いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(422)「キリストの似姿へ」

2014年12月24日 | 聖書からのメッセージ
 「コリント人への第二の手紙」3章12節から18節までを朗読。

 18節「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。
 
昨年から今年にかけて教会はベビーラッシュです。昨年の7月に一人生まれ、それから9月、11月、今年に入りまして2月、4月、6月、来週生まれる予定の方がおられます。新生児と間近に接する機会が与えられて大変感謝しています。生まれますと大抵「どちらに似ているか」と言います。「いま生まれました」と、ご両親から電話をいただく。「良かったですね。神様が無事に出産させてくださって感謝です」と言う。すると家内が必ず「男か女か」と訊きます。最近は出産前にかなりの人が知っていますから、その辺は比較的問題なくクリアします。その次は「どのくらいの重さであったか」と。私はあまり体重には関心がありませんから尋ねません。次に「どちらに似ている」と来ます。生まれたての子供はどちらに似ているのか私はよく分からない。家内はどういうわけかよく分かる。「これはお父さん似だ」とか、「お母さん似だ」とか。ある程度、半年ぐらいたってくるとそれなりの様子が見えてきます。子供が身近な者に似ていることは親にとってうれしい。甥(おい)が結婚して8年ぶりに子供が与えられました。すると、うれしくて「見てくれ」と写真が送られてきます。添付の文面には「眉(まゆ)と口元は僕に似ています。鼻はおじいちゃんに似ています。頭の髪の毛の流れ具合は、亡くなったおじいちゃんにそっくりです」とありました。そう言われて見ると似ている。生まれてくる子供たちを見ていて、やはり生まれながらに性格がある。一人の子は「こう」と言い出したら聞かない。またこちらが話し掛けても見向きもしない。非常に気難しい子供さんです。「お母さん、あなたに似ているよ」と言われて、本人も自覚しているので、「そうかもしれない。私かもしれない」と。性格的にも似てくるのです。

私たちは確かに肉親の親や家族に似るという側面もありますが、もうひとつ私たちが似るべきものがある。私たちを造られた御方です。親から生まれて肉体的な、生物学的なつながり。親がいて子がいて、孫がいて、とつながってくる。そのような血のつながりで似ている、似ていない、それは外側の事柄であります。もうひとつ大切なことは私たちの内なるものが似るべきお方、それは神様です。

「創世記」1章26節、27節を朗読。

ここに繰り返して、「われわれのかたちに、われわれにかたどって」と26節に語られています。神様がご自分に似た者として私たちを造る。しかも27節に「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造した」。このたった二節の短い箇所でありますが、繰り返して「わたしのかたち」「神のかたち」と言われている。確かに、自分の親に似るということがありますが、もうひとつ人が似るべきものがある。それは私たちが神様のかたちにかたどられたものである。ところが、どうでしょうか? 自分を振り返って、どこに神様の片りんといいますか、僅(わず)かでも神様のことを感じさせるような性質、性情、性格、何かが私たちに残っているか? 自分を振り返ってみると、神様とは遠い存在、「自分が神様に似た者である」とは言えません。創世記に語られているように、本来人は神様によって造られ、神様のご性質に私たちを似たものとしてくださった。この創(つく)られた人はエデンの園に置かれました。

 2章15節に「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた」とあります。神様にかたどられて造られた人がエデンの園に置かれた。「エデンの園」とは、楽園で、パラダイスで仕事もしなくてぶらぶら遊んで暮らすところではありません。「これを耕させ、これを守らせられた」とあるように、神様が働くべき使命を与え、仕事を与えてくださった。エデンの園で神様の与えられた務めを果たすために置かれた。そして、神と共に生きる生活、そこでは神様と人とが何の隔てもなく密接な交わり、神と共に生きる幸いな生活であったのです。その働くことも、いわゆる労苦として、苦しみとしての働きではなく、彼らが神様と共にあることのひとつの関係、神様との交わりでもあった。神様から命じられることを喜んで受けていく。神の性質に連なっている者でありました。ところが、そういう幸いな関係、2章25節に「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」とあるように、神様の前に何一つ隠すところのない者、神様のご性質に似た者となった。これが人本来の、人間本来の在(あ)り方。私たちも本来そういう者であります。神様に造られ、神様のご性質にあずかって神と共にあることを喜びとする。これが人の本来の生き方です。ところが、3章1節以下に語られているように、神様に対して罪を犯してしまった。

「創世記」3章8節、9節を朗読。

誠に悲劇であります。それまでは神様と何の隔てもなく、幸いな交わりがあった。隠す所のない裸で神様と付き合う、そういう関係でした。ところが、彼らが神様の戒めを破ってしまう。神様のお言葉に従わないで己を神とするといいますか、自分の力で神様にとって代わろうとしてしまった。そのために、もはや神様との交わりが断たれてしまう。神様の前におられなくなってしまう。そして、主なる神様から離れて8節に「人とその妻とは主なる神の顔を避けて」、神様に顔を合わせられない。これが罪を犯した人の姿です。神様の前におられないから隠れる。ひそかな所、暗い闇の中に生きる者となってしまう。それがいま私たちの置かれているこの世の姿であります。私たちの住んでいるこの世は、神様を認めることをしようとしない。神様を避けて、神様の顔を離れて隠れた所に生きようとするがゆえに、そこは闇の世界です。喜びもなければ希望もありません。まさにいま私たちが住んでいる社会もそうです。行き詰った出口のない完全に袋小路のような闇の中に置かれている。これは人が神様との交わりを絶たれて隠れてしまった結果です。その故に神様は9節にあるように「あなたはどこにいるのか」と、私たちを探し求めてくださる。神様は愛なる御方です。神様を離れて、勝手なことをする私たちを、「もうこんな者はわたしは知らない」と、神様は捨ててしまって当然であります。ところが、神様は私たちを捨てることができないのです。なぜか? ご自分のかたちにかたどって尊く造ったからです。人の親でもそうです。我が子がどんな出来損ないであろうと、道を外そうと、親はいつまでも親です。「こんな者はしょうもない。勘当や!」と言って、「お前は子でもない、親でもない」と、たとえ縁を切ったとしても、それは言葉だけです。心からその子を捨てられるかと言うと、やはり血を分けた……、やはり自分に似た者でありますから、神様も私たち人を捨てることができない。神様の御思いから離れて勝手な振る舞いをして神様に背き続けている、敵対していようとも、神様は私たちを捨てることができない。なぜなら、私たちが神のかたちにかたどられて、神様のご性質に似る者に本来造られた者だからであります。それを惜しんでくださる。これが神様の御思いであります。
ですから、この時もエデンの園から追放されてしまいますが、神様は「お前たちのことは、もう一切わたしは知らない」と言われたのではなく、「あなたはどこにいるのか」と求めて下さる。常に神様はあなたを求めておってくださるのです。ところが、私たちは罪を犯し、神様から離れた者で、神様の前に立つことができません。

「ヨハネの第一の手紙」1章5節、6節を朗読。

5節「神は光であって、神には少しの暗いところもない」とあります。神様のご性質は「光」だというのです。光には少しの暗いところもない。確かに太陽の光を見ていると、そこに黒いものも陰もありません。それは全く純粋に光そのものです。ところが、私たちがその光の前に出る、神様と交わろうとするならば、当然私たちもその光のようでなければ一つになることができない。そこに「神は光であって、神には少しの暗いところもない。6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら」。神様と交わりをしていると言いながらも私たちが闇の中を歩く。神様から離れて神の顔を避けて、アダムとエバが隠れたように、ひそかな所、闇の中に自分を置いているかぎり、神様との交わりはあり得ません。罪の覆いが私たちにかぶさって来る。罪によって私たちが陰の中に取り込まれてしまっているかぎり、私たちは神様と交わることができない。神のご性質は光です。だから、私たちがその罪の覆いを取り除かなければ、それを取り除いて光に満たされたとき神様との交わりが完成する。

7節に「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」と。ここに「神が光の中にいますように」、いうならば、神様が光のような御方であるから、私たちもまた光の中を歩く。罪の覆いを取り除くこと。私たちを闇に閉ざしている罪の力を私たちから取り除いていく。と言って、自分でそれを取り除くことはできません。ただ「御子イエスの血が」とあります。神様は私たちの罪の覆いを取り除いて、神様との交わりをもう一度回復してくださるために、光なる御方がこの闇の世に来てくださった。これは驚くべきことです。イエス様は神の位に居給うた御方、神の御子でいらっしゃる、神ご自身でいらっしゃる御方が、私たち、罪の中、闇の中にうごめいているといいますか、「暗黒の地に住んでいた」とイザヤ書(9:2)に書かれていますが、罪の中、自我性という罪、自己本位という罪、肉にある罪、自分の欲望を満たすことを正しいとすること、あるいは自分を神とすること。自分の考えること、計画していること、私がいちばん正しくて立派な人間であって、私こそ絶対に正しい。これが神様の前で罪なのです。その性質を私たちの内から取り除く御方として御子イエス・キリストがこの罪の世に来てくださった。肉のかたちをとって、私たちと同じ肉体をもって、罪は犯されなかったが私たちと同じように弱き者となり、この世の者となってくださった。そしてついに十字架にご自分の命を捨ててくださった。それは私たちの罪の覆いを取り除いてくださるためです。

ですから「コリント人への第二の手紙」3章12節以下に「こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、13 そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。14 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている」。簡単に申しますと、モーセが指導者となって、イスラエルの民をエジプトの奴隷の生涯から救い出してカナンの地を目指し、旅をしました。荒野で40年間の旅をしましたが、シナイ山の麓(ふもと)に彼らが来たときに、神様はモーセに命じて「神様の所へ来なさい」と言われた。モーセは民を麓に置いたまま山に登りました。そこで神様との交わりに入れられました。そのとき、神様は親しくモーセに直接顔を合わせて語ってくださった。そこで、神様が人々に求められる御思いを律法という形で与えてくださいました。その代表が「十戒」といわれる10の戒めです。これを石の板に書きつけて与えられた。それを神様からもらって行こうとしたとき、麓で待っていたイスラエルの民は自分勝手に金の小牛、偶像を造って、モーセは死んだものと思って別の指導者を立てて、偶像を礼拝していたのです。そのためにモーセは急いで降りてきました。激しい怒りのため十戒を書いた石の板を投げつけた。神様は「この民をもうわたしは知らない。こんなに言うことを聞かない者は……」と言われたとき、モーセは神様の前に執り成しをしました。「そうおっしゃらないで、どうぞこの民を憐れんでください」と。そのときに神様が「では、もう一度わたしの所へ登って来なさい」とモーセを呼ばれました。それで、石の板を持ってまた山へ入る。やがて山を下りて来たとき、モーセの顔が光り輝いていた。人々はモーセの顔を見ることができなかったのです。急いで彼の顔に覆いを掛けた。これはモーセが神様と交わりをもって神のご性質に似る者と変えられた結果です。本来神様は私たち全ての者をそのように光なる性質、神様のご性質にあずかる者、似る者、創世記の初めに人が造られたときの最初の人のように私たちを造り変えようとしておられます。そのことが今ここに語られていることです。14節に「実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている」。イスラエルの民は光り輝く、神様のご性質に満ちたモーセとまともに顔を合わすことができない。慌てて覆いを掛けました。自分たちが神様の光に照らされたら到底耐えられない罪なる者であることを知っていたからです。自分の中にある罪のゆえに神様の光、神様の御性質を受けることができないから、慌てて覆いを掛けた。光を覆ってしまう布は、私たちの罪の印であります。罪によって神様の光が遮(さえぎ)られてしまう。だから、そのときモーセが神様との直接の交わりを得て、清い者、光なる者とされ、イスラエルの人々の所へ戻って来たとき、まだイスラエルの民には罪の性質がありましたから、直接神様に顔を合わせることができないので、慌てて覆いを掛けてしまう。罪の覆いが掛ってしまう。14節の後半にあるように「それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである」です。イエス・キリスト、御子でいらっしゃるイエス様は神の位を捨て、私たちの心に掛っている罪の覆いを取り除いてくださる。十字架にご自分が命を捨ててくださって、全ての者の罪を打ち砕いてくださった。私たちの罪を取り除いて、神様と直接に顔を合わせることのできる者としてくださいました。「それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである」とあるように、私たちがどんなに品行方正になろうと、あるいは、善行を積んだり、修行や激しい厳しい訓練によって罪が消えるかと言えば、消えないのです。光なる御方を受け入れることはできない。罪の覆いがいつまでも残っている。その罪の覆いを取り除くには、キリストに向く、主に向かなければならない。16節に「しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」。「主に向く」、いうならば、イエス・キリストを「私の罪のあがない。私の罪の救いとして十字架に命を捨ててくださった方です」と心に信じて受け入れる。イエス様を信じる。そのとき私たちの罪の覆いが取り除かれる。そして神様の光が注がれてくる。

神様の光とは、聖霊、御霊であります。神の霊が私たちの内に宿ってくださる。その後の17節に「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」。ここに「主は霊である」とありますが、「ヨハネの第一の手紙」に「神は光であって」と、神は光なる御方であり、「霊である」。霊は神の光を私たちの内に照らしてくださる御方。神のご性質を私たちの内に移し入れてくださる。これは大きな祝福と恵みです。だから、神様の霊、御霊を私たちの内に頂くというのは、神様と同じご性質にあずかること。イエス様の十字架のあがないによって罪を取り除いて、覆いを取り除いて、神様の光を全面的に注いでいただく。その第一歩といいますか、道筋としてイエス様が十字架にご自分を捨ててくださった。私のためにも、皆さんお一人お一人のためにも既にイエス様は十字架で「事畢(をは)りぬ」(ヨハネ19:30文語訳)と、全てのことは終わったと宣言してくださった。私たちの過去、現在、未来、これからひょっとしたら犯すかもしれない罪に至るまでもことごとくイエス様によって処分してくださった。罪を清めてくださった。いま私たちははばかることなく、遠慮することなく、光なる御方の前に立つことができる。神のご性質、神の御霊、聖霊が私たちの内に宿ってくださっておられるのです。救いにあずかった私たちに神様がしてくださったことが何であるかを、確かなものとして信じて行きたい。私たちの内にキリストが宿ってくださる。言い換えますと、神のご性質が私たちの内に造り出されてくる。 

 18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。これは最高の恵みであります。いま私たちはこの地上にあってイエス様のあがないにより救いにあずかって生かされています。この世の生活は何のために生きているか? まさにこのためです。私たちがこの地上にあって光なるキリスト、聖霊なる神、イエス・キリストとの交わりを通して、私たち自身が頭の先から足の先までことごとく神のご性質に満たされること。神のご性質に同化すること。これが私たちにいま求められるといいますか、神様がなそうとしておられる事です。私たちは自分の生活上のあのこと、このこと、あの問題、この悩みと、そういう事の解決のためにと思いますが、神様が私たちに期待しておられるのはそれ以上のもの、古い私たちから新しい私たちへ造り替えることです。あの天地創造、最初の人として造られた神のかたちをもう一度私たちの内に回復する、造り出してくださる。これが生かされている目的です。この地上にあるかぎり、キリストのかたちが私たちの内に造り出されるまで、神様は手綱(たづな)を緩(ゆる)めなさらない。いつまでも私たちを追い求めてくださる。しつこいですよ。覚悟しようじゃありませんか。いろいろな問題の中に私たちを置かれます。しかし、そこでこそ、私たちの性情、性格を徹底してキリストのご性質に変えられていく。キリストに似る者と私たちを造り替えてくださる。それが完成しないことには天国に行けませんから。まだ、だいぶ時間の掛りそうな方もいらっしゃる。感謝したらいいと思います。これからもっともっといろいろなことを通して……。18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに」とあります。私たちはいまイエス・キリストの十字架のいさおしによって罪を赦された者となりました。いうならば、顔覆いを取り除かれて、今は「主の栄光を鏡に映すように」、イエス様が十字架に命を捨て墓に葬られなさって、三日目によみがえって全ての名に勝る名をいただき、天にがい旋なさいました。まさにイエス様が御国に帰って行くその時の栄光の姿に私たちも変えられるためです。そのために神様がいま働いてくださっている。私たちが何かをするわけではありません。私たちはただ御霊の導かれるところに従うだけであります。皆さんの生活に次から次へといろいろな事が起こります。その事を通して見えなかった自分が見える。隠れていたものが現れてくる。取り除かれるべきものが取り除かれて、いよいよ清く聖なる者へと造り替えられていく。キリストが私たちの内に完成される。これが私たちの生かされている目的です。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」と。そのことをしっかりと自覚していきたいと思う。キリストの姿に私を変えてくださる。キリストのご性質に似る者としてくださる。

 「エペソ人への手紙」4章13節を朗読。
ここに「キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るため」とあります。神様が私たちに求めておられる標準、神様が私たちの内になそうとしていることは、まさにここです。「キリストの徳」、イエス様の中にある全てのものが私たちに移し替えられるためである。さらにその先15節に「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである」と。ここにも「かしらなるキリスト」、私たちの一番上のお兄さんとなってくださる、私たちの頭(かしら)でいらっしゃる、長子であるイエス様に達する。イエス様のご性質に私たちが全く変えられることです。

 「ピリピ人への手紙」3章9節を朗読。

 ここに「キリストのうちに自分を見いだすようになる」とあります。言い換えると、イエス・キリストを思うとき、それが自分だと。「あれは私だ」と言えるようにしてくださる。どうですか、「イエス様は私の分身、私のことを知りたかったらイエス様を見てください」と言えるぐらいになりたいと思います。「あなたは何年教会に行っているの。ちっともイエス様らしい所はないね」と言われるようでは、ちょっと困ります。と言って、今から徹夜して、受験勉強でもするかのごとく頑張って、身に付くかというと、それは無理であります。できません。

 それをしてくださるのは御霊なのです。「コリント人への第二の手紙」3章18節に、「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」。「これは霊なる主の働き」、御霊が私たちの内にあって、私たちを造り替えてくださるのだと。だから、私たちのなすべきことは、「主の栄光を鏡に映すように見る」。いうならば、絶えずイエス・キリストを見て行く。この年頭にも与えられたお言葉にありますように「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ2:8)ということです。キリストを見る、イエス・キリストをいつも心に思う。それは御言葉を絶えず私たちの心に宿らせることであります。「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」と言われても、イエス・キリストを思うって、何を思うの?画家ルオーの描いたキリスト像とか何か西洋絵画の一つでも頭に思い浮かべて、あれはどんな形であったかなと、そんなことを思うのではないのです。「イエス・キリストを思う」とは、御言葉を絶えず私たちの内に覚えていくこと。絶えず、御霊が私たちの内に思い起こさせてくださる御言葉に従うこと、応答していくこと、そのお言葉に絶えず思いを向けていくこと。これがキリストを思うことです。また、栄光の姿を見ていくとは、そこです。そうすると、すぐ私どもは「この御言葉を覚えなければいけないのかな」と思いますが、「これは霊なる主の働き」とあるように、神の御霊が私たちの内に働いてくださる。そして、御霊が忘れていた御言葉を思い起こさせると約束されています。私たちはいつもイエス・キリストを心に思っておきたい。しかし、私たちの肉の力でどんなに頑張ってみてもくたびれますし、できません。しかし、御霊が事あるごとに心に御言葉を思い起こさせてくださる。いつ聞いたか、いつ読んだか、そんなことを忘れているお言葉が、あるときふと私たちの心に引っ掛かる、現れてくる。これが絶えずイエス・キリストを思う。もちろんそのためには、絶えずこういう集会に出て来たり、あるいは、自分自身、毎日聖書を読み続けていますと、たとえ忘れていようと、次から次へと読んでは忘れ、読んでは忘れても、御霊は私たちの内にあってそのお言葉を必要なときに必ず教えてくださる。「そうだ。今このことなのだ」と。そこで思い起こさせられた、与えられた御言葉に対して「では、私はどう応えるか」。これが日々の生活です。まさにそこにキリストのかたちが造り出されていく。御言葉に従って行くとき、聖霊による喜び、また自分の内になかった新しい性情、性格が造り出されていく。これは人を造り替えていきます。いろいろな問題や、悩みや、困難や、事柄の中に置かれるとき、そこでキリストに触れる。主に従う。そうして私たちの内にキリストのご性質、キリストのかたちが形作られていく。これがいま私たちの内になしてくださる神様のわざであります。

目の前のいろいろな具体的な問題がありますが、そのこと以上に、そこで私がどのように神様に触れ、神様の御思いに自分を合わせていくか、それに造り替えられていく者であるか。ここが大切なのです。そうしていきますと、具体的な問題も事柄も私たちの思いを超え、願いを超え、想像を超えた神様の力とわざが現わされるのです。

神様が何を私に、皆さんに期待しておられるかをはっきり知っておきたい。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。また「ピリピ人への手紙」にありますように「わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」(3:21)。「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる」(Ⅰコリント 15:51)。今度はまさに私たちの罪ある体を脱ぎ捨てて、神様の栄光の姿に造り替えられる新しい復活の時へと向かっています。永遠のいのちの生涯へ変えられて行くその時まで、いま地上にある間、ここでキリストの性情、性格、キリストに似る者へと変えられて行きたいと思う。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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