西伊豆(宇久須)だより

山・海そして里が広がる西伊豆町。都会の喧噪を離れて、一緒に豊かな自然、健やかな社会とは何か、探っていきませんか?

座談会「海を知る」(2)イルカ漁の体験談

2012-10-30 23:35:09 | 日記
 座談会「海を知る」(1)「命のつながり」はこちら(http://blog.goo.ne.jp/gen-ugusu/e/5b5abd0bff930f805699568551a4a83f

 ――司会は東海大学海洋学部の関准教授の方からよろしくお願いいたします。

  みなさん今晩は。東海大学の関と申します。私はずっと日本中の漁村を調査して回っています。東海大学に来たのは2009年で、その時この西伊豆の町づくりアドバイザーになっている菅原先生から、せっかく静岡に来たんだから若い人を連れてどんどん西伊豆に入りなさいといわれて、それでちょくちょくお邪魔するようになりました。



 西伊豆に来ると、カツオの一本釣りの歴史があったり、いまのお話のようにイルカ漁の歴史があったり、ものすごく面白いところだなあと思い始めて、年に何回か学生を連れてお邪魔しているところです。今日はイルカ漁を体験してきた皆さんに当時のことを、お話ししていただきたいと思います。伊豆半島はもともとイルカ漁が盛んなところで、川奈や稲取、田子、安良里、土肥などの地区で組織的に漁が行われていたという記録もありますし、いまでも伊東の方で、定置網なんかにイルカが入ったりするそうです。

 今はイルカが網に入ると、海外の組織の方などが見回っておりまして、網を切って逃がしてしまう。そういうのが現状なんですね。イルカが捕れても県の方では、放すようにという指導をしているようです。ですけど、例えばイルカの組織的な漁をするということが、村の結束をつくりあげ、それが村の生活様式にも影響を与えてきたということがあります。供養碑にしても、イルカを捕獲し、生活の糧とし、そのことに感謝する、という一連の行為が、まさに村の文化の形成につながっていることの象徴といってもいいと思います。このようなくらし方が、安良里という地区をつくってきたのではないでしょうか。今日はかつてイルカ漁にも参加した4人の方ににご出席いただきます。みなさん経験に基づくお話をいっぱい持っていらっしゃいます。会場の方もどんどん質問していろんな話を引き出して行けたらなあと思います。
 それでは、まず4人の方に、自己紹介していただきます。



 宮崎昌雄です。
 高木樹(たづる)です。
 84歳になる鈴木(吉久)です。北は国後、択捉、南は硫黄島以南、朝鮮の済州島、東支那海のサバ漁を40年間勤め上げまして、勇退した鈴木でございます。
 高木吉之助と申します。88歳です。イルカ漁から遠洋漁業で、済州島から国後島近くまで、40何年間漁をしました。

  今日は写真が沢山用意されてます。当時の写真が沢山地区に残っているんですね。さっそくですけど、写真を使いながら、当時のイルカ漁がどんな様子だったのか、どんなことをみなさんは役割としてやっていらっしゃったのか、お伺いしたいんですけど。

 宮崎 私たちの時には、若い衆制度というのがありました。学校を卒業すると大体12,13歳くらい。それからイルカ漁を始めましたけど、たいがい若い一番入りたての人たちは皆、寒中に海に入って、イルカを担ぎあげてくる。それから年寄りの方ですが、カギやなんかでイルカをひっかけて、腹を割って血を抜いて。
 いま考えてみると、とても可哀そうなことをしたと思うんですが、イルカがきーきーと泣くんですよ。当時はお腹も空いてたもんだから、浜で腹を割ってすぐに火にくべて、わたを焼いて食った。そんな思い出がございます。

 高木樹 イルカ組合というのがたくさんありまして、1組から10組だとすると、全部の船が出るというわけじゃなくて、今日は1組2組が出ていく、きょうは5組が出てと、船で待機したんですね。港の入り口に弁天島というのがあったでしょう。そこに安良里の言葉で、崖端(がけっぱた)というのがあるんです。その崖端から50メートルくらい北の方へ、監視所というのがあった。そこで年をとった役員さんが5、6人、双眼鏡を見ている。船がイルカを見つけるとすぐ、マネというか旗をたてます。そして今度はすぐ崖端の方へ旗を立てたんですよ。村の人はあそこにマネが立ったから、イルカを発見したぞといって、今度は村の中にみんな、船の人は一斉に出て行って、イルカを包囲する役割というか、そういう決まり事があったですね。
 船は船で見回ってるけど、マネがいつ立ったかというのは分からないから、その監視所の人が見て、あそこにマネが立ったのを見たぞというので、すぐ崖端のところへ飛んできて合図をしたんですよ。

  まさに連携プレーですね。

 鈴木 イルカ漁というやつは、当時は櫓(ろ)船でした。高木さんが言ったように、大磯のところに、マネといって旗が上がるんです。それが1枚の旗の場合は50頭~100頭前後、2枚マネが上がった場合は、200頭以上位、500頭以上の時は、船のともに1枚表に2枚旗を揚げた。動力船は焼玉エンジンだったもんで、ある程度焼玉がマッチをつけてパっと火がつくくらいにならないと、エンジンがかかってこないんです。いまのエンジンはジーゼルエンジンだから、キーでそのままやるんですがね。それで櫓船のようです。

 私の記録の載っている本によりますと、明治4年に1300頭、それと明治19年に1月19日、600頭余りの記録があって、これはイルカというより、ゴンドウイルカじゃないかと思うんですがね。それは約1カ月位かけて水揚げしたそうですね。その最後の一匹は食べるものがなくて、草鞋(わらじ)を食べていたそうです。そのくらい腹が減っていたみたいです。

 それであとは、一番とれたのは昭和17年。当時私は国民学校高等2年生だったもんで、ちょうど海側の方の校舎にいると、2回マネがあがると、全速で行くもんで、一斉に音がする。鈴木しげるという先生が、音すれば一度に動く、がす頭といって、くまたかもらったくらいです。ですから最盛期は昭和17~18年。

 それでなんでイルカが回遊してきたのかなと思ったら、そのころは、アリューシャンでぽっかん、南の方でぽっかんて爆撃があるもんで、それで避難のために来たんではないのか。普段はイルカの漁というやつは、専属でなくてただ、磯に出て櫓船で漕いでいった衆がマネを上げて。安良里の場合は、艫(とも)のほうに一枚マネを上げるんです。土肥、田子あたりは表とか、胴の間だとか、各村でサインがありましたね。

 それからいまイルカが回遊しない理由は、駿河湾の前を商船あたりが頻繁に行き来するもので、こちらの方に入って来ないのかな。さっきイルカを十何頭かなんか追い出したというのは、そのたまたま1隻か2隻で見てマネを上げて、ほかの船を呼んでそれで5隻か6隻で追い込んだ。(展示の)真ん中の写真は旧浦上です。いまは水門ができて地形が変わりましたが。当初のころは浦上が主な水揚げでした。戦後になりますと、鮪浦(しぶら)という供養塔のあるところで、捕ったわけですがね。
例えばさっき高木さんがいった、なんばいもの船がマネ(旗)をあげると、朝早く出て当番船が5番まで、水揚げの2%は報酬として、1番船から5番船まで。総水揚げの2%が見出し料としてもらう。

 高木吉 3番までだと思ったがね。

 鈴木 いや本によると5番だね。

 高木吉 たしか1番からとって、2番からだんだん半々半々。それだもんで、稼ぎになるからみんな一生懸命で探したわけですよ。さっき鈴木さんからいったですけど、昔はほとんど浦上でもやって、いまの明治16年の供養塔は浦上にありました。私が、若い時分にあそこが崩れたもんで、いまの鮪浦へもってきたんです。ちょうど浦上にあるあれは、私がちょうど十何歳のときで、あそこを掘って埋めたのを記憶しております。

 私は海の近くなもんでよく見ておりました。いま鈴木さんが言ったゴンドウイルカのたくさん入った時は、これはイルカの5倍位の大きさで、まご婆さんに走れと言われ、細い道をみんなと行った記憶があります。いろいろそれから長い年月にとれたと思いますが、若いうちは、捕ったイルカを小船に乗せていって運搬役みたいに運んだ。なかなか時間がかかって寒かったという記憶がありました。

 関 私はここにきて初めてイルカを背負っている写真を見せてもらったときに、最初はなんの写真かわからなかったんです。みんなイルカの着ぐるみを着ているように見えてしまって、これはなんだろうと思って話を聞いたら、背負うとおとなしくなって、というのを聞いて本当に衝撃的だったんですけど、実際に皆さんもイルカを背負っていかれました?



 鈴木 はい。重いっていうよりも、海の中で案外軽いんです。それと私が経験したイルカの愛情の形、ていうのがちょっと話したいと思うんですが。沖へ行って、小笠原あたりにいって、おい、おかずがなくなったじゃない、一本イルカでも突いて、捕ろうか。じゃあ、捕らっしゃい。それで突いて揚げてくるわけなんですが、一匹のモリでつかれたイルカに他のイルカがおしかぶるんですよね。(幾重にもイルカが重なって、捕獲されたイルカを守ろうとする行為)
 だからそういう状態を、子供が腹にいる人には見せたくないという、そういう逸話もあります。わたしは実際そういう現場を、見たことがあります。

 関 仲間を奪われまいとして。

 鈴木 助けるというか。そういう行動を見ました。

 高木樹 イルカは海で亡くなった人の代わりではないか、というようなことをちょっと聞いたことがあるんですよね。というのは沖で走っているときに、イルカが自分で船に寄ってくるんです。逃げないで船と一緒に走るんですね。それだから、海で亡くなった人の身代りじゃないかという話を聞いたことがあります。船に寄ってくるから割と突きやすいんですよ。

 関 切ないですねえ。そういうことだから供養塔につながって。

 鈴木
 ええ。浜施餓鬼はそのためにも、水死した人、遭難した人のためにも、浜施餓鬼は伝統的にやっております。

 関
 いまもやっていますか。

 鈴木 はい。いまは自治会がやってるんですがね、昔は若い衆が松明の大人がひとかかえ位の大きなやつを燃やしたね。それで、暗くなると清水の方から見えたそうです。人間には108つの煩悩があるから、それを消却するためと、イルカの供養とか水死した人の弔いながら、施餓鬼というやつはいまもやってます。

  イルカというのは非常に組織的な漁をしていたというのがすごく面白いと思うんですけど、そのポジションによって、報酬というか、分け前がちょっと違ったりとか、たぶん皆さんは、実際イルカ漁を経験されていたのは、かなりお若い時だと思うんですけど、若い衆の報酬というのは、背負って水揚げしたりするわけですから、そういうなにか特別の報酬というのはあるんですか。

 鈴木 分け前のことをシロっていいますがね。1(ヒト)シロ、2(フタ)シロ、そういう呼び名でした。だから若い衆シロ、本シロと見出し料シロ、まあそういう組織になってます。それで網シロ。船シロ。
 さっき、見出し料は2%で一番船は25%、3番船までが12.5%、残りの1.2%を5番までがシロわけしたみたいです。

  報酬もそうですけど、イルカの肉を集落のみんなで分けるということはありましたか。

 鈴木 ありました。それはやはり、何組かに分かれているもんで、それぞれの代表に分けたわけです。昭和17年くらいのときには、出征兵士の方の家にもイルカのシロを分けたんです。それと後は無線長とか、機関士の場合はイルカ組合の資金から、後の人材を育てるために、そういう支出も私らはいただきました。だからちょっと前までは、イルカ組合から、その残金があるわけで、それを弔い金として、金一封を渡した風習もありました。

  まさにイルカがとれる地区全体が分け前をもらって潤うという仕組みですね。

 鈴木 船にいた人は1シロ。あとは、年寄衆は、たぶん60%から80%くらい、老人にも、われわれみたいのにも、80歳以上の人は、カギを借りて見てるだけで配当した。

 高木樹 参加すれば、ここは全員に行き渡るんですね。

 高木吉 参加すればひとシロはもらえた。顔を出しても1シロ。

 鈴木 私は安良里の歴史をかなり研究してるんですが、原始共産制っていいますか、イルカの恵みによってこの地域が全部潤うような、そういう組織だった仕組みもあったようです。

 関 肉自体をそうやって分けて、この安良里の地区の人たちは、イルカをよく食べていた時期があると思うんですけど、どんなふうな料理で食べたのですか。

 鈴木 臭みを抜くために味噌で煮たり、あとはタレといいましてね、イルカの肉を薄く切って塩漬けにするとか、いま商店あたりで売っているのは醤油漬けでゴマぶきのやつ、これで当時、昭和19年ごろですかね、岡崎航空の予科練がここで穴掘りといいまして、舟艇を格納するための穴を掘ったんですよ。それで、食保所から出る食事では足らなくて、各家で脂を取ったあとの皮を、みなさんひもじいから食べたということもあっただろうし、まして飛行機乗りのは場合、イルカの皮をうまくのばすと、防水の効果があったみたいです。そんな話もききました。

  きょうは地区の方もかなり来てらっしゃると思うんですけど、やはりイルカ料理で懐かしいものとかありますか。

 高木樹 イルカは捨てるところは骨だけだね。私らが小さいときは、囲炉裏ばたがあったんで、そこで焼いたもんだね。イルカのわたなんかはね、大腸とか小腸は、裂いて乾かしてスルメみたいに、温灰(ぬくばい)ってあるじゃないですか、火の残り灰、温かいの、そこでスルメを焼くみたいに焼いて食べたんですよ。だから、捨てるところはほとんどなかったですね。

 鈴木 それで高木さんがいった小腸あたりは、主に水揚げ港は沼津港、清水港。でもって臓物まで全部送ると焼き鳥屋で、焼き鳥にして食べたそうです。それでみなさん、ご存知でしょうかね、終戦後の10円札、国会議事堂を鎖で巻いた10円札。当時は1万円とかいう高額紙幣はなかったもんで、10円札がつまった一番大きな行李(コリ)を若い衆が担ぐのに、よいとこさというほどで。それだけ金額が多かったもんで、札束がぎっしりつまった行李を担いだ記憶があります。

 会場 リンゴ箱ですね。

 鈴木 当時は1万円札とかなかったんで、100円か10円でね。そういうお札があって、私は担いだ覚えがあります。それが水揚げ料。

  それをみんなで分けて。豪勢ですね。

 鈴木 豪勢でした。ですから昔新築する家は、漁師でなかったらだめですね。そういう時代があって、おそらく水口さんあたりの役場の初任給がいくらかというと、漁師の収入の方が多かった。一次産業が多くて、学校の先生や、役場員は1カ月に3万円かそこいらで高給取りのときに、私らはそれ以上の収入があった時代でした。

 水口 私は役場に就職したわけですけど、昭和36年の初任給が7400円でした。その当時は漁師の方は夏と冬の2回、水揚げから分け前をもらう勘定をするわけです。たぶん私の場合せいぜい10万円ですね。漁師さんは30万や50万はあったんじゃないですか。私も正直、そろそろ役場をやめて、漁師になろうかと真剣に考えたことがあります。漁師の方は中学終わると3年くらいで一人前もらえるようになりますので、ちょっとうらやましく思った時がありました。

 高木樹 3年で一人前。



 宮崎 2年まで8分。それで3年目に初めて一人前いただくようになった。

  すごいですね。3年で一人前。そのころの漁業はイルカ漁は専業ではないんですね。違う漁をやってイルカが来たときにイルカをやるということですか?

 鈴木 イルカはボーナス。本業をやって、1月から3月ごろ漁期があるもんで。早く言えば、イルカ漁のお金はボーナスです。

 高木樹 12月から3月まではここは海が荒れますからね、その時分は船も小さかったから、沖にも出れないもんで、その手間賃というか、手間でやったんだね。

  普段の本業のほうの漁業というのはどんなもの?

 高木樹 カツオ漁とか、むろ棒受。

 鈴木 ここは棒受発祥の地、いまサンマ漁をやってるあの漁業は伊豆から発祥した独創的な方法で、魚を取ったといいます。

 関 じゃあ棒受網というのはここらへんから、八丈島とかあっちの方に伝わったんですか。

 鈴木 八丈島まではいかないけれど、この西伊豆あたりがいちばんかなり、小さい漁船でアジをとるとかなんとか、それが発祥でもって、いま全国的にサンマ漁をやっている棒受網、それは伊豆が発祥のように思います。あとはカツオ漁の、あれは紀州の勝浦あたりからカツオ漁あたりのばけといいますか疑似鉤、それなんかも開発して、それが伊豆に定着したですね。ですからイルカ漁は1月から2月くらいの、ほんのカツオ釣る前の、本業でなくてボーナスみたいなもんです。

  ということは、ボーナスのイルカ漁以上に、カツオとかでもうけ(収入)てきたということですね。

 鈴木 はいそうです。ですから三宅島、御蔵島、そこらへんではムロアジをとりにそこらまでいって、八丈までは行った覚えはないんです。ですから、いま全国的にやっている棒受網漁は、伊豆が発祥の地です。

  そこらまで行くということは日帰り操業はできない?

 鈴木 御蔵島を夕方、まく(帰途にむかう)というか満船で、帰るときには朝方6時くらいに戸田沖ぐらいでした。それで沼津港に入港したんですがね。カツオ漁もいまいったように、海流の変化ですか、いまは駿河湾に全然入らなくて、昔は沼津の魚市場は日本全国一カツオが早かったというんですがね、いまは房州の勝浦とか気仙沼とか石巻あたりとか、そっちの方にカツオは移動していくし、この駿河湾には来てもチョットだけで、海流がそれて、全然寄り道しません。

  イルカが揚がって解体する時には、その専門みたいな人はいるんですか。

 高木樹 ここの漁師がやってるんですよ。
 
 鈴木 自分たちがやるんですが、背負うのは一番下の方なんです。若い衆で。それで短刀でとどめといいますかね、昔は左の心臓のところを刺したんですが、近年は喉の頸動脈を切断しましてね、それから腹を捌いて。そうすると、妊娠しているイルカがあるわけですよ。かなり大きい、このくらいの大きさ(70センチ位)で、腹を見るとわかるんで、これを若い衆がサッと腹を裂いてやって、臍の緒を切って、そのまま放してやると泳いで行ったというような経験もしました。イルカの場合は我々と一緒で、肺もあれば、心臓もあれば、レバー、小腸、大腸全部あります。

 宮崎 早く頸動脈を切らないと、血が回ってしまうと、肉質が落ちるものだから、揚げたてのときに頸動脈を切って血を出す。いかに早くそれをやるかですね。イルカも苦しまないで済みますからね。

 鈴木 伊東あたりのやり方は、網をかけて陸へ上げるので、イルカがもがき苦しみます。ところが、安良里の場合は、イルカが苦しまないように一気にさしてすぐ血を出してしまうから肉質がいいんで、市場へ出しても金額は、伊東なんかよりも相場がよかったです。

(ここで20分間休憩)

 三矢  私は7月の20日の海の記念日にNHKラジオの深夜便を2晩続けて聞いたのですが、その中で家が倒産しかけてどうしようかという心境のときにイルカと会った。そのイルカと目を合わせて、イルカが自分に近づいてきたとき、あのうるわしい目、可愛い目を見ることによって自分の人生を変えたという、こういう一節がございました。今晩こういう機会がありましたので、そういうご経験があられましたら、教えていただきたいと思います。

 鈴木 イルカ捕りやっていてね、終戦になったもんですからね、自分たちが生きるということの方に重点があったから、たぶんそうイルカと目と目が合って会話したってことはたぶんないじゃないかなあと私は思いますけど。

 西宮 これは自分が安良里いるかの会を開いたきっかけにもなるんですが、もう亡くなった主人の父親がイルカ漁をしてまして、小さな赤ちゃんと泳いでいる親子のイルカがいて、その赤ちゃんがどういうわけか、港の中で死んでしまったらしいんです。そうしたらお母さんイルカがその赤ちゃんを頭の上に乗せて、港の中をいつまでもいつまでも、こう泳ぎ回っていたというのを聞いたことがあります。そのイルカが涙を流していたというのを聞きました、また、お乳が出るもんでそのお乳をなめたところ、やはりべたべたした感じで甘かったそうです。

 鈴木 イルカ漁といいますと、イルカは先頭のイルカに後がついてくる習性があるもんで、追い込むときには右左に分かれて袋状にしまして、剣先という一番早い船が先に立って後はそれについていくんですが、やはり先頭をぶれないように安良里の港に行くように誘導しました。当時は弁天様の前が浅かったもんで、裏側を通ったわけで、多いときには坂本海岸(安良里の海岸の名前)へ、音に脅されて怖がって、そのまま干上がったときもあるし、そうなると乗っていた船の若い衆は、短刀でそこのところで早く血を出して処理したようです。
 イルカの場合は網屋岬を越えると湾の中が深いので、大海へ出たと思ってピョンピョン飛ぶわけですよ。飛ぶとそれを見物に行く。
 それで一番早く漁をしたのは1月2日。乗り初めという式があるんですが、当番船が見回りに行って、それでイルカが見えたというので、祝杯をあげるのを待って、イルカを追い込んで、後は港の入口を塞ぐ(口網)といいまして、そこのところから堤防に網をかけて、それで捕ったという経験がございます。

  時代背景を考えると生きるか死ぬかというところで、イルカを捕っていたのではないかなということを感じます。だけどその中で、人肌に背負うとイルカが大人しくなるとか、そういうことで何か単なる漁獲物ということだけでないイルカとのつながりがあったのではないか。

 会場の参加者 イルカ漁でたくさんのイルカを捕まえて短刀で腹をかっさしてやられるというのは聞いてたんですけど、そのときにやはり赤ちゃんを身籠ったのもいたんでしょうか。出てきた赤ちゃんはどうしたんでしょうか。

 鈴木 さっきお話したんですが、子供を持っている雌は桃色をしておりましてね、臨月になったらだいぶ腹が大きいわけですよ。哺乳類ですから人間と一緒で、やはり成長したやつは、そのまま港の中で出産するのもあるし、臨月になってくるのをそのまま腹を刺して、へその緒を縊って泳がせると、そのまま泳いでいった覚えがあります。

  そのまま放して、泳いで行けるんですか。

 高木吉 子供を連れた群れは、子供のイルカが追いやすいです。子供が多い群れは、たいがい逃げていかないですね。やっぱり子供をかばうもんで。



 宮崎 案外警備がなかった時代だったみたいというかね、イルカを発見するについて、私たちは小型だ、隣の村の船は大きかった。それをもって私たちが見たのを、田子なら田子の大きい船が、これはおれたちが見たんだという格好で、しまいには喧嘩。大きい方にはみんな石なんか積んできてね、こっちもしょうがないから鉄とか船に積んで隠して、のしあげていって、船頭吊るしあげたりね。今でいうと殺人的というか、けっこう入院させたりしたからね。熾烈な戦いをしながらやったというのは、当時が、食生活があまりにも悪く、お互いが生活もかかってますからね。

 鈴木 安良里の場合は天然の良港があるから、相場の上げ下げは時期を見てできるんですが、田子や土肥あたりは安良里の10分の1捕獲したかどうかくらい、終戦はね。

 関 地形的にも安良里が有利だったということですか。

 鈴木 はい、そういう面は漁獲高が上がる要因にもなってますね。

 高木樹 いったん港に入れ込めば、出ていかないから。ほとんど確保して取り込んだから、相場見ていつ揚げようということができた。

  巾着港の中が天然のいけすになるわけですね。

 高木樹 そうですね。

  1ヶ月くらいかけて水揚げして最後の一頭を揚げたとき、イルカがひもじくて草鞋を食べていたというのは。

 鈴木 それに餌をやるというわけではないんです。そのころからの話でいうと、ゴンドウクジラ。普通なら短刀でやるんですが、のこぎりで切ったみたいです。若い衆が竹やり、青竹の切ったやつを心臓に刺すと尾ひれで石をこう飛ばしていたね。なにしろ相当大きなもんで、何切れにもして小さくしたみたいですね。ゴンドウクジラの場合は。それとさっきあげてでた、さばっこやってる、あれは一頭残っていたやつは。私らもそれを経験しました。一頭、たった一頭残ったやつが港に住み着いた事もありました。
 それと捕り残しは若い衆にあげた。出荷もれというか、二匹や三匹いると、若い衆にお前らにあげるからと、小遣いにしてくれと、それで分けたもんですね。

 会場の参加者 イルカを背負って水揚げしたと聞いたんですが、感触てどうなんですか。

 宮崎 人肌と同じくらいじゃないかね、温度的に。だからおとなしい。水の中でも、ひれを持って背負うもんだから、だからうんとおとなしいですね。同じような体温じゃないかと思いますね。

 会場の参加者 ふつうの魚ってぬめっとした感覚があるじゃないですか。

 宮崎 ないね。かえって自分のほうから寄りかかってくるというような感じです。

 高木吉 展示の写真で一番上に背負っている仲間が、あれは私と同い年のやつ。

 宮崎 本当に柔和な目つきしているからね。お腹なんかなでるとね、目を閉じている。じっとして。呼吸ができる間はじっと陸で。

 会場の参加者 30年も40年もイルカを取らなかった影響というものは、どういうことが出ているんでしょうか。イルカがべらぼうに増えたとか。イルカの食べる種類の魚が激減したとか。

 鈴木
 さっきから私がお話したように、イルカが湾の中に入ってこないんですよ。なぜかというと、御前崎と伊豆半島の間を商船あたりが頻繁に通ってますんで、一応餌を求めて来るんですがそういう関係ではないですかね。あとはよくテレビでやっている、御蔵島の南側に、根付いたイルカがいるんですよ。わたしらも見たことがあるんですが。だから、イルカの漁そのものは、全然見れないというのが正確だと思います。

 関
 イルカ漁をやめてから、捕らないことでイルカが増えたんじゃないか、増えたことで、イルカが食べてしまう魚が増えて、人間がとる魚が減っちゃったりしたことはないんでしょうかということだったと思うんですが。

 鈴木 船頭といいますか、各組で組役があっていて、その最盛期のときには、駿河湾の奥(うら)の方と、外(二ヤ)の方へ3組位真ん中と、それで荷揚げ船といいますか、それがまあ出たんですが、昔はさっきいったマネが上がった方へ他の船が集まった。
 だから漁そのものは、わたしらはもう海に出ていないもんで、イルカが見えたという情報はたまに入ってきます。イサキなんか釣るときに、きょうは釣れないなというと、イルカ回しだよという話は聞くんですが、駿河湾そのものにはそんなにもう数的にいないです。

  イルカ自体がいなくなった。

 鈴木 おそらく交通量が多いから、彼らはそれを怖がって外洋の方へいった。

  イルカ漁自体が終わりに近づいたと同時に、イルカ自体が駿河湾からよそへ行っていることが重なっているということでしょうか。

 宮崎 もう一つは私の推測ですが、経済が発展して工場や家庭から流れる排水がいろいろ、化学薬品を使ったものを多く流している、海が汚くなった。そういう関係上、イルカの餌になる小さい小魚とか、そういうものが駿河湾に入ってくるのが少なくなったことも影響していると思います。たぶん鈴木さんから発言のあったような、経済の発展によって船の航海も、船も増えましたから、イルカは特に音に敏感な魚ですから、エンジンの音がしょっちゅうしていれば、入ってこなくなることもあるけど、海が汚れてイルカの餌になる魚がたぶん少なくなって来たんじゃないかなと思います。大型漁船での漁が多くなってきたりしたね。今は、ほとんど駿河湾にイルカを見ることがなくなりましたからね。

 会場の参加者 自分は地元が新島村なんです。いまの下田から船で1時間か1時間半位で行けると思うんですけど、当時の船でどのくらいかかるんですか。三宅島で漁をしたということですが、ここから当時どのくらいの時間で行けたんですか。

 鈴木 わしらは三宅をまいた(帰途につく)ときには、約7~8時間かね。

 高木樹 新島の近くは、私は棒受をやったり、カツオを釣ったりしたんですよ。5時間か6時間で行ったかなあ。

 鈴木 だから八丈島から本土まではちょうど私らの庭みたいなもんでしたね。

 高木樹 その時分、ほとんどの漁船は木造でしたから、スピードが7ノットか8ノットしか出なかったかもしれない。いまは鉄船とかプラスチックですから10ノットくらいは出ると思いますけどね。いまとはちょっと時間が違いますけどね。

 会場の参加者 昔は明神礁がきれいだったな。

 鈴木 きれいな島だったね、明神礁。

 高木吉 明神礁の噴火のとき、ひどかったねえ。もう軽石のこぶし大のが、海をいっぱいに流れて。

 高木樹 明神礁ってわかります? 明神礁という名前はね、四国かどこかのカツオ船(土佐あたり)が、海底火山が噴いたのを見つけた。明神丸という名前だったので明神礁という名前がついたんですけどね、そのときに私らもそこで、カツオ釣りをした覚えがあります。そして東京から学者とかのっけて調査船を出して。そのときはたぶんまだ明神礁は沈んでなかったんじゃないかと思うんですがね、浅くなったところがあるんですよ。その周りを探していたところ、また2回目のドーンとやられて、船のかけらも何も見つからなかった。

 高木吉 カツオがものすごく群がってましたよ。

 高木樹 私らもそこで漁をして、大体24時間かけて沼津へ荷おろしし、そしてまた戻って行ったら島がなかったです。私らが仕事をしているときに、硫黄が海上を流れてきてね。

 鈴木 沈没したのは海洋丸という調査船ですね。

 高木樹 ベオネーズ岩礁といって青ヶ島から、30マイルくらい南になるかね。北緯32度くらい。全然人の住めない、小さい島の塊ですけどね。そこから東へ10分くらい走ったかね。

  本当に話は尽きないので、こういう機会をこれで終わらせることなく、繰り返しもっていただけるといいなあということを感じています。イルカというものを一つの象徴にして、安良里のそれこそ生活文化とか、精神論だとか、環境論だとかいうところまで広がってくるんだなあといことをすごく感じました。これだけの宝があるということを、すごく誇りと感じていただきたいと思いますし、このことをきちんと伝えていくということの大切さということを私は話を伺いながら非常に強く感じました。今日はどうも皆さんありがとうございました。

(2012年9月15日 西伊豆町中央公民館)


座談会「海を知る」(1)「命のつながり」

2012-10-30 22:41:51 | 日記
 9月15日に西伊豆町中央公民館で開かれた座談会「海を知る」の記録です。



――ただいまから座談会「海を知る」を始めたいと思います。まず初めに安良里町づくり委員会委員長である、水口勝弘委員長の方からご挨拶申し上げます。

 水口 きょうは立教大の上田信先生、あるいは東海大の関いずみ先生の肝煎りによりまして、「海を知る」ということをテーマに座談会を開催することになりました。



 安良里地区は昭和30年代がいちばん元気があった時期ではなかろうかと思います。その当時は近海あるいは遠洋の漁船が24隻ありまして、それぞれ30人くらいの乗組員がありました。ですからそこで何百人という乗組員の方が働いていたわけです。人口も当時は安良里地区で2600人を超えていました。50年たったいま、人口は今月の町の広報では1300人と半分になっています。それにひきかえ65歳以上の高齢者は、50年前は200人くらいでしたが、いまは600人を超えております。

 人口は半分になって、高齢者が3倍。そういう状況です。温故知新という言葉がありますように、私たちの町づくり委員会も古い生活を知った上で新しい町づくりに取り組む必要があろうかと思っています。きょうは関先生の進行で会議が進められると思いますけど、よろしくお願いしたいと思います。

 上田 緑の地球ネットワーク関東ブランチの上田です。数年前から隣の宇久須で炭焼き、無煙炭化器というものを使って炭焼きをやっています。今回私がこういう形で企画を少し先に進めようという形で呼びかけをしたきっかけは、何回か西伊豆町の方へお邪魔しているうちに、この町そのものが非常に面白い魅力に富んでいるということを、だんだん発見してきたということになると思います。

 その発見を自分の中で膨らましていきたいという思いがありまして、一つのイメージとして、町づくり会議というものを使って、地元の人にいろいろなものをもうちょっと再発見してもらったらどうか。あるいは宇久須からきた私たちが、地元の魅力を教えてもらう場みたいなものを少しつくれればいいなということを思いまして、連続して座談会ということを何回か展開していこうということになりました。

 ことしの9月に宇久須の方で、「山を知る」というかたちで、山仕事をされている方と、林学の専門の方を交えて座談会を行いました。

 実をいうと西伊豆町に何回か来る中で、それぞれの地区の町づくり協議会がなかなか面白いイベントをやっていながら、それが隣の協議会の方にほとんど伝わっていないという現状を見ました。横をつなぐところで少しお役に立つことができれば、ということでこういう風な形の企画を展開しようということになっています。

 たまたまこちらに来たときに、関先生が東海大学の学生を連れて、この安良里や田子の方でイルカ漁その他についてお話をうかがう場に行き合わせまして、それがものすごく面白かったということがありました。もう一度じっくりと話を聞きたい、そしてその話をなるべく多くの方に聞いてもらいたいと思いまして、今回安良里で「海を知る」という形で、お話を聞く機会をもうけさしていただいたということになるかと思います。



 きょうはちょうど、アサリの再生事業ということで、アサリ部会の方で浜の清掃およびアサリの数の調査というのを行っていました。籠によってアサリが自然減のところもあるし、数は減らずに非常に大きくなっているところもあり、まだまだ知らないところが多いんだなということを思いながら、そういうことをより深く知っていく場みたいなものをつくって行ければというように思っています。

 ――座談会に入る前に、安良里いるかの会で「命のつながり」ということで20分くらいのDVDを用意してあります。これは平成23年12月に東海大学で、お魚利用シンポジウムというのがありまして、そこで初めて発表したものです。昔のイルカのことについてとか、供養塔についてとかところの説明も入っておりますが、安良里地区の皆様方にもお披露目しておりませんでしたので、本日、基調講演ではございませんけど、会長と会員から発表させていただきます。

 西宮美佐江 安良里いるかの会は、安良里地区の人たちが、戦前から戦後にかけての食糧難時代に貴重なたんぱく源をイルカに求め、それを克服してきたことに対し、イルカに感謝し、敬い、供養塔を建立した歴史を伝えていかねばならないという思いで、平成8年の5月に発足しました。

 安良里は伊豆半島西海岸の中央に位置し、黒潮の流れに駿河湾に面し、年間を通して温暖な気候の地域ですが、冬になると強い西風が吹くことが名物になっています。近頃では安良里がダイビングスポットになり、多くのダイバーたちが訪れています。

 安良里港は天然の巾着港といわれています。港の東部にある網屋崎が、海中に突き出しその岬の端と陸地の間に弁天島があるため、港の入り口は狭いのですが、港内はそのわりに広くなっており水深もあるため、それが巾着袋のようなので、天然の巾着港と伝えられています。

 ♪安良里めでたや巾着港、紐の締め手は弁天様よ……、という安良里音頭の歌詞にもある巾着港ですが、この天然の地形がイルカ漁にはとても適していたといえます。
 ただ、昔は人々の大半は漁業で生活をしていましたが、いまは漁業だけの生活は難しくなっているのが現実です。

 また西伊豆町は「日本一の夕陽の町」と宣言しています。水平線に沈む夕陽はとてもきれいです。これは安良里の弁天島を背景にした夕陽の写真です。夕陽スポットが西伊豆町にはこのほかにたくさんありますので、ぜひ夕陽を見て感動してほしいと思います。

 これは安良里いるかの会が、安良里地区のイベントに参加して、資料の公開を行っているところです。イルカ漁をしているところのDVDを放映しました。イルカ漁についての資料収集をしていましたが、今後これをもとにみなさまにこの資料を公開していこうと思っています。

 こちらは安良里浦上(うらがみ)のイルカ供養碑の前で、中日新聞の方が取材に来て、安良里いるかの会を取り上げてくれた時の写真です。インターネットで紹介されていますので(http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/shizu_area/shizu_reporter/list/2010/CK2010031402000145.html)、機会がありましたら、読んでいただければと思います。

 それではイルカ漁からお話しましょう。
 イルカ漁は江戸時代から始まり、明治、大正、昭和と駿河湾全域を漁場として、独特の漁法と恵まれた天然の良港により、村の経済の主力となり、イルカは貴重なタンパク源として、食糧難時代を支えてくれました。

 この独特の漁法というのが、追い込み漁ということになります。
 何隻かの船で音を出しながら、イルカを安良里の港に追い込んでいきます。イルカは音に臆病な動物なので、竹ざおで水面を叩いたり、鉄管でできている「かんかん」という名前の道具を海中に入れて、音を立てて港に追い込みます。イルカがなかなか港に入らないので、網を張って船を寄せて隙間がないようにして追い込んだそうです。港に入ってしまうと、深く広くなっているので、イルカは逃げられると勘違いして、港の奥へどんどん入っていきます。これが先ほどお話した天然の巾着港の特徴です。ちなみに、マイルカはエンジンの音だけで、港内に入ることが多かったようです。

 追い込んだイルカは、港で暴れているのですが、人の体温に触れると安心する性質があるので、若い男衆が担ぎあげて、おとなしくさせて陸に引き揚げたそうです。見るからに安心して人間に背負われているように見えると思います。



 戦前から戦後の食糧や物資のない時代、イルカは「たれ」にしたり、ごぼうなどと煮込んで食べたりしていました。貧血の方には、体が温まってとてもいいそうです。女の人たちは、イルカの血でしもやけを治したりもしたそうです。イルカの脂身の部分は煮詰めて、脂はてんぷら油にして、皮は乾燥させて塩をまぶして食べたりもしたそうです。ほかに船の潤滑油にしたり、石鹸を作ったりもしました。すべてを無駄にすることなく、感謝して命をいただいた様子がうかがえます。だからこそ、イルカのための供養碑があるのだと思います。

 また、水族館に運ばれたイルカも数多くいます。水族館に運ばれるまで、餌付けをして人間に慣れさせます。昭和36年に江ノ島水族館にトラックで搬送された、ハナゴンドウの「ヨン」は、世界最長飼育記録の42年間生きました。水族館に運ばれるイルカのことを、イルカのお嫁入りといっていたそうです。こうして、昭和30年半ばで、組織的な出漁はなくなり、水族館から依頼を受けた時に出漁した程度で、昭和48年以降は、イルカ漁としてほとんど行われなくなりました。

 ところが平成2年7月11日にイルカ数十頭が安良里港に追い込まれました。少ない船で、追い込めるか試したところ、容易に港に入ってきましたが、近年、イルカ漁に対して非難などがあったりしていたので、村の漁業組合で県の水産課に問い合わせたところ、放逐の指導を受け、水揚げを断念して、そのイルカたちを港外へ誘導して、これをもってイルカ漁に終止符を打ったことになりました。
 港からジャンプして港外に出ていくイルカの姿が、最後に安良里の港にお別れのあいさつにきたように、そのときの人たちは感じました。

 安良里にはイルカのための供養碑が3基あります。安良里に供養碑を見に来られた方たちもいらっしゃるかと思いますが、港の一番奥に位置しています。当時のイルカを取り上げた場所に2基建立し、あと1基は別の場所で、港が見渡せる高い位置に建立しています。その中で一番古い供養碑は明治15年になります。幅が25センチ、高さが135センチあり、その供養碑の後ろに記載してある碑文の代表を紹介します。鎌倉円覚寺の管長をつとめられた今北洪川さんを招いて、浜施餓鬼を行った様子が記載されています。



 明治15年1月19日に大漁があり、600頭余りが港の外に集まっているのを発見して、十数隻の小舟でイルカを捕らえました。大きいものは大きさが6メートル以上、小さいものでも3メートルくらいの大きさでした。大漁で村の中は潤い、にぎわいが出たということです。当時イルカ組合が5組あり、組の代表者が、龍泉寺に出向きその事実を説明して、さらに供養していただきたいと申し出ました。イルカのために供養碑を建て、浜施餓鬼を行うことをお願いしたそうです。浜施餓鬼を開くにあたり、イルカ組合の代表の若者5人が、懺悔礼拝に1週間余り毎日出頭したそうです。そして、いただいた戒名を供養碑の下に埋めたと記録されています。このくだりは、イルカをとても高い位に位置付けて、最高の供養をしてことになるそうです。漁師さんたちが、人間と格差なくイルカを重んじたことの行いだったと思います。

 2番目はイルカ組合の発願により昭和10年に建立されたもので、幅30センチ、高さ74センチになります。昭和7年1月28日に毎年開催されている、お不動様の祭典の日に、村のカツオ船が沼津港でカツオを下し、帰る途中に、ゴンドウイルカの大群を発見して、安良里漁業組合に連絡しました。村は祭りの最中でしたが、イルカが見えたぞと大騒ぎになり、さあ大変だと船に乗り込みました。海の色を黒く変えて、海面よりも高く白波を立ててイルカの大群がやってきました。



 この1427頭のイルカを約1カ月かけて、取り上げたそうです。このイルカを発見した漁師の話によると、シャチに追いかけられたイルカで、鯱巻(しゃちまわし)といったそうです。このイルカはお不動さんの祭典の日に発見されたので、お不動さまが授けてくれたイルカと村の中ではにぎわいました。

 3番目はイルカ組合の発願により、昭和24年に建立されたもので、幅103センチ、高さ133センチです。昭和9年から昭和24年10月に至るまでに、漁獲したイルカを改めて供養して建立したもので、戦中戦後の食糧難時代を乗り越えられたことに感謝したものです。当時の話をお年寄りの人に聞くと、当時はお金があっても、食べるものも買うものもなかったんだよと、話してくれました。イルカからいただいた、命のつながりがあったから、いまこうして私たちが存在していることを感じ、改めて感謝の気持ちが湧いてきました。



 こうして、たくさんの命をいただいたことを供養する行事が、毎年8月15日に浜施餓鬼として行われています。

 これは江戸時代から続いているもので、海で亡くなった人、魚、イルカも含めすべての命にたいしての供養で、村の人たちからの要望で行ったのが始まりです。昭和の初めごろまでは百八の松明を燃やしていたそうで、清水の方面から、西伊豆の方を見るとその灯りが見えたそうです。この行事を百八灯と呼んで、村の人たちは正装してお参りしたそうです。

 現在は安良里地区自治会のほうからお寺へ依頼して8月15日に浜施餓鬼として行っています。
 松明を燃やして、お経をあげていただき、何隻もの船が旗を揚げて港を回り供養します。このお経の文面は江戸時代から、引き継がれて施供したものを公開してきました。いつの時代も命に対して、思う気持ちは変わることがないのだと感じます。100年200年たっても変わらないことを大切にしていきたいと思います。

 最後にイルカの会からのメッセージです。当時の人たちがイルカ漁をすることは、今のように特別なことでもなく、生きていく上で必要だったことで、そこに大量のイルカがいたから漁をしたのだと思います。ほかの命をいただいて生きていくことは、昔も今もこれから先も変わることがないでしょう。安良里の漁師さんたちも、そのことをきちんと認識したうえで、感謝し供養してきたように思います。命のつながりのなかで今があり、そしてひとりひとりが存在していることは確かなことです。私たちはその命をいただいて、大切に生きていかなければと思うのです。だからこそ自然の恵みに感謝して、また生かされていくことに感謝していきたいと思います。(2)に続く(http://blog.goo.ne.jp/gen-ugusu/e/952b55feb48f9b92b63740b7a3e680ab

地域づくりと観光

2012-10-19 22:50:31 | 日記
 これは2012年6月のGEN関東ブランチ例会で、立教大学の菅原由美子先生に、「地域づくりと観光」というテーマでお話しいただいたときの記録です。西伊豆と福島のテクノアカデミー会津のお話がありましたが、西伊豆に限っての記録としました。

 みなさんこんにちは。西伊豆町で藤原先生からよく上田先生のことは聞いていたんですね。そのうち何回か上田先生とお会いしてお話を聞くうちに、こういう研究をしている会と色々な形で情報交換をする場は必要なんじゃないかということになりました。

1.基本的考え方について
●観光とは:今改めて観光の意味を考える
 まず観光について基本的な考え方をお話ししたいと思います。
 私は観光による地域振興という形で依頼を受けることが多いんです。そのとき人を呼ぶため何かハコ物をつくるとか、施設整備という形で観光計画を作って欲しいというようなことが多々あります。
 そこに観光に対する偏見と誤解を感じます。観光計画というと観光業に関わる人がいい思いをするための計画だから、人が増えるとゴミが増えるとか住民にとってはかえってマイナスも生まれます。
 それなのに観光を柱にしたまちづくり計画ということは、立場によってまったく相反する、せめぎあいといったものが結構あります。しかし、もともとの観光ということを考えるとそうではないのです。
 だから最初に観光計画といったとき必ずお話させてもらうのは、観光という言葉の原点です。もともと観光ということばは、五経の中の易経の中の言葉から来ているものです。
 「観国之光利用賓于王」(くにのひかりをみるはもっておうにひんたるによろし)。
 どういう意味かといいますと、国を治めるリーダーは、その国を良くするために、他国を見聞する。昔の修学旅行ですね。いろんな所に行って、見聞を広めて、そこで得た知識を自国に持ち帰って生かすということです。
 現在は観光というと物見遊山とか遊びの感覚がすごく強いんですが、本来は自分たちのところを良くするための情報を得る、ということが主だったのです。
 ですから見に行く対象は名所旧跡ではなくて、産業とか、歴史風土、そこに関わっている人たちがどういう知恵を持ってそこで暮らしているか、自分のところを振り返ったときにどういうところが参考になるかということを見聞きするのが、この「国の光」だったわけですね。
 こういうことに立ち返って観光を考えない限り、今までどおりの物見遊山的な狭い意味だけだと、地域振興には役に立たないということをまず第一にご説明させてもらっています。
 私が関わらせてもらうのは、常に広い意味での観光です。ですから西伊豆なんかでも、よくこれが観光なのかといわれることもあるんですけど、広い意味での観光です。人が関わっている、生活にしているものはすべて観光に関わるということです。

●魅力ある地域づくりは、魅力ある人(づくり)から

 ハコ物だけつくれば人が来るという形でいろいろなものができました。代表的なものは、ディズニーランド以降ブームになったテーマパークといわれている外国村です。ドイツ村、イギリス村、スペイン村、いろいろ出来ましたけど、ディズニーランドを除いてことごとく苦しい。もうほとんど駄目になったところの方が多い。
 ハコ物ばかりつくっても地域振興にはならないんです。いままでことごとく失敗している。それはそこを運営する人を育てなかったから。つくったらそのまま。追加投資もないし、一回行けば飽きられてしまうという状況です。知恵を出して、つくられたものの魅力を維持運営していく人の力がなかった。
 こういうつくり方がこれまで非常に多かったから、観光というものが苦しい状況になったのではないでしょうか。そういう面からいうと、ハコ物を作る前に、人づくりがまず大切なのです。
 ところが悲しいことに、行政は目に見えるものにしかお金をかけたがらない。人づくりといっても一朝一夕に出来るものではないし、この人を育てましたよと町長選とか、首長選でいくら声を張り上げても、果たしてその首長さんの成果になるかといえば、難しいですよね。
 いちばん分かりやすいのは、この橋は私が架けたとか、この文化会館は私が建てましたというハコ物に依存しがち。でもそろそろ、人づくりという方にお金をかけるべきではないかと思っています。

●景観も立派な観光資源
 最近、景観法というのが法律で決まりました。自然景観だけじゃなくて人が関わる景観は、すごい観光の宝なんです。そこに生活しているありのままの風景も立派な観光資源、広い意味での観光資源になりうるのです。しかし、住んでいる人たちがそういう意識を持たない限り、景観というものに対する認識が甘くなる。
 景観も観光資源といっている象徴的なものとして、昭和23(1948)年の観光標語があります。「僕のお家も景色の一つ」というのが入選作に選ばれています。それからもう60年。きちんとそういう考え方が継承されていれば、いまさら景観法の制定はいらなかったんじゃないかと思えるくらいです。
 やはりバブルのときに、景観とか、そういう公共の風景作りということに対しての認識が、ちょっと途絶えたのかなと思います。
 そういうことをひもといて、自分の身の回りを見直して、魅力をどういうところに求め、それをどういう風につくり上げ、継承していくか、それ自体が観光なんだという形で関わらせていただきました。
 ですから、私は仕事が来たときも、施設をつくるということはやめたほうがいい。既存のものを生かして、ありのままを生かしていく。そういう形でしたらお手伝いできますという形で、仕事を受けることにしております。

2.観光地域づくりの基本方針

 こういった考え方で観光を地域振興にという仕事を受けた時に、どういうことを柱にしているか。

●"どこでもある"から"ここでしかない"
 1つ目はどこででもあるか、ここでしかない。
 よく観光開発というと金太郎飴的な開発。どこを切っても同じようなものばかりという風にいわれますけど、金太郎飴にならざるを得ないんだと思うんです。といいますのは、メニューはそんなにないからです。
 これを上手に説明してくれたのは私の恩師で「蕎麦屋のメニューは、かけそば、ざるそば、大体どこでも同じだ。だけど差があるというのは味。作り手によって味が変わるからファンが色々出来る」というのです。
 観光地も同じです。メニュー的には同じだけど、そこに関わる人が味を色々変えてくる。そこに差が出てくるのです。
 それは歴史、風土、気候…。そういった地域性が味の変化に大いに役に立っている。その辺を誤って全部ハコ物、人工の形だけで何か魅力づくりをしようとすると大きな失敗につながる。
 そこの人たちの生活、歴史、風土、それからその土地に関わってきた生活ということも含めての先人の知恵。そういったものをひもといていけば、いろいろな、ここならではというものを探しだすことができるのではないか。
 そうしていくと、表面的には金太郎飴的でも、ここでしかないというものに変えていくことができる。そういうような視点を持って欲しいと思います。

●わがまち再発見

 そういう形でわが町再発見を試みる。西伊豆もそうだったんですけど、意外に自分のところの歴史とか、あるものに関心がないんですね。何でそこにあるのと質問しても、答えが返ってこない。ここらをもう一回見直していくうちに、いろんなところにつながりが出来、歴史の流れという形が見えてくる。それを改めて再発見する。
 それは観光客のためではなくて、住んでいるみなさん方のためですよ。みなさん方と同時に、子や孫のためですよ。自分の住んでいるところをもう一度見直して、色々な良さを再認識しましょうということを、まずやってもらうようにしています。
 それから、量より質なんですけど、観光とくに、行政の面では、入り込み客数というのが一つのバロメーターというか、成功、不成功の基準になっています。前年比何%アップ、あるいは何人アップ、というのが目標になっている。
 それは経済でも同じようなところがあるんですけど、人口が減少したり、景気が停滞したりということですと、限られたパイの奪い合いで、もう減少もやむを得ないという状況に来ていると思います。
 そのときに、次に生き残るものは何かというと、どういう人をこの地域に受け入れるかという質。いままでは、来てくれる人は誰でも全部welcomeでした。でもその結果なにが起きたかというと、そういうところに限ってゴミと騒音、交通障害だけが残って、利益はあまりない。
 そこで考え方を変えて、消費単価1000円のお客さんを1万人呼ぶのではなくて、消費単価1万円払っても来てくれるようなお客さんを1000人というようにしていく必要があるのではないか。
 そういうお客さんを呼ぶためには、受け入れ側がそれなりに自分のところの魅力を高めていかなければなりません。待ってるだけではなくて、こういう風によくしてという、相互の関係がないとなかなかこういうことは出来ません。もうそろそろ、そのような考え方に立たないと、住んでいいというところはできない。
 住んでいいところは、訪れていいところです。そのときには、誰でもwelcomeではなくて、こういう人に来て欲しいということを、もう全面的に宣言をする。それに近いような人が来てもらえるような地域づくりをする。それが真の観光地作りではないかという風に私は思っています。

●「損して得とる」
 これは西伊豆のときにもお話しするかもしれませんが、観光町づくりなのに、協議会には観光業に携わっている人がほとんど参加してないんです。というのは、観光業にとって直接自分のところに利益になるような内容があまりないからです。だから特に大手のホテルの宿泊経営者とかはほとんど参加していない。
 これが大きな誤りなのです。今の観光業の人たちがすごく厳しい状況にあるというのは、この損して得とるという考えがないからじゃないかと、私は思います。
 こういう大手の宿泊業の人たちが、積極的に地域を良くするという形で地域の人たちと一緒になってやれば、地域の人たちからも色々な形で賛同を得るというか、協力体制ができると思うのです。
 そうすると知人が自分のところを訪ねてきたときに、あそこの旅館はすごくいいからぜひ泊まって欲しいとか、仲間うちや町内で宣伝しあえる。ところが多くの観光地は住民と観光業に関わっている人たちが背を向け合っているような感じです。ひどい話になると、あの旅館泊まらないほうがいいと町内でいうくらいの関係もあるんですね。
 それは得したつもりで損しているんじゃないか。もっと観光業に関わる人たちも町づくりに積極的に関わっていかないと、真の観光地にならない。そのあたりまだ観光業に関わっている人たちは認識が薄いという風に思っています。

●誰のために、何のために

 計画を長年、2年、3年と続けていくと、誰のために、何のためにやっているのかというのが、だんだん見えなくなってきます。最終的には、なんかハコ物をつくったりですね、そういう方向にねじ曲がっていく。だから、常に何のために、誰のためにやっているのかということをチェックする、そういう柱立てがすごく必要だと思います。
 これを見失ってしまって、結果としてやってはいけないことをしてしまっているという事例があちこちに見受けられるからです。そういうことで、小樽と東祖谷(いや)の事例をあげてみます。
 1980年代の小樽運河は、運河が利用されなくなってきたので、水が流れない。底にヘドロがたまり、生活下水も流れ込み、夏になるとハエや蚊がわいてきて悪臭もするひどい有様でした。たまらないので、なんとかしてほしいということになったのです。
 写真の左側に道路が通っているんですけど、これが朝夕に大渋滞。そこで運河を全面的に埋め立てして、道路にしようというそういう話が持ち上がりました。しかし、小樽にとっては運河が宝なので、これはちゃんと整備をして残すべきだと市を二分するような大論争が起きたのです。
 ちょうどそのときに私はシンポジウムに呼ばれて行ったのですが、聴衆の方から、東京から来た人に聞きたい、小樽の運河、埋め立てるべきかどうかという話を質問されたんです。私は、小樽はずっと運河都市を謳っていたので、もしこの運河がなくなったら、顔がなくなってしまう。小樽の顔、シンボルとして、残す方向でやった方が個人としてはいいと思いますということを、申し上げた記憶があります。
 結果はどうなったかというと、埋め立てが半分になり、半分を埋め立てて道路にして遊歩道をつけるという形におさまりました。
 いままで無用の長物だった倉庫も、人通りがあるようになったので、土産物店だとか、そういう形で活用されるようになった。これは2006年の写真ですが、これまで小樽はスキー場が少ないので、冬はオフシーズンだったのですが、こういう形ですと冬景色も魅力になるということですね。
 ここに来ているのは台湾からのお客さん。このツララと雪景色というのは非常に魅力だというのです。80年代にもしこの運河を埋めたていたら、冬のこの観光はたぶんなかったでしょう。
 小樽は危険状態だったんだけど、危うくやってはいけないことをやらずに、まあいい形で残したと私は思っています。
 つぎに東祖谷ってご存知ですか。文化財になっているかずら橋。いまは徳島県三好市になってしまいましたけど、西祖谷山村というところにあったんです。すごい秘境に懸かる橋、秘境ロマンというのがこのかずら橋の枕詞というか、タイトルでした。
 かずら橋は一方通行で有料ですので、向こう側から渡ってきます。ところがここは地形が厳しくて、大型バスが入らなかったんです。
 もっと大量にお客さんに来てもらうために駐車場がほしいということで、何をしたかというと、2006年2月にイベント広場と称してこういうものをつくりました。
 あそこの地下1階部分にライトがついていますね。これは道の駅です。そこから上まではぜんぶ橋桁、橋脚です。上と地下1階だけが駐車場。
 向こう側が旧来の駐車場だったんですけど、向こう側にはもう場所がないので、橋をかけて、こちら側に人工基盤を作って駐車場を作りました。秘境というイメージで来たお客さんはまず最初に、かずら橋を見る前にこの橋を渡って、向こう側に行くわけです。
 パンフレットには絶対にこんな写真は載りません。かずら橋だけです。秘境をイメージして行って見たらこういう状態。これでなにが起きたかというと、秘境じゃないじゃないかって。あまりにもクレームが多いので、ここをコースからはずした旅行会社もあるそうです。
 これは大きな勘違い。してはいけないことをしてしまった。小樽と対照的です。でもこの東祖谷のかずら橋に限らず、こういう勘違いで、大量観光とか、大型バスを入れるために、形だけ考えて道路とか駐車場を優先的につくってしまいます。
 観光ではこういったのがすごく多かった。その結果、自分たちのいちばん大事な観光のイメージを全部損なった。秘境ロマン、伝説の風景というのがもう成り立たない。
 でも、それに気がつかないというところが怖いところだと思います。そこに暮らしている人たちが、なぜここに多くのお客さんが来てくれているのかという意味をちゃんと認識しないからこういうことになってしまいます。
 そのためにはやっぱり住んでいる人たちが、ここの魅力は何なんだということを、自ら、魅力再発見じゃないですが、わが町再発見という形で認識しないと、こういう過ちは繰り返されてしまう。

●"食いつぶし型まちづくり"から"貯蓄型まちづくり"へ
 こういう間違いをしてしまったら、もう後戻りが出来ない。子や孫に自分たちの魅力はこういうことだということ伝えていくために、もう一度自分の住んでいるところの魅力を見直して欲しいという風に申し上げています。
 これはいわゆる"食いつぶし型観光"。先祖から引き継いできたものを自分たちの代で食いつぶしてしまう。それは大量観光というか、いま儲けたいという目先の利益のためにこういう間違い、大きな禍根をのこすようなことをやってしまう。結局、次の代に伝わらない。
 町づくりというのは、食いつぶし型ではなくて、貯蓄型、そういう財産をためて次の代に引き継いでいく責任があるんじゃないか。そういうことを全部念頭に入れた上で、じゃ観光は何なんだというと、そこに住んでいる人たちが、自分たちが住んでいるところはすごくいいところだと胸を張っていうところにこそ、よそから行きたいと思わせる魅力があるのです。

●観光地域づくりは「まちづくりの総仕上げ」
 余談ですが、最近、BSが入るようになってから、世界街歩きとか世界の都市の紹介をする番組が増えましたね。その中ですごく印象的なのは、海外の場合、どんな片田舎に行っても、お年寄りでもだれでもそこに住んでいる人が「ここが世界で一番」、「こんないいところはない」と、みんな胸を張って言う。だけど日本の街歩きでは、ここが一番、もうこんないいところないと胸張って言う回答をあまり聞く機会がないんですね。
 でも私は、最終的には世界の街歩きと同じように、日本の人たちも、こんないいところはない、うらやましいでしょう。だったらここに住んだらどう、というくらいのことを、住んでいる人たちが胸を張って言ってくれるような、そういう町づくりをしてほしい。
 それの第一歩という形で、みなさん取り掛かってくださいというのが、まちづくり、観光まちづくりだという風に思っています。

2.西伊豆町の例
<経緯>
 そういう中で西伊豆町への関わり方なんですが、私が西伊豆町に最初に関わったのは、1980年代です。今の担当係長が子どものときとか、20代くらいの人たちはまだ生まれてない、それくらいから関わらせてもらっています。
 それが縁でお話があったわけではなく、静岡県では「まちづくりアドバイザー」の人材登録がされていて、それで人材バンクから検索をして、面白そうなのがいるということで、お声をかけていただいたらしいんです。
 もともとここの「夕陽のまちづくりマスタープラン」というのは、他のコンサルタントの方がやってらしたんですが、計画相半ばでその方がご病気で急逝されてしまった。誰かそれを引き継ぐようにという形でお声をかけていただいたんですけど、そのとき見せていただいた前任者の計画は、どちらかというとハコ物主体だったんです。
 それで私は、これだったら引き受けられないと言ったら、もう決まったものはやるしかないけれども、それ以外の工事着工という形になっていないものに関しては、白紙に戻してもいいというお話だったので、引き受けさせていただきました。

<アドバイスの基本的な考え方>
 まず広い意味での観光地域づくりだから、住民の人たちが関わって、住んでいい町づくりが、そもそもの目標だというご説明をさせていただきました。ハードよりもソフトだと。
 住民主導でやる。まずここに住んでいる人、ここにあるように5つの地区の方たちに、自己紹介も含めて色々な話を聞かせていただきました。

●宇久須
 そのときの宇久須での藤原先生の自己紹介が、ものすごく印象的だったのです。区長の推薦で選ばれたという形で、委員の方たちが集まられていたんですね。
 そこで藤原さんは「観光計画なのに何で俺はここにいなければいけないんだ。自分は無煙炭化器で炭をつくって、休耕地を何とか再生させるということを主にやっているから、観光の方には関係ない」という自己紹介をされたのです。
 他の人たちは、今までの祭りとか、イベントをやって人を集めたいというのがすごく多かったんです。
 しかし私は、イベントは住民が元気になるきっかけにはなるけど、地域振興にはならない。観光客を多く呼ぶ助けにはならない。だから、イベントに時間とお金と知恵を出すより、もっと違うことにエネルギーをかけたほうがいいんじゃないかと思っていました。
 藤原さんの無煙炭化器というのはすごく面白そうで、それは何ですかということでお聞きしたら、すごくいいことをやられている。それをやることによって、地域の人たちが固まって、住民の交流が出来てくる。そういう体制ができればイベントにつながってくるでしょう。住民が楽しむイベントにつながってくる。
 それがイベントが先ですと、交流も何も生まれない。だから、こういうのがあるんだったら、無煙炭化器を核の一つにしてやられたらどうですかと勧めたら、イベントを考える人たちと、農業を考える人たちとは意見は相容れないという。
 だったらグループを2つに分けておやりになったらどうですかということで、それぞれ興味のある人がグループに分かれてやることにしました。
 そうしましたら、すごかったですね。町でもあそこまでいくとは思わなかったというくらい、新聞に取り上げられる頻度が多くて。山口さんという担当者の方が、もっとマスコミにPRして取り上げてもらえれば注目が集まるからと、ちょっと戦略的にやらせていただいたこともあるんですが。それによって住民の意識が変わってきた。
 広い意味での観光とは、そういうことなんです。そこで培われた産業とか、住民の活動とか、そういうところに芽を見出して伸ばす、そういう活力のお手伝いをさせていただくのが、この観光地づくりのアドバイザーとしての私の役割。これが宇久須です。

●安良里
 安良里(あらり)はイルカ漁とか漁を主体にやってたんですけど、もうほとんど漁はやめて、漁師さんはほとんどが年金生活。産業としての業はない状態でしょうね。観光資源もない。だから自分のところは観光振興なんかとは全然関係ない。やる気全くなしというか、協議会に出てもなにかひいているような雰囲気だったですね。
 それぞれ何をやっていましたかとか意見を聞いたとき、安良里の海岸は昔、アサリがいっぱいとれた。ところが最近、浜が死んでしまって、アサリが全然でない。そこにもう一回、アサリを復活させて、孫と一緒に潮干狩りで来たらいいんだけどというんですね。
 そこで、じゃあアサリ復活作戦やってみませんかということを提案させていただいた。海の環境を考えるとか、そのときに出来れば、引退した漁師さんの知恵もいろいろ借りるような形で、アサリ復活作戦をやられたらどうですか。
 最終的には、もしかしたら、潮干狩りでよそから人が来るようになるかもしれません。とりあえずは、自分たちの子や孫を守るために、かつてアサリとりができた浜をもう一回復活させましょう。
 これは観光のためといったら、たぶん参加者はいなかったでしょう。子や孫のために、自分たちのためにやるんだということだから、今のように注目されるようになった。全員というわけではありませんが、続いている方ではないかなと思ってます。

●田子
 それから3つめの田子地区。ここはカツオ漁をやっていたところです。
 いま一生懸命やってるんですがまだ動いてなくて、みなさんにも協力をいただきたいなと思っているんですが、カツオですから塾、田子塾をぜひ開いてほしい。これは観光客用じゃなくて、住民、住んでいる人とか子や孫のための塾。そこで、かつてカツオ漁にでた漁師さんがまだ何人かいらっしゃるので、その人たちにぜひ経験談を語ってもらいたい。
 あと模型船です。漁船の模型をかなり精密に作るグループがあるんです。その人たちに、漁船の役割とか、そういう模型をベースに話をしてもらう。そういうことをいま投げかけています。

●仁科
 それから仁科。ここでは住民のためのマップづくり。仁科は堂ヶ島があるので、観光マップはあったんですけど、面白くない。住民の人たちもほとんど見ていない。自分たちが歩く、それから子や孫に説明するための、自分たちのために資源マップづくりをしたらどうかということで勉強会を開いたら、かなり力がはいっていいマップができました。
 それらがきっかけになって、町なかに空き家になった個人病院があるんですけど、そこが住民が集まる拠点の集会所になりました。みんなが集まる集会所に使わせてほしいということで、住民同士で話をつけ、無料で借りることができました。
 お奨めなんですけど、もし西伊豆に行かれることがありましたら、あそこの町役場の近くに「大見世」という屋号の文房具屋さんがあります。文具屋さんの中に、お弁当をつくる厨房がついている。もともとは子供用のおやつをつくるカキ氷の店だったらしいんですけど、お弁当をつくったりするようになった。役場の人がお弁当を買いに来る。すごく面白いところです。
 何がいいかというと、ここのおばさんたちがすごくおもてなし心というか、行き届いている。文房具に囲まれながら、テーブルに座って、お茶をごちそうしてもらいながら、そこで買った弁当が食べられるという、すごく面白いところです。大好きですね。
 私は西伊豆に行くと。必ずお昼はそこで食べるというようにしています。そういうものも、観光なんですよね。

●大沢里
 問題は次の大沢里(おおそうり)。ここは山彦荘という役場の宿泊設備があるんですけど、ここも私からいわせると、耐震性工事のために昔のいい学校のイメージをすべてなくしてしまった。せめて外装は残すべきじゃなかったかと思うんですが。
 それは大きな勘違い。なぜあの学校の雰囲気にひかれてお客さんが行ったのかということを、担当者がきちんと理解してなかった結果、ああいう形になってしまった。私には全然魅力がない、二度と行きたくないといっているんですが、そのような状況です。
 そこを核に地域振興したいといってるんですが、もう動いてくれるメンバーがいないんですね。協議会で集まってもらっても、ほとんどが70歳以上。
 私が関わっている間は、出来るだけ新聞、たより、いろんな形でそれを伝える機会を作り出して欲しいということで、年に1回は町長も含めての協議会の報告会を開いてもらっています。
 そのときには、協議会の委員だけではなくて、関心のある住民の人全部にお声をかけて来てもらう。この活動の中身を知ってもらう。そこで、なんとかだよりをそれぞれの地区ごとに出そうという形までいったんですが、担当者が変わったため、とくに課長が9割方が異動してしまったので、今は大変難しい状況にあります。
 (会場から、「ことしから広報西伊豆の裏のところに、各町づくり協議会の写真とこういうことをやってますよというのが載るようになりました」との声)。
 残念なことに、そういう報告もない。本来だったら、そういうものも適宜送っていただければ、いろいろいえるんですけど。アドバイザーとしては、あまり押し売りとか押し付けはしたくないんですよ。自主的にという形でやっていきたいと思っているので、いずれにしても、一応任期はまだ今年度いっぱい残っているので、いろんな形でかかわっていきたい。

<課題>
 こういう状況なんですけど、そういう中で課題として、観光は観光業に関わる人たちだけという形を払拭して、全住民に実際に活動しなくてもいいけど、関心はもってもらう、そういうことをいかにしたらできるかということを課しています。これが課題1。
 それともう1つの課題は観光関連業者の関心。
 大震災以降、日本全国的に宿泊業も壊滅的。こういうときこそ、もっと住民の方たちと観光業の方が連携協力していかない限り、観光業も難しいと思うんですけど、なかなかそういう形にならない。そこをどういうふうにしたら連携できるかというところを、もう少しやってみたいと思っています。しかし、観光業の方だけに、勉強会じゃないけど、ちょっと声をかけてほしいといっても、なかなか実現しないのが実情です。これが2つ目の課題。

<キーワード>
●楽しそう、うらやましい、参加しないと損
 いずれにしても、協議会の活動は楽しそう。うらやましい、参加しないと損という、そういう雰囲気作りをいかにそれぞれの地区でやっているか。あと、誰のため、自分のため、それから家族のため、子や孫のため。それが柱にないと、義務感では長続きもしない。
 とくにこういう会の場合、上意下達というか、役場の方で企画して、住民にお願いとかやってくださいという形が多いんですが、それだと役場の姿勢が変わったり、お金がつかなくなると、金の切れ目は縁の切れ目で、事業もなくなってしまう。

●誰のため
 まちづくりってものは、2~3年で出来るものではないので、初めは上からであっても、これからの活動そのものは、住民から行政にという姿勢を貫かないかぎり、いいまちづくりはできません。
 いまの夕陽のまちづくりアドバイスも、事業費としては今年度で多分終わりになると思うんですが、住民主導でまちづくりという形で動く限り、いろんな補助金というか、いろんなお金は確保できるはずなんですよ。
 こういう風にやりたいので、これに対して何か援助をしてもらえないか。この部分までは自分たちで出来るけど、これについてはどうしても行政に手伝ってもらわないと出来ないので、この辺少し手伝ってくれということを住民から持ち上げる。これが長続きの秘訣です。

●義務感では長続きしない
 これをやらない限り、事業費がついたからこれをといっている限り、全部単発で続かない。でもそうやっていると、いいまちづくり出来ないし、最終的に、いい国づくりも出来ないんじゃないかなと思います。そういう形で、主体的に動く目線を持ってほしいということを、つねづね協議会を通して住民の方々に申し上げています。

●高齢化を「問題」から「宝」に
 大沢里もそうなんですが、最近どこでも高齢化というと、「問題」をつけるんですよ。「高齢化問題」。でも高齢化は問題ではなくて、寝たきりになるから問題になるのです。年を取ることは、逆に素晴らしいことです。だから高齢化に「問題」を、高齢者自らがつけないで欲しい。
 高齢化は素晴らしい。元気で長生き、生涯現役という形である限り、いくつになっても関係ないと思うんですよね。
 徳島県の上勝町のように、80歳でも葉っぱを売って元気で働いている。パソコンを駆使して何億円て稼いでいる町がありますよね。マスコミにも出た。あのときには、「問題」がつかないんですよ。
 そういうことを、西伊豆町でも考えていい。元気なお年寄りがいるということは、それだけ経験を積んだ知恵の宝があるということです。さっきの田子の漁業にしても、経験とかいろんな意味での知恵の宝であるという捉え方をして、もう少し60歳以上、あるいは70歳以上の方の知恵を借りる。そういう人たちの協力のもとにまちづくりをしていくという、高齢化問題の「問題」を取る考えをする必要があるんじゃないかなと思います。

●他力
 それから最後、他力です。上田先生のような立教大学のグループの方、それから東海大学の関先生。
 関先生とも長い関係なんです。先生がたまたま東海大学におられたので、だったら海の事に関しては東海大学に何とか知恵を借りたらいいんじゃないかなと考えました。とくにアサリですね。海を再生するというか、浜を再生するにはやっぱり専門家の意見を聞きたいということで、東海大学にお声がけをして関さんの協力をあおぎました。
 そうしたら、関さんはフィールドワークの場としてすごく面白そうだということで、イルカ漁の調査研究に研究生を送り込んでくれたり、卒論のテーマに上げてくれたりしてくださった。
 これがすごく地域づくりには大切なんですね。職場を提供して若い人を入れるというのは、まず無理です。それよりもメンバーは変わるかもしれないけど、学校とのつながりによって、常にい色々な若い人が地域に入ってくることが大事なのです。
 そこでいろいろな情報交換があり、住んでる人たちも新たな情報が入ったり、自分たちが情報提供という形で役に立つ。そういう相互交流の中で活力が生まれる。
 でも行政が考える地域活性化とは、人口増とか、若い人を住まわせるとか、すぐそういう形になるんですね。でも職場がない限り、そんなにすぐには出来ないので、まちづくりに大学の力を借りるという形で、ものすごくお世話になった。
 逆に言うと、私はこれが西伊豆町の一つの方向性の鍵になるのかなと思います。出来れば私は西伊豆町に限らず、松崎とか西側海岸にずっと広げて行きたい。行政としては西伊豆町のお金で菅原を呼んでいるので、あまり松崎とか、いろんな所に行ってもらうと困るということなので、この事業からはずれたら、思い切り松崎とかいろんなところとの連携を持とうかなと思ってます。いずれにしても、狭い中で自分のテリトリーという形でやっているようなものではないんじゃないかなという風に思ってます。
(2012年6月30日)



宇久須宿舎を閉めました

2012-10-15 14:15:33 | 日記
 GEN関東ブランチ宇久須宿舎の管理人の藤原です。
 契約期間が終了したため、宇久須宿舎を閉鎖しました。

 浄化槽を抜き取り、代わりに水を入れ、LPGのボンベを
撤去し、水道と電気を止めました。
 鍵は東海工業に鍵の返却してきました。
 1つだけ忘れていたことがあります。机の返却です。
右肩に2回メスを入れているため、一人で2階まで
持ち上げる自信が有りませんでした。
 とりあえず、宿舎に置かせていただくように御願いを
してきました。

 「何も無い」と思っていましたが、都会の方から見ると
魅力的な面もあるようです。来年さらに広がると良いなと
期待しています。(F)