いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(18) 「み旨を行う者」

2013年10月09日 | 聖書からのメッセージ

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 マタイによる福音書7章15節から23節までを朗読。

 21節に「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」とあります。教会に来ると、「信仰」という言葉をよく聞きます。神様を信じることです。それならば、信じればいいのだと思います。その通り、言葉の通り信じればいいのです。ところが、信じる事の内容、それが具体的にはどういうことかを考えないままで、「神様を信じていますか?」「はい、信じています」言っています。信じるというのは、もちろん、「知っている」とは違います。私たちは、いろんな事を知ってはいますが、それを信じているかというと、必ずしも信じていない。知らない事でも、あるいは理屈で説明がつかなくても、案外信じていることがあります。

 ところで、信じた時、私たちにどういう反応があるのか、信じた結果がどのようなかたちになるのでしょうか。信じたら、それが自分の内に、生活の中に組み込まれて、反応し、行動を伴うことになります。だから、ヤコブの手紙には、行いを伴わない信仰は無意味であると言われています。一方、ローマ人への手紙によると、信仰によってのみ、人は義とせられるとあります。信仰を求め始めた方々がいつもぶつかるところです。「先生、聖書には矛盾したことが書いてありますね。片方では、信じただけで良いと言い、また、ヤコブ書には、信じただけでは駄目で、行いを伴わなければと。どっちが正しいでしょうか」と言う。私は「どちらも正しいことですし、それは同じ事を言っているのですよ」「いや、だって言葉が違います」「確かに、言葉は違うけれど、同じことではないですか」と答えます。

ともすると、そこを誤解し易い。「信じているからいい」、その通りです。ただ、信じることは、当然行いが、行動が伴うことを忘れている。私たちの生活でも、本当に信じた時、実際の行動が変わります。信じたら、そのように身体が動きます。テレビを見ていると、マジシャンが巧みな手品をしていました。耳からサーッとトランプを出してみたり、口からトランプを出したり、よくまぁ、あんな事ができるなぁと思います。あれを見て、驚いたり、ビックリするでしょう。その瞬間、パッと信じた時に、身体がそれに反応しています。行動しているのです。信じるというのは、本来そういう風に、具体的な反応、行動につながります。映画館の大スクリーンで、大宇宙を飛行船に、自分が乗っている気分になっている。そこへ向こうから大きな隕石が飛んできます。見ている者は体を倒してワーッと避けるでしょう。別に、飛んで来るわけではありません。考えてみて下さい、映像ですから、馬鹿な話でしょう。しかし、飛んで来たと、その瞬間信じているのです。信じているから、反射的に避けようと、身体が動くのです。信じたら行動に繋がる。信じるとは、そういう事です。

皆さんが抽選にでも当たって、「おめでとう。何月何日に何処何処に一泊旅行にご招待します」と通知を貰う。はがき一枚で、旅行が当たって良かったと喜びます。その知らせを持って近所の人に見せて回って、「私、当たったのよ」と言います。嬉しいから、行動が伴うのです。ところが、当選通知が送られて来た。これは本当だろうか、どうだろうか疑う。当てにならないから、電話して確かめよう、こういう知らせが来たけれども、これは確かに間違いの無いものですかと確かめる人はいません。通知が来たら、それを信じる。信じたら喜びます。こんなのただの紙切れだよ。その内に、取り消しと言ってくるよと、信じない人は喜ばないでしょう。あるいはその通知を屑篭にぽんと捨ててしまうに違いない。ところが、私どもはそれを信じるから、「何月何日に出発しますから、これこれの準備をしておいて下さい」と言われると、後何日あるから、あれをして、これをして、これをしましょうと、具体的な行動がはじまります。これは信じた結果です。信じなかったらそのような準備はしません。「何月何日から2泊3日でここへ旅行です。参加して下さい。一切無料です」と言われたら、何を持って行こうか、着るものは何にしようかと、当日を楽しみにしてじっとしていません。デパートに行って、春先だから冬物は駄目だろうから、こっちにしようと、それに合わせて、その時に向かって準備をしていきます。これが信じるということです。ところが、信じている、なるほど、何月何日ね、旅行決まったの、そうか、良かったと通知書を引き出しにいれ、準備もしないで忘れてしまう。当日になって、家族の人が、「あなた、旅行じゃないの」「そういうことだったね。でもあれは間違っているかも知れない。行かなくてもいい」。そうしている間に、出発時間が過ぎてしまい、主催者の方からお宅は何の連絡も無かったから、もう出かけましたと言われる。「あれ本当だったの」と信用しない。知っていながら準備をしない。それに応えようとしなければ、何時までも絵に書いた餅です。

聖書の言葉も同様です。イエス様が甦って、私たちの主となって下さったと信じます。私は神様を信じますと言いながら、生活の何処を見ても神様のいらっしゃる姿形が無い。「あなた、神様信じている?」「ええ、信じています」。信じているからいいのではないか。いや、信じていたら、神様がいらっしゃるのだったら、そのような生活、生き方があるのではないでしょうか。それをしないかぎり、信じていることにはなりません。

イエス様は、21節に「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」。今申し上げたように、イエス様を主と信じていない。口先だけ、言葉だけで、イエス様を呼び求めても、それは信じていることにはならないのです。これは、私たちの陥りやすいところです。信仰生活が長くなると、惰性になって、心が無い、本当に信じているのだろうかと疑わしくなります。ここで「“主よ、主よ”と言う者が、みな天国にはいるのではなく」、言葉だけで、「私は神様を信じています。イエス様は私の救い主です」と言ったところで、実際の生活の中に、イエス様はどのような形で、主となっていらっしゃるのか。イエス様は私の主ですと信じているのだが、あるいは神様を信じていますと言いながら、昨日一日、神様がいらっしゃると信じた行動、その結果がどこにあっただろうか。何故ならば、「みな天国に入るのではなく」とあります。うっかりすると、信じたつもりだったのに、そうじゃなかった。

私は大阪に行く時、いつも飛行機を利用します。最近はとても便利になりました。自宅からインターネットで、どんな時間にでも予約が出来ます。しかも、クレジットカードなどで、支払いもインターネットで済ましてしまう。だから、その支払いの為のカードだけを持って、直接飛行場に行ってチェックインをすれば、前もって切符を買っておくことはいらない。実に便利になりました。ある時、私はちゃんと予約をして、お金を払ったつもりになった。というのは、毎月毎月やっていますので、慣れている。お金も払ったし、チェックインするだけでいいと思って出かけました。私がチェックインしようとしたら、「あの、予約が入っておりません」「え!どうしてですか」「いや、予約をなさった過去の記録はありますが、消えています」と言う。「でも、お金も払っていますよ」「いえ、残念ながら、お金の支払いが済んでなかったようです」と。調べてみたら、予約をした後でクレジットカードを指示する手続きを忘れていたのです。済んだと信じたのです。ところが、「予約を受けました。5日後までに代金を支払って下さい」と書いてあったのですが、自分は済んでいるから、このことは考えなくていいと思ったのです。それで、空港に行ってみたら、予約がない。相手がミスしたと思っているものですから、「どうしてですか」と、えらい剣幕です。最近のコンピューターは賢いから、過去の事まで記録されている。「いえ、お宅様がこういう手続きをしておられます」と、はっきり「あなたが駄目、間違っています」と。その時、私は信じていたのだけれども、ちゃんとした手続きが済まされていない、これは無効です。予約をしたら、何時何時までに支払いの手続きをしなかった私が、間違っている。

地上の生涯を終って、私は天国にちゃんと席が予約されているから、時間が来たら行けばいいと思っています。天国の入り口で、「はい、私はこういうものです」とチケットを出して、「これは支払いが済んでおりません」「何処で支払うのですか」「あなたは予約したと口では言っていたけれども、実質何も払っていません。お帰り下さい」。お帰り下さいなら、いいけれども…、こっちの地獄の方に行って下さいとなったら大変なことです。イエス様は、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく」と言われる。私は予約をしているから大丈夫。信じている。でも、お金を払っていなければ、その予約は消えるのです。それと同じように、イエス様を信じていると言いながら、それに伴う行動、お金を払うというきちっとした応答をしなければ無意味なのです。

ここで、「わが父の御旨を行う者」とあります。「わが父」というのは、天のお父様、神様のこと。イエス様は神様の御旨に従ってこの世に来て下さった。神様の御心に従って、地上の生活を生きて下さったのです。そのように、私たちも、「天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」と。神様の御心、御旨を行うとは、イエス様の言葉を信じて、それに従うことです。イエス様に仕えていくこと、あるいは、神様を信じるという時、信じる事の中身は、神様の御旨を行うことでもあります。御旨を行わなければ、神様を信じているということにはならない。だから、日々の生活の何処に神様を置いていくか。それはどんなことにも、神様の御旨はいかにと求めて、一つ一つ神様の導かれるところに従うのです。主よ、あなたの御心に従っておりますと告白できる、言い表すことができる歩み方をするのです。

神様を信じている、イエス様を信じていると言いながら、イエス様はそっちのけ、神様のことを忘れて、自分の思いや願い、人の言葉や感情、世間の様々な習慣やしきたりに、振り回されて生きていて、時折、私は神様を信じている、何々教会の教会員ですというだけでは、天国に繋がることができない。いつも神様のみ心は如何にと祈って、「これは主の御心です」と信じて、与えられた道を感謝して歩む。これが父なる神様の御心を行うことです。これがなければ、天国に入ることはできません。ただ知っている、あるいは信じたつもりになるのではなく、具体的な生活で、事柄・事件の中で、神様の御旨を絶えず行う者となることです。

マタイによる福音書12章46節から50節までを朗読。

ここでもイエス様は、先ほどと同じような事を語っています。イエス様の家族、お母さんのマリヤさんや兄弟たち、イエス様の弟たちがイエス様の所へ面会にきました。息子のイエス様の行動がこれまでとはちょっと違う。家族からもうさん臭く見られていました。何とかして普通の生活にもどしてやらなければと思われたのでしょう。それで、イエス様の所に話しに来られた。47節にありますように、「あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って」とあります。お母さんはどうもこの子は家を出て、世間に騒ぎを起して迷惑を掛けているようだから、これは説得して家に引き戻そうと、そんな思いだった。だから家族みんなが、力ずくで、いわゆる脱会させようと、オウム真理教や統一教会じゃありませんが、家族して説得に来たのです。その時、周囲にいた弟子たちが、「お母さんや兄弟が来ていますよ」と伝えました。親族が来たと言ったら「それじゃ…」と、会いに行くでしょう。ところが、イエス様は「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」と言うのです。わたしのお母さんとか、わたしの兄弟とは一体誰だ。そして49節に「弟子たちの方に手をさし伸べて言われた」とあります。今度は、弟子たちの方に、手を差し伸べて、ごらんなさい、ここにわたしの母や兄弟がいるではないか。イエス様は、自分の肉親である血を分けた親や兄弟を、兄弟としたのではなかった。既にイエス様は、肉と情とに死んでいました。父なる神様にだけ従うイエス様ですから、わたしの兄弟、わたしの母というのは、50節に「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。肉にあって血を分けた兄弟だから、母だからじゃなくて「天にいます父のみこころを行う者が」と語っている。イエス様は、神様を信じる者とか、わたしを信じる者がわたしの兄弟だとは言わなかったのです。「わたしの兄弟、また姉妹、また母」は、どういう人かというと、「天にいますわたしの父のみこころを行う者」と言うのです。

信じることを、イエス様は、御心を行うという言葉に言い換えていると理解していただいたらいい。信じることは、自分が心の中にそう思ってさえいればいいのだ。生活はどうであれ、私がそう知っていればいいのだとするなら、これは大きな間違い。御心を行わなければ、信じているとは言えない。御心を行うとは、父なる神様の御声に従うのです。聖書を読み、お祈りをして、日々生活をしている中で、神様が語って下さることがある。神様の声を聞いたことはないと思われるでしょうが、神様は、私たちに思いを与え、願いを起させ、それを実現に導こうとして下さって、語り掛け、促してくださる。いろんな事や問題に遭うとき、主は、私たちに近くにいて声を掛けて下さる。そしてどう歩むべきか、どの道を選ぶべきか、右にすべきか左にすべきか、行くか留まるか、退くか、一つ一つの事柄について、神様の御心を教えて下さいます。御霊が私たちの内にあって、その思いを与え、決断を与えようとして下さる。その時、自分の好き嫌いや、親子の情にほだされて、感情にとらわれ、あるいは、世間のしがらみで、利害関係でどうしても止む無くという形で、歩んでいるとすれば、これは父なる神様に従っているとは言えない。自分の心には従うが、父なる神様の御心ではない。私たちは祈って、主がここへ導いて下さっている、神様がこのことを与えて下さったと、確信を持って具体的に行動する。これが信仰によって生きる生き方です。

父なる神様の御心を知って、それを行う者となる。言葉を復唱できる、聖書の言葉を暗記できるだけでは駄目です。暗記しなくても…、暗記できればいいですが、できない者に、せよとは言えませんから、できない年頃と分かっていますから、覚える事じゃないのです。行うのです。御言葉を忘れていてもいいのです。聖書を読んでいると、読んでいるうちに、御霊が、私たちの心の方向とか、考える回路と言いますか、行動のパターンを造り変えてくれます。気がつかない内に、私たちを変えるのです。今まで思ったことのない願いを与えて下さる。私のようなけちん坊が、どういうわけかこの頃、非常に大らかになって、という風に、造り変えてくださる。そして、今までは到底開くはずのなかった私の財布が、気前よく開くようになってしまう。それは神様の御心を信じていく時に、具体的な行動になるのです。これが大切な事柄です。

だから、もう一つ読んでおきたいと思います。マタイによる福音書21章28節から32節までを朗読。

イエス様は一つの譬えを語っています。二人の子供がいた。お兄さんと弟。お兄さんは、なかなか長男らしく親にいい子です。お父さんが「今日ぶどう園に行って働いてくれないか」と言ったら、「はい、お父さんまいります」と、いい返事をした。ところが一向に行く気配がない。お父さんはその返事を聞いただけで嬉しかったと思います。息子があんなに優しい事を言ってくれた。今日は来なかったけれども、何か都合が悪かったのだろう、来たい気持ちはあったに違いない、という風に親は思う。

ここ30節に「また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えた」。大抵そうです。お兄さんが良いお兄さんだったら、弟はちょっとねじれますから、「いや」と言うのです。しかし「いや」と言ったけれども、「あとから心を変えて、出かけた」。本当に優しい弟です。その時に「いやです」と言ったけれども、心を変えて出て行った。その後にイエス様は、31節に「このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」と問われました。お父さんの望みどおりにする。言い換えると父の御心を行った者は誰かということです。お兄さんは、口では「はい」といい返事はした。私どももそうです。「はい、神様信じます」と言いながら、一向に御心を行おうとしない。自分の御心ばかりをしていては神様に喜んでもらうわけにはいかない。弟は「いやだ」とは言ったけれども、心を変えて出かけて行った。行動を伴った、正にこの弟の方が、お父さんを愛していたと言うことができる。お父さんの思いを知って、お父さんの御心に叶うようにと自分の行動を変える。行いが伴っている。これが信仰です。

私たちも、神様を信じて、神様の手の中にあることを信じて、感謝して生きる。これが神様の御心を行うことです。ところが、現実の生活の中でいろんな問題や試練と思われること、困難が起こってきます。そうすると、神様を忘れて、イエス様のことも忘れて、あれがいいに違いない、こっちがいいに違いない、ああしないと、こうしないとと、あれこれやったあげく、イザヤ書30章にあるように、「あなたがたは逃げて、その残る者はわずかに山の頂にある旗ざおのように」、全く孤立無援になって、方策、万策尽きた時、主は待っていて、恵みを施される。愈々どん詰まりに来なければ気が付かないとするなら、気の毒と言うほかありません。もっと早くに、問題が起こったら、さっと御言葉に立ち返って、神様の御旨は如何にと求める。神様は、御心が何かを教えて、させようとして下さる。この弟のように、父の御心に叶う者と変わっていく、自分を変えていくことです。ところが、ともすると、頭で知っているだけ、言葉で説明することは上手であっても、生活や行いが伴わない。これは、イエス様が、おっしゃるように、父よ、父よと言うだけでは天国に入ることはできない。

先だって、ある方が、信徒だけで集まって聖書研究をしましょうと誘われたが、どんなものでしょうかと尋ねられました。よくきくと、聖書を読むのですが、その後は、世間話で終る。自分の家の悩みごとや、人の悩みごとを聞いて、「ああ、そうね、そうね、もう、仕方がないわね、私たちはもう、こんなだから、できないわねぇ」と、できないところで納まってしまって、そこからは何も変わることがない。だから迷っていると。私は、「聖書が求めているのは、研究することじゃなくて、御言葉を信じて、それに従うことです。人と話し合って、聖書の御言葉をこねくり回しても、その人の生活、その人の持っている問題、その人が今、直面している事柄と結びつかない。信仰によって、御言葉を自分に当てはめていくことが大切です。それ以外に私たちの信仰はないのです。神様に繋がっていく、神様の思いに、御心に、自分が繋がることがなければ、決して命がないと思いますと、お話をしました。私は、最近いろんな集まりを見たり聞いたりする度に、本当に惜しいと思います。命に繋がろうとしないからです。御言葉に結びついて、その命に生きること、体験をしていくこと。イエス様は、わたしの水を飲む者は、再び渇くことがないばかりか、その人の内に泉となって、命の水が湧き出ると言われます。父なる神様の御心を行う時、私たちのなかにイエス様が宿って下さる。そして、事実、御言葉の命が私たちを生かして、望みを与え、喜び、平安、力を与えてくれます。

マタイによる福音書7章21節に「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」。その後に、「その日には」とあります。その日とは最後の裁きの日です。世の終わりの時に、「多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう」と。イエス様の為にこうもしました、ああもしました、こんなこともしましたと言うけれど、信仰によって、その行いが神様の御心に結びついていなければ無意味だと言う。「御旨を行う者だけが、はいるのである」と言われると、では、こういう事をしましょうか、ああいう事をしましょうか、皆で話し合って、一つこういういい事をしましょう、社会に貢献をしましょうと。聖書には「隣人を愛せよ」と書いてあるから、みんなであれをしましょう、これをしましょうと、いろんな業をして、社会奉仕に、また、社会福祉に、いろんな事をやって、私はこんなことをしたからと、自分の行いを誇る者になってしまう。イエス様は、それも駄目だと言った。言葉だけでも駄目、行いを誇る事も駄目、じゃ、何がいいか。これは、集団でどうこうすることではなく、私たち一人一人が、神様の前に御心に従って歩んでいること。聖書の御言葉を心に抱いて、信じて、そして、祈りつつ主の御心に従うことです。

御心を行うというのは、繰り返し申し上げるように、自らが信じることなのです。今私がこれをしているのは、私が好きでしているのではない、私がしたいから、しているのではない、人がせよと言うから、しているのではない、人の為にしているのでもない、私は嫌だけれどしているのでもない。神様が、私に「せよ」とおっしゃっているから、させていただいているのですと、信じているかどうかです。何かの尺度で測って、合格不合格というようなものではありません。皆さん一人一人が、神様の前にきちっと御心を求め、確信していくことを、イエス様は求めているのです。

だから、同じことでも、ある人には、神様が「せよ」とおっしゃるかもしれない。別の人には、それはするなとおっしゃるかもしれない。違いますよ。だから、ここに何十人かの方々が、いらっしゃいますが、神様が求めているのは、一人一人なのです。ところが、私どもは直ぐ横を見、左右を見て、あの人がしているから、私も同じようにしようと。主の御心だと思ってこうさせていただきましたと、人から聞くでしょう。すると、そうすることが御心か、じゃ、私も同じ事をしときましょうと思う。それは大間違い。とかく、多くのクリスチャンはそういうところで、クリスチャンらしい格好ばかりを追いかける。イエス様が甦って、今も私の主となって下さると信じて、私に求められることはなにか、私に「せよ」とおっしゃることはここだ、だから、この事をさせていただきますと祈りつつ、祈りつつ、一歩一歩、歩んで一日を終る。今日も主よ、あなたの御心を行わしていただきました。あなたの御旨に従う一日であったと感謝します。人のしている事を見て、御心であるとかないとか、そんな事は言えません。その人が、その事をする時にどういう動機で、それをしているのかと問われる。神様の愛に感謝して、今、主があなたはこれを「せよ」と言う。神様が、求めていらっしゃること、願って下さること、喜んで下さることが何であるかを確信して、神様の前に決断して、主に従う具体的な生活が成り立つのです。

人に聞いてみても分かりません。私は右と左どっちをしたらいいだろうか。今御心がどちらか分からない、「ねぇ、あなた、教えてよ」と。教えられないのです。そこで、人に聞くよりは、神様に聞く。「主よ、二つの道がありますが、今私はどちらを選ぶべきでしょうか」と。あの人の場合はこっちでしたけれども、私の場合は、どっちでしょうかと…。

家族の人から、「神様を信じている人らしくないね。クリスチャンらしいことしてないね」と言われて、「クリスチャンらしい事をしなきゃいけないか」と、そんな事を迷う必要はないのです。「いいえ、これは今、私が神様に求められてしている事ですから」と、はっきりと告白することができたら、それで全てです。最高の生涯です。そうでありたいと思います。でも、案外と、「あそこも私の思い通りだったなぁ。ここはちょっと主人の言われることに従ったけれど、主の御心には従っていなかった」と。考えてみたら、今日も私の我が儘を通した一日だった。そんなことでは実に神様に申し訳ない。いや、天国に入れません。私たちは、いつも、父の御心を、御旨を行う者、主の御心は如何にと、一歩一歩、一つ一つの事柄に御霊の導きを信じて、神様の御旨を確信して、感謝し、喜んで歩んで行こうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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