蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

芳賀留学日誌(一)

2005年08月22日 06時20分12秒 | 黎明記
夏目金之助は明治三十三年(一九〇〇年)英国留学のため、九月八日プロイセン号に乗船して横浜港を出航した。このとき夏目と同じく欧州留学のため同船したのが芳賀矢一だった。道中の様子を芳賀は日記に残している。
「家をいづる時残月天に在り 車を連ねて新橋にいたる 同行の諸氏亦踵いで到る 知友等の停車場に送るもの百人を超ゆ 更に汽車に搭じて横浜に見送りたるもの亦三四十人あり 六時四十分横浜に着 直に波止場にいたりプロイセン号に搭ず」(注1)。日記から九月八日は土曜日だったことがわかるが、それにしても慌しいかぎりだ。新橋駅で百人以上に見送られ、しかも四十人ちかくが横浜まで着いていったというからすごい。とはいってもこれはいまから百五年も前の話、洋行が片道一月半もかかった時代なのだ。わたしはこの人数よりもむしろ出発時刻に興味を引かれる。「六時四十分横浜に着」ということはおそらく五時頃には新橋駅に到着していたはずである。そこから類推して自宅をたったのが四時少し過ぎ頃か。これはたまらない。わたしだったら前日に横浜のホテルにチェックインする。既にグランドホテルが明治三年に建てられているのだから、芳賀はこれは利用できたはずなのにどうしてこんなに慌しい旅立ちを選んだのだろうか。
「船室は百三号にして藤代、稲垣両氏同室なり 夏目、戸塚の二氏は隣室とす 八時奏楽とともに発船す」(注2)。なるほどね、午前八時出航か。それにしてもなんとも際どい出発だ。ここで面白いのは各自個室ではないということ。芳賀先生にしたところで見送りが百人集まろうがしょせんはこの程度の待遇で旅をしなくてはならなかったわけだ。藤代禎輔は一高教授から京都大学の文学部長を勤めた人だし、稲垣乙丙は東京高等師範学校教授で,明治、大正期に幅広く活躍した農学者。そして戸塚機知はなんとあの征露丸(正露丸)の元となる薬を創り出した人なのだから、とにかく錚々たるメンバーだということがわかる。そんな人たちが相部屋の船室というのでは、明治政府もケチったものだ。
「午後三時頃にやありけん驟雨俄にいたりて甲板を一洗す 浮雲往来して富嶽は僅に其頂を認めたるのみ 船遠州灘に入る頃より波浪頗る高く船体やゝ動揺す 同行の諸氏多少の船暈あり 夏目氏最甚しく晩餐に与からず 余幸に毫末の異感なし」(注3)。横浜港出航後七時間経ってようやく遠州灘に入っている。まったくのんびりしたものだ。現代だったら東京から浜松まで新幹線ひかりで約一時間半くらいだろうか。ここには夏目金之助と芳賀矢一の対照がはっきりと出ていておもしろい。写真で見る芳賀の巨躯から想像される彼の健啖家ぶりと、後々ロンドンで欝状態に陥ってしまう夏目の繊細さが直接伝わってくるからだ。飛行機だったら成田を飛び立ってしまえばもう日本に繋がるどのような光景も見ることはできない。一方当時の船旅はというと出航二日目でもまだ紀州沖から淡路島と、いつまでも続く日本の景色。これではわたしなど三日目でもう家に帰りたくなってしまう。その意味では心身ともに堪える旅であったろうと想像する。

(注1)『芳賀矢一文集』611頁 芳賀檀編 冨山房 昭和12年2月6日(引用にあたっては旧字体漢字は新字体にて表記しています)
(注2) 同上
(注3) 同上

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