西洋と東洋の狭間

何かにつけ軌道修正の遅い国で有るが一端方向転換すると、凄い勢いで走り出し今までの良き所まで修正してしまう日本文明

国連事務総長の仕事

2013-08-27 15:24:32 | 社会
潘 基文氏国連事務総長の資格以前の問題
隣国に目を向けると、反日教育をされた時代の人々である。全ての人々とは思いたくないが戦前の飢畜米英の軍国主義教育で育った人達と同じである。少なくとも戦争への恐怖から平和を求める心は人間平等にはあるが、国家・民族感の上にあるか下にあるのとでは大きく異なると考えられる。
それが変化するには彼らに、現日本国の平和思考の根幹ともいえる敗戦した日本の状況下の様な余程の事が起きない限り、もっとも遭ってはならない事なのだが、経験を活かし共有出来ない意味では、戦後の敗戦による制度や認識及び思考の大きな変革点から平和を願う真の日本人の心は到底理解出来ない事になる。現実に多くの日本人が確信している日本のファシズム化なんて在りえない現実を 彼らは事あらば真逆に捉え、突き進んで行く事であろう。同じ人間だから我々と気持ちや意識が共有するものと考えたいが、今の日本人には理解できない事と同じ様に彼らにおいても我々のお友達感覚は理解し難い事でもあり教育や肌で感じた反日心理の根はおそらく変わる事は望めないと思える。
その事例として2013年度8月における、潘 基文国連事務総長が自国のソウルにおいての発言
ニュース参照:「北東アジアの国々が憂慮している日本政府の平和憲法改正の動きに対する国連の立場」を問われ、「日本の政治指導者は極めて深く自らを省みて、国際的な未来を見通すビジョンが必要だ」と注文を付けた。
 歴史認識や領土問題に関した韓国人記者の質問には、日本と中韓との緊張関係に「事務総長として遺憾」を表したうえで、「正しい歴史認識を持ってこそ他の国々から尊敬と信頼を受けられるのではないか」と事実上、安倍政権を批判した。)
極東の近隣諸国への緊張は日本政府の歴史認識の間違いから起きた靖国参拝そして領土問題は、全て日本政府の責任であると名指しで非難した発言があった事が事実なら、この微妙な国家間の領土問題には過度な緊張を与えない国連の使命からも慎重且つ繊細な態度が不可欠であり、その絶対的前提と共に極東の緊張状態にあるとされる我が国日本と韓国すなわち潘 基文氏自身が当事国(韓国)の出身者であり、今回は特に国連の中立的立場以上に自国が関係している緊急の事案でもあり、基文氏の国連事務総長とした公の立場としての発言には、より自制且つ注意とした心がけが要求される事にも関わらず、職務を逸脱した今回の発言の真意は自国を正当化し容認する考えを示した行動とも捉えられ兼ねない、自身の国際的特権を行使する権威から有ってはならない許されない大問題であり、逆にその発言からこの地域の平和を乱す事にもなるであろう。そもそも最近における我が国政府と韓国政府の関係悪化の原因として、2012年に韓国大統領である李 明博氏によって歴代韓国大統領がデリケートな問題として戦後自重していた竹島への上陸を強行した事で竹島問題を揺さぶる事件となる。
この計画は8月9日に明らかになり、日本政府は韓国のソウル大使館を通じて韓国政府に対して中止を申し入れしていたにも関わらず退けられた。
以上の様な事実関係があった事も考慮に入れる事も無く発言した潘 基文氏。この様な国際人で理性と中立性を求められる立場の人でさえ偏った人間性を暴露してしまう様に、その根底にはナショナリズムを煽る反日教育の奥深い問題を感じざる負えない。
一般的な倫理観に置き換えて考えれば、最初に子供の喧嘩に親が出た。しかし親が理性を失い本質が見えない状態では話し合いは不可能であり、まずは、辛くとも我が子の総括、至らなかった点も叱責しつつ双方の言い分を冷静に判断する事が必要であり、いきなり相手を一方的に非難する事では、物事のより良い解決には向かわない。当然、大人のする事ではない。

もう一つの考えから潘 基文氏に代表される韓国高官や政治下(中国共産党幹部等にも同じ)は、国際的にも精通している点から、日本国政府や高官そして日本国民に至る平和思考ある意味では先に事を大きくしたくない穏便作用が働く性格を明らかに見抜いており、その意味から政治的立場を優位にする目的から降圧的な態度や強硬策で迫ってもそれ以上の反撃、ましてや物理的な報復等の強行は絶対に出来ないと確信した上での事と考えられる。
その事を踏まえ、今回の発言には北東アジアの国々が憂慮している日本政府の平和憲法改正の動きとした通常的な質問から始まりその自然な流れからの一環としてこの極論に至ったと捉えられる様な筋書きが見える。
今後の大事な観点から言えるのは、この戦後の平和な日本を望み維持し続けて多くの日本人が戦後68年たった今でも、事、有れば政権安定の特効薬の様に、過去の事を非難している各国政策や過度な教育から反日を煽る隣国の政治や人々を次第に違和感を持つ様になってきている現実は、おそらく日本人から見れば大戦後から現在そして今、日本、中国、韓国等の現在生きている多くの人々は互いに直接憎しみ合う行為をしていない、特に日本国民は戦後、前にも記しました様に国際的又国内でも平和を望み実行し、ましてや隣国等を先に罵倒や非難する事もなく、日本国内でもどんな場合に至っても近隣国の住人の財産や生命に危害を及ぼす様なデモ、暴動は起こしていない様に危害を加えるどころか規律や礼儀をわきまえ続けていた国民性にも関わらず、そして双方の祭り事とは別に、今日の日本人の心には何故、何時までと考えるのは当然の疑問ともいえる。
参考:竹島・独島問題-1953年の民間人への武力行使に始まる韓国の占拠以降、韓国が実効支配を継続しているが、これに対して日本は「不法占拠」として抗議している。しかし両者の主張は平行線を辿り、未だ解決への糸口はつかめていない。日本側は過去に何度か国際司法裁判所 (ICJ) への付託を提案しているが、韓国側は「独島に領土問題は存在しない」との見解により、その都度これを拒否している)

国の指針

2011-03-13 11:35:26 | 社会
東日本巨大地震

この度、震災により被災し、亡くなられた人たちのご冥福をお祈り申し上げます事と共に、生存されておられる人達への今後の救済が早急になされる事をひたすら願うばかりです。 

ブログであり、顰蹙をかう事かもしれませんが、一連の報道を見て感じました思いを書かせて頂きます。
よく使われている言葉として「過去に経験の無い未曾有の災害」と言われていますね。 只、その言葉だけで過去の尊い人命を犠牲にしてきた災害が生かされている事になるのでしょうか。
確かに、新たな問題が発生するのは理解出来るのではあるが、机の上での予測では実を結んでいないのは事実であり、パフォーマンスは良く出来ている様ではあるが、実態は後手を踏んでいるのは明らかな様にも思われますよ。
災害時において(言葉にはやや不適切かもすれませんが)被災した後の災害戦略を考えますと、まず多くの各災害地に最も隣接する場所、ここでは又起こりうる津波の影響の少ない高台、しかも広い平面が確保出来る所を選定し、そこに医療・食料・燃料・輸送(出来れば大型ヘリの離発着)が可能な施設(ベースキャンプ)を設け、各ベースキャンプを本部あるいは、支部と情報を共有する。 
次に、そのベースキャンプ地から被災地に陸上部隊や小型ヘリをピストン展開し、被災者の応急救済を素早くする事から時間の無駄を省く事から、より効率的な動きが可能となり、情報も的を得たモノが入手出来、次の行動も読める様になる事と考えます。
市長・町長等の対策本部の立ち上げも大事な一つの行動ではあるが、広域であろうがなかろうが救援を考えるならば、現場を知る事がなにより先決であり、織田祐二の映画ではないが、事件(災害)は現場で起きている点を対策・対応の観点からも優先すべきと思われる。
その様な救済や情報網を確立した上では、海外からの救援隊や物資を即座にどこのベースキャンプの下に置く決定が容易に出来るのでは、ないのでしょうか。
例えば、「自衛隊を二万人・五万人・十万人規模の要請をした」と言った言葉だけではなく絶対的な効果を必要とするのであって、絵に描いた餅では用を足しません。基本の骨格は野戦等の訓練が豊富な自衛隊が担い、医療・食料・燃料の専門家と協議し輸送・搬送等の後方支援も含め、現場での救援を速やかにする事を望む事と同時に、遠くから来て頂いた救援部隊の配置でのタイム・ロスを防ぎ、敏速に活動出来うる大事な要因にもなります。また、その意味での側面では日本国家の世界への恥ずかしくないメッセージにもなるのではないかとも考えますね。
原発の問題も、被災と同時に電源の確保が最重要課題であるならば、ディーゼル発電の点検が至急行動であり、稼働不可であるならば考えられる複数の対策案を同時進行させるべきであり、対策の小出しと対応の遅れが否めませんね。
人の命の上に原発がある様で、それならより確かな行動を示して頂きたいものです。

勝手な事を書かせて頂きました。
以前から私のブログにコメントを頂いた方々に、前触れ無く中止した事を心からお詫び申し上げます。
首が思わしくなくパソコンがうちにくい状態なのですが、今回はチョット無理しても書かせて頂きました。
そんな訳から、今後もしばらく中止させて頂きます。誠に申し訳ございません。

「氷壁」と前穂東壁のザイル事件

2006-08-25 02:28:47 | 社会

[石岡繁雄プロフィール] 石岡繁雄は、大正7年1月25日 アメリカ・カリフォルニア州サクラメント市で生まれる。3歳で父の郷里の愛知県海部郡佐織町に戻り、愛知県立旧制津島中学校、第八高等学校をへて、名古屋帝国大学工学部電気学科卒。名古屋帝大(現名古屋大)の山岳部で活躍し、終戦時海軍大尉、戦後、三重県立旧制神戸中学(鈴鹿市、現在神戸高校)で物理教師として着任した。そこで山岳部を作り、また同校卒業生を主とした有志で岩稜会を作った。

昭和22年7月(1947)、旧制神戸(かんべ)中学校(現在の神戸高校)の山岳部メンバーによって、屏風岩の登攀がなされました。以下参考文献「屏風岩登攀記」。 屏風岩は、北アルプス穂高(ほだか)岳にある高さ 600メートル、幅 1,500メートルの、ほぼ垂直に近い1枚岩のことです。当時、誰もが、この岩壁の登攀を夢見ていましたが、技術的にとうてい不可能だとされ、巨大な岩壁は人を寄せ付けませんでした。ところが、この登攀の可能性を一枚の写真から見つけ出したのが、当時、神戸中学の教員であり山岳部部長であった石岡繁雄でした。彼は八高、現在の名古屋大学ですが、その山岳部仲間から雪の積もった屏風岩の写真を見せられて、一見、垂直の何の凹凸もない一枚岩には、実は低い木がはえていて、そこに雪が積もるということに気がついたのです。彼は、自ら書いた登攀記の中で、マッターホルンの岸壁がウインパーらによって登られるきっかけとなったのも、まさにこの発見と同じであったと言っています。

 [エドワード・ウィンパー、マッターホルン初登頂] {イギリス人エドワード・ウィンパー(25歳)は、7人のパーティを組み、1865年(慶応元年)7月13日ツェルマットを出発、尾根に一泊後、翌14日ヘルンリ稜から登坂し、昼過ぎにマッターホルンの初登頂に成功した。不運にも下山途中の転落事故で4人の命が失われたが、ウィンパーと2名のガイドは無事に生還した。同行者3名:チャールス・ハドソン牧師(死亡)、フランシス・ダグラス卿(死亡)、ダグラス・ロバート・ハドウ(死亡)ガイド3名:タウグヴァルダー父子(ツェルマット)(生還)、ミッシェル・クロ(シャモニー)(死亡)

下山途中の事故は、登山経験の浅いイギリス人が足を滑らせて4人が滑落したもので、とっさに踏ん張った残り3人との間のザイルが切れ、4人はそのまま氷河に消え去った。ザイルで結ばれた遭難者4人とザイルで結ばれた生還者3人(ウィンパーとガイドのタウグヴァルダー父子)をつないでいたザイルは、旧式の細いザイルで、強度不足から切断したことが判明し、地元のベテラン・ガイドのタウグヴァルダーが何故細いザイルを使ったかが問題となり、フィスプ裁判所で審理されたが、無罪となった。しかし、非難の声は収まらず、タウグヴァルダーは、逃げるようにしてアメリカに渡ったという。ツェルマットの墓地には、初登頂で犠牲になった3人の墓がある。山岳博物館には、偉業を成し遂げて生還した3人の写真の下に、4人の命をつなぎ止めることができなかった「切れたザイル」が展示されており、「ダグラスとタウグヴァルダー間で裂けたザイル」と日本語の説明がある。この事故は、「登頂以上に無事に下山する対策を立てることが大事である」という教訓を生んだが、その後も植村直巳さんのような悲劇が続いているのは残念なことである。}

 彼は、はじめ八高の仲間とルートを探して4度もアタックを試みたのですが、オーバーハングをどうしても越えることができず失敗に終わりました。彼は、この巨大なオーバーハングを越えるには投縄しかないと考えました。そこで彼は、中央カンテ初登攀時に、そのような神技ができる若い身軽な者を、神戸中学山岳部の中から2名選びました。彼らは、鈴鹿の藤内壁で岩登りの練習に汗を流していたのです。そして石岡の3人のメンバーによるアタックは、7月24日、いよいよ始まりました。足先がやっとかかる岩を足場に1メートル上の木に飛びついたり、投縄を何度も試みたり転落しそうになったりしながら、延々2日間にわたる岩壁との戦いが繰り広げられた後、悪戦苦闘の末、ついに松田と本田が登り切り、屏風岩は彼らの手に落ちたのです。 こうして、当時、日本の山岳界最大の関心事であった前穂高岳北尾根屏風岩正面壁の中央カンテ インゼルルートの初登攀に松田武雄、本田善郎、彼ら山岳部員たちによって登攀し戦後初達成された、屏風岩に拓かれたルートである。

その後も三重県鈴鹿市に本拠をおく岩稜会をひきいて数々の岩壁を踏破、名著といわれる写真集『穂高の岩場』上下巻を完成させた登山家で応用物理学者の石岡繁雄は、前記した「屏風岩登攀記」では、次の様にも記しています。 「山は、その美しさと厳しさが織りなす綾錦を形成し、無数の美徳と教訓を提供してくれているはずであり、・・・・・・それが私の山への期待でもありました。しかしながら私の歩いた道には、そういうものよりはむしろ、暗くて悲しい人間の葛藤や、ナイロンザイル事件のように、社会との闘いといった全く異質のものが、大きな位置をしめております」いったい何ゆえに、彼の山体験はかくも人間社会の葛藤の影を負うことになったのか。それは「高度成長のためには犠牲もやむなし」という風潮にたいし、真実をつきつけ続けた者の宿命でもあったのだろうか。

屏風岩に「バッカスバンド」と言われる所があるが、これは石岡氏のあだ名から来ている。[バッカス]とは「酒の神」だが、彼は酒が強かったのではなく、山で「バカ」ばかりするから付けられたという。

昭和25年、神戸高校から名古屋大学学生部を経て、国立豊田高専教授。その後、国立鈴鹿高専に移り、教務主事となる。また緊急時高所からの自動降下装置(ハイセーバー)を開発し、日本消防検査協会から特定降下具No.3、No.8の認可をえた。この試験を受けるためには高さ15メートル以上の実験塔が必要なので、自宅の敷地内に、16.5メートルの実験塔を作った。これは登山の安全装置の開発に役立った。

昭和30年1月前穂高で実弟を失い“ナイロンザイル事件”を発生させる。同年正月2日、彼の実弟・若山五朗さん(当時19歳)が、岩稜会の三人のパ-ティで厳冬期のアルプス前穂高岳東壁を登攀中に数十センチ滑落、麻ザイルより数倍強いとされて登山界に急速に普及しつつあったナイロンザイルの、予想だにせぬ切断により墜死したのである。

転落死した原因を独自に究明し、ザイルの安全性を強調するメーカー側を追求するとともに、ザイルに関する研究を行い、「昭和44年当時我々は、9ミリザイルのダブルか11ミリのシングルを使用していたし、昭和46年には10ミリのシングルで登攀をやっていた。静加重2トンのうたい文句を信用していた。2トンでは人間の身体がそんなに持たないから、ザイルが切れる前に死んでいるので9ミリで良い。10ミリで充分との感覚があった。」以後、ザイル安全基準制定などに半生をかけました。

又、機械に興味を持ち特許21件(内5件は外国特許)を有す。その中に登山用緩衝装置がある。昭和48年8月にはシャモニーにあるフランス国立スキー登山学校で講演を行う。名古屋大学山岳会会長、三重県山岳連盟会長、日本山岳会東海支部名誉会員、通産省登山用ロープ調査委員を務めた。現在、岩稜会会長。住所  三重県鈴鹿市神戸2丁目6-25

 

[氷壁の舞台] 『氷壁』の舞台となった前穂高(3090m)の東壁は戦前から登られていたが、その当時は北壁~AフェイスとCBAフェイスしかルートがなかった。 北壁~Aフェイスは、『改訂日本の岩場(白山書房)』に、昭和12年山崎次夫と内山秋人が松高カミンルートを最初に登った。とある。また『日本の岩場(山と渓谷社)』には昭和7年伊藤新一、伊藤収二とある。CBAフェイスは、昭和6年國塩研二郎、内山秋人氏ら5名が最初に登った。北壁は無雪期は昭和7年に、積雪期は昭和15年の3月春田和郎、久留健治が初登攀している。昭和32年になり古川純一と久保田進が開いた右岩稜古川ルートをS36年3月森田昇三、三井利安が、Dフェイスは昭和34年法政大学の田山勝と山本俊男によりルートが開かれS36年2月安久一成、鈴木鉄雄が登っている。 上高地の梓川から見上げる東壁は、前穂高の頂からアルプスのようなムードを漂わせている。上高地の明神から梓川の上流沿いに歩くと美しく仰ぎ見られる。だが、その懐に入り込むと、その雰囲気は一変して鉈でそぎ落とした様な荒々しい岩壁であり、容易に人を寄せ付けない美しさと険しさ見せる。人は、美しく険しいものに憧れ、引き寄せられる。美しさに憧れ命を落とした幾多の岳人がある。

[氷  壁](抜粋) 三時北壁を登りきって、漸くして第二テラス(岩棚)に出る。三時半Aフェースに取りつく。この頃より陽がかげり、風が出て、吹雪模様にとなる。登攀困難。五時半、全く暗くなり、Aフェース上部でビバークする。「朝になったらやむよ」六時半に明るくなった。相変らず吹雪いていた。七時半に雪は小やみになり、「やるか」小坂はいった。小坂は徐々に登り始めていた。が、やがて、「よし、--来い」小坂の合図で、魚津はピッケルを岩の間から抜くと、小坂の立っている岩角へ向けて登り始めた。小坂は魚津より5m程斜め横の壁に取りついて、ザイルを頭上に突き出している岩に掛ける作業に従事していた。不思議にその小坂乙彦の姿は魚津には一枚の絵のようにくっきりと澄んで見えた。小坂を取り巻いているわずかの空間だけが、きれいに洗いぬぐわれ、あたかも硝子越しにでも見るように、岩も、雪も小坂も体も、微かな冷たい光沢を持って見えた。事件はこの時起こったのだ。魚津は、突然小坂の体が急にずるずると岩の斜面を下降するのを見た。次の瞬間、魚津の耳は、小坂の口から出た短い烈しい叫び声を聞いた。魚津はそんな小坂に眼を当てたまま、ピッケルにしがみついた。その時小坂の体は、何ものかの大きな力に作用されたように岩壁の垂直の面から離れた。そして落下する一個の物体となって、雪煙りの海の中へ落ちて行った。ザイルの全部が手許に来て、すり切れたように切断されているその切口を眼にした---。切れないと信じられていたナイロンザイルが切れたのは何故か。小坂が切ったのか、それとも----。小坂は、人妻との叶わぬ恋に堕ちていた。その清算のためか。遭難か自殺かと騒がれるなか、魚津は真相を求めるため東奔西走すると、小坂の不倫の相手である美貌の人妻八代美那子との出会いから思慕を胸にしつつ、切れたザイルの真相を求めると、美那子の夫八代教之助の会社のザイルであることを知る。小坂の遭難を通じて魚津は小坂の妹かおると会う。かおるは小さい時から魚津の話を聞いている内に「自分の結婚は魚津」と、一途に思い込み始めていた。小坂の遺体が発見されると、身体に付いていたザイルは回収され、遺体は荼毘に付された。魚津は人妻の思いを断ち切るため単独行動で北穂高岳の滝谷D沢に向かう。

 

 [ザイル事件] 岩稜会(三重県鈴鹿市)は、厳冬期の前穂高東壁を登攀するため石原国利(中央大4年、リーダー)、沢田栄介(三重大4年)、若山五郎(三重大学1年19歳)の3人は、昭和30年1月元旦の早朝奥又白池のキャンプを出発した。その日のうちに東壁をほぼ登り前穂の頂上直下30m付近で日没となり仮眠した。2日、石原が先頭で登攀を開始したが、岩の上に出ることが出来ず若山が交代し登り始めると若山の身体が50センチ程滑り、そして壁から離れ滑るように堕ちていく。確保する石原国利のザイルには衝撃は伝わらず若山の姿は奥又白の谷に消えた。残された二人は翌日救助されたが凍傷に冒されていた。石原は、「ザイルは岩角のところで切れた」絶対切れないといわれたザイルが切れた。切れないザイルが切れたということで、生き残った石原達は、「アイゼンで踏んで傷をつけた」「ザイルが古かった」「結び目が解けた」と中傷された。

[若山さんとチームを組んでいた石原国利さんの証言が重要な役割で書かれています]何故ザイルは切れたのか。証言者である石原は、「ザイルは岩角のところでぷつりと切れた。五朗ちゃんは、たったの50センチほどすべっただけなのに。あんな弱いザイルはない。」と繰り返すのみ。(中略)石岡は、強度を誇るというナイロンザイルが実は岩角に致命的に弱いという確信をほぼつかみます。しかし、「ナイロンザイルは弱いはずがないから、ザイルが傷ついていたか、古かったのだろう」「切れたのではなく、結び目がほどけたのだろう」という世間の風潮は強く、あげくザイル業者と結託した専門家が「誰も第三者の見ていないことを幸いとして、実際にはザイルをアイゼンで傷つけていたのをかくして、罪をザイルに転嫁したのだろう」とまで公言。アタックメンバーの石原はまるで罪人のような扱いを受けます。そんな中、山という現場の情報を熟知し、石原の人柄を知る石岡は、迷うことなく石原証言を信じます。このときから、弟の無念を背負い、ナイロンザイル神話幻想を砕く、石岡の孤立無援の長い闘いは始まったのです。

 

[石岡繁雄の半生を賭けた戦い] 昭和初期から30年代にいたる日本の登山界は、国内の岩壁を征服し終え、技術革新の成果をいち早くとりいれて海外の山に目を向けており、足元の問題に取り組もうとする人々は稀有であった。そのような趨勢のただ中で、ナイロンザイルの神話に、石岡繁雄は自己の専門領域をとおして闘いを挑んだのだった。石岡繁雄(当時鈴鹿市神戸中教師、鈴鹿高等専門学校教授)は驚いた。「麻ザイルより強度があるナイロンザイルが簡単に切れる---」石岡繁雄は自分が買って弟(若山五郎)に与えた40mの8ミリザイル(東洋レーヨンのナイロン糸で東京製綱が製品化した)であり、悔やむことしきりであった。

石岡繁雄は名古屋大学で実験してみると簡単に切れたが、日本の登山界では肉親が関わった実験として無視した。ナイロンザイルが切れて転落する事故はその後も続いた。ナイロンザイルの欠点を知らせなければと、石岡繁雄は実験を続け、「岩角にこすれると簡単に切れる」ことを証明した。また、母校である名古屋大学の協力を得て、試みた実験。事故の残りのザイルを、稜角66.5度の岩角にかけ、重さをかける。70キロから90キロの重さを静かにかけただけで、ザイルはなんなく切れた。しかしこれはあくまでも私的な実験でしかありませんでした。

そして3ヶ月後、問題のメーカー側は愛知県蒲の東京製綱の工場で公開実験を実施し切れないことを実証した。その実験は、4月29日、登山用具の権威で日本山岳会関西支部長の篠田軍治・大阪大工学部応用物理学教授指導のもと、郡山市にあるザイルメ-カ-で公開実験が実施されることになった。ところが、多くの登山関係者やマスコミの注目を集めた大がかりな実験では、ナイロンザイルは圧倒的な強さを示したのだ。穂高の遺体捜索現場でその報に接した石岡は「実験はインチキだ、手品だ」と叫んでいたという。石岡には、メーカーの仕組んだからくりがよめたのです。

しかし、この蒲郡実験の威力は絶大で、登山界・企業・マスコミが一斉に「ナイロンザイル神話」に拍車をかけ、石岡ひきいる岩稜会は遭難原因を疑われるという窮地に追い込まれます。蒲郡実験の結果は登山界で権威のある『山日記』にも掲載されて、ナイロンザイルに命を託した多くのクライマ-が、その後も墜落死事故を繰り返す要因となった。

真実はどこにあったのか。それは、さらに4ヶ月後に発見された弟・五朗の遺体が物語っていました。五朗に結びつけられていたザイルの切れ口とザイルをかけた岩角には、ザイルが簡単に岩角で切れたことを示す証拠が残されていました。なおも同じ条件を再現して実験した結果、ナイロンザイルはいともあっさりと切れたのです。では、蒲郡実験では何故ザイルは切れなかったのか。からくりは、膨大な装置のほんの小さな中枢部分たるエッジに、1ミリほどの丸みがつけられてあったことでした。そのいんぺい事実が明るみに出て、「ナイロンザイル事件」は弟の遭難から4年8ヶ月後に決着がつきます。これが井上靖の小説『氷壁』のモデルとなり、映画化もされた「ナイロンザイル事件」の核心である。

7月31日若山の遺体はザイルを正しく結んだまま雪の中から発見された。石岡はザイル切断の岩角を石膏に取りそれに似た岩角(90度)を探してきた。メーカーが実施した実験が作為された物との情報が石岡に伝えられた。作為とは、岩角は1ミリ程丸みをつけたことである。東京製綱に出入りしていいる関係者からの密告である。日本山岳会発行の昭和31年版の『山日記』にメーカー側の教授が「ナイロンザイルは90度の岩角でマニラ麻の4倍以上強い」。「岩角でも13mの落下まで切れない」と発表した。山岳雑誌等から「メーカは問題のザイルを科学的実験で保証した」「ナイロンザイルは非のうちどころがない」と報じた。

その後の石岡は、『山日記』の記事は危険である。として訂正を申し込んだが、ナシのつぶてである。実験した大学教授に公開質問状を出したが黙殺されたため、石岡は再度強度実験を繰り返した。石岡のねばり強い活動を続け、ザイルの強度を「厳寒期、酷暑にも切れない基準」をもとめたが、業界は激しく抵抗したが、通産省もザイルの安全基準を設けた。(昭和50年3月)若山五郎の死から20年経過していた。彼が半生をかけた成果は国の機関をうごかし、昭和50年6月、登山用ロ-プの強制力をもった安全基準の世界初公布、再度『山日記』の訂正を迫り続けた結果、やっと昭和52年版に小さな記事を載せて誤りを認めた。55年の転落死防止装置の完成へとつながり、そこから災害時のビル脱出装置、障害者介助機具の開発などに結実していったのである。一方で彼は、メ-カ-や日本山岳会にたいして、ナイロンザイルの安全限界を明示させるべくいくたびも公開質問状をつきつけ、他方で欠陥そのものを分析し、私財をなげうって高所安全研究所を設立(昭和58年)、アルピニストの命を守るにはどうすべきかを探究し続けた。                        「前穂東壁のザイル事件」の前に昭和29年12月29日東雲山渓会員が前穂の近くの明神5峰でザイルが切れ重傷を負う。あとでも、剣岳などでも第3・第4のザイル切断事故があり死者が相次いだ。昭和45年6月14日に奥多摩と巻機山では2.5トンも耐えられるザイルが切れている。これまで使われていたザイルは、麻のザイルで重くて太く水を吸い込み、冬期は凍結する、捩(よじ)れがある場合は簡単に切れる。カビが生える等のため取り扱いが非常に難しかった。ところが、ナイロンザイルを製作した会社は強度があり切れないと宣伝した。使ってみると、麻のザイルのもつ欠点は完全に克服されていた。登山界では非常に有望視され普及していった。切れたザイルは、長野県大町市にある「山岳博物館」に保存・展示してある。大町駅から歩く距離では有るが、高台のためタクシーを利用されたい。博物館からは、北アルプスの名峰白馬岳・五龍岳・鹿島槍~常念岳・蝶が岳が一望できる。ザイル事件のメーカー側教授は、平成元年12月2日に日本山岳会の名誉会員なった。「生命にかかわる問題をゆがめて発表した学者は名誉会員に値しない」との抗議がおこったがどうなったのか。

バッカスというあだ名で山仲間から呼ばれている石岡の、どこかしら土くさい朗らかさからは、日本全体が浮き足だって生きてきた時代に、虚仮の一念のようにひとつの問題と格闘してきた者だけがもつ、高山のダケカンバのような風貌が感じとられる。それは、天命でもある様に彼に与えられた大きな難問に挑み、その生涯において、苦難と屈辱の中、彼にしか味わう事が出来なかった仲間との絆や、心ある人達の応援、等と真実に向かう自身の奮い立つ気持ちへの感動は達成感にも匹敵し、個人の問題を越え、多くの登山家の命を救う使命として、その事が自身の生きがいにもなっていたのでしょう。人は生まれ、何時かは、死にます。何時も若いと思った瞬間には、気付かない間に老いた自身がそこに、居ます。何の為に生まれたのか、疑問を持つ前に思うべき事は、石岡氏の様に天命とも言える大きな問題から挑む人もいるであろうが、多くの人は、幸いその様な問題を抱える事は、少ない。ならば、自身へ小さくとも天命を自ら選び、自己とあるいは、小さな事でも病んだ社会に挑んで行く事が、彼から学び、残された人間の使命とも思える。

石岡繁雄氏の、ご冥福をお祈り申し上げます。


日本の終戦を考えて (その2)

2006-08-14 17:12:46 | 社会
ハルノートからの太平洋戦争への開戦
中国蒋介石の思惑
軍事的な問題で一時は妥協的案の提案に傾きかけたハル国務長官だが、日中戦争の当事者である国民政府の蒋介石政権は「日米妥協」は米国の中国支援の妨げとなるとして公然と反対していた。さらに蒋介石は思い切った手を打つ。一面識もなかったチャーチルに電報を送ったのである。「アメリカが日本と妥協案を結んだら、中国の人々は失望し戦いは崩壊する。それ以後のどのような助けも空しく、中国はあなた方の語る国際信義という言葉を信じなくなるだろう」と。当時既にアメリカは非公式ではあるが国民政府に対して軍事支援を行っていた。)。なお蒋介石夫人の宋美齢も自身の英語力を生かしてロビイストとしてルーズベルトにさまざまな手段で働きかけていた。

英国チャーチルの思惑
また当時は既にヨーロッパにてドイツとイギリスとの戦いが始まっており、ヨーロッパ戦線にて対独戦に苦戦していた英国チャーチル首相は、戦局打開の策としてアメリカの参戦を切望していた。英国が行った働きかけは判然としていないが、チャーチルの回想録では日米開戦の知らせを受け取ったときのチャーチルの欣喜雀躍ぶりが描かれている。

ソ連の思惑
独ソ戦を戦っていたソ連のスターリンにとっての悪夢は、ドイツと三国同盟を結んでいる日本が背後からソ連を攻撃することであった。当時、2面作戦をとる国力に欠いたソ連は、日本からの攻撃があるとドイツとの戦線も持ちこたえられずに国家存続の危機に陥ると考えられていた。ソ連は、日本に北方ではなく南洋に目を向けさせるようにあらゆる手を打つ。日本にはリヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実を中心とする諜報組織網を築く他、米国にも親ソ・共産主義者を中心に諜報組織網を築き、その一端はホワイトハウスの中枢にも及んだ。その最重要人物がハルノート作成に強く関わったハリー・ホワイトである。日本を米国と戦わせることにより、日本がソ連に侵攻する脅威を取り除くことが一つの目的であった。

「ハル・ノート」(概要)
1.英中日蘭蘇泰米間の不可侵条約締結
2.仏印の領土保全
3.日本の中国印度支那からの撤兵 - 中国(原文China)が満州を含むかには議論があり、アメリカ側は満州を除いた中国大陸、日本側は満州を含んだ中国大陸と考えていたようである。
4.日米の中華民国の承認(汪兆銘政権の否認)
5.日米の海外租界と関連権益の放棄
6.通商条約再締結のための交渉開始
7.米による日本在外資産凍結解除
8.円ドル為替レート安定に関する協定締結
9.第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄
10.本協定内容の両国による推進

以上の事から、日中戦争や日本が真珠湾攻撃に至る史実から、色々な事情も考えられるが、それは、別としてそれまでの欧米列強の国、スラブ系民族とオーストリア、ハンガリーとの争いを発端にイギリス・フランスといった早くから植民地を獲得していた国々に対して、ドイツを初めとする同盟国が再分割を求めた事から第一次世界大戦となるに至り、中東地域でのトルコからイギリス戦況を有利にする為のユダヤ、アラブ人への「二枚舌外交」や、その後のイスラエルの対アラブの戦略的重要性から、アメリカやイギリスの不平等な支援から、今日の情勢になっているものと思われ、確かにイスラムの一部強行派のテロは許し難きものではあるが、まず原点に戻りパレスチナ問題の責任を両国が考えるべき筋ではないかと考える。

東南アジアにおいても、そもそもあってはいけない欧米の植民地化から、インドに限った事でも、自国利益の為、時のインド王国を滅ぼし、都合のよい統治を行いインド民族運動が高揚を押さえ、更に第一次世界大戦で、自治の約束を信じてイギリスに戦争協力したにもかかわらず裏切った事等、本音から申せば立派な侵略行為である。

極東アジアでもイギリスは、東インド会社を通して中国との貿易を行っていたが、中国に対しては莫大な貿易赤字を抱えていた事から、インドを利用し、「三角貿易」から「公然の密貿易」という形で大量のアヘンを中国に持ち込みました。この様な非道理的な方式はまんまと成功し、今度は中国から銀が流出し始め、 その量たるや、国家財政の4分の3にあたる金額だった事等からイギリスの貿易収支は一転して黒字となる。その為に清朝政府はアヘン禁止令を出した事は、当たり前なのだが、それを許さないイギリスとのアヘン戦争に至り、1842年に南京条約が締結され、極めて屈辱的な条件を強いられ、肝心のアヘンについては条約では一切触れられることなく、依然としてアヘンの流入は続き、同様の不平等条約は、フランスや米国とも締結を強いられ、このような状況のもと、民衆の不満は高まり、反乱が相次だ一方、さらなる貿易の拡大を求めるイギリスは、1856年、フランスとともに再び中国に出兵します(アロー戦争)。清朝はまたもや武力に屈服し、1860年北京条約でさらに屈辱的な条件を飲むことになり、列強のある意味の植民地化に分割される。
日清戦争後の中国は「眠れる獅子」の崩壊からも、ドイツに膠州湾を租借され、ロシアには旅順と大連を租借され、万里の長城以北と新疆を支配下に治められていた。フランスには広州湾を租借され、広東、広西、雲南を勢力圏とされていた。イギリスには香港、九龍半島、威海衛などを租借されていた。だが中国の歴史教育では、この時代の「侵略」の非難の矢は、もっぱら日本に向けられるのである。「当時、中国東北部には各国の帝国主義勢力が進出しょうとしていたが、イギリスやアメリカは日本を応援して、ロシアに対抗させることを決めた。戦争の主戦場は東北部となったが、腐敗した清政府は「局外中立」を宣言し、中国人民はまた重大な災難にあうことになった」。こうした記述は、ロシアが中国東北部の満州に大部隊をすでに進め、事実上、占領していた史実には触れていない。
第二次世界大戦での戦勝国同士での非難は考え難い事でもあり、大戦前に欧米列強国に莫大な被害を被った中国自体もイギリス、アメリカの支援の基での今日に至る事からか、あるいはその時代は満州民族の国家であり、現在と切り離した考えなのか、大戦前の史実は葬り去れているのが現状の様にも考えられる。

又、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)8月9未明、ソ連は日本に対して一方的に条約違反となる日ソ中立条約を破棄し、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、8月16日には日本領南樺太、8月18日に千島列島へも侵攻して占領しており、これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスの密約であるヤルタ協定に基づくものであり、以後の条約違反でもある、非人道的シベリア抑留もアメリカとの密約があったともされている。

アメリカの無差別爆撃から、大阪大空襲・一般市民一万人以上の死者、東京大空襲・一般市民八万人以上の死者、人類史上最大の虐殺とされる広島原爆投下・一般市民十五万人以上の死者被爆によるその後の死者を含めますと三十万人以上の死者と推定される、長崎原爆投下・一般市民七万人以上の死者被爆によるその後の死者を含めますと十五万人以上の死者と推定される。
私は若い時に、広島の原爆記念館に行き、そこで見た事に、物凄い怒りと悲しみが込み上げてきたのを忘れません。
アメリカは、戦争を終わらす事では意味があったとする人が全てではありませんが、多いと聞きます。しかし百歩譲ったとして、二回も投下する意味があったのでしょうか。
ウランとプルトニウムの二種類の原爆の威力を確かめたい考えがあったともいわれています。又投下後に、医師団が被爆者を診たのは、人体の影響を調べた事は事実であり、人道的観点からの医師団の派遣ではなかったのです。
被爆者の無言に近い戦後の叫びは、同胞として理解し風化させてはならないものであると同時に、むしろ戦勝国の国民に直視して貰いたいものと考える。

戦前の日本を正当化する考えはもうとう無いのですが、勝てば官軍の様な今の世界も決して褒めたものでは無く、国連の大戦勝利国からの意味の解らない常任理事国の制度がある限り、又、軍事力の増強をし続ける事からも、それぞれの国が自国の真の戦争総括をしているとは考えられないのです。
自由と平等を掲げるアメリカは素晴らしい国と考えます、事実その精神の国民もおられる事は、事実なのですが、最近のアメリカはどうでしょうか。又、その他の戦勝国にも、大戦前の他国にしてきた事や、された事をよく考える事が必要です。勿論、先にも述べました様にテロの容認は断固出来ません。
私も、戦後に生まれ、どちらかと申せば、親米派かもしれませんし、若い時には憧れた国でもありました。
そのアメリカの核の傘の下で、我々の日本は平和を築き過ごしてきました。しかし、これからの日本を考えるには、ある意味の自立と大国にも意見出来る事が、必要にも思え、同時に自国は自国民で護る事が、当たり前なのだが気づくべきとも思えます。

最後に私事ではありますが、名も無き一兵士親父の事を記載させて頂きます。私の父も体がすこぶる丈夫な人でありましたので、徴兵から、最初の召集令状組の兵士の一人で最終軍歴階級は曹長でした。
その父からは、一番戦地に赴き即、戦死する人は、やはり、血気盛んな青年将校だったそうです。地獄を見てきたのでしょうか、無信論者でしたね。
又、父が戦地に赴く時の気持ちは、以外に覚めた言葉でしたが、ただ、生きては帰れない覚悟は、私とは、異なるものでした。終戦後スマトラ・ビルマ戦線から武装解除から捕虜となり、帰国した時は、家は無く、先の妻や、娘二人は死んでいたそうです。

長崎・広島の原爆の犠牲者、各地の空襲でなくなった方々、南方その他で玉砕した人々・させられてしまった人々、特攻などという無茶な戦い方をさせられて亡くなった人達、各地の戦闘で亡くなった人達、無意味な戦時下での行為で命を落とした人達、この戦争で亡くなられた全ての人達のご冥福をお祈りします。

日本の終戦を考えて (その1)

2006-08-14 16:39:01 | 社会
8月15日は、おそらく近代史による世界大戦の終焉でもあり、平和への始まりでもあったと考えます。
日本国内では、やっと個人の自由な考えで生きる事が出来、同時に戦争の事について考える余裕等あるはずもなく生きる事で必死の状況であったと思います。
又、戦争について考える余裕が出来た頃には、すでに伝えるべき世代とその様な話に耳を傾ける、あるいは傾けなくてはならない次の世代(つまり我々の前後の世代)、そしてマスコミ関係も少なかった事と記憶しております。
私が、以前戦場に行かれた兵隊さんからの話から
最前線では、敵の弾道が地上30センチである事から、少しでも動けば被弾する事から小石があれば、そこに頭を埋める様な自身があり、隣で話した戦友も次の瞬間には被弾し即死であった。
沼地で敵と出くわし、前進も後退も出来ないこう着状態が2~3日続き、後方からの食料は、ドロだらけで、勿論その場で何事も用を足すのである。
日本からの千人針の布は、捨てないと弾が当たった場合、弾が布に縫いつけた糸を内臓に巻き込み、助かる命も助からない事。
上官が、突撃による剣を抜くと同時に敵陣近い次の壕まで誰よりも早く走り出ないと死亡する率が高くなる、その意味はいきなり出てくる兵士を敵も目標が定められない事から後に出てくる兵士に照準を定め打つ為による。
突撃の際は頭を護るヘルメットを腹に巻く事で、腹に銃弾を受けた場合苦しんで死ななければならない、ゆえに頭に銃弾を受けた場合は、より楽に死ねる事による。
多くの戦死の中、唯一上官の一人が、腹に弾丸を受け内臓が出ているにも拘らず、その地から、皇居の方に自分を向かせ「天皇陛下万歳」と叫び絶命された以外は、誰もが身内の人の名を呼び死なれたそうです。
陸軍の兵隊が南方に輸送船で輸送される際は、船底に詰められ船酔いに悩まされながら、当時領海内である台湾までの航海で、7隻の輸送船の中4隻が敵に撃沈され、おそらく南方に着くまでには全滅だろうと覚悟を戦友と決めたのだが、幸い無事に南方に着いたのだが、死の覚悟はしていたと。
中国戦線では、機関銃隊で前進したが、自分達が居る場所は完全に掌握した事出ない為、補給路が断たれ何人かで撤退したのだが、地雷帯の所を知らないで一列にて行軍し、自分が無事通過した。
ある民家に襲撃したとたん敵の爆破にあい、自分以外全員死亡したのだが、直ぐ後に、中国兵の話声がした為、死んだ戦友の血のりを自身に着け、確認に入ってきた中国兵から死んだものとごまかしたのだが、わずか1~2分の事であったが、長く感じ生きた心地が無かった。
一に体が丈夫で、根性がないと、演習に帰って来れば厳しさに耐えられない者は兵舎で首を括り自殺していた。
上官に拳骨で思い切り叩かれる場合、やはり倒れたりすると何回も同じ様に、叩かれる。
何気ない言葉に感じる様ですが、戦闘での重い事実ではないでしょうか。
まだまだ有りますが、赤紙一枚で戦場に向かわれた多くの兵士に、現場の知らない国内にいる一部の参謀により、効果の無い突撃を命じられ命をなくされた事実もあり、又、ビルマ戦線インパール作戦では、現地師団長のみすみす兵士を死なせる事から大本営へ猛反対した事実。
以上の様な事からも、国民の立場からは真の戦犯は、この様な一部上層部の軍人ではなかったでしょうか。


(以下、その他資料を参考)
第二次世界大戦まで、今日の紛争の火種と戦争責任の平等性を考える意味で欧米の植民地支配から
1914年、第1次世界大戦が勃発した。この戦争は、19世紀末以来、植民地獲得抗争に明け暮れていたヨーロッパ帝国主義列強による世界分割をめぐる争いだった。イギリス・フランスといった早くから植民地を獲得していた国々に対して、ドイツを初めとする同盟国が再分割を求めたのである。
ドイツはアラビアに勢力を持つトルコと同盟を結んでいた。イギリスは、トルコに対して反乱を起こそうとしていたアラビア遊牧民のベドウィン族を援助する方針を固めていたとあるが、メッカ太守ファイサルは、ベドウィン族の族長であるが、定住したアラブ人とは交流があったわけではなく、当時オスマン帝国の首長の呼称はカリフであり、イスラム教徒にとっては、世俗上は君主としなければならない地位にあった。すなわち、ファイサルの擁立自体、トルコとの苦戦から生まれた苦肉のアイデアである。
1915年、イギリスの高等弁務官マクマホンは、メッカの知事フセインに対してアラブの独立を承認し、支援することを約束していた。そしてアラブ民族独立のために戦うことを誓い、情勢に詳しいトマス・エドワード・ロレンスがイギリスより派遣され、共に近代的なトルコ軍に戦い勝利に貢献します。ロレンスは第1次大戦勃発とともに、イギリス陸軍情報部員となり、その後の活躍もその職掌の範囲ではありますが、アラブ軍を指揮したのはメッカ太守の長男ファイサルであり、ロレンスではないのです。
しかし1916年に英仏間で締結されていたサイクス ・ピコ協定では、戦後、アラブとトルコの地を、イギリスとフランスで分割しようとするものだった。

第1次世界大戦中のイギリスの中東に対する「二枚舌外交」を次に示す。
1.アラブ人への約束:フセイン・マクマホン書簡(1915.7~1916.1にかけて、メッカの守
護職フセインとイギリスの高官マクマホンの間でやりとりされた手紙)
英国のオスマン トルコとの戦いへの協力の見返りに、東アラブ地方(イラク、シリア、ヨルダン、レバノン、パレスチナ)およびアラビア半島にアラブ王国建設を支持する事を約束 。
2.ユダヤ人への約束:バルフォア宣言(1917.11.2 バルフォア外相からユダヤ人の富ロ
スチャイルドへの手紙を通じイギリスのシオニスト組織へ伝えられた。)
第一次大戦におけるイギリス内外のユダヤ人の協力を得るために「英国政府がパレスチナでのユダヤ人の民族郷土を建設を支持し、努力する」事を確約した書簡を出した。

結局、「アラブ民族の自由と独立」という願いは叶えられることはなかったのです。
英国は、パレスチナという同じ札をアラブ、イスラエル双方に出したのである。第一次世界大戦終了後パレスチナはイギリスの委任統治領となったが、英国は第一次世界大戦中にした二枚舌外交の代償を払わなければならなくなる。マクマホン書簡など、アラブ独立の約束とみられる空手形もあり議会でも追求され政府答弁も苦し紛れとなった。根本原因は第1次大戦前のイギリス自由党のトルコ蔑視にあり、トルコが中央同盟に組したのもその為である。イギリスは伝統的友好国を切り捨てる時不必要な行動を伴うことがあり、これはその好例である。
第二次世界大戦終了までユダヤ人移民がパレスチナへ大量流入し、それに対するアラブ人の大反乱が起こった。第二次世界大戦終了後、英国は手におえなくなったパレスチナ問題の解決を国連に委ねた。これを受けて1947年11月、国連総会はパレスチナをアラブ、ユダヤの2ヶ国に分割し、エルサレムおよび周辺地域を国際管理下におくというパレスチナ分割案をアラブ諸国の猛烈な反対にもかかわらず、採択した。アラブ諸国はそれを不服としてアラブとイスラエルの長きに渡る中東戦争へと突入することになる。イスラエルは対アラブの戦略的重要性から、欧米、特に多数の強力なユダヤ人勢力を抱える米国の支援により、1948年5月1日独立後、次第にパレスチナ地域に不動の位置を定め、パレスチナ地域全域を手中に治めるに至る。このような国際社会の成り行きに振り回されたパレスチナ地域に元々住んでいた住民たちは悲劇にさらされたのであった。そのような中がパレスチナ人の地位向上のために立ち上がり、結成されるようになったのがPLOである。


東南アジアでは、イギリス東インド会社主導の植民地化が進み、19世紀前半にイギリスの対インド貿易が自由化されたことで、イギリスから機械製綿織物がインドへ流入、インドの伝統的な綿織物産業は破壊された。さらに、近代的な地税制度を導入したことも、インド民衆を困窮させた。こうした要因から1857年、第一次インド独立戦争(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、インド大反乱)が起こった。徹底的な鎮圧を図ったイギリスは、翌年にムガル帝国を完全に滅ぼし、インドを直接統治下においた。20年後の1877年には、イギリス女王がインド皇帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。
イギリスはインド統治に際して分割統治の手法をとった。インド人知識人層を懐柔するため、1885年には諮問機関としてインド国民会議を設けた。しかし、民族資本家の形成に伴い反英強硬派が台頭したこと、日露戦争における日本の勝利、ベンガル分割令への憤りなどから反英機運が一層強まった。こうした中、イギリスは独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させた。
第一次世界大戦で、自治の約束を信じてイギリスに戦争協力したにもかかわらず裏切られたことや、民族自決の理念が高まったことに影響され、インドではさらに民族運動が高揚した。マハトマ・ガンジーの登場は、いままで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く大衆運動にまで深化させた。ガンディーが主導した非暴力独立運動は、イギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。第二次世界大戦では国民会議派から決裂した急進派のチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、日本軍とのインパール作戦等、独立をめざす動きも存在した。


極東アジアでは、イギリスは、東インド会社を通して中国との貿易を行っていましたが、清朝の鎖国政策にはかねがね不満を持っていました。中国から茶、絹、陶磁器といった特産品を輸入するために(しかも公行を通すので値段が高い)、その対価として大量の銀を支払う必要があったからです。つまり、中国に対しては莫大な貿易赤字を抱えていたのです。イギリスは状況を打破するためにインドを利用します。インドに対して機械織りの高価な綿製品を輸出し、その代金を中国で茶を買うことにあてようとしたのです。収支バランス上、インドから中国にも何かを売りつける必要がありますが、それがアヘンでした。さすがにアヘンを公然と輸出するわけにもいかず、「公然の密貿易」という形で大量のアヘンを中国に持ち込みました。これがいわゆる「三角貿易」です。その量たるや、国家財政の4分の3にあたる金額だったといいます。一方で、1833年には東インド会社の対中国貿易権が廃止されたため、アヘンの密輸入はますます増大し、おかげでイギリスの貿易収支は一転して黒字となります。
清朝政府はアヘン禁止令を出しますが、いっこうに効果はなく、中国ではアヘンの吸引が重大な社会問題化していきます。事態を憂慮した道光帝(位1820-61)は、林則徐を欽差大臣(皇帝の勅命を受けた全権特使)として広州に派遣し、アヘンの没収・廃棄、中国人密貿易商人の処罰、イギリス商館区の封鎖など対イギリス強硬策をとります。
イギリスの監察官のチャールス・エリオットはイギリス商船達を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を出せば貿易を許す」と返した。
これに対し、イギリスは軍隊を派遣することを決定、ここにアヘン戦争が始まります。その結果、1842年に南京条約が締結され、5港の開港、香港の割譲、公行の廃止、多額の賠償金の支払い等、極めて屈辱的な条件を強いられることになったのです。また、同様の不平等条約は、フランスや米国とも締結を強いられ、中国は列強の意のままに操られることになっていきます。
さらなる貿易の拡大を求めるイギリスは、1856年、フランスとともに再び中国に出兵します(アロー戦争)。清朝はまたもや武力に屈服し、1860年北京条約でさらに屈辱的な条件を飲むことになるのです。
阿片戦争における清朝の敗戦は、清の商人によって、いち早く幕末の日本にも伝えられ、大きな衝撃をもって迎えられた。我が国が250年以上にも及ぶ平和な時代を過ごす中、世界はいくどもの戦争を繰り返し、軍事力において格段の差がついていることを認識させられたのであり、アメリカのペリーによる恫喝に屈伏せざるを得なくなり、日本は開国という決断を選択するに至るのである。そして1858年、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港が決定され、自由貿易が認められたのだが、日本側には関税自主権がなく(貿易章程)、治外法権を認めるという不平等条約つまり、日米修好通商条約に始まり、この後約一ヵ月間に、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の不平等条約を結んだ。この条約が改正されるのは、明治も終わりになってからになる。
明治維新のさなか、明治天皇は「五箇条の御誓文」を発布され、年号を慶応から明治と改め、新生日本の進むべき目標を示された。憲法(大日本帝国憲法)の制定と併せて、「条約改正」は明治政府の重要課題であった。
明治27年(1894年)陸奥宗光外相は、領事裁判権の撤廃と関税率の引き上げ、相互対等の最恵国待遇を内容とする「日英通商航海条約」の調印に成功。残された関税自主権の回復も、明治44年(1911年)小村寿太郎外相のもと「日米通商航海条約」によって達成される事となる。
一方明治以後の極東アジアの状況では、明治8年(1875年)日本軍艦が朝鮮側の江華島砲台から砲撃され、日本が報復に砲台を破壊した「江華島事件」の後、明治9年「日朝修好条規」を締結。この条規に基き、日本は、朝鮮を自立した国家として認めて開国を促した。
明治17年(1884年)には親日指導者で朝鮮内政改革をめざす金玉均、朴泳孝らがクーデター「甲申事変」をおこす。この時、日本軍は王宮を占領したが、清国軍の出動によって鎮圧。甲申事変は、日本政府の意図するものではなかった。
帝政ロシアはすでにシベリアをその手におさめ、南下政策より、沿海州、満州をその制圧下におこうとしていた、その余勢を駆ってすでに朝鮮にまで影響を及ぼそうという勢いを示していた。日本は「朝鮮の自主性を認め、これを完全独立国家にせよ」と主張していた。朝鮮半島が他の大国の属国になると、玄界灘を隔てるだけで日本は他の帝国主義勢力と隣接せざるを得なくなる。このため、1885年(明治18年)日本は全権大使、伊藤博文を天清に送り、天津条約を締結した。
「天津条約」によって、両国は朝鮮から撤兵する。
日清戦争はその様な状況下にて始まる。明治27年(1894年)東学党の乱、「甲午農民戦争」が勃発。すでに親清派に態度を変えていた閔氏一派が、清軍の派兵を要請し、清国がこれを機会に朝鮮を一挙に支配下にいれようとしたため、日本もあわてて出兵する。当時、「日英通商航海条約」が締結され、英国が日本に好意的だったこともあり、第二次伊藤内閣は清国との戦争「日清戦争」に踏み切り、豊島沖海戦が発端に開戦。9月中旬平壌の陸戦、日本連合艦隊の黄海海戦により日本は朝鮮半島を制圧し、中国東北地方に侵入、11月には遼東半島を占領し、1895年2月に日本連合艦隊は威海衛を攻略、清の北洋艦隊を壊滅させ日本は、あの巨大な清国に勝利する。翌明治28年4月には、日清間で「下関条約」が締結され、日本は遼東半島・台湾の割譲、また、賠償金を得て大陸進出への一歩を踏み出すことになった。だが、極東進出を狙っていたロシアは、ドイツ、フランスを誘って、日本に遼東半島返還の要求をせまった(「三国干渉」)のである。この三国干渉は、日本に「臥薪嘗胆」の思いを抱かせ、後の日露戦争への気概となっていく。
日露戦争はこうした日本の死活的利益が、ロシアの極東政策と衝突して起きた。当時ロシアは不凍港を有しておらず、地中海への出口を求めてまず南下政策をとった。だが1832年のエジプト事件、53年のクリミア戦争、77年の露土戦争でこれに失敗し、その結果極東に目を向けてウラジオストックを得るのである。さらに日清戦争後にはドイツ・フランスとともに「三国干渉」を行い、日本に遼東半島の清への返還を要求してこれを呑ませ、返す刀で対日賠償金2億両を貸し付けていた清と秘密条約を締結してその抵当に東清鉄道の敷設権を獲得、加えて遼東半島を25年間租借し、大連とハルピンを結ぶ東清鉄道南満州支線の敷設権を獲得する。その後ロシアは北清事変中に鉄道保護の名目で満州を制圧、さらには朝鮮半島へと食指を伸ばし、韓国の完全中立化を要求するのである。
このようなロシアの攻勢に対し、日本はある外交策を検討し、ロシアとぎりぎりの交渉をしている。いわゆる「満韓交換」である。伊藤博文が中心になり、朝鮮半島は日本の勢力圏、満州はロシアの勢力圏という形で妥結を狙ったのだ。しかしロシアはこれを拒否、日本は日英同盟を締結する道を選択する。この同盟を背景に日本はロシアに対し満州からの撤兵交渉を続ける。そしてそれが実らず、ロシアが清との間で満州とモンゴルをロシアの保護領にする交渉を開始したという情報を得たとき、両国の国交は断絶され明治37年(1904年)2月戦争が開始されるのである。
そもそもアメリカとの対立の歴史は日露戦争後まで遡る。それまで他の欧米列強と比べて新興国であったため太平洋への勢力の拡大を急いでいたアメリカは、やはり太平洋に進出しようという南下政策をとるロシアを警戒し、それに対する多少なりと障害になればよいという意味で、日本を好意的に見ていた。しかし、日本が予想以上に有利な戦いをしたことにより、中国の権益獲得を目指すライバルとして意識するようになった。日本人の移民に対する差別が行われるなど排日の動きもアメリカ国内で急激に強まっていった。また、国内で抱えていた人種問題の観点からも、日本が欧米列強と対抗して勢力を伸ばしていくことを、差別されていた有色人種が好意的に受け取った点もアメリカの白人社会では好ましく思われなかった。
それ以降、第一次世界大戦時一時的に和解する動きはあったものの、後は一貫して日本の対外進出を牽制する行動をとった。
大正3年(1914年)ヨーロッパで第一次世界大戦が起こると日本はこの期を利用して中国への勢力を伸ばしていった。また、戦争が長引くにつれ、兵器その他の軍需品の注文が連合国から殺到し、ヨーロッパの商品がアジアに供給されなくなり、日本は独占的な地位を得たため、未曾有の好景気になった。しかしこれにより都市部への急激な人口流入と貧富の差の拡大がもたらされ社会体制に不満を持つ者も急増していった。
大正8年(1919年)大戦の処理を行なうパリ講和会議において日本は、ドイツが中国に持っていた権益を確保し、国際連盟においては常任理事国となり当時の一等国に数えられるようになった。しかし、パリ講和会議で日本が提案した念願の人種差別撤廃法案は、賛成多数にもかかわらず、アメリカの反対で実現しなかった。これにより、日本は差別されてきた有色人種の利益の代表としての立場が国際的に明確になった。そういったなかで、中国では、清朝崩壊後(辛亥革命)混迷を続けていたが中華民国を軸にまとまりつつあり、本来漢民族の土地ではない満洲に割拠する軍閥がこれに呼応し徐々に日本の権益を脅かすようになっていった。これに危機感を持った関東軍は、昭和6年9月に軍事行動を起こし(満洲事変)、満洲国を建国し権益をより強固なものにした。
それ以降中国においては、日本に対抗しようという動きが強まり、一方日本国内でも軍部が政治を支配するようになり、中国との戦争も辞さずという意見が強まっていった。まさにマッチ一本投げ入れれば爆発しそうな緊張感が続く中、支那事変は昭和12年(1937年)7月、廬溝橋において軍事衝突が起こった。日本は短期間で決着させる目論見であったが、中国の抵抗も激しく、結果として全面戦争へと発展していった。
この中国との戦争が拡大していくことと平行して、太平洋をはさむ反対側のアメリカとの対立も顕在化し、多方面で色濃く影響を及ぼしていった。

9月6日、御前会議が開かれて「帝国国策遂行要領」が決議された。これは、「大日本帝国が対米戦争を辞さない決意で、10月下旬までに開戦準備を行なう」、「それと平行して、米英との外交手段を尽くす」、「外交手段が10月上旬までにめどが立たなければ、対米開戦を決定する」というものであった。
10月16日、戦争遂行に自信のない近衛首相が退陣し、東條内閣が出現した。
陛下は先の御前会議の決定を白紙に戻し、戦争準備と外交を並行せしめず、外交を優先させよと仰せになり、再度平和の道を探求するようにお命じになった。これが有名な「白紙還元の御諚」である。それまで東條首相は、先に決定した帝国国策遂行要領により、陛下も交渉不調の場合は戦争突入も已むなしと御理解遊ばされていると思っておった。謹厳実直な東條首相は、白紙還元の御諚を承り、顔面蒼白になって退出し、「たいへんだ陛下は戦争に反対であらせられる」と早速閣議を開き、前の決定を白紙に戻して真剣に戦争回避の方策を検討し直した。
当時、日本は、アメリカ(America=A)・イギリス(Britain=B)・支那(China=C)・オランダ(Dutch=D)による、いわゆる「ABCD包囲網」と呼ばれる対日経済封鎖網によって、石油・ゴム・タングステンと言った資源のほとんど全てを供給停止(禁輸)されていました。つまり、日本には外から、工業生産は元より日々の生活に必要な資源が何一つ入ってこない状況に立たされていたのです。
そんな状況下にありながらも、日本は日米戦争を回避すべく、ぎりぎりの条件を提示して日米交渉の妥結を願ったのです。その条件「甲案」とは、
[甲案](概要)
1.日支(日本と支那)間に和平が成立した暁(あかつき)には、支那に展開している日本軍を2年以内に全面撤兵させる。
2.支那事変(日華事変・日中戦争)が解決した暁には、「仏印」(フランス領インドシナ=現・ヴェトナム)に駐留している日本軍も撤兵させる。
3.通商無差別待遇(自由貿易)が全世界に適用されるなら、太平洋全地域と支那に対してもこれを認める。
4.日独伊三国同盟への干渉は認めない。
と言った内容であり、更に、「甲案」での交渉決裂に備えて、日米戦争勃発を未然に防ぐ為の暫定協定案として「乙案」も用意したのです。
[乙案](概要)
1.蘭印(オランダ領東インド=現・インドネシア)での物資獲得が保障され、アメリカが在米日本資産の凍結を解除し、石油の対日供給を約束した暁には、南部仏印から撤退する。
2.更に、支那事変が解決した暁には、仏印全土から撤退する。

要は、日本に対する経済封鎖が解除され、石油等の資源が供給されるのであれば、資源確保の為に南方(仏印や蘭印)へ進出する必要性が無くなる。それと引き替えに、日本も、支那・仏印からの全面撤退に応じる、と言っているのです。

ミサイル発射の政治責任と波紋

2006-07-06 00:27:25 | 社会
再三の日本政府及び諸外国の警告等並び働きかけにもよらず、北朝鮮は抑止力による優位な外交を目的と推測されるミサイルの発射を断行した。
独裁国家は、ヒトラー、スターリン、アフリカのアミン、最近でもフセイン、ポルポト等の独裁者が、毎度暇が無いぐらい、歴史上に出現し又、彼等の非人道的な行いは史実としても記憶に誰もが承知の事と存じますが、彼等には話し合いの外交は皆無であり、我々の平和理論をぶつけても、おおよそ理解出来る事は無いでしょう。
以上の懲りない繰り返しであったのと同じ様に現在の日本も他人事ではない現状を理解しておくべきかと考えます。


航行中の船舶の安全に影響がある射撃訓練などをする国は、国際水路機関と国際海事機関の共同議定書に基づき、義務規定ではないが事前に日時や海域を知らせるのが国際的なしきたりだ。しかし、北朝鮮は議定書に加盟していないという。
また、国土交通省管制課によると、北朝鮮が発射したミサイルが飛行、着弾したとみられる空域には、日本と欧州を結ぶ定期便の航空路がある。午前6時ごろからは、成田空港などに向かう便が増え始める時間帯と考えられ、この様な状況下で対アメリカ外交を主たる目標とし、人命を無視した愚行ではあるが、ミサイルの種類による航続距離から着弾地点が日本海、前回発射時の様に日本国上空を越えた太平洋で、共に日本領海域外だから「よし」とする事では無く、その行為そのものが大きな問題であり、北朝鮮だけに始まらず、韓国、中国の海洋調査船の日本の排他的経済水域(EEZ)内で活動した様な、肝心な問題にもかかわらず毅然とした姿勢での声明や、制裁を有耶無耶にし続ける日本政府が反面、無策な靖国参拝の続行といった事は頑なに遂行する様な、的の得ない対応が、この様な主権国家として無視された行為を簡単にさせてしまっている事にも繋がっている。その場かぎりの外交政策の無策ぶりである。
日本政府は5日の持ち回り閣議で、特定船舶入港禁止特別措置法を適用し、北朝鮮の貨客船「万景峰92」の半年間の入港を禁止する経済制裁を初めて発動することを決定した。
(その他の制裁もありますが、その一つの例として、効き目がある、無いは別にして期間無制限の入港を禁止処置といった、これから先の、日本の揺るぎ無い意思表示ぐらいは、言えないものだろうか)

韓国への影響
北朝鮮が弾道ミサイルを発射したことは、北朝鮮への融和策「太陽政策」をとり続ける韓国政府にとって大きな打撃であり、独自のパイプと自負する南北対話が十分に機能しなかったうえ、北朝鮮情勢の悪化で国内外から対話路線の見直しを迫る声が高まるのは必至だ。

中国への影響
北朝鮮の核問題をめぐる6者協議の早期再開に向けて「苦しい努力」を続けてきた6者協議の議長国・中国は、温家宝(ウェン・チアパオ)首相が訪問先の深センで6月29日、北朝鮮に「事態を悪化させる措置をとらないよう期待する」と発言するなど、何度も自制を促してきた。
にもかかわらず、北朝鮮は発射を強行。中国のメンツは丸つぶれになった。今回のミサイル発射は「最大の支援国として最大の影響力を持つ」と米国などが期待を寄せてきた中国の北朝鮮に対する影響力が低下していることをうかがわせる。

※アメリカの対応
[ワシントン 4日 ロイター] ハドリー米大統領補佐官(国家安全保障問題担当)は4日、北朝鮮がミサイルを発射したことについて、「挑発的行為」だが米国領土への脅威ではないとの認識を示した。記者団に述べた。ハドリー補佐官は「われわれはミサイル発射を挑発的行為と考える」としたものの、「発射後40秒で落下したミサイルは米国領土への脅威ではない」と付け加えた。
所詮は対岸の火事であり、迎撃ミサイル防衛を念頭にしましても、アメリカの本音から申せば、日本が戦火に見まわれ後、世界及び国内世論をバックに報復攻撃に出ると見なすのが順当であろう。真珠湾攻撃を受けた当時の参戦の方法を思い出せば、憶測できる事ではないでしょうか。
よって、戦争をしない、しかけられない為にも国家としての確かな国土防衛策を考えて頂きたいものです。