂の体が急にずるずると岩の斜面を下降するのを見た。次の瞬間、魚津の耳は、小坂の口から出た短い烈しい叫び声を聞いた。魚津はそんな小坂に眼を当てたまま、ピッケルにしがみついた。その時小坂の体は、何ものかの大きな力に作用されたように岩壁の垂直の面から離れた。そして落下する一個の物体となって、雪煙りの海の中へ落ちて行った。ザイルの全部が手許に来て、すり切れたように切断されているその切口を眼にした---。切れないと信じられていたナイロンザイルが切れたのは何故か。小坂が切ったのか、それとも----。小坂は、人妻との叶わぬ恋に堕ちていた。その清算のためか。遭難か自殺かと騒がれるなか、魚津は真相を求めるため東奔西走すると、小坂の不倫の相手である美貌の人妻八代美那子との出会いから思慕を胸にしつつ、切れたザイルの真相を求めると、美那子の夫八代教之助の会社のザイルであることを知る。小坂の遭難を通じて魚津は小坂の妹かおると会う。かおるは小さい時から魚津の話を聞いている内に「自分の結婚は魚津」と、一途に思い込み始めていた。小坂の遺体が発見されると、身体に付いていたザイルは回収され、遺体は荼毘に付された。魚津は人妻の思いを断ち切るため単独行動で北穂高岳の滝谷D沢に向かう。
[ザイル事件] 岩稜会(三重県鈴鹿市)は、厳冬期の前穂高東壁を登攀するため石原国利(中央大4年、リーダー)、沢田栄介(三重大4年)、若山五郎(三重大学1年19歳)の3人は、昭和30年1月元旦の早朝奥又白池のキャンプを出発した。その日のうちに東壁をほぼ登り前穂の頂上直下30m付近で日没となり仮眠した。2日、石原が先頭で登攀を開始したが、岩の上に出ることが出来ず若山が交代し登り始めると若山の身体が50センチ程滑り、そして壁から離れ滑るように堕ちていく。確保する石原国利のザイルには衝撃は伝わらず若山の姿は奥又白の谷に消えた。残された二人は翌日救助されたが凍傷に冒されていた。石原は、「ザイルは岩角のところで切れた」絶対切れないといわれたザイルが切れた。切れないザイルが切れたということで、生き残った石原達は、「アイゼンで踏んで傷をつけた」「ザイルが古かった」「結び目が解けた」と中傷された。
[若山さんとチームを組んでいた石原国利さんの証言が重要な役割で書かれています]何故ザイルは切れたのか。証言者である石原は、「ザイルは岩角のところでぷつりと切れた。五朗ちゃんは、たったの50センチほどすべっただけなのに。あんな弱いザイルはない。」と繰り返すのみ。(中略)石岡は、強度を誇るというナイロンザイルが実は岩角に致命的に弱いという確信をほぼつかみます。しかし、「ナイロンザイルは弱いはずがないから、ザイルが傷ついていたか、古かったのだろう」「切れたのではなく、結び目がほどけたのだろう」という世間の風潮は強く、あげくザイル業者と結託した専門家が「誰も第三者の見ていないことを幸いとして、実際にはザイルをアイゼンで傷つけていたのをかくして、罪をザイルに転嫁したのだろう」とまで公言。アタックメンバーの石原はまるで罪人のような扱いを受けます。そんな中、山という現場の情報を熟知し、石原の人柄を知る石岡は、迷うことなく石原証言を信じます。このときから、弟の無念を背負い、ナイロンザイル神話幻想を砕く、石岡の孤立無援の長い闘いは始まったのです。
[石岡繁雄の半生を賭けた戦い] 昭和初期から30年代にいたる日本の登山界は、国内の岩壁を征服し終え、技術革新の成果をいち早くとりいれて海外の山に目を向けており、足元の問題に取り組もうとする人々は稀有であった。そのような趨勢のただ中で、ナイロンザイルの神話に、石岡繁雄は自己の専門領域をとおして闘いを挑んだのだった。石岡繁雄(当時鈴鹿市神戸中教師、鈴鹿高等専門学校教授)は驚いた。「麻ザイルより強度があるナイロンザイルが簡単に切れる---」石岡繁雄は自分が買って弟(若山五郎)に与えた40mの8ミリザイル(東洋レーヨンのナイロン糸で東京製綱が製品化した)であり、悔やむことしきりであった。
石岡繁雄は名古屋大学で実験してみると簡単に切れたが、日本の登山界では肉親が関わった実験として無視した。ナイロンザイルが切れて転落する事故はその後も続いた。ナイロンザイルの欠点を知らせなければと、石岡繁雄は実験を続け、「岩角にこすれると簡単に切れる」ことを証明した。また、母校である名古屋大学の協力を得て、試みた実験。事故の残りのザイルを、稜角66.5度の岩角にかけ、重さをかける。70キロから90キロの重さを静かにかけただけで、ザイルはなんなく切れた。しかしこれはあくまでも私的な実験でしかありませんでした。
そして3ヶ月後、問題のメーカー側は愛知県蒲の東京製綱の工場で公開実験を実施し切れないことを実証した。その実験は、4月29日、登山用具の権威で日本山岳会関西支部長の篠田軍治・大阪大工学部応用物理学教授指導のもと、郡山市にあるザイルメ-カ-で公開実験が実施されることになった。ところが、多くの登山関係者やマスコミの注目を集めた大がかりな実験では、ナイロンザイルは圧倒的な強さを示したのだ。穂高の遺体捜索現場でその報に接した石岡は「実験はインチキだ、手品だ」と叫んでいたという。石岡には、メーカーの仕組んだからくりがよめたのです。
しかし、この蒲郡実験の威力は絶大で、登山界・企業・マスコミが一斉に「ナイロンザイル神話」に拍車をかけ、石岡ひきいる岩稜会は遭難原因を疑われるという窮地に追い込まれます。蒲郡実験の結果は登山界で権威のある『山日記』にも掲載されて、ナイロンザイルに命を託した多くのクライマ-が、その後も墜落死事故を繰り返す要因となった。
真実はどこにあったのか。それは、さらに4ヶ月後に発見された弟・五朗の遺体が物語っていました。五朗に結びつけられていたザイルの切れ口とザイルをかけた岩角には、ザイルが簡単に岩角で切れたことを示す証拠が残されていました。なおも同じ条件を再現して実験した結果、ナイロンザイルはいともあっさりと切れたのです。では、蒲郡実験では何故ザイルは切れなかったのか。からくりは、膨大な装置のほんの小さな中枢部分たるエッジに、1ミリほどの丸みがつけられてあったことでした。そのいんぺい事実が明るみに出て、「ナイロンザイル事件」は弟の遭難から4年8ヶ月後に決着がつきます。これが井上靖の小説『氷壁』のモデルとなり、映画化もされた「ナイロンザイル事件」の核心である。
7月31日若山の遺体はザイルを正しく結んだまま雪の中から発見された。石岡はザイル切断の岩角を石膏に取りそれに似た岩角(90度)を探してきた。メーカーが実施した実験が作為された物との情報が石岡に伝えられた。作為とは、岩角は1ミリ程丸みをつけたことである。東京製綱に出入りしていいる関係者からの密告である。日本山岳会発行の昭和31年版の『山日記』にメーカー側の教授が「ナイロンザイルは90度の岩角でマニラ麻の4倍以上強い」。「岩角でも13mの落下まで切れない」と発表した。山岳雑誌等から「メーカは問題のザイルを科学的実験で保証した」「ナイロンザイルは非のうちどころがない」と報じた。
その後の石岡は、『山日記』の記事は危険である。として訂正を申し込んだが、ナシのつぶてである。実験した大学教授に公開質問状を出したが黙殺されたため、石岡は再度強度実験を繰り返した。石岡のねばり強い活動を続け、ザイルの強度を「厳寒期、酷暑にも切れない基準」をもとめたが、業界は激しく抵抗したが、通産省もザイルの安全基準を設けた。(昭和50年3月)若山五郎の死から20年経過していた。彼が半生をかけた成果は国の機関をうごかし、昭和50年6月、登山用ロ-プの強制力をもった安全基準の世界初公布、再度『山日記』の訂正を迫り続けた結果、やっと昭和52年版に小さな記事を載せて誤りを認めた。55年の転落死防止装置の完成へとつながり、そこから災害時のビル脱出装置、障害者介助機具の開発などに結実していったのである。一方で彼は、メ-カ-や日本山岳会にたいして、ナイロンザイルの安全限界を明示させるべくいくたびも公開質問状をつきつけ、他方で欠陥そのものを分析し、私財をなげうって高所安全研究所を設立(昭和58年)、アルピニストの命を守るにはどうすべきかを探究し続けた。 「前穂東壁のザイル事件」の前に昭和29年12月29日東雲山渓会員が前穂の近くの明神5峰でザイルが切れ重傷を負う。あとでも、剣岳などでも第3・第4のザイル切断事故があり死者が相次いだ。昭和45年6月14日に奥多摩と巻機山では2.5トンも耐えられるザイルが切れている。これまで使われていたザイルは、麻のザイルで重くて太く水を吸い込み、冬期は凍結する、捩(よじ)れがある場合は簡単に切れる。カビが生える等のため取り扱いが非常に難しかった。ところが、ナイロンザイルを製作した会社は強度があり切れないと宣伝した。使ってみると、麻のザイルのもつ欠点は完全に克服されていた。登山界では非常に有望視され普及していった。切れたザイルは、長野県大町市にある「山岳博物館」に保存・展示してある。大町駅から歩く距離では有るが、高台のためタクシーを利用されたい。博物館からは、北アルプスの名峰白馬岳・五龍岳・鹿島槍~常念岳・蝶が岳が一望できる。ザイル事件のメーカー側教授は、平成元年12月2日に日本山岳会の名誉会員なった。「生命にかかわる問題をゆがめて発表した学者は名誉会員に値しない」との抗議がおこったがどうなったのか。
バッカスというあだ名で山仲間から呼ばれている石岡の、どこかしら土くさい朗らかさからは、日本全体が浮き足だって生きてきた時代に、虚仮の一念のようにひとつの問題と格闘してきた者だけがもつ、高山のダケカンバのような風貌が感じとられる。それは、天命でもある様に彼に与えられた大きな難問に挑み、その生涯において、苦難と屈辱の中、彼にしか味わう事が出来なかった仲間との絆や、心ある人達の応援、等と真実に向かう自身の奮い立つ気持ちへの感動は達成感にも匹敵し、個人の問題を越え、多くの登山家の命を救う使命として、その事が自身の生きがいにもなっていたのでしょう。人は生まれ、何時かは、死にます。何時も若いと思った瞬間には、気付かない間に老いた自身がそこに、居ます。何の為に生まれたのか、疑問を持つ前に思うべき事は、石岡氏の様に天命とも言える大きな問題から挑む人もいるであろうが、多くの人は、幸いその様な問題を抱える事は、少ない。ならば、自身へ小さくとも天命を自ら選び、自己とあるいは、小さな事でも病んだ社会に挑んで行く事が、彼から学び、残された人間の使命とも思える。
石岡繁雄氏の、ご冥福をお祈り申し上げます。