いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(467)「主のもとに帰る」

2015年02月11日 | 聖書からのメッセージ
「マタイによる福音書」11章28節から30節までを朗読。

28節「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。
 
 柘植不知人という先生は、救いに与る前、妹さんのことがあったのですが、人生に悩んでおられました。柘植先生はそもそもクリスチャンの家庭に生まれたのではない。大正の初めの頃のことでありますから日本にはそれほどクリスチャンが多くはなかったのです。彼はそういう悩みの中にあって、湊川伝道館、その場所が神戸の下町、繁華街のど真ん中にあり、夜毎飲んだくれた人たちが行き交うような場所でした。そこで伝道集会が開かれていたのです。その会場の表に、このお言葉が書いてあった。「凡(すべ)て勞(つか)れたる者、又重きを負へる者は我に來たれ我汝等を息(やすま)せん」(元訳)という言葉を記した看板が掲げてあった。柘植先生は悩みと世間に対する憤まんといいますか、そういうもので鬱々(うつうつ)として、落ち着かない不安な気持ちであったのでしょう。その言葉を見まして、「凡(すべ)て勞(つか)れたる者、又重きを負へる者は我に來たれ」、何と大胆なことを言うものだ。自分は重荷を負うて苦労をしている。そんな者を簡単に休ませてやろうなんていうものがいるはずがない。「じゃ、俺の重荷をおろしてもらおうではないか」と、それができなかったらこの看板を自分がもらって帰る、そういう気持ちでその集会に出たそうです。
そのとき日本に来ておられた宣教師ウィルクス先生が伝道集会のメッセージを語ってくださった。柘植先生はまだ若く、血気盛んでありますから、何か気に食わないことがあったらいつでも問答をしてやろう、文句を付けてやろうと思って前のほうの席で股(また)を広げてふんぞり返っていたそうです。「凡(すべ)て勞(つか)れたる者、又重きを負へる者は我に來たれ」、「俺は重荷を負うている。取ってもらおうじゃないか」と、そのくらいの気持ちで説教を聞いていたそうです。イギリスから来られた宣教師のウィルクス先生が非常に流ちょうな日本語でメッセージをされる。その中で神のいますこと、人が神に創られた者であること、神から創られながら神様を離れて勝手な生き方をしたために全ての人が悩みと苦しみと罪の中に生きているのだ。日本はそもそも神国、宗教心の篤(あつ)い国ですから柘植先生も「それは神がいるに違いない」と分かる。「人は神に創られた」と、「なるほどそうか」と。ところが「罪がある」と言われて、「俺のどこが罪なんだ」と思った。しかし、聞いているうちにだんだんと神様は愛なる御方であって、私たちの罪をあがなう御方として、イエス・キリストがこの世に遣わされた。それまで自分は「俺が正しい人間、俺一人が悩みの中にあって世界の責め苦を自分一人が負うている」ような思いでおったそうです。ところが、ウィルクス先生の話を聞いていると、心を探られた。「お前は罪がないと主張するが、本当にそうなのか? 」「お前は自分が正しい、義なる人間だと言いながら、心から神様の前に恥じない人間であるか? 」と問われて、お話を聞きながら、それまではふんぞり返って足を広げて、「何くそ」とにらみつけていたのだそうですが、だんだんと足がそろってきて、頭を垂れてしょぼくれて、「自分は何という罪人であろうか。傲慢(ごうまん)な者であろうか」と柘植先生は一晩にして、その言葉を通して打ちのめされてしまった。私の命を救うために、神の御子、イエス・キリストが人となって来てくださった。そのことを悟って、その晩、最後に「イエス・キリストを信じる人はいませんか。立ってください」と勧められるままに、柘植先生は真っ先に立ち上がって「私はイエス様を信じます」と、一気に変わってしまった。

 その始まりがまさにこのお言葉だったのです。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」。「すべて重荷を負うて苦労している者」と言われると例外なく皆そうですね。私たちは皆重荷を負うて苦労をしています。経済問題、健康問題、老後の問題、家族の問題、仕事の問題、将来の問題、数え挙げれば両手どころではない、いくらでも重荷はある。ところが、その重荷の根本はどこにあるか? いちばんの根本は私たちの罪です。私たちはすべて神様によって造られた者、神様の作品としてこの世に生を受けた者であります。ところが、私たちはその造り主でいらっしゃる神様を忘れてしまった。そこから離れてしまった。

 「ルカによる福音書」15章11節から19節までを朗読。

 二人の息子がいました。お兄さんと弟です。弟のほうはお父さんに、「まだ死なないけれども、お父さん、私の分をください」と、資産を分けてもらって、結構な大金だったと思いますが、彼はそれを持って遠くへ旅立ってしまいました。持っているお金を使い果たして楽しんだのでしょう。ところが使い果たした頃に運悪く、飢きんになった。その地方で干ばつのため食糧がなくなってしまった。彼はある人の所に身を寄せて、そこで豚を飼う人になったのです。ところが毎日が空腹で苦しい。豚の餌ですらも食べたいと思うほどのみじめな境遇に落ち込んでしまった。そのとき彼はつらつら考えたのです。「自分はそもそもお父さんのもとにおればこんな苦しいつらい思いをしないでいい。いま自分がこんな惨めな情けない状態の中に置かれたのは何が原因であろうか」。そのことをしみじみ考えてみた。自分が勝手に親の家を飛び出して、もちろんもらうべき物はもらったわけですが、しかし、彼が自分本位に親のもとを出て行って、勝手な振る舞いをして今の状態があるのです。

私たちの重荷や苦しみ、悩みも、まず根本はそこにあります。私たちの造り主でいらっしゃる神様、いうならば、お父さんのもとを私たちが勝手に出てしまった。父を離れて自分本位に自己中心に我がままな生き方をしてきた。そのために生きることが苦しい。そういう境遇に落ち込んでしまった。まさにこの放とう息子の姿がそうです。働いてはいるけれども満たされない思い、常にひもじいといいますか、枯れている、心が絶えず渇いた状態です。いま私たちもそうではないでしょうか。いま世の中の多くの人々がまさにそういう心の渇き、生きることの悩みの中に置かれています。それは造り主でいらっしゃる神様を忘れて、人が勝手に、自分が、自分がと自分の思い、自分の計画、自分の願いを押し通している。自分の欲を追い求めて行くがゆえに次から次へと生きることが苦しい事態の中に置かれてしまう。

では、この息子はどうしたかというと、惨めな憐れむべき境遇の中にあって、つらつら考えた結果、17節に「そこで彼は本心に立ちかえった」と。「本心に立ちかえる」、目が覚める。そして「父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました」。ここでこの息子は本心に立ち返って、「そうだ。私はそもそもどこから外れて来たか」、「そう言えば、私が勝手な振る舞いをしてしまった結果である」と。お父さんのもとにはもっと豊かな有り余るほどの食料もある。それで「お父さんの所へ帰ろう」と、彼は「立って、父のところへ帰って」と心を決めたのです。「もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にして私を置いてください」と、彼は立って帰って行くのです。これがこの息子の問題解決のためにいちばん幸いな道です。この息子がいつまでも我を張って「メンツが何とか」とか「今更親のもとへ帰られるものか」と言い続けている間、豚を飼うことを続けなければならない。ひもじい思いを続けるのです。ところが、彼が本心に立ち返って、「お父さんの所へ帰ろう」と、向きを変える。これが最高の最善の道です。

それは彼ばかりではなくて、私たちもそうです。私たちが様々な重荷を負い、苦しみに遭う。言い換えると、神様から離れて勝手な振る舞い、生き方を続けているかぎり、生きる苦しみ、まさに生きることが地獄のようになってしまう。そこから、どうやって逃れることができるのか? その苦しみを取り除くことができるのか?私たちが原点に帰ることです。初めに帰らなければなりません。このときの息子のように「立って父の所へ帰る」。そして「私は本当に罪を犯したから息子なんて言える資格はありません。ただ雇い人の一人と同様にしてください」と、砕けたへりくだった思いをもって父の所へ帰る。そう思いながら、ジッとしていたのではありません。20節に「そこで立って、父のところへ出かけた」。この息子は「ああ、そうすればいいな。ああすればいいな」と頭の中で思っているだけで、ジッと座っていたのではないのです。そこから彼は「よし」と立ち上がったのです。そしてお父さんの所へ出掛けて行きました。それに対してお父さんはどうしたか。20節に「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した」と。お父さんは遠くからやって来るみすぼらしい尾羽打ち枯らしたというか、見る影もない息子がやって来る。遠くにその姿を見つけただけで彼は走り出して行く。お父さんの愛です。お父さんは、その息子を今日か、今日かと絶えず待ち続けていたのです。そして、その息子をあわれに思って、走り寄ってその首を抱いて接吻した。子供として、息子としてこの人の罪を赦している。その後にありますように、彼は「もう息子と呼ばれる資格はなく、罪を犯しました。雇い人同様にしてください」と言いますが、それを全部言わせないのです、お父さんは。「いいから着替えなさい。靴をはきなさい」と、手に指輪をはめて息子として彼を受け入れてくださる。これは神様の私たちに対する愛の思いです。

だから「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」と、主は言われるのです。私たちのいちばん根本の重荷は罪。私たちが神様を離れているがゆえに受ける問題や悩み、患難です。父なる神様は私たちを迎えるためにご自分のひとり子、イエス・キリストをこの世に送ってくださった。言い換えると、神様があえて人のところに来てくださった。私たちを救ってくださるために。だから、イエス様は「わたしのもとにきなさい」、「わたしのところへ帰って来なさい」と呼びかけておられるのです。では、イエス様は私たちに何をしてくださるのか? イエス様は私たちの罪のあがないとして、神様の前に犯した罪の一切を清める御方となって、神の子羊・いけにえとなって、十字架に命を捨ててくださったのです。

「ヨハネの第一の手紙」4章9節10節を朗読。

神様は私たちの罪を赦すいけにえとして、犠牲としてご自分のひとり子をあえてこの世に遣わしてくださった。私たちと同じ人の姿、肉体を持った人として御子を遣わしてくださった。そして、私たちの一切の重荷を、罪を、ことごとくをイエス様に負わせてゴルゴダの十字架に命を絶ったのです。両手両足をくぎづけられ、茨(いばら)の冠をかぶせられ、胸をやりで突かれて肉体的な苦しみの極限を味わって、父なる神様からの呪いを受けてくださった。それは誰のためでもない。実は私たち一人一人のためであります。だからイエス様は「わたしのもとにきなさい」とおっしゃるのです。イエス様のもとへ来る、言い換えると、それはイエス・キリストの十字架に自分を合わせて行くこと。イエス様が私の代わりに十字架に死んでくださった。だから、私が死んだのだ。私はイエス様と共に死んだ者である。

10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」と。「御子をおつかわしになった」目的が「わたしたちの罪のためにあがないの供え物」として、私たちの罪をあがなってくださるのです。罪を赦し、清め、消し去って、イエス様の十字架の血潮によって私たちを清い者と造り替えてくださる。そして、私たちを新しい身分に変えてくださる。これがイエス様によって私たちの重荷が取りのぞかれる目的であります。
イエス様は私たちに何をしてくださったのか? 私たちの罪を取り除いて私たちをキリストのものと、神のものとしてくださる。私たちの身分を変えてくださる。あの放とう息子がお父さんのもとを離れて、惨めな憐れむべき状態に落ち込みましたが、その中から立って父のもとに帰りました。お父さんは新しい息子として迎えてくださるのです。かつての生まれながらの息子ではなくて、新しく生き返ってきた息子として彼を受け入れてくださる。そのようにいま私たちのためにイエス様が十字架の上に命を捨てて身代わりとなって死んでくださった。そのご犠牲によって私たちは新しいいのちに、それまでの古い者から今度は新しい者へと造り替えられる。造り替えられるとは、私たちの生きる目的、生きる動機、何のためであるか? これが変わってしまう。だから、今までは、かつては、自分のための人生であり、自分のために生きるためであり、自分の損得利害、自分の何かのために生きていた。しかし、イエス・キリストの十字架によって、今度は私たちが神様のもの、キリストのもの、主のものとなるのです。これが救いにあずかることです。イエス様が私たちの罪のために十字架に死んでくださったのは、私たちを神様の所有、神のものとしてくださるためです。

「ガラテヤ人への手紙」6章14節を朗読。

 これは非常に意味深いお言葉だと思うのであります。14節に「わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない」とあります。言い換えると、誇るべきものがあるとすれば、それはイエス様の十字架だけです、と告白しています。その後半の部分ですが「この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである」と。この前半にイエス・キリストが十字架に死んでくださった。「私とは関係がない」と思いやすいのですけれども、そうではないのです。「この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に」、イエス様が死んだのではない。イエス様が十字架に死んでくださったのは、すなわち「この世が私に対して死んだのであって、私もこの世に対して死んだ」。私たちはこの世のものではなくて、神のものに変えていただいた。“死ぬ”とはそういうことです。十字架に死ぬとは、私たちの生き方、生きる目的、生きる動機、何のためであるかということが全く変わってしまう。これが十字架です。イエス・キリストの十字架を信じるのは、私がこれまでの生き方ではなくて、神様のものとして、神様の所有として生きる。これは私たちがイエス様によってあがなわれた結果であります。「コリント人への第二の手紙」に「彼(キリスト)がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」(5:15)と語られています。私たちの生きる目的、これが変わってしまう。これまでは人のため、世のため、自分のため、ところがこの世が全部十字架によって死んだのであります。世のためではない。人のためでもない。じゃ誰のためか? キリストのため、主のために生きる者と変わった。これが重荷を取り除いてくださる神様の恵みです。

 「ローマ人への手紙」14章7節8節を朗読。

 ここに「だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない」とあります。死ぬにしても生きるにしてもことごとく自分のためではない。これがイエス様の救いにあずかることです。イエス様が私たちを新しく造り替えてくださったのですが、私たちのこの地上の生活、日々の目に見える日常生活は一向に変わりません。イエス様を信じたときと信じなかったときとで、食べる物が変わったとか、着る物が変わったとか、住んでいる場所が変わることはありません。今までと同じ家です。食べる物だって同じ物を食べている。しかし、私たちの心のあり様といいますか、目的が変わってしまう。自分のためではない。私のために死んでよみがえってくださったイエス様のために生きる者と造り替えられ、変わるのです。だから、私たちは朝起きて夜寝るまで、毎日、毎日、今日も主のために生きている。キリストのものとなって生きる。7節以下にありますように「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」と。イエス様が十字架に命を捨てて死んでくださったことは、取りも直さず、信じる私たちを神様が「あなたはわたしのものだ」とおっしゃってくださる(イザヤ 43:1)。これが新しいいのちに生きることです。これが私たちの重荷を取り除く最善の道です。私たちは、自分がしたいことをするとき、案外と苦しみでも苦痛でもありません。

 私の家内はいつも朝起きるのが苦手です。なかなか起きづらい。自分では「低血圧だ」とか言って起きづらい。ところが、旅行に行くとなると誰よりも早く起きます。問題は誰のために、何のためにしようとしているのか。結局そこなのです。自分が自分の好きなことをしたいときはどんな苦労もへっちゃらです。朝早かろうと夜遅かろうと、大嵐であろうと何だろうと平気で出て行きます。ところが、人のため、誰かのため、自分がしたくないと思うことは重荷であります。苦しみであります。嫌でたまらない。仕方がない。重荷かそうでないかの決定的な違いはここです。生きるのがつらいとか苦しいというのは、自分のために生きているからです。自分のためにしようと思う、あるいは誰かのために、家族のために、あるいは子供のために、息子のため、誰彼、そんな者のために生きようとするとつらいのです。「私は早く死にたいのだけれども、何があっても私は生きておかないと、年金で孫を養わなければならない、息子を何とかしなければいけない」と、そんなことを思うから苦しいのです。私たちは自分がいま何のために生きているのか?ここにありますように「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ」。私のために十字架に命を捨ててくださった主がどんな大きなことをしてくださったか。その主に答えて行く。主のために今日を生きる者とされている。これが私たちの重荷を取り除く大きな力なのです。

「マタイによる福音書」11章28節に「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と。イエス様の所に来るとは、取りも直さず、自分が負うて行くのではない。私たちの重荷は、私がこれをしなければならない、私がこれを何とかしなければいけないと固執する。ところが、現実自分には力がない、知恵もない、お金もない、健康もない、時間もない。だから、重荷になるのです。苦しみになる、つらいのです。今度それをイエス様の所へ持って来る。自分自身を主の所へ持って行く。放とう息子がお父さんの所へ帰るように、私たちが神様の所へ帰って行く。「わたしのもとにきなさい」とおっしゃる。イエス様のもとに来るとは、イエス様の十字架を共に負う者となる。言い換えると、イエス様の十字架に私が付けられた。イエス様と共に死んだ者となる。そして、いま生きているのは誰のためでもない。私のためではない、人のためでもない、家族のためでも誰のためでもない。主のために生きる者と変えられる。これが「あなたがたを休ませてあげよう」ということです。

続いて29節に「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」とあります。ここで「わたしのくびきを負うて、わたしに学べ」と、しかも30節に「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。主の荷、いうならば、主のために生きることは、イエス様の荷物を私たちが担うことに他ならない。普段今の生活で見ませんけれども、かつては牛や馬を農耕に使いました。二頭の動物を一つの作業に使うとき、牛馬の首の後ろ、肩の所に合わせて、二頭の牛や馬がきちっと調子を合わせて動けるようにつないでしまう。「くびき」とは、そういう農機具です。だから、イエス様とくびきを負うとはイエス様と共に荷を負う者となる。これは私たちにとって喜びであります。いちばんの根本はイエス様がこんな私のために十字架にまで命を捨ててくださった。ゴルゴダの御苦しみを受けてくださった主が私に今日この荷を負うように、この重荷を負わせてくださる、また、共に負ってくださる。これは何と感謝なことでありませんか。まさにそこに私たちの生きる生き方、生きる道あるのです。普段の生活でつらいことがあり、苦しいことがあって、「どうして私がこんな目に遭わなければいけない。どうして私一人がこんなことをさせられなければいけないのだ」と、悶々(もんもん)として夜も眠られなくなり、カッカしてしまう。それは、人のためにしようとか、誰のためにしようと思うからです。そうではない。イエス様は「それをわたしのもとへ持って来なさい」と。イエス様の所へ持って行くとは、イエス様からその仕事を託せられたものとする。イエス様からのものとしてもう一度それを受けとめるのです。そうしますと、「どうしてこんなことをしなければならない」と、今までつぶやいていても、そうだ、イエス様のためなら喜んでそれをさせていただきます」と、主のために受ける。ここです。自分のためであったり、人のためであったり、誰かのためにしようとしているかぎり、それはいつまでも重荷であります。しかし、イエス様の所へ来て「主が私のために何をしてくださったか? 」「イエス様の十字架は誰のためであったか? 」、もう一度主を見上げる。そのとき「こういう私のために、今日このことを与えてくださった」「この問題を置いてくださった」と感謝して受ける。そのとき、神様は「お前が抱えて来い」とおっしゃって私たちに荷物を放り出される御方ではない。私たちと一緒に負うてくださる御方です。そこにあるように「わたしのくびきを負う」、イエス様は一緒に、共にその重荷を負うてくださって私たちに報いてくださる。神様は喜んでくださる。子供や家族のことでも仕事のことでも何のことでも、友人、知人、何かのことで突然自分も思わない、願わないような事の中に引き込まれます。そうすると「どうして私がこんなことをしなければならない。時間もないのに、お金も掛るのに」とぶつぶつつぶやくでしょう。それは「あの人にあんなことを頼まれたから、仕方がない。義理があるし、以前昔あんなことがあったから……」と、義理や人情で引っ張られて事をやっている間は苦しい。喜べない、感謝ができない。それを十字架の主の下に持って来る。「イエス様、あなたたが私のために何をしてくださったか」。十字架に命まで捨ててくださったイエス様、「あなたがこのことを負え」、「お前がこれを引き受けなさい」と求めておられるのだ。神様のわざです。だから、私たちが主のものとなりきってしまう。「そうでしたか。このことはあの人この人のためではなくて、イエス様がいま私に求めておられることです」。そのことを信じる。そして「そうだったらむしろ喜んでそれを引き受けようじゃないか」と。逃げ腰から今度はむしろそれを積極的に受けて立とうではないかという姿勢に変わって行くとき、重荷は喜びに変わります。私たちがいつまでも「これは嫌だ、早く何とかならないか」と、逃げ腰になるから……。

お証詞していますように、私の家内の母が突然年末(2011年)に、11月に脳内出血を起こして倒れてしまった。皆さんにお祈りいただいて、今の所小康状態といいますか、かなり安定して来まして、リハビリ病棟から別の施設に移ろうか、という話になっている。始め家内は「どうしてこんなことになったの」と、90歳ですから年齢的にもそういう年頃なんだ、と思うのですが、幸いにズーッと元気だったのです。介護付きの老人ホームに入っていましたが、好きなことができて元気はつらつ、同じ年の人よりはるかに良かった。ところが半年ぐらい前でしたか、私は家内に言ったのです。「今の状態は神様が憐れんでこういう楽しい時を与えてくださるが、必ずしもこの状態が続くわけではない。また寝たきりの状態になってお世話をしなければならない時が来るかもしれない」と言ったのです。でも見るからにそんなことは想像もつかないように元気だったのです。「そんなことはない、きっとあの人のことだから死ぬときはぽっくり逝(い)って『ああ、死んじゃったよ』というぐらいになるに違いない」と。これは娘としての願いでもあったのでしょう。そのように思っていた。ところが完全に半身不随になってしまった。施設が引き受けてくれますが、やはり家族が手を出さなければならないことがたくさんあります。いろいろな面で時間が取られる。あるいはいろいろな用事を頼まれる。今まで自分が好きなようにしていたが、いろいろなことで時間の制約を受けます。そうすると嫌でたまらない。「どうしてこんな中途半端な……早く決着を付けてくれ」と言って、残ってくれてうれしかったけれども、お世話をしなければならない苦痛もある。悶々(もんもん)としてしばらく喜べない、感謝ができない。その時に「そうではない。このことは誰のためでもない。主が『負え』とおっしゃる。『あなたが引き受けなさい』と。何もあなたは逃げ腰になって……」。遠く離れた所に弟の家族がいるのですが、誰かに押しつけたくてたまらない。そうしているときは喜べないのです。見ていて気の毒になります。やがてそういう中からもう一度祈って、そして御言葉を与えられ、「そうだ。これは本当に主のわざ、神様が……」、義母だって好き好んで「ひとつ娘に迷惑を懸けてやろう」「病気になってやりましょう」という話ではない。義母にしてみても元気でありたいと思いながらそういう状態に陥ったのは誰がしたかと? 家内は「母が我がままを言って、血圧が高いと言われていながら好きな物ばかり食べているから、そんなことになったのだ」と言ってつぶやく。ところが私は「そうじゃない、どんなことをしても神様が病気を与える御方であり、またそれを癒すこともおできになる。『光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する』とおっしゃる(イザヤ 45:7)。神様の手の中にある。今この問題を、このことを、この母の病気をあなたが負うようにと、神様が与えられた恵み、祝福の賜物だから、もう一度自分が何者であるかを考え直しなさい」と言ったのです。しばらく静まって十字架の主を仰がなければいけない。もう一度主に立ち返らなければ……。そうしているときに神様がちゃんと教えてくださる。これは私が神様から与えられた使命、大切な御用なのだ。主のためにこのことをさせていただく。イエス様がこのことを喜んでくださるのだったらと、そこに立った時にむしろ喜んで大いに感謝しようじゃないかと力が与えられた。それを引き受けること、これが「主が休ませてくださる」ことです。

問題や事態は変わりません。ただその問題をどういうものとして受け止めて行くか。29節にありますように「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」。キリストのものとなりきって、その中で私たちが生かされて行く。主のために生きる者となる。これは私たちの大きな命であり、力です。そうやって「主よ、私には到底できそうもありませんが、これはあなたが私に負わせてくださる重荷でありますから喜んで、感謝してさせていただきます」と、心を定めたならば、神様は時間も健康も何でも必要な物を備えてくださる、与えてくださるのです。

いま私はそのことをしみじみと感謝します。私たちはこれからもいろいろな中を通ります。いろいろなことが起こります。しかし、それは誰のためでもない、義母のためになんて思ったら腹が立ちますから、そうではない。誰のためでもない、主のもの、主のためにさせていただく。このことをしっかりと心にとどめておきたいと思う。

28節に「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。神様の休息、神様が与えてくださる心の慰め、力、これはキリストの十字架に死んで、キリストと共に生きる者となることに他なりません。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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