哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

池田晶子「死は現実にはあり得ない-自殺」

2013年11月14日 | 哲学・心の病
 年間の自殺者は3万人を超える。交通事故死者よりずっと多い。とくに最近は中高年の自殺が増えている。
 ネット心中の場合は、あれを心中と言うべきなのか、みんなでなんとなく気分にまかせて、といった趣きだが、こちらはおそらくそうではない。おそらく、一人で深く思い詰めて、しかし最後まで周囲を気遣って、という人が多いと思われる。
 人間は自殺する唯一の生物である。以前にも述べたけれども、それは、人間が観念としての死をもつからである。観念としての死とは、要するに、現実の死ではないところの死である。しかし、現実の死、つまり自分が現実に死ぬ時には、自分が現実に死ぬのだから、自分が現実に死ぬのではない時の死は、すべて観念としての死である。ということは、生きている限り、人間にとっての死は、すべて観念だということである。死は現実にはあり得ないという、驚くべき当たり前のことである。
 当たり前、よく考えると確かにこの通りなのだが、当たり前のことほど人は考えないものだから、多くの人はこの当たり前に気づかないまま、一生を終えることになる。それが、他人事ながら、もったいないと言えばもったいないような感じがする。
 自殺する人は、どうして自殺するのだろうか。
 絶望して、追い詰められて、他にもどうしようもなくなって、つまり、もうそれ以上生きていたくなくなって、人は自殺するのである。観念であるところの死は、通常は、恐怖されて避けられる対象となるが、この場合は、求められ、欲せられる対象となる。しかし、考えられていない死が、恐怖の対象であるという点は、おそらく変わっていない。ゆえに、この時、死は欲せられながら恐怖されるわけである。恐怖されながら、欲せられるわけである。これはものすごい葛藤であるはずだ。やはり他人事ながら、この葛藤を想像すると、それだけで気の毒な感じになる。
 で、この葛藤を超越するために、自殺する人はどうするかというと、衝動に身をまかせるのである。発作的に死ぬのである。たぶんそうだと思う。何がどうあれとにかくもう生きていたくはないのだ。ただその思いだけで、エイヤッと跳ぶのである。
 ところで、再び冷静に考えてみたい。人が、「生きていたくない」つまり「死にたい」と思うということは、死ねば、生きなくてすむと思うからである。死ねば、死ねると思うからである。しかし、これは本当なのだろうか。
 なるほど、生きなくてすむためには、自分を殺すしか方法はない。自分を殺すということは、自分を無くするということである。自殺する人は、自分を無くすることを欲して、つまり無を欲して、自殺するのである。しかし、死ぬということは、無になるということで、本当にいいのだろうか。
 なるほで、死んだ人はいなくなって、無になったように、生きている我々には思える。けれども、死んだ人は死んで無になったと本当に思っているのなら、なんで我々は墓参りなどするものだろうか。なんで心の中で語りかけたりするものだろうか。これは、死んだ人は無になったとはじつは誰も思ってはいないことの、まぎれもない証左であろう。
 だからと言って、これは、死後にもなお何かがあるという話とも、ちょっと違う。死後を云々する人とて、生きている人なのだから、そんなのが本当なのかどうかわからないのは道理である。唯一確かに言えるのは、以下の恐るべき当たり前、すなわち、無なんてものは、無いから無である、このことだけなのである。
 その意味で、自殺は逃げであるというのは、まったく正しい。我々は、生きることからは逃げられても、無くならないということから逃げられるものではない。そのことをどこかで知っている我々は、それを指して、「後生が悪い」と、正しく言ってきたのである。

 死なんとする人、待たれよ、しばし。

by 池田晶子


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