忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

ガチコメ的「川崎先生」

2008年08月20日 | 過去記事
■2008/08/19 (火) ガチコメ的「川崎先生」1

ずいぶん久しぶりにツレ(4人)と飲む。

うちふたりは小学校3年生からの付き合いだから、もう、28年になる。残りも中学生からだから25年。腐れ縁というやつだろうか。

一人や二人ならばともかく、37歳の今年であっても「来年も旅行に行こう」と7名ほどが予定するのだから、どれほどなのか。嗚呼、気持ち悪い。

しばらくは近況の報告。そして酒がまわってきたところで思い出話から、当然のようにワイ談へ。そう、それは、ぱいおつの話からぱいおつの思い出に・・・そしてやはり、最後は「先生の悪口(笑)」になる。

およそ「学問から最も遠い所」にいるツレが小学校時代の担任について語る。

「ソ連には泥棒がおらんとか言うとったな、あのババアwww」

うん。言うとったww

今、思えば完全に・・・

「あれやろ?あの、ほら、日教組!!」

おおぉ!!貴様ごときにも浸透してきたか!そんなん興味なかったのに!!

でも、それだけだった(笑)。

-

「2組の女の先生は手製の鞭もってたなぁwww」

思い出話は続く。

6年生は3組までしかなく(我々は3組)、担任はいちばんババアだった。卒業式の後、私を贈る言葉が「おまえなんか、ヤクザにでもなれ!」だったあのババアだ。お陰で、ヤクザにもなれんかったわい!!ww で、2組の女性担任が持っていた、なんかすごく痛い棒(鞭みたいな)武器の話をしていたのだった。

アレは何だったのか?

明らかに竹刀のようなものではない。はっきりと覚えている。もっと「しなる」のだ。だが、鞭のように弧を描くわけでもない。それに、不思議なのは「細くない」のである。角材くらいあったはずだ。しかし、その先生は「鞭」と呼んでいた。ちなみに、それで殴られると、

「はっうっっ!!・・・・ぅ!・・・・あぁ・・・!アーッッッ!!」

となる。

まさかアレが「いばらのムチ(敵1グループを攻撃)」なのか。もしくは、「はがねのムチ」・・?いや、まさか、「ドラゴンテイル」??それとも、あの貴重な「グリンガムのムチ」とか・・・?

「2」へ

■2008/08/19 (火) ガチコメ的「川崎先生」2

いずれにしても痛いから止めて欲しかった。あんなもん振り回して、9歳とか10歳の子供をしばきまわすなど、今ならば大騒ぎではないのか(笑)。そもそも、私は「隣のクラス」だったというのに、なぜに最も攻撃を喰らったというのか。「敵全体に攻撃」の性能はなかったはずだが・・・?

もちろん、教師に伝わる伝統的な遠距離攻撃「チョーク投げ」の使用者もいた。単純に「普通に暴力」を使用する教師が多かったから異彩を放っていた。あ、そういえば、あと、恐ろしいのは「ファイル投げ」であった。そこそこ分厚いのに、それをフリスビーの要領で横に投げる。当たったらもう、ヴぁごいrへvじびえbjとなる。というか、目に入ったら失明する。何考えてるんだ。川崎め。

あと、この川崎といえば、だ。その「ファイル」を直接攻撃にも用いるのだ。まさに遠近両用武器「ファイル(黒)」である。もちろん、その使用法は「角でゴツン」である。血が出る。川崎氏ね(たぶん、もう染んでる)。寝てただけぢゃないかぁ!!

まあ、それでも、教師どもによる様々な攻撃にも負けず、我々は「楽しい学び舎」で過ごしたという思い出を語りながら、一杯飲んでいるわけだが・・・

http://sankei.jp.msn.com/world/america/080820/amr0808200928005-n1.htm
<教師の銃器武装を容認、学校銃撃の続発で米テキサス州>

太平洋を越えたところにある人工国家では、とうとう来るべき時が来たようだ。

<西部劇の舞台で名高い米テキサス州の一部で、小中高校の教師に対し、25日の新学期から学校内での拳銃(けんじゅう)携帯が認められる。全米各地で相次ぐ学校銃撃事件に対処するためだが、軍・警察教育機関での射撃教程以外で、銃で武装した教師が教壇に立つのは米国で初めてのケースとなる。>

もはや、頭の中にメガマックが詰まっているんだろう。「警察を置く」のではない。「教師が拳銃を持つ」と書いてある。もはや、アメリカンドリーム。夢と自由では救えない。

無論、校外からの侵入者から生徒を護るためにという大義名分はあろう。そのために射撃の訓練をするということも理由は立つ。しかし、だ。で、最近の「銃乱射事件」においては、明らかに「クラスの生徒」が犯人であった。そのとき「撃ち殺す」わけだ、教師が。

「3」へ

■2008/08/19 (火) ガチコメ的「川崎先生」3

私は、例えばあの「秋葉原事件」の犯人なんぞは「射殺すべきだった」と今でも思っている。他人に危害を加えるキチガイは射殺するしかない。そのキチガイが校内に侵入してきたら、容赦なく射殺することにも強く同意するものではある。

でも、それでも「教師が銃を携帯する」ということの倫理観の崩壊は危惧するところだ。警察官を配備するならばいい。もしくは、アメリカというお国柄から「警備員に銃を所持させる」ということもアリだ。それらの手続きや諸経費を省いて、いきなり教師に所持させるという短絡、浅薄さに懸念することを禁じ得ないのだ。

また、倫理観の崩壊は伝播する。

http://sankei.jp.msn.com/world/america/080820/amr0808200925004-n1.htm
<18歳から酒を飲ませろ、全米100大学長が署名>

また、この「理由」が凄い。

<署名に応じたのはデューク大、タフツ大といった日本でも名の知られた有名大を含む全米100以上の大学長。大学では「浴びるように酒を飲む行為」が日常化していると指摘し、有名無実となっている飲酒年齢制限を引き下げて、むしろ若いうちからきちんと飲酒に関する教育を行う方が望ましいと主張している。>

つまり、

「禁止していても飲むんだから合法にしろ」

と言っているわけだ。教育者が。

さらに、

「そのほうが正しい飲み方を教育することができる」

には恐れ入る。この期に及んでも正当化するわけだ。ご都合主義、ここに極めり。

「4」へ

■2008/08/19 (火) ガチコメ的「川崎先生」4

当たり前すぎる話だが、先ずは「法律を護らせる努力」を要するはずではないか。それを放擲して「法律のほうを変えろ」と抜かすとは、もう、世も末だ。本来ならば「浴びるように飲む行為」が日常化している現状を憂い、問題を提起し、その改善策を講じて然るべき教育者が、

「どうせ飲むんだから禁止にするなよ。うっとうしい。」

と言い放っているに過ぎんわけだ。さすがは世界の警察の国の教師である。

それに、だ。もう結果は出ている。この記事にもある。

<米国の飲酒年齢制限には長い論争の歴史がある。もともと制限は州ごとにばらばらだったが、ベトナム戦争が社会を揺るがした1970年代初め、「18歳で徴兵制による兵役義務が始まるのに、酒も飲めないのはおかしい」との議論から多くの州が制限年齢を引き下げた。だが、80年代に入って若者の飲酒が社会問題化し、1984年に再び飲酒年齢を21歳に引き上げる連邦規定が定められた。>

もう引き下げて困ったから規定を変えたと書いてある。で、また下げろというわけだから、もう、完全に「あとのことは知らん」と言い放っているに等しい。

それに、今より昔のほうがマシだったのは日本だけではあるまい。より酷くなったであろう若者の振舞いをして、今、酒飲んでいいと大人が認めてしまったら、80年代の社会問題どころの話ではない。「酒場」という大人の社交場が崩れるだけでなく、目に見えない秩序も瓦解することだろう。「大人と子供」の境界線は太く引く必要があるのだ。

無論、それは日本も同じである。

例えば、私が中高生の頃「夜遊び」は不良のすることだった。明け方まで公園で缶コーヒーを飲んで話をすることは、叱られるべき行動であった。警察官に見つかったら「家に帰れ!」と言いながら追いかけてきて、補導される類のことだった。私はもう、居酒屋で酒を飲んで、そのあとは「24時間喫茶」に入り浸るか、怪しいツレの家で寝るかだった。

「5」へ

■2008/08/19 (火) ガチコメ的「川崎先生」5

先日、いつもより早く帰宅すると、妻が慌てて私のところにきた。「倅がまだ帰らない」という。最近、ようやく持たせた携帯電話に妻が電話すると、

「友達と公園で話している。もうすぐ帰る。」

ということだった。周囲には何人かの友人がいるようだったという。

時計の針は23時を回ったころだった。その日、倅は友人と近所の祭りに出かけていた。それは私も知っていた。「帰宅せよ」と命じられていた時間は21時。連絡があったとはいえ2時間過ぎているわけだ。倅からすれば、夏休みだし、私の帰宅はどうせ遅いだろうし(笑)、そこそこで帰ればいいという判断だったのかもしれない。しかし、やはり、私には通じないから、電話する。

「・・・すぐ帰れ。」

私の携帯電話からだったから、倅も消沈した声で出たが、すぐに、

「わかった。ごめんなさい・・・」

みたいなことを言っていたと思う。私がすぐに切ったからわからない。

もう16才である。倅の友人も「我が家が厳しすぎる」などと意見をするらしい。ほっとけ。また、倅は「お父さんも高校生くらいのとき、家に帰らんと遊びまくったって言うやん!」などとは言わない。言っても仕方がないことを知っているからだ。

もちろん、成人すれば、もしくは社会人となれば、そこまで干渉はしない。何時にどこにいようが、基本的に倅の勝手だ。そこが危険だったり、怪しかったりすればアドバイスはすれども、犯罪行為や人様に迷惑をかける行為でなければ放置する。しかし、今は「大人の保護下にある児童」である。餓鬼に勝手をさせていいわけない。

「6」へ

■2008/08/19 (火) ガチコメ的「川崎先生」6

震え上がった倅はすぐに帰ってきた。友人の「付き合い悪いぞ!」どころではないと体が覚えていることだろう。そういうとき、私は半端ないからな。

私は「リスク」の話をする。避けろというのではない。背負えと教える。

つまり、

「夜遊びしたければ、ちゃんと不良しろ」

ということだ。

普段、喧嘩もしないし、成績も気になるようだったら不良ではない。不良は不良のリスクがある。したくもない喧嘩をせねばならぬときもあるし、絡まれても「謝って逃げる」ことは恥ずかしい行為となる。度胸と腕っ節で存在意義を発揮せねばならん。でなければ、ただの半端もん、つまり、カスである。

「イイとこ取りするな」と教える。酒飲んだりタバコ吸ったりしたければ、社会に出るか不良になるかであると説明する。普段はいい子のふりして、目の届かないところで「不良のマネ」をするなと教えてある。それは最も恥ずべきことである。

「勉強」も「不良」も「しんどいとこだけ(リスク)」だけを取り除き、悪ぶって中途半端なところで澱むことは恥ずかしい。懸命に勉強するでもなく、クラブ活動に執念を燃やすわけでもなく、不良で逆らい続けることもしない。実に中途半端なところで漂うだけの存在とは、どうでもいい存在である。非常にカッコ悪いと思う。

-

このアメリカの大学も、だ。

徹底的に取り締まればいいのだ。片っぱしから警察に売ってしまえばよい。学校の名前がどうのと気にするならば、それは「堂々と酒を飲む餓鬼」には到底かなわない程度の半端もんである。つまり、「隠れて酒を飲む餓鬼」と同じレベルにあるのだ。

教師に拳銃を携帯させる前に、校内に「絶対に持ち込ませない」と覚悟を決めろ。その覚悟が子供に伝わったとき、餓鬼は大人を尊敬する。それも大事な教育である。

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