哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

池田晶子「死ねば楽になれるのか-再び自殺」

2013年11月16日 | 哲学・心の病
 じっさい、死んで楽になる保証など、どこにもないのである。
 自殺する人は、死ねば楽になる、死んで楽になりたい、その一心で自殺するわけだが、死んで楽になる保証など、どこにもないのである。ちょっと考えればすぐわかるはずなのだが、とにかく生きているのが苦しいものだから、「生きているのが苦しい」の裏返しは、「死ねば楽になる」であると、短絡してしまうのであろう。
 この短絡が起こるもうひとつの大きな理由がある。先に死んだ人は、死んだことで、楽になったように見えるからである。つまり、もう生きていないから、生きなくてもすんでいるから、楽になったように見えるのである。しかし、ここでもむろん、我々は立ち止まることができる。
 なるほで、死んだ人は生きなくてすむから、楽になったように、生きている我々には見える。しかし、死んだ人自身が本当に楽になっているかどうか、じつは知れたものではない。そんなことは、我々にはわからない。ひょっとしたら、死ぬということは、とくに自ら死ぬということは、生きていることよりも苦しいことであったとしたら、どうする。
 「死んだ人自身」なんてものはない。死ぬということは自分が無になるということなのだと、こう考えることもできる。無になるということが、すなわち、楽になるということなのだと。
 しかし、無が楽であるとは、どういうことなのだろうか。無とは、文字通り無なのだから、そこには苦しいも楽しいもないはずである。そんなものは、なんにもないはずである。ゆえに、無になることが楽になることだと言っている人は、無になることが楽になることだと言っているのでは、じつはない。正確には、生きていることの苦しみが無になること、それが楽になることだと言っていることになる。
 けれども、ここでもなお我々は立ち止まることができる。つまり、この理屈によれば、死んで無になれば、生きていることの苦しみがなくなって楽になったと思っている自分もまた、ないはずだということである。楽になったと思っている自分がないのだから、楽になるということも、当然、ない。要するに、生きていることの苦しみが無になることが楽になることだというのは、あくまでも、生きている自分がそう思っているだけだということである。ということは、死ねば楽になるなんてことは、やっぱり、ないということである。
 えい、うるさいわ、理屈なんぞはどうでもいいわ。とにかく自分はこの苦しみから逃れたいのだ、死んですべてを無にしたいのだ。かくして人は、自問自答の堂々巡りの末に、衝動的に死ぬのであろう。
 ああ、しかし、うるさいようだけれども、それでもなお我々は考えられるのである。いやここでこそ、せめて死ぬ前に一度くらいは、まともにものを考えてみていいのである。なるほど、すべてを無にしたい。しかし、無なんてものは、はたして存在するものであろうか。無は、存在するのであろうか。
 なんとまあおかしいじゃないの。無は、存在しないから、無なのであろう。無が存在したら、それは無ではないであろう。なんで死んですべてを無にするなんて芸当が、我々には可能なものであろうか。
 じっさい、こんな理屈は、考える必要すらないのである。在るものは在り、無いものは無いなんて理屈は、理屈ですらないのである。理屈以前のたんなる事実、犬が西向きゃ尾は東、みたいなもんである。なあんだ、というようなもんなのである。
 とはいえ、だいたいにおいて、当たり前なことほど人は気づかないものである。当たり前なことほど、難しい理屈に聞こえるものである。けれども、上のような理屈が、そんなふうに聞こえ、めんどくさくて死ぬ気がなくなったというのなら、それはそれで、無用の用というものであろう。

by 池田晶子


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