「ら」抜き言葉が一般的になってきました。らを入れるのが当たり前の時代を過ごした筆者は『言葉が変化している』と実感せずにはいられません。学問的には❝「動詞+助動詞」という組み合わせで可能を表現していた時代から、一語化した「可能動詞」が成立した。❞ということでしょう。生きていくということは変化に対応すること。言葉に限らず、❝ささやかな抵抗をしたところで、とうてい止められない場合もある。❞ことを認め、時代の変化に対応することが正しく生きる道です。
以下コピー
「見れる」「食べれる」といった「ら抜き言葉」。一部の人には評判があまりよろしくない使い方ですが、文化庁の2015年度「国語に関する世論調査」では、「ら抜き言葉」を使う人が、使わない人の割合を初めて上回りました。(朝日新聞デジタル編集部記者・石川達也)
最近、ら抜き言葉に関するツイートが話題になりました。11月3日に投稿された「島田教授の日本語史講座、面白すぎる! 『ら』抜き言葉で抜けてるのは『ら』じゃなかった!」。
講義資料のパワーポイントのスクリーンを写した写真と一緒に投稿されたこのツイートは、3万3千件以上のリツイートを獲得しました。抜けているのは「ら」ではないというのはどういうことなのでしょうか?
話題となった講義を担当したのは、二松学舎大学の島田泰子教授。ことばの歴史的な変遷を研究する「日本語史」という分野を専門にしています。
この講義は、20人程度の小さな勉強会で行ったもの。ツイッターに写真をアップしたメンバーを含め参加者はみな顔見知りという非公開イベントだっただけに、ツイートへの大反響には島田教授も「予想外でびっくり」。
ネット上では、誤った解釈を含むまとめ記事まで知らないうちに書かれているとのことで、真相について聞きました。
島田教授によると、「ら抜き言葉」はその名のとおり、可能の助動詞「られる」の「ら」が抜けたと取られるのが一般的。しかし、抜けているのは「ら」ではなく「ar」だ、とする見方も成り立つのだそうです。
「見られる→見れる」「食べられる→食べれる」の変化をローマ字で書いてみると
「mirareru→mireru」「taberareru→tabereru」
となります。こう書いたときに、途中にある「ar」が抜けていると見ることもできます。
この「ar」抜き現象、「ら抜き言葉」に限らず、可能表現全般に起こっているというのです。
「行く」「歩く」の可能形として使われている「行かれる」「歩かれる」。「用事があって行事に行かれない」「そんなに遠くまで歩かれない」など、特に上の世代や、かしこまったシチュエーションなどで使われています。
この表現に対して、室町時代ごろから「行ける」「歩ける」といった可能動詞が生まれ、もともとあった「行かれる」「歩かれる」と併用されるようになりました。若い人には「行ける」「歩ける」の方がなじみ深いかもしれません。
「行かれる→行ける」「歩かれる→歩ける」の変化をローマ字で書いてみると
「ikareru→ikeru」「arukareru→arukeru」
となり、「ar」が抜けていることがわかります。
この変化を、大きな枠組みの中で可能表現全体の歴史的な動向として捉えようとするのが、ツイッターで話題となった、「ら抜き言葉」は「ら」抜きではなく「ar」抜き、という見方なのです。
この「ar」抜きという捉え方は、島田教授が発見したものではなく、研究者の間では共通認識なのだそうです。今回の反響に「私たち研究者にとっての当たり前のことのいくつかは、世間の人にとっては新鮮に見られるのかもしれません」と島田教授。
「ar」が抜けるメカニズムについては、「動詞+助動詞」という組み合わせで可能を表現していた時代から、一語化した「可能動詞」が成立した、と説明できますが、ではそこで抜けるのがなぜ「ar」なのかについては、「説明は難しい」とのこと。「こういった言葉の大きな変化には、言葉自体に仕組まれたメカニズム、社会の変化など、いろいろな要因が関係している」と話します。
ツイッターでは「ら抜き言葉と『ar』抜き言葉」が大きく取り上げられました。
しかし、島田教授が本当に講義で伝えたかったことは、「言語の時代差と世代差」だったそうです。
長い時間をかけて生じた言葉の「時代差」と、祖父母世代と孫世代が共存する中でリアルタイムに起こる「世代差」のふたつは、「別ものと思われているけれど、実はひと続き」で「スケールが違うだけ」と話します。
「行かれる→行ける」の変化が出だしたのは、室町時代ごろ。対して「見られる→見れる」のいわゆる「ら抜き言葉」が登場しだしたのは、大正・昭和時代からだそうです。
「行かれる→行ける」のように、長い時間をかけて生じた言葉の「時代差」については、私たちも「言葉は移り変わるもの」と許容しがちです。
しかし、「見られる→見れる」という、祖父母世代と孫世代が共存する中でリアルタイムに起こる「世代差」については、「正しい日本語ではない」「日本語が乱れている」として許容したがらない傾向があります。
島田教授は「『ar』抜き現象は室町時代ごろからの長い流れ。その一部である『ら抜き言葉』だけがクローズアップされ、言葉の乱れとして睨まれがちです。ですが、長い目で見れば、昔から起こっている変化なのです」と話します。
ツイッターでは「『行かれる』『歩かれる』が使われていた時期ってホントにあるの?」とのコメントもありました。島田教授は「『行かれる』を知らない人がいるということは、『行かれる→行ける』の移行が完了したのかも」。
島田教授は「言葉は生き物で、短いタイムスパンでも変化するもの。小さな変化の積み重ねが大きな流れを作り、人間がささやかな抵抗をしたところで、とうてい止められない場合もある」と話します。
また、「言葉づかいが、話し手の知性や品性を表す目印となる場合もあるため、世代を超えて通じる『正しい』日本語を身につけることは、もちろん大切。しかし、日本語を研究する人間としては、新しい世代の新しい言葉づかいに対して、『正しい』『正しくない』だけではなく、『言葉が変化している』というまなざしも持ってほしい」と期待しています。