いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(100)「幸いとは」

2013年12月30日 | 聖書からのメッセージ
ヨブ記22章21節から30節までを朗読。

21節に「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」とあります。
ここに「あなたは神と和らいで」と記されています。「和らぐ」とは和解することです。お互いに心を開いて、ごめんなさい、と言うことです。和らぐ前はけんかしている。対立している、そっぽを向き合っている状態。これが和らぐことによって一つとなる、お互いが心を通わせることになる。「あなたは神と和らいで」と言われると、では、私たちは神様とけんかしていた、仲たがいしていたのかと思われます。しかし、そのような自覚はありません。誰だって「今、私はちょっと神様とけんかしているから、ものも言えない」と言う話を聞いたことはない。生まてから今まで、どこで神様とけんかしたのだろうか。神様とけんかしてやろうと思ったことももちろんありません。ところが、私たちは神様によって造られて、神様と共にあるべきものが、神様を離れて自分勝手な道を歩んでしまった。言うならば、神様とけんかした状態です。

親しい人と一緒にいると、四六時中、おしゃべりしてうれしい。しかし、一旦何か事があるとそっぽを向いてしまいます。話もしない、そして勝手な道を行く。私たちも、自分は自覚していないが、気がつかないうちに、神様に背を向けてしまっていた。これは人間がそもそも受け継いでいる罪の性質と言われるものです。そのことが創世記のアダムとエバの記事を通して語られています。決して私たちが直接神様に罪を犯したという自覚はありません。しかし、私たちすべての者がすでに神様に敵対した存在となっている。神様を求めないで、自分が神となっているのです。私がすべてのことの中心にあって、私の力、私の考え、私の計画、すべて私によって事が進んでいると思い上がっている。神様がいらっしゃることを認めようとしない。これが、私たちの大きな罪であり、神様に敵対した状況、状態なのです。

先ごろ北朝鮮の問題があって、日本は経済制裁とか、いっさい交渉しないとか、貿易をしないとか、人の行き来はしないとか、言うならば、敵対関係にあります。ものも言わない、付き合いもしない。実は、神様とそのような関係にかつてはあった。神様の「か」の字も知らない。自分勝手に、自分の人生はこうあるべきだ。私の人生だから、私の生涯だから、私の生活だから、これはああして、こうしてと、神様抜きに自分で考えて生きていた。そして、自分の幸せを求めてきたのです。誰でも、一生懸命になっているのは、幸せを得たい、幸いになりたいと願います。不幸になりたいと願っている人はいません。幸せになりたい、幸いになりたいと思って、日夜努力しています。では「皆さんは、幸せですか? 」と聞かれたら、どうでしょうか。「100パーセント幸せです」と言える人もまたほとんどいない。

私は幸せで、何一つ文句はない。これで明日死んでも思い残すことがないほど幸せだという方がおられたら、ぜひ教えてほしい。70パーセントは幸せだけれども、後30パーセントくらいはまだ足らない、まだ求めるところがある。幸せとは言い切れないと思っているのではないでしょうか。それはどこに原因があるのか。21節に「神と和らいで」いないからです。自分の幸せを自分の力で獲得していこうとするかぎり、どれだけ頑張っても、それを達成することはできません。常に足らない。これで大丈夫、これで満足ということがない。いつも欠けている。それは、自分が中心になって、自分の力で幸せを獲得しようとするからです。21節に「そうすれば幸福があなたに来る」と書いてある。幸せは私たちが追いかけていくものではない。なんとかしてこうなったら幸せになるだろう、ああなったら幸せになるだろうと、思い描いている幸せの理想像、目標があるに違いない。もう少しこの生活のここがこうなって、子供たちがこうなってくれたら、私は大安心、幸せ。そうなったらいつ死んでもいい。でも今は死ねないと思っている。あそこがまだ足らない、ここが足らない。そのために老体にむち打って、今日も私が頑張らなくてはと思って、それが生きがいだという方もいますが、それは苦しいですね。決して楽しくはない。

よく虹を追いかける話を聞きます。虹が見えているから、もっと近づこうと思うと、それはどんどん先へ動く体験をします。私たちの幸せもそうなのです。自分で手に入れようと思って一生懸命に頑張る。自分の知恵を尽くし、力を尽くし、わずかなものを振り絞ってなんとか幸せになろうとしますが、そのように頑張れば頑張るほど、幸せは遠のいていきます。「幸せ」は、神様と和らいだときに、向こうから喜んでやってくるのです。

昨日も友人から電話が掛かってきまして、いろいろと話をしていました。その奥様が大変心配をしている。一人息子がいますが、40歳近くになるのですが、まだ独身でいるというのです。両親は74,5歳ですから「この息子のことを思うと、私は死に切れません」と言われる。「息子さんはどう言っているのですか。結婚したいと思っているのですか? 」「いや、本人はよくわからん。こっちがあの人、この人と世話をしようとするが、そっぽを向いて聞こうともしない。このまま息子が老いていって、年をとったときに、男が独りで老後を過ごすなんて考えただけでも寂(さび)しすぎる。だからなんとかしてこの子に結婚相手はないだろうか」と。「榎本さん、よろしくお願いしますよ」と言われる。私は「どうしてそんなに結婚させたいのですか」「だって、それが幸せでしょう!」と言われたのです。それで私は「結婚ばかりが幸せではありませんよ」と。「どだい、あなたの結婚を考えてご覧なさい、あなたは幸せですか? 」と意地悪く尋ねました。そしたら「幸せではないけれども、取りあえずは、年をとっても寂しくはない」と言う。けんか相手がいるからと言うのです。しかし、幸せか、幸せでないかは、人それぞれです。親は子供に対して自分の幸せ感、幸福感を押し付けるようなところがある。こうなってほしい、こうなったらきっと幸せに違いないと言うけれども、果たして本人はそうなのかどうか。だから私は「あなたの息子さんは生涯独りでもいいと思っているのではないですか」、「どうしてそんなことがわかりますか? 」、「だって、したければ結婚したいと言うでしょう」と。「でも、あの子は内気だから、したくても言えないに違いない」、「そんなのは親の勝手な思い込みでしょう」と。

私はそこで考えたのです。本当に幸せとは何なのだろうか? 私どもは子供の幸せを願います。あるいは孫の幸せを願います。しかし、願っている幸せの内容は何か? と。自分でよく考えたことがあるでしょうか。この子がこのような道に進んでくれたら幸せになるに違いない。親はそのような願いを持ちながら子育てをするでしょう。それを願わなかったら、熱心になって子どもを育てる力がわいてこない。だから、親は親で、私が幸せになるために、この子がこのような道に進んでくれたら、こういう小学校に入って、それから中学、高校、こういう大学に入って、就職をしてくれて、そしてこういう家庭を築いてくれて、そうなったら、私は幸せだと夢を描いている。でも果たして、それがその子にとって本当の幸せなのか。ただ親が自分の思いを満たすために、それだけのために子供にそうなってほしいと願っているのではないだろうか。本当の幸せとは何か?私たちはもう一度よく考えてみなければいけない。今の時代、結婚しようとしまいと、それが幸せか、不幸せかの基準にはなりません。やがて、結婚して、では、偕老同穴(かいろうどうけつ)一緒に死んで同じ穴に入るかというと、必ずしもそうでもないでしょう。夫に先立たれ、妻に先立たれ、老後は独りになる。結婚していたら寂しくないかというと、そんなことはない。

子供がいたら幸せかというと、そうともいえない。子供で苦労される方のお話をよく聞いていますから、私は子供がいなくてよかったなぁ、と思っている。お子さんがいる方からみると、「先生のところ、子供がいない、寂しそうだ。かわいそうに不幸な方だな」と思われるかもしれませんが、いいえ、私は子供の心配がないだけに白髪が増えなくてよかった、と思っています。だから、幸せというのは何か、幸いというのは何か。案外と何かにしがみついて、こうなったら幸せ、このような悩みがなければ、苦しみがなければと思いやすい。ところが、生きている間は、必ず苦しみがあります、悲しいこともあります。年をとればとるほど、いよいよ困難な中に入ります。子供がいようと、夫がいようと、妻がいようと、その苦しみを引き受けていかなければならないのは、本人その人です。

先だって一人の方が召されました。考えてみると、昨年の今ごろはお元気でした。礼拝にも来ていました。昨年の秋10月ごろですか、ちょっと体調が悪くて……と言われました。昨年11月の召天者合同記念会の時に来られて、そのときはだいぶ調子が悪かったようですが、「自分も間近ですから入る場所をちゃんと確認しておかなければ」と言って、納骨堂を見て、「なるほど」と言って帰られました。そして12月年末の感謝会で教会に来る最後となりました。そのとき随分やせておられ、びっくりしました。それから1月、2月、自宅で静養されていましたが、段々と体調が悪くなって苦しくなり、とうとう入院なさいました。「先生、来てください」と電話をいただきましたから、お伺いしました。それから毎週お召されになられるまで伺いましたが、広い個室にただ独りベッドに休んでいます。家族ももちろんいますが、それぞれに皆忙しい。私は闘病生活の姿をみながら、もう一度自分自身、心が引き締まるような思いがしました。家族がいようと、お孫さんがしょっちゅう来てくれようと、そばで看病してくださる方や、付き添ってくださる方や親切な方がいて、それは幸せだと思いますが、だからといって、自分の心の不安と恐れ、肉体的な痛みと苦しみ、それは誰がそばにいようと、助けてあげたくても手が出ない。代わってやりたくてもやれない。結局、その人本人が、それをしっかりと担わなければならない。いうならば、人はどんなに恵まれていようとも、最後はその人独りがその困難と向き合わなければならないし、それを引き受けていかなければならないのです。逃げ出すわけにはいかないし、代わってもらうわけにはいかない。そのような意味で、元気で家族そろって仲良く、にぎわっている間が幸せかというと、それももちろん幸いではありますが、だからといって、生涯幸せでいることはできません。人生を貫いて死に至るまでも幸せな生涯とは何なのかを知らなければならない。彼には信仰がありましたから、祈ることと、主の御言葉によって慰めを受けて、平安をいただいていました。しかし、決して一本調子で平安だとは言えない。やはり心が大きく揺れます。あるときは、電話してくださって、夜でしたけれども、「イエス様のゲツセマネの祈りのように『この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』と、私はどうしても言えません」と言って、涙ぐんでいました。翌日、わたしは伺って、一緒に心を合わせて祈って、御言葉を読んではじめて心が少しずつ変わっていきました。

人生を終わるとき、厳しい状況の中に立たせられるのです。いや、必ずしもガンになるというわけではないでしょうが、別の違った形、いろいろな形でのそのような苦しみは必ず来ます。そういう中で本当に幸せとは何なのでしょうか。人生のある時期、家族もみんな思い通りに事がすすみ、楽しく親子水入らずで、幸いな日々を過ごしているから、これで幸せだと思います。しかし、それはいつまでも続きません。確かに人生のある時期、短い時間、そのような恵みはあるかもしれない。私たちは人生をそのわずかな幸せだけのために生きているのではなくて、人生そのものが幸せでしたと言える生き方をしておかなければ、人生に勝利することはできません。

21節に「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい」。まず、神様と和らぐことです。今置かれている問題や事柄の中で、自分は幸せではない、なんと不幸な人間だろう。どうしてこんなになったのだろうかと心の中につぶやく。あるいは今の置かれた状況や事柄を含めて受け入れられない。「なんで!どうして!」と思う心があるのは、まさに神様と敵対している状態です。私はこんなだから嫌だとか、こういう状況だから納得できない、許せない、どうして私がこんな目に遭わなければいけないのだ!と、心の片隅にいつも沸々(ふつふつ)と怒りがある。仁王様のように顔をひん曲げて怒っていることはないけれども。表向きは皆さんもにこやかにしていますが、腹の中はわかりません。どこかで、どうしてこんな状態で、私は許せん!と思うとき、実は、神様を押しのけてしまっている。神様に向かって「神様!あなたは一体なんということするのですか。私はこんなことを願っていませんよ、ちゃんとやりなさい!」と神様を叱り飛ばしているとき、私たちの心の中に不安があり、憤(いきどお)る思いがあり、つぶやく思いがある。ですから、御自分を振り返ってみてください。神様に対して不満はないけれども、主人に対して不満がある。もう少しああしてくれたら、もうちょっとこうだったらいいのにと、主人に対する不満は、神様があなたにベスト、最善の伴侶として与えてくださったことを認められないからです。言うならば、神様を否定するのです。いや、私は神様を否定してはいません、主人を否定しておりますと。主人を拒むということは、主を拒むことです。だから、まず私どもが神様と和らがなければなりません。

詩篇32篇1節から5節までを朗読。

この1,2節に「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。 2 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである」。ここに幸いな人とはどのような人か語られています。お金がある人が幸いとは書いてない。あるいは、家族がいて妻がいて、結婚して家庭がある人は幸いだ、とも書いてない。どのような人が幸いか。「とががゆるされ、罪がおおい消され、不義を負わされず、霊に偽りのない人」。神様の前に何一つとがめられるもののない者となること。先ほどの「神と和らいで」いくこと、これが幸せな人なのだと詠(うた)われている。これを詠ったダビデは、それを実際に体験したのです。彼は王様となって、どんなことでも自由にできる権力者でした。とうとう彼は自分の欲に負けて、忠実な部下であるウリヤの奥さんを自分の妻としてしまうという、とんでもない罪を犯してしまった。でも、その罪は、別にその当時の倫理といいますか、道徳に違反しているわけではない。専制君主、王様ですから部下の命の一つや二つ、なんていうことはない。だから神様は、お前は部下をあんなひどい目に遭わせて悪いやつだ!と咎めたのではありません。神様がダビデを責められた理由は、神様に頼らないで自分の力でそれをしたことなのです。

サムエル記下を読みますと、あなたがもっと妻が欲しいのだったら、私に求めたらよかったではないか。私はこれまでにもあなたに与えてきたではないか。それなのにこの度はどうして私を求めないで、自分の力でそれをしたのか。あなたは私をないがしろにしたではないか。これがダビデを責めた理由です。そのときダビデは、はじめて神様の前に「私は罪をおかしました」と告白したのです。ダビデはそれまで神様を第一にして、神様を前に置いて、ただ神様だけに信頼してきました。ところが、ウリヤのことでは、一言もお祈りもしない。自分のしたいように、わがままに振舞った。神様をないがしろにした。そこに罪があったのです。私たちも、そのような罪を犯しやすい。私がこうでなければ嫌だとか、こうありたいとか、あるいはこれが私の幸せだと思うものを、是が非でもなんとか自分の手で手に入れようとする。神様の前に自分を低くしようとしない。それは、私たちが神様に罪を犯している状態です。どんなことでも、へりくだって神様を求めていく。これが私たちの幸せになる秘訣です。

ダビデは罪を犯した結果、どういう状態にあったでしょうか。3,4節にあるように「わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、かれ果てた」と。彼は神様に求めなくて勝手に自分の思いを遂(と)げた。してやったり、おれは王様だ!と。誰か文句あるか!とそのくらいの勢いだった。そのとき、彼は強い人のように見えたのですか、実は、この3,4節に告白しているように、心の中では実にわびしい思いをしていた。そこにありますように「苦しみ、うめいた、骨はふるび衰えた」。しかも4節に「昼も夜も主の御手が、上から重くのしかかってくる思いが心にしていた」。何か不満がある。自分の思いは遂げたのですが、彼の心はもう一つ晴れやかにならない。それは神様に敵対していたからです。

お祈りして、神様に導かれて感謝し、「はい」と言ってさせていただいたときは、失敗しようと成功しようと、「よかった。こんなに神様は恵んでくださった」と言えるのですが、よし、ひとつ、私はこれがしたいからと、お祈りもしないで勝手に、自分の思いを遂げてやってしまう。それでうまくいって「してやったり。よしよし、やっぱり私がしたらこんなにちゃんとできる」と自分を誇る。その瞬間、神様との間に罪の幕が下りてくる。主の手が上に重くどんよりと梅雨空のように、私たちの心を覆ってきます。そうすると、周囲のものを見ると腹が立つ。何を見ても、今まで気がつかなかったことが、ちくちく目に刺さる。あいつが!こいつが!といらいらする。落ち着かなくなる。だいたい皆そのような中を通るのです。

そのとき、5節「わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、『わたしのとがを主に告白しよう』と」。ところが、ダビデは預言者ナタンから「あなたがその人だ」と言われたときに、彼はうれしかったでしょう。それまで隠して、おれは誰にも非難されたくない!と思っていた。けれども、心の中にはいつもいらだつものがあり、喜べない思いがあり、不安があった。それがどこからきているか知っていたと思います。ナタンから「あなたがその人だよ」と言われた時、「そうです。わたしは主の前に罪をおかしました」と。この時はじめて彼は安心を得たのです。5節「わたしは言った、『わたしのとがを主に告白しよう』と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた」。このとき、ダビデが「わたしが罪を犯しました」と言ったときに、「主もまたあなたの罪を除かれました」と、神様はダビデの罪を許してくださいました。その喜びはどんなに大きなものだったかわかりません。神様との関係が和らいだものと変わっていく。これがわたしたちの幸せな姿です。

ヨブ記22章21節「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい」。イエス様がわたしたちの罪のあがないの供え物となって、十字架に命を捨ててくださった。いつでも、どんなときにでも、「すべての罪からわたしたちをきよめる」。「御子イエスの血が、すべての罪より」と言われます。イエス様の十字架の許しがあるのですから、神様にとがめる思いがあり、神様を押しのける思いがあるならば、そのときへりくだって、十字架の御許に立ち返り、こんな私です、主よ、お許しくださいと、心から悔い改めて、主の許しの確信を得させていただきたい。これが「神と和らぐ」秘訣です。だから「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」と言われるでしょう。「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれた」と約束してくださいました。だから、遠慮しないで、いつでもどんなときにでも、神様の前に出て行こうではありませんか。別に人に打ち明ける必要はありません。神様に向かって、「神様、本当にあなたを軽んじて、あなたをないがしろにして、あなたを押しのけて、自分勝手な思いでやってしまいました。ごめんなさい」と、一言悔い改めて祈ってください。瞬時に神様は「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」。主は許してくださったと、喜びがわいてきます。それと同時に、私たちのしたことをも、神様はきよめて祝福に変えてくださいます。それが私たちにとって最高に幸せな生涯です。だから、21節「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」。そうやって、まず神様と私たちとの間の関係をきちんと整えて、神様の前に罪許された者となるとき、「幸せ」が向こうから、皆さんを追いかけてきます。こんなうれしい話はない。

22節以下「どうか、彼の口から教を受け、その言葉をあなたの心におさめるように。23 あなたがもし全能者に立ち返って、おのれを低くし、あなたの天幕から不義を除き去り」と。23節に「あなたがもし全能者に立ち返って」と、神様に私たちが立ち返って、己(おのれ)を低くする。主の十字架の御許に低くして、主の許しにあずかり、「あなたの天幕から不義を除き去り」、生活の中から不義なるものを取り除く。不義といいますのは、神様に従わないでした事柄、する事柄。それは不義です。私たちが一つ一つどんなことでも、ことごとく主に祈りつつ、主の導きにすがって生きていく。そのような生活に変わっていく。具体的に生活を改めていくのです。

そうすると、25節に「全能者があなたのこがねとなり」、神様を私のより頼むべきただお一人の御方、私の宝です、と言えるようになる。そして「あなたの貴重なしろがねとなるならば」と、26節に「その時、あなたは全能者を喜び、神に向かって顔をあげることができる」。これは幸せな生涯です。私どもがいつでもどんなときにでも、主に顔を向けることができる生涯、いつも神様との間に何一つ隔てるものがない、じかに神様を目の当たりに仰ぐことができる日々。これこそが、私たちの幸せな生涯です。

何が幸せかといって、神様と共にいることができ、神様の前に何一つ妨げるものがなく主を呼び求めることができる心であること、そのような日々を地上で送らせていただける。これが幸いな生涯です。それは実に単純で簡単なことです。それでいて極めて難しいと思う。何が難しいかと言うなら、自分が神様の前にへりくだることができないからです。だから、神様は私たちにいろいろな事を起こされます。問題を与えられます。自分ができない、知恵がない、知識がない、能力がない、力がないことを痛切に教えてくださる。そのようなとき、私たちははじめて謙そんになります。神様、私ではできませんと、へりくだることができる。

だから、29節以下「彼は高ぶる者を低くされるが、へりくだる者を救われる。30 彼は罪のない者を救われる。あなたはその手の潔いことによって、救われるであろう」。神様の前に自らを低くして、主の前に和らいでいく。神と和らぐ道を選び取っていきたいと思います。もし、神様と私たちの間に、何か影がさすならば、何か不満があるならば、神様のなさることについて納得できないと思うことがあるならば、そのときこそ早くへりくだって、神様に立ち返って、自分を低くして、神と和らいで心に平安を得て、神様を喜ぶ者と変わる。すると幸せが私たちの生活のすべてに満ちあふれてくるのです。どうぞ、この神様の恵みを受けていく日々でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。






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