koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

天地人-第20回「秀吉の罠」

2009年05月17日 20時34分29秒 | 天地人

天正10(1582)年6月,先週は本能寺の変(何と本能寺が爆発していました)の後,5分たたぬうちに山崎の戦いで光秀が敗れて土民の竹槍にかかって命を落としたと思いきや,今日の始まりは秀吉がポスト信長の主導権を握った清洲会議で,翌年の賤ヶ岳の戦いと3年後の佐々成正征伐が一気に語られました。


おいおい,この時期の上杉氏は実は大変な時期で,御館の乱の戦後処理(新発田重家征伐)とか,武田氏旧領から滝川一益が伊勢に退去した後に北条氏直と徳川家康が侵攻してきたのを信濃出兵によって牽制した天正壬午の乱,それに伴う真田源二郎信繁(幸村)の人質,そして賤ヶ岳の戦いでは秀吉方としての後方支援(富山城への出兵は果たせず),小牧長久手の戦いでは富山城の佐々成正を釘付けに・・・といった具合に,常に武装を解けない緊張状態にあったと思われます。
ですから,天正11年時点で既に景勝は秀吉に通じており,今回のように秀吉来る,の報に改めて戦々恐々することはさして無かったと予想されます。
特に,賤ヶ岳から佐々征伐は隣国での出来事だけに,御館の乱で国力を疲弊させた上杉家にとって重大な局面であったと予想されます。
それを全くカットして,初音おねいさんの来訪に慌てふためく兼続の様子が莫迦丁寧に描かれるとは,予想されたこととはいえ残念でした。
いくさしろよ,戦国武将だろ,と,ついつい不謹慎な突っ込みを入れてしまいました。
実際にあったかどうかも疑わしい手取川で臆して逃げ帰り,御館の乱では小競り合いを少し,後は史実とはほど遠い魚津城で怪我をして・・・と,戦闘シーンらしいものが殆どありません。
そのあたりが,重厚な戦闘シーンがあった(上田原とか)一昨年の「風林火山」との大きな違いでしょう・・・。


秀吉と景勝が初めて会ったのは,天正14年の上洛の際,と思っていましたが,その前年に越後で会っていたという伝承が有るのですね。
三成を「佐吉」と呼んでいたのは正しいと思いましたが(このあたりの諱については一度調べて述べてみたいものです),富山城でご乱交の秀吉の傍には何で謹厳な三成しか居ないのでしょう。
近習ということなら,加藤虎之助と福島市松とかも居たはずです(口が過ぎるのでこの2人に嫌われるぞ,なんて言われていましたが)。
さらに秀吉の腹心・身内ということなら身分からいって前田又左衛門利家とか浅野弥兵衛長政,或いは弟の羽柴小一郎秀長とかが居たはずで,編み込み三成一人とは解せません。


うーん,飽きずに見られるからよいものの,かつての大河に感じられた格調とか感動とはほど遠いものとなっているような気がしてなりません。
やはり脚本と演出のせいでしょうか・・・。
少なくても,考証の甘さを私如きに突っ込まれるようでは先が思いやられます・・・。
どうもすっきりしないので,「国盗り物語」(73)の総集編でも見て寝ることにします・・・。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿