いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(340)「御足の跡をたどりつつ」

2014年10月03日 | 聖書からのメッセージ
 「ペテロの第一の手紙」2章18節から25節までを朗読。

 21節「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範(もはん)を残されたのである」。

 間もなくイースターを迎えます。過ぐる日曜日はパームサンデー、棕櫚(しゅろ)の日曜日といわれています。イエス様が過越の祭のためにエルサレムに来られたときを記念した日曜日でした。それから後、パッションウィークという受難週が始まり、今はその真っただ中であります。今日、木曜日はどんな日かというと、イエス様が最後の晩餐(ばんさん)の席につかれた日であります。最後の晩餐(ばんさん)でイエス様は弟子たちにメッセージ、お話をされ、そのことが「ヨハネによる福音書」の15章から17章までにわたって詳しく語られています。

その席でまずイエス様は弟子たちの足を洗われた記事があります。普段はそのようなことをしなかったと思います。「過越の祭」を毎年守っていますから、今年も同じようにごちそうでも食べて……。本来そのように楽しい祭りというか、神様に感謝をする時です。去年もそうしたし、今年もそうするだろうと思ったでしょう。ところが、そのときだけはちょっと違っていた。突然、イエス様が食事の席から立ち上がって、腰にタオルを巻いて水をたらいに入れて弟子たちの足を洗われた。今のようにアスファルトで舗装された道ではありません。しかも靴やブーツのように足を全部覆(おお)うような履物(はきもの)ではなく、せいぜいサンダル履きくらいです。だから一日歩き回ったらドロドロの汚れきった足だと思います。ユダヤの習慣でカナの婚宴(こんえん)のように水が置いてあって、身を清め、足を洗う習慣がありました。だから、少々の汚れは取れていたかもしれませんが、いずれにしても汚い。イエス様は一人一人の足を丁寧(ていねい)にお洗いになる。ペテロはびっくりして、「滅相(めっそう)もない。先生、そんなことはやめてください。私はいいです」と言ったとき、イエス様は「あなたの足を洗わなければわたしとあなたとはかかわりがない。関係がない」と。足を洗ってもらわなければイエス様と何の関係もないと言われて、「それじゃ、足のみならず体も洗ってください」とペテロは言った。それが木曜日、今日のことです。ですから、この木曜日のことを足を洗う木曜、洗足木曜日と教会暦では言います。

食事が済んだのち、イエス様はゲツセマネの園に弟子たちと行かれました。そして祈りのときを持たれる。その後すぐに、ゲツセマネの園からイエス様は捕らえられてゴルゴダの丘へ引かれて行きます。もちろんその間にカヤパの屋敷、ヘロデの所、またピラトの法廷と引き回されて取調べを受けます。そして、明日の金曜日が受難の日といわれています。そうやって神の御子であるイエス様は罪人として十字架に処刑を受ける。イエス様のご生涯は、まさに悲劇の主人公であります。「何のためにお生まれになられたのか、もったいない話だ」と思いますが、イエス様のご生涯はまさにそのため、この時のためなのです。だから「ヨハネによる福音書」に、一粒の麦のたとえを語られた後に、「父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです」(ヨハネ12:27)と告白しています。しかし、実はイエス様のご生涯は私たちのモデルであります。

21節に「御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」とあります。イエス様はこの世に来て、人としてのご生涯を通して、人が正しく人として生きる生き方がどこにあるかを見せてくださったのです。文字どおり一つのモデルとしてイエス様が歩んでくださった。だから21節の前半に「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである」とあります。「召される」というのは、私たちが招(まね)かれること、招待されることです。私たちは何に招かれたのでしょうか? それはイエス様の救いに招かれた者、イエス様は私たちを招いて、永遠の滅びから永遠のいのちの生涯に救い出してくださる。その恵みに招き入れてくださった。だから今、こうやってイエス様を信じ、神様を信じて、感謝し、喜んで過ごさせていただいていますが、私たちが救われたのは、誰の業(わざ)によるのでもない、努力によるのでもなくて、神様が私たち一人一人を招いてくださったからです。私たちは招かれて今ここにある。招待されるとき、招待された側は何にもいりません。人から招かれるとそういうわけにもいかない。チョット手土産の一つでも持っていかなければと。時には、結婚式などの招待状をもらったら、お祝いをはずまなければならないから、返って出費がかさんで招かれない方がいい、という人もいるかもしれません。ご招待とは、万事万端、一から十まで全部向こう様が持ってくれるわけです。そして、お土産まで付けて、全部初めから終わりまでを取り仕切ってくれるのがご招待であります。

私たちも今その招待にあずかった。そういう自覚があるでしょうか?「私は一生懸命に努力して、この信仰を失なわないように頑張っているのだ」というのは大きな間違いです。神様が私たちを招いてくださって、信仰を与えてくださる。では、私だけ招かれて、あの人はこの人はと、ほかの人はどうなのかと言われますが、今はすべての人にイエス様の救いは開かれているのです。すべての人に招待状が来ているのです。ただ、招かれてもそれを受けなければ役立たない。「是非、この日に来てください」と招かれます。「何月何日までに出欠をお知らせください」と、その招待を受けるのか受けないのか、それはこちら側の判断、責任です。神様も私たちを無理やりに救おうというのではない。救いの道を全部完成してくださって、「さぁ、あなたもいらっしゃい」と招いてくださっている。それに対して「そうですか。じゃ私もお願いします」、「出席します」という返事を出さなければ駄目です。返事を出さないで、招かれたといっても、向こうとしては困ります。だから、招かれてそれに応答する、それを受けることが大切です。幸いに、私たちはイエス様が招いてくださったいろいろ具体的な切っ掛けがあったとは思いますが、そのことを通して「そうだ。私は救われなければならない者だ。本当に罪の有る者だ。汚れている者だからイエス様が赦(ゆる)して『神様のところへ帰ってきなさい』と招いて下さる。有難うございます。是非帰らせてください」と言ったから、今の救いがあるのです。そして「我に就(きた)る者は我かならず之を棄(すて)ず」(ヨハネ6:37b元訳)と、神様は約束してくださいました。いったん招いた者を神様は決して離さない。そのご目的を遂(と)げてくださいます。ただ、私たちは何のために招かれたのか? 「救いのために」とあります。「救われる」とは、どういう状態か? それがイエス様のご生涯でもあります。クリスチャンといいますか、イエス様の救いにあずかった人の生き方、その新しい生活へ私たちを招き入れてくださる。21節に「そうするようにと」とありますが、「そうするようにと」とは何をすることでしょうか? それは18節から20節までに語られていることですが、悪いことをしてその報いを受ける、処罰を受けることは当然のことであって、これはいたし方がない。ところが、正しいこと、善いことをしながら不当な苦しみを受ける。そのときに人の人たるゆえんが問われます。私たちの日々の生活のなかにいろいろなことで思いどおりにいかない、願いどおりにいかない。あるいは人から誤解される、人から非難中傷(ちゅうしょう)される。いろいろな誤解を招く。人生は、お互い誤解の世界に生きているようなものです。だから、いつも「こんなはずではなかった」「もっとこうあるべきだった」「あれはどうしたんだろうか」「これはどうしてこんなになったんだろうか」と、心が騒ぐ、悩む、思い煩う、そして苛立(いらだ)つ。そのような私たちです。

ところが、20節に「悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである」と。自分のしたことが受け入れられない。自分の善き思いが通じない。生活のなかでそのようなことがあります。その結果、私たちは「どうしてやろうか」「何でやろうか」と、イライラカッカして心身症になってみたり、うつになってみたり、様々な身体的な障害まで引き起こすほどの苦しみにあう。その原因は、自分の思いどおりにいかない、自分が認められない、ということがあります。イエス様もまさにそのような中を通ってくださいました。イエス様は罪なき御方でありながら、罪人とされ、24節に「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた」と。イエス様は罪なき御方、何一つ罪を犯(おか)したことのない御方で、神の御子でいらっしゃる方が人となってこの世に来てくださいました。そればかりか罪人となってくださる。しかも十字架の死を受けなければならない極刑(きょくけい)、極悪(ごくあく)非道な罪人とせられて、あの十字架に命を断たれる。こんなひどい話はないでしょう。

先ごろ足利(あしかが)事件という昔の事件が再審(さいしん)になりまして、実は犯人とされた人は違っていた。何の罪もなかったことが分かりました。そしてもう一度裁判をやり直しまして、無罪判決を先だって受けました。これだって、ご本人にとっては本当に苦しかったと思います。20年近くの長い年月を刑務所で過ごすのです。しかも自分はやっていないのです、無実です。その苦しみたるや私たちの想像を絶するものがあると思います。幸いにその方は無罪が証明されまして、裁判官が「ごめんなさい」と言ったわけです。「ごめんなさいで済むくらいだったら警察はいらんよ」と言いたくなりますが、とんでもない話です。その方は記者会見で非常に激しい憤(いきどお)りを表されますが、さもあらんと思います。

しかし、イエス様はもっとひどいですよ。とうとう死んでしまわれるのですから、殺されてしまうのです。イエス様は22節に「キリストは罪を犯さず、その口には偽(いつわ)りがなかった」と言われています。イエス様は何一つ罪なき御方、罪を犯したこともない偽ったこともない御方が罪を負うてくださった。しかもそれはほかの人の罪。誰の罪? 私たちです。私の、皆さんの一人一人の、私たちの過去、現在、未来にわたってすべての罪をイエス様は一身に受けてくださった。こんな理不尽(りふじん)な話はありません。でも、イエス様は23節に「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず」と。もし私たちだったら、一言言われたら二言も三言も言い返さなければ収(おさ)まらない。ところが、イエス様はそのような不当な扱いを受けながらも一言も弁解しない、言い訳もしない。あるいは、相手をののしることもしない。そして黙々と黙ってなされることに委(ゆだ)ねていく。それを甘んじて受ける。これがイエス様のご生涯。なぜイエス様はそのようなことができたのでしょうか。実は、イエス様の使命は父なる神様の御心を行うことです。だから、23節に「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず」、その後に「正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」。「正しいさばきをするかた」とはどなたか? 神様です。天地万物の創造者でいらっしゃる真(まこと)の神様は、義なる御方、正しい御方、聖なる御方です。そして、私たちを造り生かしてくださる。しかも、私たちをこの救いに引き入れてくださった神様は、私たちに報いてくださる御方です。どんなこともおろそかにしない。すべてを知っておられる御方です。そして、神様がイエス様に求められたこと、今この十字架のみ苦しみを受けること、それが神様の御心であることをイエス様は信じたのです。父なる神様がこのことを喜んでくださることを知っていましたから、どんな扱いを受けても、必ず父なる神様はそれに答えてくださる。わたしのためにわざをしてくださるに違いない、報いてくださるのだ、と信じていた。私たちに「倣(なら)いなさい、そうするように」というのは、このことなのです。

「ピリピ人への手紙」2章6節から8節までを朗読。

6節に「キリストは、神のかたちであられたが」とあります。いうならば、イエス様は神と等しい御方でいらっしゃる。「神様がもう一人いたのか」と言うわけではありません。イエス様は神様ご自身といってもいいと思います。イエス様は神の位に居給うた、天に居給うた御方が「神と等しくあることを固守(こしゅ)すべき事とは思わず」とあります。その神の位を捨てることを嫌だ、私は神だからここから離れたくないと、その神の御子である、神であることに固守する。言い換えると、それにしがみつく、決して離れようとしない。そうではなくて、「固守(こしゅ)すべき事とは思わず」、7節に「かえって、おのれをむなしうして」と。「おのれをむなしくする」、自分を捨てることです。自分の思いを捨てる。父なる神様のそばに居給うた御子でいらっしゃるイエス様は、その身分を捨てて、「僕のかたちをとり、人間の姿になられた」。人となってくださった。人間のかたちをとり、クリスマスの夜、ベツレヘムの馬小屋に、人となって生まれてくださった。これはとんでもないことです。創造者、造り主でいらっしゃる神様が、造られた被造物である人に成り代わることです。それは私たちが自分を捨てるどころか、もっと徹底してご自分を無にしてしまった姿であります。そして8節に「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。なぜそのようなことをなさったのか。それはただ一つだけ、その理由は父なる神様がそれを求められたからです。父なる神様の求めるところに従う。これがイエス様のこの世に遣(つか)わされたご目的であり、またその生き方でもあります。イエス様は、それから後ズーッと十字架の死に至るまで父なる神様に従うことに尽くしていくのです。「死に至るまで従順であられた」、「従順」とは、素直に従うことです。誰に従うか。父なる神様にです。これがイエス様のご生涯です。

その結果、父なる神様はそれに報いてくださる。9節以下に「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」と。死に至るまで従いなさったイエス様に父なる神様はちゃんと報いてくださる。イエス様を墓からよみがえらせ、そればかりでなく天にまで引き上げて「すべての名にまさる名を彼に賜わった」。父なる神の右に座するものとしてくださった。これはイエス様だけでなく私たちに対する約束でもあります。私たちをこの救いに招き入れてくださったのは、このことのためなのです。私たちをして父なる神様の僕(しもべ)にしようと、そして神様のとてつもない想像を絶する報いを私たち得させようとなさる。父なる神様が私たちを恵んでくださるその恵みを体験してほしいと、そのために招いてくださった。その恵みは何か? それはこの地上の事情、境遇、何か生活が良くなるというご利益(りやく)ばかりではありません。もっと根本的な恵みです。それは私たちをして永遠の御国の世継ぎにしてくださる。神様の家族の一人としてくださる。そしてなおかつ私たちの地上での具体的な生活の一切の後ろ盾となってくださる。神様の報いに私たちがあずかることができる。これがいま私たちに約束されている事です。

「ペテロの第一の手紙」2章21節に「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範(もはん)を残されたのである」。イエス様の歩み、模範はどのことかというと、ただ一つだけ。従順に神様の御心にだけ従うご生涯です。そして、いま私たちはそれと同じように生きるために召された者であります。「では、私たちも十字架にかからなければいけないのか」と。もちろん主がそれを求められるならば喜んで従いたいと思いますが、私どもは肉の弱さをもっていますから、なかなか従えないのです。イエス様もそのことを体験してくださいました。それがあのゲツセマネの祈りであります。

「マタイによる福音書」26章36節から39節までを朗読。

これはイエス様がいよいよ十字架におかかりになるという、この木曜日の夜のことであります。弟子たちと共にゲツセマネでお祈りをなさいました。イエス様は神の位を捨ててまで世に来てくださったのだから、十字架なんか平気だと思われがちですが、そんなことはありません。イエス様は私たちと同じ弱き肉体をもって、弱さを知り給う御方となってくださった。ご自分の死を目の前にして、肉体の死を目前にして大変苦しんでおられます。37節には「悲しみを催(もよお)し、また悩みはじめられた」と。そして「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」と語っています。これを読むと本当に慰められます。「イエス様もこういう苦しみを経験されるのだ」と思います。といって、そこだけにとどまっては駄目です。問題はその後です。それに対してイエス様は父なる神様に祈っておられる。まず「もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。神様、このことをわたしは耐え切れません。これを避(さ)けることができないでしょうかと、私たちもよく祈る祈りです。「神様、どうぞ、これを取り除いてください」「早くこれを変えてください」と、いろいろなことを祈ります。ところが、このときイエス様は祈りの最後に「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と告白します。「自分の思っている、願っていることではなくて、父なる神様、あなたの御心に従います」と祈ったのです。それですぐに従ったかと、やはり従えないのです。それからまた祈り、また祈り、繰り返してお祈りをなさいました。

このゲツセマネの祈りの大きな特徴は、祈りとはどういうことなのかを語っている。お祈りすることは、そのことを通して自分を神様に明け渡すプロセス、手順なのです。ともすると、お祈りとは、自分の願い事を神様に申し上げることに終始します。これももちろん祈りの一つの目的でありますし、それは許されることであります。イエス様も「わたしの名によって祈りなさい。どんなことでも祈りなさい」とおっしゃいますから、私たちは祈りますが、もう一つお祈りの大切なことは、祈りを通して自分を捨てるのです。神様の御心に自分の心を合わせるまで祈る。これは祈らないとできません。いま自分の与えられている問題、苦手だし、嫌だし、きついし、犠牲(ぎせい)を払うことが多いし、何とかこれでなくてほかの道を行きたい、でも、どうも神様は私にこれを求めておられるようだ、と思いながらも決断がつかない。そういうときにもう一度祈るのです。祈って、何度でも祈って、そして「これは神様が私に求めておられることです」と、確信を得るまで祈りますと、そのとき私たちは自分の思いを捨てて主に従う、神様に従う決断が整ってきます。イエス様もここで三度祈りました。最後に、初めてイエス様の心に平安が与えられる。それは「もういい。全部わたしは父なる神様の御心のままに」と心を決める。それはいくら自分で決めようと思ってもできませんが、祈って、祈っていますと、神様のほうが私たちの心を整えて、恐れを取り除き、不安を取り除き、自分の思いを消し去ってくださって、すっきりと「これは神様の御用です。神様が私に求められることです」と、信仰を持って引き受けることができる。そのときまで、そうなるまでわたしたちは祈らなければなりません。チョットお祈りしてみて、「やっぱりあっちよりもこっちの方が楽だ。自分はこっちのほうがしたい」と、自分の損得利害、好き嫌い、自分の情欲に従うところでパッパッと右に左にと決める。そして、その後、うまく行ったら有頂天になっておてんぐになりますが、失敗したら自己憐憫(れんびん)に陥(おちい)ったり「なんて私は駄目な人間なんでしょうか」と劣等感に苦しむ。そんなことは初めから分かっていることで、今更「駄目な人間です」というのは、ちゃんちゃらおかしいわけです。「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである」。キリストの足跡に倣(なら)う、「足跡に倣う」とは、イエス様がどのような生き方をなさったか。徹底(てってい)して父なる神様の御心を求めて、そこに自分を従わせていく。

いま私たちの生活もそうです。毎日、朝から夜までいろいろな生活の事柄が次々とあるに違いない。その一つ一つ、今日の今日、今日の明日、惰性(だせい)で「昨日もそうしたから今日もする」「これはこのようにする習慣だから」と考えもなくやっている。そうではなくて、一つ一つ「これは主の御心なのでしょうか」「神様、これは私がすべきことなのでしょうか」「ここは私が行くべきなのでしょうか」と、絶えず「私の思いではなくて」、常に父なる神様の御思いを求めていく。また私たちのすることなすことについて、人が誤解をし、あるいは様々な批判をする人がいるかもしれない。でも、「自分がいま父なる神様の御心に従って、ここまで歩んできた。このことをさせていただいた」という確信がありさえすれば、人が何と言おうと、神様が責任を持ってくださる。報いてくださるのですから、私たちがあれこれ弁解することもいらない、抗弁(こうべん)することもいらない。黙っておけばいい。まさにイエス様のご生涯はそこなのです。だから、ゲツセマネの園で祈って、心を父なる神様にピタッとくっ付けてしまったイエス様は、その後一言もおっしゃいません。ピラトの法廷(ほうてい)でもカヤパの屋敷でも黙って言われるまま、されるままに自分の身を委(ゆだ)ねきっていきました。それは父なる神様にご自分をささげたのです。私たちも「そうするようにと召されたのである」。私たちの日々の生活のことごとく、与えられた問題の一つ一つのなかで徹底して父なる神様の御心に従う。主が私に求められるところに歩んでいく。これを努(つと)めていきたい。そのためには絶えずイエス様の歩みに倣っていきたい。

「ペテロの第一の手紙」2章21節に「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範(もはん)を残されたのである」。「模範を残された」、それはお手本であります。私たちがまねをするようにとイエス様はご自分で実体験をして見せてくださった。このような生き方をするようにと。私たちはまだまだイエス様の足元にも及ばないと思いますが、しかし一歩でも半歩でもイエス様に倣う生涯。「主よ、今日もあなたの歩まれた跡をたどって御心に従うことができました」と、心から感謝する日々でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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