いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(548)「主が共に居られます」

2015年12月14日 | 聖書からのメッセージ

マタイによる福音書」28章16節から20節までを朗読。

 

 20節「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。殊に後半の「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」とのみことばから教えられたいと思います。

 

イエス様はよみがえられた後、40日間にわたってご自身がよみがえられたことを多くの人々に証しなさいました。そして40日目に弟子たちが集まっている所から天に携え上げられ、見えなくなって、父なる神様の所へ帰って行かれました。イエス様がその最後の時に当たって語られました。それが18節以下に記されていることであります。最後におっしゃったのが20節です。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。これはイエス様が私たちに約束してくださったことです。「いつもあなたがたと共にいる」と言いながら、さっさと天に帰って行く。「まことに無責任なイエス様だ」と思いますね。「共にいてくださるのだったら、そこにいてくださればいいじゃないか」と思います。しかし、肉体をもって私たちの目で見、手で触れるイエス様がいくら「いらっしゃる」と言われても、「一緒に」ということにはなりません。どこか遠くの所にいて、しかも2千年以上たった今になって、「イエス様が共におられる」といわれても、誰もが「そんなことは信じ難い」と思うに違いない。まさにそのとおりであります。肉体的な存在としてのイエス様が共におられる、ということは物理的にも不可能であります。「では、このイエス様のお言葉は単なる気休めか」というと、そうではありません。イエス様が「いつも私たちと共におる」との約束を果たすために、父なる神様が聖霊、御霊を私たちに遣わしてくださったのです。

 

 イエス様が天にお帰りになられて、それから10日目の五旬節の日、弟子たちが集まって祈っているところに、神様の霊が注がれました。これはキリストの霊、言い換えると、イエス様がまさにそこにおられるのと同じです。また、父なる神様がご自身の霊を私たちに与えてくださる。私たちが神様と何の妨げられることもない、隔てられることのない関係に私たちを置いてくださったのがイエス様の十字架でしょう。イエス様の十字架によって罪を清められ、赦された者として、今度は神様と共にあるものとされる。キリストと共に生きると言い換えてもいいでしょう。イエス様と共に生きる保証は何であったか。それは聖霊、神の霊が全ての人々に注がれたことです。いま私たちにも神様はその約束を果たしてくださっておられます。「全ての人に私の霊を注ごう」(使徒 1:5)と約束してくださった。その約束が既に具体化しているのです。それがペンテコステの出来事であります。

「そのとき私はそこにいなかったから、私はもらえていない」と、そんな話ではない。弟子たちが聖霊を受けたのは、「これから全ての人にこのように神様の力が、霊が注がれるのだよ」と証しする、その一つのモデルといいますか、右代表として彼らがその聖霊を受けてくれたのです。実はそれから後、今に至るまで神様は全ての人にその霊を注いでくださった。信じる者に神様はキリストの霊を注いでくださった。注いでくださるといいますか、神様は常に全ての人に与えるために備えてくださっている。「それはいつもらえるか」というと、もう既に与えられている。このことを信じることが大切です。私たちが「そうですか。だったら、頂きます」と受け止めることが大切であります。受け皿をちゃんとしないから、いつまでたってもはっきりしないのです。

神様のほうは十字架によって全てのものを完成して、「事畢(をは)りぬ」(ヨハネ19:30文語訳)と、言い換えると、これ以上何もすることがないほどに神様は徹底したあがない、救いを完成してくださった。「ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」と、ヘブル人への手紙(9:12)にあります。神様が「今から何かしようか」という話ではありません。「既にわたしは全てのことをしてしまった」と言われる。「では、あなたはそれに対してどうこたえるか? 」と、今度は私たちのほうへボールが投げられたのです。

私どもはその主の言葉をどのように受け止めるか。信じて「このような汚れた私、神様の御思いの汚すような、御心に従うことのできない、まことに不忠不義なる私のためにも、神様はもう既に霊を注いでくださった。私のために十字架を立てて赦し、更にねんごろに私たちが神様に従う力、神様と共に生きることができる恵みへと引きいれてくださった」。そう信じて、「いま私はイエス様の霊によって生かされているのだ」と、これを信じるかどうかです。決断は私たちにかかっているのです。だから、イエス様の十字架を信じて「古い私は既に死んだ者であって、今はよみがえってくださったイエス様の霊が私の内にあって生かしてくださっておられる」と、これを信じるのかどうかです。

イエス様は「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ 11:25)と言われる。イエス様を信じるとは、イエス様が全てのことを万事万端、ことごとく準備して、私たちを整えて、神様のわざを完成しようとしておられる。後は私たちの側の責任であります。私たちは自分の罪なる姿、汚れたる姿を見ますか。「こんな私にはいくらなんでも、神様は霊を注いでくださらないに違いない。こんなに私は駄目な人間だから」と言って、「神様が霊を注いでくださっている」ことを信じられないとするならば、それは信じようとしない人が不幸なのであって、神様のほうはじりじりとした御思いでもって、「どうして、これを信じられないのだろうか」と思っているに違いない。

 

 私たちが自分を振り返ってみて、「汚れた者であり、箸(はし)にも棒にも掛からないような私だから……」と思うのだったら、なお更、十字架を仰がなければならない。そうでしょう。「確かに私に良いところはないけれども、しかし、このくらいは人並み……」と、自分を評価するといいますか、「自分は満更でもない者だ」と思っている。しかしいろんな困難や悩みに会うたび、今まで気付かなかった自分の弱さ、あるいはずるさ、汚れなどいろいろなことを知ります。年を取ればとるほど、それが深くなります。「救い難いわ、私は!」と思うのです。若いときはまだしも「こんなものかな」、「まだ私だってできる」と思っているけれども、年を取って体も言うことを聞かなくなってくると、気持ちばかりがねじくれてくる。老木という言葉に思わされる姿、雨風にさらされて何とも堅そうで、煮ても焼いても食えないものとなる。「味があってしぶい」と言う人もいますが、そういう醜悪な自分になっているのを知っているのは自分、いちばん自分がよく知っているのです。「こんな自分は、人から愛されるはずがない」と良く知っています。だからこそ、十字架を見上げる他はないのです。「こんなところもあった。こんなひどい自分だった」と、自覚させられればさせられるほど、そこにも主が既に命を捨ててくださって、血を流し、赦してくださっておられる。だからパウロは「されど罪の増すところには恩恵(めぐみ)も彌(いや)増せり」(ローマ5:20 文語訳)と語っています。自分の罪なることをいよいよ深く知れば知るほど、そこにもなお主の赦しが与えられている。そのことを感謝するしかありません。私たちにとって、自分の醜(みにく)さ、汚れ、罪、そういうものを知れば知るほど、喜びに変わるのです。ところが、それを喜ばないで、「いや、こんな者だから、もう駄目です」と、決めて掛るのは誰が悪いのか、本人自身です。「いつまでも、そういう自分でありたいのではないか」と疑いたくなる。そうではなくて、早くイエス様の十字架を信じて、「これも赦されたものです。ここにも主の血潮が注がれて、主の命の代価によって、清められたものである」と感謝することが全てです。

私たちは常に喜び、感謝することは、トコトンできます。自分にどんなことがあっても、駄目な人間であることを知れば知るほど、喜びが湧(わ)いてくる。喜べないのはなぜかというと、「自分がまだできるのに……」と思っているから喜べない。「もうちょっと、私はましな人間だ」と思っているから、「どうして私はこうなんだろうか」と不満に思っているから喜べない。そもそもできない自分であることを、徹底して自覚して行くことが大切です。どうしようもない自分であること、そこに絶えず立って行くときに、感謝する他はない。「今日も主の赦しにあずかり、主の憐れみを受け、主のご愛の中にこうやって生かされている。本当に感謝です」としか言いようがないでしょう。これが私たちのいま与えられている恵みであります。神様は私たちに救いの道を完成してくださった。いつでも主と共におらせるために、イエス様の霊が私たちの内に宿ってくださる。だから、どんなときにも「ここにも主が私と共にいてくださる」と信じる。

 20節に「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。よく思うのですが、私たちの信仰がもうひとつすきっとしないのは、信じて、もう一歩踏み出すことをしないからだと思います。「私もこうして主のご犠牲のゆえに清められた者とされ、また、神の霊が私の内に宿っておられます」と、信じ切ることが一歩踏み出すことです。いつまでも「私のような者に、神様の霊があるとはいうけれども、でも私はああだから、こうだから……」と、いつも何か信じていながら、疑っているといいますか、乗りきれない。ここが私たちの信仰の弱い所です。どうぞ、もう一度神様の約束を信じて、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」とおっしゃるのですから、今も、今日も、この瞬間も「主が私と共におられるのです」と、信じ切ってしまう。これが何よりも幸いなことです。そして、共におられる主と時々刻々を生きていく。「見よ、わたしは世の終りまで」と、「世の終り」というのは、永遠にです。いつまでも主が私と共におってくださる。ところが、普段の生活の中で「主が、私と共におられるのだ」と、どれほど自覚しているか? 案外にしていないのです。こうやって木曜会に来ている40分ぐらいは自覚している。玄関を出ると同時にイエス様を置いて帰る。そうであるかぎり「いつも」とはならない。「いつも」ですよ。「イエス様はこんな私と共にいつもいてくださる。どこにでしょうか? 」と問われますが、あなたがそれを自覚することが大切です。絶えず覚える。「ここに主がいらっしゃるのだ」。道を歩いているときでも、台所で仕事をしているときも、あるいは友達とお茶をしているときであろうと、どんなときでも「主がここにおられる」ことを意識するといいますか、自覚していなくてはなりません。「あ、忘れとった」となりやすい。ところが、イエス様は私たちを忘れない。私たちから離れないが、私たちのほうがカーテンをサーッと引く。「ちょっと、イエス様」と閉めてしまって、主がいらっしゃらないかのように振舞う。これがいつも問題なのです。イエス様は「いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださって、私たちと共にいてくださる。けれども、私たちがそれを認めようとしないかぎり、これは共にいることにはならない。

 

人と人でも、また家族でもそうでしょう。一緒にいるとき、黙って見もしない、声も掛けないでは、一緒にいることにはならない。一緒にいると、何か語り合うではないですか。「別に言うことはないから黙っている」と言う人もいますが、言うことはないと言ったって、「今日は暑いね」とか「寒いね」とか言われても、「そんなの、分かっとる」と言われても、言うではないですか、一言二言。それで「何を食べる」「何にしようか」と、普段ご主人と奥さんが話をするとき、同じ部屋にいながらプイと横を向いて、まるでいないがごとく、空気のごとく、という人もいます。「うちの主人は空気のようです」とか、「いるか、いないか、存在は希薄です」という方もいますが、イエス様がそのように希薄になったら、大きな損失といいますか、いのちを失います。イエス様は私たちにいつも語り掛けていてくださるのに、聞こうとしない。私たちが主を認めようとしないから、そのことが分からないし、イエス様が共にいてくださる手応えといいますか、確かさを実感できないのです。だから、いつもこのことを信じて「今日も、ここにも主が共におられる」と、絶えず自覚して行く。

 

 「テモテへの第二の手紙」2章6節から8節までを朗読。

 

 8節に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とあります。「いつも」どんなときにでも「イエス様が、いま私と共におられるのだ」と、自覚して行くといいますか、覚えて行く。それはただ単に覚えているというだけではなくて、「共にいます」ことを確かなこととして、人格的な御方として、いわゆる、一人の人がそばにいるがごとく、「イエス様がいつも私と共におられるのだ」と絶えず覚えて行く。覚えて行くということは、イエス様が私と共におられることを信じて、そこで主と交わりを持たなければそれはできません。はるか向こうにいらっしゃるのではなくて、今すぐそばにです。「あなたと共に」ということは、いつでもどんなときにでもです。「いつでも」といって、遠く離れて、時々電話をしたり、インターネットで話をする関係ではなくて、今そばに、私たちの生活しているそこに主がいます。これを信じて行くこと、これが「いつも思って行くこと」です。だから「主がいます」と信じるのだったら、そう信じたように歩む。イエス様と一緒に今日もある、ということを信じるならば、イエス様に呼び掛け、話をする、語り掛けること、これは当然です。だから、朝起きて目が覚めるなり、「主が共にいらっしゃるのだから」と、そこで感謝する祈りがあるでしょう。主の御声を聞く。「今日は何をしましょうか」と。「私は今日ここに行きますが、主よ、あなたの力を、また知恵を与えてください」と求めることもあるでしょう。それこそ、どんなことにも主を覚えるといいますか、自覚すること、これが私たちの福音なのです。8節の終わりに「これがわたしの福音である」とパウロが語っています。イエス様がいつも共にいてくださることを、絶えず自覚して行く。そしてその御方と交わることです。共に語り、そして語り掛けられる。これは私たちの大いなる特権であります。イエス様を信じていないとそれはできません。イエス様が私と共におられると信じていますと、何をしていても祈ります。本当に喜びになります。台所仕事をしていようと、家族でにぎやかに団らんしていようと、常に心の片隅に主を思う思いがあります。「イエス様、いまこうしようとしていますが、このことはどうしましょうか」、「主よ、ここはどうしたらいいでしょうか」、「主よ、こんな思いがありますから、許してください」と、主に祈る。朝から晩まで、イエス様がそばにいらっしゃることを信じていたら、恐らく黙っている暇(ひま)はない。悲しむことも嘆(なげ)くこともいらないのです。人に聞いてもらわなくても、誰に聞いてもらわなくても主が聞いていてくださるから、主に語り掛ける。主に祈ればいい。祈るといっても、そんなきちんと威儀を正して、言葉を選んでお祈りしなければということではありません。家族と話をするとき、いちいち起承転結を考えてどう言おうか、そんなことはしないでしょう。主語も語尾も曖昧(あいまい)にして、ポンポンと言うじゃないですか。「風呂」、「めし」とかそんな感じで。といって、別にイエス様にそう言えというわけではありませんが、主が共におられるのだったら、「イエス様、どうしましょうか」、「主よ、これはどうしたらいいでしょうか」と思わず語ります。

 

 私はいつもそのことを心掛けます。家内は主と私が語り合っている内容は分からない。イエス様と心でお話をしているのですから。そうすると、「あなた、なぜそうするの? 」と、家内は私のすることについて時々不安を感じるようで、家内にまで何もかも逐一言っている暇はないのですが、イエス様にはいつでも言えますから、家族以上に親しくならなければいけません。夫よりも奥さんよりもイエス様が大切です。そして、イエス様に話をする、聞く。だから、いつも祈り、祈る心といいますか、事実祈るのです。「主よ、ここはどうしましょうか」、「今日は何をしましょうか」と、テレビを見ていようと、何をしていても、思いは「主は、このことについては何とおっしゃるだろうか」。普段心にいろいろな思いが湧(わ)いてきます。その湧いてきた思いを全部イエス様に語るのです。そうしますと、心がいつも穏やかでおることができます。それどころか、一つ一つなす業のどんなことも感謝できるのです。喜ぶことができるのです。「これも主が許してくださったこと」、たとえ失敗することがあっても、「これも主が『よし』とおっしゃってくださることだから、またきっとここからどのように神様が備えてくださるだろうか」と、主に期待することができる。祈っていないとそれはできません。主と交わりを持ち続けて行く。イエス様が最も親しい心の友といいますか、友という以上に、掛け替えのない心の一部分となって行く。そうしなければ、やがて、私たちは家族からも離れて独りになるときがきます。そのとき、本当に「わたしは主と共におる」ことがどんなに大きな幸いであるかを味わうには、今から訓練をしておかなければ駄目です。そのときになって、突然「これから気張ってイエス様のことを思いましょう」とやっても、心がそこに付いて行かない。イエス様のことを思う心を絶えず養って行きますと、意識しなくても、考えなくても、イエス様のことにつながって行くのです、心が。そうすると、人を恐れることもいらなければ、また人を求めることもいらない。その所、その所、置かれた所、導かれた所で、主と共に生きること、これがどんなに大きな力となるか分かりません。だから、いま若い時にといいますか、元気なときに、私たちはそのことをしっかりと体験して行く。

 

 「テモテへの第一の手紙」4章6節から8節までを朗読。

 

 7節「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい」。「信心のために」と、「信心」とは、イエス・キリストを信じること、主が共にいますことを信じることに他なりません。文語訳では「敬虔(けいけん)を修行せよ」となっていますが、「敬虔」とは、畏れ敬う、大切にすることです。神様を第一にする、イエス様と共にあるということを常に自覚すること、これが「信心」です。そのために自分を訓練する。いつもそのことを覚えて行く。だから、家族と話をしているときであろうと、あるいは友達と一緒にいるときであろうと、何をしていても、そこにいつも主を覚えることを訓練する。「いま主と共にあるのだ」、「今ここにもイエス様は私と共にいらっしゃるのだ」、「主よ、このことはどうしましょうか」、「このことについてはどう言えばいいでしょうか」、一つ一つすべてのことにあって主と共に歩む。これは自分自身の、一人一人の事でありますから、横にいる人が見て分かるわけではありません。よく申し上げますが、聖霊、御霊が働かれる様子は、その人自身しか分かりません。外側に現れてくる状態で見ることはできません。その人その人に主が語ってくださることがあります。だから、主が共にいて私たちが生活していると、「あんなことをするはずがない」、「こんなことをするはずがない」と決めて掛るのは間違いです。「イエス様と一緒にいるのだったら、きっとこうするに違いない。こうなるに違いない」と法則化しようとする。それはあてはまりませんから。というのは、御霊は一人一人にちゃんと、今すべきこと、今どのようにしたらいいか、導かれることがあるのです。時には人と争うことが必要な時があります。イエス様が私たちをそのように導かれることもあります。「イエス様に従うのだったら、聖人君子、どこをたたいてもハレルヤしか言わないだろう」と思うのは間違いです。そんなことはありません。イエス様は実に千変万化、時には人に怒りを与えなさることもある。しかし、その怒りは無駄に終わらない。それを通して神様はもうひとつ深い御思いを私たちに教えなさることがあります。時には親しい人と仲たがいしなければならないような中に導かれることもあります。「私は人をこのように憎んでしまった。これはきっと神様から離れているからだろう」と失望しますが、時に神様は私たちにそういう思いをも体験させなさいます。だから、自分のしていることで「これは神様の導きとは違うのではないか」と、世の中の道徳的な規準ですぐ判断しようとしますが、これは間違いです。一つ一つ神様に従って行くときに、神様は私たちを時には喜びの中に置いてくださるし、時には失望の中にも置かれます。試練といわれるような中にも……、でもそこに主は共にいてくださるのです。共にいてくださるからこのようにはなるまいとか、あのようにはなるまいと、決めて掛るのは全くナンセンス、意味がありません。共にいてくださるのだから、これもある、あれもある、ですよ。どんなことでもある。しかし、そのどんなことにも主が支えてくださる、慰めてくださる、望みを与えてくださる、力を与えてくださる。だから、私たちは主と共にあること、イエス様と一緒にいつも交わりを持ちつつ、感謝し喜んで行ける。時には悲しいことにも出会います。うれしいこと、悲しいこと、苦しいこともあります。

 

 「ヤコブの手紙」1章12節を朗読。

 

 ここに「試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである」と。私どもは「試練がない人が幸いだ」と思います。しかし聖書には「試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである」と。「だったら、何で幸いなのか? 」と、その後に「神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」とありますが、試練の中にあっても絶えず神と共にある、主と共にあるということ、その試練をイエス様と共に担(にな)って行く喜び、その経過、道中、それが私たちをして幸いな者としてくれる。試練がなかったら味わうことのできないイエス様との交わりの中に私どもを置いてくださる。だから、イエス様が私と共にいてくださることの体験を積み重ねて行く。そのために試練といわれ、苦しいといわれる、つらいといわれることの中にも置かれるのです。そこで主が共にいてくださる喜び、主の力に助けられる幸い、「いのちの冠」を味わうための恵みです。

 

 「マタイによる福音書」28章20節に、「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。今日も私たち一人一人と共に、イエス様は共にいてくださることを信じて、内住してくださるイエス様に信頼し、語り掛け、呼び掛けて、また求め、御声を聞きつつ、主との交わりをまず第一にして行きたいと思います。そうしますと、失敗することもあるでしょう、うまく行くこともあるでしょう。思いがけない苦しいこともあるかもしれない。楽しいこともあるでしょう。その中で主と交わる。キリストの力、恵みに満たされる。これが幸いな者と言える秘けつであります。

 

 どうぞ、この約束を信じて、永遠のいのちの冠を、いのちの御国を受け継ぐまで、私たちは共に居給うイエス様と、日々片時も離れることのないように、その御方と生きる毎日でありたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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