西伊豆(宇久須)だより

山・海そして里が広がる西伊豆町。都会の喧噪を離れて、一緒に豊かな自然、健やかな社会とは何か、探っていきませんか?

座談会「海を知る」(2)イルカ漁の体験談

2012-10-30 23:35:09 | 日記
 座談会「海を知る」(1)「命のつながり」はこちら(http://blog.goo.ne.jp/gen-ugusu/e/5b5abd0bff930f805699568551a4a83f

 ――司会は東海大学海洋学部の関准教授の方からよろしくお願いいたします。

  みなさん今晩は。東海大学の関と申します。私はずっと日本中の漁村を調査して回っています。東海大学に来たのは2009年で、その時この西伊豆の町づくりアドバイザーになっている菅原先生から、せっかく静岡に来たんだから若い人を連れてどんどん西伊豆に入りなさいといわれて、それでちょくちょくお邪魔するようになりました。



 西伊豆に来ると、カツオの一本釣りの歴史があったり、いまのお話のようにイルカ漁の歴史があったり、ものすごく面白いところだなあと思い始めて、年に何回か学生を連れてお邪魔しているところです。今日はイルカ漁を体験してきた皆さんに当時のことを、お話ししていただきたいと思います。伊豆半島はもともとイルカ漁が盛んなところで、川奈や稲取、田子、安良里、土肥などの地区で組織的に漁が行われていたという記録もありますし、いまでも伊東の方で、定置網なんかにイルカが入ったりするそうです。

 今はイルカが網に入ると、海外の組織の方などが見回っておりまして、網を切って逃がしてしまう。そういうのが現状なんですね。イルカが捕れても県の方では、放すようにという指導をしているようです。ですけど、例えばイルカの組織的な漁をするということが、村の結束をつくりあげ、それが村の生活様式にも影響を与えてきたということがあります。供養碑にしても、イルカを捕獲し、生活の糧とし、そのことに感謝する、という一連の行為が、まさに村の文化の形成につながっていることの象徴といってもいいと思います。このようなくらし方が、安良里という地区をつくってきたのではないでしょうか。今日はかつてイルカ漁にも参加した4人の方ににご出席いただきます。みなさん経験に基づくお話をいっぱい持っていらっしゃいます。会場の方もどんどん質問していろんな話を引き出して行けたらなあと思います。
 それでは、まず4人の方に、自己紹介していただきます。



 宮崎昌雄です。
 高木樹(たづる)です。
 84歳になる鈴木(吉久)です。北は国後、択捉、南は硫黄島以南、朝鮮の済州島、東支那海のサバ漁を40年間勤め上げまして、勇退した鈴木でございます。
 高木吉之助と申します。88歳です。イルカ漁から遠洋漁業で、済州島から国後島近くまで、40何年間漁をしました。

  今日は写真が沢山用意されてます。当時の写真が沢山地区に残っているんですね。さっそくですけど、写真を使いながら、当時のイルカ漁がどんな様子だったのか、どんなことをみなさんは役割としてやっていらっしゃったのか、お伺いしたいんですけど。

 宮崎 私たちの時には、若い衆制度というのがありました。学校を卒業すると大体12,13歳くらい。それからイルカ漁を始めましたけど、たいがい若い一番入りたての人たちは皆、寒中に海に入って、イルカを担ぎあげてくる。それから年寄りの方ですが、カギやなんかでイルカをひっかけて、腹を割って血を抜いて。
 いま考えてみると、とても可哀そうなことをしたと思うんですが、イルカがきーきーと泣くんですよ。当時はお腹も空いてたもんだから、浜で腹を割ってすぐに火にくべて、わたを焼いて食った。そんな思い出がございます。

 高木樹 イルカ組合というのがたくさんありまして、1組から10組だとすると、全部の船が出るというわけじゃなくて、今日は1組2組が出ていく、きょうは5組が出てと、船で待機したんですね。港の入り口に弁天島というのがあったでしょう。そこに安良里の言葉で、崖端(がけっぱた)というのがあるんです。その崖端から50メートルくらい北の方へ、監視所というのがあった。そこで年をとった役員さんが5、6人、双眼鏡を見ている。船がイルカを見つけるとすぐ、マネというか旗をたてます。そして今度はすぐ崖端の方へ旗を立てたんですよ。村の人はあそこにマネが立ったから、イルカを発見したぞといって、今度は村の中にみんな、船の人は一斉に出て行って、イルカを包囲する役割というか、そういう決まり事があったですね。
 船は船で見回ってるけど、マネがいつ立ったかというのは分からないから、その監視所の人が見て、あそこにマネが立ったのを見たぞというので、すぐ崖端のところへ飛んできて合図をしたんですよ。

  まさに連携プレーですね。

 鈴木 イルカ漁というやつは、当時は櫓(ろ)船でした。高木さんが言ったように、大磯のところに、マネといって旗が上がるんです。それが1枚の旗の場合は50頭~100頭前後、2枚マネが上がった場合は、200頭以上位、500頭以上の時は、船のともに1枚表に2枚旗を揚げた。動力船は焼玉エンジンだったもんで、ある程度焼玉がマッチをつけてパっと火がつくくらいにならないと、エンジンがかかってこないんです。いまのエンジンはジーゼルエンジンだから、キーでそのままやるんですがね。それで櫓船のようです。

 私の記録の載っている本によりますと、明治4年に1300頭、それと明治19年に1月19日、600頭余りの記録があって、これはイルカというより、ゴンドウイルカじゃないかと思うんですがね。それは約1カ月位かけて水揚げしたそうですね。その最後の一匹は食べるものがなくて、草鞋(わらじ)を食べていたそうです。そのくらい腹が減っていたみたいです。

 それであとは、一番とれたのは昭和17年。当時私は国民学校高等2年生だったもんで、ちょうど海側の方の校舎にいると、2回マネがあがると、全速で行くもんで、一斉に音がする。鈴木しげるという先生が、音すれば一度に動く、がす頭といって、くまたかもらったくらいです。ですから最盛期は昭和17~18年。

 それでなんでイルカが回遊してきたのかなと思ったら、そのころは、アリューシャンでぽっかん、南の方でぽっかんて爆撃があるもんで、それで避難のために来たんではないのか。普段はイルカの漁というやつは、専属でなくてただ、磯に出て櫓船で漕いでいった衆がマネを上げて。安良里の場合は、艫(とも)のほうに一枚マネを上げるんです。土肥、田子あたりは表とか、胴の間だとか、各村でサインがありましたね。

 それからいまイルカが回遊しない理由は、駿河湾の前を商船あたりが頻繁に行き来するもので、こちらの方に入って来ないのかな。さっきイルカを十何頭かなんか追い出したというのは、そのたまたま1隻か2隻で見てマネを上げて、ほかの船を呼んでそれで5隻か6隻で追い込んだ。(展示の)真ん中の写真は旧浦上です。いまは水門ができて地形が変わりましたが。当初のころは浦上が主な水揚げでした。戦後になりますと、鮪浦(しぶら)という供養塔のあるところで、捕ったわけですがね。
例えばさっき高木さんがいった、なんばいもの船がマネ(旗)をあげると、朝早く出て当番船が5番まで、水揚げの2%は報酬として、1番船から5番船まで。総水揚げの2%が見出し料としてもらう。

 高木吉 3番までだと思ったがね。

 鈴木 いや本によると5番だね。

 高木吉 たしか1番からとって、2番からだんだん半々半々。それだもんで、稼ぎになるからみんな一生懸命で探したわけですよ。さっき鈴木さんからいったですけど、昔はほとんど浦上でもやって、いまの明治16年の供養塔は浦上にありました。私が、若い時分にあそこが崩れたもんで、いまの鮪浦へもってきたんです。ちょうど浦上にあるあれは、私がちょうど十何歳のときで、あそこを掘って埋めたのを記憶しております。

 私は海の近くなもんでよく見ておりました。いま鈴木さんが言ったゴンドウイルカのたくさん入った時は、これはイルカの5倍位の大きさで、まご婆さんに走れと言われ、細い道をみんなと行った記憶があります。いろいろそれから長い年月にとれたと思いますが、若いうちは、捕ったイルカを小船に乗せていって運搬役みたいに運んだ。なかなか時間がかかって寒かったという記憶がありました。

 関 私はここにきて初めてイルカを背負っている写真を見せてもらったときに、最初はなんの写真かわからなかったんです。みんなイルカの着ぐるみを着ているように見えてしまって、これはなんだろうと思って話を聞いたら、背負うとおとなしくなって、というのを聞いて本当に衝撃的だったんですけど、実際に皆さんもイルカを背負っていかれました?



 鈴木 はい。重いっていうよりも、海の中で案外軽いんです。それと私が経験したイルカの愛情の形、ていうのがちょっと話したいと思うんですが。沖へ行って、小笠原あたりにいって、おい、おかずがなくなったじゃない、一本イルカでも突いて、捕ろうか。じゃあ、捕らっしゃい。それで突いて揚げてくるわけなんですが、一匹のモリでつかれたイルカに他のイルカがおしかぶるんですよね。(幾重にもイルカが重なって、捕獲されたイルカを守ろうとする行為)
 だからそういう状態を、子供が腹にいる人には見せたくないという、そういう逸話もあります。わたしは実際そういう現場を、見たことがあります。

 関 仲間を奪われまいとして。

 鈴木 助けるというか。そういう行動を見ました。

 高木樹 イルカは海で亡くなった人の代わりではないか、というようなことをちょっと聞いたことがあるんですよね。というのは沖で走っているときに、イルカが自分で船に寄ってくるんです。逃げないで船と一緒に走るんですね。それだから、海で亡くなった人の身代りじゃないかという話を聞いたことがあります。船に寄ってくるから割と突きやすいんですよ。

 関 切ないですねえ。そういうことだから供養塔につながって。

 鈴木
 ええ。浜施餓鬼はそのためにも、水死した人、遭難した人のためにも、浜施餓鬼は伝統的にやっております。

 関
 いまもやっていますか。

 鈴木 はい。いまは自治会がやってるんですがね、昔は若い衆が松明の大人がひとかかえ位の大きなやつを燃やしたね。それで、暗くなると清水の方から見えたそうです。人間には108つの煩悩があるから、それを消却するためと、イルカの供養とか水死した人の弔いながら、施餓鬼というやつはいまもやってます。

  イルカというのは非常に組織的な漁をしていたというのがすごく面白いと思うんですけど、そのポジションによって、報酬というか、分け前がちょっと違ったりとか、たぶん皆さんは、実際イルカ漁を経験されていたのは、かなりお若い時だと思うんですけど、若い衆の報酬というのは、背負って水揚げしたりするわけですから、そういうなにか特別の報酬というのはあるんですか。

 鈴木 分け前のことをシロっていいますがね。1(ヒト)シロ、2(フタ)シロ、そういう呼び名でした。だから若い衆シロ、本シロと見出し料シロ、まあそういう組織になってます。それで網シロ。船シロ。
 さっき、見出し料は2%で一番船は25%、3番船までが12.5%、残りの1.2%を5番までがシロわけしたみたいです。

  報酬もそうですけど、イルカの肉を集落のみんなで分けるということはありましたか。

 鈴木 ありました。それはやはり、何組かに分かれているもんで、それぞれの代表に分けたわけです。昭和17年くらいのときには、出征兵士の方の家にもイルカのシロを分けたんです。それと後は無線長とか、機関士の場合はイルカ組合の資金から、後の人材を育てるために、そういう支出も私らはいただきました。だからちょっと前までは、イルカ組合から、その残金があるわけで、それを弔い金として、金一封を渡した風習もありました。

  まさにイルカがとれる地区全体が分け前をもらって潤うという仕組みですね。

 鈴木 船にいた人は1シロ。あとは、年寄衆は、たぶん60%から80%くらい、老人にも、われわれみたいのにも、80歳以上の人は、カギを借りて見てるだけで配当した。

 高木樹 参加すれば、ここは全員に行き渡るんですね。

 高木吉 参加すればひとシロはもらえた。顔を出しても1シロ。

 鈴木 私は安良里の歴史をかなり研究してるんですが、原始共産制っていいますか、イルカの恵みによってこの地域が全部潤うような、そういう組織だった仕組みもあったようです。

 関 肉自体をそうやって分けて、この安良里の地区の人たちは、イルカをよく食べていた時期があると思うんですけど、どんなふうな料理で食べたのですか。

 鈴木 臭みを抜くために味噌で煮たり、あとはタレといいましてね、イルカの肉を薄く切って塩漬けにするとか、いま商店あたりで売っているのは醤油漬けでゴマぶきのやつ、これで当時、昭和19年ごろですかね、岡崎航空の予科練がここで穴掘りといいまして、舟艇を格納するための穴を掘ったんですよ。それで、食保所から出る食事では足らなくて、各家で脂を取ったあとの皮を、みなさんひもじいから食べたということもあっただろうし、まして飛行機乗りのは場合、イルカの皮をうまくのばすと、防水の効果があったみたいです。そんな話もききました。

  きょうは地区の方もかなり来てらっしゃると思うんですけど、やはりイルカ料理で懐かしいものとかありますか。

 高木樹 イルカは捨てるところは骨だけだね。私らが小さいときは、囲炉裏ばたがあったんで、そこで焼いたもんだね。イルカのわたなんかはね、大腸とか小腸は、裂いて乾かしてスルメみたいに、温灰(ぬくばい)ってあるじゃないですか、火の残り灰、温かいの、そこでスルメを焼くみたいに焼いて食べたんですよ。だから、捨てるところはほとんどなかったですね。

 鈴木 それで高木さんがいった小腸あたりは、主に水揚げ港は沼津港、清水港。でもって臓物まで全部送ると焼き鳥屋で、焼き鳥にして食べたそうです。それでみなさん、ご存知でしょうかね、終戦後の10円札、国会議事堂を鎖で巻いた10円札。当時は1万円とかいう高額紙幣はなかったもんで、10円札がつまった一番大きな行李(コリ)を若い衆が担ぐのに、よいとこさというほどで。それだけ金額が多かったもんで、札束がぎっしりつまった行李を担いだ記憶があります。

 会場 リンゴ箱ですね。

 鈴木 当時は1万円札とかなかったんで、100円か10円でね。そういうお札があって、私は担いだ覚えがあります。それが水揚げ料。

  それをみんなで分けて。豪勢ですね。

 鈴木 豪勢でした。ですから昔新築する家は、漁師でなかったらだめですね。そういう時代があって、おそらく水口さんあたりの役場の初任給がいくらかというと、漁師の収入の方が多かった。一次産業が多くて、学校の先生や、役場員は1カ月に3万円かそこいらで高給取りのときに、私らはそれ以上の収入があった時代でした。

 水口 私は役場に就職したわけですけど、昭和36年の初任給が7400円でした。その当時は漁師の方は夏と冬の2回、水揚げから分け前をもらう勘定をするわけです。たぶん私の場合せいぜい10万円ですね。漁師さんは30万や50万はあったんじゃないですか。私も正直、そろそろ役場をやめて、漁師になろうかと真剣に考えたことがあります。漁師の方は中学終わると3年くらいで一人前もらえるようになりますので、ちょっとうらやましく思った時がありました。

 高木樹 3年で一人前。



 宮崎 2年まで8分。それで3年目に初めて一人前いただくようになった。

  すごいですね。3年で一人前。そのころの漁業はイルカ漁は専業ではないんですね。違う漁をやってイルカが来たときにイルカをやるということですか?

 鈴木 イルカはボーナス。本業をやって、1月から3月ごろ漁期があるもんで。早く言えば、イルカ漁のお金はボーナスです。

 高木樹 12月から3月まではここは海が荒れますからね、その時分は船も小さかったから、沖にも出れないもんで、その手間賃というか、手間でやったんだね。

  普段の本業のほうの漁業というのはどんなもの?

 高木樹 カツオ漁とか、むろ棒受。

 鈴木 ここは棒受発祥の地、いまサンマ漁をやってるあの漁業は伊豆から発祥した独創的な方法で、魚を取ったといいます。

 関 じゃあ棒受網というのはここらへんから、八丈島とかあっちの方に伝わったんですか。

 鈴木 八丈島まではいかないけれど、この西伊豆あたりがいちばんかなり、小さい漁船でアジをとるとかなんとか、それが発祥でもって、いま全国的にサンマ漁をやっている棒受網、それは伊豆が発祥のように思います。あとはカツオ漁の、あれは紀州の勝浦あたりからカツオ漁あたりのばけといいますか疑似鉤、それなんかも開発して、それが伊豆に定着したですね。ですからイルカ漁は1月から2月くらいの、ほんのカツオ釣る前の、本業でなくてボーナスみたいなもんです。

  ということは、ボーナスのイルカ漁以上に、カツオとかでもうけ(収入)てきたということですね。

 鈴木 はいそうです。ですから三宅島、御蔵島、そこらへんではムロアジをとりにそこらまでいって、八丈までは行った覚えはないんです。ですから、いま全国的にやっている棒受網漁は、伊豆が発祥の地です。

  そこらまで行くということは日帰り操業はできない?

 鈴木 御蔵島を夕方、まく(帰途にむかう)というか満船で、帰るときには朝方6時くらいに戸田沖ぐらいでした。それで沼津港に入港したんですがね。カツオ漁もいまいったように、海流の変化ですか、いまは駿河湾に全然入らなくて、昔は沼津の魚市場は日本全国一カツオが早かったというんですがね、いまは房州の勝浦とか気仙沼とか石巻あたりとか、そっちの方にカツオは移動していくし、この駿河湾には来てもチョットだけで、海流がそれて、全然寄り道しません。

  イルカが揚がって解体する時には、その専門みたいな人はいるんですか。

 高木樹 ここの漁師がやってるんですよ。
 
 鈴木 自分たちがやるんですが、背負うのは一番下の方なんです。若い衆で。それで短刀でとどめといいますかね、昔は左の心臓のところを刺したんですが、近年は喉の頸動脈を切断しましてね、それから腹を捌いて。そうすると、妊娠しているイルカがあるわけですよ。かなり大きい、このくらいの大きさ(70センチ位)で、腹を見るとわかるんで、これを若い衆がサッと腹を裂いてやって、臍の緒を切って、そのまま放してやると泳いで行ったというような経験もしました。イルカの場合は我々と一緒で、肺もあれば、心臓もあれば、レバー、小腸、大腸全部あります。

 宮崎 早く頸動脈を切らないと、血が回ってしまうと、肉質が落ちるものだから、揚げたてのときに頸動脈を切って血を出す。いかに早くそれをやるかですね。イルカも苦しまないで済みますからね。

 鈴木 伊東あたりのやり方は、網をかけて陸へ上げるので、イルカがもがき苦しみます。ところが、安良里の場合は、イルカが苦しまないように一気にさしてすぐ血を出してしまうから肉質がいいんで、市場へ出しても金額は、伊東なんかよりも相場がよかったです。

(ここで20分間休憩)

 三矢  私は7月の20日の海の記念日にNHKラジオの深夜便を2晩続けて聞いたのですが、その中で家が倒産しかけてどうしようかという心境のときにイルカと会った。そのイルカと目を合わせて、イルカが自分に近づいてきたとき、あのうるわしい目、可愛い目を見ることによって自分の人生を変えたという、こういう一節がございました。今晩こういう機会がありましたので、そういうご経験があられましたら、教えていただきたいと思います。

 鈴木 イルカ捕りやっていてね、終戦になったもんですからね、自分たちが生きるということの方に重点があったから、たぶんそうイルカと目と目が合って会話したってことはたぶんないじゃないかなあと私は思いますけど。

 西宮 これは自分が安良里いるかの会を開いたきっかけにもなるんですが、もう亡くなった主人の父親がイルカ漁をしてまして、小さな赤ちゃんと泳いでいる親子のイルカがいて、その赤ちゃんがどういうわけか、港の中で死んでしまったらしいんです。そうしたらお母さんイルカがその赤ちゃんを頭の上に乗せて、港の中をいつまでもいつまでも、こう泳ぎ回っていたというのを聞いたことがあります。そのイルカが涙を流していたというのを聞きました、また、お乳が出るもんでそのお乳をなめたところ、やはりべたべたした感じで甘かったそうです。

 鈴木 イルカ漁といいますと、イルカは先頭のイルカに後がついてくる習性があるもんで、追い込むときには右左に分かれて袋状にしまして、剣先という一番早い船が先に立って後はそれについていくんですが、やはり先頭をぶれないように安良里の港に行くように誘導しました。当時は弁天様の前が浅かったもんで、裏側を通ったわけで、多いときには坂本海岸(安良里の海岸の名前)へ、音に脅されて怖がって、そのまま干上がったときもあるし、そうなると乗っていた船の若い衆は、短刀でそこのところで早く血を出して処理したようです。
 イルカの場合は網屋岬を越えると湾の中が深いので、大海へ出たと思ってピョンピョン飛ぶわけですよ。飛ぶとそれを見物に行く。
 それで一番早く漁をしたのは1月2日。乗り初めという式があるんですが、当番船が見回りに行って、それでイルカが見えたというので、祝杯をあげるのを待って、イルカを追い込んで、後は港の入口を塞ぐ(口網)といいまして、そこのところから堤防に網をかけて、それで捕ったという経験がございます。

  時代背景を考えると生きるか死ぬかというところで、イルカを捕っていたのではないかなということを感じます。だけどその中で、人肌に背負うとイルカが大人しくなるとか、そういうことで何か単なる漁獲物ということだけでないイルカとのつながりがあったのではないか。

 会場の参加者 イルカ漁でたくさんのイルカを捕まえて短刀で腹をかっさしてやられるというのは聞いてたんですけど、そのときにやはり赤ちゃんを身籠ったのもいたんでしょうか。出てきた赤ちゃんはどうしたんでしょうか。

 鈴木 さっきお話したんですが、子供を持っている雌は桃色をしておりましてね、臨月になったらだいぶ腹が大きいわけですよ。哺乳類ですから人間と一緒で、やはり成長したやつは、そのまま港の中で出産するのもあるし、臨月になってくるのをそのまま腹を刺して、へその緒を縊って泳がせると、そのまま泳いでいった覚えがあります。

  そのまま放して、泳いで行けるんですか。

 高木吉 子供を連れた群れは、子供のイルカが追いやすいです。子供が多い群れは、たいがい逃げていかないですね。やっぱり子供をかばうもんで。



 宮崎 案外警備がなかった時代だったみたいというかね、イルカを発見するについて、私たちは小型だ、隣の村の船は大きかった。それをもって私たちが見たのを、田子なら田子の大きい船が、これはおれたちが見たんだという格好で、しまいには喧嘩。大きい方にはみんな石なんか積んできてね、こっちもしょうがないから鉄とか船に積んで隠して、のしあげていって、船頭吊るしあげたりね。今でいうと殺人的というか、けっこう入院させたりしたからね。熾烈な戦いをしながらやったというのは、当時が、食生活があまりにも悪く、お互いが生活もかかってますからね。

 鈴木 安良里の場合は天然の良港があるから、相場の上げ下げは時期を見てできるんですが、田子や土肥あたりは安良里の10分の1捕獲したかどうかくらい、終戦はね。

 関 地形的にも安良里が有利だったということですか。

 鈴木 はい、そういう面は漁獲高が上がる要因にもなってますね。

 高木樹 いったん港に入れ込めば、出ていかないから。ほとんど確保して取り込んだから、相場見ていつ揚げようということができた。

  巾着港の中が天然のいけすになるわけですね。

 高木樹 そうですね。

  1ヶ月くらいかけて水揚げして最後の一頭を揚げたとき、イルカがひもじくて草鞋を食べていたというのは。

 鈴木 それに餌をやるというわけではないんです。そのころからの話でいうと、ゴンドウクジラ。普通なら短刀でやるんですが、のこぎりで切ったみたいです。若い衆が竹やり、青竹の切ったやつを心臓に刺すと尾ひれで石をこう飛ばしていたね。なにしろ相当大きなもんで、何切れにもして小さくしたみたいですね。ゴンドウクジラの場合は。それとさっきあげてでた、さばっこやってる、あれは一頭残っていたやつは。私らもそれを経験しました。一頭、たった一頭残ったやつが港に住み着いた事もありました。
 それと捕り残しは若い衆にあげた。出荷もれというか、二匹や三匹いると、若い衆にお前らにあげるからと、小遣いにしてくれと、それで分けたもんですね。

 会場の参加者 イルカを背負って水揚げしたと聞いたんですが、感触てどうなんですか。

 宮崎 人肌と同じくらいじゃないかね、温度的に。だからおとなしい。水の中でも、ひれを持って背負うもんだから、だからうんとおとなしいですね。同じような体温じゃないかと思いますね。

 会場の参加者 ふつうの魚ってぬめっとした感覚があるじゃないですか。

 宮崎 ないね。かえって自分のほうから寄りかかってくるというような感じです。

 高木吉 展示の写真で一番上に背負っている仲間が、あれは私と同い年のやつ。

 宮崎 本当に柔和な目つきしているからね。お腹なんかなでるとね、目を閉じている。じっとして。呼吸ができる間はじっと陸で。

 会場の参加者 30年も40年もイルカを取らなかった影響というものは、どういうことが出ているんでしょうか。イルカがべらぼうに増えたとか。イルカの食べる種類の魚が激減したとか。

 鈴木
 さっきから私がお話したように、イルカが湾の中に入ってこないんですよ。なぜかというと、御前崎と伊豆半島の間を商船あたりが頻繁に通ってますんで、一応餌を求めて来るんですがそういう関係ではないですかね。あとはよくテレビでやっている、御蔵島の南側に、根付いたイルカがいるんですよ。わたしらも見たことがあるんですが。だから、イルカの漁そのものは、全然見れないというのが正確だと思います。

 関
 イルカ漁をやめてから、捕らないことでイルカが増えたんじゃないか、増えたことで、イルカが食べてしまう魚が増えて、人間がとる魚が減っちゃったりしたことはないんでしょうかということだったと思うんですが。

 鈴木 船頭といいますか、各組で組役があっていて、その最盛期のときには、駿河湾の奥(うら)の方と、外(二ヤ)の方へ3組位真ん中と、それで荷揚げ船といいますか、それがまあ出たんですが、昔はさっきいったマネが上がった方へ他の船が集まった。
 だから漁そのものは、わたしらはもう海に出ていないもんで、イルカが見えたという情報はたまに入ってきます。イサキなんか釣るときに、きょうは釣れないなというと、イルカ回しだよという話は聞くんですが、駿河湾そのものにはそんなにもう数的にいないです。

  イルカ自体がいなくなった。

 鈴木 おそらく交通量が多いから、彼らはそれを怖がって外洋の方へいった。

  イルカ漁自体が終わりに近づいたと同時に、イルカ自体が駿河湾からよそへ行っていることが重なっているということでしょうか。

 宮崎 もう一つは私の推測ですが、経済が発展して工場や家庭から流れる排水がいろいろ、化学薬品を使ったものを多く流している、海が汚くなった。そういう関係上、イルカの餌になる小さい小魚とか、そういうものが駿河湾に入ってくるのが少なくなったことも影響していると思います。たぶん鈴木さんから発言のあったような、経済の発展によって船の航海も、船も増えましたから、イルカは特に音に敏感な魚ですから、エンジンの音がしょっちゅうしていれば、入ってこなくなることもあるけど、海が汚れてイルカの餌になる魚がたぶん少なくなって来たんじゃないかなと思います。大型漁船での漁が多くなってきたりしたね。今は、ほとんど駿河湾にイルカを見ることがなくなりましたからね。

 会場の参加者 自分は地元が新島村なんです。いまの下田から船で1時間か1時間半位で行けると思うんですけど、当時の船でどのくらいかかるんですか。三宅島で漁をしたということですが、ここから当時どのくらいの時間で行けたんですか。

 鈴木 わしらは三宅をまいた(帰途につく)ときには、約7~8時間かね。

 高木樹 新島の近くは、私は棒受をやったり、カツオを釣ったりしたんですよ。5時間か6時間で行ったかなあ。

 鈴木 だから八丈島から本土まではちょうど私らの庭みたいなもんでしたね。

 高木樹 その時分、ほとんどの漁船は木造でしたから、スピードが7ノットか8ノットしか出なかったかもしれない。いまは鉄船とかプラスチックですから10ノットくらいは出ると思いますけどね。いまとはちょっと時間が違いますけどね。

 会場の参加者 昔は明神礁がきれいだったな。

 鈴木 きれいな島だったね、明神礁。

 高木吉 明神礁の噴火のとき、ひどかったねえ。もう軽石のこぶし大のが、海をいっぱいに流れて。

 高木樹 明神礁ってわかります? 明神礁という名前はね、四国かどこかのカツオ船(土佐あたり)が、海底火山が噴いたのを見つけた。明神丸という名前だったので明神礁という名前がついたんですけどね、そのときに私らもそこで、カツオ釣りをした覚えがあります。そして東京から学者とかのっけて調査船を出して。そのときはたぶんまだ明神礁は沈んでなかったんじゃないかと思うんですがね、浅くなったところがあるんですよ。その周りを探していたところ、また2回目のドーンとやられて、船のかけらも何も見つからなかった。

 高木吉 カツオがものすごく群がってましたよ。

 高木樹 私らもそこで漁をして、大体24時間かけて沼津へ荷おろしし、そしてまた戻って行ったら島がなかったです。私らが仕事をしているときに、硫黄が海上を流れてきてね。

 鈴木 沈没したのは海洋丸という調査船ですね。

 高木樹 ベオネーズ岩礁といって青ヶ島から、30マイルくらい南になるかね。北緯32度くらい。全然人の住めない、小さい島の塊ですけどね。そこから東へ10分くらい走ったかね。

  本当に話は尽きないので、こういう機会をこれで終わらせることなく、繰り返しもっていただけるといいなあということを感じています。イルカというものを一つの象徴にして、安良里のそれこそ生活文化とか、精神論だとか、環境論だとかいうところまで広がってくるんだなあといことをすごく感じました。これだけの宝があるということを、すごく誇りと感じていただきたいと思いますし、このことをきちんと伝えていくということの大切さということを私は話を伺いながら非常に強く感じました。今日はどうも皆さんありがとうございました。

(2012年9月15日 西伊豆町中央公民館)


座談会「海を知る」(1)「命のつながり」

2012-10-30 22:41:51 | 日記
 9月15日に西伊豆町中央公民館で開かれた座談会「海を知る」の記録です。



――ただいまから座談会「海を知る」を始めたいと思います。まず初めに安良里町づくり委員会委員長である、水口勝弘委員長の方からご挨拶申し上げます。

 水口 きょうは立教大の上田信先生、あるいは東海大の関いずみ先生の肝煎りによりまして、「海を知る」ということをテーマに座談会を開催することになりました。



 安良里地区は昭和30年代がいちばん元気があった時期ではなかろうかと思います。その当時は近海あるいは遠洋の漁船が24隻ありまして、それぞれ30人くらいの乗組員がありました。ですからそこで何百人という乗組員の方が働いていたわけです。人口も当時は安良里地区で2600人を超えていました。50年たったいま、人口は今月の町の広報では1300人と半分になっています。それにひきかえ65歳以上の高齢者は、50年前は200人くらいでしたが、いまは600人を超えております。

 人口は半分になって、高齢者が3倍。そういう状況です。温故知新という言葉がありますように、私たちの町づくり委員会も古い生活を知った上で新しい町づくりに取り組む必要があろうかと思っています。きょうは関先生の進行で会議が進められると思いますけど、よろしくお願いしたいと思います。

 上田 緑の地球ネットワーク関東ブランチの上田です。数年前から隣の宇久須で炭焼き、無煙炭化器というものを使って炭焼きをやっています。今回私がこういう形で企画を少し先に進めようという形で呼びかけをしたきっかけは、何回か西伊豆町の方へお邪魔しているうちに、この町そのものが非常に面白い魅力に富んでいるということを、だんだん発見してきたということになると思います。

 その発見を自分の中で膨らましていきたいという思いがありまして、一つのイメージとして、町づくり会議というものを使って、地元の人にいろいろなものをもうちょっと再発見してもらったらどうか。あるいは宇久須からきた私たちが、地元の魅力を教えてもらう場みたいなものを少しつくれればいいなということを思いまして、連続して座談会ということを何回か展開していこうということになりました。

 ことしの9月に宇久須の方で、「山を知る」というかたちで、山仕事をされている方と、林学の専門の方を交えて座談会を行いました。

 実をいうと西伊豆町に何回か来る中で、それぞれの地区の町づくり協議会がなかなか面白いイベントをやっていながら、それが隣の協議会の方にほとんど伝わっていないという現状を見ました。横をつなぐところで少しお役に立つことができれば、ということでこういう風な形の企画を展開しようということになっています。

 たまたまこちらに来たときに、関先生が東海大学の学生を連れて、この安良里や田子の方でイルカ漁その他についてお話をうかがう場に行き合わせまして、それがものすごく面白かったということがありました。もう一度じっくりと話を聞きたい、そしてその話をなるべく多くの方に聞いてもらいたいと思いまして、今回安良里で「海を知る」という形で、お話を聞く機会をもうけさしていただいたということになるかと思います。



 きょうはちょうど、アサリの再生事業ということで、アサリ部会の方で浜の清掃およびアサリの数の調査というのを行っていました。籠によってアサリが自然減のところもあるし、数は減らずに非常に大きくなっているところもあり、まだまだ知らないところが多いんだなということを思いながら、そういうことをより深く知っていく場みたいなものをつくって行ければというように思っています。

 ――座談会に入る前に、安良里いるかの会で「命のつながり」ということで20分くらいのDVDを用意してあります。これは平成23年12月に東海大学で、お魚利用シンポジウムというのがありまして、そこで初めて発表したものです。昔のイルカのことについてとか、供養塔についてとかところの説明も入っておりますが、安良里地区の皆様方にもお披露目しておりませんでしたので、本日、基調講演ではございませんけど、会長と会員から発表させていただきます。

 西宮美佐江 安良里いるかの会は、安良里地区の人たちが、戦前から戦後にかけての食糧難時代に貴重なたんぱく源をイルカに求め、それを克服してきたことに対し、イルカに感謝し、敬い、供養塔を建立した歴史を伝えていかねばならないという思いで、平成8年の5月に発足しました。

 安良里は伊豆半島西海岸の中央に位置し、黒潮の流れに駿河湾に面し、年間を通して温暖な気候の地域ですが、冬になると強い西風が吹くことが名物になっています。近頃では安良里がダイビングスポットになり、多くのダイバーたちが訪れています。

 安良里港は天然の巾着港といわれています。港の東部にある網屋崎が、海中に突き出しその岬の端と陸地の間に弁天島があるため、港の入り口は狭いのですが、港内はそのわりに広くなっており水深もあるため、それが巾着袋のようなので、天然の巾着港と伝えられています。

 ♪安良里めでたや巾着港、紐の締め手は弁天様よ……、という安良里音頭の歌詞にもある巾着港ですが、この天然の地形がイルカ漁にはとても適していたといえます。
 ただ、昔は人々の大半は漁業で生活をしていましたが、いまは漁業だけの生活は難しくなっているのが現実です。

 また西伊豆町は「日本一の夕陽の町」と宣言しています。水平線に沈む夕陽はとてもきれいです。これは安良里の弁天島を背景にした夕陽の写真です。夕陽スポットが西伊豆町にはこのほかにたくさんありますので、ぜひ夕陽を見て感動してほしいと思います。

 これは安良里いるかの会が、安良里地区のイベントに参加して、資料の公開を行っているところです。イルカ漁をしているところのDVDを放映しました。イルカ漁についての資料収集をしていましたが、今後これをもとにみなさまにこの資料を公開していこうと思っています。

 こちらは安良里浦上(うらがみ)のイルカ供養碑の前で、中日新聞の方が取材に来て、安良里いるかの会を取り上げてくれた時の写真です。インターネットで紹介されていますので(http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/shizu_area/shizu_reporter/list/2010/CK2010031402000145.html)、機会がありましたら、読んでいただければと思います。

 それではイルカ漁からお話しましょう。
 イルカ漁は江戸時代から始まり、明治、大正、昭和と駿河湾全域を漁場として、独特の漁法と恵まれた天然の良港により、村の経済の主力となり、イルカは貴重なタンパク源として、食糧難時代を支えてくれました。

 この独特の漁法というのが、追い込み漁ということになります。
 何隻かの船で音を出しながら、イルカを安良里の港に追い込んでいきます。イルカは音に臆病な動物なので、竹ざおで水面を叩いたり、鉄管でできている「かんかん」という名前の道具を海中に入れて、音を立てて港に追い込みます。イルカがなかなか港に入らないので、網を張って船を寄せて隙間がないようにして追い込んだそうです。港に入ってしまうと、深く広くなっているので、イルカは逃げられると勘違いして、港の奥へどんどん入っていきます。これが先ほどお話した天然の巾着港の特徴です。ちなみに、マイルカはエンジンの音だけで、港内に入ることが多かったようです。

 追い込んだイルカは、港で暴れているのですが、人の体温に触れると安心する性質があるので、若い男衆が担ぎあげて、おとなしくさせて陸に引き揚げたそうです。見るからに安心して人間に背負われているように見えると思います。



 戦前から戦後の食糧や物資のない時代、イルカは「たれ」にしたり、ごぼうなどと煮込んで食べたりしていました。貧血の方には、体が温まってとてもいいそうです。女の人たちは、イルカの血でしもやけを治したりもしたそうです。イルカの脂身の部分は煮詰めて、脂はてんぷら油にして、皮は乾燥させて塩をまぶして食べたりもしたそうです。ほかに船の潤滑油にしたり、石鹸を作ったりもしました。すべてを無駄にすることなく、感謝して命をいただいた様子がうかがえます。だからこそ、イルカのための供養碑があるのだと思います。

 また、水族館に運ばれたイルカも数多くいます。水族館に運ばれるまで、餌付けをして人間に慣れさせます。昭和36年に江ノ島水族館にトラックで搬送された、ハナゴンドウの「ヨン」は、世界最長飼育記録の42年間生きました。水族館に運ばれるイルカのことを、イルカのお嫁入りといっていたそうです。こうして、昭和30年半ばで、組織的な出漁はなくなり、水族館から依頼を受けた時に出漁した程度で、昭和48年以降は、イルカ漁としてほとんど行われなくなりました。

 ところが平成2年7月11日にイルカ数十頭が安良里港に追い込まれました。少ない船で、追い込めるか試したところ、容易に港に入ってきましたが、近年、イルカ漁に対して非難などがあったりしていたので、村の漁業組合で県の水産課に問い合わせたところ、放逐の指導を受け、水揚げを断念して、そのイルカたちを港外へ誘導して、これをもってイルカ漁に終止符を打ったことになりました。
 港からジャンプして港外に出ていくイルカの姿が、最後に安良里の港にお別れのあいさつにきたように、そのときの人たちは感じました。

 安良里にはイルカのための供養碑が3基あります。安良里に供養碑を見に来られた方たちもいらっしゃるかと思いますが、港の一番奥に位置しています。当時のイルカを取り上げた場所に2基建立し、あと1基は別の場所で、港が見渡せる高い位置に建立しています。その中で一番古い供養碑は明治15年になります。幅が25センチ、高さが135センチあり、その供養碑の後ろに記載してある碑文の代表を紹介します。鎌倉円覚寺の管長をつとめられた今北洪川さんを招いて、浜施餓鬼を行った様子が記載されています。



 明治15年1月19日に大漁があり、600頭余りが港の外に集まっているのを発見して、十数隻の小舟でイルカを捕らえました。大きいものは大きさが6メートル以上、小さいものでも3メートルくらいの大きさでした。大漁で村の中は潤い、にぎわいが出たということです。当時イルカ組合が5組あり、組の代表者が、龍泉寺に出向きその事実を説明して、さらに供養していただきたいと申し出ました。イルカのために供養碑を建て、浜施餓鬼を行うことをお願いしたそうです。浜施餓鬼を開くにあたり、イルカ組合の代表の若者5人が、懺悔礼拝に1週間余り毎日出頭したそうです。そして、いただいた戒名を供養碑の下に埋めたと記録されています。このくだりは、イルカをとても高い位に位置付けて、最高の供養をしてことになるそうです。漁師さんたちが、人間と格差なくイルカを重んじたことの行いだったと思います。

 2番目はイルカ組合の発願により昭和10年に建立されたもので、幅30センチ、高さ74センチになります。昭和7年1月28日に毎年開催されている、お不動様の祭典の日に、村のカツオ船が沼津港でカツオを下し、帰る途中に、ゴンドウイルカの大群を発見して、安良里漁業組合に連絡しました。村は祭りの最中でしたが、イルカが見えたぞと大騒ぎになり、さあ大変だと船に乗り込みました。海の色を黒く変えて、海面よりも高く白波を立ててイルカの大群がやってきました。



 この1427頭のイルカを約1カ月かけて、取り上げたそうです。このイルカを発見した漁師の話によると、シャチに追いかけられたイルカで、鯱巻(しゃちまわし)といったそうです。このイルカはお不動さんの祭典の日に発見されたので、お不動さまが授けてくれたイルカと村の中ではにぎわいました。

 3番目はイルカ組合の発願により、昭和24年に建立されたもので、幅103センチ、高さ133センチです。昭和9年から昭和24年10月に至るまでに、漁獲したイルカを改めて供養して建立したもので、戦中戦後の食糧難時代を乗り越えられたことに感謝したものです。当時の話をお年寄りの人に聞くと、当時はお金があっても、食べるものも買うものもなかったんだよと、話してくれました。イルカからいただいた、命のつながりがあったから、いまこうして私たちが存在していることを感じ、改めて感謝の気持ちが湧いてきました。



 こうして、たくさんの命をいただいたことを供養する行事が、毎年8月15日に浜施餓鬼として行われています。

 これは江戸時代から続いているもので、海で亡くなった人、魚、イルカも含めすべての命にたいしての供養で、村の人たちからの要望で行ったのが始まりです。昭和の初めごろまでは百八の松明を燃やしていたそうで、清水の方面から、西伊豆の方を見るとその灯りが見えたそうです。この行事を百八灯と呼んで、村の人たちは正装してお参りしたそうです。

 現在は安良里地区自治会のほうからお寺へ依頼して8月15日に浜施餓鬼として行っています。
 松明を燃やして、お経をあげていただき、何隻もの船が旗を揚げて港を回り供養します。このお経の文面は江戸時代から、引き継がれて施供したものを公開してきました。いつの時代も命に対して、思う気持ちは変わることがないのだと感じます。100年200年たっても変わらないことを大切にしていきたいと思います。

 最後にイルカの会からのメッセージです。当時の人たちがイルカ漁をすることは、今のように特別なことでもなく、生きていく上で必要だったことで、そこに大量のイルカがいたから漁をしたのだと思います。ほかの命をいただいて生きていくことは、昔も今もこれから先も変わることがないでしょう。安良里の漁師さんたちも、そのことをきちんと認識したうえで、感謝し供養してきたように思います。命のつながりのなかで今があり、そしてひとりひとりが存在していることは確かなことです。私たちはその命をいただいて、大切に生きていかなければと思うのです。だからこそ自然の恵みに感謝して、また生かされていくことに感謝していきたいと思います。(2)に続く(http://blog.goo.ne.jp/gen-ugusu/e/952b55feb48f9b92b63740b7a3e680ab