西伊豆(宇久須)だより

山・海そして里が広がる西伊豆町。都会の喧噪を離れて、一緒に豊かな自然、健やかな社会とは何か、探っていきませんか?

ヒマワリの咲く、ふれあいの小道

2014-06-29 20:38:40 | 日記
 第2再生休耕田です。水路の右側は賀茂小学校、賀茂中学校の生徒の通学路です。5月11日のGEN宇久須合宿でヒマワリの種まきをしました。成長が早く、肥料の効いたところでは1.5mにも達して、つぼみもできはじめています。7月中旬には開花しそうです。となりの畑の人も播いて下さいました。少し行くと第1再生休耕田です。ここには6aのヒマワリ畑です。景観の変化が楽しみです。
 出光西伊豆会の方々のご協力で、サツマイモ、サトイモ、ヤーコンも元気です。(F)











出光西伊豆会 大活躍!!

2014-06-19 22:05:13 | 日記
 「日本農業は雑草との戦いである」そう言って田方農高の「作物保護」の授業では言ってきました。休耕田を再生し始めて4年がたちます。第2再生休耕田は3年目ですが5月11日に植えたサツマイモとサトイモがイヌビユに飲み込まれそうでした。
 そこに現れたのが、美谷島さんと出光西伊豆会の皆さま方。暑い中、雑草と戦ってくださいました。作業前と作業後の写真を見て下さい。多謝!! (F)
 















カツオ料理とレシピ 田子を考える会女性部

2014-06-18 21:46:10 | 日記
 今日こういった発表の機会をいただき、本当に感謝申し上げます。一磨会長からご報告があったんですけど、私たち初めての九州入りで、先人達が昔からカツオにこだわって一生懸命味を伝承してきたそのことを普段やっている調理を発表してきました。
 カツオでつながるカツオ漁港の母ちゃんサミット。



 田子も立派にカツオを繋いでますよ。遠い静岡県ですけど宮崎まで出かけて、カツオをアピールしてきたい、そんな気持ちで3人で行ってきました。宮崎県日南市です。全国カツオ料理大集合レシピコンテスト。先にレシピ提出の課題がございました。4部門で第1・伝統料理、第2・家庭料理、第3・非常食、第4・新ジャンル。この中から何をしようかと7人で相談しました。結局普段召し上がっている伝統料理で、星の唐揚げ、カツオの尊いひとつの心臓です。星の唐揚げとそれから潮汁。
 非常食として先ほどカネサさんが一生懸命愛情込めて作っている、あの手火山式焙乾法で製造したカツオ節、それから塩鰹を生かした非常食の、手火山式焙乾のお料理なんですけど、その花かつおおかゆ、この3品を作ることに決定いたしました。
 それではその料理の内容をご報告したいと思います。
 夕焼けに染まったオレンジのエプロン。これが私達のメンバーです。

 カツオ料理の潮汁の方から説明したいと思います。
 材料:かつおの中骨2尾。水6リットル、塩大さじ2杯。薄口醤油少々。生姜少々。ネギ少々。
料理方法 お湯を沸かしまして、中骨を4~5センチの長さに切って煮ます。その時に少量の塩を入れると煮汁が濁らないので、塩を少々入れてそのお湯でアクを取りながら5~6分ほど煮ます。そして塩と醤油で味を整えて、食べる直前に好みですりおろした生姜とネギを加えていただきます。
 
 次はカツオの星の唐揚げです。
 材料:かつおの心臓、片栗粉、酒、油、タレとして生姜とニンニクのすりおろし、砂糖と醤油を同量。
 料理方法 カツオの心臓を観音開きにし、水できれいに洗いザルで水を一旦切ります。臭みを取るために酒をふりかけて5分くらい浸しておきます。その後、1の中にタレを入れて30分くらい漬け込みます。そしてタレを切ってカツオの心臓に片栗粉をまぶし180度の油であげます。
 
 手火山式焙乾の花かつおのおかゆ
 材料:米、塩鰹、カツオ節、磯海苔、煎り胡麻。
 調理方法 米の5倍の水でおかゆを炊きます。そして塩鰹を焼いてほぐし、磯海苔を揉んで細くする。そしてカツオ節を削って煎り胡麻と2、3、4をおかゆにのせていただきました。日南市の時は別々に3種類を用意したんですが、途中である方がおかゆを食べた後に、潮汁をかけて食べたら1つの料理が2度おいしい、そういう関係ですごく好評になりました。
 
 おかゆのトッピングはその方の好みで整えておいたんですけども、花かつおのところが削っても削っても空になって、すみませんといいたいんですが削る方が忙しくて。そしたらこれはなんていい味だ、こんなに美味しいものは初めて食べた、そこですごく皆さんに好評を得たのがありましたね。はい。
 
 これが唯一いただいたカツオは味の宇宙で賞。よくNHKに出る料理研究家の枝元なほみ先生をご存知ですか。その方が審査委員会長で、潮汁を見たときに骨と水と塩でこんなに味が出るのって、もうそこで先生がはまってしまって、他の審査員の方たちもたくさんいたんですけども、ここで賞がガチンときたのかなと思いました。
 

カツオ漁について 田子まちづくり協議会

2014-06-17 13:59:51 | 日記
 カツオ漁という形について話をさせていただきます。田子地区まちづくり協議会の山本一磨です。山本圭吾氏を紹介します。圭吾氏は地元の中学をへて、名古屋の無線電信専門学校を昭和32年に卒業して、無線通信士の資格を取りました。
 まず最初に実家のカツオ船、田子島丸に乗船しましたが、44年に実家が船をやめたため、その後は遠洋マグロ漁船の無線通信長として田子、清水、焼津、室戸港などの船に乗り、阪神大震災の年の8月に退職しています。遠洋マグロ漁船に乗船した時は、パナマ運河の通過は数知れないほど。スエズ運河の通過も3~4回やっているというほどで、世界中の海を走り回って船乗り冥利につける貴重な体験を数多くしている漁師さんということになります。現在は田子櫓漕ぎの会の会長としまして、春休みに田子小のプールで小学生に櫓漕ぎを教えながら、8月15日の港まつりに櫓漕ぎ競争をやりますので、ぜひおいでいただいて見ていただくとありがたいと思います。



 山本圭吾といいます。人生のほとんど半分以上は船の上で過ごしました。やめてからは、まちづくり協議会へ入会して微力ながら何とか町を盛り上げていく所存です。きょうお見せするビデオは田子がカツオで栄えた頃、役場でカメラマンを船に乗せて録画したビデオです。昔はたくさんあったんですけど、年数が経ってカビが生えたりして、これ1本だけは役場の倉庫に残っていました。途中が途切れてますけど、DVDに焼き直して一応見れるような格好になっていると思いますから鑑賞してください。

 ビデオに出る船は大きさは60トンぐらい、乗組員が20人くらい。漁労長、船長、機関長、無線長、コック長、甲板長、そういう職員が乗って、漁場は伊豆七島から小笠原、激戦地となった硫黄島、あの辺りまで。だいたい漁がある時は日帰りでも行くし、漁によっては1週間から2週間ぐらい。カツオを釣るには餌を持っていかないといけません。生きたカタクチイワシです。それを積むエサ場は田子か、戸田、東側に行くと宇佐見、網代、そして三浦半島へ行くと佐島、千葉県の方へ行くと館山、そのあたりから餌を積んで南へ行きます。

 田子からはほとんど小笠原方面へ行ってカツオを。50年前は船が40隻近くあって賑やかでしたね。入港するとおかず分け。3本から5本ぐらいみんな分けて、それを親戚一同にくれてやる。魚屋から魚を買うなんてそういう事はなかったです。魚屋さんはなかった。今はスーパーなんかで買うようになりましたけどね。それだけ栄えたんですけども、オイルショックからだんだん経費がかかるし、船も縮小していつの間にか平成5年くらいから船はもう1隻もなくなってしまって、カツオ船の姿も田子の港には見えないです。そういう状態になっています。真ん中からちょっとテープが抜けてますけど、見応えがあると思いますから鑑賞してください。
 

【ビデオナレーション】
 伊豆西海岸、西伊豆町田子はカツオに生きる港町。この港の漁師の間にはおかず分けというとれた魚の一部を船員の家族に分ける習慣がある。またカベビラキといって学校を卒業した男子が船に乗り込んで、初めてカツオを釣ったことを祝う。
 釣ったカツオをなますにし、先生、友達、親戚などに配る。自分が漁師の仲間入りしたことを告げる。
 漁師の家族達は陸揚げされたばかりのカツオを持って海の神様にお参りをする。航海の無事を感謝し、次の航海の安全と大漁を祈願する。
 田子のカツオ漁は今からおよそ300年前に始まった。季節ともなるとこの沿岸で多くのカツオが滞留していたという。江戸時代の後半になるとカツオは一本釣り、カツオ節の製法が伝えられた。明治に入ってカツオ節はこの土地独特の桜のマキの火にいぶして作る手火山式焙乾法で作られるようになった。現在では年間1000トン、約30万匹に相当するカツオ節が生産されている。

 また明治31年、田子に初めて堤防を築いた山本忠助は、カツオ釣り用のイワシの石積みのいけすを田子湾内で成功させた。それに続いて明治42年、それまで櫓船・帆船の小さな和船で行っていた漁から、もっと大型の漁が出来るよう、発動機を使った機械船を全国的にも早く田子に導入した。これは田子漁港の造船所の礎を築くこととなった。現在田子漁港は、近代的な漁港整備が進められ、伊豆半島でも屈指の沖合漁業、遠洋漁業の基地となっている。

 いよいよ出航だ。海に生きる男たちは1年の大半を船の上で、生活する。遠洋漁業となると1年は航海に出たままになるが、沖合漁業では1航海短くて3日か4日、長くて15日ほどの航海で、年間ほとんど休みなく出漁する。
 出漁にあたってはカツオ漁に必要な撒き餌となるイワシを船に積み込む。生きたイワシを生きたまま漁場まで運ぶ事は大変なことだ。

 カツオ漁船は一路今回の第一の目的地である小笠原諸島へ向かう。カツオの漁場は伊豆七島、小笠原を経てマリアナ群島の赤道付近をはじめ、北は黒潮の流れに沿って北海道まで。漁期は昔から4月1日から8月15日まで行われていたが、今では1年を通して出漁して行く。

 現在漁船の乗組員は漁労長、船長、機関長、無線士をはじめ甲板員、機関員などおよそ20名で構成されている。漁場までの仕事は日の出から日没まで。その間4時半の朝食、9時半の昼食、そして3時前の夕食と規則正しい生活が続けられるが、いざ漁が始まれば終るまで働き通しだ。板子一枚下は地獄と言う船の生活では乗り組み員全員が親兄弟以上の深い絆で結ばれている。

 船はカツオを追い求めて大海原を何昼夜も進む。
 カツオの魚群を見つける第一の手段は、漁場に出ている各漁船との無線連絡である。カツオは近海の黒潮の流れに沿って回遊するものと、小笠原諸島などを回遊するものとがある。この情報をもとに漁労長はこれから行く方向を決定しなければならない。
 目的地に達するとそれぞれの乗組員が見張り台に立ち、海上を監視する。発見するものはカツオドリの群れ。魚たちには必ずといっていいほど鳥がつく。漁労長は無線、水温計、魚群探知機の情報を頼りに舵を操る。

 いた。いよいよ戦闘開始だ。
 魚群の足を止める撒き餌がまかれる。全員が釣り方にかかる。撒き餌は生きたカタクチイワシ。現在は毛針が使われている。カツオは2キロから3キロのものだ。針に食いつくと満身の力で引き上げる。
 戦闘開始から2時間、この日の収穫はおよそ10トン。およそ4000匹のカツオを釣り上げた。
 男たちに快い疲れが残る。しかし漁労長は次の作戦を練り、船の行方を決める。
 魚の値段はその日その日で変わる。多く水揚げされれば値が下がり、少なければ値が上がる。何はともあれ需要と供給のバランスを見て、魚の鮮度がいいうちに水揚げされる。
 カツオ漁に生きる西伊豆町田子漁港。長い伝統に支えられ、厳しい仕事ながら海に生きる職業を誇りに田子のカツオ漁は、これからも続くことだろう(ビデオ終わり)


 カツオを釣るところはわかりましたでしょうか。ビデオの中ではカツオを沼津市場でおろしておりましたが最近ではカネヤスさんの話では焼津港だということです。ツキサンジュウになったころはカゴに直接ほうり込んでいました。かまやというんですけどもカツオ節の製造業者が40軒いたという形でございました。

田子節とカツオ カネサ鰹節商店芹沢安久

2014-06-16 21:46:01 | 日記
 5月10日夜、宇久須の住民防災センターで開かれたまちづくりカレッジ「カツオを知る」の記録です。田子地区のカツオ文化について芹沢鰹節商店の5代目店主芹沢安久さんから「本節・田子節」の製造法を、田子まちづくり協議会から「かつお漁の歴史」、田子まちづくり協議会婦人部からかつおの料理法・レシピをご紹介いただきました。

田子節とカツオ


 カネサ鰹節商店の芹沢安久といいます。うちの会社は明治15年から本枯れのカツオ節を作っています。あともう一つ古典的な潮鰹(塩鰹)です。カツオの塩蔵になります。これも自分のところで作っています。これは本当に期間限定、小さな地域で作られている、知る人ぞ知る保存食です。
 本枯節はカツオを使った究極の保存食ですね。常温でおいても2年以上もつ。それに対しもっと歴史の古い塩鰹は冬にしか作らないんですけど、塩蔵して常温で3ヶ月ぐらいもつ保存食になります。その保存食をこれからも残すべくいろんな活動をしながら、みなさんに知ってもらう活動もしています。

●カツオ節の歴史
 まず最初は伊豆のカツオ文化の歴史をお話しさせていただきたいと思います。
 カツオはものすごく昔から食べられています。とくに日本はカツオがたくさんとれる国で、縄文時代から、約8000年前からカツオを食べていたといわれています。
 ちょっと前、東ティールで4万年前のカツオの針らしきものが見つかったという新聞記事がありましたが、そんな昔からカツオあるいは魚を釣る道具も人間は考えていたのではないかといわれています。
 カツオ節あるいはカツオの加工品が文献に出てくるのは700年代です。平城京の時代に、カツオの加工品が税金として納められるようになります。この時に納められたのカツオを加工したアラカタウオです。カツオの内臓を取り出して、丸のまま素干ししたものだといわれています。要するに「開き」のようなものです。
 その後もっと保存をきかせるために、カツオを一回煮たんです。煮た後に乾燥させる。これがニカタウオ(煮堅魚)です。これも税金として納められています。

 もうひとつ日本最古の調味料といわれているのは、ニカタウオを作るときに出た煮汁、これをさらに煮込んだもの、カツオのイロリ(煎汁)といいます。この3つがカツオを使った3大税金として指定される。
 このうちアラカタウオはこの西伊豆田子地区で作られたという歴史があります。このアラカタウオ、ニカタウオ、カツオのイロリは非常に美味しかったために、いろんな地域から納められました。特に黒潮が流れカツオ漁が盛んだった伊豆とか千葉県の房総、そこら辺までの指定された地域から奈良の平城京まで税金で納められていきました。
 1200年代、鎌倉時代になってきますと、今度はワラあるいは草でいぶしてさらに乾燥させたカツオの加工品が出てきます。このときできたカツオ、これは削って食べたと最初にカツオの料理を書いた本に出てきます。花カツオといわれています。 

 1600年代、和歌山県の印南町で最初にカツオ節が作られたといわれています。マキを使った燻乾法です。印南町の甚太郎という方がカツオ節を作る方法を考えだしました。このカツオ節は熊野節といわれるカツオ節になります。この当時日本で一番美味しいカツオ節といわれています。地域限定で作られて、ほかには教えなかったから門外不出です。あとは土佐の清水、この2カ所でしか作られていませんでした。土佐清水の方は、印南町の方がカツオ取りに行って遭難して土佐清水に流れ着き、助けてもらったお礼にカツオ節の製造法を教えたといわれています。このあとカツオ節はさらに保存がきくものになっていきます。
 印南町で作られたカツオ節は、焙乾する、要するにマキを使っていぶし乾かしていきます。何回も何回も焙乾することによって、周りにタール分がつく。そのことによって長期保存が効く保存食になります。要するにマキで乾燥させていぶして、燻製のようにしていくという形になります。これは昔から今も変わりません。いわれる荒節というやつです。

 この荒節を削ったものが花かつおと呼ばれます。この荒節は常温でも3ヶ月以上もちます。保存状態が良ければ半年ほど持ちます。途中でカビが生えたりするんですけど、このカビを綺麗に払ってまた天日干しすると、さらに保存が効く形なります。カビをつけると更に保存が効く保存食になるということを、どこかで見つけるわけです。これは土佐で発見されたといわれています。
 このカビ付けして発酵させる方法は、偶発的にできたといわれています。日本は湿気が多いから、荒節をそのまま置いておくとカビが生えてきます。そのままにしておくと、どんどん湿けてにおいが悪くなり食べられなくなる。これをどうしようと考えたわけです。天日干ししたり色々試みたが、なかなかうまくいかない。

 1つの解消法は、最初にカビをつけてしまおうということでした。カビをつけてそれを洗い流すと次にカビがつかない、ということが発見されるわけです。要するにカビを抑えるために、わざとカビをつけてそれを洗い流してまた天日干しでキレイにして保存させる、という方法が編み出されたわけです。
 保存させるためにカビを1回あるいは2回しかつけないというカツオ節です。本枯節とか枯節とかいう概念ではありませんが、これによって荒節がさらにもつようなカツオ節になってきます。この後いろんな形でカビのつけ方を考えていくわけです。熊野節というのは門外不出だったんですけど、1700年~1800年代に、いろんな形でいろんなところに出ていきます。

 1700年代には和歌山県印南町出身の森さんという方が、薩摩のほうにいって熊野節の製造方法を教えました。それによって薩摩の指宿、山川あたりのカツオ節がすごく美味しいカツオ節になっていく。1780年代にはこの隣の安良里に、土佐与市という人がきます。この方もやはり印南町出身です。日本ではすべてのカツオ節は、印南町出身のカツオ節製造の名人の方が、伊豆あるいは薩摩、千葉の方に行って製法を教え、それが改良されてさらに美味しいカツオ節になっていきます。
 今のような本枯節ができることによって、カツオ節は飛躍的に美味しくなり、保存が効くようになります。荒節はもっても半年ぐらい。だんだん味が劣化していきます。本枯節は製造に半年ぐらいかかりますが約2年、もたせれば半永久的にもつといわれています。
 現代風の本枯節を最初に作ったのは、伊豆の田子節といわれています。これは1800年代といわれています。にんべんさんのホームページなんかを見ると、1800年代に西伊豆の田子地区で、本枯節が確立したといわれていると書いてあります。

 本枯節は4回以上のカビ付けをしたものというのが定義になっています。3回までは枯節という形です。4回以上の本枯節を作ったのがこの伊豆の田子地区になります。
 伊豆の田子地区の一番の功労者は誰かというと、ヤマハクさんとかいろいろいるんですけど、それを編集したのが福田力太郎さんという方です。この方がカツオ節の製造方法を編集して、田子節の作り方をいろんな形で1冊の本にまとめて後世に残す形にした。それがつい最近、安良里のほうの教育委員会の倉庫で見つかったそうです。

●税金に使われたカツオ加工品
 さきほどカツオを使った加工品が税金として納められるという話をしました。アラカタウオ、ニカタウオ、アラカタウオの煮汁を煮込んだカツオのイロリというやつです。伊豆の田子節が1800年代に本枯節を作るはるか以前、今から1300年近く前、この時にすでに田子はカツオの加工品、アラカタウオというのを作っております。
 これが田子という町が、歴史上で記載されたもので一番最初に出てくる史実になります。これは西伊豆の田子地区から奈良の平城京まで税金で納められた木簡の写真です。なんて書いてあるかといいますと、伊豆の国中郡仁科のことです、多具里(タグリ)と書いてあります。これが現在の田子という形に変わっていきます。

 昔は伊豆の国中郡と呼ばれていたそうです。その下に、物部の千足(チタリ)と書いてあるんですがねこれが税金を回収する代官さんです。その下に租庸調の調ですね。物部千足調と書いてあります。これが733年の9月といわれています。これが一番最初に西伊豆の田子というところが、歴史に出てくる記述になります。
 そんな古くからこの西伊豆の田子でカツオを加工する文化があった、ということになります。こういう木簡が出てくるということは、それだけたくさんそういった加工品を作っていた、要するにカツオがたくさん取れたということです。カツオをとるためにはたくさんの道具があった。加工するためにも道具がたくさん必要です。そのことから多具里という名前がついたともいわれています。要するに道具がたくさんあったところということです。

 これは昔の田子の様子です。これは田子まちづくり協議会さんの写真をお借りしました。田子にカツオ船がたくさんあった時の写真になります。下の方には塩鰹を飾ってある写真があります。サンマとかイワシとかも全部わら飾りをつけています。
 田子地区は昔からカツオ漁が盛んでして、カツオの加工品がたくさん作られていました。カツオを取る一大漁港として発展していきます。昔はカツオ船もたくさんありました。昭和30年代がピークといわれています。その当時はカツオ船マグロ船あわせて40隻以上が港にひしめき合ってカツオがたくさん揚がりました。自分の小さい時の思い出ですけど、朝早くから鐘が鳴り出す。要するにカツオが入ると鐘がなるわけです。
 それが朝早くから始まって夜遅く日が沈んでも鳴り止まない。本当にカツオがたくさん揚がるわけです。港ではカツオが山のように積み上げられます。それがあっという間に加工されていく。カツオを加工する業者が40軒ぐらいあって、揚がった魚をその日のうち、あるいは2日までの間に全部加工したのがこの田子地区になります。

 いま考えるとあれだけ山積みにされたカツオを、一夜のうちにあっという間に加工することができる技術があった地域になります。それが今やカツオ船が1隻もないという状態になってしまいました。カツオ節業者も今は3軒しかありません。
 昭和31年というのは仁科と田子が合併した時のことですが、このころの町の予算が約5億円くらい。この時のカツオの水揚げが50億円です。約10倍です。ものすごい量のカツオの水揚げがあったということが伺えます。
 うちの会社は明治15(1882)年5月に創業しております。これはうちの初代です。芹沢里次というのが最初にカツオ節を作り始めます。
 これはカツオを荷造りした時の樽です。昔はダンボールがなかったので杉の樽を使ってカツオ節をいろんなところに納めていました。これは鎌倉の業者に送った時の樽です。つい最近、店を改装したときこの樽が出てきたので、持ってきてもらいました。田子村 芹沢里次と書いてあります。初代の名前で出したんですね。

●手火山式焙乾法
 手火山式焙乾法は田子節の伝統製法の1つです。カツオ節を最も美味しくする焙乾方法といわれています。直火製法です。明治に入ってから、この直火製法をいろんな形で確立していくわけです。
これは必ず地元のマキを使って焙乾するというのが1つにきまりになっています。地元のマキを使うことによって、地元の味のカツオ節になっていく。地元の風味をいろんな方に削って食べていただくというのが焙乾方式の1つの醍醐味になります。
 とても強い火を使って焙乾します。簡単にいうと2メートルくらいの縦穴を掘って、下から火を燃やして上にカツオ節を乗せていぶし乾かすという方法になります。穴から炎を燃やすので火は直接上に上がってきます。下手すれば自分の体も燃えてしまうような、ちょっと危険な製法なんですけど、強い火を使うことによって、カツオ節の形が一気に締まるわけです。そのことによって味が外に逃げない製法になります。
 表面が固くなることによって、イブクサ、臭みが中に入り込みません。その代わり、表面が固いので外の固さと中の固さが違ってくる。中の水分を出してから焙乾するとか、天日干しするとか、時間をかけてそういう方法を取らないと、中の固さと外の固さが変わってしまい、おいしいちゃんとしたカツオ節になりません。
 ですから田子節の場合はすごく時間をかけて作るということになります。要するに間を空けて、天日干し、あるいは焙乾をしていくという形になります。

●カツオ節の製法
 次に田子で作られているカツオ節の製造方法について話をしていきたいと思います。
 今のような4回以上カビをつけた本枯節になってきたのは、1800年代といわれています。その本枯節の製造方法をちょっとお話しします。
 昭和30年代これがピークになるんですけど、カツオ船がたくさんありましが、いまはカツオ船がありません。ですからカツオは焼津から持ってきています。うちは焼津に水揚げされた冷凍カツオを原料としてカツオ節を作っています。日本中のカツオ加工業者はほとんどが、焼津に水揚げされたカツオを使っています。
 土佐だろうが薩摩、そういうところも全部焼津に水揚げされた冷凍のカツオを陸路でわざわざ九州まで運んで、そちらの製造方法を使って薩摩節あるいは土佐節を作っています。
 焼津に上がるカツオはどちらかというと、暖かい水域でとれたものになりますね。中部太平洋あるいは中西部太平洋、赤道近くで水揚げされたカツオになります。赤道近くで上がったカツオというものは脂が少ないんですね。どんなものもそうなんですけど、カツオの加工品も脂があると傷みやすい。脂があったまま加工すると傷みやすい。あるいは本枯節に仕上がった時に、削ると粉になる。あるいは出汁をとったときに渋み、苦味が出る。ニゴといいますね。缶詰でも脂があると、やはり痛みが出やすいから向いていないといわれています。ですから脂の少ないカツオを使って加工するというのがひとつの条件になります。

 この脂の少ないカツオを自分は焼津まで見に行って、仕入れて持ってきます。月に大体1回から2回です。4トンくらいですから合わせて最大8トンくらい月に切っています。
 カツオは3枚におろしていきます。おろした後このように籠の中にならべていきます。
 カツオ節は切った瞬間に形が決まってしまいます。ですから切るのはとても熟練した技になります。切り方がちょっと悪いと、次に煮込む工程に行くときに、カツオはすぐねじれてしまいます。形が悪いために、売り物にならなくなります。ですから本枯節を塊で売るときは形もすごく大事になります。切った後、篭に並べて煮込んでいくということになります。

 カツオ節の製造工程は約35工程ありますが、大まかには4つの工程に分けられます。いちばん最初は切る。その後煮込む。その後に焙乾する。最後は発酵させる、要するにカビをつけるということになります。この4つが大きな流れになります。切って煮込んで形を決めるというのが、基本中の基本になるわけです。
 きれいに切ってきれいに煮込むために、この籠組み込みというのはすごく難しい技です。魚は柔らかいですから、左右上下どちらにでも曲がるわけです。ねじれて並べれば、ねじれて煮込まれる。ちょっと曲がっていても煮込むと縮まって、ものすごい形に曲がるわけです。これをきれいに煮あげるためには、きれいに並べていかねばなりません。きれいに切ってきれいに並べるというのがセットになるわけです。
 自分もあまり上手ではありません。自分が並べるとかなり曲がるわけです。1回曲がると、乾燥させていくとものすごく曲がるわけです。三日月みたいになります。最終的にはそれが割れて、使い物にならなくなります。ですから並べるというのはすごく難しいんんです。

 これは籠組み込みといって並べているところですが、この1つの籠の中に約5匹分ぐらいカツオを並べます。カツオとカツオの間は指1本分ぐらい空いています。なぜ空けるかというとお湯がきれいに対流するためです。きれいに対流することによってカツオが芯まで煮込まれます。自分が並べると指2本分空いたり、1本分になったりそういう形になるわけです。
 すき間をたくさん空けると、そこを通る対流は非常に大きくなります。そうするときれいに並べたカツオはそこからはがれてしまう。要するに煮崩れという状態になります。身が割れたり折れたりという状態です。身がくっついてしまいますと、上のカツオが煮込まれない状態にもなります。離すときに身がどちらかにくっついてしまいます。どちらかのカツオ節が売れない製品になってしまいます。ですからとても熟練の技になります。煮込み方が悪いと誰が並べたかすぐに分かるような状態です。

 約2時間煮込んでいきます。これが第2工程のボイルです。カツオ節専門用語で煮熟といいます。煮込んで熟成させるという意味です。釜の中で90度で約2時間くらい煮込みます。最初は温度を下げてカツオを投入します。生ですから温度がどんどん下がるります。それを沸騰させてから約1時間半ぐらい煮込みます。
 煮込むと白くなります。これがスーパーとか百貨店で売られているナマリ節です。ボイルした状態はナマリ節になります。この骨を抜いて、カツオ節に加工しやすいようにするわけです。煮込むことによって痛まない加工しやすいカツオになっていきます。

 この後カツオの骨を手作業で1本ずつ全部抜いていきます。カツオの骨は意外と大きくて幅が広い。これは抜くと穴があく。この骨を残したまま乾燥していくと、骨の形にカツオ節が曲がってしまいます。穴が開いたままにしておきますと、穴が最初に乾燥して、穴の部分が最初に折れて、割れたりそこからねじれたりしてしまいます。骨は必ず抜かなければなりません。
 抜いて穴をそのままにしておくと、ちゃんとしたきれいなカツオ節になりませんので、1回焙乾した後、もみつけという作業していきます。穴を埋めるリペア作業です。骨を抜いた後、カツオを3枚におろした時に出た中骨、このすき身を全部取って、生身を1回ボイルした身とミックスして、カツオ節の硬さに合わせたパテを作るわけです。カツオのコンディションに合わせて、生身と茹でたボイルの身の配合を変えていきます。そのパテを穴に埋めてカツオを整形していきます。
 その穴を埋めることによって、最初に切ったまっすぐの状態のカツオ節に仕上がるということになります。大きさはどんどん縮んでいきます。そのあと本格的な焙乾を行っていきます。
 これは手火山式の焙乾方法です。田子節の伝統製法になります。田子で確立された方法といわれています。直火製法です。とても強い火を使って、カツオ節の味を瞬時に中に閉じ込めます。カツオの味が中に閉じ込められて外に出ない、イブ臭さが中に入り込まないという利点があります。
 悪い点は中の硬さと外の硬さがちょっと違うことです。表面はすごく硬くなってしまいます。ですから冷却あるいはムラシという作業をしながら、中の水分を出しながら焙乾する、あるいは天日干していくという形をとらなくてはいけません。

●荒節と枯節の違い
 約10回ほど焙乾を繰り返しますと、荒節というのが出来上がります。荒節を削ったものは、花カツオと呼ばれます。もう一つカツオ節には呼び方があります。枯節、あるいは本枯節です。要するに発酵されたものを削ったものは、削り節と呼ばれます。
 スーパーなどによく削ったものが置いてありますが、花カツオと書いてあるのは発酵されていないものです。これに対して発酵されたもの、カビが付いたものは削り節と呼ばれます。値段が高いのはやはり削り節になります。
 荒節を削った方、この花カツオのほうは味が濃い。悪くいうと臭みが強い。それから出汁を取ると濁る。使い方としては普段の味噌汁とか、鍋とか要するに濁ってもいいもの、あるいはカツオの味、インパクトが欲しいもの。これには荒節の方が向いているといわれています。食べるとちょっと酸っぱみ、苦み、焙乾臭が強いですね。直接食べるにはあまり向いていないといわれています。濃い出汁をとるときは荒節を使う方が美味しくなります。

 それに対して枯節あるいは本枯節を削った削り節は、おすましあるいはおつゆです。日本料理のベースですね。要するに素材の味を生かすやつです。今の時期ですとタケノコとか、素材の味をそのまま食べていただきたい時に、澄んだお出汁で煮込む、あるいはその澄んだお出汁につけることによって、おいしいたけのこ料理になる。日本料理のベースです。これには削り節が向いています。直接食べても甘み、うまみが強いのはこの削り節の方になります。
 荒節ができました。これがいちばん最初の熊野節の形になります。焙乾したカツオ節になります。これをこのままおいても保存食として使えます。半年ぐらいは保存が効く保存食になったわけです。これをさらに保存させる方法を考えたのが日本人の素晴らしいところですね。発酵させる、要するにカビをつけるという作業になります。

 このカビをつけるときにこの黒い部分、皮の部分が茶色になります。カツオ節を長期保存させるためにはまんべんなく発酵させて、まんべんなくカビをつけることが1つの条件になります。ですからこの皮の部分がすごく邪魔になりますからこれを削っていきます。昔はこれは手作業で、全部ナイフで削っていました。松竹梅とあって、ナイフも数種類あり、その用途に応じてカツオ節の表面を削っていました。今はそういうことをしていると日が暮れてカツオ節が仕上がりませんから、こういうペーパーヤスリで機械で表面を削り取っています。
 削り取ったものは磨節、あるいは仕上げ節ともいいます。表面がつるつるした状態のカツオ節になっていきます。この後、杉の樽を使って発酵させます。田子節の製造方法の1つです。約20日から30日ぐらい高温多湿のムロと呼ばれるところ、うちにもあるんですが温度は28度位、湿度は70%くらい近く、この中に入れて発酵させます。そうすると最初は真っ青い青カビが着きます。これを天日干しすると、表面の菌がほとんど死んでしまいます。ふっと吹くとカビがパッと飛ぶように、カビはみんな死んでしまいます。最初のカビをきれいに払って、また樽の中にしまう。20日くらいおきます。そうするとまたカビが生えてきます。またカビが生えたら天日干します。

 表面についたカビがほとんど死んでしまうとまた樽にしまいます。これを何度も何度も繰り返します。ある程度行きますと、いつの間にかカビが生えなくなります。カツオ節同士を叩くと金属音に近いカンカンという甲高い音になってきます。カビがつかなくなると本枯節と呼ばれる、究極の保存食になっていくわけです。この本枯節ができるまでに6回から7回、この天日干しと樽詰めを繰り返します。
 カビの役割は2つあります。1つはカビをうまくコーティングすることによって保存食、長期保存が効く保存食にすることができます。カビが要するに保護膜になるということです。他の雑菌がつかないということです。真空包装と同じ状態が、200年くらい前に考えられたわけです。もう一つは、カツオ節の中にある水分を取るということになります。中の水分を吸収してカビが成長してきます。6回ぐらいカビをつけるとカビが生えなくなりますが、それはカツオ節の中の水分がなくなるからということです。そうすると本枯節というカツオ節ができます。約半年ぐらいかけて本枯れのカツオ節ができます。

 カツオ節屋さんは雨の日が1日もいらないといわれているくらい、天気がほしい産業です。まんべんなく干します。急に夕立が降ったら運動会みたいに全部仕舞わなければなりません。雨が当たりますと、そこは治りません。ですから雨には細心の注意を払って、天気予報を見ながら、天日干しをしていきます。

●塩鰹
 もうひとつカツオの加工品。先程お話しした塩鰹。わたしたちのところでは商品としては潮カツオと命名しています。これはカツオ節とは全く違う作り方です。
 簡単に言うと新巻ジャケのカツオ版です。そのかわりものすごくしょっぱいです。そのしょっぱさゆえに、あまり食べられなくなった。あるいは期間限定で作られているがゆえに、期間が過ぎるとよその人は全然見ることがない。本当にこの地域でしかない食材あるいは保存食のわけです。それも日本中探してもこの西伊豆町にしかない。しかもこの田子地区がほとんど主に作っているところになります。
 この塩鰹も、本枯れのカツオ節と一緒のように嗜好品です。本当に限られた人しか食べない、知っている人しか食べないという商品になっていますが、日本古来の保存食です。

 カツオ節は大きな魚を切って、煮込んで焙乾して発酵させるという4つの工程を経て作りますが、塩鰹の場合は大きく分けて2つになります。
 切って塩に詰めて、塩の中に漬け込んで乾燥させるというだけです。要するに生の状態のわけです。もう原始的な保存食になります。塩蔵というやつです。昔からほとんど変わらない製造法で作られています。うちの場合は約2週間、塩の中に漬け込みます。漬け込むとカツオから汁が出る。その汁を毎回毎回継ぎ足していきます。継ぎ足していくことによって旨み、発酵方法が促して長期保存が効く、保存が長くきく塩鰹になっていきます。
 約2週間漬け込んでその後約3週間乾燥させます。これも期間限定です11月から1月までの間くらいしか作っていません。西伊豆はいいことに、悪い事でもあるんですが、その時期すごい風が吹きます。西風が強い。その西風を使って乾燥させます。
 塩鰹はお正月の時期に、神棚あるいは玄関先に飾られて新年を迎える時に食べられる、保存食、縁起物ですね。神事も兼ねた保存食になります。こういう神事あるいは風習があったため、田子に塩鰹が残っていくという結果になります。昔はこの塩鰹は日本中の至る所で作られたといわれています。しかし塩蔵しなくても美味しいカツオが食べられるようになったこの時代です、塩鰹というものは作らなくても良い商品になりました。ですけどこの西伊豆地区は塩鰹がないとお正月が迎えられないという、風習あるいは歴史がある。その歴史があったためにこの塩鰹が残っていきます。

 自分からいっても本当に奇跡的に残っている商品の1つだと思っています。塩鰹をいろんなところに持っていくと、皆さんとてもびっくりして集まってきます。他のところではこういうのはほとんどありません。
 これはうちで製法を見学している風景になります。うちではカツオ節の作り方あるいは塩鰹を作っている時、見学あるいは製造の体験などもやっています。海外からもお客さんがたくさん、カツオ節の作り方とかを見に来て頂いています。タイ、台湾とかロシアの方も来ていました。
 あと自分はカツオ節を広げる活動を、いろんなところで教えたりしてやっています。最初にお話ししたようにカツオ節、塩鰹はいまや嗜好品です。皆さんほとんど食べません。削ることも少ないです。味にうるさい方あるいは料亭さん、そういうところでしか扱われなくなっています。ですからいきなりカツオ節とカツオ節削り機を持っていっても、使い方あるいは削り方がさっぱりわからない。これからカツオ節ってお味噌汁やお吸い物ができるといってもなかなかわからない。ですから自分のところでカツオ節の削り方あるいは出汁のとりかたなどを学んでもらうような活動もしています。

 いろんな形でカツオ節あるいは塩鰹を食べてもらえるような活動しています。1月にちょっとイタリアのフィレンツェへ行ってきました。農林水産省のイベントがあって、日本で初めて和食が文化遺産に登録されたところでです。日本の味をヨーロッパに広げようというプレセンの第一弾です。それでカツオ節の代表として呼ばれて、約1週間ですけど行ってきました。
 向こうの方は旨みあるいはカツオ節を本当に全然知らない。食べてもらったり削ってもらったりしたらすごく感動されました。この時に塩鰹をもってい行ったんですけども、見たとたんに、これはなんだとイタリア人がわっと集まってくる。これはカツオの塩漬けでこういう風にやって日本ではお祝いするんだ、自分たちの地区でしか作っていないんだ、という話をすると、お前はそれを守るための運命があるからそれを守りなさい、といわれる。
 そこでまた使命感が出てきて、また塩鰹あるいはカツオ節を日本あるいは世界に広げるような活動ができればと思っています。こんな形でいろんな形でカツオ節あるいは塩鰹が広がっていって、今度またたくさん作られるようになって、もしかしてまた田子にカツオ船が戻れるようになる形があれば嬉しいなと思っています。