いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(386)「御霊の支配に身を委ね」

2014年11月18日 | 聖書からのメッセージ
 「エペソ人への手紙」4章25節から31節までを朗読。

 30節「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである」。

 ニコデモ先生にイエス様は「だれでも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と言われました。新しくなるとは、私たちが生きている肉体のままでお母さんのおなかの中に戻って、生まれ変わるかというと、決して「そうではない」とイエス様はおっしゃいます。では、どうやって私たちは造り替えられるか? それは「だれでも、水と霊とから生れなければ」(ヨハネ3:5)とイエス様は言われましたが、「水」とは「イエス・キリスト」のことであります。それは取りも直さずイエス様の御言葉であります。その御言葉を信じることが一つ。そして、もう一つが「霊」によってです。御言葉を通して神様の力、霊、キリストの霊が私たちの内に働いてくださる、宿ってくださる。これによって人は造り替えられていく、とあります。そのことが今お読みいたしました17節のところから記されています。

 「エペソ人への手紙」4章17節から24節までを朗読。

 ここに私たちがイエス様の救いにあずかる前の者と、イエス様の救いを信じて新しく造りかえられた者とはどういうことであるかが、語られています。17節から19節までには、私たちがかつてどのような者でであったかが語られています。「知力は暗くなり」「無知と心の硬化」「いのちから遠く離れ」とあります。神様を知らず、イエス様の救いも知らないで、闇の中を歩んでいた者であるということに尽きます。私たちは望みなく、喜びなく、感謝賛美なく、ただ自分の義を立て、自分の情欲に従って、感情のおもむくまま、情動に振り回されて生きていた。そういう私たちをそこから救い出してくださった。21節に「あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである」とありますように、イエス様の救いにあずかって、イエス様の真理、真(まこと)の道、イエス様の御言葉によって新しい生き方、新しい者と造り替えられました。それを言い換えて22節に「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て」とあります。「古き人」、それは情欲に従って生きている、いわゆる自分中心の感情、情欲に振り回されて生きていた私たち。それは「古き人」、私たちの古いかたちの人間。そのような私たちが主イエス・キリストを信じて、キリストと共に十字架に死んだ者となる。イエス様が私たちの罪のあがないとなって十字架に命を捨ててくださった。そのことを信じる私たちは、古い自分がそこで死んでしまった。全部なくなってしまった。では、今はどうしているか? 23節に「心の深みまで新たにされて」とあるように、心の深みまで、私たちを根こそぎに新しく造り替えてくださった。そして、24節に「真(しん)の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人」と言われています。これは驚くべき事柄であります。神様にかたどられて、神様に似た者となることです。それは取りも直さず主イエス・キリストです。だから、主イエス・キリストを着るのです。今度は、イエス様が私たちの内に宿って、私たちを支配して、私たちの全てとなってくださるのが、「新しき人を着る」と語られていることです。24節に「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」。キリストに倣(なら)う者となる、あるいはこの年に与えられた御言葉にありますように、「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」(ローマ 13:14)と、キリストを着て行く者となる。古い自分を捨て去って、古き人を脱ぎ捨てて、今度はキリストを着る者となる。これが、今私たちが受けている神様の祝福であり、救いであり、恵みであります。私たちは主イエス・キリストを着る者となる。

では、イエス・キリストを着るというのは、どうすることでしょうか。それは神の御霊、聖霊が私たちに注がれていることです。イエス・キリストを信じることによって、私たちにイエス・キリストの霊が宿ってくださっている。霊が宿っていることを、どこでどうやって、何によって知るかと問われても、答えようがありません。客観的に、何かメーターがあって、体温計のような測定器があって、「今日は聖霊が80パーセント 」と言う具合に、車のガソリンのメーターのように、「あともう少し……、足らなくなっている」とか、そのような方法で知ることはできません。では、どうやって分かるか? 自分が信じるのです。これは大切なことですが、「御霊が、キリストが宿ってくださった」と信じてしまう。これが私たちの信仰です。だから、人には分からない。横にいる人も、その人が御霊に満たされているのかどうか、分かりません。だから、形や印(しるし)で、その人が聖霊に満たされているかどうか、他人が判断することはできません。ただ、知っているのは神様だけです。神様と自分です。知るのではなくて信じるのです。「今日も神の御霊が私と共にいてくださる。キリストが私と共にいてくださる」ことを信じる。そうしますと、私たちの考えることも、する事も、手の業も、日々の生活の一つ一つの事にキリストが働き始めます。イエス様が働いてくださる。自分の思わない、考えない、本来だったらそんなことをするはずがない自分に、神様のほうが造り替えてくださる。これは事実であります。既に皆さんもそのことは体験して来られたはずであります。「イエス・キリストが私の内に宿ってくださいました」と信じる。これが全ての始まりです。信じますと、宿ってくださったキリストの霊が私たちの全ての中で監視をしてくださる、行き渡ってくださる。そして、私どものすることなすこと、言うこと、ことごとくを「これは道だ、これを行きなさい」、「それは駄目だ、それはやめときなさい」と、御霊が私たちに語ってくださる、教えてくださる。本来だったら、自分は到底そんなことを言えそうもないこと、「そんなことは嫌です」ということすらも、聖霊が働いて下さるとき、自分の思わない、考えもしない結果に導いて下さる。また、想像もつかないような自分に造り替えてくださる。これが神の御霊が私たちに宿って働いてくださる証詞です。そのことは自分がいちばんよく分かるのです。他人様には分かりません。御霊がどのように働いてくださるか、またその御霊がどんなことをしてくださるっているか、他人には分からない。たとえ同じ屋根の下に住んでいる者すらも分かりません。ただ、はっきりしているのは、その人自身に「いま私の内に神の霊が宿ってくださっている。神様の御霊が私にこのことを勧めてくださる、促(うなが)してくださる、押し出してくださる」と感得する。だから、イエス・キリストを着ている者として、絶えずイエス様の思いに私たちが心を向ける。これが信じることであります。キリストの霊が私に宿ってくださると信じるとき、「これは主が喜び給うことかどうか」、「これは神様が私にいま求められていることだろうか」、「私はどうすべきだろうか」と主に訊く姿勢が生まれます。これは他人様のことではないのです。自分自身のことです。御霊は絶えず私に語りかけて、自分自身がどう行動し、何を言うべきであるか、何をどうすべきかを教えてくださいます。また人に対して何をどうすべきか、御霊が、聖霊が私たちに思いを与え、願いを起こさせ、私たちを押し出してくださる。その御霊の働きの中に生きる者と変わる。これが「新しい人を着る」ことです。
だから、25節以下に「こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。26 怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤(いきどお)ったままで、日が暮れるようであってはならない」。ここに「こういうわけだから」とありますが、それは、いま読んできた22節、23節です。以前の情欲に従って生きていた生活を、古い人を脱ぎ捨てて、今は心の深みまで新しくされてイエス・キリストを着る。新しき人を着た者となっているのだから、「こういうわけだから」、25節に「偽りを捨てて」「真実を語り」、そして「怒ることがあっても、罪を犯してはならない」。となると、いちばん大切なことは神の御霊に徹底して従うことです。そこに私たちの全てが掛っているのです。ここにありますように「偽りを捨てる」のは、神様の霊が常に生き生きと私たちの内に働いてくださるように自分自身を整えて行くことです。そのためには「真実を語る」。また26節に「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない」。怒ったり憤慨したりすることがあるかもしれない。しかし、それに捉(とら)われて、罪を犯す。神様の御心に背(そむ)いてはいけない。なぜならば、27節に「悪魔に機会を与えてはいけない」とあるように、怒ったり腹を立てたりして、何日もその憤り、怒りを持ち続けることはサタンが働いてくる、悪魔が私たちの心に忍び込んで御霊の力を打ち消してしまうからです。聖霊を私たちから消し去ろうとしてくるのです。

だから、常に心しておかなければならないのは、30節に「神の聖霊を悲しませてはいけない」と。私たちが悪い言葉を出したり、憤ったり、怒っていると聖霊は悲しみます。怒るとき、「それは当然だ。あいつが悪いのだから、あんなことをしたら、これは怒らなければおられない」と、自分を正当化します。自分は正しい、この怒りは義憤だ、正し憤りだと。ところが、義なる御方は神様以外にいらっしゃらないのです。裁くのは神様です。神様が善し、悪しを決めなさる。私たちが憤ることは、神に成り代わることです。神様がいちばん嫌われるのは、私たちが怒ったり憤ったりすることです。しかし、だからといって怒らないわけにはいかないことがあります。そこにありますように「憤ったままで、日が暮れるようであってはならない」。たとえ怒ることがあっても、その一日でやめなさいということです。2日も3日も1週間も1年も憤りを続けては駄目です、というのです。なぜならば、その時自分が神に成り代わってしまう。その時私たちの内に宿ってくださったキリストの霊、聖霊は悲しんでおられる。だから、イエス様の救いにあずかって、キリストと共に生きる生涯に引き入れられた私たちは、本来イエス様の救いにあずかったら、そんなに怒る必要がなくなるのです。なぜならば、どんなことも神様がご存じですから。そして、神様が一つ一つに報いていらっしゃる、事を行ってくださる。だから「私が頑張って」、「私が何とか言わなければ」、「私がこうしてやらなければ」ということは何もない。神様が働きなさる。それは自分自身に対しても神様が働いてくださって、私がすべきこと、私が言うべきことも教えてくださるだろうし、言うべき時も備えてくださる。神様のご支配の中に私たちが常に自分を委ねて行くことを努める。そうしますと、人に対してあれこれや、ややこしいことを言わなくてもいい。ましてや、憤ることも怒ることも要らなくなる。また29節に「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい」。これもまた、私たちにとって大切なことであります。「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない」。「悪い言葉」、非難、中傷、あるいは誹謗(ひぼう)したり、相手をおとしめるようなことを言ったり、人を裁いたり、そういう言葉が私たちの内から出ることは、神の聖霊を悲しませることになる。神様の御霊が悲しまれるのです。同時に神様の領域を侵(おか)すことです。神様がすべてのことをご支配しているのですから。

30節に「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである」。「あがないの日のために」とありますが、私たちのあがないは主イエス・キリストの十字架のあがないをもって全て終わったものであります。完成しました。しかし、その具体的なあがない、それが現実に具体化する時は、まだもうしばらく先であります。この地上の生涯を終わって、天も地も一切のものが終末を迎えて、再びイエス様がさばき主として世に来てくださる時、天地万物一切のものが失せてしまう終末の後に、私たちのあがない、イエス様の十字架が具体化します。私たちはあがなわれた者として永遠の命に生きる生涯へ、そこで初めて入るのです。私たちがこの地上にあるかぎり永遠の命の確かな約束にあずかってはいますが、その永遠の命の生涯を文字どおり味わうのはもうしばらく先のことです。だから、30節に「あがないの日のために」と、その終わりの日に備えて、この世にある間、神様は私たちが神の子であること、あがなわれた者であることを保証するものとして、聖霊、神の霊を私たちに与えてくださった。だから、これを信じて生きるのです。地上に置かれているこの時は、神の聖霊を信じて生きる。それがあがなわれた者の印(しるし)であり、証詞です。私たちはイエス様の十字架を信じます。「私のような者のために、罪に死んでおった者を生かすためにイエス様が神の位を捨てて人となってこの世に来てくださった。そして、十字架にご自分の命を捨て、私の罪のあがないを成し遂げてくだった」、これを信じます。ところが、現実私たちはまだ地上にあって肉に生きています。半肉半霊といいますか、神様の力と同時にどうしても生まれながらの肉の中に生きている私たちであります。だから、肉なる者が完全に取り除かれて、全くキリストの霊と一つになる。永遠の命に結びつくこと、これは肉体を脱ぎ捨てて地上の生涯を終り、しばらくの休息の後、終りのラッパの響きと共に全てのものが神様の御許で死からよみがえらされる(Ⅰコリント 15:51)。あがないにあずかってキリストの霊によって生きた私たちは、神様の約束の御国に入れていただくことができる。これが永遠の命、あがないの完成です。今はまだその道中、途中です。だからこそ、私たちの地上の旅路を導く御方として、私たちのガイドとなって、常に守ってくださる御方である神の御霊、聖霊が私たちの内に住んでおってくださる。キリストの霊が私たちを生きる者としてくださっている。どうぞ、このことをしっかりと握って、キリストの霊に絶えず導かれ、それに生きる者となる。30節に「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである」と。キリストの霊を私たちの内にきちんと置いてくださった。だから、私たちは誰に遠慮もなく「キリストの霊がこの私に宿っています」と信じる。信じて、日々の生活の一つ一つ、いまお読みいたしましたように、語ることも手の業も、聖霊が悲しまないように、神の御霊が喜んでくださるように、神様の御心を常に問いつつ、主の御思いを絶えず悟って、それに従って行く、これに尽きるのです。ともすると、そのことを忘れて、見える状態や事柄に心が奪われて、かつての情欲に、また、放縦(ほうじゅう)に身を委ねて自分勝手な、わがままな自己中心な思いに捉われて、滅びの道へ引きずり込まれていくのです。その時、御霊は、聖霊は大変悲しまれます。そればかりか、私たちの内にある御霊は消えてしまいます。

「テサロニケ人への第一の手紙」5章14節から22節までを朗読。

16節以下に「いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 すべての事について、感謝しなさい」とあります。その後に続いて19節に「御霊を消してはいけない」と言われています。私たちの内に宿ってくださっている御霊、神の霊、キリストの霊は私たちの内から消えることがあるのです。それはどういう時かというと、私たちが悪に支配されるときです。15節に「悪をもって悪に報いないように」、「いつも善を追い求めなさい」、「喜んでいなさい」、「祈りなさい」、「感謝しなさい」とありますが、悪に支配されると、それらと逆になります。喜べない、祈ることを忘れる。感謝ができなくなるとき、聖霊が私たちの内から消えて行きます。私どもが悪いことを心に思い描くだけで、あるいは喜べないでつぶやくだけで、御霊はすぐに消えて行く。それほど御霊は、聖霊は実に優しい御方です。だから、私どもが心からへりくだって主の御声に従って、善き思いを持つ。ここにも記されていますが、「いつも善を追い求めなさい」。また、全ての人に善きことをしなさい。悪をもって悪に応えるのではなくて「かえって、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ 12:21)とも言われます。私たちが聖霊の喜ばれること、御霊が喜んでくださることを求めて行くとき、御霊はますます私たちの内にはっきりとご自身の存在を明らかにし、力を現わしてくださる。ところが、反対に私どもが少しでもそこから思いがそれて、我がままな思いに心が支配されると、御霊はスーッと消えてしまう。すると、私たちの心は自分の思いでいっぱいになり、キリストが住むべき、おるべき場所がなくなってしまいます。私の思いが様々なことにはびこって、自己憐憫(れんびん)といいますか、自分だけが世界でいちばんの不幸者のように、最悪な被害者であるような思いに捉(とら)われてしまう。これはサタン、悪魔が私たちの心を奪って行くからです。だから、このことを常に自覚して、いま私たちは誰に、何に支配されているか、絶えず警戒しておきたい。心の思いを探っておきたい。もし、私たちの内に御霊ではない、自分の肉の思い、様々なこの世のあしき思いに心が囚われて、人のことを思ったり、人を批判したり、悪口を言ったり、御霊を悲しませるなら、これは誠に不幸なことであります。御霊が私たちの内できちんと働いてくださるように整えておくことが大切です。

 「ガラテヤ人への手紙」5章16節から24節までを朗読。

 16節に「御霊によって歩きなさい」と語られています。新しい人を着た私たちは、キリストの霊に従って歩む。キリストの霊と共に生きる。これは最高の人生であります。目の前にどんなことが起こって来ようと、常に聖霊と共に歩むこと。その御霊なる神様と絶えず交わりを持ち、御霊なる神様と共に歩んで行く。その導かれる所に全く従って行きますならば、最高の人生を全うすることができる。というのは、それこそが神様の私たちに与えてくださった生きる目的だからであります。自分の人生をどのように生きるか、これは分かりません。しかし、造り主なる神様はご存じです。私たち一人一人に、このために、このことのためにと神様が備えてくださっている人生がある。私たちには分かりませんが、神様はそれを知っていますから、御霊によって「これは道だ。これを行くべし」と導かれるのです。どんなことの中でも、いま主が私をここに導いてくださっておられる。神の御霊によって歩いている自分であることを絶えず自覚して行きたい。そして、はっきりとそのことを告白する者でありたいと思うのです。「御霊によるのか、なんによるのか、私はもう行き当たりばったり、そのとき出たとこ勝負や」と、そんな浮き草のような、流れる雲のような、どこへどうなっているのか訳が分からないのではなくて、常に御霊の導きによることを確信してください。確かに、先のことは分かりませんが、「今このとき御霊が私にこのことを求めておられる。聖霊が私にこの道を歩ませておられる」と、確信を持って、信じて歩んで行きたいと思う。それが神様が導かれることなのです。そうしますと、私たちは「決して肉の欲を満たすことはない」と16節に語られています。御霊によって歩むこと、御霊が悲しまないように心を尽くして御霊に仕えて行くときに、私たちは肉の働きから解放されるのです。

イエス様がバブテスマをお受けになった後、聖霊がはとのように下られました。そして、イエス様は御霊に導かれて荒野で40日間の試練にお会いになった。そのときサタンはいろいろな手立てをもってイエス様を誘惑してきますが、イエス様は徹底して神の御霊に仕えて、サタンに従おうとしなかった。やがてサタンはイエス様を離れて神の使いがみもとにきて仕えた(マタイ4:11)。天の使いがイエスに仕えた、と語られています。神の霊がイエス様を守ってくださった。そして、イエス様は徹底してその御霊の導きに従われた。これは私たちの生き方のお手本でもあります。

ですから、「エペソ人への手紙」4章30節に「神の聖霊を悲しませてはいけない」。いま私はこのことをしているけれども、これは神の聖霊、主の御霊が喜んでくださることだろうか?これは主を悲しませているのではないかと、そのことに私たちはしっかりと思いを向けておきたい。ともすると、人を喜ばせ、人を楽しませ、あの人を悲しませないようにと思ったりしますが、しかし、何よりも私たちがまず第一にすべきことは、神の御霊を悲しませないように、主が喜び給う道を選び取って行く。そのために、力を尽くして行きたい。そして、御霊に従う者となることです。それが、私たちの人としての生き方であり、歩みであります。そのときに、私たちは新しい人を着る者となり、やがて、あがないの日に文字どおり神の子として永遠の命の生涯に神様は必ず移し替えてくださる。御霊がその約束であります。約束の印(しるし)として御霊を頂いている者であります。ですから、絶えずキリストが、主の霊が私たちの内に絶えず働いてくださるように、私どもは常に自らを低くして、主の手に委ねて、導かれて、主のものとなりきっていきたいと思う。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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