蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

考察周易

2005年04月18日 05時06分59秒 | 占術
占いは科学的だという言説がある。科学的であるという根拠が振るっている。つまり何万通りもの計算が必要だからだというのだ。馬鹿なことをいうものではない、四則演算をいくら組み合わせたからといって、そのこと自体が占い行為の妥当性を保証するものではない。前提が怪しければそのうえにいくら矛盾なき論理を組み立てたとしても、それはしょせん胡散臭いまやかしに過ぎない。そもそも「科学」をことさら標榜するものは先ず疑ってかかるに越したことはない。占いを関数にたとえるならば、占いが当たらないのは適切なパラメータが与えられていないからだ、というのが占い師側の主張である。ではどのようなパラメータがいくつ必要なのか、と尋ねたとしても彼らは決して明確な回答をしないだろう。いやしなのではなくてできないのである。あたりまえだ、初めからそんなパラメータなど存在しないのだから。
さて易、つまり周易なのだがこれはパラメータの数が非常に少ない。ここで必要なのは、もちろん若干の道具は必要だが、それ以上に重要なエレメントが占者自身の人生における経験なのであり、これはいわゆる経験科学の通用しない世界だ。他の占いが自己正当化の根拠を十九世紀的経験科学の知見に負っているのとは対照的に、易はわたしたちの慣れ親しんでいるパラダイムとはまったく異なるパラダイムにおいて機能する。だから証明とか検証とかを要求されたとしてもこれに応えることはできない、その意味ではまったく「非科学的」の窮みである。しかし考えなくてはならないのは、易が未来占いや相性判断を直接的に行うものではないということなのであって、ということは例えば宝くじに当たるために何色の服を着て籤を買いにいかなくてはならない、とか歳の差が何歳でどこの生まれの相手が結婚したり、あるいは共同で事業するのにふさわしいとかといった類の情報を、易は直接的に与えてくれるものではないのである。
ではいったい易からわたしたちはなにを得るのだろうか。

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