いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(387)「主を手触る秘訣」

2014年11月19日 | 聖書からのメッセージ
 「詩篇」22篇1節から8節までを朗読。

 3節「イスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです」。

 1節に「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」とありますが、これはイエス様が父なる神様から神の子としての身分を剝奪(はくだつ)され、罪人として神様から追放されてしまう、十字架上で叫ばれた詩篇です。父なる神様から捨てられること、これはイエス様にとって大きな苦痛であり、恐らく最も重い刑罰であったと思います。物が不足するとか、事情、境遇、事柄がどうであるとか、困難を極める、困ってしまうという以上に、イエス様にとって絶望の中に落とされたことです。イエス様は常に父なる神様と共におられた御方でありました。どんなときにも「父よ」、「父よ」と父なる神様との交わりを持っていましたから、どんな中に置かれても失望しない、またくじけない。絶えず父なる神様から励ましと力と慰めと望みを受けていました。ところが、そのいのちの源である父なる神様から罪人とされて、命を絶たれてしまう。まさにこれがイエス様の十字架の御苦しみの最たるものです。やりで突かれたり、茨(いばら)の冠をかぶせられたり、手を釘で打たれたとか、それは確かに痛いに違いない。私たちはちょっとしたことでも、「血液検査をしましょう」と言われただけでもびくっとしてしまいます。痛いのはいちばん嫌です。だから「イエス様の茨の冠は痛かろうな」とか「胸をやりで突かれて血を流して大変だったろうな」と想像しますが、確かにそれはそうでしょう。それは想像を超えた苦しみだろうと思います。しかし、イエス様にとっていちばんの御苦しみは何であったか?それは父なる神様から捨てられることです。この「捨てられる」というのは、言葉だけではなくて文字どおり神様との交わりを絶たれることです。だから、1節に「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか」と叫ばざるを得ないのです。ダビデはイエス様の御苦しみを先取りして、ここに歌ったのです。神様との交わりが消える。神様がどこにおられるか分からなくなる事態です。

 私たちも同じような事態や事柄をよく経験します。祈っても、祈っても、何だかぬかに釘で、「どこに神様がおられるのかしら」と思うような事態や事柄があります。2節に「わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません」とあります。神様は私と共にいらっしゃるのだ、と信じています。だから、祈ると、神様が手応えを感じさせてくださる。そういうときは、大変うれしい。いろいろな問題や悩みの中に置かれて、夜も眠れなくて一生懸命に祈ります。主を求めて祈ります。そうして祈ると、確かに「主が答えてくださった」、「本当に神様が支えてくださる。きっと神様は私に最善の道を備えてくださる」という、確信を与えられます。そういうときは安心になります。「お祈りしたから大丈夫。もう心配しない」という、そういう確信が与えられる。これは誠に幸いなことであります。ところが、時にはいくら祈ってもなかなか安心がない。どうしても不安が消えない。思い煩いの中に絶えず立ち返って、まるで泥沼に足を取られたように、いろいろな思いが次から次へと心に湧(わ)いてくる。そして、一生懸命に神様に思いを向けようとするけれども一向に安心が与えられない。心が落ち着かないという事態になります。そうすると、祈っても「神様は聞いていてくれるのだろうか」「いったい神様はいらっしゃるのだろうか?」と、サタンは巧みに私たちの心を引っ張って行って、神不在の恐れ、不安、闇の中に私たちを引き込んで行きます。そうすると「私があんなに神様を喜んでいたのは、一時的な感情の高ぶりだったに違いない」と、「神様はそもそもいらっしゃらないのだ」とか、そういう勝手な思いにサタンは私たちをどんどんと引っ張って行きます。気がつかないうちに神様から遠く離れてしまって、まるで「大波にて 打たれ沈みけり」(霊感賦154番歌詞)、どこへ行ったか分からなくなってしまう方もいます。神様が私たちと共におられることを絶えず実感する、手で触るようにしっかりと手応えを感じて生きることは最高の恵みであります。私たちはお祈りをし、聖書を読み、信仰に立って、と思いますが、しかし、現実のいろいろと聞くおとずれ、見る事柄、また自分の身に降りかかってくる事態や事柄は、そう生易しいものではないことも体験します。むしろそちらのほうが激しい力をもって私たちを不安に陥(おとしい)れる、不信仰を起こさせる。これはサタンの力であると同時に、神様が与えてくださる一つの試練でもあります。そういう戦いの中にあって、いちばんの大切な私たちが求めるべきものは、主がここにおられることを確かなこととして確信を持つことです。その信仰が与えられれば、たとえ目の前の状態や事柄が変わらなくても、「大丈夫」と言えるのです。ところが、神様が共におられることがはっきりしない、確信が持てないでいると、受けた問題が小さな問題であっても、とてつもなく大きく見えるのです。苦しくなるのです。だから、神様が私と共におられるという、その臨在を常に覚え、感じて体験することが大切なことです。これを失うと、いのちをなくします。

 ヤコブはお兄さんエサウをだますようなことをして、お父さんイサクの祝福を全部受け継ぐ者となりました。彼はお父さんの家督を継いだのですから、本来その家にズーッといてもいいわけです。しかし、彼はとうとう家を出されてしまいます。神様の祝福を受け継いでお父さんイサクの家督の権をもらって、本来ならば何も心配のない世継ぎといいますか、家を継ぐ者となって、その家におってしかるべき身分となったわけです。ヤコブは神様の祝福をもらったために、兄弟げんかまでしなければならない。何か矛盾した感じですね。人の思いから言うならば、後継ぎになった人が家に残るはずです。そして、神様の祝福を受けるのだから、そんなつらい話にはなるまい。むしろ次から次といい話ばかりが舞い込んでくるに違いない、と期待します。ところが、ヤコブが受けたことは全く逆です。「そうだったら、こんな祝福などいらない」と、思いたくなる。しかし、ヤコブの生涯をト―タルで、全体で見るときにやはり神様の祝福にあずかった生涯は素晴らしい生涯だったと思います。神様のなさりようといいますか、神様のわざは、そのときだけでは判断がつかない。「今こんな状態だから私は駄目です」とはならない。今こうであっても、これから神様はどうなさるか。ここを信じるのが信仰です。ヤコブは自分に与えられた状況がどうであったか、またそれが神様からのものと信じたかどうか分かりません。しかし、二人しかいない息子たちのどちらかが死ななければならないかもしれないという大ゲンカして、殺されそうだというので、リベカは兄の所へヤコブを行かせます。彼は独り寂しく家を出ます。彼は神様が自分を見捨てた、と思ったかもしれない。どうして自分だけが愛する家族と分れて一人ぼっちになって……。

旅の途中で野宿をします。そこは宿屋もないので、石を枕にして、そこで一晩夜を明かしました。ところが、そこで神様の臨在に触れるのです。天から地上にはしごがつながって、天使が上り下りをしている夢を見ました。これは神様がそこにいてくださることの証詞の印(しるし)です。天と地が一つになる。彼が野宿した場所は荒野で荒涼とした慰めも喜びもない所、夜になると非常に寒くなるに違いない。そういうヤコブが野宿している場所が神様の住まいである天と一つになったことの象徴、印(しるし)としての、天からのはしごと、そこを天使が上り下りする光景です。いうならば、まさにヤコブは神の住まいに、今そこにいながらにして移されていることに他(ほか)ならないのです。そして、夢の中で神様はヤコブに語ってくださった。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう」(創世28:15)と約束をしてくださった。そのときヤコブは初めて「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」と告白しています。こんな所に神様がいるはずがない。こんな状況の中にどうして私が……、恐らくヤコブはそういう不満、不平があったでしょう。お父さんから祝福を受けて家督を継ぐ者となったのに、どうしてお兄さんが家に残って自分がこんな所へ出て来なければならない。一人ぼっちになって寂しい中を、親からも捨てられた思いがして、失望のどん底の中にいました。しかし、そこに主がおられる、神様が共にいてくださることを知った時、彼の心が変わったのです。「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。まるで神様の住まいに自分が置かれているように輝いて見えたのです。しかし、彼が寝ている場所は荒野であることに変わりません。ただ、神様が共におられると知ったとき、置かれた状況、事態が完全に変わってしまうのです。輝く望みにあふれた、喜びと慰めにあふれた場所になったのです。これが神と共にあることの祝福、恵みです。

それは今も変わりません。私たちはいろいろな問題や事柄の中に置かれます。心配なこと、失望すること、あるいは憤(いきどお)るべき腹立たしいこと、苛立(いらだ)つことも周囲に起こってきます。そうすると、一生懸命に「何とかここから救っていただきたい」「神様、あなたの道を示してください」と主を求めます。主を求めるというか、むしろ自分の願いを神様に押し付けることが多いのですが、それでも一生懸命に神様を求めます。しかし、何の変化もない、見る所も変わらない、私の状況も変わらない。「いくら祈っても、これはだめだ。どうも神様は私の祈りを聞いてくれないに違いない」とそのようなひがみ根性を起こす。これがまた、サタンのいい餌食(えじき)になるのです。そうならないために、主が私たちと共におられる、主のおられる場所に私たちが近づくことです。聖書には幾つかその手掛かりが語られています。私たちが神様の臨在と共に生きる道筋、イザヤ書を開いておきたいと思います。

「イザヤ書」57章14節から21節までを朗読。

15節に「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす』」とあります。「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者」とは勿論神様のことです。神様は「いと高い」所に居給う御方、また「いと上なる者」、全ての上に座し、支配しておられる御方、「とこしえに住む者」、時間的に、過去から現在、未来、永遠にわたって存在し給う御方。また「その名を聖ととなえられる者」、聖なる御方でいらっしゃる神様が「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み」と言われる。神様が高く聖なる所に住み給うことは分かります。「そうだろうな、私たちとは雲泥の差だから」と。「月とすっぽん、それどころか、神様と私たちは到底近づき難(がた)い大きな隔たりがある。神様は聖なる所に住み、いと高き所に居給う御方である。それに対して私たちは神様と到底縁遠い者、近づき難い存在である」ことは重々よく分かります。だから「神様が私の祈りを聞いてくださらないのは当り前じゃないか」と。そのとおりであります。では、それで諦(あきら)めるかと言われると、諦められない。何としても神様に救っていただかなければ、神様に聞いていただかなければ、助けていただかなければ、どうにもならないのです。では、どこで神様に会えるのでしょうか。その後に「また心砕けて、へりくだる者と共に住む」とあります。これは大きな慰め、また望みであります。神様はいと上なる、いと高き所に居給う、私たちとは到底縁遠い御方、はるかかなた雲の上どころではない。もっと上の御方です。一箇所だけ細い道がその御方と私たちにつながっている。「心砕けて、へりくだる者」、私たちが心砕けて、悔いて、へりくだる。神様の前に謙遜になって自分を低くする者。その者と共に住むと言われます。

ヤコブはまさにここだったのです。彼は自分の新しい身分となり、家督を継いで「お父さんイサクの跡取りだ」と思っていた。その出鼻を完全に打ち砕かれて、家族から放り出されて、独り寂しく旅立たざるを得ない。その旅の途中で野宿をしているとき、彼は心からへりくだる者とされたのです。だから、神様は彼の思いを知り、そこにご自身の臨在、神様が共におられることを現わしてくださったのです。このときのヤコブは何の誇るべきものもなかった。家族からも捨てられ、嫌われ、そして、見ず知らずの会ったこともない親戚を頼って行かなければならない。そこが大歓迎してくれるやらどうやら分からない、押し掛けでありますから。お先真っ暗、望みのない中で心砕けた者となったとき、神様はヤコブにご自分を現わしてくださいました。15節「心砕けて、へりくだる者と共に住む」。神様の臨在がはっきりしない。神様がどこにいらっしゃるか分からない。「なんだか神様は勝手な御方だ。私が必要な時はどこに行っているか、よう分からん」と思いやすいのですが、それはこちら側が悪いのです。私どもが心砕けた者となり、へりくだらないから、神様の臨在に触れることができない。神様がそこにいらっしゃる、と実感できない、確かなものとして手応えを感じられないのです。だから、私たちはいつも神様の前に心砕け、へりくだること、これが大切です。そうしますと、「へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす」とあります。神様は私たちの霊を生かし、心を生かす。私たちに新しいいのちを、力を、エネルギーを与えてくださる。

「イザヤ書」40章27,28節を朗読。

「わが道は主に隠れている」と、神様に文句を言っているのです。神様は私の祈りに答えてくれない。神様はいったいどこにいらっしゃるのか、という不満、また「わが訴えはわが神に顧(かえり)みられない」と。神様は私の言うことは全部拒んで、私の求めることは聞かん振りをしている、そういう不満。これが27節に語られていることです。これは自分自身にいちばん身近な分かりやすい言葉です。「わが道は主に隠れている。わが訴えはわが神に顧みられない。神様なんかもう信じてやらん!」と、そんな偉そうなことを言うのです。ところが、その後に「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者」「いと高き御方、いと聖なる御方、とこしえに住み給う御方ではないか」。いうならば、私たちの祈りは顧(かえり)みられなくて当然、私たちにご自身を現わさなくて当然、私たちは被造物、単なる造られたものでしかない。そのことを認めてへりくだる者となる。偉そうに「わが道は主に隠れている。わが訴えをわが神は聞いてくれない」と、神様に向かってつぶやいているとき、人は自分が何様であるかのように思い上がっている。「聞いてもらって当然だ」という思いで神様を求めて行くならば、神様はご自分を隠してしまわれます。現わしてくださらない。そうではなくて「神様、あなたは地の果ての創造者、またとこしえの神でいらっしゃって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。到底人の思いの及ばない御方です」と、神様の前に自分を低くする。これが31節の「主を待ち望む者は新たなる力を得る」ことです。「主を待ち望む」とは、まさに神様の前に心砕け、へりくだる者となる。そうすると、神様がご自身を現わしてくださる。主の臨在の中に私たちは取り込まれて、神様のそば近くで安心を得させて頂く、そこに住まいを得させていただく。すると、魂が生かされ、また心も生かされて新しい者と造り替えられる。「わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」。神様は私たちの力となり、またいのちとなり、私たちは弱ることなく、また疲れることなく生きる者としてくださる。これは私たちが神様の臨在に近づく大切な道筋です。

それともう一つの道が、先ほどお読みいたしました詩篇22篇であります。3節に「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです」。2節に「わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません」と訴えています。夜も昼もいくら呼ばわっても神様はうんともすんとも答えがなく、聞いているやらいないやら、訳が分からない、どうも不安であると。それは神様の前にへりくだらないからです。その後に「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる」とあるように、神様の臨在は、私たちが神様を賛美し褒めたたえるところにあるのです。これがまた神様に近づく恵みの道筋であります。心砕け、へりくだる者と共に住んでくださると同時に、もう一つは、イスラエルのさんびの上に、神様の民である私たちが、神様を感謝、賛美、褒めたたえることです。歌うのです。私どもは礼拝や、各集会の度ごとに賛美するではありませんか。どうして私たちは歌うのですか。それは賛美し、主を褒めたたえると、そこに神様の臨在が鮮やかに現わされるからです。この御言葉のとおりです。「知らなかった。あれはお経のようなものと思っていた」と言う人がいますが、そんなものとは違います。賛美するのは、そこにおられる主を褒めたたえる。そうすると、私たちの心に神様が、わたしがここにおるではないかと実感させ、触れさせてくださる。賛美をしなくなると、神様は遠くなって行きます。だから、朝から、賛美してください。そうすると「今日も主が私と共におられる」と、感じることができる。賛美しないから、どうも神様は隣の部屋にいるような、あるいは、もっと遠くにいるような、神様の身近さを感じない。3節に言われているように「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです」と。どうぞ、私たちはいつも賛美をいたしましょう。

教会を改装して、工事中だったときのことです。教会員の方が急に召されて、工事中だけれども葬式をしなければならなくなった。大工さんやそこに集まった人たちに「今日が前夜式、明日が葬式なので、工事を途中でストップして、この場所を何とか見栄えをよくしてください」と。「それは大変だ」と言って、手のすいた人を呼び集めてバタバタと適当にベニヤ板を張り付けてくれました。夕方になって遺体が運ばれてくる。すると、皆神妙な顔をして「えらいことになった。罰が当たりやしないか」と言って気にしたのです。だから「そんなことはない。ちゃんと神様が守ってくださる。ここは教会ですから」と言ったのです。そのときちょっと時間がありまして、集まった人たちと一緒にお茶を飲みながらお話をしていました。すると一人の方が「私もキリスト教の葬式に出たことがある。キリスト教って面白いですね、先生」と「何で?」と言うと、「みんな死んで悲しいはずなのに、歌を歌っていますよ」と。「どこに行っても歌は楽しいときにしか歌わないでしょう。悲しいときにも歌うかもしれないけれども、それは酒を飲みながらですよ」と。「教会、キリスト教って面白いですね、歌を歌っとりますね」と言われる。私はそのとき、キリスト教では人の死がどういうものであるかをそこでちょっとお話をしました。こういうことだから、神様に感謝するために賛美すると。「ああ、そういうことですか」。分かったような分からないような顔をしていましたが、教会では葬式のときでも賛美します。なぜならば、神様はイスラエルのさんびの上に座してくださる、そこにいてくださると。だから、賛美ができなくなると、神様の臨在がどんどんと遠くになる。山の彼方のはるか遠くに神様が行ってしまいますから、神様を引き寄せる手段は賛美することです。うそだと思ったらやってみてください、今日から。一日中賛美していてご覧なさい。いつもイエス様はそばに、神様はすぐそばにおられるように、心に平安、安心、慰めと喜びが与えられるのです。だから、3節に「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる」、主がそこにいてくださる。主の臨在がある。これは私たちの大きな恵みですから、どんな時にも賛美する。「私は音痴で節回しが……」と言う。別にメロディーをオペラ歌手のように歌わなくてもいいのです。そんなことをしたら神様はびっくりなさいますから、歌詞を味わって、言葉を神様にささげるのです。そうすると、私たちの魂に喜びが湧いてくる。

「歴代志下」20章20節から23節までを朗読。

これはユダの王様ヨシャパテの時ですが、アンモン、モアブ、セイルという3つの民族が連合して攻めて来ました。この戦いに彼は自信がないどころか、全くお手上げであったのです。自分たちには軍隊がない、力がない、それに立ち向かうことができない。「さぁ、どうする?」というとき、預言者がヨシャパテに「大丈夫、あなたの神が付いていてくださるから心配するな」と、「これは主の戦いだから」と言われたのです。それでヨシャパテ王様は神様の前に自分たちの姿勢を整えて「この神様を信じて行こう。神様に全てを委ねて……」と、20節にあるように、朝早く起きてユダの人々を呼び集めました。そこでヨシャパテは一つのことを勧めました。それは「あなたがたの神、主を信じなさい」ということでした。そうして、21節に「聖なる飾りを着けて軍勢の前に進ませ、主に向かって歌をうたい、かつさんびさせ」とあります。わずかばかりの軍隊で戦いに出かける。しかし、歴然とした戦力の違いがある。そのとき、軍隊の前に聖歌隊を置いたのです。今から戦いに行くのに聖歌隊を設けて、歌って出て行く、ピクニックじゃあるまいし。でも、ヨシャパテ王様はそうやって聖歌隊を作り、21節「主に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と歌わせた。神様に感謝し、賛美した。22節「そして彼らが歌をうたい、さんびし始めた時、主は伏兵を設け、かのユダに攻めてきたアンモン、モアブ、セイル山の人々に向かわせられたので、彼らは打ち敗られた」。彼らは戦い尽してやりも鉄砲も尽き果てて、お手上げになったから賛美したのではない。まず、全てに先立って、いちばん最初に神様を褒めたたえ、感謝・賛美したとき、既に神様のほうがわざを始めてくださる。

私たちが何か問題に、思いがけない事態が起こったとき、すぐにうろたえてあちらに走り、こちらに走りする。その前にヨシャパテ王様のように、神を信じてまず、神様を賛美する、主を褒めたたえる。そうやって神様を喜び、感謝し、褒めたたえると、聖なる御方、義なる御方、神様が臨在をもって私たちを守ってくださる。また、その問題をことごとく神様のほうが解決してくださる。「歌をうたい、さんびし始めた時」とあります。主は伏兵を設けて敵を打ち破ってくださる。

神様は私の賛美と共にいてくださると信じて行きたい。そして、どんな時にも主を褒めたたえ、賛美しようではありませんか。そうすると、生活の中に常に主が共にいてくださる。朝から歌ってください。少々歌っても誰も文句は言わないと思います。それにまた、呼吸が良くなって健康にもなりますから、是非歌って、賛美してください。

詩篇22篇3節に「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです」。失望落胆するとき、悲しみの中にあるとき、どんなときにでも賛美して、主を褒めたたえるとき、そこに主がいてくださる。ご自身を現わしてくださることをしっかりと体験してください。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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