座談会「海を知る」(1)「命のつながり」はこちら(http://blog.goo.ne.jp/gen-ugusu/e/5b5abd0bff930f805699568551a4a83f)
――司会は東海大学海洋学部の関准教授の方からよろしくお願いいたします。
関 みなさん今晩は。東海大学の関と申します。私はずっと日本中の漁村を調査して回っています。東海大学に来たのは2009年で、その時この西伊豆の町づくりアドバイザーになっている菅原先生から、せっかく静岡に来たんだから若い人を連れてどんどん西伊豆に入りなさいといわれて、それでちょくちょくお邪魔するようになりました。
西伊豆に来ると、カツオの一本釣りの歴史があったり、いまのお話のようにイルカ漁の歴史があったり、ものすごく面白いところだなあと思い始めて、年に何回か学生を連れてお邪魔しているところです。今日はイルカ漁を体験してきた皆さんに当時のことを、お話ししていただきたいと思います。伊豆半島はもともとイルカ漁が盛んなところで、川奈や稲取、田子、安良里、土肥などの地区で組織的に漁が行われていたという記録もありますし、いまでも伊東の方で、定置網なんかにイルカが入ったりするそうです。
今はイルカが網に入ると、海外の組織の方などが見回っておりまして、網を切って逃がしてしまう。そういうのが現状なんですね。イルカが捕れても県の方では、放すようにという指導をしているようです。ですけど、例えばイルカの組織的な漁をするということが、村の結束をつくりあげ、それが村の生活様式にも影響を与えてきたということがあります。供養碑にしても、イルカを捕獲し、生活の糧とし、そのことに感謝する、という一連の行為が、まさに村の文化の形成につながっていることの象徴といってもいいと思います。このようなくらし方が、安良里という地区をつくってきたのではないでしょうか。今日はかつてイルカ漁にも参加した4人の方ににご出席いただきます。みなさん経験に基づくお話をいっぱい持っていらっしゃいます。会場の方もどんどん質問していろんな話を引き出して行けたらなあと思います。
それでは、まず4人の方に、自己紹介していただきます。
宮崎昌雄です。
高木樹(たづる)です。
84歳になる鈴木(吉久)です。北は国後、択捉、南は硫黄島以南、朝鮮の済州島、東支那海のサバ漁を40年間勤め上げまして、勇退した鈴木でございます。
高木吉之助と申します。88歳です。イルカ漁から遠洋漁業で、済州島から国後島近くまで、40何年間漁をしました。
関 今日は写真が沢山用意されてます。当時の写真が沢山地区に残っているんですね。さっそくですけど、写真を使いながら、当時のイルカ漁がどんな様子だったのか、どんなことをみなさんは役割としてやっていらっしゃったのか、お伺いしたいんですけど。
宮崎 私たちの時には、若い衆制度というのがありました。学校を卒業すると大体12,13歳くらい。それからイルカ漁を始めましたけど、たいがい若い一番入りたての人たちは皆、寒中に海に入って、イルカを担ぎあげてくる。それから年寄りの方ですが、カギやなんかでイルカをひっかけて、腹を割って血を抜いて。
いま考えてみると、とても可哀そうなことをしたと思うんですが、イルカがきーきーと泣くんですよ。当時はお腹も空いてたもんだから、浜で腹を割ってすぐに火にくべて、わたを焼いて食った。そんな思い出がございます。
高木樹 イルカ組合というのがたくさんありまして、1組から10組だとすると、全部の船が出るというわけじゃなくて、今日は1組2組が出ていく、きょうは5組が出てと、船で待機したんですね。港の入り口に弁天島というのがあったでしょう。そこに安良里の言葉で、崖端(がけっぱた)というのがあるんです。その崖端から50メートルくらい北の方へ、監視所というのがあった。そこで年をとった役員さんが5、6人、双眼鏡を見ている。船がイルカを見つけるとすぐ、マネというか旗をたてます。そして今度はすぐ崖端の方へ旗を立てたんですよ。村の人はあそこにマネが立ったから、イルカを発見したぞといって、今度は村の中にみんな、船の人は一斉に出て行って、イルカを包囲する役割というか、そういう決まり事があったですね。
船は船で見回ってるけど、マネがいつ立ったかというのは分からないから、その監視所の人が見て、あそこにマネが立ったのを見たぞというので、すぐ崖端のところへ飛んできて合図をしたんですよ。
関 まさに連携プレーですね。
鈴木 イルカ漁というやつは、当時は櫓(ろ)船でした。高木さんが言ったように、大磯のところに、マネといって旗が上がるんです。それが1枚の旗の場合は50頭~100頭前後、2枚マネが上がった場合は、200頭以上位、500頭以上の時は、船のともに1枚表に2枚旗を揚げた。動力船は焼玉エンジンだったもんで、ある程度焼玉がマッチをつけてパっと火がつくくらいにならないと、エンジンがかかってこないんです。いまのエンジンはジーゼルエンジンだから、キーでそのままやるんですがね。それで櫓船のようです。
私の記録の載っている本によりますと、明治4年に1300頭、それと明治19年に1月19日、600頭余りの記録があって、これはイルカというより、ゴンドウイルカじゃないかと思うんですがね。それは約1カ月位かけて水揚げしたそうですね。その最後の一匹は食べるものがなくて、草鞋(わらじ)を食べていたそうです。そのくらい腹が減っていたみたいです。
それであとは、一番とれたのは昭和17年。当時私は国民学校高等2年生だったもんで、ちょうど海側の方の校舎にいると、2回マネがあがると、全速で行くもんで、一斉に音がする。鈴木しげるという先生が、音すれば一度に動く、がす頭といって、くまたかもらったくらいです。ですから最盛期は昭和17~18年。
それでなんでイルカが回遊してきたのかなと思ったら、そのころは、アリューシャンでぽっかん、南の方でぽっかんて爆撃があるもんで、それで避難のために来たんではないのか。普段はイルカの漁というやつは、専属でなくてただ、磯に出て櫓船で漕いでいった衆がマネを上げて。安良里の場合は、艫(とも)のほうに一枚マネを上げるんです。土肥、田子あたりは表とか、胴の間だとか、各村でサインがありましたね。
それからいまイルカが回遊しない理由は、駿河湾の前を商船あたりが頻繁に行き来するもので、こちらの方に入って来ないのかな。さっきイルカを十何頭かなんか追い出したというのは、そのたまたま1隻か2隻で見てマネを上げて、ほかの船を呼んでそれで5隻か6隻で追い込んだ。(展示の)真ん中の写真は旧浦上です。いまは水門ができて地形が変わりましたが。当初のころは浦上が主な水揚げでした。戦後になりますと、鮪浦(しぶら)という供養塔のあるところで、捕ったわけですがね。
例えばさっき高木さんがいった、なんばいもの船がマネ(旗)をあげると、朝早く出て当番船が5番まで、水揚げの2%は報酬として、1番船から5番船まで。総水揚げの2%が見出し料としてもらう。
高木吉 3番までだと思ったがね。
鈴木 いや本によると5番だね。
高木吉 たしか1番からとって、2番からだんだん半々半々。それだもんで、稼ぎになるからみんな一生懸命で探したわけですよ。さっき鈴木さんからいったですけど、昔はほとんど浦上でもやって、いまの明治16年の供養塔は浦上にありました。私が、若い時分にあそこが崩れたもんで、いまの鮪浦へもってきたんです。ちょうど浦上にあるあれは、私がちょうど十何歳のときで、あそこを掘って埋めたのを記憶しております。
私は海の近くなもんでよく見ておりました。いま鈴木さんが言ったゴンドウイルカのたくさん入った時は、これはイルカの5倍位の大きさで、まご婆さんに走れと言われ、細い道をみんなと行った記憶があります。いろいろそれから長い年月にとれたと思いますが、若いうちは、捕ったイルカを小船に乗せていって運搬役みたいに運んだ。なかなか時間がかかって寒かったという記憶がありました。
関 私はここにきて初めてイルカを背負っている写真を見せてもらったときに、最初はなんの写真かわからなかったんです。みんなイルカの着ぐるみを着ているように見えてしまって、これはなんだろうと思って話を聞いたら、背負うとおとなしくなって、というのを聞いて本当に衝撃的だったんですけど、実際に皆さんもイルカを背負っていかれました?
鈴木 はい。重いっていうよりも、海の中で案外軽いんです。それと私が経験したイルカの愛情の形、ていうのがちょっと話したいと思うんですが。沖へ行って、小笠原あたりにいって、おい、おかずがなくなったじゃない、一本イルカでも突いて、捕ろうか。じゃあ、捕らっしゃい。それで突いて揚げてくるわけなんですが、一匹のモリでつかれたイルカに他のイルカがおしかぶるんですよね。(幾重にもイルカが重なって、捕獲されたイルカを守ろうとする行為)
だからそういう状態を、子供が腹にいる人には見せたくないという、そういう逸話もあります。わたしは実際そういう現場を、見たことがあります。
関 仲間を奪われまいとして。
鈴木 助けるというか。そういう行動を見ました。
高木樹 イルカは海で亡くなった人の代わりではないか、というようなことをちょっと聞いたことがあるんですよね。というのは沖で走っているときに、イルカが自分で船に寄ってくるんです。逃げないで船と一緒に走るんですね。それだから、海で亡くなった人の身代りじゃないかという話を聞いたことがあります。船に寄ってくるから割と突きやすいんですよ。
関 切ないですねえ。そういうことだから供養塔につながって。
鈴木 ええ。浜施餓鬼はそのためにも、水死した人、遭難した人のためにも、浜施餓鬼は伝統的にやっております。
関 いまもやっていますか。
鈴木 はい。いまは自治会がやってるんですがね、昔は若い衆が松明の大人がひとかかえ位の大きなやつを燃やしたね。それで、暗くなると清水の方から見えたそうです。人間には108つの煩悩があるから、それを消却するためと、イルカの供養とか水死した人の弔いながら、施餓鬼というやつはいまもやってます。
関 イルカというのは非常に組織的な漁をしていたというのがすごく面白いと思うんですけど、そのポジションによって、報酬というか、分け前がちょっと違ったりとか、たぶん皆さんは、実際イルカ漁を経験されていたのは、かなりお若い時だと思うんですけど、若い衆の報酬というのは、背負って水揚げしたりするわけですから、そういうなにか特別の報酬というのはあるんですか。
鈴木 分け前のことをシロっていいますがね。1(ヒト)シロ、2(フタ)シロ、そういう呼び名でした。だから若い衆シロ、本シロと見出し料シロ、まあそういう組織になってます。それで網シロ。船シロ。
さっき、見出し料は2%で一番船は25%、3番船までが12.5%、残りの1.2%を5番までがシロわけしたみたいです。
関 報酬もそうですけど、イルカの肉を集落のみんなで分けるということはありましたか。
鈴木 ありました。それはやはり、何組かに分かれているもんで、それぞれの代表に分けたわけです。昭和17年くらいのときには、出征兵士の方の家にもイルカのシロを分けたんです。それと後は無線長とか、機関士の場合はイルカ組合の資金から、後の人材を育てるために、そういう支出も私らはいただきました。だからちょっと前までは、イルカ組合から、その残金があるわけで、それを弔い金として、金一封を渡した風習もありました。
関 まさにイルカがとれる地区全体が分け前をもらって潤うという仕組みですね。
鈴木 船にいた人は1シロ。あとは、年寄衆は、たぶん60%から80%くらい、老人にも、われわれみたいのにも、80歳以上の人は、カギを借りて見てるだけで配当した。
高木樹 参加すれば、ここは全員に行き渡るんですね。
高木吉 参加すればひとシロはもらえた。顔を出しても1シロ。
鈴木 私は安良里の歴史をかなり研究してるんですが、原始共産制っていいますか、イルカの恵みによってこの地域が全部潤うような、そういう組織だった仕組みもあったようです。
関 肉自体をそうやって分けて、この安良里の地区の人たちは、イルカをよく食べていた時期があると思うんですけど、どんなふうな料理で食べたのですか。
鈴木 臭みを抜くために味噌で煮たり、あとはタレといいましてね、イルカの肉を薄く切って塩漬けにするとか、いま商店あたりで売っているのは醤油漬けでゴマぶきのやつ、これで当時、昭和19年ごろですかね、岡崎航空の予科練がここで穴掘りといいまして、舟艇を格納するための穴を掘ったんですよ。それで、食保所から出る食事では足らなくて、各家で脂を取ったあとの皮を、みなさんひもじいから食べたということもあっただろうし、まして飛行機乗りのは場合、イルカの皮をうまくのばすと、防水の効果があったみたいです。そんな話もききました。
関 きょうは地区の方もかなり来てらっしゃると思うんですけど、やはりイルカ料理で懐かしいものとかありますか。
高木樹 イルカは捨てるところは骨だけだね。私らが小さいときは、囲炉裏ばたがあったんで、そこで焼いたもんだね。イルカのわたなんかはね、大腸とか小腸は、裂いて乾かしてスルメみたいに、温灰(ぬくばい)ってあるじゃないですか、火の残り灰、温かいの、そこでスルメを焼くみたいに焼いて食べたんですよ。だから、捨てるところはほとんどなかったですね。
鈴木 それで高木さんがいった小腸あたりは、主に水揚げ港は沼津港、清水港。でもって臓物まで全部送ると焼き鳥屋で、焼き鳥にして食べたそうです。それでみなさん、ご存知でしょうかね、終戦後の10円札、国会議事堂を鎖で巻いた10円札。当時は1万円とかいう高額紙幣はなかったもんで、10円札がつまった一番大きな行李(コリ)を若い衆が担ぐのに、よいとこさというほどで。それだけ金額が多かったもんで、札束がぎっしりつまった行李を担いだ記憶があります。
会場 リンゴ箱ですね。
鈴木 当時は1万円札とかなかったんで、100円か10円でね。そういうお札があって、私は担いだ覚えがあります。それが水揚げ料。
関 それをみんなで分けて。豪勢ですね。
鈴木 豪勢でした。ですから昔新築する家は、漁師でなかったらだめですね。そういう時代があって、おそらく水口さんあたりの役場の初任給がいくらかというと、漁師の収入の方が多かった。一次産業が多くて、学校の先生や、役場員は1カ月に3万円かそこいらで高給取りのときに、私らはそれ以上の収入があった時代でした。
水口 私は役場に就職したわけですけど、昭和36年の初任給が7400円でした。その当時は漁師の方は夏と冬の2回、水揚げから分け前をもらう勘定をするわけです。たぶん私の場合せいぜい10万円ですね。漁師さんは30万や50万はあったんじゃないですか。私も正直、そろそろ役場をやめて、漁師になろうかと真剣に考えたことがあります。漁師の方は中学終わると3年くらいで一人前もらえるようになりますので、ちょっとうらやましく思った時がありました。
高木樹 3年で一人前。
宮崎 2年まで8分。それで3年目に初めて一人前いただくようになった。
関 すごいですね。3年で一人前。そのころの漁業はイルカ漁は専業ではないんですね。違う漁をやってイルカが来たときにイルカをやるということですか?
鈴木 イルカはボーナス。本業をやって、1月から3月ごろ漁期があるもんで。早く言えば、イルカ漁のお金はボーナスです。
高木樹 12月から3月まではここは海が荒れますからね、その時分は船も小さかったから、沖にも出れないもんで、その手間賃というか、手間でやったんだね。
関 普段の本業のほうの漁業というのはどんなもの?
高木樹 カツオ漁とか、むろ棒受。
鈴木 ここは棒受発祥の地、いまサンマ漁をやってるあの漁業は伊豆から発祥した独創的な方法で、魚を取ったといいます。
関 じゃあ棒受網というのはここらへんから、八丈島とかあっちの方に伝わったんですか。
鈴木 八丈島まではいかないけれど、この西伊豆あたりがいちばんかなり、小さい漁船でアジをとるとかなんとか、それが発祥でもって、いま全国的にサンマ漁をやっている棒受網、それは伊豆が発祥のように思います。あとはカツオ漁の、あれは紀州の勝浦あたりからカツオ漁あたりのばけといいますか疑似鉤、それなんかも開発して、それが伊豆に定着したですね。ですからイルカ漁は1月から2月くらいの、ほんのカツオ釣る前の、本業でなくてボーナスみたいなもんです。
関 ということは、ボーナスのイルカ漁以上に、カツオとかでもうけ(収入)てきたということですね。
鈴木 はいそうです。ですから三宅島、御蔵島、そこらへんではムロアジをとりにそこらまでいって、八丈までは行った覚えはないんです。ですから、いま全国的にやっている棒受網漁は、伊豆が発祥の地です。
関 そこらまで行くということは日帰り操業はできない?
鈴木 御蔵島を夕方、まく(帰途にむかう)というか満船で、帰るときには朝方6時くらいに戸田沖ぐらいでした。それで沼津港に入港したんですがね。カツオ漁もいまいったように、海流の変化ですか、いまは駿河湾に全然入らなくて、昔は沼津の魚市場は日本全国一カツオが早かったというんですがね、いまは房州の勝浦とか気仙沼とか石巻あたりとか、そっちの方にカツオは移動していくし、この駿河湾には来てもチョットだけで、海流がそれて、全然寄り道しません。
関 イルカが揚がって解体する時には、その専門みたいな人はいるんですか。
高木樹 ここの漁師がやってるんですよ。
鈴木 自分たちがやるんですが、背負うのは一番下の方なんです。若い衆で。それで短刀でとどめといいますかね、昔は左の心臓のところを刺したんですが、近年は喉の頸動脈を切断しましてね、それから腹を捌いて。そうすると、妊娠しているイルカがあるわけですよ。かなり大きい、このくらいの大きさ(70センチ位)で、腹を見るとわかるんで、これを若い衆がサッと腹を裂いてやって、臍の緒を切って、そのまま放してやると泳いで行ったというような経験もしました。イルカの場合は我々と一緒で、肺もあれば、心臓もあれば、レバー、小腸、大腸全部あります。
宮崎 早く頸動脈を切らないと、血が回ってしまうと、肉質が落ちるものだから、揚げたてのときに頸動脈を切って血を出す。いかに早くそれをやるかですね。イルカも苦しまないで済みますからね。
鈴木 伊東あたりのやり方は、網をかけて陸へ上げるので、イルカがもがき苦しみます。ところが、安良里の場合は、イルカが苦しまないように一気にさしてすぐ血を出してしまうから肉質がいいんで、市場へ出しても金額は、伊東なんかよりも相場がよかったです。
(ここで20分間休憩)
三矢 私は7月の20日の海の記念日にNHKラジオの深夜便を2晩続けて聞いたのですが、その中で家が倒産しかけてどうしようかという心境のときにイルカと会った。そのイルカと目を合わせて、イルカが自分に近づいてきたとき、あのうるわしい目、可愛い目を見ることによって自分の人生を変えたという、こういう一節がございました。今晩こういう機会がありましたので、そういうご経験があられましたら、教えていただきたいと思います。
鈴木 イルカ捕りやっていてね、終戦になったもんですからね、自分たちが生きるということの方に重点があったから、たぶんそうイルカと目と目が合って会話したってことはたぶんないじゃないかなあと私は思いますけど。
西宮 これは自分が安良里いるかの会を開いたきっかけにもなるんですが、もう亡くなった主人の父親がイルカ漁をしてまして、小さな赤ちゃんと泳いでいる親子のイルカがいて、その赤ちゃんがどういうわけか、港の中で死んでしまったらしいんです。そうしたらお母さんイルカがその赤ちゃんを頭の上に乗せて、港の中をいつまでもいつまでも、こう泳ぎ回っていたというのを聞いたことがあります。そのイルカが涙を流していたというのを聞きました、また、お乳が出るもんでそのお乳をなめたところ、やはりべたべたした感じで甘かったそうです。
鈴木 イルカ漁といいますと、イルカは先頭のイルカに後がついてくる習性があるもんで、追い込むときには右左に分かれて袋状にしまして、剣先という一番早い船が先に立って後はそれについていくんですが、やはり先頭をぶれないように安良里の港に行くように誘導しました。当時は弁天様の前が浅かったもんで、裏側を通ったわけで、多いときには坂本海岸(安良里の海岸の名前)へ、音に脅されて怖がって、そのまま干上がったときもあるし、そうなると乗っていた船の若い衆は、短刀でそこのところで早く血を出して処理したようです。
イルカの場合は網屋岬を越えると湾の中が深いので、大海へ出たと思ってピョンピョン飛ぶわけですよ。飛ぶとそれを見物に行く。
それで一番早く漁をしたのは1月2日。乗り初めという式があるんですが、当番船が見回りに行って、それでイルカが見えたというので、祝杯をあげるのを待って、イルカを追い込んで、後は港の入口を塞ぐ(口網)といいまして、そこのところから堤防に網をかけて、それで捕ったという経験がございます。
関 時代背景を考えると生きるか死ぬかというところで、イルカを捕っていたのではないかなということを感じます。だけどその中で、人肌に背負うとイルカが大人しくなるとか、そういうことで何か単なる漁獲物ということだけでないイルカとのつながりがあったのではないか。
会場の参加者 イルカ漁でたくさんのイルカを捕まえて短刀で腹をかっさしてやられるというのは聞いてたんですけど、そのときにやはり赤ちゃんを身籠ったのもいたんでしょうか。出てきた赤ちゃんはどうしたんでしょうか。
鈴木 さっきお話したんですが、子供を持っている雌は桃色をしておりましてね、臨月になったらだいぶ腹が大きいわけですよ。哺乳類ですから人間と一緒で、やはり成長したやつは、そのまま港の中で出産するのもあるし、臨月になってくるのをそのまま腹を刺して、へその緒を縊って泳がせると、そのまま泳いでいった覚えがあります。
関 そのまま放して、泳いで行けるんですか。
高木吉 子供を連れた群れは、子供のイルカが追いやすいです。子供が多い群れは、たいがい逃げていかないですね。やっぱり子供をかばうもんで。
宮崎 案外警備がなかった時代だったみたいというかね、イルカを発見するについて、私たちは小型だ、隣の村の船は大きかった。それをもって私たちが見たのを、田子なら田子の大きい船が、これはおれたちが見たんだという格好で、しまいには喧嘩。大きい方にはみんな石なんか積んできてね、こっちもしょうがないから鉄とか船に積んで隠して、のしあげていって、船頭吊るしあげたりね。今でいうと殺人的というか、けっこう入院させたりしたからね。熾烈な戦いをしながらやったというのは、当時が、食生活があまりにも悪く、お互いが生活もかかってますからね。
鈴木 安良里の場合は天然の良港があるから、相場の上げ下げは時期を見てできるんですが、田子や土肥あたりは安良里の10分の1捕獲したかどうかくらい、終戦はね。
関 地形的にも安良里が有利だったということですか。
鈴木 はい、そういう面は漁獲高が上がる要因にもなってますね。
高木樹 いったん港に入れ込めば、出ていかないから。ほとんど確保して取り込んだから、相場見ていつ揚げようということができた。
関 巾着港の中が天然のいけすになるわけですね。
高木樹 そうですね。
関 1ヶ月くらいかけて水揚げして最後の一頭を揚げたとき、イルカがひもじくて草鞋を食べていたというのは。
鈴木 それに餌をやるというわけではないんです。そのころからの話でいうと、ゴンドウクジラ。普通なら短刀でやるんですが、のこぎりで切ったみたいです。若い衆が竹やり、青竹の切ったやつを心臓に刺すと尾ひれで石をこう飛ばしていたね。なにしろ相当大きなもんで、何切れにもして小さくしたみたいですね。ゴンドウクジラの場合は。それとさっきあげてでた、さばっこやってる、あれは一頭残っていたやつは。私らもそれを経験しました。一頭、たった一頭残ったやつが港に住み着いた事もありました。
それと捕り残しは若い衆にあげた。出荷もれというか、二匹や三匹いると、若い衆にお前らにあげるからと、小遣いにしてくれと、それで分けたもんですね。
会場の参加者 イルカを背負って水揚げしたと聞いたんですが、感触てどうなんですか。
宮崎 人肌と同じくらいじゃないかね、温度的に。だからおとなしい。水の中でも、ひれを持って背負うもんだから、だからうんとおとなしいですね。同じような体温じゃないかと思いますね。
会場の参加者 ふつうの魚ってぬめっとした感覚があるじゃないですか。
宮崎 ないね。かえって自分のほうから寄りかかってくるというような感じです。
高木吉 展示の写真で一番上に背負っている仲間が、あれは私と同い年のやつ。
宮崎 本当に柔和な目つきしているからね。お腹なんかなでるとね、目を閉じている。じっとして。呼吸ができる間はじっと陸で。
会場の参加者 30年も40年もイルカを取らなかった影響というものは、どういうことが出ているんでしょうか。イルカがべらぼうに増えたとか。イルカの食べる種類の魚が激減したとか。
鈴木 さっきから私がお話したように、イルカが湾の中に入ってこないんですよ。なぜかというと、御前崎と伊豆半島の間を商船あたりが頻繁に通ってますんで、一応餌を求めて来るんですがそういう関係ではないですかね。あとはよくテレビでやっている、御蔵島の南側に、根付いたイルカがいるんですよ。わたしらも見たことがあるんですが。だから、イルカの漁そのものは、全然見れないというのが正確だと思います。
関 イルカ漁をやめてから、捕らないことでイルカが増えたんじゃないか、増えたことで、イルカが食べてしまう魚が増えて、人間がとる魚が減っちゃったりしたことはないんでしょうかということだったと思うんですが。
鈴木 船頭といいますか、各組で組役があっていて、その最盛期のときには、駿河湾の奥(うら)の方と、外(二ヤ)の方へ3組位真ん中と、それで荷揚げ船といいますか、それがまあ出たんですが、昔はさっきいったマネが上がった方へ他の船が集まった。
だから漁そのものは、わたしらはもう海に出ていないもんで、イルカが見えたという情報はたまに入ってきます。イサキなんか釣るときに、きょうは釣れないなというと、イルカ回しだよという話は聞くんですが、駿河湾そのものにはそんなにもう数的にいないです。
関 イルカ自体がいなくなった。
鈴木 おそらく交通量が多いから、彼らはそれを怖がって外洋の方へいった。
関 イルカ漁自体が終わりに近づいたと同時に、イルカ自体が駿河湾からよそへ行っていることが重なっているということでしょうか。
宮崎 もう一つは私の推測ですが、経済が発展して工場や家庭から流れる排水がいろいろ、化学薬品を使ったものを多く流している、海が汚くなった。そういう関係上、イルカの餌になる小さい小魚とか、そういうものが駿河湾に入ってくるのが少なくなったことも影響していると思います。たぶん鈴木さんから発言のあったような、経済の発展によって船の航海も、船も増えましたから、イルカは特に音に敏感な魚ですから、エンジンの音がしょっちゅうしていれば、入ってこなくなることもあるけど、海が汚れてイルカの餌になる魚がたぶん少なくなって来たんじゃないかなと思います。大型漁船での漁が多くなってきたりしたね。今は、ほとんど駿河湾にイルカを見ることがなくなりましたからね。
会場の参加者 自分は地元が新島村なんです。いまの下田から船で1時間か1時間半位で行けると思うんですけど、当時の船でどのくらいかかるんですか。三宅島で漁をしたということですが、ここから当時どのくらいの時間で行けたんですか。
鈴木 わしらは三宅をまいた(帰途につく)ときには、約7~8時間かね。
高木樹 新島の近くは、私は棒受をやったり、カツオを釣ったりしたんですよ。5時間か6時間で行ったかなあ。
鈴木 だから八丈島から本土まではちょうど私らの庭みたいなもんでしたね。
高木樹 その時分、ほとんどの漁船は木造でしたから、スピードが7ノットか8ノットしか出なかったかもしれない。いまは鉄船とかプラスチックですから10ノットくらいは出ると思いますけどね。いまとはちょっと時間が違いますけどね。
会場の参加者 昔は明神礁がきれいだったな。
鈴木 きれいな島だったね、明神礁。
高木吉 明神礁の噴火のとき、ひどかったねえ。もう軽石のこぶし大のが、海をいっぱいに流れて。
高木樹 明神礁ってわかります? 明神礁という名前はね、四国かどこかのカツオ船(土佐あたり)が、海底火山が噴いたのを見つけた。明神丸という名前だったので明神礁という名前がついたんですけどね、そのときに私らもそこで、カツオ釣りをした覚えがあります。そして東京から学者とかのっけて調査船を出して。そのときはたぶんまだ明神礁は沈んでなかったんじゃないかと思うんですがね、浅くなったところがあるんですよ。その周りを探していたところ、また2回目のドーンとやられて、船のかけらも何も見つからなかった。
高木吉 カツオがものすごく群がってましたよ。
高木樹 私らもそこで漁をして、大体24時間かけて沼津へ荷おろしし、そしてまた戻って行ったら島がなかったです。私らが仕事をしているときに、硫黄が海上を流れてきてね。
鈴木 沈没したのは海洋丸という調査船ですね。
高木樹 ベオネーズ岩礁といって青ヶ島から、30マイルくらい南になるかね。北緯32度くらい。全然人の住めない、小さい島の塊ですけどね。そこから東へ10分くらい走ったかね。
関 本当に話は尽きないので、こういう機会をこれで終わらせることなく、繰り返しもっていただけるといいなあということを感じています。イルカというものを一つの象徴にして、安良里のそれこそ生活文化とか、精神論だとか、環境論だとかいうところまで広がってくるんだなあといことをすごく感じました。これだけの宝があるということを、すごく誇りと感じていただきたいと思いますし、このことをきちんと伝えていくということの大切さということを私は話を伺いながら非常に強く感じました。今日はどうも皆さんありがとうございました。
――司会は東海大学海洋学部の関准教授の方からよろしくお願いいたします。
関 みなさん今晩は。東海大学の関と申します。私はずっと日本中の漁村を調査して回っています。東海大学に来たのは2009年で、その時この西伊豆の町づくりアドバイザーになっている菅原先生から、せっかく静岡に来たんだから若い人を連れてどんどん西伊豆に入りなさいといわれて、それでちょくちょくお邪魔するようになりました。
西伊豆に来ると、カツオの一本釣りの歴史があったり、いまのお話のようにイルカ漁の歴史があったり、ものすごく面白いところだなあと思い始めて、年に何回か学生を連れてお邪魔しているところです。今日はイルカ漁を体験してきた皆さんに当時のことを、お話ししていただきたいと思います。伊豆半島はもともとイルカ漁が盛んなところで、川奈や稲取、田子、安良里、土肥などの地区で組織的に漁が行われていたという記録もありますし、いまでも伊東の方で、定置網なんかにイルカが入ったりするそうです。
今はイルカが網に入ると、海外の組織の方などが見回っておりまして、網を切って逃がしてしまう。そういうのが現状なんですね。イルカが捕れても県の方では、放すようにという指導をしているようです。ですけど、例えばイルカの組織的な漁をするということが、村の結束をつくりあげ、それが村の生活様式にも影響を与えてきたということがあります。供養碑にしても、イルカを捕獲し、生活の糧とし、そのことに感謝する、という一連の行為が、まさに村の文化の形成につながっていることの象徴といってもいいと思います。このようなくらし方が、安良里という地区をつくってきたのではないでしょうか。今日はかつてイルカ漁にも参加した4人の方ににご出席いただきます。みなさん経験に基づくお話をいっぱい持っていらっしゃいます。会場の方もどんどん質問していろんな話を引き出して行けたらなあと思います。
それでは、まず4人の方に、自己紹介していただきます。
宮崎昌雄です。
高木樹(たづる)です。
84歳になる鈴木(吉久)です。北は国後、択捉、南は硫黄島以南、朝鮮の済州島、東支那海のサバ漁を40年間勤め上げまして、勇退した鈴木でございます。
高木吉之助と申します。88歳です。イルカ漁から遠洋漁業で、済州島から国後島近くまで、40何年間漁をしました。
関 今日は写真が沢山用意されてます。当時の写真が沢山地区に残っているんですね。さっそくですけど、写真を使いながら、当時のイルカ漁がどんな様子だったのか、どんなことをみなさんは役割としてやっていらっしゃったのか、お伺いしたいんですけど。
宮崎 私たちの時には、若い衆制度というのがありました。学校を卒業すると大体12,13歳くらい。それからイルカ漁を始めましたけど、たいがい若い一番入りたての人たちは皆、寒中に海に入って、イルカを担ぎあげてくる。それから年寄りの方ですが、カギやなんかでイルカをひっかけて、腹を割って血を抜いて。
いま考えてみると、とても可哀そうなことをしたと思うんですが、イルカがきーきーと泣くんですよ。当時はお腹も空いてたもんだから、浜で腹を割ってすぐに火にくべて、わたを焼いて食った。そんな思い出がございます。
高木樹 イルカ組合というのがたくさんありまして、1組から10組だとすると、全部の船が出るというわけじゃなくて、今日は1組2組が出ていく、きょうは5組が出てと、船で待機したんですね。港の入り口に弁天島というのがあったでしょう。そこに安良里の言葉で、崖端(がけっぱた)というのがあるんです。その崖端から50メートルくらい北の方へ、監視所というのがあった。そこで年をとった役員さんが5、6人、双眼鏡を見ている。船がイルカを見つけるとすぐ、マネというか旗をたてます。そして今度はすぐ崖端の方へ旗を立てたんですよ。村の人はあそこにマネが立ったから、イルカを発見したぞといって、今度は村の中にみんな、船の人は一斉に出て行って、イルカを包囲する役割というか、そういう決まり事があったですね。
船は船で見回ってるけど、マネがいつ立ったかというのは分からないから、その監視所の人が見て、あそこにマネが立ったのを見たぞというので、すぐ崖端のところへ飛んできて合図をしたんですよ。
関 まさに連携プレーですね。
鈴木 イルカ漁というやつは、当時は櫓(ろ)船でした。高木さんが言ったように、大磯のところに、マネといって旗が上がるんです。それが1枚の旗の場合は50頭~100頭前後、2枚マネが上がった場合は、200頭以上位、500頭以上の時は、船のともに1枚表に2枚旗を揚げた。動力船は焼玉エンジンだったもんで、ある程度焼玉がマッチをつけてパっと火がつくくらいにならないと、エンジンがかかってこないんです。いまのエンジンはジーゼルエンジンだから、キーでそのままやるんですがね。それで櫓船のようです。
私の記録の載っている本によりますと、明治4年に1300頭、それと明治19年に1月19日、600頭余りの記録があって、これはイルカというより、ゴンドウイルカじゃないかと思うんですがね。それは約1カ月位かけて水揚げしたそうですね。その最後の一匹は食べるものがなくて、草鞋(わらじ)を食べていたそうです。そのくらい腹が減っていたみたいです。
それであとは、一番とれたのは昭和17年。当時私は国民学校高等2年生だったもんで、ちょうど海側の方の校舎にいると、2回マネがあがると、全速で行くもんで、一斉に音がする。鈴木しげるという先生が、音すれば一度に動く、がす頭といって、くまたかもらったくらいです。ですから最盛期は昭和17~18年。
それでなんでイルカが回遊してきたのかなと思ったら、そのころは、アリューシャンでぽっかん、南の方でぽっかんて爆撃があるもんで、それで避難のために来たんではないのか。普段はイルカの漁というやつは、専属でなくてただ、磯に出て櫓船で漕いでいった衆がマネを上げて。安良里の場合は、艫(とも)のほうに一枚マネを上げるんです。土肥、田子あたりは表とか、胴の間だとか、各村でサインがありましたね。
それからいまイルカが回遊しない理由は、駿河湾の前を商船あたりが頻繁に行き来するもので、こちらの方に入って来ないのかな。さっきイルカを十何頭かなんか追い出したというのは、そのたまたま1隻か2隻で見てマネを上げて、ほかの船を呼んでそれで5隻か6隻で追い込んだ。(展示の)真ん中の写真は旧浦上です。いまは水門ができて地形が変わりましたが。当初のころは浦上が主な水揚げでした。戦後になりますと、鮪浦(しぶら)という供養塔のあるところで、捕ったわけですがね。
例えばさっき高木さんがいった、なんばいもの船がマネ(旗)をあげると、朝早く出て当番船が5番まで、水揚げの2%は報酬として、1番船から5番船まで。総水揚げの2%が見出し料としてもらう。
高木吉 3番までだと思ったがね。
鈴木 いや本によると5番だね。
高木吉 たしか1番からとって、2番からだんだん半々半々。それだもんで、稼ぎになるからみんな一生懸命で探したわけですよ。さっき鈴木さんからいったですけど、昔はほとんど浦上でもやって、いまの明治16年の供養塔は浦上にありました。私が、若い時分にあそこが崩れたもんで、いまの鮪浦へもってきたんです。ちょうど浦上にあるあれは、私がちょうど十何歳のときで、あそこを掘って埋めたのを記憶しております。
私は海の近くなもんでよく見ておりました。いま鈴木さんが言ったゴンドウイルカのたくさん入った時は、これはイルカの5倍位の大きさで、まご婆さんに走れと言われ、細い道をみんなと行った記憶があります。いろいろそれから長い年月にとれたと思いますが、若いうちは、捕ったイルカを小船に乗せていって運搬役みたいに運んだ。なかなか時間がかかって寒かったという記憶がありました。
関 私はここにきて初めてイルカを背負っている写真を見せてもらったときに、最初はなんの写真かわからなかったんです。みんなイルカの着ぐるみを着ているように見えてしまって、これはなんだろうと思って話を聞いたら、背負うとおとなしくなって、というのを聞いて本当に衝撃的だったんですけど、実際に皆さんもイルカを背負っていかれました?
鈴木 はい。重いっていうよりも、海の中で案外軽いんです。それと私が経験したイルカの愛情の形、ていうのがちょっと話したいと思うんですが。沖へ行って、小笠原あたりにいって、おい、おかずがなくなったじゃない、一本イルカでも突いて、捕ろうか。じゃあ、捕らっしゃい。それで突いて揚げてくるわけなんですが、一匹のモリでつかれたイルカに他のイルカがおしかぶるんですよね。(幾重にもイルカが重なって、捕獲されたイルカを守ろうとする行為)
だからそういう状態を、子供が腹にいる人には見せたくないという、そういう逸話もあります。わたしは実際そういう現場を、見たことがあります。
関 仲間を奪われまいとして。
鈴木 助けるというか。そういう行動を見ました。
高木樹 イルカは海で亡くなった人の代わりではないか、というようなことをちょっと聞いたことがあるんですよね。というのは沖で走っているときに、イルカが自分で船に寄ってくるんです。逃げないで船と一緒に走るんですね。それだから、海で亡くなった人の身代りじゃないかという話を聞いたことがあります。船に寄ってくるから割と突きやすいんですよ。
関 切ないですねえ。そういうことだから供養塔につながって。
鈴木 ええ。浜施餓鬼はそのためにも、水死した人、遭難した人のためにも、浜施餓鬼は伝統的にやっております。
関 いまもやっていますか。
鈴木 はい。いまは自治会がやってるんですがね、昔は若い衆が松明の大人がひとかかえ位の大きなやつを燃やしたね。それで、暗くなると清水の方から見えたそうです。人間には108つの煩悩があるから、それを消却するためと、イルカの供養とか水死した人の弔いながら、施餓鬼というやつはいまもやってます。
関 イルカというのは非常に組織的な漁をしていたというのがすごく面白いと思うんですけど、そのポジションによって、報酬というか、分け前がちょっと違ったりとか、たぶん皆さんは、実際イルカ漁を経験されていたのは、かなりお若い時だと思うんですけど、若い衆の報酬というのは、背負って水揚げしたりするわけですから、そういうなにか特別の報酬というのはあるんですか。
鈴木 分け前のことをシロっていいますがね。1(ヒト)シロ、2(フタ)シロ、そういう呼び名でした。だから若い衆シロ、本シロと見出し料シロ、まあそういう組織になってます。それで網シロ。船シロ。
さっき、見出し料は2%で一番船は25%、3番船までが12.5%、残りの1.2%を5番までがシロわけしたみたいです。
関 報酬もそうですけど、イルカの肉を集落のみんなで分けるということはありましたか。
鈴木 ありました。それはやはり、何組かに分かれているもんで、それぞれの代表に分けたわけです。昭和17年くらいのときには、出征兵士の方の家にもイルカのシロを分けたんです。それと後は無線長とか、機関士の場合はイルカ組合の資金から、後の人材を育てるために、そういう支出も私らはいただきました。だからちょっと前までは、イルカ組合から、その残金があるわけで、それを弔い金として、金一封を渡した風習もありました。
関 まさにイルカがとれる地区全体が分け前をもらって潤うという仕組みですね。
鈴木 船にいた人は1シロ。あとは、年寄衆は、たぶん60%から80%くらい、老人にも、われわれみたいのにも、80歳以上の人は、カギを借りて見てるだけで配当した。
高木樹 参加すれば、ここは全員に行き渡るんですね。
高木吉 参加すればひとシロはもらえた。顔を出しても1シロ。
鈴木 私は安良里の歴史をかなり研究してるんですが、原始共産制っていいますか、イルカの恵みによってこの地域が全部潤うような、そういう組織だった仕組みもあったようです。
関 肉自体をそうやって分けて、この安良里の地区の人たちは、イルカをよく食べていた時期があると思うんですけど、どんなふうな料理で食べたのですか。
鈴木 臭みを抜くために味噌で煮たり、あとはタレといいましてね、イルカの肉を薄く切って塩漬けにするとか、いま商店あたりで売っているのは醤油漬けでゴマぶきのやつ、これで当時、昭和19年ごろですかね、岡崎航空の予科練がここで穴掘りといいまして、舟艇を格納するための穴を掘ったんですよ。それで、食保所から出る食事では足らなくて、各家で脂を取ったあとの皮を、みなさんひもじいから食べたということもあっただろうし、まして飛行機乗りのは場合、イルカの皮をうまくのばすと、防水の効果があったみたいです。そんな話もききました。
関 きょうは地区の方もかなり来てらっしゃると思うんですけど、やはりイルカ料理で懐かしいものとかありますか。
高木樹 イルカは捨てるところは骨だけだね。私らが小さいときは、囲炉裏ばたがあったんで、そこで焼いたもんだね。イルカのわたなんかはね、大腸とか小腸は、裂いて乾かしてスルメみたいに、温灰(ぬくばい)ってあるじゃないですか、火の残り灰、温かいの、そこでスルメを焼くみたいに焼いて食べたんですよ。だから、捨てるところはほとんどなかったですね。
鈴木 それで高木さんがいった小腸あたりは、主に水揚げ港は沼津港、清水港。でもって臓物まで全部送ると焼き鳥屋で、焼き鳥にして食べたそうです。それでみなさん、ご存知でしょうかね、終戦後の10円札、国会議事堂を鎖で巻いた10円札。当時は1万円とかいう高額紙幣はなかったもんで、10円札がつまった一番大きな行李(コリ)を若い衆が担ぐのに、よいとこさというほどで。それだけ金額が多かったもんで、札束がぎっしりつまった行李を担いだ記憶があります。
会場 リンゴ箱ですね。
鈴木 当時は1万円札とかなかったんで、100円か10円でね。そういうお札があって、私は担いだ覚えがあります。それが水揚げ料。
関 それをみんなで分けて。豪勢ですね。
鈴木 豪勢でした。ですから昔新築する家は、漁師でなかったらだめですね。そういう時代があって、おそらく水口さんあたりの役場の初任給がいくらかというと、漁師の収入の方が多かった。一次産業が多くて、学校の先生や、役場員は1カ月に3万円かそこいらで高給取りのときに、私らはそれ以上の収入があった時代でした。
水口 私は役場に就職したわけですけど、昭和36年の初任給が7400円でした。その当時は漁師の方は夏と冬の2回、水揚げから分け前をもらう勘定をするわけです。たぶん私の場合せいぜい10万円ですね。漁師さんは30万や50万はあったんじゃないですか。私も正直、そろそろ役場をやめて、漁師になろうかと真剣に考えたことがあります。漁師の方は中学終わると3年くらいで一人前もらえるようになりますので、ちょっとうらやましく思った時がありました。
高木樹 3年で一人前。
宮崎 2年まで8分。それで3年目に初めて一人前いただくようになった。
関 すごいですね。3年で一人前。そのころの漁業はイルカ漁は専業ではないんですね。違う漁をやってイルカが来たときにイルカをやるということですか?
鈴木 イルカはボーナス。本業をやって、1月から3月ごろ漁期があるもんで。早く言えば、イルカ漁のお金はボーナスです。
高木樹 12月から3月まではここは海が荒れますからね、その時分は船も小さかったから、沖にも出れないもんで、その手間賃というか、手間でやったんだね。
関 普段の本業のほうの漁業というのはどんなもの?
高木樹 カツオ漁とか、むろ棒受。
鈴木 ここは棒受発祥の地、いまサンマ漁をやってるあの漁業は伊豆から発祥した独創的な方法で、魚を取ったといいます。
関 じゃあ棒受網というのはここらへんから、八丈島とかあっちの方に伝わったんですか。
鈴木 八丈島まではいかないけれど、この西伊豆あたりがいちばんかなり、小さい漁船でアジをとるとかなんとか、それが発祥でもって、いま全国的にサンマ漁をやっている棒受網、それは伊豆が発祥のように思います。あとはカツオ漁の、あれは紀州の勝浦あたりからカツオ漁あたりのばけといいますか疑似鉤、それなんかも開発して、それが伊豆に定着したですね。ですからイルカ漁は1月から2月くらいの、ほんのカツオ釣る前の、本業でなくてボーナスみたいなもんです。
関 ということは、ボーナスのイルカ漁以上に、カツオとかでもうけ(収入)てきたということですね。
鈴木 はいそうです。ですから三宅島、御蔵島、そこらへんではムロアジをとりにそこらまでいって、八丈までは行った覚えはないんです。ですから、いま全国的にやっている棒受網漁は、伊豆が発祥の地です。
関 そこらまで行くということは日帰り操業はできない?
鈴木 御蔵島を夕方、まく(帰途にむかう)というか満船で、帰るときには朝方6時くらいに戸田沖ぐらいでした。それで沼津港に入港したんですがね。カツオ漁もいまいったように、海流の変化ですか、いまは駿河湾に全然入らなくて、昔は沼津の魚市場は日本全国一カツオが早かったというんですがね、いまは房州の勝浦とか気仙沼とか石巻あたりとか、そっちの方にカツオは移動していくし、この駿河湾には来てもチョットだけで、海流がそれて、全然寄り道しません。
関 イルカが揚がって解体する時には、その専門みたいな人はいるんですか。
高木樹 ここの漁師がやってるんですよ。
鈴木 自分たちがやるんですが、背負うのは一番下の方なんです。若い衆で。それで短刀でとどめといいますかね、昔は左の心臓のところを刺したんですが、近年は喉の頸動脈を切断しましてね、それから腹を捌いて。そうすると、妊娠しているイルカがあるわけですよ。かなり大きい、このくらいの大きさ(70センチ位)で、腹を見るとわかるんで、これを若い衆がサッと腹を裂いてやって、臍の緒を切って、そのまま放してやると泳いで行ったというような経験もしました。イルカの場合は我々と一緒で、肺もあれば、心臓もあれば、レバー、小腸、大腸全部あります。
宮崎 早く頸動脈を切らないと、血が回ってしまうと、肉質が落ちるものだから、揚げたてのときに頸動脈を切って血を出す。いかに早くそれをやるかですね。イルカも苦しまないで済みますからね。
鈴木 伊東あたりのやり方は、網をかけて陸へ上げるので、イルカがもがき苦しみます。ところが、安良里の場合は、イルカが苦しまないように一気にさしてすぐ血を出してしまうから肉質がいいんで、市場へ出しても金額は、伊東なんかよりも相場がよかったです。
(ここで20分間休憩)
三矢 私は7月の20日の海の記念日にNHKラジオの深夜便を2晩続けて聞いたのですが、その中で家が倒産しかけてどうしようかという心境のときにイルカと会った。そのイルカと目を合わせて、イルカが自分に近づいてきたとき、あのうるわしい目、可愛い目を見ることによって自分の人生を変えたという、こういう一節がございました。今晩こういう機会がありましたので、そういうご経験があられましたら、教えていただきたいと思います。
鈴木 イルカ捕りやっていてね、終戦になったもんですからね、自分たちが生きるということの方に重点があったから、たぶんそうイルカと目と目が合って会話したってことはたぶんないじゃないかなあと私は思いますけど。
西宮 これは自分が安良里いるかの会を開いたきっかけにもなるんですが、もう亡くなった主人の父親がイルカ漁をしてまして、小さな赤ちゃんと泳いでいる親子のイルカがいて、その赤ちゃんがどういうわけか、港の中で死んでしまったらしいんです。そうしたらお母さんイルカがその赤ちゃんを頭の上に乗せて、港の中をいつまでもいつまでも、こう泳ぎ回っていたというのを聞いたことがあります。そのイルカが涙を流していたというのを聞きました、また、お乳が出るもんでそのお乳をなめたところ、やはりべたべたした感じで甘かったそうです。
鈴木 イルカ漁といいますと、イルカは先頭のイルカに後がついてくる習性があるもんで、追い込むときには右左に分かれて袋状にしまして、剣先という一番早い船が先に立って後はそれについていくんですが、やはり先頭をぶれないように安良里の港に行くように誘導しました。当時は弁天様の前が浅かったもんで、裏側を通ったわけで、多いときには坂本海岸(安良里の海岸の名前)へ、音に脅されて怖がって、そのまま干上がったときもあるし、そうなると乗っていた船の若い衆は、短刀でそこのところで早く血を出して処理したようです。
イルカの場合は網屋岬を越えると湾の中が深いので、大海へ出たと思ってピョンピョン飛ぶわけですよ。飛ぶとそれを見物に行く。
それで一番早く漁をしたのは1月2日。乗り初めという式があるんですが、当番船が見回りに行って、それでイルカが見えたというので、祝杯をあげるのを待って、イルカを追い込んで、後は港の入口を塞ぐ(口網)といいまして、そこのところから堤防に網をかけて、それで捕ったという経験がございます。
関 時代背景を考えると生きるか死ぬかというところで、イルカを捕っていたのではないかなということを感じます。だけどその中で、人肌に背負うとイルカが大人しくなるとか、そういうことで何か単なる漁獲物ということだけでないイルカとのつながりがあったのではないか。
会場の参加者 イルカ漁でたくさんのイルカを捕まえて短刀で腹をかっさしてやられるというのは聞いてたんですけど、そのときにやはり赤ちゃんを身籠ったのもいたんでしょうか。出てきた赤ちゃんはどうしたんでしょうか。
鈴木 さっきお話したんですが、子供を持っている雌は桃色をしておりましてね、臨月になったらだいぶ腹が大きいわけですよ。哺乳類ですから人間と一緒で、やはり成長したやつは、そのまま港の中で出産するのもあるし、臨月になってくるのをそのまま腹を刺して、へその緒を縊って泳がせると、そのまま泳いでいった覚えがあります。
関 そのまま放して、泳いで行けるんですか。
高木吉 子供を連れた群れは、子供のイルカが追いやすいです。子供が多い群れは、たいがい逃げていかないですね。やっぱり子供をかばうもんで。
宮崎 案外警備がなかった時代だったみたいというかね、イルカを発見するについて、私たちは小型だ、隣の村の船は大きかった。それをもって私たちが見たのを、田子なら田子の大きい船が、これはおれたちが見たんだという格好で、しまいには喧嘩。大きい方にはみんな石なんか積んできてね、こっちもしょうがないから鉄とか船に積んで隠して、のしあげていって、船頭吊るしあげたりね。今でいうと殺人的というか、けっこう入院させたりしたからね。熾烈な戦いをしながらやったというのは、当時が、食生活があまりにも悪く、お互いが生活もかかってますからね。
鈴木 安良里の場合は天然の良港があるから、相場の上げ下げは時期を見てできるんですが、田子や土肥あたりは安良里の10分の1捕獲したかどうかくらい、終戦はね。
関 地形的にも安良里が有利だったということですか。
鈴木 はい、そういう面は漁獲高が上がる要因にもなってますね。
高木樹 いったん港に入れ込めば、出ていかないから。ほとんど確保して取り込んだから、相場見ていつ揚げようということができた。
関 巾着港の中が天然のいけすになるわけですね。
高木樹 そうですね。
関 1ヶ月くらいかけて水揚げして最後の一頭を揚げたとき、イルカがひもじくて草鞋を食べていたというのは。
鈴木 それに餌をやるというわけではないんです。そのころからの話でいうと、ゴンドウクジラ。普通なら短刀でやるんですが、のこぎりで切ったみたいです。若い衆が竹やり、青竹の切ったやつを心臓に刺すと尾ひれで石をこう飛ばしていたね。なにしろ相当大きなもんで、何切れにもして小さくしたみたいですね。ゴンドウクジラの場合は。それとさっきあげてでた、さばっこやってる、あれは一頭残っていたやつは。私らもそれを経験しました。一頭、たった一頭残ったやつが港に住み着いた事もありました。
それと捕り残しは若い衆にあげた。出荷もれというか、二匹や三匹いると、若い衆にお前らにあげるからと、小遣いにしてくれと、それで分けたもんですね。
会場の参加者 イルカを背負って水揚げしたと聞いたんですが、感触てどうなんですか。
宮崎 人肌と同じくらいじゃないかね、温度的に。だからおとなしい。水の中でも、ひれを持って背負うもんだから、だからうんとおとなしいですね。同じような体温じゃないかと思いますね。
会場の参加者 ふつうの魚ってぬめっとした感覚があるじゃないですか。
宮崎 ないね。かえって自分のほうから寄りかかってくるというような感じです。
高木吉 展示の写真で一番上に背負っている仲間が、あれは私と同い年のやつ。
宮崎 本当に柔和な目つきしているからね。お腹なんかなでるとね、目を閉じている。じっとして。呼吸ができる間はじっと陸で。
会場の参加者 30年も40年もイルカを取らなかった影響というものは、どういうことが出ているんでしょうか。イルカがべらぼうに増えたとか。イルカの食べる種類の魚が激減したとか。
鈴木 さっきから私がお話したように、イルカが湾の中に入ってこないんですよ。なぜかというと、御前崎と伊豆半島の間を商船あたりが頻繁に通ってますんで、一応餌を求めて来るんですがそういう関係ではないですかね。あとはよくテレビでやっている、御蔵島の南側に、根付いたイルカがいるんですよ。わたしらも見たことがあるんですが。だから、イルカの漁そのものは、全然見れないというのが正確だと思います。
関 イルカ漁をやめてから、捕らないことでイルカが増えたんじゃないか、増えたことで、イルカが食べてしまう魚が増えて、人間がとる魚が減っちゃったりしたことはないんでしょうかということだったと思うんですが。
鈴木 船頭といいますか、各組で組役があっていて、その最盛期のときには、駿河湾の奥(うら)の方と、外(二ヤ)の方へ3組位真ん中と、それで荷揚げ船といいますか、それがまあ出たんですが、昔はさっきいったマネが上がった方へ他の船が集まった。
だから漁そのものは、わたしらはもう海に出ていないもんで、イルカが見えたという情報はたまに入ってきます。イサキなんか釣るときに、きょうは釣れないなというと、イルカ回しだよという話は聞くんですが、駿河湾そのものにはそんなにもう数的にいないです。
関 イルカ自体がいなくなった。
鈴木 おそらく交通量が多いから、彼らはそれを怖がって外洋の方へいった。
関 イルカ漁自体が終わりに近づいたと同時に、イルカ自体が駿河湾からよそへ行っていることが重なっているということでしょうか。
宮崎 もう一つは私の推測ですが、経済が発展して工場や家庭から流れる排水がいろいろ、化学薬品を使ったものを多く流している、海が汚くなった。そういう関係上、イルカの餌になる小さい小魚とか、そういうものが駿河湾に入ってくるのが少なくなったことも影響していると思います。たぶん鈴木さんから発言のあったような、経済の発展によって船の航海も、船も増えましたから、イルカは特に音に敏感な魚ですから、エンジンの音がしょっちゅうしていれば、入ってこなくなることもあるけど、海が汚れてイルカの餌になる魚がたぶん少なくなって来たんじゃないかなと思います。大型漁船での漁が多くなってきたりしたね。今は、ほとんど駿河湾にイルカを見ることがなくなりましたからね。
会場の参加者 自分は地元が新島村なんです。いまの下田から船で1時間か1時間半位で行けると思うんですけど、当時の船でどのくらいかかるんですか。三宅島で漁をしたということですが、ここから当時どのくらいの時間で行けたんですか。
鈴木 わしらは三宅をまいた(帰途につく)ときには、約7~8時間かね。
高木樹 新島の近くは、私は棒受をやったり、カツオを釣ったりしたんですよ。5時間か6時間で行ったかなあ。
鈴木 だから八丈島から本土まではちょうど私らの庭みたいなもんでしたね。
高木樹 その時分、ほとんどの漁船は木造でしたから、スピードが7ノットか8ノットしか出なかったかもしれない。いまは鉄船とかプラスチックですから10ノットくらいは出ると思いますけどね。いまとはちょっと時間が違いますけどね。
会場の参加者 昔は明神礁がきれいだったな。
鈴木 きれいな島だったね、明神礁。
高木吉 明神礁の噴火のとき、ひどかったねえ。もう軽石のこぶし大のが、海をいっぱいに流れて。
高木樹 明神礁ってわかります? 明神礁という名前はね、四国かどこかのカツオ船(土佐あたり)が、海底火山が噴いたのを見つけた。明神丸という名前だったので明神礁という名前がついたんですけどね、そのときに私らもそこで、カツオ釣りをした覚えがあります。そして東京から学者とかのっけて調査船を出して。そのときはたぶんまだ明神礁は沈んでなかったんじゃないかと思うんですがね、浅くなったところがあるんですよ。その周りを探していたところ、また2回目のドーンとやられて、船のかけらも何も見つからなかった。
高木吉 カツオがものすごく群がってましたよ。
高木樹 私らもそこで漁をして、大体24時間かけて沼津へ荷おろしし、そしてまた戻って行ったら島がなかったです。私らが仕事をしているときに、硫黄が海上を流れてきてね。
鈴木 沈没したのは海洋丸という調査船ですね。
高木樹 ベオネーズ岩礁といって青ヶ島から、30マイルくらい南になるかね。北緯32度くらい。全然人の住めない、小さい島の塊ですけどね。そこから東へ10分くらい走ったかね。
関 本当に話は尽きないので、こういう機会をこれで終わらせることなく、繰り返しもっていただけるといいなあということを感じています。イルカというものを一つの象徴にして、安良里のそれこそ生活文化とか、精神論だとか、環境論だとかいうところまで広がってくるんだなあといことをすごく感じました。これだけの宝があるということを、すごく誇りと感じていただきたいと思いますし、このことをきちんと伝えていくということの大切さということを私は話を伺いながら非常に強く感じました。今日はどうも皆さんありがとうございました。
(2012年9月15日 西伊豆町中央公民館)