哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

ギリシア人にとり議論は一種のパーティー

2013年11月19日 | 哲学・心の病
「議論を通じてよりよい結論に至ることができる」と考えていた古代ギリシア人にとって、真理に近づくことができる議論の時間は、人生の至福の時でもありました。
哲学を英語で「フィロソフィ」と言いますが、もともとはギリシア語「フィロソフィア」でソフィアは「知恵」、フィロは「愛する」という意味です。
つまりフィロソフィとは「知識を愛する」という意味の言葉なのです。
日本語では「哲学」と呼んでいますが、本来なら「愛知学」とでも訳すべきなのかもしれません。

知を愛するギリシア人にとって、議論は一種のパーティーでした。
プラトンの有名な著作に『饗宴(きょうえん)』がありますが、原題はシンポジウムの語源になった「シンポシオン」です。
これがまさに饗宴、宴(うたげ)という意味なのです。
ギリシア人は、仲間で集まってただ酒を飲むだけでは満足しませんでした。
そこには議論が不可欠だったのです。

たとえば、「エロス(愛)とは何か」という設問について一人ひとりが自分の主張を述べ合うのです。
誰かの意見に対して次の人は「いやいや、そうじゃなくて……」と違う意見を述べる。
そうして、誰の意見が最も優れていたかをみんなで判定しながらお酒を飲む。
それが彼らにとっての何よりの娯楽でした。

そこで得た結論は、別にどこかに記録されて「エロスとは〇〇である」と定義が共有されるわけではありません。
一ヵ月後にもう一度「エロスとは何か」という議論をしたときには、みんなまた違うことを言うかもしれないのです。
前回の議論を踏まえて、「前回はここまで議論が煮詰まったから、もう話す余地がないね」という考え方はしませんでした。
その時その時で、また違った主張の材料があれば、議論の内容もまた変わっていく。
もう一度、「エロスとは何か」の議論で楽しめてしまう。
そういうスポーツ的な楽しみを議論の中に見いだしていたのです。


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