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ゆっくり、のんびり、あせらずにやるしかない

波乱万丈な日々も落ち着いてきたと思っていたら
母がアルツハイマー型認知症になりました。

ガーダンに口説き(愚痴)殺される~~~

2005年07月06日 21時16分26秒 | トラウマ(心の傷)
ガーダンは、愚痴愚痴愚痴の無い日は無い。
たわいないことから、職場のことまで

先週とても体調不良だと思ってたら
ガーダンの職場の愚痴が原因だった。

人間関係のことで辞めるの辞めないの話
ストレスでうつにでもなったら大変だから
少しは聞いてあげようと思ったのが間違い

普段から愚痴いってる人はうつにはならない
言い放題だもん、遠慮って物もないし
カウンセリングの先生も言ってた。

前の職場を辞める時も散々口説いて
単身赴任かリストラかで私を苦しめた。
私の意見を求めたけど上手くいかなかったら
私のせいにされてしまうのが見え見えだったから
自分できめさせた。

ガーダンはリストラを選び、
パソコン教室、訓練校へと行き
職安でいまの職をやっと見つけたくせに

いくらでも働く所はあるなぞとぬかす。

あの時、私はっきり言って子ども達の事と
自分のこと、親の会のことで頭満杯だった。
食べていけなくならないか・・・
障害児二人も居るのに・・・
誰もが大丈夫だと言っても耳に入らなかった。

もう、うつになってたのかも・・・・・。

だから今回の職場騒動の話の毒気に当てられて
体調不安定になったのだわ。

結局、今の職場のままで行くそうだ。



私の物語(4)

2005年06月26日 21時24分04秒 | トラウマ(心の傷)
私は、おとなしいよい子だった。
ひたすら褒められるのを好んだ。
怒られる、怒鳴られることを極端に避けていた。

両親の職業上親に辱をかかせてはいけないと
周りから思い込まされていた。

一人娘だからお婿さんを貰うものだと
周りから言われていたから嫁に行くなど考えた事も無かった。

はっきり言って子どもらしくない子ども

父に捨てられるのを恐れた
母はホローしてくれるような態度をしめしてくれなかった

だから、父の言うことは絶対だった。
父がダメと言えばダメなのだ。

どんなに泣いてもどんなに頼んでもダメなのだ。

お見合いはたくさんした。
父のめがねに叶う人はいない。
私の好みもいなかったけど。

ガーダンは、当時某有名電機メーカーに勤めていた。
父は、ガーダンを職業で選んだのだ。
特に嫌なタイプでもなかったから結婚した。

後から母が嫌だったら断ってもよかったのにと言った。
逆らってもいいなんて思っていなかった。
嫌だと言ってもよいなんて思いもしなかった。
それならそうと言ってくれれば良かったのにその時に
もう・・・後の祭りです。



私の物語(4)

2005年06月10日 22時17分02秒 | トラウマ(心の傷)
私は一人娘で重箱入り娘です。
兄弟はいません。兄弟ってどんなものかも知りません。
一人遊びは得意でした、一人何役もしての着せ替え人形
よほど気が会わない限り誰かと遊ぶのは至難の業。

保育園時代は黙って誰かが誘ってくれるまで待つ子ども。
自分から「遊んで」とか「入れて」とか言いません。
受身体制の子どもだった。
ある日先生がそんなことでは「がーこちゃんの為にならない」
私が自分で「入れて」と言わなければ遊んではいけません令が出た。
みんな、先生の言うことに従い声をかけてくれなくなった。

スクールバスなど無い時代保育園児がバスの定期を持って通っていた。
あの頃はバスガイドさんがいたから可能だったのかもしれない。
みんなが遊んでいる所で黙ってみているとバス仲間が誘ってくれた。
周りのみんなが「入れてって言わなかった」と言うとその子は、
「言ったよ、小さい声で」と庇ってくれた。

残念ながら小学校は別だった。



ところで、話は飛びます現在へ・・・・・・。
最近前向きに考えられるようになって、
せっかく「笑顔君」に貰った3年間で青春を取り戻そうと考えた。
青春って言っても「日程君の母になると決めて封印したものを解くだけ」

不器用な私はいっぺんに二つのことが出来なくて
「日程君が壊れ始めた時」に大好きな漫画本を全部箱に入れてしまった。
絶対買わないことを胸に誓い(大げさ)ました。
笑顔君の送迎を母に頼み、日程君が小学校に上がる時から日程君だけの
母になるつもりでした。
学校について行って日程君が安心するまで教室にいました。
なにせ、7人の大所帯で先生の手も足りない目も届かない状態で、
おとなしい日程君にまで手が回りませんでした。
1時間めが9時半に始まっていました。
でも楽しかったですよ、一緒に遊べて・・・・。

日程君の母になると言いながら笑顔君の親の会の役員までして
役員は2年間で辞めさせてもらいました。

ええと・・・・・話が・・・ややこしくなってきた。

何を一番言いたいかと言えば、もしかして私は一人しか子どもを育てられない人だったんじゃ
ないのかなってふっと思ったもので・・・・。
たまたま二人とも障碍を持って産まれてきたけど、
もしかして普通の子でもダメなんじゃないかってふっと思った。

でも母が「出来ない人ががんばったから日程君がこんなによく育ったんだよ」と言ってくれた。
笑顔君に貰った3年をもっと日程君に使った方がいいかなと思ったけど
やっぱり母が「子どもが居ない時に、漫画も読めばいい、ゲームをすればいい。
そして、リフレッシュして日程君の相手をしてあげればいいじゃない」と言ってくれた。

「あんたが頑張って育てたからばあちゃんでも相手に出来るんだよ」と言ってくれた。

最近反抗期な日程君に前向きに考えられて居た私が後ろ向きに戻るところだった。

なんだか支離滅裂な文章にお付き合いしていただきでございます。


私の物語(3)

2005年06月09日 15時36分19秒 | トラウマ(心の傷)
最近死んだ伯父や祖母の夢を見る
生きている時には、会話も無かった伯父と
夢の中では楽しく会話が出来て
一緒に食事をしたりしている。

1年忌のの前は2日続けて見た。
伯父が「がーこ大丈夫か?」と心配して声をかけてくれた。

今日は、祖母が「笑顔君」のうんちの処理をしてくれて
「いや~久しぶりにこんなことした」とニコニコしていた。

私は昨年相次いで伯父と祖母と父方の義理の伯母を亡くした。
死んだ晩おじが帰ってきたとき顔や手に触れた。
ペタペタ触った、遠慮なしに。
生きていたうちにそうしたかったけど、出来なかった分遠慮なく触れた。

もっとお見舞いに行けばよかった。
もっと話がしたかった。

白血病でドナーが見つかって骨髄移植をしたのに治らなかった。

祖母は施設に入っていて時々会いに行っていた。
でもなくなる頃は1ヶ月に1回くらいしか行かなかった。
私が行くと「がーこちゃん来たよ分かる?」と言う伯母の問いかけに
「わがる」と答えてくれたし手を握れば握り返してくれた。

でも、うつになって体の調子が悪くなって寝てばかりいたから
たくさん会いにいけなかった。

会いに行くたび小さく小さくなっていった。
待っててくれたのに子どもが小さいうちは行けなかった。

私はまだ死を受け入れてないのかもしれない。
一連の儀式に参加できなかったから
ちゃんとお別れをしていない。
お墓参りにも行ってない。

急に思い出して涙が溢れてきた。
会いたいなぁ、会いたいよ。
でももう、もういない・・・・・。

私の物語(2)

2005年06月05日 21時58分45秒 | トラウマ(心の傷)
私は、怒られる叱られるのをひどく恐れる子どもだった。
忘れ物をするのも極端に恐れた。
必ず学校で忘れ物検査、衛生検査(つめの長さ)が毎週朝あった。
女の子で忘れ物をするのは恥ずかしいことだと思っていた。
汚い話だが今みたいにポケットティッシュなど無い頃
鼻紙を小袋に入れて持ち歩いてたのでかみ終わった物も入れてあって
それが乾いていてそれのしわを伸ばしごまかし、
ハンカチ入れたまま洗濯したスカートのポケットからシワシワの
ハンカチを伸ばして、つめはご想像どうり歯でカジカジで切り抜けていた。

小学3,4年の先生はとても意地悪でPTAにも評判が悪い女性であった。
私は登校拒否をするので嫌われていた。
分からない時は「分かりません」と言いなさいと言われたんだが
言えなかった私は先生に今日一日立っていなさいと言われ
馬鹿正直に立っていた給食の時間まで

そういうことが何回もあってどうせ立っているならとお地蔵様の立ち姿を
先生に言われるままにやって「あら、じょうず」と褒められた。
手をにしてゆっくり上にあげ耳の辺りで手を開くと言うのを
何回かさせられて「あらじょうず」と褒められていた。
自分では意味が分からず先生の指示に従って褒められたとしか感じなかったけど
今思えば、すごい「いじめ」だったんだ。
だって私は、パーですてやらされてたんだから・・・・・。
それにしても気づかないなんて変だぞがーこちゃん

だから、家に帰ってもそのことを親には言わなかったから母は知らなかった。
PTAで問題になってその先生を追い出そうと言う意見があって話を持ちかけられたけど
チンプンカンプンだったらしい。
かなりあと(大人になって)になって言ったら何で今頃言うんだ~~~~~と言われた。
よくニュースで先生にいじめられて自殺した話で気づいたの。
あ~~あれはいじめだったんだと後から気がついたんだし(爆)

私の物語(1)

2005年05月29日 09時44分55秒 | トラウマ(心の傷)
長年の謎解きにも書きましたが
祖父の何気ない「こんなの外だ」と言う言葉は
私を傷つけました。愛されていないと思い込みました。

祖父はよく旅行に行きました。
私と内孫は4歳違います。
お土産を買ってきてくれました。
私には年齢相当のものを、いとこ姉妹には同じものを
でも私は、いとこ達と同じものを欲しがりました。
差別されていると思い込んでいました。
私のお土産の方が価値のあるものであっても
内も・外も孫として同じものを買って欲しかったのです。

祖父は「がーこがかわいそうだから」母に仕事を止めるように
何回も言ったそうです。
母は、仕事を続けました。
熱があっても母は休んで看病はしてくれませんでした。

そして私は、小学校に入ると朝お腹が痛いといって
休みがちになりました。
その頃母も体調を崩し入院して仕事を辞めることになりました。
家に帰ると母いるのがとても嬉しかった。

けれど、母は病気が治るとまた働きに行ってしまいました。
また私は、お腹が痛いと言っては学校へ行きませんでした。
母は私を連れてドクターショッピングを始めました。
でも何処も悪くはアリマセン。

成長期になると足が痛くなりました。
今思えば成長痛だったんでしょうけど
または母はドクターショッピングをはじめました。
風邪の菌が血液に入って悪さをするのではないかと
診断するドクターがいました。
そこで両親はこう言いました。
入院して学校へ通学
はきり言ってショックでした。

「捨てられた」と思いました。
私はただ母に側にいて欲しかったそれだけそれだけだったのに

そして、分かったこと(2)

2005年05月29日 09時10分34秒 | トラウマ(心の傷)
そして分かったこと(1)については、
誰かに言われてもダメなんだってこと
自分で気づくことが大切です。

そのためには、カウンセリングを受けて自分を見つめ
心の奥にしまいこんでしまったものを捜し受け止め
自分を見つめ洞察することが大切なことです。

カウンセリングを受けて1年目にやっと気づきました。

そして、分かったこと

2005年05月25日 19時53分44秒 | トラウマ(心の傷)
謎解きで分かったこと

自分が思っているほど相手は思ってない

自分が裏切られた思い込んでいるだけで
相手は私のことをそれほどとは感じていない

相手は私が思っているほど傷ついていると思っていない

私が尽くすほど相手はありがたいとは思っていない

私は思い込みが激しすぎる。

と言うことです。


長年の謎解き(2)

2005年05月24日 17時54分37秒 | トラウマ(心の傷)
今でも不思議なのは、彼女とは二人だけなら仲良し
でも、ひとたび集団に入ると意地悪な人に変身するのだ。
帰る方向が同じなのに追い抜いたり抜かれたりして
二人とも意固地になって帰って行った。
そのうち私のほうから「一緒に帰ろう」と声をかけた。
彼女は「ほっと」したようだった。
何事も無かったように帰った。
それにしても中学生の集団は怖い。

高校は、別方向で彼女とは会うことはなくなった。
私は隣町の高校へ、彼女は隣市の高校へ
その後成人式まで会うことは無かった。

隣町の高校へ入るとクラスはその町の人が過半数を占めていた
ほとんど知らない人ばかりだった。
一年生の時席が後ろの子に声をかけられ友達になった。
「ゆーごん」って呼んでねって言われて何をするにも
一緒だった、同じ学校からの友達かと思われるほどに
でも席替えがあって遠足が終わるとまた別の子達とも
仲良くなった。
別の子達とお弁当を一緒に食べようと誘われて
断れなかったし、「ゆーごんと食べる」とも言えなっかた。
それっきり、ゆーごんと話をすることも無くなってしまった。
ゆーごん、ごめんね。私器用じゃないの、本当にごめんね。
そして、二年生になるとクラス替えがあり「ゆーごん」とは
違うクラスになった。

今度のクラスは元1年8組の人が過半数で、
また知らない人ばかりになった。
一年生の時体育とかで一緒だった隣のクラスの人がいたので
今度は自分から「私も入れて」と声をかけて仲間に入れてもらった。
昼休みのたび元8組のリーダーが「あそぼー」やって来てみんなごっそり
いなくなった。ちょっとしらけました・・・・・。
でもしばらくすると、誘いがあっても行かなくなった。

今思うと人生一番輝いていた時期だと思う。
担任も若く、みんな仲良かった、楽しいクラスだった。
夏休みにクラスでキャンプをした。
そんな頃から、お弁当の時間になると必ず胸が苦しくなった。
「どうしたの?」と聞かれても自分でも分からなかった。
今思うと、中学時代のお弁当の時間のトラウマだったのだ。
次の年もクラスは持ち上がりだからメンバーは同じ
その頃からなぜか猜疑心が強くなって行った。
居心地がよければよいほど、仲がよければよいほど
優しければやさしいほど、人が信じられなくなっていった。
国語の時間に水戸黄門ごっこをしようと言うことがあった。
先生に礼をする代わりに「はははー」と言ってひれ伏すと言うもの
だけど、私は嫌だった。席が一番前だったので不安だった。
後ろが見えないから、みんなが信じられなくて嫌だった。
だから、私は絶対しないと言い張ってやらなかった。
私以外全員水戸黄門ごっこを成し遂げていた。
そのことについて誰も私を責めなかった。
「なんで、しなかったの」と聞こうとする人をそんなことを
言ってはいけないと庇ってくれる人がいても
こんなに、いい居場所なのに、みんなを裏切ってしまった。

きっとまた条件付の優しさだと思い込んでいたのだと思う
中学時代のお弁当のトラウマが私を頑固なものにしていたのだ。

そしてそれからいろいろな人間関係を経験し
仲間だと思っていた人に裏切られた経験を積み

大人になって、結婚して子供の親になり、たまたま障碍児二人も授かり
各親の会、学校の親達との付き合いで、またも裏切られ騙されて
仲間はずれが嫌で「NO!」といえない人間になり
子供のためと言いながら子どもを壊し、自分をも壊してしまった。
そして、現在の「うつ」の私がいてカウンセリングを受けたことで
長年の謎が解けたのでした。

さて私はこれからどう生きていけばいいのでしょう。
父の遺言ともいえる言葉は以下です。

どんなに親しくなっても心を許すな・信じるな

困ったな~どうしよう?


長年の謎とき(1)

2005年05月23日 23時18分45秒 | トラウマ(心の傷)
いつもそうだった。居心地のよい場所なのに
2年目になると猜疑心が芽生えてくる。
人が信じられなくなってくる。
仲良くなればなるほど・・・・・。

障碍児の親になって、自分から飛び込んだ親の会
「情報が欲しい・仲間が欲しい」だけどいつの間にか
出来ないことでも「NO!」と言えなくなって
許容量を越えた行動をしてしまう・・・・なぜ?

眠れない日、ブログに書き込めなくてノートに書きなぐった
そのことをカウンセリングの先生とお話した。
そして「謎がとけたじゃありませんか」と先生が言った。

これからはがーこの昔物語の始まりです。

私の両親は共稼ぎ私は母の実家で育てられた。
未だ結婚していなかった伯父は私を我が子のように可愛がり
勤め先にも抱っこして連れて行くほどだったらしい。
だから未だに私が伯父の子どもだと思い込んでいる人は多い
はしの使い方を教えてくれたのも伯父だった。
母が伯父を「あんちゃん」と呼んでいたので私もそう呼んでいた
記憶がある。

だが、伯父が結婚すると状況は一変した。
突然「あんちゃん」が「おじさん」になり
そう呼ぶのに抵抗があったし恥ずかしかった。

孫が出来ると更に状況は最悪となり口を利くことも無くなり
産まれたいとこをみんなのように呼び捨てにすると
伯母(伯父さんの奥さん)は「ちゃんをつけて呼びなさい」と言った。
みんなの関心がいとこに集中すると悔しくていとこをつねったりもした。
触ることさえ伯母は許さなかった。

祖父と歩いていた時「かわいいね、お孫さんかね」と聞かれて
祖父は驚くことを言った「こんなの外だ」と・・・・。
孫に内と外があることを知った。とてもショックだったのを覚えている。

それでも曾祖母が生きていた頃は、居場所も逃げ場もがあった。
とてもかわいがってくれて、確か七五三の写真を撮りに写真館に連れて行かれた。
曾祖母の姉妹に着物を着せられ薄毛の髪にお花をつけてもらって。
曾祖母と一緒に姉妹の家に茶のみに行ったり、
駄菓子屋さんでお菓子を買ってもらったり
この頃には心の居場所もちゃんとあった、確かにあった。

曾祖母が亡くなると居場所は無くなった。
曾祖母の姉妹の家に一人で行けるわけも無く、
保育園時代友達は男の子だけ、やさしい男の子。

そんな時近くに住む同い年の女の子と知り合い友達になった。
今思えば友達なのかどうかは分からないただその子しか近くにいなかっただけ。

私はお友達が出来て好きになるとなんでもしてあげたくなるし
お誕生日にはその子の欲しい物をプレゼントするのが嬉しかった。
大盤振る舞いになちゃう。曾祖母たちに可愛がって貰ったからかもしれない。

今思うとどの子も私を同等のものとして見ていたのではなかった。
常に自分より劣る存在でなければならなかったらしい。
小学校時代は、先生に好かれるタイプでもなかったし
運動神経が特によい訳でもなく、お勉強も出来る方ではなかった。
一緒の書道塾に通っていたが比べ物にならない差があった。

ところが中学校になるとなぜか私は成績が良かった。
相変わらず運動音痴、同じクラブに入って実力は彼女に劣る。
同じクラスでなかったのが良かったのかもしれない。

だけど二年生から同じクラスになり、三年も持ち上がりクラス。
でも担任の先生が指導力のある人だったから特に問題は起こらなかった。
だが、新春書初め大会で彼女より劣っていなければならない私が
彼女と同じ準特選をとってしまった。
書道教室では私が未だ級のころ彼女は段位で名前も貰っていた。

三年になってクラス担任はよそから来た頼りなさそげの先生
しばらくして、いじめが始まった。
給食の時間いつも一緒に食べていた彼女達私を入れないようにした。
突然のことだった。昨日まで四時間目まで何の予兆も無く。
自分の席が教室の真ん中にあった涙こらえてお弁当食べ始めた。
のどが通らなかった。苦しかった、悲しかった、逃げ出したかった、
でも私はそこにいた。
学校が終わるまでそこにいた。

次の日、一人で食べようと決めて休むことなく学校へ行った。
給食の時間になると別のグループが誘ってくれた。
でも、これは条件付下心のある親切だった。
それは、席替えのたび一番前と変わるとか、
自分のグループに都合の良い席順にするための、
将棋のこまみたいなものが条件のグループだった。

ある日教室の左の後ろの端が当たった。
例のごとく変わってくれと言われたが、変わらなかった。
一人で食べる方が気が楽、それにこんないい席だもん。
その日から卒業までずーと一人でお弁当食べた。





トラウマの始まり

2005年05月12日 23時14分32秒 | トラウマ(心の傷)
トラウマが始まる前は、一瞬これが治るってことなのねと言う時期があった。
トラウマが出現しなければ治ったかもしれないなんて思ってしまう。

それは「新潟中越地区地震」の夜から出現した。
中越地区ではないため、直接の被害はなかったが、すごく揺れた。

実は今から40年ほど前に「新潟地震」があったのだ。
その頃はまだ1歳半くらいで記憶は無いのだが、身体が覚えていた。

その夜から3日寝られず、食事ものどを通らなくなり、めまい
のどが詰まる感じ(泣きたいのに泣けない時や夢の中で言いたいことが言えなくて苦しい)
などが出始めた。夕食時だったので食事の時間になると苦しくなった。

カウンセリングの先生によると多分「その時も」同じ症状が出たはずのこと。
まだ、小さくて上手く怖さを大人に伝えられなっかただろうし泣くにも泣けなかったのだろう。
心のケアなども無かっただろうし・・・・・。
その日をきっかけとして、忘れていたいろいろな心の傷があふれ出し始めた。

まるで、戦場(経験ないけど)のようだった空港が近いためか、
我が家の上をひっきりなしにヘリが飛んでいた。
夜明け4時ごろから8時ごろまでその音も怖かった。
TVはそのニュース一色になり、毎日毎日地震発生の日の映像を流し続けた。

そう言えばやっと最近ヘリの音が至近距離で聞かれなくなった。
めったに飛行機も飛ばないし・・・・・・・。何だったんだろう・・・

やっと最近普通食がのどを通るようになった。

実際に被災した中越地区のことを思うと胸が痛む。


トラウマ

2005年05月09日 21時54分24秒 | トラウマ(心の傷)
笑顔君は、措置入所なので措置費決定のための
書類を提出しなければならない。
今日はやたら眠い日で10時頃から午後3時近くまで
布団から出られずグースカ寝てしまいました。

それから昼ごはんを食べてなのでほとんど夕方
予防の意味で飲んでる「デパス」飲むのを
忘れていた。

措置費の書類を書き終えたとたん呼吸困難
動悸、胸の痛みに襲われた。
急いで「デパス」を飲んでパンダのぬいぐるみを
抱きしめて布団に入った。

「笑顔君を入所させるための書類」それだけで
身体が反応してしまう、自分でもびっくりした。

「がーこさえウツにならなかったら」とまだ
心のどこかで自分を責めているのかもしれない。

いるべき場所にいない笑顔君
そろそろ会いたくなってきた
来週にでも連れて来ようとがーこの母が言った。
この頃うつモードに入ってるからな~